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昨日 朝の珈琲屋の柳居子の 隣りの席にやって来たのは、近畿大学準教授「韓勝旭」工学博士 久し振りにお目に掛り 色々と面白い話で盛り上がった。 日本と韓国との歴史感 捉え方の違いとか 京都から東京へ都が移った後の京都の事とか 儒教の国の長幼序列又其の世界観 卑近な話題では、柳居子の店に韓国からお越しの客人の話し等 日本語が上手でこちらの言う事をちゃんと理解するから 韓国の人と話を交していると感じなかった。 お互いの国が 思う事をぶつけ合って 話し合うというのは この歳になるまで経験が無かったから 面白く意義あるものと思った。 京都大学で工学部建築関係を専攻して 韓国に帰国後 公に近い仕事に就いていると聞いていたが 今回日本の大学で教鞭を取る事になった。平均的な韓国の人とは違うと思う。しかし お互い遠慮なく自分の思う事を喋り合える事が出来る事は嬉しい事だ。『よく顔を見せてくれたね。』 と。珈琲一杯ご馳走した。何か喋りたい事が有れば 又朝の卓にやって来る様な気がする。
2024.06.17
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観光ガイドを束ねる様な仕事をしている友人が、「西陣」の事を詳しく書いた本を 上梓出版する事になった。 下書き原稿を渡されて、何かご意見 アドバイスをと言われた。 『学術書では無いのだね?』と 尋ねた。学識の世界 教育の場で使われる書物と、一般庶民 読書好きという人を対象とする書物については。 最初の書き出しが大事だと 言っておいた 先ずタイトル 手に取って読もう 書店に並んだ場合 読者と執筆者との最初の接点 そして詠みだす 最初の書き出しも大事ではないかと思うよ。次に読み進む事に期待感 面白そうという最初のイメージを読者に植え付ける事落語でいう 枕と言われる部分。 柳居子が 東京で五回 京都の話しをした時 其々の会の冒頭 この男のの話しを聞いてやろうと 胸襟を開いて貰う 扉を開く事が大事。 読者に媚びるのでは無く 楽しく読み進んで読了後 ああ 楽しかったとか 爲になったと言う様な感覚を持って貰うのは やはり筆力と言う事だろう 伝えたい情報は充分に出そろっている。 只 京都の西陣という限られたエリアを詳しく取り上げても 多くの読者が 面白いと認めるのは至難 先ず京都に於ける 西陣の立地とか 何故西陣の奈が今に伝わっているか 其の辺りが 落語の枕に相当するのかな 京都の出版社が 悉く出版を敬遠して 東京の出版社が受けてくれる事になったという。下書き原稿を見せて貰った手前 お金出してその本 買い求めようと思っている。
2024.06.16
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一寸強い髭剃り後 柳居子の店は、父の代から メンソレータムが常備してあって、肌の消炎効果を 良く知っている。 今はロート製薬から販売されているが、長く近江兄弟社の人気商品だった。最初に販売した人が W・M ヴオーリスと云う人だった事も知っている。又 過日出掛けた四条大橋畔 『東華菜館』中華料理店も ヴオーリスの設計建築した建物 他にも寺町丸太町上がるの 教会もヴオーリスの設計とか聞いている。方々に彼の手掛けた建築物が今も残っている。ヴオーリスの 本当の顔と言うのは 敬虔なクリスチャン 1880年生まれ 大都会に生れて育った人では無かった様だ。 体の弱かったヴオーリスのため 両親は度々転地療養を繰り返し 落ち着いた先がコロラド州 後に彼が生涯過ごした近江八幡の地とよく似たところだったらしい 学制の時 YMCA(キリスト教青年会)に参加して そこで霊異を受けて建築家を目指していたが 宣教師として海外布教の仕事を志す。日本で英語の教師を求めているという情報に 呼応して滋賀県立商業学校に 明治38年着任した 教え子達に対する 布教活動が 仏教勢力との軋轢も有って 教職を僅か二年で解職され 本当の彼の活躍が始まった。 寄付を募り 又最初に目指していた建築の仕事を本格的に頑張り 伝道には金が必要と考え 又売り上げの殆どは 教会の建築とか 其の運営 伝道雑誌の編纂とか に使われた 彼の会社が大きく発展するのは メンソレータムの開発者 A・Aハイドから販売の代理を持ちかけられた事から 薬局に置いて貰えないので 教会の中で販売し出した 評判を呼んで 後 大正九年 製造権も入手して ヒット商品品になった。 柳居子の店も 息の長い顧客と言う事か。ヴオーリスで特筆すべきは 日本人女性を妻とした事である。 旧制 一柳満喜子 旧藩主 子爵の娘 華族である。 満喜子の兄の屋敷の増改築に建築家が外人と云うので 満喜子が通訳の役を買って出て 縁が出来たという。昭和十六年 帰化して日本人となり 昭和三十九年迄 長らえたという。
2024.06.15
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小・中学校 同窓同級だった女の子の訃を 彼女の旦那さんから履いた。ご主人は、朝の珈琲屋の同卓の仲間だから 同級生の奥さんの容態は聞いていたから 突然亡くなったという感じはしないのだが 残された旦那さんの事が気になって仕方が無い。 以前 出張の散髪に出掛けた先の 九十六歳の客人が話された中で 『どんな姿になっても 家内が生きている間は、其れなりの張が有ったが 家内が死んでからは 生きている所在が無いと』と仰ったことを思い出した。張と云うのが如何いう感覚なのか よく判らないが 『この歳になると こういう話を身近で聴いてくれる人も居なくなってなぁ』 亡くなった人の 冥福を祈る事は当然の事だが、今更何一つ出来る事は無い。むしろ 生残った人を慰め励ます事が 友人・中間として為すべき事 故人の遺志にも叶う事だろう。未だ仕事現役で頑張っている八十歳台 昼間は仕事で紛れる事が有っても 仕事が終わって一人になった時 寂寞を感じるのだろう。 亡くなった彼女の同じく同級生 小学校から大学まで一緒だった女性 遠くに住んでいるから、友が亡くなった事を知らせた。 一瞬絶句 家族葬 既に終わっている 花とか香典も考えたが 義理堅い人だから お返しとかに煩わすから 個々に偲び冥福を祈る事にしようと決めた。 『お互い 死ぬまで生きよう』と言って 電話を切った。
2024.06.14
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並べて論じる絵画では無いとわかっているのだが、写生図と、版画の下絵と判っていても 日本人の多くが知る、伝わった安藤広重の『東海道五十三次』と雪舟の『天橋立図』 二点の絵を論じるのではなく 感じた事や知った事を書き記す。 広重描く 東海道五十三次の内 京都の三条大橋から 東を眺める図 京都の町を取り囲む なだらかな山並み 東山の直ぐ向こうに 背の高い山並みが 東山連峰の後ろ楯の様に書き込まれている。有り得ない風景に京都の人は、絶対この地に立って描かれた 版画の下絵で無い事を知っている、一つそういう作品が有ると 他の宿場を描いた物も 何某 広重の想像図かと考えてしまう。五十三次を描くという着想は 喝采ものとは思うが 東山の後ろの山並み 構図として入れる必要が有ったのか? 都への物見遊山案内書と考えるのが良さそう 鳥瞰図だから昔の人は間違いを探す様な事はしなかったのだろう。 雪舟が 何時ごろ 対岸から見た天橋立を 町の様子が判るまで克明に描かれた 制作年代に識者の興味が集まっている。描きこまれた 智恩寺多宝塔の建立年が 塔内の墨書銘で文亀元年(1501)と判ったから 其れ以降に描かれたという説が主流だった 雪舟が八十二歳以降の作品と云う説である。 八十二歳越えて これだけ精緻な写生が出来るか? 多宝塔建立以降説に対して 旧塔が有ったのではと言う説 何等かの理由で 新しく建ちあがったる前の旧塔なら 塔の建立と雪舟の写生の時を特定する事は出来ない。傍証ではあるが 雪舟の事績を色々と調べている人が 雪舟 六十二歳の時 丹後へ出掛けたという記録が出てきたそうだ、 八十二歳と六十二歳 描かれた絵を見ると、 六十二歳くらいが この細密画を描く年齢限界かなと思ったりするのだ。因みに何時描かれたかという 讃とか偈等は何も無い様だ。
2024.06.13
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先日 誘われてカラオケに出掛けた時、同行は柳居子より年嵩の女性と 同年配の男性との三人 カラオケシニア割引客だった。 何を唄うのか 出掛ける前 一応準備曲名を書いた紙切れを持って行くのだが、今宵はド演歌ナイトと決めて、曲を探し出したが 面倒と 船村徹氏作曲の一覧の中から、選ぶ事にした。何曲か披露した次『新宿情話』と言う曲を唄って『上手』の声が上がった。この曲の歌詞が判る世代だから、唄う曲の選曲が『上手』の声が上がったのだと思う。≪新宿西口の 間口五尺の ポン太之店が とうとう潰れて泣いてるヒロ子≫ 先ず子癪が出てくる 間口五尺の唄い出しで曲のイメージが湧く。行く先の無いヒロ子に 三畳一間で判ったらうちにおいでと誘う 先ず五尺が出てくる。店の間口は151cm 付いておいでと誘った三畳の部屋は 4・86平方メートル。尺貫法をメートル法換算にすると 歌にはならない。 最終列車を見送る下り ソロ子と一緒に三畳間の家に連れ帰る下り≪ふろしき包みを中にして繋ぐ手に キリが降る。≫ このふろしき包みと云う言葉も今では滅多に使われる事も無くなった。尺貫法時代の歌は、尺貫法を懐かしく想いだす人が居る間だけの命かと思ったりする。
2024.06.12
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昨日お越しの客人は、全身刺青の髭面の男性。 顔を剃ってくれというスマホ画面の 日本語表記を見せられて、黙って理容椅子に招じ上げて 仕事に取り掛かった。 全身刺青が 如何いう状態かと言うと 顎から下 首筋全体 手は爪に至るまで 濃淡織り交ぜて 何の柄か刈らない不思議な刺青。 刺青に惑わされて 其の客人の髭がどの様に生えているのか 見定めが付かない状態。 刺青が無ければ 剃刀の運行も生え方の流を見て 段取りが付くのだが 手で撫ぜて流の確認をしてから剃刀を使うから 大変時間がかかる。 顔剃りの範囲と言うのは 概ね顔面と首筋 喉仏の突起の下位までと 考えているのだが 刺青の御仁の髭は 喉仏から着ているTシャツの 胸毛に続いている様な密集度 本来の理容の顔剃りの領域越えて 喉仏の下 胸毛に至る近く迄 入念に逆剃りを施してツルツルに剃りあげた。 ドイツからやって来て、生涯一度の顔剃り体験に余程感激したのか ハイテンション 柳居子は 喉仏のすぐ下を左右に指で示して 此処までが料金を言叩く顔剃りの対象 この下 顔剃りでは無く 首の髭 首剃りはサービスシェーブと言ったら 首剃り代金か チップとして二千円余分に手渡され 『又 必ずこの店に訪れます 私を忘れないで。』と言われた『貴方忘れても この刺青の下の髭は絶対世摺れませんよ。』と答えておいた。 若し刺青が隠れてしまう程髭を伸ばし 剃り後刺青が出て来たら 吃驚するだろうな。下らない事を考えながら 客人を送り出した。
2024.06.11
