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プロ野球のアンパイア大変です。ストライクゾーンにボールが半分、あるいは3分の1入ったか、入っていないかをその都度判定しているのです。これでは審判によって差が出るのは当然のことでしょう。ボール気味の球でもストライクという人もいれば、きわどいところはほとんどボールという人もいます。自分がボールであると判定した球を、審判がストライクと判定した場合、選手によって様々な反応があります。審判がストライクというのだからストライクなのだろうとおとなしく引きさがる選手もいます。不満はありながらも、そのケースがほとんどでしょう。しかしなかには、腹を立てて「どうして今の球がストライクなのだ。お前の目は節穴か」などと悪態をつく選手もいます。あまりにもしつこい人は、退場させられるケースもでてきます。この場合は、審判を敵に回すことになるので、その後がやりにくくなります。現役時代の落合博満選手の対応はとても参考になります。落合氏は試合前にとにかくよくアンパイアと喋っていました。信頼関係を築こうとしていたようです。さらに、試合中、本人がややボールと思ったものを仮にストライクと言われても、露骨に不満を表したり、高圧的に「今の低いだろ」などと声に出したりはしません。そんな時、落合さんはゆっくり振り返って、そのアンパイアに向かって、いたって優しい口調で、「ちょっと広めに取っているように思えるのだが、今日はそこまでとっているのだよな」と事実確認をします。この対応はその後自分に有利に働きます。審判たちの間には、「やはり落合さんはきわどいところがすごくよく見えている」というイメージが定着するのです。落合さんは元々選球眼のよい選手です。それに加えて、事実確認の行為を繰り返すことで、ただでさえよい選球眼がそれ以上によいような印象を審判の方に植え付けられるのです。そうこうしているうちに、落合さんが狙い球を外して甘い球を見逃したとしても、審判が「ボール」と言うようになりました。(古田式・ワンランク上のプロ野球観戦術 古田敦也 朝日新聞出版 85頁より引用)この話は腹が立つようなことを言われたときにとても役に立ちます。腹が立つというのは相手が間違ったこと、理不尽なこと、無理難題を押し付けるときに湧きあがってきます。これは相手が「かくあるべし」を自分に押し付けているのです。普通の人は相手を許すことはできないでしょう。売られた喧嘩は買いましょうという気持ちになることが多い。相手の「かくあるべし」に対して、反撃、攻撃、暴力、批判、否定、拒否、無視などの行動をとりやすい。前後不覚なってそのような対応をとるとその後の人間関係が滅茶苦茶になります。落合選手は、納得できない理不尽な判定にクレームをつけることは行いません。その審判の判定に対して事実の確認作業を淡々と行っているのです。そして、最終的にはその事実を受け入れてその後の対応策を立てているのです。私たちも相手が「かくあるべし」を押し付けてきたとき、すぐに反抗的な態度に出るのは得策ではないと思います。こんなときは、相手の理不尽な言動に対して見たまま、感じたままの事実だけを述べるように心がける。その事実に対して、「私はこのように思うのだが、この考え方・見方で間違いないかどうか教えてもらえないだろうか」と低姿勢で聞いてみる。そのような対応がとれるようになると、人間関係が険悪なることを防止できるようになると思います。
2024.04.16
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過去のミス、失敗、自分が犯した不祥事などが悪夢となって現れることがあります。他人から無視、非難、否定された記憶がよみがえり苦しむこともあります。やり直すことができれば今度はうまくやってみせるのにと思っても後の祭りです。また親の子育てに反発して、親を批判することもあります。親を恨んでなんとか償ってくれといっても今更どうにもなりません。どんなにつらい気持ちになっても、それらを取り消すことは不可能です。過去をリセットして、新たに書き換えることは不可能です。後悔は身心を痛めつけるだけで何もよいことは起きません。集談会で「森田は過去は問わない」と聞いたことがあります。過去の不祥事や辛いことを思い出して苦悩したときにこの言葉が助けになるということでした。過去の不祥事でいたたまれない気持ちになったときこの言葉を口ずさむと確かに楽になります。それは寛大な気持ちで自分を許すことになるからだと思います。神様はどんなに多くの不祥事を犯したとしてもそれだけで査定しているわけではないと思います。それらを抱えたまま前を向いて積極的、生産的、建設的、創造的に生きている人を高く評価するように思います。では忌まわしい過去を抱えてどういう心がけで生きていけばよいのでしょうか。まず私たちの出来ることは「今、ここ」に意識を向けて生きていくことです。森田では「前を謀らず、後ろを慮らず」といいます。いつも過去のことを思い出して苦悩している人は、「今、ここ」に集中していないのではないでしょうか。規則正しい生活習慣に従って、凡事徹底を心がけている人は、横道にそれてもすぐに元に戻れます。「今、ここ」に注意を向けている人は、いつまでも苦悩する人ではありません。次に過去の不祥事を再び繰り返さないように心がけることも大切です。広島の原爆慰霊碑の前には、「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」とあります。不祥事を起こすことが悪いのではなく、同じ不祥事を何度も繰り返すことが問題だと思います。対策を立てて実行することが肝心です。どうすれば分からなければ集談会の仲間に相談してみることです。さらに自分の不祥事を他人に開示して、他山の石として役立てるように心がける。他人が同じような苦悩に陥らないように役立てることはできます。集談会で他人の失敗談は大いに役立っています。
2024.04.04
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森田先生は強情も盲従も問題ありと指摘されています。「強情」な人は、森田先生が指導すれば、すぐにそれに取り組んでみると言うのではなく、家に帰って考えてみると言う。そういう人は森田先生が神経症の治療の分野ではすぐれた医師であるということを忘れている。このように頭の中で納得して決心するとか、自信がついてから取り組もうと考えている人のことを言う。「こんなに頭が悪くてはできるはずがない」と短絡的に考えて手をつけない人のことを強情というのである。強情な人は「かくあるべし」が強い人である。「○○しなければならない」「○○してはならない」と自分の考えを周りに押し付けることが多くなります。指示、命令、強制、脅迫、非難、批判、否定することが多くなります。人間関係は当然悪くなります。それはアドラーの言う横の人間関係ではなく縦の人間関係になっているからです。「盲従」と言うのは、森田先生の言われたことを万能の神様のように信じて、馬車馬のように突進する態度のことです。森田先生は当時入院されていた水谷啓二氏に、皆がいる前で、そこで三回ぐるぐる回ってお辞儀をしなさいと言われた。水谷氏は恥ずかしいことだと思いながらも森田先生の言われる通りに行動した。まわりにいるひとたちがクスクスと笑った。それを見て森田先生は、だから君はダメなのだと言われた。普通の人は「みんながいるのでそんな犬のようなマネはちょっと出来かねます」と言ってモジモジするはずだと言われている。(森田全集第5巻 266から268ページより要旨引用)盲従というのは自分の意志というものは何もない。相手の言いなりになっている。相手の無理難題の押しつけに対して、不平不満をいだきながらも受け入れてしまう。こういう人は相手からの「かくあるべし」の押しつけに対していつも服従している人です。相手からすれば自分の周りにこういうイエスマンばかりになるととても気持ちがよい。やりたい放題になります。盲従する人は、心の底では反発しているのに、相手の無理難題を受け入れてしまいます。ストレスだらけになります。不平不満でいっぱいになり、被害者意識でいっぱいになります。そのうち相手の足を引っ張ることばかりを考えるようになります。盲従は支配ー被支配の縦の人間関係になります。いずれ対立して最後には破綻します。強情も盲従も「かくあるべし」の押しつけという視点から見ると、どちらも同じようなものです。「かくあるべし」を減らして、事実本位の生活態度を身に着けた方が得策です。
2024.02.27
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「かくあるべし」を減らして、事実本位に近づく方法を考えてみました。「かくあるべし」というのは、「○○しなければならない」「○○は絶対に許せない」などと考えます。この状態は本人が無意識のうちに視野狭窄症に陥っている可能性が高いと思います。例えば交際相手を拙速に一人に決めて突き進むことは危ない。猪突猛進はうまくいくときもありますが、周りが見えなくなります。相手が同じ気持ちだった場合は、上手くいくかもしれません。そういうことは確率的には極めてまれなのではないでしょうか。その証拠に初恋の人と結婚したという人は極めて少ない。大学受験でも志望校を1本に絞って努力している人がいます。それはそれで立派なことだと思いますが、もし運悪く不合格になったときはショックを受けます。その時、第2志望を用意していればそのショックは軽減できます。営業活動でもこの受注はぜひ弊社が獲得しなければならないと考えると苦しくなります。切羽詰まった心境に追い込まれて、心の余裕はなくなってしまいます。無理やり受注を獲得するために、談合を画策するようなことにもなります。リベートや賄賂を渡して、法律違反もいとわないという気持ちになります。受注金額を極端に下げて利益ができないような見積もりを出すことになりかねません。マンションの大規模修繕工事では、想定外の安価な見積もりは手抜き工事を恐れて最初から除外されるのが普通です。下手に出ているにもかかわらず、戦う前から負け戦をしていることになります。「かくあるべし」を押し付ける人は一途に思い詰めて心のゆとりがなくなります。考え方が硬直しています。それは表情や態度に現れます。相手はその姿を見て警戒心を持つようになるのです。選択肢を敢えて一つに絞らずに、柔軟性を持たせることは、「かくあるべし」を遠ざけて、心のゆとりをもたらします。
