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山又山山櫻又山櫻 阿波野青畝※ご参考藤沢周平原作、映画『山桜』はコチラから。
2014.04.30
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菜の花やこの身このまま老ゆるべく 三橋鷹女
2014.04.29
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人も旅人われも旅人春惜しむ 山口青邨
2014.04.28
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【RED/レッド】「これを見せてやる。生涯の恋人に撃たれた傷だ。許されざる恋だった。その彼女が今、この家の外で・・・ウォッカを飲んでいる・・・胸に3発だ。生きて目覚めた時、再び彼女の愛を知った。頭を撃てば死んでたのに。危険を冒して私を助けた。恋は人にバカなことをさせる」四の五の言う前に、ハッキリさせておこう。本作「レッド」は、最高のエンターテインメント映画であり傑作だ。このおもしろさはDVDレンタルでは久しぶりかもしれない。オール・スターズだから良いというわけじゃない。比較するのも憚られるが、最近注目された「エクスペンダブルズ」を思い出してみるがいい。オール・スターズを銘打ったわりに、なんとなく今一つに感じた視聴者もいるはずだ。 ところが本作「レッド」は、役者らが個人的にむやみやたらと目立つような場面がなく、とてもバランスの取れた演出に仕上がっているではないか!無論、役者自身の個性が潰されることなく、互いに相殺し合い、実に見事な連携プレーなのだ。吟遊映人が特に気に入ったシーンは二つ。一つは、CIAのオフィスに侵入したフランクとサラのシーンだが、一方でフランクがCIAのエージェントと密室で格闘している最中(ちなみにBGMはエアロスミスだ!)、サラは喫茶室(休憩室?)で心細く待っているのだ。とりあえず開いているフォーブス誌がさかさまというのも、彼女の不安げな気持ちを表している。この両者のシーンが交互に映されるのがおもしろいと思った。そしてもう一つ。それはイヴァンが、恋する男フランクに自らの恋を語るシーンだ。わざわざ自分の胸元をはだけ、古傷を見せて慰める場面なのだが、やっぱり英国人俳優は違う。ブライアン・コックスの詩的な言い回しに思わず酔いしれる。フランク・モーゼズはCIA退役者で、今や年金生活の暮らしをしていた。役所の年金課に勤務するサラとは電話友達で、何かと用事を作っては電話をかけていた。 そんなある晩、フランクの家に狙撃部隊が侵入。だがフランクは難なくこれを片付け、その足でサラのアパートへと向かうのだった。フランクの命が狙われている以上、フランクとつながりのある者は皆危険なため、サラを一人にしておくわけにはいかなかったのだ。その後、フランクはかつての仲間であるジョー、マーヴィン、それにヴィクトリアらと合流するのだった。ほんのチョイ役だがリチャード・ドレイファスが出演しているのも見逃せない。80年代、青春映画として大ヒットした「スタンド・バイ・ミー」の主人公ゴードン(大人になってからの)役である。介護施設で世話になっているジョー役モーガン・フリーマンも、キャスティングとしては申し分ない。肝臓ガンを患い、余命いくばくもないという役柄なのだ。どの出演者が欠けても成功し得なかったであろう本作は、近年まれに見る素晴らしいアクション・コメディなのだ。2010年(米)、2011年(日)公開【監督】ロベルト・シュヴェンケ【出演】ブルース・ウィリス、モーガン・フリーマン、ジョン・マルコヴィッチ、ヘレン・ミレンパワーアップかなった続編『REDリターンズ』はコチラ
2014.04.27
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【吉川英治/新書太閤記 四巻】◆銃が刀と槍に代わるとき、時代は変わる長く愛用したウィンドウズXPのサポートサービスが終了した。パソコンが普及してもうしばらく経つが、私などはついこないだケータイを持つようになった身なので、進化するデジタル操作にはとうてい追いつけるものではない。息子は当たり前のようにスマホをいじくり回しているが、私はガラケーで十分。簡単なメールと通話ができさえすれば事が足りる。高校時代、タイプライタークラブというのがあって、ものすごく入りたくて仕方がなかったのに希望者が多く、ジャンケンに負けてしまい、入部できなかった。短大に進学すると、今度はワープロの授業が必修科目としてカリキュラムに入っており、タイプライターということばは死語?になった。レコードにしても、“およげたいやきくん”や“山口さんちのツトムくん”などを繰り返し聴いた世代なので、80年代に入ってCDなるものを買って初めて聴いた時、あまりのクリアな響きに衝撃を受けた。新しいものが古いものを淘汰していくのは仕方のないことで、それこそが科学の発展、延いては人類の未来を構築していくのだろう。だが、一抹の寂しさは拭えない。アナログの持つぬくもりや重厚感は、手間暇を惜しんでも次世代に引き継がれていくべきではないのか?という声もある。しかし、一分一秒がものを言う時代にあって、タイム・ロスは致命的で、否が応でもデジタル化は避けられない。もうその環境にどっぷりと浸かってしまっている私たちがいるのだから。 『太閤記(四)』では、長篠の戦により、甲斐の武田軍が尾張の織田と三河の徳川の連合軍に大敗してしまうところが山場となっている。このころすでに武田は代替わりしており、信玄から息子の勝頼が遺封を継いでいた。武田勝頼は、名門の出に多い、いわゆる“ぼんくら”ではなかった。しかし、信玄はあまりに偉大すぎた。戦の神様と畏れられた父を持つ子のプレッシャーたるや、いかばかりか。武田の誇る士馬精鋭が「陣鼓を打ち鳴らし、旗幟をひらめかせ」体当たりで織田・徳川勢に立ち向かうものの、五千挺の銃(当時としては最新式)の前には無力であった。武田の見事な陣構えと勇将に率いられた騎馬隊に、徳川勢は皆、身の毛をよだてた。