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国立奈良博物館で、開催中だつた『空海展』 最終日九日に出掛ける予定が叶わず残念な事だった。 柳居子の戸籍名『國弘』の一字『弘』が、弘法大師の諡号弘が付いている事から 何となく親しみを覚え 伝記とか学説諸々に親しんできた。 其の時代の人としては、考えられない程 数多くの業績とか 文藻 諸々が残っている。伝承では無く 大師の弟子「真済」が、師の残した 詩・賦・表文・碑銘等を集めた『遍照発揮精霊集』という 十巻の書が残っている事から 聖人君子風の宗教人では無く 又 当時の文化の最先端をいく中国に於いても 高く評価された 最初の国際人として 興味の尽きる事の無い人と言う事である。 本サイトに於いても 空海の事は、多分二十回程 駄文を載せているが、国際デビューを果たした 福州節度使 閻済美に宛てた手紙 『加能 啓ス 高山澹黙ナレド 禽獣労ヲ告ズシテ投帰ス深水モノ言ハザレド・・・・・・』唐での華々しいデビューがこの代筆の手紙である。 同じ遣唐使船団に 後のライバルとなる最澄も加わっていたが 最澄の乗った船は問題なく唐土に着いたのだが 国史藤原葛野麻呂の乗った空海同乗の船は 福建の赤岸鎮という所へ流れ着いた。 上陸を許されず 度々国使であることを書いて上奏したが相手にされず 国使であることを証明するものは何もない 万策尽きかけた時 空海が登場した。 一筆認めた文書が 上陸すら認めなかった一行を ただちに国使としてその様に対応したという。 稀代の代筆家のタイトルで以前に載せた記事には 一緒に唐土に渡った橘逸勢 (たちばなのはやなり)の爲 日本に帰国の爲の許可願い状も 代筆している。
2024.06.11
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朝の珈琲屋で出る話題、テレビの連続ドラマの影響が有るのか、源氏物語が頻繁に出てくる。 今の時代 歴史ドラマに対する理解も 何か一つ疑問が出ると 即スマホの検索をすると 何となく判った様な気がするから ストーリー展開も 視聴者は、判らない事は検索を掛ける事を 想定して 脚本が書かれているのかも知れない。 四代の天皇 七十年間 登場人物は四百人に登るという 源氏物語は、日本の歴史上 女性の書かれた文学作品としては 世界に誇る作品 類書が無い。只 原典は今の人が見ても理解の出来ないものだった様だ。何故ならば登場人物は 固有名詞が出て来るのでは無く 原則の様に 男は官職名 女性は姫・女君と書かれ 例えば中納言は度々出て来るが 同一人だったり 官位が昇進すると大納言に替わったり 其の時代に生きる人には登場人物が判っていたのだろう。 人物の特定は、 かなり早い時期から進んでいた様で 間違いか゛起こらない様 判り易い様に 桐壷の帝とか 葵の上 雲居雁・・・と 言う様なタイトルも付けられた。源氏物語系図と言うのも 登場人物それぞれが 如何いう関係だったか 読者の理解の爲にと 早い時期から系図が作られていたという。現在 源氏物語の系図として使われているのは 長亨二年(1448)三条西実隆の作った者が基本になっているそうだ。 それ以前に造られた系図は、古系図と云って 今の源氏物語には 登場しない女性 『巣守の三位』が出てくるそうだ。個人名を書かず 官位 姫君と書くのは 今の時代で考えると仮名 其の時代の読み手に判れば良い 連綿と読みつづけられる想定外 平安時代の実話連載小説と言ったところか 勿論 作り物 ノンぃクション作品有ろう事と思うが 記事本文にするネタが無ければ 絶対書けない長がはなしだと思う。
2024.06.11
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日本麻雀連盟の認定 五段を持っているのだが、段位認定書は四段止まり五段の認定に 二万円と云う金額を払えと言われ 五段位権利放棄をしたのだ。連盟の総裁は、新日鉄の稲山さんがされていた。 何十年も前の話しである。 今の麻雀は 懸賞牌と云って 麻雀の上手下手は関係ない展開の 運 不運 一か八彼のお遊び 又は賭博と言うものだと思う。 四段位を取るまでの経緯は、 先に一回 一荘戦 四回を 年間四十八回の成績 常にプラスを続けている事が認定の目安になる 勝負事だから体調とか諸々の事情が有って 勝ち続ける事は至難の業であるが ゲームの最終結果がブラスになる様に頑張った結果である。 大きな手を相手に 打ち込んでも 例えば 五千点の上がりを相手に打ち込んだとすると 五千点若しくは其れ以上大きな手で取り返そうとする人が多いのだが 柳居子は 五千点打ち込むと 千点五回上がると取り返せると考えるのだ。大負けする事が無い。 大谷翔平選手の 通訳をしていた男が 賭博で負けた金の穴埋めに大谷選手の金を流用して掴まった 起死回生を念じて最後の大勝負 勝っていたら問題にならなかったかも知れないが 又同じことを繰り返していただろう。 賭博も 嵌まり込むと 依存症 一か八かで結果が出て それだけで納まらないのが 難儀と言う事か。依存症と言えば バスや電車に乗ると十人中 八・九人までがスマホと 睨めっこしている 老若男女問わず スマホも完全依存症の様に見える人が沢山居る。十中八・九だと 其れが常態 依存症とは言わないのかと 思ったりする。一か八 丁半博打の 丁の一角一 半の上の部分 八を取った言葉と 大昔聞いた事があつた
2024.06.10
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今の時代 物事が多数決で決まる。我々の参政権の行使 なり代わって代表として選出する 議員とか首長の選出も 例え一票の差であっても 多数決という前提の決まりで、物事が動いて行く。 論議を尽くしたとされる議題についても 支持の多いのが正しい事だと 疑う事を考えない人も多い。審議拒否に遭っても 多数決のお蔭で 上程 決定される事も多々あるのだろう。 支持者に訴える場合で、気になる事は、本来伝えねばならない事は 棚上げして、耳あたりの良い事だけを訴える。喋り口調は あくまでソフト 優しさを表に出す事で 女性票を数多く集められるのだろう。本当に伝えねばならない事 封印して支持を集めるのは 如何かと思う。『賃上げします 税金は取りません』 等と言われると 財源は如何するの? 本気度が無いから 好き勝手が言えるのだろう。戦前 昭和の初めの政治家 「ライオン濱口」こと 濱口雄幸総理の時、 大恐慌 金本位制に移行の時、濱口が国民に呼びかけたりは、『国民も 国の補助とか支援に 期待せずに 自助努力をせよ』 今の政治家には絶対言えない言葉 未だ女性参政権は無かった時代 国税を何某払っている人が対象の話しだった様だ。 得票の半数か 其れ以上が女性票になった現在 現実の怖い話より 優しい見場やのするひとを 選ぶ人も結構沢山居るのだろ
2024.06.10
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昨日やって来た 地元紙の記者との会話は、遊廓の話しで盛り上がった。『今を生きる人の眼から見ると、方々に存在した遊廓を、昔の人は余程好色漢だったと考えるかも知れないが、誰もが有る一定の年齢になると、世帯を持って子供を育てるという 今の時代なら 極 当たり前の事が出来ない人が 沢山居たのだょ。』男は 男は食欲を満たす事で精一杯 性欲は岡場所で 晴らすしか無かった。女性も 子沢山 困窮が募ると、女衒の甘言で身を売られ 男の性欲の捌け口の対象となった仕事に心ならずも就いた人が沢山居た様だ。恋愛とか 身を固め子育てを 夢 絵空事と云う人の存在は 其の時代入り異を考えずして 昔はと言うのは 歴史の上っ面だけを見ている感じがする。『ひやかし』という言葉が有る。 今は「ウインドぅー ショッピンク」とか言って 買う気が無いのか 財布に見合わないのか 店で商品を見るだけ この『ひやかし』と言う言葉も 男が女を買う場所 買う気も 金も無いのに 「吉原遊廓」の「ウインドぅー ショッピンク」を表わす言葉 吉原遊廓の近くには、紙漉きの店が幾つも在って、紙漉きの工程の中で,冷やして 冷ますという人手の要らない工程が在って 其の工程の間 職人たちが 吉原に繰り出して 遊女の品定めならぬ 冷ます間の見物だけの客の事を 『冷やかし』の語源 遊廓の賑わしには 多少や句だったのか 冷やかしを咎め立てる事も無かったと思われる。
2024.06.10
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ことわざと、格言の使い分け、これから「ことわざ」を喋りますとか これは格言ですと、説明する様なシーンは無いから、あえて分類する事でも無いのだが、昨日迄で 6633日 毎日何か一文を書き連ねていると 格言 ことわざの類も 少なからず出てくる。 如何でも良い事を詳らかにする事が 本サイトの使命の様にも考える柳居子は、架蔵の本の中に、格言・ことわざに付いて詳しく説明している頁が有ったので 紹介したい。 先ず 格言 格言とは、人生の真理・羈縻や処世術を述べ、教え戒めとした短いことば 金言 金句 箴言とも言う。特に戒めの意味が強く 奇抜・辛辣な着想で鋭く突くのは警句という格言の例として『病は気から』『人の振り見て我がふり直せ』『早起きは三文の得』 早起きしているが63年間毎朝珈琲屋通いしているから柳居子の場合は 早起きは三文どころか 回数券割引でも 621円の損をしている。 ことわざについては 昔から広く人々のあいだに 言い伝えられている 風刺 教訓 知識 興趣等を含んだ 比較的短い文言 諺言(げんげん)諺句とも言われる 俗世界 地方で言われることわざは 俚諺(りげん)俚言 俚語 俗諺 俗語 ともいう。ことわざの使用例としては 『牛に引かれて善光寺参り』『笑う門には福来る』『灯台下暗し』 七十年近く前 『喜びも悲しみも幾年月』という映画が作られた 佐田啓二と高嶺秀子の主演 若山彰が『おいら岬の灯台守は 妻と二人で 沖行く船の無事を祷って 灯を点す』という歌詞フレーズの曲がヒットしていた。 今 灯台守の居る有人の灯台は 一基も無いと聞いている。従って『灯台下暗し』のことわざも 使う人は居なくなったと思われる・ ことわざと格言が厳密に分類される事では無い 格言と捉えられたり ことわざとと考える人も居るだろうし 名言 名句という言葉も有る fuzzyな世界なのだ。
2024.06.05
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朝の珈琲屋から 店に戻ろうと、三条柳馬場北側で、スマホ画面を熱心に見ていた髭面の男と 画面から目を外したタイミングで 柳居子と目線がピタリと合った。何処かを探している様子。散歩をしている内戻るホテルが判らなくなったのかな と思い can i help you と自転車止めて一声掛けた。すると スマホの画面を見せつけられた。柳居子の店が画面に載っていた。 柳居子は 顔色一つ変えず北の方を指さし 自転車降りて歩き出した 髭面も怪訝な顏をしてついてきた。 姉小路の辻を回って 店を指さすと 『oh』と言って喜んでくれたが、営業中の クルクル回るサインポールは未だ廻っていない。店の前まで付いてきて柳居子は 自転車止めて 二階への階段の鍵を開ける 如何したものかと躊躇っている髭面に ついておいでと促し 二階の店の鍵も開けて 白衣の作業委に着替えて 始めて柳居子が 自分が尋ね探していた店と判って 少々勧化派の態 カルフォルニアから来たという、『私の友人が 前にこの店に来た事が有って 日本の京都へ行くのなら 必ず訪ねるべき場所と言われて参りました』という 紹介してくれた彼の友人に 噂通りのお店だったと言われる様に 丁寧に仕事をした。一緒に来店記念写真も撮って メッセージも残して貰い『町で偶然出会って お店までお出迎えの様な散髪・髭剃り これは生涯残る記憶 日本と 言えば貴方が思い浮ぶと思います』 少々お手盛りだが 実話ですぞ チップの千円は 行先案内料として 頂いた。
