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以前、いつものように休日の深夜残業からの帰りに愛車で高速を飛ばしていると、FM802で邦楽インディーズを専門に紹介している番組をやっていた。普段聴くのは洋楽9割:邦楽1割のワタシだが、たまにはこんなのもいいかと思って聴いていると妙に気になるフレーズが流れてきた。ミドルテンポの静かだが小気味よい演奏に合わせて「♪ツベルクリンが反応すんのさ、はぁぁぁ~」てな具合の歌詞なのだ。なぜだか判らないが、そのフレーズにワタシの中の何かが妙に反応したのだ。そこから家に着くまで、ずっとそのフレーズが頭の中をぐるぐる廻り、家に着いてもまだ「ツベルクリンが、ツベルクリンが」と阿呆のように呟いていた。翌日ワタシは、思い余ってFM802のリスナーセンターに電話をした。「あのう、昨夜午前2時半頃にかかっていた曲で、ツベルクリンが反応するような歌なんですが、えとえと、あの、グループか曲名とか、わかりませんかねぇ」と訊いてみたのだ。電話口の女性は「はあ?つ、つべるくりん、ですか?うーん、そういった抽象的な情報ではわかりかねますけど」とやんわりと拒絶した。ただ、「番組でオンエアした曲名リストでしたら、後日HPにアップしますので」とだけは教えてくれた。で、その2週間後、番組HPにアクセスすると(しつこいなワシも)、なんとなくラジオで聞いたようなアーティスト名がいくつかあったので、片っ端からネットで検索し、ようやく目当ての「ツベルクリン反応」を探し当てた。それがこのグループ、「ベベチオ」だ。ラジオで流れた曲は、「12月の晴れの日」という曲で、曲のタイトルやボーカルの雰囲気などからも、「はっぴいえんど」へのオマージュであることが伺える。似ているといえば、キリンジ的な臭いも少しするが、あそこまでヒネった感じではなくもう少しピュアな歌詞と音作りだ。アルバムを買って全曲聞いたが、やはり1曲目に入っているこのツベルクリンの「12月の晴れの日」が最もキャチーで良い。※関西のグループなのね。かなり大手のCDショップでないと置いていないと思うが、こういった由緒正しきニッポンのほのぼのフォークロックがお好きなヒトには結構お薦めだ。春先の公園のベンチに座ってハトにエサでもやりながら、ひとりで聴くにはもってこいの1枚ですわ。◎試聴サイトはこちらから。
2005年01月29日
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正月休み中にタワーレコードに立ち寄った際、以前pinkoysterさんが絶賛していたのでずっと気になっていたバンド「Interpol」のCDを、デビュー作と新譜の両方買ってみた。正直なところ、元バンド仲間である郡山ハルジさんの日記ではさほど評価が高くなかったので、「2枚も買ってハズレだったら嫌だなぁ」と思いながらも、なんとなく使命感のようなものを感じたりして。ところがどうだ、まず1枚目の「Turn on the Bright Light」。ガーン!きたーッ!なんだこりゃ。おいしい。おいしすぎるぞ、このバンド。あぁニュー・ウェーブという言葉が死語になって10数年、待っていましたよオジサンは、こういうのを。ボーカルの声質もギターもベースラインも、まさにワタシの好みのバンドとしてこれ以上ないほどのドンズバです。中でも、ビデオクリップにもなっている2曲目の「Obstacle 1」は、群を抜く名曲だ。普通、1枚のアルバムに2曲ぐらい好みの曲があれば合格としているのだが、このアルバムはもう殆ど全編ハズレなし。巷で言われているように、確かに彼らの楽曲は、瞬時にアタマに浮かぶものだけでも、ざっと挙げるとJoy Division、Sonic Youth、Television、Smiths、Doors、Bauhaus、Sisters of mercy、Psychedelic Fursなどなど80年代NWを中心とするバンドのサウンドをモチーフにしている感は否めないが、しかしただの物真似バンドという感じはしない。それらのバンドの魅力的な要素を吸収しながらも、さらに新しいアイデアで曲作りをしているのが十分伝わってくる。