2024.02.11
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帚木蓬生氏の言葉です。「考える」行為は、なぜか実を結びません。5分以上考えると、脳が傷むからでしょう。反対に、いくら見つめても、脳は傷みません。傷むどころか澄んでくるのです。見つめる対象は、外界である場合がほとんどです。しかし、動物と違って、人間は自分の心の動きも見つめられます。自分が怒っている。悲しんでいる。ドキドキしている、緊張している、怖がっている、頭の中が真っ白だ、といった状態を、人は見つめられるのです。自分を見つめるのは、人の特権かもしれません。特権ですから、大いに発揮してしかるべきです。ところが、ここに「考える」が入り込むと、事情がややこしくなります。たとえば、人前で緊張しているので、恥ずかしい、こんなのでは人から笑われてします、緊張しないようにしようと考え始めると、事態は複雑化します。人前で軽くスピーチをするとき、自分は緊張する、これは、自分を見つめる行為であり、自然な成り行きです。にもかかわらず、緊張してはいけない、恥ずかしい、人に笑われる、何とかせねばならない、と考えるのは、よけいな心配です。堂々巡りの心配の挙句、生じる結果は2つです。ひとつが回避行動で、人前でのスピーチを避けるようになります。この回避行動は、それだけで終わらないのが特徴です。回避行動は次の回避行動を呼び、回避しなければならない場面が、ねずみ算式に増えていきます。もうひとつの結末は、緊張を鎮めようとして、ますます緊張してしまう事態です。声がふるえるのを抑制すれば、ますます声は上ずってきます。緊張する場面は、当然緊張する。恥ずかしいことは、当然恥ずかしい。この「当然」に、よけいな「考え」がはいり込むと、森田正馬のいう「悪智」になります。不可能な事態をひたすら考えていると、身動きがとれなくなります。それでは、どうしたらよいのでしょうか。見つめよ、逃げるな、です。逃げず、緊張しながら、スピーチをすればいいのです。頭が真白になったり、声が上ずったり、声がふるえたり、顔が赤くなったりするかもしれません。それはそれで、そんな自分を見つめればいいのです。あれこれと考える必要は一切ありません。この「見つめる」をつきつめていくと、ハラハラドキドキを「味わう」次元にまで達せられます。足がふるえている自分を味わうのです。声がふるえている自分を味わうのです。情けないとか、人に笑われるとか、「考える」必要は全くありません。(生きる力 森田正馬の15の提言 帚木蓬生 朝日新聞出版 34ページから38ページ要旨引用)
2024.01.31
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今日は完全・完璧・理想を目指している人の葛藤や苦悩を取り上げてみました。・仕事で間違っているのではないかと、何度もチェックを繰り返す。・玄関、窓、ガス、電気、水道の締め忘れが気になる。・外出するときに忘れ物ないか気になる。・目に見えない細菌やウィルスが取りついているのではないかと気になる。・思わぬ事故や自然災害に襲われるかもしれないことを恐れている。・他人に自尊心を傷つけられることを恐れている。これらは不完全恐怖と言われています。完全・完璧・理想の状態を基本にして現実を見ているのです。観念主導の「かくあるべし」が強くて、現状を問題視しているのです。こだわりが強くなると、不安を払拭するために強迫行為を繰り返すようになります。強迫行為は安心するための行動です。何度確認しても安心できなくなります。仕事や生活に大きな影響が出ている場合は、入院森田療法が必要になります。集談会で改善できるのは日常生活や仕事がなんとか回っている人です。さて程度の差はありますが、完全欲は誰でも持っています。この機能が備わっているおかげで、不注意による問題行動を防止しています。つまり不安や恐怖が大いに役に立っているのです。現実は理不尽なこと、不完全なものがほとんどです。問題や課題だらけです。しかしこれは別に悪いことではありません。人間は問題や課題や目標を意識するようになると活動的になります。なんとかしたいという意欲が生まれてきます。積極的、生産的、建設的、創造的な行動をとるようになります。生きがいが生まれ、成功すれば自信がつき、自己肯定感が育ちます。問題は観念的な完全・完璧・理想主義(かくあるべし)で、事実、現実、現状を否定してしまうことです。完全・完璧・理想主義にとらわれると、とるに足らないような小さな問題点や不足が気になるようになります。それがすぐに自分の一生を左右するようなとてつもない大きな問題に膨らんできます。そのストレスに耐えられなくなり、パニックを起こしてしまいます。90%はうまくいっているのに、上手くいっていない10%にエネルギーを投入してしまう。また傍から見ると十分に恵まれていると思われるのに、本人はまだ全然だめだと思う。小さな感動、小さな成功、小さな喜びよりも、大きな感動、大きな成功、大きな喜びを求めるようになります。さらにそれ以上の完全・完璧・理想を求めるようになります。より強い刺激、より大きな快楽を求めていくようになります。つまり欲望に弾みがついて、暴走を繰り返すようになります。ほどほどのところで折り合いをつけられないものでしょうか。生かされている自分の存在、自分に備わっている資質や能力、自分の持ち物、身の回りにあるものはあたりまえだと思うようになります。あたりまえだと思うようになると、感謝の気持ちは湧き上がってこなくなります。感謝を忘れた人は、なにかにつけて批判、非難、否定することが多くなります。人間関係が悪くなります。孤立するようになります。神経症も完全に治そうとするのは考えものです。神経症のアリ地獄に落ちた時は一日中神経症と戦っています。頭の中にあるのは神経症のことばかりです。森田的な生活をしていると、その割合が少しずつ減少してきます。そして50%くらいに減ってくればもう神経症を克服したと言ってもいいと思います。それ以上治すのは横に置いて、仕事や生活を充実させることに取り組むようにした方がよいと思われます。完全主義、完璧主義、理想主義は、上から下目線で事実、現実、現状を否定する考え方です。完全主義を目指すならば事実、現実、現状をあるがままに認めて、下から上目線の態度になることが肝心です。
2024.01.13
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「本阿弥行状記」にこんな話がある。あるとき、本阿弥光徳が徳川家康から正宗の脇差を見せられた。徳川家康は自慢げに次のように言った。「この刀は代々、足利公方家の宝とされてきたもので、足利尊氏公の直筆の添え状まである。いかがなものか」光徳は家康を前にして、脇差を鑑定した。刀は確かに正宗だが、何度も焼き直しをしていて使い物にならない。光徳は正直に鑑定した結果を述べた。家康は腹を立てて以後光徳を召し抱えることはなかったという。光徳は家康の逆鱗に触れて、手打ちを覚悟の上鑑定したのである。それは刀の目利きに命をかけて精進し、生計を成り立たせてきた。それなのに、家康の威厳を恐れて、いい加減な目利きをしたとなると、自分の存在価値に傷がつくことを恐れたからである。今日はこの逸話をもとにして「正直」ということについて考えてみました。光徳は正直に鑑定結果を家康に報告した。自分の信念に従って正しいことを言ったので自己満足している。たとえそれで命を失うことがあっても構わない。家康だったから命だけは助かったが、織田信長だったらどうだろうか。多分生きながらえることはなかったと思われる。そして家族が路頭に迷うことは目に見えている。最悪本阿弥家は反逆者としての汚名を末代まで受けることになりかねない。赤穂藩主の浅野内匠頭は、江戸城松の廊下で自分を侮辱した吉良上野介に切りかかった。目的を果たすことなく、本人は即日切腹、御家断絶の処分を受けた。その結果多くの家臣を路頭に迷わすことになった。自分の気持に正直に行動した結果、取り返しのつかない結果を招いてしまったのである。怒りの感情を解放したので一時的にホッとしたが、周囲の人たちを道連れにして奈落の底に落ちたのである。自分の感情や気持ちに素直になるということは、よいことだというのが一般的な考え方のようですがはたしてそうでしょうか。森田先生は正直さよりは人情が優先されなければならないと言われています。会社で嫌いな人には挨拶もしない、無視するというやり方は問題です。また博打をしていた父親を警察に訴え出るような子どもは低能者か意志薄弱児だと言われています。父親が悪いことをしていても、子は親をかばうのが当然だ。高良先生は顔色の悪い人を見て、「あなたはガンかなにか重大な病気にかかっているに違いない」などと軽率なことをいってはならないと言われています。行動する時は正直さにとらわれて、それを前面に押し出してはいけないということだと思います。相手の気持ちを思いやると相手を傷つけるような発言は思い留まることができます。相手の気持ちや感情を逆なでするようなことを言うと、直ちに禍が自分に降りかかってきます。不平不満の感情などを相手にぶっつけると、その弊害ははかり知れない。森田では感情と行動はきちんと区別する必要があるといいます。相手が気分を悪くするようなことを平気で口にしてはいけない。正直に生きるというよりも、相手の気持ちを思いやることを優先する人は人間関係で躓くことは格段に少なります。せっかく森田で学んだことですから、ぜひとも応用したいものです。
2023.12.07