2024.06.04
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朝の珈琲屋での 会話の中で、学歴無用論を述べる人は、概ね高学歴の人だと言う話しをした。柳居子の様に中卒という学歴が全く無いという立場で体験として思う事は、何処の学校を卒業したという学歴より 其の時代 その場所で学びを通して 大勢の友 学友と言うのを沢山持つ人を羨ましく思う 同じ学校に通っていたと言うだけで、何某のチャンネルの有る事は 学歴・学友有用論になるのだ。年次学年が離れていても 学んだ内容より 其の学校に通ったというのが 卒業後の実生活での大きな財産の様に思うのだ。 市長選が終わって、未だに貼ってあるポスターに 『しがらみを切る』断つとかのキャッチフレーズが 掲げてあった。柵(しがらみ)という言葉の本当の意味は。 水の流れをせき止める 杭(くい)を立てて。竹や木を絡ませて 水流の調節 纏い付くと云う意味から 悪しき言葉と捉えられている様だが 人間関係だけに限らず 全ての事象は柵で成り立っている。例えば 国と地方自治体との関係など 柵が無ければ 双方の意見交換 意思伝達もスムーズにいかない事も有るだろう。国の予算獲得も柵が有っての事柵無くして 我々が損をしていた事を 象徴する様な話しを知っている。蜷川府政が長く続いた後 林田知事が初めて東京の省庁へ挨拶回りに出掛けた時 同行した記者の話し 大蔵省 渡辺美智男大臣相手に 林田氏は 『大臣 ご存知のように 京都は今迄 ろくろくお金を貰ってませんから 宜しく』と極めて直截的な話しをしたら 大臣は『はいはい 判ってます』と言われたそうだ 後 府道が見違える程 他府県並に良くなったという。 しがらみを切る もとから考える 人間関係を切る 何か世を拗ねている人の言う事の様に聞こえるのだ。
2024.06.03
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自宅・仕事場への 行き帰り その場所の前と裏の道路 通り過ぎるだけの何の関係も 因縁も無い場所だが 不思議を感じる場所が有る。 寺町丸太町下がる 下御霊神社 非業の死を解けた六神を神と祀り 霊を慰める爲に建てられたという。秀吉の命で今の場所に移ったそうだ。 柳居子が不思議に思うのは、建物の老朽化 人気の秘境廃墟跡 探検シリーズに出てくる様な 瓦屋根が崩れ落ちそうな建物や 外塀にも雨漏り除けのシートが被せて有る 神社の最重要建物と思われる本殿が 瓦屋根の上に トタン板が全面に被せてあり 大凡 神社の威厳と言うのを感じない。 又本殿に至る表参道の直ぐ傍に ゴミ焼却炉が二基設置され その後ろには 移動式のトイレが置いてあったり 不思議な神社なのだ。 現世利益に向かび付く事の無い 御霊社だが 営業科目を高らかに掲げてある 「病気平癒 地鎮祭 厄除け 家内安全 七五三。・・・・・・」この神社の神官にこれらを頼む人てるのだろうか 又 政・教 分離が原則と思われる 特定の支持政党のポスターが常時の様に貼ってある。雨漏り防止のシートが 長年の労役に草臥れて 穴だらけになっている どの様な人が神官なのかは知らナスが おそらく神官だけで飯を食っているとは思えない 神社と言うのが 何なのかという 最も基本的な常識を考えられたら良いと思うのだ、荒廃には 何等かの理由が有るのだと思うのだが、木造建築物は絶えず手を入れていないと 有る限界を超えると 補修が出来なくなると思うのだ氏子どころか住む人も居なくなった廃墟跡の神社では無い、京都の町のど真ん中 京都御所 御苑の東南端から 歩いて一・二分の場所に在る 過っては皇族の 産ぶす神として崇められ 零元天皇の行幸も有ったという。 場所負け 歴史負けせずに 頑張って貰いたい。
2024.06.02
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先日お越しの客人との会話は、卒業した小学校が 統廃合で残ったのは良いのだが、「御所南」という軽いノリの校名になったと言われた事から 話しが始まった。 少子化の影響がおおきいのだが 就学児童の減少は、大勢の子供が押し寄せた時代其の侭 学校が存続する事は出来ない。世の流の中で統廃合は致し方の無い事だが、存続する学校と 廃校になる学校との 其々の学区民の思いは 複雑なものかも知れない。 柳居子の母校は『市立柳池中学校』 戦前は番組小学校から柳池小学校と名乗りを改めた。公立小学校の嚆矢で 鳩居堂 熊谷さんが 私塾「有信堂」を明治の学制制定に合わせて 直ぐに市に寄付された事から 日本最初の公立小学校になった。柳居子が通っていた頃は 学制を布いた槙村正直知事の『柳池校』の 扁額が正門の上に掲げられていた。存続校名を其の侭残して使ったら 廃校学区から反対の声が上がると判断したのだろうか 新校名を掲げる事になったのだが、百年 百五十年 慣れ親しんだ校名が あっさりと公募をした結果一番数の多かった名前をあっさりと付けた。 新校名公募の情報も届かなかったし 何人の人が公募に応じたのも判らない最初から改名を前提とした公募の校名は 誰もが思いつく 所在地を表わす校名ばかり 『御所南』『京都御池』『高倉』 洛中の真ん中に位置するから『洛央』新築のマンションの名乗と間違える様な校名が罷り通っている。母校の歴史 自慢を語る時 改名前はと 一言断りを言わねばならないのは煩わしい。
2024.06.01
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京都の町から一歩も出ず 井の中の蛙だった柳居子を、東京へ呼んで頂き、拙い話し乍 五回も京語りをする機会を作って頂いた 松井孝治さんには感謝している。 中学校を卒業して直ぐに理容の道に入って、自分より年上は皆師と考え 聞いた話し 見た事 読んだ物 そして考えた事だけが 典拠の話しだったから よく五回も続いたと思っている。 二回目からは、必ずゲストを連れて行く事と決め サポーターの話しも面白かった。 柳居子は 喋るだけで精一杯 質問が出たら狼狽える事が判っていたから 質問の出ない話題選びをさせて貰った。京語りの会 色々とサポートして頂いた 飯島健さんにも感謝している。 五回東京で喋る機会を頂いて 一番今も有り難いと思う事は、 東京で柳居子の話しを聞いて頂いた人達が、京都にお越しになると必ず 朝の珈琲屋の柳居子の席の隣りに座る人が何人も出来た事である、井の中の蛙 少し外を覗き見出来る様なお話を 色々と聞かせて頂いている。この歳になっても 色々な人と繋がりが出来る事は、有り難い事だと感謝している。
2024.05.31
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客のニーズに合わすと言うのが、商いの大鉄則と思うのだが、客のニーズを創り出すのも 当世風かと思う事がある。 仕事帰り 食品スーパーへ立ち寄る事が多いのだが 御惣菜と言って買って直ぐに食べられる『おかず』というのは、今も昔も変わりないのだが、田や畑で採って泥を落としただけの料理の原材料としての食材と、調理直前まで下処理を施した食品材料の進化には驚く。 半加工の食材の並ぶスペースの方が大きい店が有る。 『洗わなくても生で食べられます。』の表示 南瓜等の固い皮に難儀する物は 口に入る大きさにカットしてあるのも有る。幾つかの野菜をミックスして『炒め用ミックス野菜』 と言うのも有る。 野菜に限らず 魚にも加工の施されているのが有る 食べやすく骨抜き加工が施されています。聴いた話では ノルウェー沖で採れた鯖 一旦中国に送り中国で骨抜き処理をした後 日本に届くと言う。 野菜や魚の下処理食材が 商品として店頭に並びだしたのは左程古い話では無い。 何が一番変ったのかと言うと 先ず 所帯を構成する人数が小さくなった 独居ま多い 昔の大家族 又住込み店員が居た頃は 大量の食材調達が当たり前だったが 所帯人口が減ると売り上げが伸びない 買う側の立場でも使いきれない量を買うと 結局冷蔵庫で腐らす様な事仁る 売れない 沢山要らない 双方の思惑が一致して下処理加工食材の登場となったのだろう。所帯構成数が減ったという証しは 料理番組 何人分と言うのが昔は四人分 今は二人分で番組が作られている、まな板包丁が無くても料理は作れるという人も居る。 家庭料理を作るという技術については 進化と言うより退化では無いかと柳居子は思う。以前記事に載せた 食品包装材の進化も関連の大きな話である
2024.05.30
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八十路に手が届くという柳居子が、一人で営業する事には、自ずから限界を感じる事がある。 昨日も整形外科の定期検診と投薬を朝一番に済ませての営業開始 遠来の客人が四人続き 日本人の一見さんと続いた、 昼食が三時半 食事をする控えのスペースが無いから 客人が入って来ると食事の中断は良く有る。親子連れの常連さん お父さんを刈り終った時 散髪待ちの息子さんに次いで 外人さん髭面が入って来た。息子さんの頭刈り終るのは午後六時を過ぎるだろと思うと 一気に疲れが押し寄せてきた。入って来た客人に拙い英語で『私は79歳 今日は 疲れたから この人が最後の御客さん 申し訳ない』とお詫びのポーズをとると 『判った 判った』と笑顔で答えてくれて帰ってくれた。 何故 折角ここまで来たのに断られるのか? 一寸した言葉を交わすだけで 納得してもらえる。以前も『私は仕事をさせて貰いたいのだが 指先と手が疲れたと言って 私の命令を聞いて庫裡内』と云ったら 笑いながら帰って貰った事も有った。 昨日来店の遠来 日本語の判らない客人 二人が 入って来て直ぐスマホの画面 日本語表示を見せてくれた。『私の髪の毛と髭 全て貴方におまかせします。』と打ち込んで有った。 全て任すと言うのもプレッシャーを感じるのだ。客人全てが 満足して帰っていくのでは無いと思うが、仕事をこれから開始という状況で 全てを任すと言うのは 有り難い言葉である。
2024.05.29