だが、ひとたび徳川家の守将が「撃てーっ!」と叫ぶやいなや、武田軍はかつて聞いたこともない銃の轟音に恐れをなす。それはそうだ。甲州は内陸にあって、文化の移入にはあまりにも不利な地勢だった。徳川には海運の便があり、新鋭の武器購入に金を惜しまなかったのである。ここで、武田の名将勇将が最先端の武器を前に次々と倒れていく。甲州流の兵法と、信玄仕込みの名将をもってしても、新兵器にはとうてい適うものではなかった。 「一馬啼かず、一兵叫ばず、曠野は急に寂寞の底へ、とっぷり暮れ沈んでいた。まだ片づけられないまま夜の露に横たわっている屍は、甲軍の者だけでも、一万余とかぞえられたのである。」 この長篠の戦を振り返った時、読者は今さらのように現代に照らし合わせてみるに違いない。デジタルを駆使する者が世の中を席巻し、アナログに生きる老練はもはや成す術もないのだ。「時代は変わった」と嘆く前に、よく機を見て、自らの立ち位置を検証しようではないか。回顧主義に陥ることなく、新しい文明の利器と上手に付き合っていこう。スマホを持った現代人が、決して糸電話の生活に戻れるはずもないのだから。 『新書太閤記(四)』吉川英治・著~ご参考~・新書太閤記 一巻はコチラ・新書太閤記 二巻はコチラ・新書太閤記 三巻はコチラ☆次回(読書案内No.123)は吉川英治の「新書太閤記 五巻」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.04.26
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ふらふらと行けば菜の花はや見ゆる 正岡子規
2014.04.25
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春風の扉ひらけば南無阿弥陀仏 山頭火
2014.04.24
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この国の男に生れ桜かな 正岡子規
2014.04.23
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観音の大悲の桜咲きにけり 正岡子規
2014.04.22
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給料の上がりし春は八重桜 安倍晋三豪気な句にふれ、思わず笑ってしまった。この人、ご自身の仕事をしっかりこなしている。今はとんと聞くことはないが、かつてはこういう時は「景気いいじゃねぇか」そういったものだ。もちろん世の中の景気にあらず、話に勢いがある時に用いた。そうえいば「景気づけに一杯やるか」はもはや聞くことはなくなった・・・世の中に実態は曖昧だ。消費税率アップで汲々とした人をテレビが報じれば世の中はそういうことになり、東京ドームの満員の巨人戦を映し東京ディズニーが「六億人の入場者達成」と報じれば世の中はそういうことになるのだ。零細個人事業主の小生にはもとより給料はなく、いまのところ収入が上がりそうな気配はないが、それでも景気のいい句に触れ何とはなしに心が明るくなる。今夜は景気づけに一杯やって気炎をあげようか。それにしても安倍晋三という御仁、なかなかのものである。
2014.04.21
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【ミッション:8ミニッツ】「あなたの助言、役に立ったわ」「それはよかった」「次はインドで自分探しかも。いい導師いる? ・・・路線変更して正解だったと思う?」「同じ列車だが違う」「深いわね。私も違う道が待っていると思うの」 この作品を観る前の印象としては、パニックモノかな?というぐらいの軽い気持ちだった。だがすぐにそれは打ち消された。観客を楽しませるためだけのエンターテインメントなら、もっとサスペンス色を強くしても良かったはずだからだ。いろんな捉え方があるが、とりわけ強く感じたのは“自分探し”というキーワードだ。 実体のない自分が、死者の最後の8分間の意識に同化して任務を遂行するという行為。 実在していない自分が、プログラムの中でのみリアルな自分を感じるのだから。果たして自分って一体何者なんだ?という疑問にぶつかってしまうのも当然だ。監督はダンカン・ジョーンズで、『MOON月に囚われた男』を手掛けた俊英の監督だ。 この監督の命題には、半永久的な哲学を感じるし、並々ならぬ映画人としての才能を感じてしまう。陸軍大尉のコルター・スティーヴンスは、アフガンの前衛で戦っていたはずだった。だが目覚めたのは、シカゴ行きの列車の中だった。向かい合った座席に座る女性が、親しげに話しかけて来るが、コルターには見覚えがないし、自分がなぜここにいるのかも分からない。慌てて洗面所で自分の顔を鏡に映し出すと、自分は自分でなくなっている。ポケットの身分証明には、ショーン・フェントレスとあり、自分が別人になっているではないか。それもそのはず、コルターの任務は、破テロの起きたシカゴ行きの列車に乗っていたショーンの絶命までの8分間の意識と同化して、テロを起こした犯人を見つけることだったのだ。何がスゴイかと言えば、SFを超えたSFであることだ。実体のない自分が、脳の意識下の中だけで、誰かを愛し愛されることで自分を認めていく。リアルには存在し得ない自己存在の意義を、わずかでも感じ始めて行くという展開が胸を熱くさせる。ストーリーの流れはあくまで犯人探しのための8分間のミッションを繰り返すわけだが、本当のところ、犯人が誰かということにあまり重点は置いていない。それは、“自分とは何ぞや?”という命題を抱えた孤独な人間の、一筋の光を頼りに生きていく、新たな旅立ちの物語だからだ。非の打ちどころのない素晴らしい映画だ。2011年公開【監督】ダンカン・ジョーンズ【出演】ジェイク・ギレンホール、ミシェル・モナハン
2014.04.20