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森田でいう「かくあるべし」の弊害について、石原加受子氏が分かりやすく説明されています。「○○しなければならない」「○○すべきだ」「○○したほうがよい」これらはすべて「思考」です。しかもこれは、あなたが自分の感情を基準に決めたことではなく、自分の「借り物」を基準にしています。こんな借り物の思考を、あなたの意識のコンピューターに入力設定するとします。さらに「これをすると決めたら、最後までやり遂げなければならない」と入力設定します。けれども途中で、あなたは設定通りのことが実行できなくなりました。あなたというコンピューターは、どんな言葉をはじき出すでしょうか。恐らく、「私はダメだ。能力がない」「いくつも挑戦したが、いつも最後までできたためしがない」あるいは「根気がない。根性がない。忍耐力がない。継続性がない」などと、自分を責める言葉ばかりが自動的に口をついて出てくるでしょう。これほど不合理なことはありません。あなたの人生にこんな「思考」が入力設定されていれば、それだけで、あなたはもろもろのことに積極的に臨むのが怖くなるでしょう。なぜなら行動しようとするたびに、「もし失敗したら」という思考が、自動的に生まれてしまうからです。強調しておきたいのですが、「自動的な思考」で、怖れが生まれるのです。(傷つくのが怖くなくなる本 石原加受子 PHP文庫 33ページ)観念の世界に身を置いて現実否定をしていると、予期不安で一杯になり、そのうち手も足も出なくなるというのは多くの人が経験されているのではないでしょうか。森田理論では、思考の世界に立ち位置を固定して、事実の世界を自由自在にコントロールしようとする態度が、人間に葛藤や苦悩をおびき寄せていると説明されています。前頭葉があまりにも高度に発達した人間はその呪縛から逃れられないのでしょうか。森田では、思考を優先するのではなく、自分の感情、気持ち、意思、行動、欲求、欲望、希望などを大切に取り扱う必要があると説明されています。建前ではなく本音を明確にして、そこを出発点にすることが大事になります。
2023.12.06
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子供の頃に身につけた「かくあるべし」は、大人になってもそのまま引きずっています。サキさんのお父さんは、サキさんが少しでもヘマをすると、怒鳴ったりぶったり蹴ったりしていました。サキさんはいつもお父さんの顔色をうかがって身構えていなければなりませんでした。いつ雷が落ちるか分からないので、行動、表情、口のきき方など、お父さんの前ではいつも細心の注意を払っていました。でも、どんなに注意してもいきなり爆発が起きることがあるので、そういう時は下を向いて小さくなって、ひたすら謝るしかありませんでした。そんなサキさんに子どもが生まれました。その子どもにいきなりキレる母親になってしまいました。子供だけではなく、ときどきご主人にもキレてしまいます。あんなに嫌っていたお父さんの行動パターンと同じことをしていたのです。大人になると力関係が逆転して、言いたい放題になっているのです。キレた後はいつも後悔ばかり。自己嫌悪でやりきれない気持ちになります。会社でも問題を抱えていました。上司からパワハラを受けていたのです。これはサキさんの言い分で、上司は上司で別の見方をしていました。所内会議のとき、上司が「君はどう思う?」とサキさんに聞いても、彼女は下を向いて何も答えない。チームで仕事をしている時は、みんなの顔色ばかりうかがっていて、自分から積極的に仕事に取り組む姿勢が見られない。言われたことをイヤイヤこなしているように見える。サキさんは幼いころの父親との人間関係の中で、四六時中父親の意向を忖度しなければならない。父親の気に障るような行動、発言、表情は決して見せてはならないという「かくあるべし」を身に着けました。その「かくあるべし」が大人になったあとも尾を引いていたのです。子供や夫の場合は、父親とそっくりで突然キレてしまう。上司との関係は、借りてきた猫のようになり、オドオドして自由にふるまうことができない。どちらに転んでも問題です。本人は苦しくて仕方がない。幼いころに確立した「かくあるべし」を捨て去ることはできないものでしょうか。最近そのヒントをゲシュタルト心理学の中で見つけました。ここでは、小さい頃に身につけた「かくあるべし」が大人になっても多大な影響を与えている。自分の気持ち、感情、本音、欲求などが軽視されて問題を引き起こしている。つまり「かくあるべし」と現実や現状が対立する構造になっている。人間は観念と現実の狭間でのた打ち回っているというのです。ファシリテーター(カウンセラーのこと)とクライエント(相談者)がワーク(カウンセリングのこと)という共同作業をしながら呪縛を取り除いていくことができるというのです。その中で強調されていたことは、過去や未来、他人の言動、境遇や運命、自己嫌悪などに振り回されないで「今、ここ」に集中することが大切になると言われていました。この点は、マインドフルネス、森田理論でも同じことを指摘されています。最近はマインドフルネス認知行動療法という言葉も聞かれるようになりました。今後は森田理論と他の精神療法との融合も視野に入れていくほうがよいのではないかと考えています。他の精神療法には、精神分析、交流分析、ゲシュタルト療法、行動療法、認知療法、論理療法、マインドフルネス、ACT、来談者中心療法、内観療法、家族療法、SST、アサーション、芸術療法、ポジティブ心理学などがあります。森田理論と重なるところも多いですし、森田理論で取り上げていない部分もあります。他の精神療法のよいところはどんどん取り入れて、新しい森田理論として発展させていくべきではないでしょうか。(キレたくないのにキレてしまうあなたへ 岡田法悦 朝日新聞出版参照)
2023.10.10
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今日は、1、自分が自分に「かくあるべし」を押し付けている場合の弊害を取り上げてみました。自分をよく観察してみると、二人の自分が住みついていることが分かります。一人は思い通りにならない現実のなかで何とか生きている自分です。もう一人の自分は、その自分を雲の上のようなところから批判している自分です。二人の自分が敵と味方に分かれて内戦を繰り返しているのです。本来は二人の自分が一枚岩になって、目の前の課題や問題に対処しなければならないのに、エネルギーの大半を内戦に投入しているのです。注意や意識は内向きになります。注意や意識の外向化は起きにくくなります。周りの人はそんな自分を見て、あきれ果てているのですが、自分ではそのことに気づいていません。本来は雲の上にいる自分が、現実の自分に寄り添ってくれるようになればよいのです。どんな状況になっても味方になって、自分を最後まで守り抜くことが大切です。森田では観念主導で事実を取り扱う態度が問題であるという考えです。これを逆転して、まず事実に絶対服従する。そして次に理知で調整して行く。この順序をきちんとわきまえることが肝心です。どんなに受け入れがたい現実や事実であっても、先ずは素直な気持ちで向き合う。是非善悪の価値批判はしないことです。最終的にはあるがままに受け入れていく。この理屈が理解できれば、後は実践に移ることです。事実本位に移行する方法はいろいろとあります。手始めに森田理論の「純な心」から入るのはどうでしょうか。「純な心」は、物に接して最初に浮かんだ素直な感情、直観、初一念を思い出して行動するということです。「純な心」の特徴は、すぐに忘却の彼方に飛び去って行くということです。絶えず意識しないと捕まえることは非常に困難です。そして「かくあるべし」を含んだ第2の感情、初二念、初三念が次々に沸き起こってくるようになっているのです。これは前頭前野が大きく発達した人間の宿命です。せっかく森田理論で「純な心」を理解したのですから、これを生活の中で活用していきませんか。これを身につけると、二人の自分が一人に統一されてきます。内戦が収まり、エネルギーを生産的、建設的、奉仕的に使うことができるようになります。
2023.09.06
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昨日の続きです。今日は、2、自分が他人に「かくあるべし」を押し付ける場合を取り上げてみました。相手の存在、言動、感情、気持ち、意志、欲望、考え方を非難、否定する場合です。相手を自分の意のままにコントロールしようとする態度に出ることです。「かくあるべし」を他人に押し付けていると、そのときはストレスを吐き出したので少しだけすっきりします。しかしその結果は恐ろしいものがあります。当然相手は反発してきます。言い争いになります。喧嘩になります。相手との力関係に差がある場合、あからさまな反発がない場合もありますが、その怨念は潜在意識の部分にしっかりと刻まれます。しかもそれは多くの賛同者に拡散してしまいますので、自分が孤立することになります。社会から排除されると生きづらくなってしまいます。強迫神経症の人は一匹狼的なところがありますので注意が必要です。それを避けるために、自分の感情、気持ち、意志、意向、欲望などはできるだけ抑圧する傾向があります。自分の本音、素直な気持ちを軽視、無視するようになるのです。それが習慣になって気が付かなくなります。そして生きることが辛くなってくるのです。自分を粗末に扱っていると、大きなストレスで苦しむことになります。この悪循環にはまらないようにしたいものです。どうすればよいのでしょうか。自分の感情、気持ち、意志、意向、要望を相手に伝えたいとき、勢いにまかせて伝えることは考えものです。その前に相手の気持ちや考えを十分に確認する必要があります。相手の気持ちに耳を傾けることを最優先する必要があります。この気持ちが欠けていると、相手は身構えてしまい、戦闘態勢に入ってしまいます。これではまとまる話もまとまらなくなります。その次に満を持して自分の気持ちや要望を述べる。そして二人の間に横たわっている溝を二人で確認し合う。明確にすることです。溝を見つけることができれば、その溝を埋めるために話し合いをする。交渉の過程で譲るところがあれば譲る。妥協できるギリギリの交渉を続ける。この順序を間違わなければ、自分の「かくあるべし」を一方的に相手に押し付けることを回避できます。
2023.09.05
