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まるたけえびすにおしおいけ あねさんろっかくたこにしき しあやぶったかまつまんごじょう せったちゃらちゃらうおのたな ろくじょうさんてつとおりすぎ しちじょうこえればはちくじょう じゅうじょうとうじでとどめさす ♪♪ 京都の町は、東西南北の通りが 平安京の名残をとどめ 碁盤目状に整然と作られている。 だが町筋の名は なかなか正確には覚えられない そこで、 通りの名を詠みこんだ童唄がつくられた。 丸、竹、夷、二、押、御池。 姉、三、六角、蛸、錦。 四、綾、仏、高、松、万、五条。 雪駄ちゃらちゃら魚の棚。 六条、三哲とおりすぎ。 七条こえれば八九条。 十条東寺でとどめさす。 丸田町~竹屋町~夷町~二条~押小路~御池。 姉小路~三条~六角~蛸薬師~錦小路。 四条~綾小路~仏光寺~高辻~松原~万寿寺~五条。 雪踏屋町~魚棚。 六条~七条~八条~九条。 十条、東寺。の順になっているが、いつ誰が作ったのかよくできている。 雪踏は雪駄で、竹の裏に皮をはって作られる草履様の履物。 元禄以降雪駄のかかとに鉄(かね)を打つことがはやり、 「雪駄チャラチャラ」と音で表現されたという。 雪踏屋町通は平安京では楊梅(やまもも)小路といわれ、 現在は楊梅(ようばい)通である。 魚の棚は、平安京では六条大路。 江戸時代は東本願寺の寺内地域で、魚鳥類の市場が盛んだった。
2010.02.26
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梅の花が咲き 外の面の光も明るくなった 二十四節気の一つ 雨水は過ぎ 春はようよう間近 あとは次の節気啓蟄を待つだけ さぞかし 地に潜む百千の虫たちも 出番に備えていることだろう
2010.02.23
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《夕顔の咲ける軒端の下涼み男はてらら女(め)はふたの物》 この歌は江戸初期の歌人、木下長嘯子が詠んだものとされる。 長嘯子は、諱名は木下勝俊、豊臣秀吉の義理の甥にあたる。 永禄12年に生まれ、秀吉に仕えて小田原征伐、朝鮮出兵などに従った。 関ケ原の戦いにおいて、伏見城をあずかりながら、任務を放棄した責任を 問われ失脚し、爾後は一遊民として、京都東山に隠棲、風雅な余生をおくる。 幕藩封建制初期において、ドロップアウトした一人だったかもしれないけれ ども、京都を中心とした文芸復興の機運のなかで、細川幽斎、林羅山、松永 貞徳らの文人たちと、堂上、地下、武士、町人を問わず広く交わり、いわば その接点に立って活躍した。 この歌をモティーフとして、後年これを絵画に昇華させたのが久隅守景で あった。有名な「夕顔棚納涼図」である。 大きな満月に照らされた茅葺屋根の家の庭先。 豊かな実をつけた夕顔(瓢箪)棚の下に筵を敷いて夕涼みをする家族の姿 が、のびやかな筆致で描かれている。 父親は薄い襦袢(てらら)を身につけ、母親は上半身はだか、腰に湯もじ (ふたの物)を巻いただけ、奥の方にいる男の子も片肌をぬいで、のんびり 夕方のひとときを楽しんでいる。 さわやかな夕暮れの雰囲気がよく伝わってくる画面。 泰平を謳歌した江戸時代とはいえ、これは庶民にとっては理想的な家族の 姿であったろう。 久隅守景(くすみもりかげ)。 江戸時代に活躍した狩野派の画家。その名はよく知られてはいるが生没年 不詳という点に、その数奇な生涯がほの見えるてくる。 狩野探幽に学び、探幽門下の四天王と称されたが、もっとも優れた創造性 を発揮した。 御用絵師として、幕府の御用を墨守してきた狩野一門にとって、伝統的な 画風を逸脱した創造性は、必ずしも歓迎されるものではなかった。 守景は、よんどころない家族と狩野派との確執の末、狩野派を破門される。 自由人の面目。守景は、創造性を喪失していく江戸狩野に対し、風俗画と くに農村風俗画を描線を効果的に用いながら共感をもって描いた。そのうち の一作が「夕顔棚納涼図」(東京国立博物館)だあったが、その自由な境涯 を目指し、己が目指すものを、権威に媚びることなく求め続けた点において 木下長嘯子と久隅守景とは相通ずるところがあったに違いない。
2010.02.22