しかし、1作目と比べると新譜の「ANTICS」は、全体的に少し洗練された感はあるのだが、曲の構成がやや単調でアイデアに乏しいのが残念。それでも、やはりボーカルの声質とギターの音が好みなのは変わらないので、まぁ許せるのだけど。けど、やはり比較するなら断然1枚目の方がクオリティが高い。さて、そんなこんなで今月は通勤やドライブ中に、もう毎日毎日このInterpolにドップリはまってヘビーローテで聴いていたのだが、まことにタイムリーなことに、1.25-26来日じゃないですか。そう、行ってきたのですよ、モチロン。仕事の合間を縫って、夜に2時間だけオフィスを抜けて心斎橋クアトロへ。会場はほぼ満員。どちらかというと割と地味目の若い女性が7割、20代男性が2割、欧米人カップル1割。この日は仕事の都合でダークスーツにネクタイというやや場違いな格好ながら「いぇコレはInterpolファッションということで」、と言い訳を考えている30代後半の男(ワタシ)約1名。ステージ最前列から5mほどの距離にある柱を背もたれに陣取る。ライブ開始。メンバーは全員ネクタイ姿で登場。ほーらね、みんなネクタイやね。お揃い、お揃い(妄想)。ボーカルのポールは、赤いVネックのニットにシャツ、ネクタイ(かわいい)。ギターのダニエルはワシとほぼ同じ、黒スーツに黒ネクタイだ。オープニングは、新譜の1曲目「Next Exit」からスタート。2曲目で、名曲「Obstacle 1」のイントロのギターカッティングが始まると、場内のボルテージはいきなり頂点までヒートアップし、もはや興奮のるつぼ。あとはもう、Vo.ポールの圧倒的に存在感のあるボーカルがグイグイ観客のテンションを引っぱり上げ、約1時間強のライブの最後まで一気に突っ走る感じだった。※しかし「NYC」の演奏が始まると、みんなライターの火をつけて頭の上に高くかざしていたが、あれは「Turn on the Bright Light」のお約束なのだろうか?いやぁ、しかし良かった!無理して来た甲斐があったぞ。久しぶりに音楽で鳥肌が立ちました。演奏のテクニックは決してレベルの高いものではなかったが、そんなことはどうだって良い。なんだか忘れかけていた音楽魂が、激しく揺さぶられたなぁ。火照った頭を冷やしつつオフィスまで御堂筋を歩いて戻る帰り道、「バンドメンバー募集」の文字がワタシの脳裏にチラチラしはじめた。うーん、音楽、ヤリタイなぁ。
2005年01月26日
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震災の当日は、破壊されて足の踏み場もなくった家の中の原状復帰作業に必死で、瞬く間に過ぎて行った。2日目の夕方頃になって、初めてふと仕事のことを思い出し、ようやく復旧した近所の公衆電話の長い列に並び、会社に電話を入れた。当時の上司は、開口一番「おぉ、心斎橋(仮名)か。みんな心配してたのにオマエ、早う電話ぐらいしてこいよ!」と言った。テレビを見て、被災地の状況が想像できないぐらいアホかこの人は?と思った。さらに「無事か。なら良かった。で、こっちは次のプレゼンの準備で大変なんや。いつ戻ってこれる?」と言われる。あまりの温度差に呆れながら「さぁ、わかりません。目処が立ったらまた連絡します」とだけ言って電話を切った。一方、会社の後輩のH君は大阪から神戸の我が家まで自転車で水や食料を持って訪ねてきてくれたのには驚き、気持ちの中で彼のポイントが15点ほどアップした。我が家を除く周辺の家は、両隣や裏手の家など6軒ほどすべて全壊。自宅の建物自体は当時まだ築10年も経っていなかったためか壊滅的なダメージは免れたが、問題は地盤であった。もともと自宅の立っているあたりの土地一体は、昭和30年代に山の斜面を切り開いて宅地開発したような場所で、我が家は地震による地盤のズレで斜面の下に向かって1mほどズリ落ちる格好になってしまったのだ。自宅の中はなんとか片付けて寝る場所もできたが、その後何度も大きな余震が続き、いつ家ごとズリ落ちるかと気が気ではなかった。結局、母と妹は遠方に住む長男である兄の家族のところに緊急避難し、自宅には父とワタシと犬だけが残った。