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森田理論を学習していると「かくあるべし」を押し付ける態度を問題視しています。「かくあるべし」というのは、頭で考えた観念の世界を最優先する態度のことです。その時事実や現実の世界は置き去りにされています。観念で事実をコントロールしようとすると様々な問題が発生します。「かくあるべし」は3つのパターンがあるように思います。1、自分が自分に「かくあるべし」を押し付けている場合。2、自分が他人に「かくあるべし」を押し付けている場合。3、他人が自分に「かくあるべし」を押し付けている場合。今日は3番目の「かくあるべし」の弊害を取り上げてみました。相手が自分の感情、気持ち、意志、意向、欲望を一方的に、自分に押し付けてくる場合です。それに対して、自分の立場を明確にしないと、相手の都合のいいようにコントロールされてしまいます。建前では相手を受け入れている形になりますが、本音の部分、潜在意識の部分では反発しています。そのままにしているとストレスが蓄積されてきます。そうならないためには、自分の感情、気持ち、意志、意向、欲望を明確にすることが大事になります。自分の本音はどうなのか。潜在意識ではどう感じているのか。これを石原加受子氏は「自分中心の生き方」と言われています。自分の感情、気持ち、意志、意向、欲望を軽視あるいは無視することは「他人中心の生き方」になるといわれています。次に相手に対して、自分の気持や意思をきちんと伝えることが肝心です。他人に嫌わることが恐ろしいと感じている人は、とても難しいことかもしれません。対人恐怖症、社交不安障害を抱えている人はしり込みしてしまうかもしれません。ここでは相手と勝ち負けをかけて勝つか負けるのかという喧嘩をするのではありません。自分の感情や気持ちを大切に取り扱い自分を癒していくのです。相手と自分の溝を少しでも埋めるための話し合いをするのです。交渉ですから、譲ったり譲られたりということが起きます。相手とけんか腰にならないためには、「あなたメッセージ」ではなく「私メッセージ」の手法が役に立ちます。
2023.09.04
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西田文郎氏のお話です。落ち込んでいるときに反省するのは大きな間違いである。うまくいかない時には、どうしても消極的になり、頭は否定的なデータでいっぱいだ。マイナス思考で、ああでもない、こうでもないと反省を繰り返す。これでは脳が感じている「不快」を反復してしまうだけで、ますますマイナス思考から抜け出せない。こんな状態でいくら考えても、いいひらめきもアイデアも浮かぶはずがないのだ。(ツキの最強法則 西田文郎 ダイヤモンド社 109ページ)ミスや失敗などがあると、「しまった」と後悔します。その不快な感情を自由に泳がしているだけなら何ら問題は起きません。しかし普通は「ダメだ、なんということをしでかしたのだ」とふがいない自分を非難します。つまりかけがいのない自分を否定してしまうのです。ミスや失敗が起きるたびに反省や後悔していると、たまにリベンジのチャンスが訪れても手も足も出なくなります。消極的で意欲の感じられない人になってしまいます。それは扁桃体で不快と判断された感情が、青斑核に送られて、防衛系神経回路が作動してしまうからです。消極的、回避的な人間になってしまいます。ミスや失敗を貴重な経験として取り込むことができれば、扁桃体で快の感情として取り扱われ、腹側被蓋野から報酬系神経回路が作動する道もあるのです。積極的でやる気に満ちてきます。行き先を間違えるととんでもないことになるのです。西田氏はこんな時は反省や後悔をしないことだと言われています。むしろ気分転換を考えた方がよい。・スポーツ選手でいえば、何も考えずにひたすら単純なトレーニングに励む。・スポーツからいったん離れて、カラオケでも遊園地でも好きなところで、とことん遊ぶ。意識して快の感情をもたらすようなことに取り組むようにするということです。すると不快な感情に変化が起きる。薄まったり消えてなくなることもある。森田理論は感情を流すことをお勧めしています。不快な感情にいつまでも関わらないように心がけることです。谷あいを流れる小川は勢いよく流れています。その水は飲み水として利用できます。その流れが停滞して淀んでしまうと、雑菌や藻が繁殖して魚も住めないような汚い水になります。絶えず湧きあがってくる感情を、どんどん流していくという能力を森田理論学習で身に着けたいものです。
2023.08.15
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イチローさんのスランプ脱出法が面白い。イチローはスランプのとき、いきなりベストの状態に戻そうとは考えていない。スランプのときに一番良い状態を思い出すと、理想の状態と現実との大きなギャップを感じて余計に苦しくなる。良くも悪くもない普通の状態、つまり中間地点を修正の参考にしているという。普通の選手は好調時のフォームをビデオで見て、現在どこが問題であるか、どこを修正すれば元に戻るかという風に考える。理想の立場から現実を見つめていると、次々に問題点が出てくる。あれもこれもすべて修正しなければ元の状態には戻れないと考えるから苦しくなる。ダメだ、難しい、自分には無理だと考えると、脳内を防衛系神経回路が駆け巡ります。こうなると笛吹けど踊らずという状態になります。スランプの改善が進まなくなります。そしてすべてを放りだして、あきらめてしまうのは問題です。反対に下から上目線で、一つか二つに絞って改善していると、活路が開ける場合があります。そして弾みがついてくると果然やる気が高まります。小さな成功体験が自信を育てて、脳内を報酬系神経回路が駆け巡るようになります。どんどん好循環が生まれます。さらにセロトニン神経回路も作動するようになれば、欲望の暴走を制御できるようになります。これは減点主義ではなく、加点主義の考え方を採用するということです。神経質性格の人は、観念優先で理想を他人にも自分にも押し付ける傾向があります。どうしても非難、否定することが多くなります。上から下目線の態度になります。この考え方は減点主義の考え方です。事実や現実を受け入れて、そこから目の前の課題や目標にチャレンジするようにすると万事うまく収まります。これが加点主義の考え方になります。
2023.07.11
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4月4日に子どもにランドセルを選ばせるときの注意点について投稿しました。そのコツは男の子、女の子向けに区分けされた中から、自分の好きな色を選ばせることが適切であるということでした。そうすれば、男の子がピンク色のランドセルを選択することはなくなります。無難な色であれば、6年間使いつづけることができます。男の子が小学校に入る前に、ピンクのランドセルを選んだ場合、高学年になったとき、後悔することは容易に想像できます。子どもに自由に選択させるというのは教育上大切なことですが、親が枠を設定して、その枠内で自由に行動させるというのがポイントでした。今日はこれを発展させてみたいと思います。相手に、「こうしなさい」と自分の意志や考え方を一方的に押し付けるのではなく、選択肢を2つか3つに絞って相手の希望や考え方を聞くようにする。その枠内で相手に自由に伸び伸びと行動させるというものです。これを心がけると「かくあるべし」を相手に押し付けることを回避できるようになります。相手の自主性が尊重されることになります。例えば幼い子をスーパーに連れて行くと、欲しいお菓子を見つけて「これ買って」と駄々をこねて親を困らすことがあります。これは買い物に行く前に子どもにいくつか提案しどれにするか選択させるのです。1、今日はお菓子は買わない。それでも買い物についてくるのか。2、100円以内のものを1個までなら買ってもよい。3、好きなお菓子を買ってもよいが、今度の誕生日には何も買わない。4、週に1回だけは自由に買ってもよい。5、今日は家で留守番をする。どれでもいいから、あなたが自由に選んでいいのよ。この方法は子どもの考えがある程度尊重されます。親子関係が良好になります。対立することが少なくなります。子どもは親の提案の枠内で自由に考えることができ思考力が鍛えられます。自分で考えて選択したことですから、前向きに責任を果そうとします。自立心が鍛えられることになります。「かくあるべし」を自分、他人、自然に押し付けることが多い私たちも、この方法を取り入れてゆきたいものです。例えば外食する時に、相手に「洋食、和食、中華のどれがいい」と聞いてみる。相手の要望に沿った料理店を選択すれば、相手もうれしいはずです。これを神経症の克服について応用すると、1、薬物療法があります。不安はある程度軽減されます。即効性があります。但し根本的な治療法ではありません。また薬を何種類も長期間飲んでいると弊害が出てきます。2、認知行動療法があります。その中に暴露療法があります。不安を何段階にも分けて、徐々に不安に慣れていくというものです。認知療法は、考え方の偏り、認識の間違いを正していくというものです。基本的に不安をなくする方向を目指しています。3、森田療法があります。不安は欲望の裏返しで湧き上がってくるという考えです。不安と欲望のバランスを取りもどして、不安を問題視しなくなる方向を目指しています。また観念優先の「かくあるべし」を押し付ける態度が神経症の苦悩を招いているとみています。そこで事実に従う態度を身につけることを目指しています。最終的には、神経質者としての人生観の確立を目指しています。どの方向を選択するかはあなたの自由です。よく考えて自分の進むべき道を選択してください。最初から森田療法を勧めるよりも相手に選択権を与えるというのはどうでしょうか。
2023.05.01
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村上和雄氏のお話です。ある不眠症の男性が、医師から睡眠薬を処方されました。そこで医師から、「この薬は1回に5錠までです。それ以上一度に服用すると、体の調子を崩します」という指示を受けました。しかし、この男性はあるとき50錠もの睡眠薬を一度に飲んでしまったのです。するとやはり体調をくずし、あまりの苦しさで意識朦朧としながら救急車を呼び、通院していた病院に運ばれました。そして、手当てを受けていると、担当医がやってきてこう言ったのです。「○○さん、じつは、あの薬の指示は私の間違いでした。あれは何錠飲んでも体には負担になりません」この言葉に男性はびっくりして、とたんに元気を取り戻し、そのまま歩いて帰ったというのです。自分はダメだ、と思ったら本当にその通りに具合が悪くなる。自分は大丈夫だと思ったら、なぜか具合がよくなる。「病は気から」というのは、「気のせい」ではありません。実際に自分が目の前の事実をどう受け取るか、どう感じるかによって、病気の遺伝子をオン/オフにしているのです。また、日頃から何かにつけて「自分はダメだ」と自分に対して否定的な生き方、考え方をしていると、いい働きをする遺伝子がオフになり、病気の遺伝子がオンになってしまいます。それは本当にもったいないことです。思い込みでもいいので、「自分は大丈夫」「生きているだけで丸儲け」とバカになって信じてみてください。それだけでも、きっと自分の内側から元気になっていくのを感じられるはずです。(どうせ生きるならバカがいい 村上和雄 水王舎 168ページ)病気になるかならないは遺伝子の働きによります。遺伝子は設計図のようなもので、人間にはその設計図が21000個あるそうです。よい遺伝子のスイッチをオンにするのか、弊害をもたらす遺伝子のスイッチをオンにするのかは、あなたの生き方、ものの見方、考え方が大きく影響しています。森田理論を深耕し、実生活に活用・応用すれば、きっとよい遺伝子のスイッチがオンになると信じています。
