《櫻井ジャーナル》

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2016.05.12
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 バラク・オバマ米大統領が訪問するという広島へ、アメリカが64キログラムのウラニウム235を使った原子爆弾「リトル・ボーイ」を投下したのは1945年8月6日のこと。その時に殺された人の数は兵士2万人以上のほか、市民が7万人から14万6000人と言われている。つまり死者数は9万人から16万6000人に達する。勿論、原爆が環境中に放出した放射性物質は、その後も人間を含む生物を殺し続けてきた。

 アメリカが原爆の製造を計画する切っ掛けは1通の手紙だとされている。1939年8月にレオ・シラードが書き、アルバート・アインシュタインがサインしてフランクリン・ルーズベルト米大統領へ送られたもので、核連鎖反応を利用した爆弾が製造される可能性を指摘していた。

 さらなる刺激はイギリスから来る。1940年2月にバーミンガム大学のオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスのアイデアに基づいて核兵器の開発を目的とするプロジェクトが始まり、MAUD委員会が設立されていたが、その委員会メンバーが1941年8月にアメリカへ派遣され、原爆製造にアメリカの学者が興味を持つよう誘導することに成功したのだ。ルーズベルト大統領は1941年10月に原子爆弾の開発を許可、イギリスとの共同開発が始まり、1942年に「マンハッタン」計画がスタートした。

 核兵器の製造には原料が必要だが、ドイツは1940年の段階でユニオン・ミリエールというロスチャイルド系の会社がコンゴで採掘したウラニウム鉱石1200トンをすでに入手していた。

 この頃、ドイツはヨーロッパを制圧、ソ連を侵略する寸前。1941年6月にドイツ軍はソ連に攻め込み、モスクワを目指す。「バルバロッサ作戦」の開始だ。この電撃作戦を始める直前、5月にルドルフ・ヘスがスコットランドへ単独飛行、1987年に刑務所で「自殺」するまでヘスは拘束され続けた。死亡当時のヘスは93歳だった。

 イギリスでヘスは何を話し合ったのか不明だが、ドイツ軍がソ連を攻めている間、イギリスはドイツを攻撃しないという約束を取り付けることがイギリス行きの目的だったと推測する人もいる。実際、イギリスやアメリカはドイツ軍がソ連軍に敗れるまで傍観していた。

 1941年7月にドイツ軍はレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲し、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫り、1942年8月にスターリングラード(現在のボルゴグラード)の攻防戦が始まった。当初はドイツ軍が優勢だったが、11月からソ連軍が反撃して約25万人のドイツ将兵は包囲され、43年1月にドイツ軍はソ連軍に降伏する。

 スターリングラード攻防戦が決着した後、ドイツ側はアメリカの軍や情報機関に接触しはじめた。そうした動きの中心にいたのがウォール街の大物弁護士で戦時情報機関OSSの幹部としてスイスにいたアレン・ダレスだ。ドイツとアメリカで単独講和を実現、ソ連に対する戦争を始めようとしていたとも見られている。

 こうした動きに抗議する書簡をソ連側はアメリカ政府へ送りつけるが、ルーズベルト大統領はそうした工作を否定する。ダレスたちは大統領に無断でドイツと接触していたのである。



 ドイツ軍がスターリングラードで壊滅した後、アメリカ軍はウラニウム鉱石の回収を開始、1200トンのうち31トンをフランスで、後に約1100トンをドイツで発見、マンハッタン計画に利用するため、アメリカのテネシー州オークリッジの施設へ運ばれた。約1100トンのウラニウムが発見された1945年4月12日にフランクリン・ルーズベルト大統領は執務室で急死している。

 ルーズベルト大統領が急死した翌月、5月7日にドイツは降伏し、その直後にウィンストン・チャーチル英首相はJPS(合同作戦本部)に対してソ連へ軍事侵攻するための作戦を立案するように命令した。

 その結果、作成されたのが「アンシンカブル作戦」。7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていたが、これは参謀本部の反対で実現していない。その直後にチャーチルは下野する。

 その前、1945年初頭にドイツ軍の潜水艦は約540キログラムの2酸化ウランを運んでいた。目的地は日本だとされていたが、途中、アメリカの軍艦に拿捕されてしまう。日本側は知らなかったようだが、アドルフ・ヒトラーの側近だったマルチン・ボルマンは潜水艦の艦長に対し、アメリカの東海岸へ向かい、そこで2酸化ウランを含む積み荷をアメリカ海軍へ引き渡すように命令していたという。(Simon Dunstan & Gerrard Williams, “Grey Wolf,” Sterling, 2011)その結果、このUボートに乗り込んでいた日本人士官は自殺、積み荷はオーク・リッジへ運ばれたとされている。

 1945年7月16日、アメリカはニューメキシコ州でプルトニウム原爆の爆発実験に成功する。いわゆるトリニティ実験だ。これと同じ型の原爆が8月9日に長崎へ投下されている。広島へ原爆が落とされたのはその3日前だった。

 大戦後もチャーチルはソ連の破壊を目論んでいる。1946年3月にはアメリカのミズーリ州フルトンで演説、その中で「鉄のカーテン」が降りていると発言して「冷戦」の幕は上がったが、チャーチルの願いは「冷戦」でなく「熱戦」だった。 1947年に彼はアメリカのスタイルス・ブリッジス上院議員と会い、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得して欲しいと頼んだ と報道されている。

 広島や長崎に対する原爆の投下を許可したのは、このトルーマン大統領。この人物はルーズベルト大統領と親しくなかった。1944年の大統領選挙でヘンリー・ウォーレスが脇の甘さをつかれて失脚、その代わりにはめ込まれたのだ。トルーマンのスポンサーだったアブラハム・フェインバーグはシオニスト団体へ法律に違反して武器を提供、後にイスラエルの核兵器開発を資金面から支える富豪のひとりになる。





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最終更新日  2016.05.13 01:47:02


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