昼間は、自衛隊の給水車にポリタンクで水をもらいに行ったり、近所の集会所で配られるカップラーメンやおにぎりの配給を受けたり、ほとんど粗大ゴミと化した家財道具をせっせと処分したりしながら、夜になると、寝ている最中に家が崩れるのが怖かったので父と一緒に近所の学校の校庭にクルマを止めて毎晩その中で仮眠していた。1週間ほどが過ぎ、依然水道は止まったままの不自由な生活だったが、家の片付けはまぁまぁ一段落したため、会社に出ることにした。神戸から、延々と徒歩とバスを乗り継ぎ数時間かけて大阪の梅田に着いたときは、被災地とのあまりのギャップに愕然とした。「普通やんけ」。神戸では当たり前の格好だった首に巻いたマフラー代わりのタオルもリュック姿も、大阪では完全に浮いてしまうほど、梅田はいつもと何ら変わらずキチンとした格好の人々が慌しく行き交っていた。距離にして20キロほどしか離れていない大阪が、こんなに平常通りとは知らず、何か騙されたような、疎外感のような、複雑な気分であった。その後ワタシは父と犬を自宅に残し、大阪に単身赴任で来ていた営業部のM部長のマンションの空き部屋を借りて、2ヶ月ほどの下宿生活を送った。このM部長は、甲子園に出場経験のある名門高校出の元高校球児で、会社の野球部のカントクもしていた超体育会系の髭オヤジであったのだが、ワタシには妙にやさしくしてもらった。毎晩M部長よりも遅く深夜に帰宅するワタシに、「手ごねハンバーグ」を作って待ってくれていたり、風呂の支度やパンツの洗濯、ワイシャツのアイロンがけまでまことに甲斐甲斐しくやってくれるので、感謝しつつもいつか危険な空気になりはしないかと、被災地生活とはまた違った意味で緊張感のある日々であった。あれから10年。崩れかけた地盤を埋めて固める結構大がかりな工事を経て神戸の自宅は住める状態になったが、今でも家は少し傾いたままで、ビー玉などは良く転がる。家財や趣味の食器類などをほとんど失い、「もうモノは一切いらない」と宣言していた母だったが、今、実家には震災前よりもモノで溢れて収納場所に困っている。犬のタローは震災の翌年、一気に足腰が弱って死んでしまった。犬の散歩が唯一の趣味だった父は定年後することがなくなり、すっかり足腰が弱ってしまった。たまに神戸の実家に帰っても、さすがにもう普段は震災当時の想い出話をすることもないが、1月17日が来るとついあの日撮ったビデオを見たりして、おさらいをしてしまうワタシである。
2005年01月17日
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震災前日1995年1月16日。世の中的には成人の日の振替休日であったが、社会人として若手のペーペーであったワタシは、この日も目前に迫った大型コンペのプレゼン準備の打ち合せと企画書作成のため、朝から深夜まで大阪のオフィスで休日勤務をこなし、タクシーで神戸市東灘区の自宅に帰宅したのは明けて17日の早朝午前2時半頃であった。まさに疲労困憊。缶ビールを2本ほど飲んでシャワーをし、床に就いたのが4時半。翌日はまた午前中からミーティングの予定が決まっていたこともあって、あまりの疲労から、心ならずも意識の底で「あぁ、明日突然大雪でも降って世の中が全面ストップでもしないかなァ」なんてことを不謹慎ながらも半ば本気で夢想しながらワタシは眠りに落ちて行ったのだった。夢か現(うつつ)か、「ゴゴゴゴゴ」というこの世のものとは到底思えない地鳴りのような激しい地響きが寝入りばなの混濁したワタシの意識の中を掻き混ぜる。直後、天を突き上げるような激しい衝撃。アルコールによる軽い酩酊感と極度の疲労からくる深い眠りを突然断ち切る強烈なショックを体に感じながらも、身体は翻弄されるままなすすべもなかった。なんだかわからないが「世界の終わりが来たんだな」との思いが瞬時に脳裏をよぎる。自室で寝ていたワタシの頭部をかすめて大型のラジカセが落下、続いて枕元にそびえる本棚やCD棚ラックから大量の書籍やCDがザルをぶちまけたように一気に体の上に落ちてくるのを感じながら、辛うじて反射的に布団で頭部を守ることだけには体が反応する。しばらくして強烈な縦揺れはようやく収まった。