2023.02.28
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自己肯定感が持てないのは、「かくあるべし」を振りかざして、現実の自分を否定しているからではないでしょうか。否定する材料としては、容姿、性格、年齢、性別、能力、境遇、環境、国籍、人種、学歴、資格、役職、財産、不動産、両親、配偶者、子ども、仕事、行動、健康など人様々です。人と比較して見劣りすると判断した場合、自己嫌悪、自己否定に陥る場合が多い。完全主義やコントロール欲求の強い人は、上から下目線で現実を批判しますので、自己否定感で苦しむことになります。そういう意味では、自分という一人の人間のなかに、2人の人間が住んでいて、いがみ合っているようなものです。自己否定から自己肯定に切り替えるためにはどうすればよいのでしようか。1、他人と比較しない。2、過去の良かった時と、みじめになった現在を比較しない。3、「かくあるべし」を緩めて、「事実本位」に切り替える。4、自分が持っていないものをあまり深追いしない。5、自分が今持っているものを見直す。それを活かしていく方向を目指す。その際キーワードとして「今の自分、今自分が持っているものは、意外にいいかも」を使うというのは如何でしょうか。・意外に音感が優れているかも・意外とカラオケを上手に歌えるかも・意外と文章を書くのが上手かも・意外に絵画、似顔絵が上手かも・意外に分析力を持っているかも・意外に骨のある魚の食べ方が上手かも・意外に料理、洗濯、片付けが上手かも・意外に感受性が豊かかも・意外に好奇心が旺盛かも・意外に倹約家であるかも・意外に責任感が強いかも・意外に運転が上手かも・意外に小さな楽しみを見つけることが上手かも・意外と私の人生はよかったかも・意外と私と配偶者の相性はいいかも・意外と子どもたちは能力を持っているかも自分が持っているものを、持っていることが当たり前になってしまうと、まったく評価しなくなります。それは不幸なことだと思います。視点や見方を変えて、当たり前のことを高く評価できるようになると、自己の存在価値が高まってきます。そしてないものねだりはあまりしなくなります。今の自分や今持っているものに居場所や活躍の場を提供できるようになります。そういうパターンに入りますと、幸せが幸せを呼び込んでくるようになります。そのことを森田では「物の性を尽くす」と言います。
2023.02.10
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あいつだけはどうしても許せない。死ぬまで恨んで呪い続けてやると思っている人はいませんか。それが他人だけではなく、自分自身に向いている場合もあります。その強い執念を持ち続けるのは、大変なエネルギーが必要になります。莫大なエネルギーを補給し続けているわけですからある意味で立派なことです。しかし、そういう生き方はしんどくありませんか。そういう生き方とは違う別の生き方を選択することもできます。理不尽な仕打ちによって、大きなダメージを受けても、時の経過とともに、水に流して許容していく生き方です。反抗や対立とは反対の、許す・許容するという生き方です。臨床心理士の杉山崇氏がそのヒントを提案されています。これらを自分の生活に応用することで、許容力が身につくと考えます。以下は、「許す練習」 杉山崇 あさ出版を参照しています。1、感謝の気持ちを持つ。感謝の気持ちで生活を続けていると、怒りを手離して赦すことができるようになります。その手法の一つとして、内観療法というのがあります。一般的には内観研修所に行って一週間くらいの時間をかけて行います。「身調べ」と言われています。してもらったこと、してさしあげたこと、迷惑をかけたことを調べていくのです。母親、父親、祖父母、兄弟姉妹、友達、仕事仲間・・・などに広げて、年代ごとに区切って調べていくのです。私は大阪の内観研修所で一日内観を行いました。1日では何の効果もありませんでした。しかし1週間の集中内観を受けた人の話を聞くと、感謝の涙が止まらなくなるそうです。誰に聞いてもそういわれます。しかし日常生活に戻るとその効果はしだいに薄れてくるそうです。家で自分一人で日常内観できるように習慣化することが大切だそうです。2、目的や目標を持って生活する。目的や大きな目標を持って生活している人は、現実にしっかり足を着いて、下から上目線で生活している人です。そういう人は、理不尽なことに反抗する態度は少なくなります。目的や課題を意識している人は、結果として許容できるようになります。森田理論の事実本位の態度を身に付けている人は、他人や自分を非難・否定することよりも、肯定、許容できる態度を身に付けた人と言えます。目標を持つ生き方については、2022年10月21日投稿の「仕事を面白くするコツ」を参照してください。3、マインドフルネスを活用する。マインドフルネスの要諦は、過去や未来に振り回されないで、「今ここに」集中して、湧き上がってきた自分の感情に気づくということです。感情に振り回されないで、その感情を客観的な立場から眺めることができるようになります。私はマインドフルネスに詳しい山口県の臨床心理士、刀根良則先生のWeb講座で勉強しました。また、藤井英雄氏の「マインドフルネスの教科書」「マインドフルネス人間関係の教科書」などの本も参考になります。
2023.01.27
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林成之氏のお話です。われわれ日本人は、幼いころから100点は満点だという教育を受けてきました。仮に、あるテストで80点を取れば、「あと20点も足りない。もっと努力しなさい」と言われて育ってきています。それゆえ日本人には、いつも満点から自分の現状の「点数」を引いて、あと○○が足りない」という判断をする「引き算思考」でものを考える習慣が根付いています。そのせいで、失敗すると過剰に落ち込んだり、前向き思考が弱いために他人の欠点を批判するものの、その解決策を考えられない、などの弱点を持っているように思えます。ですから、私は「足し算思考」を持ってほしいと思います。最初の出来が30点でも、次は50点、その後は70点となるようにレベルアップして欲しいものです。仮に100点が取れたとしても、そこは単なる通過点で、さらに目標を引き上げて挑戦し続けてほしいものです。(勝負強さの脳科学 林成之 朝日新聞出版)林氏の指摘は、森田理論で学習した内容と似ています。100点を理想として、自分のとった点数を見ると、間違えた部分が大きくクローズアップされてきます。普通は80点を取った人は、成績優秀な人だとみなされると思います。それなのに本人は、間違えたことが許せないのです。私はこういう考え方をする人のことを、「減点主義」と呼んでいます。減点主義は、換言すれば、現実否定主義のことです。自分を完全・完璧の考え方で塗り固めて、上から下目線で現実の自分を見下ろすと、欠点だらけに見えてしまいます。不足部分や問題点に焦点を当てて、非難、否定、軽蔑することは辛いものがあります。自分の不快な感情を払拭して、雲一つない日本晴れの青空を求めているようなものではないでしょうか。少し考えてみるとすぐわかることですが、生まれてこの方、親や学校や社会で教えた貰った教育が、観念優先の「かくあるべし」教育だったために、その考え方に芯から染まってしまっているのではないでしょうか。森田では、このことを思想の矛盾といって、神経症に陥る原因とみています。また葛藤や苦悩を抱えて辛い人生を生きていくことになるとみています。森田でお勧めしているのは、「減点主義」ではなく「加点主義」です。今現在は30点でも、50点でもよいのです。極端にいえば、箸にも棒にもかからない0点でもよいのです。そこを出発点と心得えて、目線を上に向けて、行動を起こしていけばよいのです。現在の問題点を見つめていると、課題や目標が明らかになってくるはずです。そういう気持ちで目標を追い求めていると、弾みがついて、100点を通り越して、120点、130点を目指していくことも考えられます。努力精進していく態度は、無限に広がってくるということになります。この場合は注意や意識が物事に向いていますので、自己嫌悪、自己否定することはありません。この考え方は、森田では「事実本位」「事実唯真」の考え方になります。森田理論の核心部分です。ぜひとも「加点主義」の考え方を、自分のものにしていただきたいと思います。
2022.12.01