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【吉川英治/新書太閤記 三巻】◆英雄の影に軍師あり私事ながら、高校生の息子は演劇部に所属している。昨年の秋の文化祭では、チラシ作りに余念がなかった。とにかく一人でも多くの人に見てもらいたいという気持ちに急いて、あれやこれやと、その構成に悩み抜いているようだった。「題字はパソコンから拾えばいいかなぁ?」「そこはチラシの要となる文字でしょ?」「うん」「М君にお願いしたらどう?」「М君? おーそっか!」М君というのは息子の友人で、書道五段の腕前を持つのだ。ふだんは生意気な息子も、この時ばかりは素直に私の提案を聞き入れた。後日、出来上がったチラシを確認すると、それはもう見事な題字で、何やら高校生の演劇とは思えない、前衛芸術の案内か何かと見紛うほどの出来栄えだった。かえって息子たちの演じた芝居が、チラシの題字に負けてしまったのが切ない。前置きが長くなってしまい恐縮だが、こんなささいなことからでも、プロデュース能力の重要性が分かると言いたかったのだ。(もちろん、私の単なる思いつきを、あたかもプロデュース能力の如く自我自賛しているわけではないので、あしからず。)さしあたり戦国時代なら、それを“軍師”と呼ぶ。 『太閤記(三)』では、秀吉が三顧の礼を持って迎え入れた軍師・竹中半兵衛が、いよいよ活躍し始める。秀吉がスゴイのは、自分が無学であることを謙虚にも認めていたことである。そのため、兵法に明るい人材を必要とした。戦国時代にあって、戦に勝つことが第一の目的ではあるものの、ただ槍や刀を振り回して武力にものを言わせて勝っただけでは、とうてい真の勝利を収めたとは言えない。それゆえ半兵衛の並外れた知性が、秀吉の欲している家中の士風を高めるのに大いに役立ったのである。 三巻を盛り上げるのは、やはり姉川の合戦と叡山の焼討ちであろう。 「英雄も英雄の質それだけでは、英雄となり得ない。環境が彼を英雄にしてゆく。」 ここで吉川英治の言う英雄とは信長のことであるが、彼を英雄にした軍師とは、一体誰だったのか?姉川では、織田勢もかなりの苦戦を強いられたが、それでも後半は浅井・朝倉勢を追い込んでいくことに成功した。しかし信長は、小谷城に封じ込めた浅井勢の息の根を止めるところまではしなかった。信長は急遽、岐阜に帰還するのだ。眼に見える敵と見えない敵がいるとしたら、信長はその後者に備えるため、一つところに留まらず、ある程度の戦果を得たら本城に引き上げるのを良しとした。時代の革命児でもある信長の敵は、叡山、本願寺などの僧団の他に、名ばかりの将軍家というやっかいな存在があったのだ。 この時代の流れを追っていくと、凡人の私でも何となく分かったことがある。それは、軍師の質の高さがものを言う、ということである。現代は戦乱の世ではないけれど、自分に諫言してくれる真の友人の言葉に耳を傾けるのを嫌悪してはならない。見え透いたお世辞に馴らされて、自分を見失うことのないように。あなたに本物の友人はいるだろうか? 『新書太閤記(三)』吉川英治・著~ご参考~・新書太閤記 一巻はコチラ・新書太閤記 二巻はコチラ☆次回(読書案内No.122)は吉川英治の「新書太閤記 四巻」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.04.19
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生えて 伸びて咲いてゐる幸福 山頭火
2014.04.18
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【猿の惑星~創世記~】「薬の本数を記録しよう。月に一本打つだけで十分だ」「すごい効果だ!」「投与量に注意しよう。血液検査やスキャナー検査もやらなきゃ」「ウィル・・・ウィル! 病気が治った!」「よかったね!」 オリジナル版の方はあまりにも有名で、今さらとやかく言うまでもない。今回の作品はリメイクというわけではなく、そのタイトル通り、地球がサルたちに支配されてしまうことになったきっかけを描いている。驚いたのは、一匹一匹のチンパンジーたちの本物すぎる(?)表情、しぐさである。CGを駆使したとはいえ、びっくりするほどの自然な動きに、思わずフィクションであることを忘れてしまう。とにかく見事な出来映えだ。もともとサルというのは、ヒト科に一番近い生物であることから、何かと一目置かれて来たのは事実だ。そんなサルたちが、ヒトの横暴な振る舞いに耐えかね、敵意をむき出しにするという設定が原始的でおもしろい。サルというのは粗野で、無知で、野蛮なものの象徴として描かれている。ヒトからは一ランク下に置かれ、好奇な目で見られ、それでいてややもするとヒトの存在を脅かす位置にいるので、煙たがられるわけだ。この作品を見れば、いかにヒト様の提言する動物愛護の精神が偽善であるかが分かるのだ。アルツハイマー型認知症に苦しむ父親と二人暮らしのウィルは、サンフランシスコの大手製薬会社で日夜研究に取り組んでいた。それも、アルツハイマー病に効果がある新薬だった。実験には一匹のメスのチンパンジーを使っていたが、目覚しい成果が出た。しかし、いざその研究を発表する段階になって、チンパンジーは副作用のためか何なのか大暴れし、研究室をパニックにしてしまった。その結果、ウィルの研究は失敗と見なされ、プロジェクトの中止を言い渡されてしまう。 『猿の惑星』は、とても完成度の高いSF映画に仕上げられているが、いかんせんキーマンとなるウィルのキャラクター設定に魅力を感じないのだ。役者さんの演技力には申し分ないのだが、セリフや行為に惹きつけられるものがなかった。それを除けば、近来稀に見る迫力あるSF映画として成功していると思う。オリジナルの『猿の惑星』を知らない人も、この新しい版を鑑賞すれば、きっと興味を持ち、ちょっと見てみたいという気持ちにさせられる。新旧併せてオススメしたい作品だ。2011年公開【監督】ルパート・ワイアット【出演】ジェームズ・フランコ、アンディ・ケーキス
2014.04.17
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桃色の春かぜの吹くこころより浄らなるなし浮きたるはなし 与謝野晶子
2014.04.16
