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私は長い年月を経て癒しとは赦しだと思うようになりました。潜在意識のワークは赦すことを奇跡的に助けてくれます。しばらく前にお電話でお問い合わせをいただきこんなやり取りがありました。「これまで良さそうなことはなんでもさんざんやりました。だから潜在意識の仕組みや催眠、瞑想なんかもやりましたし知ってます。だけど、変わったと思えないのです。」知識の力から行えるのは整理整頓、理解、意思決定などです。でも恐らくこの方は心の中になかなか平和が訪れないのだと思います。癒しによる変化というのは心に平和があり、満ち足りており、スペース(余裕)があり、信頼があるという風に自己の内面が変わることです。この状態を一言で言うなら「愛」という状態と言えます。人間は結局のところ、心の奥がこういった状態でない限り決して落ち着くことはありません。そして、なにかを見つけるために、得るために、奔走することになります。でもそのなにかがなんなのか、また本当に必要なものなのかどうか、多くの人がわかっていません。そのことに気づくのに私も人生の多くの時間を費やしました。みなさんは赦しというものをどんな風に捉えていらっしゃるでしょう。心に平安がある、ということをどんなことだと感じてらっしゃるでしょう。過去を赦すと、その出来事を詳細に思い出してみても痛みを感じません。出来事がただの出来事になります。完全に痛みを消し去ることができるのです。それこそが赦しであり赦せた状態なのです。多くの人はもうあの時(人)のことは許した、と思ってもその時のことを思い出したり話しているとやっぱり胸が痛んだり苦しかったりするのではないでしょうか。もう会わなければいいんだ、考えなければいいんだとか、時間が解決する、とよく世間では言われていますが実際は無意識なだけで、癒されない痛みや苦しみは潜在意識という時空を超えた心のポケットにしっかりと保存されていて似たようなシチュエーションや出来事をきっかけにうずきます。癒し=赦しは、この痛みの根を消し去ります。ですから、それに付随して起こっていた痛みは人生から消えてしまいますしその出来事の原因となった人や出来事は無罪放免、その罪が完全に許されることになります。逆に言えば、その相手をどうしても許すべきではない、と思っている間はいくらどんな方法を使ったとしても心が癒されることは難しいのです。自分が許してしまったら、世界の秩序はどうなるんだ、と感じる人は自分が裁かなければ、ジャッジメントしなければ、という思いに駆られています。そういう人は知らず知らずに自分を被害者の立場へ追いやり被害者でいることによって世界の秩序を守ろうとしているのでなかなか自分自身の幸せに意識が向かいません。赦しは自分の幸せのために行うことです。自分の幸せに積極的に努力をすることは周囲を幸せにし、世界を愛で満たすことと同じです。また赦すことは自らが内なる神とともにあることと同じです。神が正しいのは、裁くからではなく、赦すからです。痛みが消えるとそこには光しかないのです。平安とはこのことであり、私自身がこの世で体験した最も大きな奇跡はこのことです。
2012.03.24
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みなさんこんにちは。先日とても楽しいセッションがあり、じゃあこのお話はブログにシェアしましょう、ということになりましたので今日は結婚について書いてみたいと思います。私が結婚したのは四十歳のとき。もうまもなく結婚から満五年を迎えます。だんなさんは十歳半年下で、二人とも初婚です。(笑)お付き合い始めてから数えると・・・えっと、今年で九年になるようです。それで、結論から言うと、ほんと~うに今がさいこ~うに幸せです。子供のころから家庭内に不和を感じていましたので結婚に対してまったくいいイメージがありませんでした。自分ではあまり記憶がないのですが高校入学直後の自己紹介で「私は結婚しません」と宣言したらしいのです。なんでわざわざそんなこと言わなくちゃならなかったのかわからないのですが高校のときにはとにかく家族から自立したい気持ちがあったのであれこれ苦悩して混乱していたんだろうなと思います。結婚について悩まないためには、仕事で自立しなければならないという思いが幼いころから脳に染み付いていました。よくあるパターンで、二十二歳で早々に家を出て同棲しその時の相手も育った家庭に不和があって不幸な生い立ちでした。八年ほど同棲が続きましたがその時はとうとう結婚とか家庭の意味がわからないまま解消しました。