ワタシを含め、自宅にいた両親と妹の計4人の家族は全員2階にある自室で寝ていたのだが、1階にあるダイニングルームでは、家具や食器類がけたたましい音をあげてへし折れ、砕け散り破壊されている様子がしばらく鳴り響く。その音もやがて静かになった頃、ようやくワタシは自分の体に覆い被さる本棚やCDなどをかき分けて、起き上がる。外はまだ暗い。明らかに自宅の床が斜めに傾いているのが判る。廊下に出ようとしたが、ドアの立て付けが狂っていて開かず、足で思い切り蹴破って出る。隣室の両親の部屋を覗き声をかけると無事のようだ。反対隣の部屋にいる妹もとりあえず無事のようだった。階段で1階に降りダイニングルームの扉を開けると、ダイニングボードやキュリオケースおよび母親の趣味で異常なまでに収集されていた食器類などなどが無残極まりない状態で部屋中を折り重なり埋め尽くし、木材や陶器やガラスの破片が木っ端微塵となり、とても部屋に入れる状況ではなかった。玄関から外に出ようとすると、今度は玄関のドアが開かない。再び蹴りまくってようやく開け、外に出る。吐く息が白い。自宅前の道路は異様な形に大きく波打ち、さらに約100メートルに渡って幅10センチほどの亀裂が走り、その亀裂を境に5センチほどの段差が出来ている。ただ、近所の家々を見ると倒壊した様子はなく見た目の被害としてはさほど感じられなかった。庭に廻り、飼い犬の駄犬タローを見ると、普段はちょっとのことで唸り声をあげて吼えまくるくせに、この時に限っては不思議なほど何も声を出さず、ただ立ってじっとこちらを見ているだけだった。家の中に戻ると、今後何かと必要になるのではと思い、ひとまずビデオカメラを持って家中の被災状況を撮影した。テレビをつけると、この時点ではまだ電気は通じており、NHKで「棚の上からモノが落ちてきてケガをしたヒトが1名」などと(ンなワケないやろと)いう冗談のような軽い被害の速報を繰り返し伝えていた。そうこうしているうちに外が明るくなってきたので、どうみてもこれは長期戦になるに違いないと思ったワタシは、当面の食料とクルマのガソリンを確保しようと、早朝の街にクルマを走らせ出て行った。ワタシの自宅は阪神間でも「山の手」というよりもかなり「山の上」に近い高さのところにあるのだが、クルマで下界に下りて行くにつれ、街の状況がやはりただごとではないことに徐々に気付き始めるのであった。
2005年01月15日
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仕事帰りに先輩社員3名と一緒に、オフィスの近くで軽く飲んで帰ることになった。目当ての店に行くと閉まっていたので別の店に行くと、こちらももう閉店だという。仕方ないので、寒空の下をあてもなく店を探して歩いていると「おでん」の暖簾が見えたので、入ったことのない店だったがとりあえず席が空いているかどうかを確認しに、ひとりで先に店内を覗きに行った。中に入ると、何となく、雰囲気が妙なのだ。着物姿の背の高いオネエサンが「いらっしゃあーい」と出迎えてくれたのだが、声が随分野太いのでオヤ?と思って顔を見ると、ん、顔立ちはべっぴんだけど・・・オトコ?うーむ、どうやら、オカマちゃんの店のようである。で、今度は厨房の方に目をやると、れれ・・・オナベ?髪は短く刈り上げているが、顔はどうやら女性のようだ。オカマにオナベ?一瞬ワケがわからなくなる。が、確かにおでんはあるし、壁のメニューにざっと目を走らせると和風の創作メニューのようなものが並んでいて、値段も割とリーズナブルだ。目の前のオカマちゃんが「何名様ですかぁ~」と聞いてくる。うーむ、どうしようと0.5秒だけ悩んだが、あなたオカマだから帰りますというのも失礼だろうと思い、外で待っていた3人を呼び入れることにした。案の定、入って来る3人も次々にオネエサンを見てはあからさまにギョギョッとなっている。とりあえず、腹も減っていたのでビールにおでん、その他小皿の料理などをいくつか注文する。厨房を取り仕切る、爆笑問題の田中かナイナイの岡村をものすごくミニサイズにしたような男性が店長のようなのだが、なぜか店長ではなく「隊長」と呼ばれているのが、ますますよくわからん。で、飲みながら話を聞くと、以前は新地でオカマバーをやっていたこのオカマのママ(瑠宮・ルミちゃん)とマネージャー(ちっちゃい隊長)が、新地の店を畳んでなぜかこのオフィス街で心機一転、創作和食の居酒屋を始めたのだと言う。