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旧制高校には寮歌というものがあった。 「ああ玉杯に花うけて」旧制一高(現東大)や 「紅燃ゆる丘の上」旧制三高(現京大)などは、 新制大学になったいまでも、コンパなどでは愛唱されているし、 全国寮歌祭が行われ、旧制高校の弊衣破帽姿のOBが 意気軒昂といまも青春時代を懐かしむのである。 「北の都に秋たけて」曲=金原佑之助 詞=駒井重次 は、 金沢にあった旧制四高(現金沢大学)の寮歌として 大正四年制定された。 北の都に秋たけて 我等二十(はたち)の夢数う 男 女(おみな)の棲む国に 二八(にはち)に帰るすべもなし その術(すべ)なきを謎ならで 盃捨てて嘆かんや 酔える心の吾若し 吾永久(とこしえ)に緑なる (以下八題まで) この寮歌は人気のある寮歌として、ほかの旧制高校にも普及したが 歌詞・曲調がいかにも北陸の古都にふさわしく、悲壮に歌っている ところが魅力だった。 この歌は、一般化するにつれて、短音階の曲として歌われた。 作詞者の駒井重次(1895~1973)は、政治家で東京都出身。 名校長、溝渕進馬を慕って大正2年、四高に入学した。 溝渕進馬(明治44~大正10年在任)は高知県出身。 東大哲学科卒。 明治44年、ときに世相は「経済ノ状況漸クニ革マリ、人心動モスレバ ソノ帰趨ヲ謬ラントス」と紀元節には詔勅が出され、窮民に医薬を与える 費用が天皇から下賜された。明治から大正へ、乃木大将夫妻の殉死。 西園寺内閣から第三次桂太郎内閣、さらには山本権兵衛内閣へ たかまる民衆運動、護憲運動のなかで、文部省は学生の風紀について しばしば振粛をうながしてきた。 そんな時代風潮にあって、馬渕進馬校長の硬骨な教育方針が、きっと 駒井重次をして、敬慕させたのだろう。 駒井は、入学するや柔道部の猛者として名を馳せた。 大正元年には、講道館から三船久蔵五段、大正二年には嘉納治五郎師範が 講師として来校していることからして、四高が柔道の強豪校だったことが うかがえるし、質実剛健な校風もまた理解できる。 駒井は、大正四年、五年の高専柔道大会には大将として出場し優勝戦には いずれも、六高(岡山)と対戦し優勝を飾っている。 当時「駒井の前に駒井なし・・・」と言われた。勿論今日のように体重別 制度のない時代のことである。駒井は美男子で文才も高かった。 東大経卒業後、駒井は大蔵省に入省したが、後政界に進み三十歳代なかばで 代議士に当選、財政金融問題に明るかった。日本税理士会会長にも任じ、 昭和42年には勲二等に叙せられた。 駒井には、現鳩山首相の祖父鳩山一郎が首相だったころ、鳩山一郎首相に 随行し、首相が暴漢に襲われたとき、柔道で暴漢を投げ飛ばしたという 武勇伝がある。 時代の混迷においては、駒井の時代に似ている。 そして、首相の重責は祖父から孫へ。そんな、あれこれをおもうとき 逆境と混乱のなか、新しい時代を切り拓いてほしいこと切なるものがある。
2010.02.20
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喫茶店でコーヒーを喫みながらしばし寛ぐ ウエットティシュは お絞りがわり これも経費削減なのか 衛生上この方がよいのか 多分両方なのだろうと思いながら ティシュを密封したビニール袋の 端っこを抓みとるのだが 抓みとったビニールのきれはしが 指先を離れずにひらひら踊っている 静電気が ここにも潜んでいた 車のドアのエッジにも 頭髪にも 下着にも 忍者のように 物の影に潜んでいる エコロジーの当節 時代錯誤な忍者を 表舞台に引き出して エネルギー源として 利用できないものだろうか
2010.02.17
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「かあべい」が天国に召されたときでさえ 健気にも娘は泣かなかったのに・・・ 独り暮らしの娘から 飼っている猫が一匹死んだといって 深夜電話がかかってきた 原因が分からないといっては泣き ペット専門のお寺に葬りたいといっては泣いた こんなこともある 教え子の母親が 毎日学校へ顔を出しては 教え方が悪いといって 暴言を吐き散らしていくのだという 電話の向こうの 娘の泣きべそが見えるようで とおべいは胸が痛む とはいえ 教育現場の状況について 経験のないとおべいには 適切なアドバイスができなくてもどかしい しかしトラブルの渦中にあるとき かえって当事者には見えないものがある そんな視点で 諄々と40分間 「我慢」「我慢」と 諭すしかなかった とおべいは ゴジラのパパでさえ ゴジラが36歳になったいまでも あれこれパパラッチしている風がある とおべいにしても 娘とは一定の距離をおきつつも ずっと見守っているよ 案外 こんなとおべいに ときには 甘えてみたいだけのことかも知れない それでもいいよ とおべいは そろそろ 春休み前に 一度カウンセリングの電話を 娘宛入れておかなくっちゃ
2010.02.15