うわさに聞くよくあるパターンにならうとその直後に結婚、などということになるのかな、などと想像していましたがそこは全然違いました。同棲は解消したとはいえ、相手は純粋ないい人でしたしそれまでも恋愛について困難を感じたことは特にありませんでしたがなぜかその後は困難を極めるようになりました。いきなりのモテ期が始まり、ものすごい勢いで私はモテ始めたのです。そしてモテればモテるほど、心の中は疑いや恐れでいっぱいになっていきました。もう無駄にモテるのはたくさん。私はたった一つの愛が欲しいというのが私の切なる願いだったのですがどうしても思うようにはなりませんでしたしなる気配もありませんでした。仕事も経済も何もかも大変でしたがその点に関しては意識の勉強をするにつれ段々と希望も見えました。エゴの思い込みを手放すことで、無駄な抵抗をやめ、エネルギーの流れを体で覚えてぎりぎりなんとか回る、という感じの生活ができましたしそんな状況下でも、自分の大切なこと、やりたいことに関しては「やれている」という自信が自分を支えてくれていました。ところが恋愛に関してはとことんだめでした。今思うとインナーチャイルドの問題、これに尽きます。他のことは自力のがんばりが通用するのですが恋愛、愛の問題だけはこれが通用しないので、何度となくお手上げ状態になりました。このお手上げになる、というのが恐らく私の人生にとってとても必要なことだったのだと今はわかります。これなしに愛は学べなかったのだと。私の一番の悩みであった恋愛に関してあるカウンセラーの方は「その点に関しては私がどうこう言う必要ないわ。だって、あなた、絶対あきらめないじゃない」とおっしゃいました。今も思い出して笑ってしまうのですが、確かにそうでした。愛というものに対してあきらめたらこの世はおしまいです。世間からは仕事いのち、みたいで、結婚願望がないから四十近くまで結婚しないんだろうとよく言われたものですが冗談じゃない、という気持ちでした。結婚ということについてこれほど深く考えた人はそういないのではないかと自分で思うほどこの乗り越えた山場は半端ではありません。前置きが長くなりましたが(笑)。パートナーシップとは、この世で一番端的な愛を築く関係です。一番強力で強烈な鏡であり、インナーチャイルド(今世で創られた潜在意識の記憶のすべて)を最大級に投影します。「恋愛」というと生活を彩るカテゴリーの中の一つとか占いのジャンルの一つみたいに扱われていますが地上で自分を愛するという、人間が神と行う創造の中で最も中心的で重大な機会の一つであります。さて、さらにです。恋愛から結婚へと段階を踏むことの意味です。「結婚なんて紙切れひとつだよ」とか「ただの法律上のことだろ」なんていう意見がよく聞かれます。「子供のため」とか「事実婚のほうが純粋」とか「人それぞれの価値観」とか・・でもそんな程度のことならどうして多くの人がそれを遂行し困難だらけの人生にさらに大きな課題をのっけるのでしょう。私も結婚してみるまでそうだったのですが結婚のすばらしい点や必要性について語っている人や意見そのものにあまり出会った記憶がありません。結婚するとすぐに私もだんなさんも、いい選択をした、ということに気づきました。だんなさんは「結婚はいいよ~」と友達にもお勧めばかりしていました。私はもちろん、そうであろうと思って、満を持して結婚しましたがその思いは着実に、二人のあいだで確実なものとして育ってきています。最大のすばらしい点は、よく耳にする言葉ではありますが喜びは二倍、苦しみは半分、というところと進みが早い、というところです。だんなさんは私と対比するならきついトラウマなどはあまりない人生だと思いますがさりげなく固いブロックで人生の課題を保留にしてきた面がありました。結婚のおかげで(私と、という面も大きいでしょうが)人生が待ったなしの本番になった感じだと思います。人生がオンになり、意図的に生きる人生が加速したのだと思います。恋愛と結婚の違いをまとめます。揚げたいことはたくさんありますが最大の違いは恋愛は一方が別れたいと思うと解消されるのが自然ですが結婚は双方が別れると同意しないと解消できない仕組みになっている点です。このことに私は結婚前に気づきました。このことは今では実は結婚の本質なんじゃないか、と思えるほどです。私たちは愛を本当に学ぶまで愛についてよく知りません。恋愛で燃え上がって気分のいい状態を愛だと錯覚します。ですが、意識の勉強をしている方はお分かりだと思いますが愛はいい気分とは関係のないものです。どちらかがいい気分でなくなると愛がさめたと錯覚し、やがて別れます。それで体験は終わりです。せっかく結婚までしても、同じようにいちいち離婚してしまう人もいます。