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「部長シンドローム」という言葉があります。「部長シンドローム」とは、「退職してからも、大会社の役付けだったことが忘れられず、何かにつけ命令したがったり、相手の言うことを馬鹿にしたり拒む人」を指すそうです。あなたにその傾向がないかどうかを判定する簡単なテストがあります。次のなかから、「その通りだ」と思うものをあげてみてください。1、年齢や性別に関係なく、誰にでも優しくすべきだ。2、何かしてもらったら、感謝すべきだ。3、いったん決めたことは最後までやり遂げるべきだ。3、何かしら社会の役に立つことをすべきだ。もっともらしいことばかりですが、実は、一つでも思ったら「部長シンドローム」の可能性があります。なぜなら「○○すべきだ」という考え方は、第3者に「自分と同じように考えるべきだ」「同じようにやるべきだ」という観念の押し付けだからです。これは森田でいうところの「かくあるべし」の押し付けのことです。「かくあるべし」は、個人の過去の成功や失敗体験をもとにして頭の中で考えた予測にすぎません。事実に裏打ちされた、確かな普遍性があるわけではありません。それを無理やり相手に押し付けて飲ませようとするのですからたまりません。たとえ成功確率が半々の場合でも、自分の考えを主張します。そして想定外の事態に陥った時、それは自己責任ですからと責任を回避してしまう。この方針で、他人ばかりでなく、自分自身にも縛りをかけているのです。自分に向けられると自己嫌悪、自己否定感が強くなります。自分の信念、意思、考え、目標、希望、夢をしっかりさせることは大切なことです。これに基づいて意欲が高まり積極的、建設的、創造的な行動が可能になります。しかし一方的に周りの人に押し付けることは百害あって一利なしです。あまりにも観念優先の態度が強い人は、「自分は正しい」「相手は間違っている」「自分の指示に従えば間違いない」と自己中心性が前面に出てきます。これが人間関係の対立を生み出していることに早く気付くべきです。観念と事実との間に大きな溝が生まれて、生きづらさや葛藤や苦悩を招いていることに早く気付くべきです。気付くだけでも大きな進歩だと思います。原因が分からないで悶々とした生活を送り一生を終える人も多いのです。私も森田理論学習をする前は、そんなことに全く気が付きませんでした。「かくあるべし」という観念優先の態度が神経症と関係があるとは考えてもみませんでした。それが分かったとき、どうすれば事実本位の生活態度を身につけていけばよいのかに関心が移りました。これは、2021年7月11日から7月22日まで投稿しました。題は、「かくあるべし」という観念優先の態度から、「事実本位」に近づく方法です。そして最近では、藤井英雄医師の提唱されている「マインドブルネス」の手法を森田理論に置き換えて、実践的に活用できるように提案しています。事実本位は理論を学び、活用する意識を持って生活すれば、かなりの効果があることが分かりました。今後もこの方面から投稿してまいります。
2022.09.02
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今日は他人から「かくあるべし」を押し付けられた場合の、対応方法を考えてみたいと思います。具体的には、批判、非難、否定、叱責、軽視、無視、からかい、脅迫されるなどです。こんな場合、「目には目を、歯には歯を」という感じで反撃している人はいませんか。私も恥ずかしながら、森田理論を学習する前は、そんな感じでした。反撃しないと、自尊心というプライドが許さない。不快感が治まらない。ついやり返してしまう。後で後悔するが、人間関係はもとには戻らない。暴言や暴力に訴えた場合は、悪評が広まって四面楚歌になってしまう。森田理論学習によって、せっかく「かくあるべし」の弊害を学習しているのですから、これを人間関係に応用してみませんか。相手の「かくあるべし」をいったん受け入れるのはどうでしょうか。どんな理不尽なことを言われても、どんなに間違っていることを言われても、人格を否定されることを言われても、反撃を控えていったん受け入れるのです。ここで役立つのは、「お客様相談室」の対応です。普段は冷静な人でも激昂して、人様には言えないような暴言を吐いてきます。ここでは売り言葉に買い言葉の対応は厳に戒めるように言われています。相手の怒りが収まるまで、どんどん吐き出させるようにするのです。「ご迷惑をおかけしております」「ご不便をおかけしております」「ご心配をおかけしております」こちらから言うことはこれくらいのものです。感情は一山登った後は、下り坂に向かうのですから、時間の経過をひたすら待つ戦略です。こちらが反撃しないと、そのうち相手は張り合いをなくしてしまいます。いつのまにか最初の勢いはしぼんでしまいます。この段階をスキップすることは、事態をさらに悪化させて、修復困難になります。この段階を無事に通過すると、ひとまず消火活動に成功したことになります。落着いたころを見計らって、クレーム内容について、少しずつ聞き出していくようにするのです。問題点が判明すれば、解決の道が見えてきます。配偶者、親、子供、上司、同僚、友人などから、「かくあるべし」を押し付けられたときは、森田理論を活用するチャンスが到来したと考えるのはどうでしようか。相手の「かくあるべし」に対抗しないで、まず受け止めるようにする。相手の不快な感情、気持ちだけを一旦受けいれるということです。ここがポイントです。ただし、相手の要求をすべて飲む必要はありません。あくまでも相手の感情にそっと寄り添うということです。全てにわたって相手の言いなりになるということではありません。相手の言いなりになると支配・被支配の関係になってしまいます。マイナス感情を承認するだけで、相手の主張に同意することではないということは、はっきりさせておきましょう。そして時間の経過をしばらく待つ。そして落ち着いた時を見計らって、自分の言いたいことも相手に伝える。大きな溝が横たわっていれば、話し合いによって調整して行く。お互いが納得できる妥協点を探る。譲ったり、譲られたりして何とかバランスをとっていくことが肝心と心得ることです。
2022.05.14
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次の言葉は森田先生がよく使われている言葉です。夢の内の有無は有無ともに無なり、迷いの内の是非は是非ともに非なり初めて耳にされる人は、禅問答のようで全く意味不明と思われるのではないでしょうか。今日はこの言葉をとりあげてみたいと思います。神経症の治療でいえば、対症療法的な治療法では、少し良くなるように思えても、結局は治らないばかりか、ますます混迷の度を深めていく。骨折り損のくたぶれもうけとなることになる。「毫釐(ごうり)の誤り千里の差を生ず」という言葉も同じような意味です。目の前に2本の道があって、もしその選択を誤れば、目的地とはどんどん離れていく。その誤りに気付かなければ、引き返すこともできない。お金やエネルギーを消耗して取り返しがつかなくなる。ここで考えてみたいのは、「夢の内」「迷い」という言葉です。あやふやな考え、短絡的な考え、早合点、思い込み、安易な決めつけなどのことではないでしょうか。これらの反対言葉は、真実、真理、普遍的な考え、事実に裏打ちされた考え方のことではないかと思います。なかなか真実、真理、普遍的な考えが見つからないので、あやふやな考え、短絡的な考え、早合点、思い込み、安易な決めつけに走ってしまうのかもしれません。「幽霊の正体見たり枯尾花」という話があります。秋から初冬にかけて、月明りの夜道を心細く一人で歩いていると、突然ガサガサと音がする。すると、幽霊が出てきて自分を追いかけてくるような気持になる。居ても立ってもいられなくなって、町灯の方に向かって一目散に駆け出す。慌てふためくと石にけつまずいて、ひっくり返り大けがを負ってしまう。後日、昼間にそこを訪れてみると、ススキの穂が風に揺られて音を出していた。一旦幽霊だと思い込んでしまうと、大変な惨事が引き起こされる。この場合、冷静になって事実を見極めるという態度があれば、気が動転して慌てふためくことは避けることができます。このような「あやふやな考え、短絡的な考え、早合点、思い込み、安易な決めつけ」などが問題なのですよ。それを絶対に間違いないと信じて行動すれば、ほとんどが見込み違いとなります。野球でいうと、150キロを超えるストレートを予想して、バットを振ったら手元で大きく落下するフォークボールだった。あえなく三振。ワンバウンドになるような球になぜ手を出すのだといわれても、予想が外れれば、結果は自ずから分かるということです。神経症を治すということも同様です。薬物療法をはじめとした対症療法があります。不安を根こそぎ取り除いてしまおうという精神療法もあります。松葉づえ程度に活用するのはよいのですが、それらを神経症治療の第一選択肢とするのは如何なものか。もっと神経症の発生原因に目を向けたほうがよいのでありませんか。神経症的な不安は欲望の裏返しとして湧き上がるものだということが理解できればその後の展開は大きく違ってきます。不安の特徴や役割、不安と欲望の関係、観念優先で事実軽視の態度の弊害を理解して対策を立てることが肝心です。神経症治療は森田療法が一番だというつもりはありませんが、少なくとも森田療法はあらゆる治療法を消去法で取り除いた後に、最後まで生き残った治療法であるということに思いを馳せていただきたいと思います。だから森田療法は100年以上も生き残っているのです。森田理論の考え方は、今後の人類史を左右するような内容を持っているのです。現在は表面的には風前の灯火のような状態ですが、いずれ復活すると考えています。
2022.04.28
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2018年9月24日の投稿で「完全欲」は貪欲に追及していくことが大切ですが、「完全主義」はすぐに捨てる必要があることを説明しました。神経質者の場合はこれが逆になっている場合があります。つまり「完全欲」が放置されて、「完全主義」を追い求めている。「完全欲」は、たとえば銀行では3時に閉店した時に残高を調べます。その時例え1円でも合わなければ徹底的に調べます。1円ならポケットマネーでつじつまを合わせてOKというわけにはいきません。それを見逃せば、いつか大きな不祥事に発展する可能性があります。時々会社の経理担当者が公金を横領して刑事事件になることがあります。これは会社の内部統制、コンプライアンスの順守ができていなかったからです。会社の体質や姿勢に問題があったととらえるべきです。金銭を扱う従業員に対するマニュアルの順守と第3者によるチェック体制を日々実行していれば不祥事は防ぐことができたはずです。我々神経質者が目指すべき「完全欲」は何でしょうか。私が真っ先に挙げたいのは日々の日常茶飯事です。食事の準備、掃除、洗濯、整理整頓、隣近所との付き合いなどがあります。これらはできるだけ完成欲を発揮していく必要があります。神経症に陥ると、この部分が全部あるいはその一部が手抜きになります。余ったエネルギーは、神経症との葛藤や苦しみに向けられます。困ったことになります。その時に出てくるのが観念的な「完全主義」「理想主義」です。それが現実や事実の否定に向かいます。神経症で苦しんでいる自分を認めることができない。事実を素直に認めない。自己嫌悪、自己否定しています。観念の世界で、神経症の悩みや苦しみのない状態を妄想している。その段階に自分を持って行こうとしている。ここで問題になるのは、自分の立ち位置だと思います。目標が明確な人は、地上にしっかりと足固めをしている。そこから、下から上目線で目標や夢を眺めている。そこに近づきたいという情熱を持っている。グットタイミングを図っている。協力者や相談相手を持っている。資金を集めている。ノウハウを蓄積している。いくつものスモールゴールを持って挑戦している。そして小さな成功体験を積み重ねて自信をつけている。一方「完全主義」「理想主義」「目標達成至上主義」の人は、雲の上のようなところに自分の立ち位置をとっている。上から下目線で、事実、現実、現状に対して常にクレームばかりつけている。これは自分で自分をいじめているということです。理想や完全からは程遠い現実に我慢がならない状態でいつもイライラしている。現実と理想の間には大きな乖離があり、そこに葛藤や苦悩が生まれているという状況を把握できていません。自分の中にいる二人の自分が消耗戦を強いられているようなものです。どうしようもない現実を否定しているだけではなく、ともすると無理やり理想の状態に引き上げようとしている。そしていつも失敗に終わり、心身ともに衰弱している。そのうち人生に対して投げやりな態度を見せるようになっている。森田理論では雲の上にいる自分が、現実世界でもがき苦しんでいる自分に寄り添う態度が何よりも大切だと言っているのです。相対立していた二人の自分が手を携えて、目の前の課題に向き合うことを目指している理論です。そうなると心身ともに健康体となります。自分で自分を否定することほど罪作りなことはないと思います。