これにさっきのオナベの女性?を加えて計3名でやっている。しかし、出てくる料理が意外に美味しいのでちょっと驚き。少量ずつの料理が種類豊富にあれこれ出てきて、見た目にも楽しい感じ。なかなかやるな、ちっちゃい隊長。結局、あっという間に我々はすっかり店に馴染んでしまった。しばらくして、突然、オカマの瑠宮ちゃんが喉を押さえて「げほげほ、あ゛~、なんだかノドかわいちゃったわ~」などと言う。何かと思ったら、「ちょっとオネダリしてもいいかなぁ~」なんて可愛いことを、野太い声で言う。言いながら、我々の勘定で日本酒をゴクゴクぷっはー!と飲んでいる。いや別にいいんですけどね、ここはホントに本町のオフィス街か?この街もだんだん変わってきたなぁ。
2005年01月11日
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妻が朝から遠方に外出するというので、駅まで送って行った。戻って朝食を作りムスメと二人で食べた後、我々も出かけることにした。クルマも洗車したばかりだったので、ドライブがてら少し遠出し、ムスメの好きな魚介類を見に 「スマスイ(須磨海浜水族園)」 へ。天気は抜けるような快晴、FMラジオからはジプシーキングスの「ジョビ・ジョバ」が勢いよく流れ、久々に軽快な気分で高速を突っ走る。道路も空いていて、普段の半分ぐらいの時間であっという間に「スマスイ」に到着した。スマスイには、エントランスから入ってすぐの正面に、間口25m・水量1,200トンの 「波の大水槽」 というのがあり、ここにはサメやらエイやらマグロやらのあらゆる魚がごった煮状態でグイグイ泳いでいて、なかなか迫力がある。水族館全体の構造としては、昔ながらの標本展示型が主体の古いタイプで、大阪「海遊館」 などと比べるとややエンターテイメント性に乏しい感はあるが、普段、家で図鑑をみながらひとつづつ魚の名前を確認しているレベルのうちのムスメなんかには、丁度良い作りだと思う。※ちなみに海遊館は、演出がうまくてデートには向いているが、館内に段差が多くスロープがないので、ベビーカーの子連れにはつらいのだ。しばらく調子良く魚やクラゲを見ていたムスメだが、フト気が付くと、なんだかソワソワと様子がおかしい。「もしかして、オシッコ・・・?」と訊くと激しく頷き、急にジタバタしはじめた。なんでやねん、さっき出かける前にしたばっかりじゃないか。ともかく急いでトイレを探しにムスメの手を引っ張って走る走る。ない。ない。「もれるもれるっ」と叫ぶムスメを脇に抱えて、「ガマンガマン、もうチョイだ!」と、再び走る走る。あった!とにかく目に付いたトイレに入り、緊急事態なので身障者用の個室に駆け込み扉を閉める。ムスメはもう限界寸前で半分白目になっている。「もう大丈夫だ!」とまずは上着のコートを脱がしてズボンを下ろすと、あぅ、タイツが!タイツを脱がすと今度は毛糸のパンツが!あぁ、しまったぁぁ・・・!ズボンとパンツを半分下ろして立ち尽くした状態で、ムスメ力尽き、猛烈に放尿。ワタシの手に持ったバッグに、ムスメのコートに、ズボンに、パンツに。 ジョビ、ジョバ♪ 頭の中でさきほどのジプシーキングスが激しくこだまする。しかし、せっかくの楽しいお出かけが悲しい想い出になってはいかんと、オトーサンはぐっとこらえて冷静に、衣類にかかったオシッコを時間をかけてトイレットペーパーで吸引したが、さすがにパンツ&毛糸のパンツはダメージが大きかったので処分した。気を取り直して再び館内に戻ると、ムスメはそのままノーパンでタイツという妙なスタイルでイルカショーの会場に走って行き、イルカたちのダイナミックな宙返りにノーパン姿のまま爽やかに拍手を送ったのであった。めでたし、めでたし。
2005年01月10日
