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【江國香織/犬とハモニカ】◆優雅で上品、まるで海外小説の翻訳を読んでいるよう昼寝から目が覚めた。ごわごわする布団をどけて徐に上体を起こし、また眠りに引き込まれないようにする。だが、それでもダメな場合はあきらめるしかない。(単に昼寝のあとのことだけど、江國香織風の文体にしてみた。) とても不思議なんだけれど、読後ものすごく雰囲気に酔わされてしまう作家というのがいて、私にとってそれは村上春樹と江國香織なのだ。日本からかけ離れた渇いた空気と香りを感じる。ジメついていなくて、優雅で、まるで海外小説の翻訳を読んでいるような錯覚に陥ってしまう。 江國香織は目白学園女子短大国文学科卒。その後、デラウェア大学に留学したようだ。(ウィキペディア参照)代表作は今さら紹介するまでもないが、『きらきらひかる』があって、それは映画化されているし、『号泣する準備はできていた』で直木賞を受賞している。辻仁成との共著である『冷静と情熱のあいだ』も話題となった。 『犬とハモニカ』は短編集となっていて、どれも文学的な香りがプンプン匂う。おさめられているのは表題作である『犬とハモニカ』『寝室』『おそ夏のゆうぐれ』『ピクニック』『夕顔』そして『アレンテージョ』の6篇である。どれも好きな作品だが、私がものすごくホラーを感じたのは『ピクニック』である。あらすじはこうだ。 「僕」と杏子は結婚して5年になる。杏子の嗜好で、近所の公園に度々ピクニックに出かける。と言っても、結婚前にはそういう習慣はなく、ある日いきなり始まったのだ。「僕」は杏子を風変わりな女性だとは思っていた。でもそれはあくまで「個性的な子」という意味で理解していた。だが少しずつ「僕」は杏子のことを魔女のようだと思い始めた。たとえば杏子は夫である「僕」の名前を、どうしても覚えられないでいた。「裕幸(ヒロユキ)」が正しいのに、「ユキヒロさん」と言ったりした。いつも自信なさそうに呼ぶのだった。あるいはベッドの上でも顕著なことがあった。「僕」が望めば拒みもせずに脚を開き、背を反らせる。「僕」にまたがって、「僕」自身を深々とくわえてもくれる。決して嫌がりはしない。「僕」は杏子に乱暴になり、おおいかぶさり、彼女を突き、離れ、また突く。だが杏子は行為の後、不思議そうな顔をしているのだった。 『ピクニック』に登場する杏子は、あるいは病んでいる女性かもしれない。だが「病んでいる」とは一言も触れていないところがコワい。読者は「僕」といっしょになって杏子の異常性を知り、恐怖を覚えるのだ。快楽を貪ることは、決して大きな声では言えないけれど、実はとても人間らしい営みと言える。感情を伴わない相手と肉体関係を結ぶことは、とても虚しい。「気持ちイイ」も「イタイ」もなく、淡々と行為を進行していくことの無機質さと言ったらない。この部分を読んだ時、いかに喜怒哀楽が人間としての本質的な感性であるかを思い知ったのである。 江國香織の作品は、決して多くを語らないけれど、読者に「あなたはどう思う?」と問いかけて来るような響きがあって、私には心地よい。上品な小説を読みたいと思っている方におすすめだ。 『犬とハモニカ』江國香織・著☆次回(読書案内No.151)は未定です、こうご期待♪★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.11.29
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【藤堂志津子/やさしい関係】◆友だち以上、恋人未満の関係は存在するのか?※上記の文章をテキストでアップしようとしましたが「猥褻、公序良俗に反する」をいうガイダンスが出たため、画像としてアップしています。☆次回(読書案内No.150)は江國香織の『犬とハモニカ』を予定しています、こうご期待♪★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.11.22
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【姫野カオルコ/ハルカ・エイティ】◆80歳のモダンガール・ハルカの一代記今年のお盆にも、叔母のお宅へとおじゃまさせてもらった。何てことはない。お昼をご馳走になり、近況などをあれこれ話した後はお茶を飲んで、じゃあそろそろ、、、という具合で帰路につく。叔母は、私の亡母と親子ほど年の離れた姉妹で、一番仲が良かったのだ。 「ねぇちゃんは結婚は遅かったけど、いつも誰かしらお付き合いしている男の人がいたよ」 それは本当に初耳だった。 「チビだし、太ってたし、相手はねぇちゃんのどこが気に入ってたんだか、、、?」 きっと昔はもっとおおらかな時代だったのだろう。そんな体型の母でも男の人からは好かれたらしい。今は細身でガリガリぐらいじゃないと、キレイだとは言われない。