でもそこで、どちらか一人が「あれ、それってなんか違うんじゃないかな。もう少し愛とか人間とか自分の探求を続けてみよう」と思ったりすると結婚を続けることができます。こうして、結婚の場合は双方が完全に納得するか、あきらめるか、卒業するかするまでその関係を続けることができます。人がどんなときにも取り組むべきことは自分と内なる神を愛することです。ですから鏡なしにそれをすることももちろんできます。でも一人で全部できるほど人間は便利にはできていないと思うのです。恋愛という距離感であれば気分が悪いときは距離をとってまたいいときだけ一緒にいたりすることもできます。一人でいればもしかしたら意図的にでも無意識的にも自分が内面に構築した壁に気づくことなくある程度快適に暮らすことも可能かもしれません。でも、その壁はいつかは気づかれ、取り除かれるべきものです。私たちは宇宙に存在する意識であって分離の壁はいやおうなく雲散霧消し、統合される運命にあるからです。それが偏在する神なるものの自然の動きだからです。結婚という形は愛の本質を学び、体験し、体で覚えるまでしっかりと繰り返し訓練することのできる神が与えた機会だと思っています。それができると私たちは幸せというものを身をもって理解することができます。パラマハンサ・ヨガナンダは家族というものはこの世で無条件の愛を学ぶための機会だと教えています。パートナーシップは家族の最小単位であることは言うまでもありません。「愛は永遠だ」という考えはいつも人間によって裏切られ続けています。でも、真実はこうです。「愛は永遠です」。私たちはそのことを人間という体験を通して知るチャンスを与えられています。とても難しいことなので私たちは結婚するときに儀式をします。神に立ち会ってもらって誓いをたてるのです。「地上で最も崇高で意義のある取り組みを私はこの相手とともにすると決めました。どうか、あらゆる困難や逆風にも負けないであなた(神)を信頼できますように」結婚は相手を好きだからするというよりは愛を本当に学べるまで一緒にいることができるくらい好きだとすごく楽でうまくいくありがたいものだ、という感じです。なかなかすてきなことだと思いますがいかがでしょうか。
2012.03.16
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昨日はアンチエイジングの鬼でおなじみの、勝田小百合ちゃんご一家と二年ぶりに会うことができました。沖縄名護でUAさんが主催した地球の未来ためのイベント「ティダノワ祭」への参加のための渡沖でしたが忙しいスケジュールをかいくぐって、帰りの空港で無事ミーティングできました^^小百合ちゃんはカイロプラクターでありながらアムリターラという安全で美しい化粧品や食品を作る会社を立ち上げてお店の運営もしています。前回会ったときと今度の間には、311の震災がちょうど中間に存在しています。それを境にはっきりと世界が変わったことを小百合ちゃんと話して改めて感じました。小百合ちゃんは千葉で畑をしています。ご主人も小百合ちゃんも小さい息子くんもその土や種や苗や成長や収穫とかかわることをとても愛していることが伝わってきます。様々な未来への希望や人類の展望を託していたことやそれが今、どうがんばっても果たせないと感じている思いがすっと私の心に入っていきました。小さい天使のような男の子の尿からも放射性物質が出てきました。あれだけ食べるものや生活を丁寧に選び実践している家族にもそういうことが起こり除染にひまわりを育ててその後の土から250ベクレルでちゃった、と淡々と話す小百合ちゃんを見ていたらいきなり涙が出ました。アズさん泣かないでください、と逆になぐさめられてしまいましたが本当に淡々とすべきことをがんばっている姿からはいろいろなメッセージが伝わってくるのです。今なすべきことは一つではないと思います。なにが正しいかは本当に時間が過ぎて結果が見えないとわからない。けれど、みんなが意識していれば、そして真の願いを持つことを自分に許せば必ずものごとは動きます。私は最近、自分の祈りの威力というものを再認識しています。潜在意識のワークを仕事にして十年以上が経ち当時、こうに違いない、と確信していたことがやっぱりこうだった、という実績となって私の内に構築されているのです。私たちは無限の意識です。その意識の源である私たちは、その意識をいつも常にこの世界に上映しています。「この出来事のわけは、意味はなんだろう」と考えることは無駄ではないのですがわけと意味はすでに存在していた過去のものです。過ぎたものです。