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【北國新聞 時鐘】桜(さくら)の素顔(すがお)は「花」にあるのか、花を散(ち)らした後の「青葉(あおば)」にあるのか。しみじみと思う季節(きせつ)である。 今ごろ「偽(いつわ)りの作曲家(さっきょくか)」を持ち出せば笑(わら)われそうだが、サングラスを外(はず)して髭(ひげ)を剃(そ)り、長髪(ちょうはつ)を切って記者会見に登場(とうじょう)した佐村河内(さむらごうち)氏を思い出す。「素顔」はごく普通(ふつう)の男であった。現代のベートーベンといわれたイメージとはほど遠い顔だった。 小保方(おぼかた)さんの会見を見ても気づいたことがある。実験成功報道時(じっけんせいこうほうどうじ)の映像(えいぞう)にあったピアスと大きな指輪(ゆびわ)が消(き)え、マスカラは薄(うす)く見えた。素朴(そぼく)なお嬢(じょう)さまのイメージ造(づく)りに腐心(ふしん)した作戦成功(さくせんせいこう)とみた。 2人は同罪(どうざい)だと言うのではない。佐村河内氏のサングラスと長髪と髭は、凡庸(ぼんよう)な素顔を隠(かく)す道具(どうぐ)であり、それを外すのは「好青年(こうせいねん)」を演出する作戦だった。小保方さんのピアスと指輪外しの会見にも共通するものを感じたのである。人にはそれぞれの「仮面(かめん)」がある。 仮面を外した顔が素顔なのだろうか。仮面をかぶった時の方が本人の素顔に見える時もある。などとうんちくを傾けながら帰宅して、しみじみと妻の顔を見る。結婚してン十年。いまだ素顔は分からない。(4月13日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~毎度お馴染の「時鐘」である。「いよぉ、日本一!」そう声をかけたくもなるが私は北國新聞のサクラではない。ときに、小保方さんの記者会見を扱った某新聞のコラム(4月10日付)である。『言葉に自信が感じられた。これなら信じられるのではないか、とテレビ中継を見ていて思った。』これは人生を経験したいわゆる「いい大人」が書くことではない。信じることは人の美しい姿であり、ときに外国人から「お人よし」と揶揄されようが日本の美徳だと誇りに思う。しかしそれは真理(根本)を愚直に信ずることであり、真理(根本)を見誤った枝葉末節にこだわることではないのだ。コラム「時鐘」はいつも真理(根本)をついている。そして時鐘の妙はそのタイミングと言葉(文体)にある。つまり言うべき事を、言うべきタイミングで、言うべき言葉で言う、それこそが時鐘の妙である。新聞離れ、出版不況が叫ばれて久しいが、こういうコラムがある限り、紆余曲折はあろうがかならず原点に戻る、私はそう信じて疑わない。それにしても、いながらにして日々の新聞コラムを一堂に閲覧出来るというのはこの上ない幸福だ。アプリ「たて書きコラム」の製作者に感謝感謝である。このアプリを使えることだけでスマホを契約する価値があると私は思う。もしスマホをお使いで「たて書きコラム」をインストールしていない方は、是非お試しいただきたい。あなたの人生観をかえるかもしれない。しかし、私は「たて書きコラム」のサクラでもありません。あしからず。さて、以下に4月11日付けの「時鐘」も添える。いい大人の書く「妙」をご堪能あれ。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~【北國新聞 時鐘】さまざまな桜(さくら)に出合(であ)う日々である。美しい花に交(ま)じって、妙(みょう)な花やつぼみも出てきている。 お騒(さわ)がせの党首(とうしゅ)に続いて、「リケジョ」の会見があった。それぞれ懸命(けんめい)の釈明(しゃくめい)に、それでも大方(おおかた)はクビをひねってしまう。だが、「分かった」「もっと悪いのがいる」といった声も出る。見物(けんぶつ)のふりをして、上手に一芝居(ひとしばい)打っているようで、確か、あれも「さくら」。 派手(はで)に騒(さわ)いで、さっと姿(すがた)を消す。桜の花みたいだからそう呼ぶという。祭(まつ)りや縁日(えんにち)で見掛けなくなって久しいが、絶滅(ぜつめつ)するほどヤワな種族(しゅぞく)ではなく、ここ一番という折(おり)に時々顔を出す。 愉快(ゆかい)なさくらは、「寅(とら)さん」映画(えいが)でおなじみである。渥美清(あつみきよし)さん歌う主題歌(しゅだいか)に「目方(めかた)で男が売(う)れるならこんな苦労(くろう)も掛けまいに」という一節(いっせつ)がある。おっしゃる通りで、メールで8億円も無心(むしん)ができるからといって、立派な政治家と敬(うやま)われるわけではない。見目麗(みめうるわ)しき博士(はかせ)ゆえに万能細胞(ばんのうさいぼう)がどんどん作れるのなら、何の苦労もあるまい。 それでも時々、春の陽気(ようき)に浮かれ出て、客をあおる「助(すけ)っ人(と)」さくらが出没(しゅつぼつ)する。春爛漫(はるらんまん)、いろんな花見があるものである。(4月11日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~やはり「いい大人」は寅さんの二つや三つは観ていなければならない。お約束である、吟遊映人では過去に八つの記事を掲載している。ご覧いただけたら幸いだ。ちなみに、寅さんの妹は「さくら」という。寅さんシリーズ『男はつらいよ』 コチラ寅さんシリーズ『続・男はつらいよ』 コチラ寅さんシリーズ『男はつらいよ フーテンの寅』 コチラ寅さんシリーズ『新・男はつらいよ』 コチラ寅さんシリーズ『男はつらいよ~望郷篇~』 コチラ寅さんシリーズ『男はつらいよ~純情篇~』 コチラ寅さんシリーズ『男はつらいよ~奮闘篇~』 コチラ寅さんシリーズ『男はつらいよ~寅次郎恋歌~』 コチラ
2014.04.15
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ほとけには桜の花をたてまつれ我が後の世を人とぶらはば 西行
2014.04.14