服のサイズは9号だと言える女じゃなければ、表舞台からは引っ込んでいなければならないのだ。 「ねぇちゃんは一家の大黒柱で、あたしらはみ~んなねぇちゃんの稼ぎで学校を出してもらった身だで、なんだかんだ言って結婚してもらったら困るっていう考えがあったんよ」 叔母は申し訳なさそうに、ポツリと言った。昭和3年生まれの母が、何らかのきっかけで付き合うようになった男の人の中には、妻子ある身の人もいたらしい。妻も子も捨てると言ってきかない人だったのか、あるいはそこまでの勇気はなかったのか、自然消滅だったのか、、、。とにかく母は、その恋を中断した。そうでなければ、今の私はこの世に生まれていないからだ。 『ハルカ・エイティ』は、大正生まれの女性が教育者の家庭に育ち、女学校時代の友人たちと青春を謳歌し、やがてお見合い結婚して子どもを生んで、、、という伝記小説のようなスタイルを取っている。おもしろいのは、この時代の女性のあるべき姿という固定観念を覆すようなモダンぶり。亭主も子もいながら、年下の男性と不倫をし、お金を貢ぎ、恋の潮時を心得た女の生き様。この時代の女性が皆が皆、貞淑だったと思うのは大きな間違いなのだ。人間として生まれた性なのか、いつの時代にも公にはできない秘密の恋があったのだ。『ハルカ・エイティ』は、著者・姫野カオルコの伯母をモデルとして描かれたモデル小説である。 姫野カオルコと言えば、近年、直木賞を受賞した作家だが、正直なところ他の作品はまだ読んだことがない。この「カオルコ」というペンネームが、何というか、若い(?)感じがして敬遠していたのだ。ところがプロフィールを閲覧してびっくり!私よりもずっと年上で、50代半ばであった。青学の文学部を卒業している。代表作は『昭和の犬』『ツ、イ、ラ、ク』などがある。 『ハルカ・エイティ』のあらすじはこうだ。1920年、持丸ハルカは教育者の家庭に生を受けた。長女である。その後、ハルカの母は二年ごとに受胎と出産を繰り返し、妹弟はハルカも含めて5人となった。父親の昇進で、一家は引っ越すことになった。女学校時代は、個性的な友人たちに恵まれて楽しい青春を謳歌した。年ごろになると、ハルカはお見合いをすることになった。陸軍士官学校を出た少尉候補生の、小野大介という青年が見合い相手であった。ろくに話もせず、顔をまともに見ることはなかったが、次に会った時には祝言を挙げた。戦時下での結婚はだいたいがそんなものだったからだ。二人は西洋風のホテルに泊まり、順番に風呂に入ると、そのあとはすることをおこなった。まるで、手術のような儀式だった。 内容は至って平坦なものである。それなのにおもしろいし、新しさを感じる。食糧事情の悪い戦時下でも何となく明るさが感じられるし、不倫の際中もドロドロしたいやらしさがない。きっとモデルの伯母さんが気丈で活発な人物だったのだと思う。 何てことはない物語だけれど、80歳になっても生き生きとしたコケティッシュな雰囲気を醸し出すハルカみたいに年を取りたい、と思わせたら筆者の勝ち。そういう小説なのだ。 『ハルカ・エイティ』姫野カオルコ・著☆次回(読書案内No.149)は未定です、こうご期待♪★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.11.15
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【田辺聖子/おちくぼ姫】◆古典名作『落窪物語』を分かり易く現代文にした作品せっかく日本人として生まれたからには、日本の古典文学にもある程度親しんでおきたい。とはいえ、現代語と古語では日本語と英語ぐらいに読み下していくのが面倒なものである。だいたい古典なんて学校の授業で教わったところはほんの、ほんの触りに過ぎないもので、原典を隅々まで味わうのは不可能に近い。もちろん、意識的に古典を親しむ習慣のある人なら何の問題もない。私のように、古典文学に興味があるけれど、原文のままではちょっと、、、という人がどうするか?当然のことながら、現代文に分かり易く翻訳されているものを読むということになるだろう。 『おちくぼ姫』は、田辺聖子によって『落窪物語』をある程度はしょって、おもしろいところをクローズアップした作品である。もともと『落窪物語』を原典で読もうとしたら四巻まであるのだから、あらましさえ知っておけばいいという場合はこのアンチョコ本で充分というわけだ。 田辺聖子は、現在の大阪樟蔭女子大学の国文科を卒業している。(まだ女子専門学校と呼ばれる時代。)代表作に『感傷旅行』や『ひねくれ一茶』などがあり、数多くの古典文学の翻訳を手掛けている。『おちくぼ姫』は、簡単に言ってしまえば、継子いじめの小説で、女性読者が大好きな純愛モノなのだ。 あらすじはこうだ。時代は平安朝。それはそれは見目麗しいお姫さまがいた。しかし、姫の実母は6歳の時に亡くなり、今は継母から酷くいじめられていた。異母妹たちは皆きれいな着物を着て、優雅に暮らしている中、一人だけ母の違う姫君は差別を受け、みすぼらしい部屋の、床が低く落ち窪んでいるところに住まわせられていたため、“おちくぼの君”と呼ばれていた。