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昔は良かったという話しをする人が、客人の中にも居られる。昔を知る人と言うのは 当然の事ながら 人生経験豊かなお年寄りである。 概ね 若かった時の嫌な想い出と言うのは、忘れる事が出来る様に人間の頭は出来ている様で、懐かしく想いだすと云うのは愉しい良い想い出が多い様だ。 其れでも 同じ町内 二軒挟んで隣の表具屋さんの先代 昔 戦争でインパール作戦に従軍 文字通り九死に一生を得て帰還された 九人の戦友が死んで自分だけが生き残ったという人に、色々とインパール作戦の事等 興味の赴くまま尋ねていたら ある日『もう昔の話しは止めてんか。』と言われた。過酷な戦場での苦しい思いで話は、思い出したくない 頭から消し去りたいという意識が働く様だ。 語り部と呼ばれる人が居るが 実体験をした人が思い出したく無いと口を塞いでいるのだから 起こった事象を傍で見ていたとか 又 語り継ぐ人はその人の脚色も入る事だろう。語り継ぐ事の出来る話しとして聴くべしと思うのだ、 父 柳居は。陸軍砲兵だったが。終戦直前は。船舶砲兵として 陸軍海軍の様な立場で、船に乗っていた。 原隊は広島県宇品に在って 原爆投下の勅語 救援の派遣動員が下り、投下直後の広島の町を具に見たと思うに 広島の話しは一度もしなかった。 金鵄勲章受章の中支の戦線の話しは 耳に胼胝が出来る程 聞かされたというに 忘れ去る事に努力の要る辛い想い出も有るのだろう。昔は良かったと云う御仁 今の若い人は気の毒と言う人には、今がスタートの人には 昔の方が良かったと言っても 詮無い事 今の良い事を我々の世代は判らないだけですよ、憎まれ口を叩いておく。 ・・・
2024.05.28
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面白い日曜日だった。 お出掛けコースの概要は、朝の珈琲屋から始まって祇園切り通しの進々堂での お茶屋の女将大女将連中といつも通りの会話 終わって 高島屋で開催中の院展にて 絵画観賞 出展の板倉画伯直々に招待券を届けられたら 絶対行かねば義理が果たせない。四条 えり善へ立ち寄って一旦店に戻り 直ぐ大津市民会館で開催の 大津管弦楽団の定期演奏会に出掛ける。開演一分前に最前列に到着 今回は招待状は頂いて無かったが 出演の大菅さんの舞台姿確認 相手も柳居士の姿確認 其れでほぼ用済み 帰路 上栄町で下車 ここ数年お目に掛っていない 願海寺ご住職 廣瀬卓爾師をお訪ねした。 時々新聞紙上やテレビで お元気にご活躍の事を知っていたが 柳居子の元気も伝えねばと出掛けた次第。 最初 細君が出てきて、突然の訪問者に怪訝な顏をしていたが ご本人が『誰や』と出てきて其の態度で安心され 又 手土産替わりにと 手作り柚子味噌を差上げると感激の態 お返しにしては貧弱ですがという顔をして 袋から外した豆を沢山頂いた。 店に戻って ご近所のお年寄りのご機嫌伺い二軒 帰宅は午後七時を過ぎていた、何が面白かったかと言うと 祇園町のお茶屋の女将 大女将達との向かい合っての鼎談 話題は 何かの弾みで 臨死体験や 親族の看取りの体験談が 次から次に出てくる。 八十路を越えた女将さんが 若かった時 病み伏して寝ていた時 周囲真っ暗の中で 向こうの方に 明るい光が点っていた 灯りの方に行こうとすると 母親の声が何度も聞こえたので そちらの方へ顔を向けると眼が覚めたという。 又その様な状態になったら 貴女の名前を必死に呼びかけてくれる人を作っておかんと、あきませんなぁと 言っておいた。 大津管弦楽団の第145回定期演奏会の出し物は、チャイコフスキーの交響曲 第六番ロ単調 『悲愴』四つの楽章 作品紹介の司会者の話しでは、チャイコフスキーが亡くなる九日前が初演だったそうだ。 交響曲の最終章は、概ね 大団円の雰囲気となるが 死期を予知していたのか 最終章は静かなる幕切れと説明され その様に聞き留めた。 願海寺では、廣瀬卓爾師より 僧侶たちの戦争 NHK心の時代に出演のCDや 訴える戦争資料を沢山頂いた。 死に行く人への僧侶としての立場とか 宗としての本分 という 難しそうな連載のコピーを頂いた。 臨死とか 見取とか 死の予知 戦争に駆り出されて心ならすも無くなった人の話し こういう話題が一日の内重なる事は無かった 不思議な日曜日だった、余談だが 上栄町の駅のホームで 取り残されたリュックを見つけた。交番 派出所を見つけるのに時間が掛った。
2024.05.27
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柳居子の店は、二階に在る。 狭い階段を登ってお越しになる客人は、お年を召されると 敬遠 若しくは柳居子がご自宅まで 散髪に出掛ける事になる。 未だ階段昇降の限界年齢には遠いが、若者でも無い寝具会社の社長さん ご贔屓頂いているのだが、昨日午後お越しのタイミングは、これから一人散髪と顔剃りに取り掛かるという場面『まるまる 此方さんの仕事終わるのを待って頂く事になりますが?』と声掛けると 『三・四十分経ったら、又 覗くと言って階段を降りて行かれた。 三十分後と思いながら 手際よく仕事を進めていると、次々と二人客人が入って来て客待ちの椅子に座られた。内一人は真っ黒な肌 縮れ毛の態変な髪この髪の毛のカットは 時間が啜るなぁ 等と考えている内 三十分後に 件の社長が戻って来られた。 其の時間予約を受けている訳では無いし ご本人も其れはよく判っておられる。『うわっ』と一声発して『又 出直す』と仰って階段 又降りて行かれた。連珠毛と云って 源アフリカ黒人の縮れ毛では無いが、伸びきった髪の毛は。ピンポン玉を幾つも頭にぶら下げている様な感じの髪質 漉き鋏で 短く切り落したら 綺麗に納まると判断して 『私に任すか?』『おまかせします。』の言質を取って 漉き鋏で切倒した カット前の頭に乗っていた髪の毛総量が 三分の一量になり 画策していた通り 綺麗な天然パーマを掛けたように綺麗に納まった。長く伸びきった髭も 綺麗に剃り落した。『何処から来たのか?』と尋ねたら『フランスから来ました。』と言っていた。 午前中も二人遠来の客人が居たから 昨日は三人御迎えした。昼食も遅くなり 今日も結構な日だったなあ 都クルクル回る営業中の広告看板の電源を切りに下に降りてた時 二度階段を登って降りた人が 前を通り掛かった。近所の整体サロンに出掛けての帰りと言う 「三度目の正直で もう一度階段の昇り降りされませんか」と声掛けた 『もう営業終了でしょ。』と仰る 休み明け 最初の営業日の売上に計上します』とは言わなかったが 『二度も無駄足運んで頂いたから どうぞどうぞと招じ上げて 何時も通りの散髪を終えた。営業時間外の散髪を 申し訳ないと思われたのか 請求額の余分 五千円札一枚出して 釣りは要らないのポーズを取って 三度めの階段を降りて行かれた。此方の都合で 三度も昇り降りを煩わせたお詫びに、作り置いた『柚子味噌』をあ届けしようと思っている。
2024.05.26
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昨夜は、久し振りのカラオケのお誘いが有り 二時間程唄いまくった。御一緒した人は 柳居子より少し上 ほぼ同年代。 古いド演歌が良かろうと、何を唄うか頭巡らせている内 作曲家船村徹の作品リストのサイトを見て、柳居子が唄えそうな曲 十曲余りを準備した。 選び出した曲を披露 唄いながら 歌詞内容が今の時代と余りに掛け離れている事に気付くと同時に これ等の曲を作詞した人の事も考えた。 歌は世に連れ 世は歌につれと言うが 歌詞内容その意味も 今の若い人には絶対判らないだろうなと思う曲も幾つか有った。 高野公男作詞『別れの一本杉』歌唱春日八郎 相愛同士 別れのシーンとその後 泣けた 泣けた 堪えきれずに泣けたと唄い出し 山のカケスも泣いている。 東京に着いたら必ず便りをおくれと泣いた別離の相手の頬が赤かった ひたすら自分が帰るのを待ち続けている彼女 幾つになったかな? とうに二十歳は過ぎているだろうという 歌詞内容・スマホはおろか 携帯も無かった時代 東京へ行くのは集団就職か 田舎に居ても仕事は無く 東京に出掛ける事が必須とされていて時代 三十振袖とか 結婚適齢期という言葉が罷り通っていた時代の歌詞 作詞作曲家は、曲が売れての評価 聴き手に迎合するのではないが 大勢の人の心情を汲み取る事は大事 こういう曲がヒット 唄い継がれていく事に意味が有る 其々の時代の空気雰囲気の 伝道者として。
2024.05.25
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睡眠のスタイルが大きく変わってきた。 若い時と比べてと言うより 加齢による必然性の様な事と考える。 若かった時代、 誰もが散髪刈りたてで無いと、お正月が迎えられないと思って居た頃は。徹夜仕事が当たり前の様に年末を過ごしていた。 八時間の睡眠が必要と考える様な同業者は、一人も居なかったと思う。 又 麻雀の徹夜も度々有ったが 翌朝 ほんの少しの仮眠で、平常通り仕事をする事が出来たのだが、今は来客待ちの椅子で ウツラウツラして、隣に座った客人に 『ぼちぼち起きて 散髪してんか』と膝を叩かれる事も有る。 仕事終わって 電動アシストは有るが三輪自転車に乗って 二十数分かかる上り坂を自宅に向かう。道すがら 家に帰ったら 本の整理とか 陽が残っていたら 庭の雑草挽き 帰ってからの用事を色々と考えるのだが 自宅に帰りついた途端 ベッドに横になりたくなって アッと言う間に深い眠りに堕ちてしまう、 年取ってからの睡眠の特徴は、長時間寝続けるのも 苦痛になって来る。丑三つ時に起きだして 持ち帰って仕事用のタオルの洗濯や お弁当のおかず作りとか ブログ記事の草稿を書いたり 深夜の庭の雑草曳きは出来ない。 前夜の夕食と朝食兼ねて 午前三時台に トーストパン二枚 食べて 店に出掛ける準備が出来たら 又ベッドに戻り一眠り 今の季節 夜明けが早い 午前五時には 完全に夜が明けている 自転車のライトは点けずら店に向かう。 睡眠時間が、足りているか どうかは判らない。しかし 眠くなれば眠るという基本は 何も変わっては居ない。眠剤は今迄飲んだ事が無い。何れはベッドの上で 二十四時間過ごすので有ろうと思うから 当面今のスタイルを変える心算は無い。
2024.05.24
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水曜日は 朝の珈琲屋の常連席が、何時も超満員になる。皆が其々思いおもいの話しをする。 円卓の真向かい同士 卓上の花を挟んでの会話は 当然の事ながら声が大きくなる。 共通の話題に興じる事も有れば 隣同士のヒソヒソ話もある。自分だけが良い話をするから聞けという手合いも有れば 他人の話し聞く一方の人も居る。 柳居子は、浅学菲才の身ゆえに 付いて行けない話題も多く 聞いている様な、聞いていない様な 判った様な判らない様な顔をして、 一人滔々とまくしたてる人がいると ふいと話題を方向転換して他の人にも判る話題に 振り向けると言う様な役どころ大きな円卓の席は 八人が据われるように席が準備されているが、昨日水曜日は椅子が足らず 他の卓の椅子を調達する。珈琲を飲んで直ぐに帰る客はいないから 卓とか席の顧客回転率は左程高くは無い。又朝食を食べる観光客では無いから 一客あたりの売上も 割引回数券を使う客ばかり 席の余りの盛り上がりに 他の卓に座る客から 不思議の目で見られる事も有る、『やぁ』とか『お早う』の一声で 空席待ちの長蛇の列追い抜いて まるで指定席の様に座る人の中には 『御免やす』と突然訪ねても 逢って貰えない様な大層な人も居る 珈琲を挟んでのコミュニティ 全国的に見ても数少ないのではなかろうか。昨日は 現役のお医者さん二人 ニューヨークのオペラ上演ハウスの話しとか、現役のパソコン修理の大権威八十二歳 まだ若い現役の日本画家高島屋の院展に自作も出展するからと ポスターと招待券を以って来ていた 現役の祇園町の町内会長 大学教授もこの席では新参 小柄な人だが小さく構えている 現役の様な顔をして 次の誕生日は八十路の床屋 現役と言うより 現職の市長も柳居子の隣りに座った。