2022.03.15
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森田先生は尊敬語、謙譲語の誤った使い方に手厳しい。豊島園の池には、「金魚を可愛がってあげて下さい」という立札がある。近来は敬語や稚語の使い方が全く滅茶苦茶である。ラジオの講演などでも、文学博士などという人が、随分、民衆におもねるような不用意な言葉を使って、はなはだ不愉快になることがある。この場合は、「可愛がってやってください」というべきではありませんか。私の家でも、女中などが、「魚屋がいらっしています」などというかと思うと、「先生が来たよ」とか、知らずしらず口からのでたらめでいっている。朝日新聞の相談欄でも、山田わかさんが、「お子さんを世話してあげなさい」という風に書いてある。教養のある人でも、近来はこんな言葉を正しい事と思っているのであろうか。これは「お子さんを世話しておやりなさい」「お母さんを世話してあげなさい」という区別が、日本語にはあるのではあるまいか。(森田全集 第5巻 669ページ)日本語の意味が通じればそれでよいという人は、言葉使いに目くじらを立てておられる森田先生の発言は眉をひそめるものかもしれません。また適切に使い分けているかというと、どうも心もとない。森田理論と何か関係があるのでしょうか。日本語には、昔から尊敬語や謙譲語や丁寧語を使い分けることが重要視されています。尊敬語は、先生や目の上の人を敬う気持ちを表現する敬語です。謙譲語は、自分がへりくだることで、目上の相手に対して敬う気持ちを表現します。たとえば、「来る」という言葉を、尊敬語でいうと、「先生がいらっしゃる、先生がお見えになる、先生がお越しになる、先生がおいでになる」という表現になる。これを謙譲語でいうと、「私が参りましょう、私が伺いました」ということになる。「食べる」ということは、尊敬語では「先生が召し上がる、先生がお食べになる」となる。謙譲語では、「いただきました、頂戴しました」となります。尊敬語と謙譲語が逆になるということは、先生、先輩、目上の人をことさらに敬っていないということになります。友達感覚、目下の人と同じように考えている節がある。反対に友達や子供、部下や目下の人に対して尊敬語を使うということは、相手を法外に持ち上げて、自分がよく見られたいとか利得を得ようという下心が垣間見れる。使い方がでたらめということは、大切に取り扱うべきものと、普通に取り扱うべきものとの感覚が麻痺していると言わざるを得ない。こうなりますと先生や先輩はいい気がしない。森田先生は、先生、先輩、監督、リーダー、コーチ、親などは経験を積み重ねて、知識も持っている。自分をよくしようと思ってくれている人たちである。そういう人は最初から尊敬すべき相手ではないのか。それが人情ではないのか。森田理論はそういう自然な感情に素直に反応する態度を身に着けようとしているのである。自分よりも豊富な経験や知識を持っている貴重な人材を大切にして、その人たちから何らかのご利益を得るという敬いの態度を持っている人は、自然に言葉遣いも適切になる。言葉使いひとつとっても敏感になり、尊敬語と謙譲語の使い方が適切になる。決して逆になることはないはずだとおっしゃっておられるのだと思う。そういう見落としがちな面に注意を払う心がけを持っている人は、元々持っている鋭い感性を存分に活用できるようになるといわれているのです。森田理論は小さいことが気になるという特徴を逆手にとって、普段の生活の中でとことん活かしきることを目指しているのです。
2021.08.03
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観念優先の態度を事実優先の生活に切り替えるために!その2、自分のなかにいる二人の自分を一つに統一する。私は森田理論を学ぶ前は、現実の自分とその自分を叱咤激励しているもう一人の自分が同居していると考えたことがありませんでした。これを教えてくださったのは、玉野井幹雄さんです。人は誰でも自分の心の中をよく観察すれば、「現実の自分」と「それを批判している自分」に分かれて争っているものです。普通の人は、それが当たり前だと考えて、適当に「折り合い」をつけて生きているのですが、神経症になっている人、または主観的に悩んでいる人は、完璧を求めすぎるために、「折り合い」をつけることに失敗して苦しんでいる状態である、と言ってもいいと思います。それは「批判している方の自分」の力が強すぎたり、対処の仕方を間違えているために起きている現象であって、その点を改めることができれば解決する性質のものであります。現実の自分を強力な「かくあるべし」で、非難、叱責、否定しているというのです。現実の自分の行動が行き過ぎないように、理知の力である程度抑制することは大切です。でも観念の世界で思考したことを、事実、現実、現状の上に置くという考えに至ると弊害の方が多くなります。その状態に至ると、観念と現実の力のバランスが崩れています。バランスが崩れると、サーカスの綱渡りですと地上に落下するということになります。私たちの場合でいうと思想の矛盾に陥り、葛藤や苦悩、生きづらさを抱えるようになるのです。このバランスを回復するためには、当面は事実、現実、現状の自分に肩入れすることです。どんなことがあっても自分を守りぬき、擁護して見せると覚悟を決めて実行することです。この覚悟を表しているキャッチフレーズがあります。天才バカボンの「これでいいのだ」です。この言葉を絶えず口ずさむようにするのです。この言葉は、快く思っていない弱点、欠点、ミス、失敗、両親、境遇、環境などに対して、すべてをあるがままに認めて、受け入れますと高らかに宣言しているのです。こうして「かくあるべし」を弱めて行けば、現実との葛藤は少なくなりますので、無駄なエネルギーを使わなくて済みます。問題だらけの自分をゆるすことができると、今度はその余ったエネルギーを生の欲望の発揮に使うことができます。つまり新たな人生の幕開けになるのです。自己防衛が無くなり、日常茶飯事、課題や目標、夢や希望に向かって努力できるようになります。そういう生き方は、周りの人に幸せを届けることになるのです。だから、二人の自分に折り合いをつけることは、事実本位の態度を身に着けるために、最初に取り組むべき課題となるのです。ここで山崎房一さんの「自分の最大の敵は自分」という詩を紹介しましょう。自分にとって一番恐ろしいことは自分が他人の目で自分の欠点を責めたてて自分の存在を否定すること自分にとって一番心強いことはどんなことがあっても自分が自分の味方になって自分を守ることです自分にとって自分は自分の安住地でなくてはなりません他人からどんなに非難、否定されても、他人と一緒になって自分を非難、否定してはいけません。戦争でいえば、最前線で敵と戦っているのに、後ろから身内の者が自分を攻撃しているようなものです。どんなに強い人でもひとたまりもありません。自分が自分を守り抜くことは最後の砦となります。自分で自分を守り通すという覚悟があれば、それだけである程度の逆境を乗り越えていけます。つらい時には母港に戻って英気を養うこともできます。他人から非難、否定されている時に、他人と一緒になって、自分自身を非難、否定して見放したとき、一挙に人生の防波堤が決壊し、自分の人生は惨憺たるものに変わります。せっかく与えられた命です。もし神様が存在するとすると、自分自身をどのように大切に扱ってきたかが査定評価のポイントになると思います。自分自身を粗末に扱った人を、また別の惑星で生まれ変わらせるようなことがあると仮定すると、人間のような高度な知的生命体として生まれ変わらせることはないのではないでしょうか。与えられた命を大切にして、とことん己の性を尽くしていきましょうというのが森田理論です。
2021.07.14
