《櫻井ジャーナル》

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2011.08.31
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 1983年8月31日18時26分(グリニッジ標準時、日本時間9月1日3時26分)、大韓航空の旅客機KAL007がサハリン上空でミサイル攻撃を受けて撃墜されたと言われている。実際のところ、公表されている情報には疑問点も多く、ソ連領空で何が起こったのかは明らかでない。

 その3年前、1980年11月にアメリカでは大統領選挙が実施され、核戦争を妄想するキリスト教系カルトの信者、ロナルド・レーガンが現職のジミー・カーターを破って次期大統領に選ばれている。その後の数年間、世界の軍事的な緊張は極度に高まっていた。

 ただ、軍事的な緊張を高める動きはカーター政権のときに始まっていると言える。そうした動きの中心にいた人物がポーランド生まれのズビグネフ・ブレジンスキー大統領補佐官。アフガニスタンから中央アジアにかけての地域がユーラシア支配の鍵を握っていると分析、この地域を制圧しようと考えていた人物だ。

 そこで利用された概念が「危機の弧」。ソ連が南下してくるというシナリオだが、実際には南からソ連に圧力を加えていた。その手先に使われたのがイスラムの狂信的な武装グループだ。

 カーターが大統領に就任した翌年、つまり1978年にCIAはアフガニスタンに揺さぶりをかけ始めている。そのとき、CIAの工作に協力していたのがイラン王制の秘密警察SAVAKだ。この年、大韓航空902便がソ連領空を侵犯している。

 1979年3月にアフガニスタンのモハメド・タラキ大統領はソ連政府に軍隊の派遣を要請するのだが、アレクセイ・コスイギン首相は戦争の泥沼化を恐れ、断わっている。

 そうしたソ連を挑発していたのがイラン。この月、つまり1979年3月にはイランの支援を受けたアフガニスタンの勢力がイランとの国境に近い町で多くの政府高官やソ連人顧問を殺害、その際にソ連人顧問の子どもや妻も犠牲になっている。

 このとき、イランに国王はすでにいない。1月に王妃と一緒に国外へ脱出、2月にはフランスからアヤトラ・ホメイニが帰国していた。つまり、イスラム革命後のイランもアメリカのアフガニスタン攻撃に加担している。

 4月になると、CIAはゲリラへの支援プログラムを開始、5月にはCIAイスタンブール支局長がアフガニスタンのリーダーたちと会談、その会談相手を選んだはパキスタンの情報機関ISIだった。ISIが選んだ相手は麻薬業者でもあるグルブディン・ヘクマチアルだ。



 その後、CIAは爆弾製造や破壊工作の方法をアフガニスタンの武装グループに伝授、都市ゲリラ戦訓練なども実施した。オサマ・ビン・ラディンや彼の部下もそうした訓練を受けた一部だとされている。

 カーター大統領がアフガニスタンでの秘密支援工作を承認したころ、エルサレムではアメリカとイスラエルの情報関係者が集まって「国際テロリズム」について話し合っているのだが、その席上、レイ・クライン元CIA副長官は「テロ」をソ連政府の陰謀だと主張している。つまり「テロ」の黒幕はソ連であり、ソ連を倒せば「テロ」はなくなるというわけだ。

 この会議にはアーノウド・ド・ボルクグラーブやクレア・スターリングという「ジャーナリスト」も参加、その後、反カーター/反ソ連キャンペーンの中心的な存在になる。スターリンと一緒にキャンペーンを展開したのがポール・ヘンツェとマイケル・リディーン。ヘンツェはブレジンスキーの影響下にあるCIAの「元幹部」で、プロパガンダの専門家。またリディーンはイスラエルと関係が深く、ネオコンとも一心同体の関係にある。

 1983年8月31日から9月1日にかけて、大韓航空007便は航路を大幅に逸脱、アメリカが定めている緩衝空域や飛行禁止空域を横切り、カムチャツカ半島とサハリンを横断、その際、ソ連の重要な軍事施設の上空を飛行している。この直後、アメリカとソ連は全面核戦争の一歩手前まで進んでいる。

 ところで、緩衝空域に航空機に入り、飛行禁止空域へ侵入しそうな場合、NORAD(北米航空宇宙防衛軍)には当該機へ即座に呼びかけ、近くのFAA(連邦航空局)へ知らせる義務があるのだが、何もしていない。NORADの担当官が怠慢でレーダーを見ていなかったか、飛行禁止空域への侵入が許されていたかということになるだろう。

 この当時、アメリカ軍の内部では1960年代前半に作成された秘密計画が話題になっていた。「ノースウッズ作戦」である。アメリカをキューバへの軍事介入に導き、あわよくばソ連との全面戦争を実現しようとした好戦派の計画だ。

 この計画は事前にジョン・F・ケネディ大統領に漏れたようで、計画の中心にいたライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長は再任が拒否され、NATO軍の最高司令官にされている。つまり、ヨーロッパへ飛ばされた。

 ちなみに、このレムニッツァーは1955年から57年にかけて、琉球民政長官を務めている。





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最終更新日  2011.08.31 13:35:05


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