2024.05.23
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昨日 テキサスからやって来た夫婦連れ 店に入って来た時 日本人の御常連の仕事をしていた。 少し待って頂く事になりますがと英語で断りを言う。眼の前の客人の仕事はほぼ終わり掛けていた。六フィートに余る髭面の男性は『少しも急ぎません ゆっくり待たせて頂きます。』 と、それは流暢な日本語が帰って来た。 仕事中の客人と思わず顔を見合す。 『只者ではないね』と言うから 『その言葉も理解しているかも知れませんよ』 先に仕事の終わった客人は 待っていた偉丈夫に『お待たせしました お先に失礼』と 本来柳居子が言うべき事を云って帰られた。 年の頃 何歳か判らぬが柳居子よりは若いはず 仕事に取り掛かる前に 先ず ご亭主の散髪・顔剃りを所在なく待ち続ける 奥さんに『お待たせ御免飴』を一つ差し出す。飴玉一つの効果は大きい。 散髪する毛は薄いのだが 散髪をする頭の表面積が日本人の平均の倍ほど有る。当然 顔剃りも然り 時間がかかる。 日本語が上手の理由を聞こうと思ったが 椅子に座ると 直ぐに居眠りを始めた 信頼されている証だとおもった。ツルツルに橇がった顏を 奥さんを傍に呼んで撫ぜて貰う、髭剃夫婦共通体験は好評である。『私には 生涯一度の髭剃り体験でした』いつも仕事終わって柳居子の言う ユァー ライフタイム ワンス オンリーを日本語で客人の方から言われた。偶然前を通り掛かってのご来店 テキサスからですと仰ったが 日本の京都に好印象を与えたと ほんの少し誇らしく思ったのと同時に 日本語が通用するのは米本土の 西と東だけと思って居た認識を大きく変える人だつた。 四千円の請求に 五千円札一枚握らされ 握手を求められた。
2024.05.22
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江戸時代の身分序列を『士・農・工・商』と学んだ。武士が世を平定して、序列が動かないというのは、争いの無い時代 見方によっては平和な時代という捉え方も出来るだろう。 東京で京都の事を話す機会を頂いた時、 この『士・農・工・商』は、京都以外では 普遍的に通用したが 京都は 「士」の代わりに『皇』があり「農」の代わりに『仏』が有り 「工・商」も決して身分序列の下位と言う訳では無く 工・商の影響力の大きさは 他都市の比では無いという話しをした。 工を一つ取り上げても、権力者所司代の仕事は 自分達の身分安定に繋がる事ばかり 大きなプロジェクトの 本来 政(まつりごと)を託された人たちは 許可を与える権限だけを行使して アイデアは 工や商が握っていたと思われる。本サイトでも何度か採り上げている『角倉了以』京都の人の間では 高瀬川開鑿で 有名な人だが、大仏の建立で資財運搬に造った水路を 二条迄延伸を自費で実現させ 其の運搬・渡船料を独占するという権益は 明治時代迄続いたという。 柳居子思うに 角倉了以の 京都に於ける一番の功績は、桂川上流 保津峡の運搬水路の整備・開鑿だと思う。 保津峡が開かれた事で 筏を汲んで丹波の用材が京都に届く様になった。 建築資材の運搬。移動は 川の流れを使う事が多い 角倉以前の京都は、建築用材の調達を 鴨川の上流『木野』 と呼ばれる辺りの材を使っていたが 乱伐の影響で 保水量が弱まり 度々京都の町を水浸しにした。平安時代 坊鴨使(ぼうかし)という名の職分 鴨川が氾濫した時の対応をする役が有った。臨時職で兼任が多かったが 角倉の時代になってからは。 坊鴨使の職名は文献には出て来なくなった。 毎日、毎朝 鴨の流を見て 仕事場に向かうが、都が出来る前から 我々の営みと共に有った鴨川 一日たりとも 水の流れぬ日は無かったと思うと 自然と云う物の偉大を感じるのだ。角倉の余談だが 高瀬川開鑿の時 木屋町三条下がる辺りで 秀吉の命で妻妾子供も含めて非業の死を遂げた 豊臣秀次親族の処刑の遺構が見つかり 了以の発願で 一寺を建立された 慈舟山瑞泉寺という。
2024.05.21
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遠くから来た懐かしい人 昨年 生きるか死ぬかの大病を患い 九死に一生を得てある程度回復して 活躍の場 アメリカから わざわざ日本に来て 京都に泊まり 柳居子の店を尋ねてきてくれたのだ。二十年程前に始めてお目に掛り 花街のドキュメンタリー映画を作る目的で 日本の京都にやって来た。 柳居子き 全面的に応援する事になった・ 彼女は 宮崎県都城出身で 全米俳優協会に所属していた女優さんで、ハリウッド映画に出演も有る 芸・舞妓の役どころを演じている内 アメリカ始め諸外国では ゲイシャガールは、売春婦という誤った認識を、日本古来の文化を伝える担い手であることを 映画作りに走らせたのだ。 意気に感じて柳居子も 出来る範囲のお手伝いをした。 文化庁長官だった河合隼雄氏に手紙を書いたり 宝が池国際会議場管長を介して外務省への働き掛けとか 花街の全面協力をお願いしたり お茶屋の宴席シーンに出演する人を定めたり 出来上がった映画は 作り事や演出の無い 文字通りの ノンフィクション 花街の有り姿の侭 御もてなし゛文化の最高峰の紹介と位置付けられる一作となった。 東京での初公開 上映の時 友人の川本卓史さんが映画を見に行ってくれた。『柳居子さんに見に行く様にと言われて参りました』と云ったら『あの人が居なかったら出来て無かった映画です』と、云う様な役割を果たした様だ。彼女は昨年 くも膜下出血をお越し 母親も同じ死因だった事もあり 覚悟を決めたが 生き残る事が出来たという、映画を作っていた時は ヨチヨチ歩きだった息子が 飛び級だが大学を卒業の歳となった。息子の散髪を済ませ 映画作りで 世話になった 新橋のお茶屋の大女将に逢いたいと言うから 片目失明の後遺症の身を案じて 柳居子がしっかりは手を以って支え歩き アベック歩きをした。 私は貴女を支えている心算だが 人の見る眼は 親切な綺麗な女性が 柳居子さんが転ばぬ様に手を繋いで歩いてあげていると見えるだろうな。 片目失ったが 元気で 逢えた事が 嬉しい事だった。
2024.05.20
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会話と云うのは難しい。幾つになっても。言う事 聞く事 双方の思惑が 完全に一致する事等無いだろう。先日お越しの同世代の客人との会話 『最近 耳が遠くなって、こちらが喋る事は問題ないのだが 相手の喋る事が聞きづらい事が有ります。 相手の言う事判らずに会話が成り立っているとは思えませんね。』という話しから始まった。」『同じ世代同士だと、受けた教育 その後の社会背景も似通っているし 相手の言う事 共感する事も多いから 気遣いなく何でも喋れるのだが 若い人相手だと疲れるね。』と仰つたから『私も思う事ですが、そもそも若い人と共通の話題なんて見つからないし 同じことを伝えるのも言葉選びをしなくてはならないから つい声掛けする事も無くなってくる様です』 『固有名詞を使わなくなって これ・あれ・それ・どれ こそあど言葉という代名詞だけで 家庭内では会話が成立する様になると、どうしても語りが 偏って来る 呆けの原因にもなりますね、』柳居子が゜常思って居る事を言うと、『嫁さんとの会話等 その こ・そ・あ・どだけで成り立っているよ 尤も声掛けする事も少なくなっているが』と仰るから 『以心伝心 お互いが判りあっているという証しですよ。』と言うと 『あんた上手にいうね』 と褒められた様な 呆れた様な顔をされた。 柳居子の場合 未だ毎日 かなりの数の人と こ・そ・あ・ど で通じない会話をしているから 新しく知る事も有るのだが、会話の中で 淀みなく会話内容を補完したり 理解していますよという言葉が 即座に出て来なくなった。 ああ言えば良かったとは こういう意味も有りますね 後で幾ら悔やんでも 流れの中で出て来なかったら 知らないのと同じ そういう事が増えてきた。海外からの客人を数多く迎える様になって、特に感じる事は、会話の重要性である。SNS情報を頼りに来たとは言え 相手が如何云う事を考えているかは判らない 相手の不安を和らげ この店に来て良かったと思わすのは 自働翻訳機の助けを借りても 話しかける事だと考える様になった。
2024.05.19
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先日 奥さんと思しき女性を伴った日本語の判らない客人は、韓国からお越しだった。 店に入って来るなり 予め打ち込んだスマホの画面 日本語文を見せられた。『五か月前 このお店に来たのですが、カード決済が出来ず 妻と二人で 四千円の請求に二千七百円しか有りませんでした。マネーチェンジをするのに時間も無く 如何しようと思ったら 貴方は ディスカウントはしないが。又日本に来る機会が有れば その時払って貰ったら良いよ 利息は取らないと仰いました。千三百円 絶対お払いに行かねばと思いつつ 今日やっと来る事が出来ました』という文だった。五か月前に その様な事 有ったかなとおぼろげな記憶 会話の中で留学生と判れば学生証見せて貰って 学割 学割 と言うと喜ぶし、金が足りないと言われ 有金だけで良いと言うと、仕事の安売り矜持が許さない。 逆に 髭の滅法濃い客人には『日本人の顔剃りより二倍の時間が掛った』と言うと 殆どが チップを置いて握手を求められる。基準となる料金は決まっているのだが 頭刈る人 髭剃る人 千差万別 基準を設ける事が難しいと思うのだ。 千三百円にプレッシャーを感じた 客人は 二度目の顔剃りの費用四千円+千三百円 合計五千三百円を恭しく手渡してくれた。五月になってから 既に三十二人 海を越えて 日本の京都の二階に在る腰の曲がった爺さんの元に朱印帳にメッセージを書きにやって来る。仕事を介しては有るが おもてなし親善大使の役も果たしていると思う
2024.05.18
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ブログ記事プリント版を差上げる時、『内容はともかく 忘れていた漢字 これ見て思い出して下さい』と、言って手渡す。漢字の多い少し長めの文は、今の時代受け入れられない。『わっ 漢字多い 長い。』それだけでスルーする人も多いと思うし ある意味炎上除けになっているし思う。随分思い切った事も書いていると思うが 長文読むのが煩わしい人の眼には止まらない 本当に読んで頂く人だけのサイトである。 漢字好きは、子供の頃の 母の漢字の書き取り 篇・つくりだけか出題 其れに上下・前後を書き加えて漢字一字を作る 学習をゲーム感覚で繰り返したから 小学校高学年になった頃には しっかりと漢字を使いこなしていたし 読書好きにもなっていった。 後年 漢字学者の 『白川静』先生の講演を度々聴く事になって 漢字は日本人として残さねばならない文化と考える様になった。新聞紙面の 本来なら漢字表記が相応しいと思うの二 平仮名表記が気になってしまう。 読者に判り易くと言うのなら 読者の漢字識別能力のレベル 下降線のお手伝いだと思う 昔の新聞には漢字の横に「ふりがな」が付いていた。 日本人の識字率に大きく貢献したと思う。明治五年生まれの祖父は ろくろく学校にも行かなかったが 流麗な文を書いていた。 漢字は 中国から入って来た字が多いのだが 日本で作られた字も有る。母が教えてくれた字 『峠』 山に登り詰めて下り坂にさしかかったところ 山に上下つけて『とうけ』と読むのよ、と教えられたのは もう七十年近く前の事である 架蔵の一冊 国字の事が書いてある 身を美しくで『躾』しつけ 身が柔らかく直ぐに腐る魚『鰯』いわし 交差点十字路高に『辻』つじ 車の横に雪を添えて『艝』そり 他にも国事字は 沢山有る別に知って得する事は何も無いが 知っているという優越感だけは味わう事が出来る。