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【僕達急行~A列車で行こう~】高校生の息子が嬉々としてTSUTAYAでレンタルして来た。言うまでもなく息子は鉄道ファンである。私が仕事に出かけている日中、春休みであることを良いことに、じっくり鑑賞したようだ。「オレはどっちかって言うと、小町派だな」などと言うので、よくよく聞いてみると、小町というのはこの作品の主人公で、松山ケンイチ扮する鉄道オタク。列車に乗って車窓を眺め、一人の世界に耽って音楽を楽しむというタイプ。一方、もう一人のオタクは小玉で、車両に使われている鉄をこよなく愛するというタイプ。同じ鉄道オタクでも、息子は前者のタイプというわけだ。ふだん邦画はそれほど見る方ではないが、息子が借りて来たついでに、私も鑑賞させてもらうことにした。撮影秘話によれば、鉄道会社の全面協力を得て、なんと通常運行のダイヤを一切乱すことのない撮影だったとな!やっぱり日本の鉄道会社はスゴイ!!関東での主なロケである北千住、尾久、西日暮里の車内シーンは、どんなワザを使って通常運行に影響を与えることなく撮影したのだろうか?(無論、深夜の撮影ではなく、日中の撮影シーンである) 『僕達急行』のストーリーはこうだ。のぞみ地所に勤務する小町は鉄道ファンなので、車窓を眺めながら音楽を聴くスタイルを好しとし、せっかくのデートなのに彼女を飽きさせてしまう。結果、フラれてしまった。一方、コダマ鉄工所の二代目・小玉健太は、社長でもある父から憂さ晴らしにキャバレーまで誘われるものの、無類の鉄道オタクなのでホステスらと話がかみ合わない。そんな小町と小玉はひょんなことから出会い、意気投合する。そんな折、小町は東京本社から九州支社への転勤辞令が下る。周囲は左遷だと思って気の毒がるものの、当事者の小町は九州の鉄道を楽しみたい一心で、二つ返事で了承した転勤だった。不景気のせいでろくに仕事の依頼も少なく、しかも女の子にフラれてしまって意気消沈の小玉は、小町の転勤先である福岡まで青春18きっぷで出かけることにした。福岡で再会を果たした二人は、九州のローカル線の旅を満喫。その旅先で鉄道ファンの男性と出会い、これまた意気投合するのだった。 この作品を見てつくづく思ったのは、邦画の良さはこういうほのぼの感にあるのだということだ。ハリウッドに見られるようなCGを駆使した特撮などではなく、雄大な自然美をそのまま映像化した風景描写とか、多くをセリフとして喋らなくても、視線の動きとかさりげないしぐさで分かる心理描写などである。「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く?」という標語が使われなくなって久しいが、たまにはのんびりと何からも煩わされず、各駅停車の列車に揺られて旅してみたくなる。この映画のメガホンを取った森田芳光監督は、2011年に他界され、この『僕達急行』が遺作となってしまった。代表作に『失楽園』や『武士の家計簿』などがあり、幅広いテーマで視聴者を楽しませてくれる映画監督だった。61歳という若さでこの世を去ったことが残念でならない。ご冥福をお祈り申し上げます。 2012年公開【監督】森田芳光【出演】松山ケンイチ、瑛太
2014.04.13
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【吉川英治/新書太閤記 二巻】◆天が味方についた時、常識は覆る静岡県は大きく区分すると、西部、中部、東部の三つに分けられる。中部というのは、県庁所在地でもある静岡市を中心とした区域なのだが、その昔、駿河の国と呼ばれていた戦国時代、今川義元を筆頭にこの地をおさめていた。その家風は「すべてが公卿風であり、下は京好み」であった。その影響で平成の今もなお、名残りがあるとは思えないが、それでも町並みは優雅で上品、ことばの響きもおっとりした特徴を持っている。一方、西部は浜松市を中心とした区域なのだが、隣接した愛知県の三河地域とよく似た特性を持つ。艱難辛苦の幼少期を送った徳川家康の無骨な侍魂が根強く感じられる。職人気質を育む土地柄のようで、現代も“ものづくりの街”として定評がある。 『太閤記(二)』では、浜松市民のそんな気質の礎となった徳川家康が、まだ松平元康という名で駿河の今川家に人質として留まっていたころの話である。また、このころ漸く尾張の織田信長の名が世間に知られるようになった時代ともリンクする。駿府の今川義元が、信長を尾張の田舎侍と侮り、悠々と上洛の途につくのだが、田楽狭間と呼ばれる地で織田の奇襲に遭い、あえなく今川軍が大敗を嘗める戦がくり広げられる、世に言う桶狭間の戦である。吉川英治の描く人物像に、完全な悪人は存在しない。公卿風の今川義元は、どうかするとお歯黒大将のように揶揄されがちだが、決して凡将ではないし、いざという時は誰よりも早く形勢全体を察知し、いたずらに右往左往などしなかった。読者はその時、否が応でも気づいてしまう。どれほどの名将とはいえ、富を謳歌し、兵馬に優れたものを揃えてはいても、天に見放される場合があるのだということ。要するに、自分の力ではどうしようもできないことが起こりうるのを示唆しているのだ。 いつのころからか我々は、“やればできる”“夢は叶う”“人一倍の努力によって自己実現”という途方もない幻想に踊らされて来た。もちろん、ある程度の段階までは日々の積み重ねによって到達できるかもしれない。ほんの一握りの人に限っては、幸運にも、心願を成就させるかもしれない。しかしながら、800年も前の歴史をひもといた時、人の前に運命という巨大な海原が広がっていることに気づかされる。だからと言って、たゆまぬ努力を放棄せよ、とは言わない。ただ、如何せん計画どおりにはいかないのが世の常であるとだけ言っておきたい。 『太閤記(二)』では、三軍を率いた強大な今川勢が、当然のごとく織田勢を木っ端微塵に踏み潰して上洛を果たすのかと思いきや、大どんでん返しが起きてしまった。兵の数では圧倒的に不利だった織田勢が勝利するのだ。 人間五十年 下天のうちを較ぶれば夢まぼろしの如くなりひと度、生をうけて 滅せぬもののあるべきか この時、天を味方につけた信長だったが、その栄光も永遠ではない。私は、信長の太くて短い生き様を垣間見た時、天運と時運、そして人脈に恵まれた千載一遇のチャンスというものがあることを知った。同時に、人の命運は絶えず転がり続けていて、一定ではないことも知る。『太閤記』は、秀吉を中心とした軍記物語ではあるが、読者にそこはかとない哲学的命題を突き付けているようにも思えた。『新書太閤記(二)』吉川英治・著~ご参考~・新書太閤記 一巻はコチラ☆次回(読書案内No.121)は吉川英治の「新書太閤記 三巻」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.04.12