そんな中、乳姉妹であり召使の阿漕だけはおちくぼの姫の幸せをだれよりも願っていた。阿漕はどんなことがあってもおちくぼの姫から傍を離れず、よく仕えた。ある時、阿漕は夫の帯刀とともに、右近の少将という名門の出自で、しかも美青年の殿方を、おちくぼの姫と引き合わせようとあれこれ計画を練るのだった。 文庫本のあとがきにもあるように、この古典は「日本のシンデレラ物語」である。当時、上流階級の殿方は、妻を何人も囲うのが常識だったが、この物語では男の純愛を描くものであったため、女性読者から支持を受けたとのこと。西欧では『シンデレラ』や『白雪姫』などの純愛物語が燦然と輝く児童文学として存在するけれど、日本にも千年も昔にあったというのは驚きだ。単純と言ってしまえばそれまでだが、安心して読めるのが何より嬉しい。不幸な少女が様々な艱難辛苦を乗り越えて、ハッピーエンドで終うのはやはりホッとする。こういう定番スタイルがあってこそのラブ・ドラマだと、つくづく感じる古典名作なのだ。 『おちくぼ姫』田辺聖子・著☆次回(読書案内No.148)は姫野カオルコの「ハルカ・エイティ」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.11.08
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【内田春菊/キオミ】◆すぐにパンツを脱ぐ小説私の親しくしている友人で、約一名、性欲の塊(?)のような人物がいる。女性だが、底知れぬ異性への枯渇を感じてしまうのだ。でも私はそれが彼女なりの恋愛の延長線上にあるものだと認識している。43歳という年齢への挑戦もあるかもしれない。ダイエットに成功し、白っぽい柄物のチュニックを着たり、ピチピチのジーンズを穿いたり、耳にピアスを開けたり、とにかくフェミニンな印象を心掛けているようだ。仕事柄、腰痛を持ち、膝を悪くしているので、週一で整形外科にも通院している。それでも彼女は9歳年下の片思いの彼を求めてやまない。彼とはそういう関係になりたくて仕方がないようだ。男女の恋愛の行き着く先は、肉体関係を結ぶというごくごく原始的な行為に過ぎないのだろうか。私は否定もしない代わりに賛成もしない。枯れてゆく自分が瑞々しい彼女に嫉妬してふてくされているとは、思いたくない。 ただ、私と同年齢なのに9歳年下の男性に丸裸の自分をさらけ出して突進していく姿は、私にはとうていマネなどできない。 「男に恋をする時、女はバカにならなくちゃ」 というのが彼女の持論だ。とにかくまぶしい。妖艶な輝きを放っているのだ。 そんな中、私は内田春菊の『キオミ』を読んだ。これはまぁ、言ってみれば村上龍の『トパーズ』的な作品である。著者が女性なだけに、『トパーズ』よりはいくらか感傷的な感じだ。この作品に触れる前に、著者である内田春菊の背景を探ってみたいと思う。 代表作は『ファザーファッカー』があり、これを読むと内田春菊が父親(養父)から受けた性的虐待、妊娠→堕胎までの壮絶な過去が赤裸々に語られている。思うに、この作家は物書き以外で自身を救い出す術などなかったのではなかろうか?漫画家としてデビューを果たしている人だが、自分という存在を冷静で客観的に表現するには、何をやっても持て余してしまうような苛立ちを常に感じている人だ。 『キオミ』は短編集で、7作品が収められている。表題作でもある『キオミ』は、驚愕の性小説だ。 キオミは妊娠した。夫の晋は生んでくれと言う。だが晋は結婚前から女たらし、職場の女の子と浮気をしている。出張と偽って女と旅行に出かけ、一週間も留守している。キオミは何より、性欲のやり場に困ってしまった。欲情を抑えることができず、晋の職場の同僚である近藤を自宅に呼んだ。近藤は晋とは全く違う愛撫で、キオミを何度となくイカせ、確実な刺激で悦ばせた。その晩、キオミと近藤は何度も何度もやり続けた。一方、夫の晋も女とグアムまで旅行に出かけていたのだ。 作中に登場する男も女も、これという背景があるわけではない。とにかく性を謳歌したい若い男女である。そこには、恋も愛も存在しない。下半身を自在に操り、快楽を貪る生々しい男女が絡み合う姿を描写しているに過ぎない。会話に深い意味などさらさらなく、「あっあっ」とか「勃ってる」「いやあん」などの表現が主である。 私が半ばあきらめている性への積極性が、この作品には満ち満ちている。疲れた自分を鼓舞したい時、若返りたい時に読むと、目覚める(?)かもしれない。男女問わず、興味のある方はどうぞ。(笑) 『キオミ』内田春菊・著☆次回(読書案内No.147)は田辺聖子の「おちくぼ姫」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.11.02
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