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いちど推計学の先生に きいてみたいことがある Q、『1億3000万人から 1000人を任意に抽出した人たちの 意見の統計は 1億3000万人の世論の推計として 信頼できるのだろうか?』 新聞紙上 世論調査の結果が よく掲載される 政権交代以後は特に多くなった これらの世論調査の方法はたいがい電話方式 任意抽出で選ばれた2000件ぐらいを対象にし 回答はほぼ1000件ぐらいが多いようだ ところが 日本の人口は1億3000万 1000件はその10万分の1にも満たない つまり10万人につき1人の割合で その意見を仕訳し推計しているのである 10万人といえば 地方中都市の全人口に匹敵する そのなかから一人を抽出するのである どんな方法で調査しようが 結果はでてくる 問題は出てきたその結果の 信憑性である 10万分の1に対する推計値なるものは 誰が考えてもあまりにも アバウトでバラツキがあって偏頗な数値を招きやすい のではないだろうか 某日のある新聞では 電話方式とあるだけで 取材数も回答数もなし 新政権に対する支持率などの %だけが尤もらしく掲載されているのには 正直おどろいた これでは 世論調査ではなくて 社論調査そのものではないか 時間が多少かかってもよい もっと綿密に世論を吸い上げる方法を マスコミは考えてほしいものである それがマスコミの社会責任というものであろう
2010.02.10
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デパチカの酒類売り場でのこと 「加賀の井」という銘酒が ずらっとならんでいた ほーっ 名前のとおり 加賀の銘酒かと思いきや 蔵元は新潟県の糸魚川だった 蔵元の当主は 上杉謙信の末裔だそうな 「加賀の井」という名のいわれは 昔 加賀前田家の参勤交代の際本陣を勤めた縁で 「加賀」の国名を用いることを許されたのだという (飲み口はさわやか 日本酒本来の腰があって しっかりした味わいがする) とは 玄人筋の批評である 新潟といえば 米なら魚沼産の「こしひかり」 酒なら幻の名酒「越の寒梅」 と思い込んでいたものだが 「目黒のさんま」ならぬ 越後の「加賀の井」を覚えておこう
2010.02.08
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わかものよ からだをきたえておけ うつくしいこころが たくましいからだに からくもささえられる ひがいつかはくる そのひのために からだをきたえておけ わかものよ 1950年代のころ どこの学園でも 学生たちの歌声が響いていた 歌声運動華やかなりし 貧しくとも 若者たちの 希望に満ちた時代だった ぬやま・ひろし (1903~1976) 詩人 兵庫県出身 本名西沢隆二 二高中退 「驢馬」同人を経て革命文学運動に入り 「プロ芸」「ナップ」と進み詩 小説 評論を書く やがて地下活動に入り昭和9年逮捕 敗戦まで12年間獄中にある 戦後 獄中詩を「編笠」一巻に編んだ 日本共産党中央委員であったが41年10月除名 と文学事典にある 経歴の如何にかかわらず 「わかものよ」の歌は 一世を風靡した時代もあったし その詞は今に通ずるものがある ときあたかも 横綱朝青龍が引退した 彼は身体は鍛えたが こころの面において 日本の国技である相撲道にとって 瑕があったということなのだろうが 好漢たることは間違いない いつか 大阪難波のビルの一画 数十人の若者たちが列をなしていた なにごとかと思って近寄ってみると M1グランプリなる芸人の登竜門 そのオーディションの受付風景なのだった 格別 からだを鍛えているふうでもない うつくしいこころを持っているふうでもない どっちつかずのわかものたち 芸人にでもなろうかという でも芸人ばっかり そのへんにぐちゃぐちゃ増殖しても この国のかたちは 悪くなるばかりではなかろうか
2010.02.05
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箕面は言わずとしれた紅葉の名所 でも 何故か その季節にかぎって 錦秋をめでる時間がとれない 昨年も 箕面を訪ねたのは 春 若葉の頃だった 野猿が遊んでいる 通行人に餌をねだっている そして 路の辺の一隅にすみれの群落があった 山路来て何やらゆかしすみれ草 芭蕉 路傍に一つ二つ咲くすみれも たしかにゆかしいものだが 群れをなして咲き乱れるすみれも また見応えがある 今年こそ箕面の紅葉を きっと見逃すまいとの思いと並行して 「すみれの花咲くころ」 箕面のすみれも忘れず 探訪しようと思っている
2010.02.03
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