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【産経新聞 産経抄】評論家の佐高信さんのところに届いた知人の結婚式の招待状には、名前の「信」が「真」と間違って記されていた。佐高さんはそれを踏まえて、披露宴でこんなスピーチをしたそうだ。「結婚生活は、真実より信じることの方が大切です」。 結婚生活はその通りかもしれないが、科学の世界では通用しないようだ。総合研究大学院大学名誉教授の池内了(さとる)さんによれば、「科学は『信じる』ものではなく、事実として誰でもが再現できるものでなければならない」(『宇宙学者が「読む」』田畑書店)。 たとえば、UFOが宇宙人の乗り物だとする仮説は、誰も証明も否定もできない。ゆえに科学とはとても呼べない。ほんの2カ月前には、「ノーベル賞級の発見」ともてはやされていた、新型万能細胞「STAP細胞」はどうか。 理化学研究所の調査委員会は、すでに英科学誌ネイチャーに掲載された論文に、捏造(ねつぞう)や改竄(かいざん)があったとの結論を出している。筆頭執筆者の小保方晴子・研究ユニットリーダーはこれを不服としてきのう、反論の会見を行った。自らの不勉強、不注意、未熟について深く反省するとしながらも、「STAP現象は、何度も確認されている真実」と強調していた。 涙で声を詰まらせる痛々しい姿を見ていると、論文の不備は「悪意」のないミスだったのかもしれないと思えてくる。ただ、STAP細胞が存在する証拠は示されなかった。何より、小保方さんと共同研究者を除けば世界の誰も、再現実験に成功していない。「いつか誰かの役に立つと信じて」、小保方さんが研究を続けてきたSTAP細胞は、まだ科学の要件を満たしていないことになる。 真実は一体どこにあるのか。謎はますます深まるばかりだ。(4月10日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~巷はSTAP細胞の話でもちきりだ。10日のほとんどの新聞コラムでもその話題を扱っていた。鼻白むものや疑問を感じないではいられないコラムの中にあって産経抄は正鵠を射ていた。池内了氏のひと言が冴えるのである。「科学は『信じる』ものではなく、事実として誰でもが再現できるものでなければならない」話題の眼目は結婚生活ではないのだ。曰く「結婚生活は、真実より信じることの方が大切です」今回の騒動にふれ、枝葉末節はときに楽しくもあるが物事はその根本を見なくてはならない、そう痛感した次第だ。ときに池内了氏の実兄はドイツ文学者の池内紀氏である。以下は氏の「のろまの特性」というエッセイからひいた。「のろまはあきらかに現代では評判が悪いだろう。何ごともスピードが大切で、一瞬のうちに結果がわかり、鉄砲玉のようにしゃべり立て、かたときも休まず動きまわる。機敏で、エネルギッシュで、頭の回転の早い人間がグングンのしていく。しかし、いうまでもないことながら、大きなことをするためには力をためていなければならず、ねばり強く、着実に行動しなくては状況はかわらない。あわただしい時代だからこそ、反時代的な特性が生きてくる。」2013年11月5日「今日の視角」よりはたして我々は何を汲々として生きているのだろうか。原点もどって、STAP細胞は人間にとって必要なものなのだろうか。それは地球規模のことでなのであろうか。そも、人間を救うのは医療や科学なのであろうか。巷の騒動を見て、池内紀先生の文章を読むにつけ、人間は何か根本の根本を見誤っているのではないか、そう思うのである。どうであろうか。
2014.04.11
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【ブッダのことば、九二二】眼で視ることを貪ってはならない。卑俗な話から耳を遠ざけよ。味に耽溺してはならない。世間における何ものをも、わがものであるとみなして固執してはならない。八つの詩句の章 九二二『ブッダのことば』中村元訳「遠ざかり離れること」と「平安の境地」について問われブッダはこう答えるのだ。『迷わせる不当な思惟の根本をすべて制御せよ。』いうなれば上記はその方法論である。極めてシンプルではあるが、ブッダが真理を説いてからこのかた、深甚なるその方法を得た人はいまだ少ない。
2014.04.10
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ねがはくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月の頃 西行
2014.04.09
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いたつきに三年こもりて死にもせず又命ありて見る桜かな 正岡子規※いたつき:病
2014.04.08
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桜の花ちりぢりにしもわかれ行く遠きひとりと君もなりなむ 折口信夫
2014.04.07