私たちが常に今に立ち、起こったすべてを受け入れることでそこから本当に大事な気づきが起こります。理由を見つけて納得しようとするのは人間の三次元的な思考の産物ですが意識の真の学びは「心を開いてそれを受け入れてみる勇気、認める勇気」にはじまりそうしてみたときに初めて愛を学ことがスタートします。今にいるというのは過去と未来に対して無限に開いていることです。無限に開くことが私たちを自由にします。私たちは意識による創造を誰もがしています。閉じながら、不自由に創造するか、開きながら自由に創造するかだけの違いです。開いているためにはやはりお掃除なのです。お掃除をやるかやらないかも選べます。でもその選択の自由と、自由な存在であることの自由ではまったく次元が違います。やらない自由というのは、生きながらに自己に生を許さないということと同じです。あらゆることはすべて自分のために行っている、という意識が最近繰り返し私に押し寄せます。それは最高に幸せなことであり最大の感謝に値することだと感じています。
2012.03.13
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少し前に石原都知事が「原発に反対するなんて、サルに退化するのとおんなじだ」(だったかな)というような発言をされたとの報道を読みました。核というのは人類の進化の証でありそれを開発するのは人間としてまっとうな進化だからそれをやめろなんていうのはばかげた考えだ、というような意味だったと思います。「こういう意見に対してどんな反応が多いのだろう」と思いその記事に対するツイートを開いてみました。なんとなく予想していたのは「けしからん!」と「正論だ!」でしたがやはりおおざっぱにこの両方が多かった感じを受けました。私にはどっちの意見を言っても石原都知事の思うつぼのように思えます。「正論だ」はそう言わせるのが目的ですし、「けしからん」という意見は正論によってつっこまれやすいからです。石原都知事の発言はつっこんでかみくだくと「人類の進化は技術や科学、文明の進化だ。人間はそれに対して貪欲であるべきだ。その前進のためには一部の人間の命や立場の犠牲は当然のことだ。人類はそのようにしてこれまでも進化してきたではないか。それにいちゃもんをつけるなんていうのは目先にとらわれた臆病者の意見なんだ。」という感じでしょうか。この字面を追うと実にこれは正論だと思うのです。人類がそうやって様々な犠牲の上に進歩してきたのは明白な事実です。石原都知事の人気があるのはきっとこういったところで言いにくい正論をズバッと言える強さに人々は頼りになる感じを受けるのかなぁと感じます。日本のリーダーには確かに数少ない、貴重な人と言えるのかもしれません。ですが、です。それはあくまで非常に限定された仮説の上に成り立つ理論上のお話。進化というものを物理的な被対象物だとし人間を動物のヒエラルキーの頂点に座する王者だと仮定し「強いものが勝つ」「勝利者こそが支配者」の論理こそを真理と踏まえたときに成立する正論だと私は思います。霊的な師が彼の話を聞いたらこう言うのではないでしょうか。「どちらがサルか、よく考えてみよ。」たとえ進歩だとしてもそれを達成したい思いは欲望です。その欲望のたねを目の前に差し出されたとき出されたものをすべて手にとって、手に入れてしまうのはサルと同じです。与えられたえさは全部食べてしまうということですね。でも人間には理性があるのです。差し出されても手に入れないという選択ができるのは誘惑に惑わされなかった仏陀の態度と同じで人間の神性から来る叡智でもあります。人間の進化を言うのならその神性、霊性を内面に育て受け渡すことこそが最も重要な進化であってそれ以外の物理的な進化とはその目的を助けるために存在していると言ってもいいものです。さらに重要なのは正論の背後には、コントロールが潜んでいるということです。政治に利用されている宗教などにも言えますが正論は扇動に用いられやすいものです。正論と真理の間には天と地ほどの大きな差があります。正論は思考によって物理的に逆算されて導き出されますが真理は神の叡智から超越的に導き出されています。人間は通常思考を使ってものごとを判断しますので正論のほうが多くの人が信じやすいという構造になっています。次元が高くすべてを幸せに導くのは周知のことながら真理のほうであり私たちは見分けて選び採るちからを持っています。それがハートによって判断するというやり方です。そのちからをこそ養うことが、世界を愛と平和に導くものと信じています。
2012.03.08
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