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夕方から大阪に出た。梅田の百貨店で腕時計2つの修理をし、難波で注文していた眼鏡を取りに行き、さらに難波でCDを3枚買い、再び梅田でセールの服を買い、ついでに書店で文庫本を一冊買い、約束の時間丁度に待ち合わせ場所に到着した。ほどなくして、本日の待ち合わせ相手であるドイモイさんが、続いて鰻坂ヒカルが現れた。ドイモイさんとは1ヶ月ちょっとぶり、英国から帰国中の鰻坂さんとは去年の年末以来である。ドイモイさんと鰻坂さんはお互い現実世界で会うのは初めてで、ドイモイさんは「まぁ、ほな行きましょか」と冷静であったが、鰻坂さんは身振り激しく「イヤァー、こうして実際に会うとなんだか不思議な気持ちですネェー!」と、ちょっと鼻息荒くコーフンしているように見えた。そして我々は、ひとまずワタシが勝手に予約しておいた 「ベトナムのカエル」 いう名前のベトナム料理の店に向かう。店に到着し薄暗い店内に入ると、アオザイ姿の女性とカエルの像がお出迎え。案内された席につくと、さっそくキンキンに冷えたベトナムビールの333(バー・バー・バー)で乾杯だ。せっかくなので、店の名前に敬意を表してカエル料理を注文したが品切れとのことで断られ、いきなり一同テンションが下がる。カニツメ揚げを頼むと、「一皿に2つなので、3つ分ご用意しましょうか」と店員が訊くので、すかさずドイモイさんが「はい、同じ値段でネ」と言ったが、冷たく無視される。鰻坂さんは、コースメニューにしか載ってない「フグのアーモンド揚」を無理矢理単品でオーダーしたが、出てきたときには誰もわからず「鶏の唐あげ頼んだっけ?」などと言いながらウマイウマイと食っていた。ちなみに、せっかく三人で会ったというのに、ビールとベトナム焼酎を飲みすぎたので何を話したかは定かではなくなってしまったが、大半は鰻坂さんがほとんどひとりで自分のことばかり喋っていた気がする。唯一覚えているのは、「キミたちは十年後のビジョンはあるのか?」とあとの二人に鰻坂さんが尋ねたのだが、訊いた本人も含めて誰も「十年ビジョン」がないことが判明した。一同、これはどうも良くないなという空気を感じ、まずは十分後のビジョンということで、とりあえずお勘定して解散することに決めたのだった。不気味なカエル様フグのアーモンド揚ですな鶏のフォーですわ
2005年01月08日
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年始は、神戸と大阪にある両実家を行ったり来たりで、なんとなく気ぜわしく過ぎてしまった。何かが特に忙しいというワケではないのだが、世の中が静かな時に、ひとりでゆっくり本を読んだりモノを考えたりする時間がないのがツライ。仕事初めの4日は、初日からいきなり徹夜で、そのまま週末まで連日深夜帰宅だったよ。今年もこんな感じで走るんだろうかなぁ。しかし、普段は信心深くもなく占いもまったくアテにしないワタシだが、初詣のおみくじや細木数子さんの六占星術によると、今年はワタシにとって「収穫の年」だそうだ。そう言われるといい気なもので、急にそんな気がしてきた。ははは。そういえば昨年、とある企業の社内スローガンとして、『いつも新しい、ときめき』というのを提案したことがあった。簡単に説明すると、この企業が顧客に新しい商品やサービスを提供する際に、企業の関係者が常に立ち戻って考えるモノサシとして、「その商品やサービスが、顧客にときめきを与えられるかどうか?」をいつも基準にしましょう、というものだ。が、実はコレ、日頃ワタシ自身が思っていることで、それを勝手にスローガンにさせてもらっただけなのだ。日々の生活の中で、ワタシが大事だと思うコトの判断基準は、実に単純。「それをすることで、自分の気持ちに何かときめきがあるかどうか?」である。あれば、それがワタシの最優先事項だ。しかし実際には、ときめかないけれど、やらなければいけないことの方が圧倒的に多い。ではどうするか?それを、少しでも「自分がときめくやり方で」できないだろうか、と考えることだ。目指すゴールは決まっていても、辿り付く方法は百通りあるワケで、だったら少しでも自分に楽しいやり方を工夫して進んだ方が良いし、そう思った方が人生得だからね。今年の手帳にもときめきの企画ががたくさんできて、何かひとつでも大きな収穫があるといいなぁ。皆さん今年もよろしく。
2005年01月07日
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