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【スルース】「彼と会って二人で何をしたんだ?」「ゲームをした。」「ゲーム?」「ナイフと銃のゲーム。」「命懸けの?」「ただの遊びだ。」「(わかった)それがただの遊びだとして、彼が会いに来てゲームをした。ナイフと銃で銃声が3発、そして失踪・・・彼は今どこにいる!?」 冒頭から興味をそそられた。そこかしこに取り付けられた監視カメラに映し出されるモニター画面。玄関に入ると、無機質な現代アートで飾られたインテリア空間。そこに独り住む初老の作家。もうこの時点で英国の香りがプンプンして来る。吟遊映人の眠っていたサスペンスに対する感性が、“ピクピク”とよみがえって来た。 このタッチは・・・そう、正にヒッチコック監督を彷彿とさせるものだった。例えば「ロープ」では全編室内シーンで、犯罪が起こってそれを隠蔽し、さらにそれらを推理し暴いていく場面が全て同じ空間なのだ。「バルカン超特急」ではそのタイトル通り、列車とサスペンスを結びつけた作品で、一部を除くほとんどのシーンが列車の中・・・という特殊な設定になっている。このように、トリックと心理的な扇情効果による良質なサスペンス映画は、イギリスのお家芸と言っても過言ではない。バイオレンスとカーチェイスとFBIだけがサスペンスだと思ってはいけない。閑話休題。さて本作「スルース」は、ロンドン郊外の邸宅を舞台とし、出演者はわずか2人という動きの少ない空間の中でくり広げる、緻密で意外性のある設定となっている。ロンドン郊外の豪邸に住む犯罪推理作家アンドリュー・ワイクのもとへ、妻の浮気相手マイロ・ティンドルが訪れる。マイロはアンドリューに離婚するよう迫るが、アンドリューは首を縦に振らない。そんな中、アンドリューはあることを提案する。それは、100万ポンドの保険がかけられている高価なネックレスを、アンドリューの金庫から盗み出して欲しいと言うものだった。イギリスの大物俳優二人が演技のバトルをくり広げるのだから、釘付けにならないわけがない!ゲームを仕掛ける者、仕掛けられる者、甘い誘い、罠・・・それもこれも全て、引き金は“男の嫉妬”である。マグマのようにどろどろとしたもの、つまり嫉妬が、感情を支配し続ける限り、ゲームセットはない。カメラワーク、音楽、そしてセリフの言い回し、全てにおいて合格点である。実に完成度の高いサスペンス映画であった。2008年公開【監督】ケネス・ブラナー【出演】マイケル・ケイン、ジュード・ロウ
2014.04.06
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【吉川英治/新書太閤記 一巻】◆極貧の中に育った日吉が信長に仕えるまで日本人ならそのルーツを探る上でも必ずや一読の価値がある。それが『太閤記』であるのは疑う余地もない。信長、秀吉、家康を扱った小説は、それこそ五万とあり、それぞれに違った味わいがある。海音寺潮五郎、山岡荘八、司馬遼太郎、そして吉川英治。どの作家の小説をひもといても、ぞくぞくするような高揚感と臨場感に溢れている。中でも私がおすすめしたいのは、吉川英治の『新書太閤記』である。吉川英治の代表作と言えば、『三国志』や『宮本武蔵』などが筆頭にあげられるかもしれない。だがあえて『新書太閤記』をおすすめしたいのは、吉川英治の描く秀吉が、驚くほど日本人らしい日本人だからだ。コンプレックスの塊のような小柄な男が、ただひたすらに大志を抱いてまい進する姿は美しい。この地道で、しかも滑稽な小男の物語を、壮大なスケールで描ける作家は、吉川英治しかいない。秀吉は極貧の中、母や姉においしいものを腹いっぱい食べさせてやりたい、新しい着物を着させてやりたいと思い、その一心でどんな仕事でも頑張った。戦乱の世にあって、身を立てるには何が一番大事か?家柄である。だが秀吉にはそれがない。じゃあ家柄の次に必要なものは?金と武力だ。だが、哀しいかな、秀吉にはその二つも持っていない。肉体は小柄だし、猿顔だし、ろくな学問もない。自分には一体何があるのか?忠実。とにもかくにも仕事でも付き合いでも忠実にやろうと決めた。忠実なら裸になっても自分には持ち合わせていると思った。そして、この忠実さが人々からの信頼に変わっていくのだ。『新書太閤記(一)』のあらすじは、次のとおり。木下弥右衛門は足軽ながら、織田信秀の家中だった。だが戦で不具の身体となり、今は百姓に身を落としていた。息子の日吉(後の秀吉)は期待の一粒種だったが、極貧生活が祟ってか、小柄で、奇異な猿顔で、ハナタレの腕白坊主だった。日吉の成長を唯一の楽しみにしていた弥右衛門だったが、あえなく病死。日吉が8歳の時だ。母は貧乏所帯を立て直すために、筑阿弥というケチな男と再婚した。日吉にとっては義父となるわけだが、どうにも相性が良くない。結局、日吉は義父から目の仇にされ、よそへ奉公に出されてしまう。その後、仕事が長続きせず職を転々とするが、侍になりたいという夢を持ち、尾張中村を出て各地を見て回るのだった。そんな折、日吉は信長こそ主人と奉るべき人だと信じ、身一つで直訴。やっとの思いで受け入れられ、信長に仕えることとなる。一巻では、秀吉がまだ一介の浮浪児で、その名を日吉と呼ばれていたころの序の口である。それにしても作者・吉川英治の見て来たような説得力のある筆致に、ページをめくるのももどかしい。早く次が読みたいと、気が急いてしまうのだ。解説によれば、『新書太閤記』は昭和14年から20年(敗戦の年)まで読売新聞に連載されたとのこと。その後、しばらく筆を置き、中央紙から離れ、地方紙に昭和24年に再び書き継がれたらしい。とはいえ、新聞に連載後まとめられた全八巻を読んでみた時、途中のブランクなど全く分からず一気呵成に読了してしまったというのが私の感想である。まずは一巻を手に取ってみよう!必ずや二巻も手にしたくなるに違いない。秀吉の天下取りの夢は、私たち庶民のロマンでもあるのだ!『新書太閤記(一)』吉川英治・著☆次回(読書案内No.120)は吉川英治の「新書太閤記 二巻」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.04.05