2024.05.17
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直接 お目に掛った記憶が無いのだが、親しくしい頂いている書家 Yayoi Inagaki さんの 父君が亡くなった事を 彼女のF・掲載B記事で知る。 書家としてご活躍の娘さんに、ご無理を言って 柳居子自作のちりめん山椒のラベル『くもり』の揮毫をお願したり 彼女の個展の会場の手配のお手伝いをしたり 今も親しくしている。先日も柚子味噌差上げたら また柚子味噌に名前が付いたら ラベルの字を書きますと連絡が有った。何世代居られるのか? 亡きなった父君は九十七歳 多分四世代の家族の営みをフェイスブックに載せておられるので 和やかな家族関係を常々知ることができた。訃を知って ふと以前 故人にお貸しした写真集 『昭和の京都』の返却の時 お礼の書きつけが挟んで有った事を想いだし 確認すると゜『昭和二年生まれの私には、どれもこれも 昔懐かしい写真ばかりで トロリーバスや北野のチンチン電車・・・・本当に有り難う御座いました』 と 認めて有った。後半生 仏像彫刻に没頭され 素人の趣味領域を遥かに超えた腕前だったと聞く 自分の作った仏像に見送られた 遷化されたのだ。 ご冥福を祈る 合掌
2024.05.16
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いよいよ 世間の第一線から 縁遠く取り残されているなぁと思う事の一つに 肩書きのカタカナ表記がある。 柳居子は、長年名刺を持った事が無い、 そもそも名刺を渡して覚えて頂くという職域では無いし 昔は葬式の香典に添えて渡すだけの名刺を使っていたが 今は其れも無い。 頂く名刺は結構沢山有るのだが、名刺代わりと常に携行のブログプリント版を差上げる様にしている。職業も書いてあるし 何より読んで貰えたら 一枚の名刺以上に 判って貰えると思うのだ 頂いた名刺の肩書き 何をなさっているのか 判らない事が多い。 昨日頂いた名刺にも 『モバイルソリューション事業部 決済&新規ソフト事業カテゴリーSE課』と書いてあった。『何をされているのですか?』と聞く事も出来たが 聞いて判らなかったら余計恥を搔くと控えた。お住まいの近くの神社の古事・由来の話しに切り替える事が出来た。最近七十歳半ばで。職を得た友人の名刺には『シニアアドバイザー』という肩書き 直訳して 『年寄の ご意見番か?』と尋ねたら 『何をすれば良いのか 自分でも判らない肩書きです』と言っていた。判らない事 出来なくなった事を 恥とも思わなくなったのは加齢の開き直りと言う事だろう。 仕事内容も 昔覚えた昔風しか出来ないが 其れで良いと思って居る 柳居子の職業感覚では 昔 虎刈りと言って 刈上げ部位と上の髪に段差が極端に有ったのは駄目が出たが 今は段カットと言って主流になっている。時々やって来る最新流行の髪型の若者には 最初から両手上げて降参する 出来もしない仕事引き受けて後から不興かうより 最初から降参の方が奥床しいと思うようになったのだ 肩書 カタカナ表記の名刺も 最初から降参して受け取る。
2024.05.15
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昨日 朝一番にお越しの客人との会話は、上目線 下目線 右往左往と言うのか 次から次に飛び交う様な話しを交した。 散髪の椅子に座るなり 開口一番 『七十八歳最後の日の散髪 明日から七十九歳 柳居子さんと暫く同じ年になります。 仕事の質に対する評価の基準の話しが出た。 学問の世界に身を置く人 現役である、学者の仕事の内容評価と言うのが 替わって来ているらしい。学生を相手の講義とか 会議。会談は仕事として評価されるが 思索を巡らすという 体や手足を動かさない時は 居眠り扱いになりかねないと言う。『只今 大事か事を 思索中という看板を作る訳にもいきませんね。』と言うと、『現実 現場の問題ですという返事。』 『その点 床屋は結構な仕事ですが、客の来るのを待ち続けるのは 売り上げに繋がらないから 其れでも店内の掃除や 鋏・刃物を研いだり手入れも仕事の内 使ったタオル類の洗濯も大事な仕事です』と言っておいた。 仕事と云えば 御池堺町で 事故を起こしたノーベル賞受賞者が、受章を受けた時の 研究室の写真を見て。日本人のスタッフが居なかった事に驚いた。国際的に活躍の証しと思いましたが、あの写真 自分の思い通り人を使えるということですなぁ 母国から派遣の研究者は 其々の国が大きく支援している人達 国に帰れば日本のノーベル賞受賞者の元で研究をしたと言う はくが付くのだと思う。 其れと あのノーベル賞学者 今迄ノーベル賞学者と言うのは国の誉れ ある意味神様扱いだったのが 起こした交通事故 製薬会社との訴訟沙汰 我々一般人と何も変わらない 一個の人間という認識を多くの日本人に植え付けたという功績も有りますね。 日本人の ノーベル賞受賞者に対する意識は 最初の受賞者 湯川秀樹博士が受章された時の 時代背景 国が敗れても意気軒昂 国民を奮い立たせる神様扱いが 其の侭 続いていた様に思われますね と言う様な会話の遣り取り話題が 急展開 『姉小路河原町西の 鳥料理店は昔から在りましたか? 訪ねられた 『あの店は古いですよ』『家内がよく出掛けた店は鳥料理店では無かったと 言ってます。』『鳥初という店と河原町との間には『飛雲』という中華料理屋さんが在りましたョ。』この店で食事中 放映のテレビを見ていて 王貞治選手が べーぶルースのホームラン記録を抜いたとか言う中継放送を尾根いだした。 一日の仕事終えて 帰宅準備 前日作った柚子味噌が一つ余っていた。七十八歳最後の散髪をした人 帰宅経路沿い 一日早い誕生日祝い 『私が作ったというだけが拘りです。 細君も出てきて 想い出の店は 飛雲だって事も判り 飛雲の秘め事も話しした、旦那さんは どこかの大学の学長さんをされていると聞いている。
2024.05.14
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昨日は、母の日だった、 母の生前 特別 親不孝を掛けた事も無かったと思うし 親孝行をしたと言う思い出も無い。 父 柳居が店を始めたのは、未だ柳居子が。小学校に通っていた頃 開店直後の繁忙もあって 母の日 子供の日 クリスマスも余り関係の無い常の日の感覚だったし 特別プレゼント 花を贈ると言うのも一度もなかった。 母の日に因んで 母の事を想いだして 少し書いてみる。母は 堀川高等女学校を出て 知恩院前に在った華頂幼稚園の保母をしていた。富小路五条さがる西側のお寺の住職 塩釜義宣さんが園長さん 片目が潰れていて『片目の義宣さん』と本人の前以外では そう呼んでいたと言っていた。 預かった子供の中では 祇園町で酒屋を開いている『蝿庭』という姓が珍しいから 覚えていると言っていた。保母から戦中 軍需工場に通った時期もあったが 生家の理髪店の職人だった父と結婚して 散髪屋の嫁さんらなった。大勢の住込み店員を抱え 苦労の多い人だったと思う。母の日に思い出した話の一つ 誰もが吃驚した事があった。 娘が小学校に上がった時か エレクトーンと言うのを買い与えた、或る日家にやって来た母が エレクトーンを 興味府陰に眺めていた。『これは ピアノバージョンにもなるのだよ』とピアノ音を鳴らすと 『一寸弾かせてくれる』と言われ 何を弾くのかなと思ったら ショパンのポロネーズを 流れる様に弾きだした。皆 呆気に取られ 其れこそ開いた口が塞が無い状態となった。只の一度もピアノが弾けるなんて聞いた事も無かったし 弾き終ったら、『はい 終り』の一言 そう言えば 買い求めるSPレコードは洋楽を買って聞いていたし 話しもしていたが 自分が弾く事は誰もしらなかった。後にも先にも ピアノバージョンのエレクトーンを弾いただけでむその後は一度も鍵盤に触れる事も無かった。 別に隠していた訳でも無く 何か秘めた人というのは 息子にも伝わってきた。仕事終わって 毎日の様に麻雀に興じていた時 ある年 年間成績が 三万六千八百円勝っているから 一日百一円勝ち続けていると 話していた。柳居子の理容師国家試験の前夜 麻雀のメンバーが一人足りないと麻雀参加を促された。『明日 国家試験や。』と言ったが 試験は大丈夫 今一人足らんと強引に動員された、 親の道に外れていると思った。晩年 介護施設にお世話になったが 頭は最期まで 明晰だった。 介護施設の職員一人と 男性の入所者と三人で麻雀を始めて 好きな事が出来て良かったと思ったのだが 直に止めてしまった『何故麻雀止めたの?』 と聞いたら 『幾ら勝っても 一銭にもならない麻雀は 面白くないと言うのが 止めた理由だつた。ある日 突然 古い客人の話しを持ち出した 『〇○さん お越しか?』つい先日亡くなったのだが 母が店に来る事も無いだろうと思い『元気にされているョ』と答えておいた。 『お越しになるか?』しつこく聞いてきた。 しつこいなあと 曖昧に返事したのだが 翌々日 様子を見に言ったら 件の客人の死亡記事を取り出して 『人の生き死にだけは ちゃんと教えてや』と言われ地 『堪忍』都しか言う術他に無かった。柳居子の母の事 少し判って貰えたかな。
2024.05.13
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店頭での量り売りと言うのが少なくなった。父の命で酒を買いに行かされた時 瓶を酒屋に持って行って 『何合要ると言うたはった?』と。いつも聞かれた事を覚えている。 今は 酒の量り売りなんて無いだろう。 食品スーパーに出掛けても 自分が必要とする量目がプラスティックの容器に入って 棚に並んでいる。買い物カートに放り込むだけで レジで総額支払えば 買い物を済ます事が出来る。昔の食品包装材は、肉は量り売りで竹の皮 豆腐は容器を携えて買いに行くか 豆腐屋さんが 喇叭鳴らして売りに廻っていた。 買い物スタイルの大変化をもたらした影の主役は食品包装材の進化が大きいと思う。 僅かな量の蓋付き容器 蓋と受け皿とが 完全に密着して 蓋を開けるのに苦労するほど密着している。 蓋と受け皿は 別々に作られると思う 出来上がりの蓋は 一ミリの何分の一か 何十分の一の精度で出来ているのだろう 一応テープで 蓋が外れない様に止めてはあるが 「横にしないで下さい 汁が盛れます。」という注意書きは無い。 如何いう会社が,蓋や受け皿を作っているのはは知らない。大変な発明である 買い物をする客の立場で 食品包装材の進化を 享受している。
2024.05.12
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朝の珈琲屋にやって来るメンバーは、実に色々な職種 又其々のシーンで大活躍されたか 余韻を感じる人ばかり。名前を出す事憚る公人も居られる。 柳居子は 畏まって次から次に出てくるお話を拝聴するのが役どころ。余り一人の話しが長すぎると 遮って他の人の口を開かす。この卓に座る何よりの余禄は、店外に迄溢れる空席待ちの観光客を差し置いてあたかも待ち合わせの様に 片手揚げて 「お早う」の挨拶だけで その席が予約席であったかのように座る事が出来る事である 柳居子さんと待ち合わせと言うと 私の隣席を準備してくれる。 来店歴 六十三年の証拠写真は 十七歳の時のアルバムに この店で珈琲飲み干す写真が出てきたから 六十三年の来店歴が確定したのだ、珈琲屋の店員の殆どが生れる前からの来店は、柳居子以外にも居られるが、決まった時間帯毎日と言うのは少ない。来店歴の長さを取って『常連頭』と名づけた人も居た、何事も変らず続けているという事 京都では評価される事かも知れない。 新聞やテレビが 柳居子の変る卓 五番テーブルを何度か採り上げている。『常連席へは観光客は座らないのですね』。と記者が聞くから、『この店の方針も有るが 私は入って来る客一人一人チェックの出来る位置に座っているだろう 私の狷介(けんかい)厳しい目つきをみて 関わらない方が良いと敬遠するのですよ。』と説明したが 其の文言は記事にもならず 放映もされなかった。
2024.05.11
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国と国との境界 国境を意識する日本人は 昭和二十年の八月から、極端に少なくなり、常の会話に出て来る事は先ず無い。 周囲を海に囲まれているから 国境線が無い。 考え方や外を見る眼は、他国とは異なる。 本題は瑣末な事だが 境界の話し サプリメント製剤 紅麹事件がなかなか終息しないが、体に良いとされる物が 新しく商品化され出したのは、そう古い事では無い。 副作用の無いことを長年の使い続けで実証された物に対して新製品はそう云う訳にはいかなかった。 新聞の折り込み広告の、サプリメント製剤の広告を見て。薬剤とサプリメント製剤との 境界の様な事を感じた。DHA(ドコサヘキサエン酸)FPA(エイコサペンタエン酸)EPA(アラキドン酸)配合 脳の健康対策に、〇〇〇〇〇〇を『選んで良かった』 【認知機能サポート領域 売上ナンバーⅠ』わ謳っている 脳に大切なアブラ 脳の衰えはDHA等のアブラの減少が一因 でも補う事で対策出来ます。 研究報告 『頭の回転に役立つ 前向きな気分に役立つ』 三つの脂肪酸が脳の元気を支えます。先ずは一カ月1080円でお試しください。科学的に確認 何が守られるのか 説明文読むのが不可能な細字とグラフが二点 買い氣をそそる文言が次から次に出てくる。通常価格 6480円が 税込通販価格 1080円 カラー版居り込みリーフレットの概要であるが 薬事法に定めの有る薬効を府経っている箇所は一つも無い DHA・FPA・EPA等の名を知る人は皆無と思うし 其れを確かめる人も居ない 頭の呆けに効くとは書かれていない 脳の元気を支えます。「選んで良かった」いうキャッチコピーも 薬事法らは抵触しない。一枚の宣伝リーフレットを詠み進める程 製薬業界とサプリメント業界との鬩ぎあいが判る様で尾根白かった。 薬剤は 厚生省医事の管掌 サプリメントは消費者庁の管掌と聞いている 一省では 賄いきれないか 他の理由も在ったのだろう。リーフレットのメーカーを誹謗する意図は全く無い 紅麹の逆境をよく頑張っていると思うし 社員には 家族も居る 境界戦上の兵士達なのだ。
2024.05.10
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錦小路の 鰻・川魚屋の三田さんの、滋賀県にある別荘の庭に 柚子の木が在り 毎年沢山の実をつける。 朝の珈琲屋で同卓の誼で 柚子を沢山頂く。 周囲に配って 柚子風呂立てても 未だ沢山残っていた。ふと『柚子味噌』を作ってみようと思い立ち レシピ本を読んだりして。生れて始めて作った柚子味噌 殊の外口当たりよく 他人に差し上げても失礼にならないと 柚子味噌造りがスタートした。 同じく自作のちりめん山椒 ブランド名『くもり』は 試行錯誤して他人様に差し上げる迄 日数が掛ったが 柚子味噌は最初から好評をいただいた。口が肥えていると思われる 祇園町のお茶屋の大女将には 『商売替えしやはったら』とお褒めを頂き 柚子味噌の御礼とかで 販売商品の作務衣を頂いた事もあった。 柚子が店頭に並ぶ季節が終り 今年最後の柚子味噌造りをして 何方に差し上げようかなと 店に置いていた。 ブログのプリント版を 寺町鳩居堂へ届けようと 店先に自転車止めて 降りようとしたタイミングで 後ろから声掛けられた。同じくプリント版の届け先 柳居子よりご年配の御婦人 『いつも 有り難うございます 楽しみに読ませて頂いてます、これほんのお口汚しですが。』と小さな包みを頂いた、持ち帰って開くと『桜餅』が二つ入っていた。 鳩居堂の二・三軒北にある饅頭屋の品 柳居子に手渡された 余りのタイミングの良さに これはご自分が食べようと買いもとめ ふと前に止まった自転車に柳居子が乗っていた 後日「本来なら貴女のお腹に納まっていたお饅頭 私が食べてしまいました。これは 私が作ったというのが拘りの柚子味噌 ご愛読感謝味噌と言って手渡した、 昨日 散髪にお越しの 山極寿一先生に『これは 奥さんに差し上げて下さいと手渡した。 奥さんの夫君は『伏原春男』氏と言って 柳居子が大変お世話になった方 医師として生涯頑張られたのと 鳥博士としても有名で 友人の泉孝英氏が 近現代医家事典の増補版ょ出されると聞いた時 伏原春男先制を、採り上げてと頼み込んだ事も有った。丹波の診療所の所長を長く務められ 田舎の患者から貰った野菜類を 度々頂いた。何十年も前の話しだが 何のお返しも出来て無かったから 遠慮なく納めて下さいと 前総長に手渡した。
2024.05.09
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連休明け 朝の珈琲屋も超閑散 繁忙の期間中 ウエイトレスの一日の歩行数も随分差が出る事だろう。歩数の多いのが頑張ったかと言うと 一概に言う事は出来ない。 小柄で歩幅の狭いのは歩数が上がると思うし、キャリアを積んでくると、あれこれと目線で配下を動かす事も出来るから、歩数は少なくなるだろう。 常連客ばかり、ゴールデンウイークが終わったら 日本人の観光客は もう平常に戻るという事か。 少し離れた席に座っていた客が レジの有る表へ移動した時、小柄なウェイトレスが、『お客さん、傘お忘れです。』と 離れた柳居子にも聞こえる様な声あげながら 客の後を追いかけた。 戻ってきたウェイトレス 手招きした。 何事かと訝る彼女の耳傍で、『傘をお忘れです』と声掛けるより『傘が残っています。』 と言うと 客が忘れたというより 傘が残されていた 主体が傘になるから、接客業の話し方としたら 残っていましたと言う方が良いよ゛』 お節介であることは承知している。しかし其の話法は、柳居子が若かった五十年程前に目撃して 感心した事でもあった、同じシーンを再現せずには居られなかったのだ。 煩い客と嫌われても先の短い身だから、良いと思う事は、他人に伝えようと思う。 珈琲屋創業者 猪田七郎さんが ニコリと笑ってくれた様な気がした。
2024.05.08
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万物の霊長を 誰もが自認する人間と烏との対比は、おかしい事と判っているのだが、共に地球上に命の有るという共通性だけを取り上げて 人間と烏の比較は無理を承知の話しである。先日 ゴミ出しの日 ブルーの網目のカバーの端を嘴で咥えて メクリ上げて投棄のゴミ袋を取り出し 餌となりそうなものを物色している 一部始終現場に居合わせた。 ブルーの網目のシートを掛け始めた頃は 烏は如何対処したのだろうか? このシートの下に絶対餌となるゴミ袋が有る事は判っている。 何処に居たどの烏かは判らないが 偶然だとは思うが嘴でしーとを捲る事ができることを知った。 結果としてその術が他の烏にも直ぐに伝わった様だ・都知事をされていた 石原慎太郎氏は 烏のゴミ袋荒らしに対して、 烏が朝起きて 餌にする前に ゴミ収集を終えるべきと 激を飛ばした。烏を兵糧攻めにするという妙手を考え付かれたが、都職員が命に従ったかどうかは 確認していない。 生き残りの爲の餌の確保という烏の真剣度と 食べ残し 充分に食べた後始末の人間のゴミ投棄 喰わねば種の保存が心許無い食に対する真剣度は烏の方が一枚上 これからも烏・人間のゴミ散らかし戦争は続くだろう 随分前 お正月のゴミだし禁止期間 烏はパニックになっているのでは?という記事を書いた事を思い出した、
2024.05.07
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連休中も 一日一人仕事をするようにしている。何処に出掛ける予定も無く、四日間も続けて休むと 連休あけ指先や手が尋常に働いて呉れるか? そういう事が心配になる お年頃である。 あい変らず 遠来の髭剃りり客人が多いのだが、生えてくる髭其の物に、土間程度の薀蓄(うんちく)が有るのが 自分自身にも良く羽ならない。 生え方が 色々な方向に向かって 剃刀の当て方をしっかり見定めないと 血が噴き出す様な髭の事を〖八方美人髭〗と 柳居子が名付けたが、遠来の客人は この手の髭が多い、 髭剃りと同様 髭のカット トリミングの注文も多い。髭をカットした後 喉仏と 首根っこの辺りを綺麗に剃り落すのだが,全神経集中して緊張する仕事でもある。髭と言えば ドイツ皇帝だった カイゼル帝の口髭を左右髭先を上に跳ねさせた 髭で有名になった カイゼル髭 髭の立行司 式守伊之助等も覚えているが 髭の事を少し調べて見た。藤堂明保編の 漢字辞典には、髭の表記漢字は五種類 一番驚いたのは、『胡』の一字 9画 胡という字は えびす 中国の北方や西に住む遊牧民を指す 又垂れ下がった顎鬚の事をいう 胡瓜とか胡椒 等の原産地という説明もしてる、『須』柔らかい顎鬚の事 顎鬚の垂れ下がった老人を表わす象形文字が始まりと言うる 髭 一番一般的に使われている字に加えて、『鬚』(あごひげ)『髥)』ほうひげ 画数 25画のヒゲと云う字も有った。 髭に付いて 調べた事 英訳してコピーして 顔剃りにお越しの客人に差し上げるのも良いか 等と考えている。
2024.05.06