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【ジャッカルの日】「射撃距離は?」「多分、100メートル強だろう」「動く相手を狙うのか?」「いや」「狙うのは頭か胴か?」「頭だ」「2発目はどうする?」「多分撃てまい。自分が逃げるのでやっとだ」 1973年公開の映画なので、ずいぶん昔の映画だ。派手さはないし、アクション・シーンもないし、BGMがやたらうるさいこともない。 それなのに惹きつけられる! 画面を一時停止にしてトイレに立つのも惜しいぐらいに夢中になってしまった。主役に扮したエドワード・フォックスが良かったのだろうか?英国人らしく背筋がしゃんとして、小柄なのに堂々としていて抜け目ない。風になびくブロンドと、スタイリッシュでクールな雰囲気がたまらないのだ。あるいはルベル警視役のマイケル・ロンズデールが魅力的だったのだろうか?普通のおじさんに見えるのだが、仕事面では抜かりなく、じわじわとジャッカル(暗殺者の暗号名)を追い詰めていく。“能ある鷹は爪を隠す”を地で行くようなキャラクターで、好感がもてた。役者陣の見事な演技もさることながら、作品全体を覆っているムードもまた素晴らしい。 どう言ったら良いのか? とにかくリアリティを感じる。監督の演出によるものなのか、ドキュメンタリー・タッチに表現されているのだ。1960年代のフランス・パリが舞台。仏大統領のド・ゴールは、これまでに6回もその命を狙われており、いずれも未遂に終わっていた。それらは全て秘密組織OASによる仕業だった。アルジェリアからのフランス撤退政策を断行したド・ゴール大統領に反対し、抵抗する勢力だった。その後、政府側の圧力もあり、OASの活動はいったん沈静化するも、国外に拠点を移したOASの幹部・ロダン大佐は、暗殺者を雇ってド・ゴール大統領を亡き者にしようと目論む。暗殺者の条件としては、外国人で、しかも政府側には顔も名前も知られておらず、それでいて腕の良いスナイパーでなければならなかった。その条件にあてはまる男が一人いた。その男は英国人で、しかも腕利きのスナイパー、暗号名はジャッカルと言った。だがジャッカルは、契約金として50万ドルを要求して来たのだ。本格的な演出だと思って注目したのは、ジャッカルが特注の狙撃銃を使って練習するシーンだ。森のようなところに出かけ、一本の木に西瓜のようなものを吊り下げる。そこからかなり離れたところで銃を構え、西瓜を目掛けて発射しながら微調整を繰り返すのだ。なんだか細かい演出だが、私はドキドキしながら見入ってしまった。古い映画なので、もちろんCGなど使っていないが、とにかく見ごたえがある。映画らしい映画に大満足だ。1973年公開【監督】フレッド・ジンネマン【出演】エドワード・フォックス、マイケル・ロンズデール
2014.04.04
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山一つこえて畑打つ翁かな 正岡子規
2014.04.03
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【わすれた恋のはじめかた】『第2章 幸せは心の在り方。何事も練習が必要だ。1日5分、ただ笑ってみること。そうすれば、いつか自然に笑える』『第15章 人生の岐路に立った時は、覚えておくこと。終わりは始まりにすぎない』 人間は、もともと弱い生きものだ。弱いからこそ、その身を守るため、必死に武器を作り、威嚇し、優位に立とうとする。 だが“自分とは何ぞや?”という永遠の命題に直面した時、人は丸裸で無力な自分にがく然とするのだ。救われたい一心で神によりどころを求める者たちはまだいい。宗教という名のもとに守られるからだ。一方で、神仏に距離を置く者たちは、より現実に即した生き方の模索を始める。苦悩する自分に焦りを覚え、何とかして打開策を見つけねばと、生きて行く上での指南書を探そうとする。言わばそれこそが“自己啓発書”と言われるものだろう。極端に言ってしまえば、宗教に代わる、生き方の指南書みたいなものかもしれない。本作「わすれた恋のはじめかた」では、主人公のバークが自己啓発書を出版し、思わぬ大ヒットに恵まれたという設定になっている。バークの本は、悩める人々の大きな支えとなり、ベストセラーとなったものの、当人にとってそのことは目的ではなく、結果としてそうなっただけのことであり、当惑ぎみなのだ。作品は、そんなバークがどういう経緯で本を書き、自分を見つめ直していくきっかけを得たのかが核となっている。自己啓発書を出版したところ、たちまちベストセラー作家となったバークは、全米を回って講演会に追われていた。そんなバークは、2年前に愛する妻を亡くし、その悲しみから立ち直れずにいた。多くのファンから支持されてはいるものの、バーク自身は、まだ本当の自分と向き合ってはいなかったのだ。ある日、バークはシアトルにやって来る。講演会のためであったが、バークは最後までシアトルは気が進まなかった。シアトルは、亡き妻との思い出がたくさん残る地だったからだ。そんな中、バークは花屋を経営するエロイースと出会う。エロイースもまた恋に傷つき、恋に臆病になっている女性だったのだ。主役のバークに扮したのはアーロン・エッカートで、代表作に「幸せのレシピ」や「ブラック・ダリア」などがある。地味な顔立ちながら、素朴で恋愛には真面目なキャラクターとして、好印象を与えている。また、ヒロインのエロイース役であるジェニファー・アニストンも、キュートで魅力的な女性を丁寧に演じている。ちなみにこの女優さんは、ブラッド・ピットの元妻である。ラブ・ストーリーとしては定石ながら、恋に傷ついた男女がお互いを癒し、再び人を愛していこうとする姿勢を見せてくれるラストとなっている。観終わった後は、なんとなく心がほっこりするような、優しい作品であった。2009年(米)公開 ※日本では劇場未公開【監督】ブランドン・キャンプ【出演】アーロン・エッカート、ジェニファー・アニストン
2014.04.02
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いづくにもあれ、しばし旅立ちたるこそ、目さむる心ちすれ・・ 吉田兼好/徒然草「どこであっても、旅に出てみると(そこは非日常であり)、目が覚める思いである」そう兼好はいう。多少の行きつ戻りつはあれど、いい陽気になってきた。旅にはもってこいだ。笑う野山を闊歩するのもいい、水面を眺めながら土手を歩くのもいい。ほんの小さな旅も、この季節は素晴らしい。いざ行かん、いま旅立ちの時。
2014.04.01
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