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慶応大学の教授をなさっておられた 松井孝治さんに請われて、東京で京都の事を喋る機会を五回もお招き頂いた。 下らないよもやまぱなしは、幾らでも出来ても 人前での一方通行の話しは 荷が重いと感じ 質問の出ない話題を選び 京都の遊廓・花街の話し 京都の地名の話し 呉服・和服の歴史の話し 京都の町で日常交されている京言葉の話し等をしたのだが、 京言葉に付いては 大宮言葉 女房言葉 里言葉・・ 使われる場所・地域使う人の立場 等で違いが有る。 しきたりの差は大きいが どちらとも解釈が出来る受け答え うけながすという話法が通用する。 其の理由は、旗幟を鮮明にすると 首が幾つ有っても足りないという歴史的背景が 外から見ると何を言っているのか判らないと言うのが 今に残る京言葉の特色ですと 説明した。しかし 講演会が終わって後から考えて言い足りなかったと思う事が出てきた。 京言葉と言うと 平安京が出来てから京都で派生した言葉の様にも感じられるが 源流みなもと 起こりは 『大和言葉』と考えられる 大和の人が山背の国に移り住んで京言葉を新たに作り出したとは 考えられない。 大和言葉はね元々日本に在った古来の言葉 その後の画すら以後との数の比較は出来ないが、やはり中国から入って来た言葉が一番多かったと思われる。服制を中国風に改めた天皇も居た。 少し下って ポルトガルやオランダ語も数多く入って来た。和服の下に身に纏う襦袢 漢字表記だが ポルトガル語我々が常に使う言葉 『やまと言葉』が どの程度生きているか? 現役か?東京まで出掛けるシーン 『よそいき』を着て男だから『おめかし』化粧は必要ないが髭はしっかり剃らねばならない。 京都人の『たしなみ』『ふるまい』を見せねばならない、目付きの厳しさは生来 致し方は無いとしても『ものごし』は柔らかく 京都人らしい『たたずまい』 何時もの『あけすけ』な物言いは止めよう。 京都の『しきたり』の様なものを 多少でも伝える事が出来たら 幸いな事である。 東京まで出掛けて 京都の話しをする 其の事ですら 『・・・』囲みの平仮名表記は ヤマと言葉である。 京言葉は、創造するのでは無く 多くの人々が使っている内に 上手に造語という感じがするのだ。
2024.05.05
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毎日 同じ様な記事を書いて 飽きられると思う読者も居られると思うが、書き手が 思った事 感じた事が大きければ、其れで良いと筆を進める。 日曜・祝祭日を一応 定休日と定めている。昨日憲法発布記念日は 遠来の客人には、何の関係も無い日本観光の一日である、少々念入りに店の掃除を済ませ 自宅に戻ろうとしていた午後三時頃 髭面の白人が店に入って来た。 勿論 営業中を知らす 赤・青・白のクルクルの悪広告塔 サインポールは点けていなかった。 『今日は 定休日で クローズ』と言う事も出来たが、『シェイプオンリー?』と言うと 頷いたので 理容椅子に招じ上げた。 柳居子と遠来の客人との会話は、 顔剃りの仕事が終わったその時から始まる。彼らにとって 生涯最初の髭剃りツルツル体験は、 柳居子の喋る事に 圧倒的な説得力を 指先と手が与えてくれるのだ。ユーチューブ ヘアカットハリーさんの動画を見て 此処のお店に来ましたと言うから 『今日は 仕事をしない定休日だけど、何となく貴方がやって来る様な予感がしたから 待っていたのだよ。 ところで何処から来たの?』と尋ねたら パリから来たと云う。 『伝説の理容師に お店が休みの日なのに顔を剃って貰って光栄です。』と言うから『休日の特別料金は取らない 平常料金を頂くと言ったら 請求金額に二千円上乗せして頂戴した 休みの日の仕事 申し訳ないの意味も含まれると思うが 会話の中で かなり 圧 プレッシャーを掛けたかなと思ったのだ。
2024.05.04
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四月一カ月 遠来の外国人の客人が 62人を数えた。次の誕生日を迎えたら 八十歳になる男が 一人で営む理髪店 他にする事も無いし 未だ指先も手も動くから 頑張っているが、我ながら不思議な感じがする。ほぼ全世界からやって来る。昨日はアゼルバイジャンとインドからお越し頂いた、 数多くの外人客を迎えて、今迄の常識とか認識が大きく変ったと思う一つに『刺青』否『タトゥー』が有る。 外人客が比っきりなくお越しになる前、 刺青を入れた人と言うのは、堅気の稼業の人では無いと決めつけていた。倶利伽羅紋々に刃物を突きつけるのは此方だし 怖い 恐ろしいという認識は強くは無かったが 只 店への出入りが続くと 他の御客様に居心地を悪くすると思ったのだ。 刺青とタトゥー 色・柄の大分違うし、其の発生の歴史も東西では違うのだろう。 親に貰った白無垢を 墨で汚して 何と詫びようか おふくろに 幼馴染の観音様は 俺の心をお見通し 『唐獅子牡丹』の歌詞が出て来るから 刺青は外れ者のイメージが強かったのだが、外国人のタトゥーや 日本人の若者のが入れている刺青を見て 刺青文化が、タトゥーの世界に組み入れられつつあると思ったのだ。先日 精緻な柄 色使いをした 刺青の白人に 『貴方の タトゥー 写真に撮っていいですか?』と云ったら 来ていたTシャツ 直ぐに脱いで 全体が見える様に 自慢気に見せてくれた。
2024.05.03
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近所の神社の、束ねをしていた客人 柳居子より一歳年上 体格は偉丈夫と言う二相応しい。 若い時はラグビーをしていたと思う。神輿も率先して担いでいたが 寄る年波 体調も悪しく 神輿担ぎはおろか 巡行に付き従って歩く事も 難事になってきた。『神輿の担ぎ手 毎年変らず 平均年齢が 一歳づつ高くなりますね。』と先日話しかけたら 『何時か 担ぎ手が居なくなるよ。 神輿を出す氏子町でも地元の担ぎ手は 二人 三人 という所もあって サポータで何とか続けられている所も多いよ』 参加者 担い手が高齢化して 続けることが出来なくなった行事が 全国叕浦々で増え続けているのだろう。 厳寒の裸祭り 先祖代々続いてきたことが 自分の代で途切れてしまう訳にはいかない こういう矜持は 若手時から続けてきて 初めて判る事でもある。今の若者 厳寒の裸 聞く事も堪えられないだろう。 神社の行事とか 設立の経緯は 昔の人の切実なる願い 病魔退散 祈雨 豊作祈念 怨念を残した人の御霊を慰めるとか 現世利益を高らかに謳う神社以外は 存続の覚束ない神社が沢山有る。全国に幾つ位 何社有るのかは知らないが 神主 神官の居ない神社が 全体の五割越えているらしい・ お寺とて 無住職の寺 長く続くと廃寺になるケースも有る。心の拠り所が神仏に取って代わって 人々の持つ宗教観が 様変わりしつつある。神輿の担ぎ手と言えば 祇園祭の神輿の渡御は 三若・四若・錦の社中が担いでいるが、 錦が担ぎたしたのは 戦後と聞いている。錦は以前 朱雀が担いでいたと云う。 朱雀は国鉄時代の京都の荷物の集積地 中仕と呼ばれる屈強の担ぎ手が居たが フークリフトとか車が巾を利かす様になって 神輿の担ぎ手も居なくなったので 錦が担ぐ事になったと聞く・伝統行事の高齢化に サポーターは 現れるのだろうか?
2024.05.02
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顧客として、お迎えする客人以外 お役人と接する機会は皆無の仕事である。只 新聞紙面やインタビューを受けているお役人様の話す言葉は、我々が日常使う言葉とは少し違うように思う、 難しい表現 言う事と内容がずれているとか 例えば 最近は余り聞かなくなったが 国会に於いて大臣や役人が使う『善処』致します。 具体的に何をするかは゜言わず上手く計らいますます。、という意味らしいが、 国際討議の場では絶対使えない言葉だろう。〖鋭意』一所懸命という意味だとは思うが 市井の会話で使われる事は無いと思う。 『所定』逆読みすると 定められた所では 決まっている事と解釈できるかと思う・役人言葉の難解は お上が下々への通達を 気取ったか 権威を持たせるため 下々の判らない言葉を使った伝統が 生き続けているのだろう。官と民 使う言葉が今も違うのだと 昨日の地元紙朝刊一面の『円 乱高下 一時160円台』サブタイトル 〖財務官 看過しがたい』官が民に 見逃すとか 大目に「おおまか」に見る事は出来ないと言いう意味か? 円高に対応策は ノーコメント 但し見過ごす事は出来ない 。新聞の本懐は、読者に判り易く伝える事も大事 「看過しがたい」 なんでいつの時代の記事か せめて「し難い」難を入れると 見過ごせないと理解する人も居るだろうと 相変らず下らない事に眼が行く
2024.05.01
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余り先の約束事と云うのは、交さない様にしている。 今日が元気といっても、明日が今日と同じという保証が付けられない世代 『お元気ですね―』とか『一寸もお変わり有りませんね。』 等と声掛けられると『元気そうに見せる元気だけは少し残っている様です』と答える事にしている。 巷間 ゴールデンウイークとかで 盛り上がっていると思いきや 海外に遊びに出掛ける人も 円安の影響も有るのだろうか 京都にやって来る日本人観光客が余り眼に付かない。珍しく 自転車に乗らずに 河原町・新京極・三条界隈を歩いたのだが 向こうから来る人 追い抜いて行く人 店から出てくる人 異国の人の数が尋常では無い。 日本人より外国から来た人の数の方が多いのだ。外国人観光客をのけたら 超閑散の繁華街になるだろう。柳居子の店の対外国人来客比率も 納得いく思いがするのだ 昨日 祝日定休日だったが、一人仕事をさせて頂いた。今日も営業するが、客の有無 売上云々より ゴールデンウイーク連休明け 続けて休むと手や指先がちゃんと働いてくれるか不安になるのだ。今 一番先の約束事は、六月二十三日 出張の仕事に出掛ける事。逢う人 出掛ける先を書いたメモ 見忘れる事の無いように行事予定表は 毎日欠かさず見る様にしている。一昨日オバーワーク 昨日は陽が未だ高い内に帰宅 昼寝 起きてから 庭の雑草曳き 雑草との会話と言うより独り言 当然だが返事は無い。
2024.04.30
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滋賀県在住の 従妹の旦那が、黄綬褒章を受けた時。 教科書の配布という仕事をしていて、 少子化に伴う先行きの事等 色々と大変な事を聞かされていた。その仕事自体が褒章の対象になるとは 考えもしなかったから吃驚した事が有った。褒章は 『奇特行為者を表彰する制度』奇特行為とは『特に優れて珍しい事』と定義付けられている。 条例で 紅・緑・藍・紺・黄・紫の 六種が定められているらしい。其々の分野で 卓越した業績や 一芸に打ち込んだ人々を褒章すねの端良い事だと思うのだが、誰が、如何いう根拠で選び出すのか? 其の業に長く携わって 実績を挙げた人と言うのは 数えきれないほど居ると思うに 大変な数の候補者の中から 選び出す根拠と言うのが示されていないから判らない。 昨日 地元紙に京都関係の 紫綬 黄綬 藍綬褒章受章者の名前と居住地名が載った。受章対象者は 人口の多い京都市内域が、圧倒的に多いと思ったのだが、黄綬・藍綬の受章者は 京都市内4人 長岡京市 1人 宇治市 1人向日市1人 亀岡市2人 木津川市1人 福知山市1人京都市内 4人と 亀岡市内 2人 拮抗している様に見えるが 京都市内は145万人の営みが有る 亀岡市内は9万人に届かない人口 145万から4人選び出しは36万人の中の1人 9万人から2人の選び出しは 4・5万人に1人と言う事になる。 恒例に従って役所間の決まり事か 外野席がとやかく言う事でもないが 一寸気になったのだ。
2024.04.29
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