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私たちは、森田理論学習によって、「かくあるべし」を自分や他人に押し付ける態度は、不幸に向かってまっしぐらといった状態であると学びました。「かくあるべし」という観念中心の生き方を、事実を中心とした生き方に転換することによって、苦悩や葛藤はほぼなくなることが理解できました。さらに、事実に立脚した生き方は、問題点や課題、目的や目標、夢や希望に向かう出発点になることが分かりました。この事実本位という生き方は、普遍性があり、人類の幸せにする理論です。しかし言葉ではよく分かっているのですが、実行は難しいというのが本音です。この方向性を阻んでいるのは何か。換言すれば「思い込み、思い違い、思い上がり」という生活態度です。自分のやり方や考えは常に正しいという思い込み。他人はいつも間違いを起こしている。他人の考えていることは間違いだらけであるという思い違い。他人は、自分の正しいやり方や考え方を学んで、やり方や考え方を改める必要があるという思い上がり。あなたの周りにこのような人はいませんか。自分では自覚がなくても、実際はその通りという人は多いように思います。どうしてそのようなことになるのでしょうか。観念優先という態度があまりにも強すぎるからではないでしょうか。事実を観察しない。事実を確かめない。事実を軽視する。都合の悪い事実は隠蔽する。事実を捻じ曲げて新たな事実を捏造する。先入観で物事を判断する。自分の考えに固執する。聞く耳を持たない。風評や他人の話をそのまま鵜呑みにする。他人を自分の意のままに操りたいという気持ちが強い。自分で動いて真偽のほどを確認しないで、今までの経験を基にして観念の世界で是非善悪の価値判定を行う。そして他人を自分の都合に合わせてコントロールしようとする。こういう人はつねに観念と事実の間に溝ができます。その溝を埋めるために、他人と戦いを始めることになります。他人を敵として認識しているわけです。勝つか負けるかが唯一生きる目的になってしまうのです。人間本来の生の欲望に向かう生き方とは無縁となります。森田理論では、面倒でも事実確認、事実観察を怠ってはならないといいます。先入観や決めつけ、レッテル張りなどはもってのほかです。そして人間が2人いると、必ず見解の相違があるものだという前提に立っています。その思いを出し合い、溝を埋めるために話し合いをする。妥協点を見つける努力をする。あくまでも事実を出発点として、課題や目標を見定めて生活する態度を身につけましょうと言っているわけです。事実唯真を口でいうのは簡単です。意識して取り組まないと身につきません。森田理論学習は、事実唯真を生活の中に取り入れて習慣化することを目指しているのです。
2021.05.03
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デパートなどで気に入ったネクタイを見つけたとき、「ほしいな」と思うことがあります。でもこの段階は、色や柄を他のネクタイと比較し、値段のことを気にしていて買おうと決めているわけではありません。買ってもいいし買わなくてもよいと品定めをしている状態です。その段階は店員からすると、見込み客ということになります。上手な販売員は、決断に至っていないお客様のその感情を育てることが上手なのだそうです。そして最終的には、お客様が自ら買うことを決断してしまうのだそうです。その魔法のような様な方法をご紹介しましょう。好みのネクタイを手にとってみていると女性の店員がやってきます。「グリーン系がお好きなんですか」「特に好きというわけではありません」「いま、おつけになっているネクタイも素敵ですね。お好みの一つですか」「そうね、これは気に入っているね」すると、店員は、グリーンの厚手のネクタイと、もう一本、私の好みに合ったものを持ってきて、私の前においた。「いかがでしょうか」「うーん、これから春になると、どうかなこのグリーンは」私はグリーンにこだわっていたが、彼女は、聞き役に廻って、笑顔で頷き、時折意見を述べた。決して、押しつけなかった。それとなく客の様子を見守りつつ、聞き役に廻ってアプローチができる人は、客の心をつかむのがうまい。気が付くと、いつの間にか店員から勧められたネクタイを買っていた。この店員はその気になりかけたお客の気持ちを育てて、最後には決断に持ち込んだのだ。人は義理買いでない限り、店員から高圧的に買わされるのを嫌がります。何としても、売りつけてやろうという態度はすぐに見抜いてしまいます。そしてすぐにその場から逃げ出したくなります。買いたくなるのは、さりげない接客態度が必要になります。この人は時間つぶしに見ている人か、良いものがあれば買いたいと思ってみている人か察しをつけている。そして買うかもしれない人にだけ近づいていく。その際、笑顔を忘れない。そして商品を押し付けて無理やり買わせるという態度は封印している。お客様の気持ちや興味や関心をつかむことに気を使っている。そしてお客様自身がこの商品が欲しいという気持ちになるように誘導していく。これは自分の場合で考えるとよく分かる。自分が買いたくなるのは、この商品を買えば現在困っている問題が解決する。この商品を所有することで、今よりも生活が豊かになる。家事などが楽になる。精神的に満ち足りた気持ちを味わうことができる。知識欲などが刺激される。自分に役立つもの、精神的に満足感を与えるものであれば、たとえローンを組んでも手に入れたいと思うようになります。ですから、買い手が現在抱えている問題を捕まえることは有効です。この商品は購入者の問題解決に役に立つことを説明すれば買いたくなります。あるいは、この商品を買えば、精神的な満足感が得られることを説明すれば、相手は欲しいという気持ちが高まってきます。あとは買えるだけの財産があるかどうかです。店員が買ってほしいという気持ちを買い手に押し付けただけでは、販売目標は達成できません。買い手の目線に立って、今現在困ってることや潜在的な欲望を顕在化させるというアプローチが必要になるのです。これは、自分の「かくあるべし」を相手に押し付けるのではなく、相手の立場、現状、心境に寄り添うということだと思います。その地点に降りていって相手に寄り添うという作業が必要不可欠ということになります。そういう店員は比較的仕事がうまくいくようになるのです。すべてではありませんが、きちんとしたやり方を身に着けて愚直に取り組んでいる人は、大数の法則が働いてくるのです。これはセールスの経験のある人は分かることですが、数多くの挑戦をしていると、例えば10人のうち2人は買ってくれるという確信が持てるようになるのです。すると買ってくれなかったといって精神的に落ち込まなくなるのです。大数の法則が働いて、最後にはノルマが達成できるという気持ちのゆとりが出てくるのです。その余裕が、お客様に安心感を与えることになると思われます。
2021.02.04
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引き続いて枡野俊明氏のお話です。すべての物事と向き合うときに「の」の心をもつこと。「と」の心で物事を見ないようにすること。これが禅の教えの一つです。まず「と」の心で見るとはどういうことなのか。たとえば「私と仕事」「私と友達」「私と夫」という風に考えるのが「と」の心です。この捉え方をすれば、それらと自分が対立することになります。「私と仕事」というふうに捉えるから、仕事に対する不平不満が生まれてくる。「私と友達」と捉えるから、友達に対する嫉妬心や競争心が生まれてくる。「私と夫」と捉えることで、そこに考え方の違いが浮き彫りになってくる。つまり「と」の心で見ることは、いつも相手に対して対立する立場になるということなのです。そうではなく「の」心をもって接してみてください。「私の仕事」というふうに仕事と向き合ってみれば、まさに自分と仕事が一体になっています。どんなに大変な仕事でも、どんなに失敗を繰り返しても、それは自分の仕事なのですから、自分で努力して頑張っていこうという気持ちがそこから芽生えてきます。「私の友達」というふうに考えれば、まさにその友達は自分自身と同じこと。友人に喜ばしいことがあれば、まるで自分のことのように嬉しくなる。友人に悲しいことが起きれば、自分のことのように悲しみが襲ってきます。そして何とかしてあげたいという気持ちが自然と芽生えるのです。お互いに「私の友達」と思えることが、本当の友人ではないかと私は思います。「私の夫」という気持ちがあれば、夫の心に寄り添うことができます。夫が疲れた顔をしていれば、会社で辛いことがあったのだろうかと心配になる。楽しそうにしていれば、自分の気持ちもはずんでくる。せっかくご縁があって夫婦になったのです。「一心同体」にはなかなかなれないですが、いつも夫婦がお互いに「の」の心でいること。夫婦の幸せは、そんな気持ちの中から生まれるのだと信じています。(限りなくシンプルに、豊かに暮らす 枡野俊明 154ページより引用)「と」の心は、基本的に、仕事や他人を、自分の気持ちや意思と対立するものとみなしているということだと思います。仕事は苦痛だ。本当は仕事なんかしたくない。生きていくために仕方なくしているのだ。他人を自分の思い通りにコントロールしたい。子分のような存在にしてしまいたい。人間関係は、絶えず支配と服従の綱引きをしているとみているのです。これらは「かくあるべし」を他人押し付けることが、習慣化している人の特徴です。これが葛藤や苦悩、そして神経症を生み出していくのです。森田理論を学習した人はよくお分かりだと思います。「の」の心は対立関係にはありません。それこそ「一心同体」といった感じです。仕事は私の生きがい。あなたはわたし。私はあなたといった感じです。相思相愛でお互いを思いやる関係にあるのなら問題は起きません。しかし一般的にはいがみ合うことが多いのが現実です。ここで気を付けたいのは、共依存の関係です。相手によって自分の自立性、主体性が骨抜きにされているような一体感です。これは人間本来の生き方からは外れていきます。それぞれが、自分なりの気づきや問題点、課題や目標、夢や希望に向かって努力していくことが人間の本来性です。つまり人間は、夫婦と言えども、元々それぞれの考え方や意思を持った生き物です。絶えず考え方の乖離や食い違いが発生しているのです。相手を尊重し、その違いを浮き彫りにして、お互いの妥協点を探していく姿勢を持つ。そのような人間関係を作り上げていくことが、すべての人間に課せられているのだと思います。
2020.10.06
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安冨渉さんのお話です。幸福とは、感じるものであって、何を手に入れても、そこから喜びを直接感じられなくては意味がないのです。たとえよい大学に入っても、そこにいることに幸せを感じなければ駄目です。人からうらやましがられたり、褒められたりすることで、間接的に感じても、それは幸福の偽装工作にすぎません。背が高くて、高学歴で、収入の多い男性と結婚しても、その人と居ることそのものから喜びを感じられなければ、意味がありません。美人で、家柄が良くて、オシャレな女性と結婚しても、その人と居ることそのものから喜びを感じられなければ意味がありません。こんなものは、「偽装結婚」に過ぎないのです。たとえ大企業の正社員になっても、その仕事そのものから喜びを感じられなければ、意味がありません。そういう会社はだいたい、会社そのものが、偽装でできている可能性が高いのです。安冨渉さんは次のような経験をされているそうです。1年浪人して京都大学に入学しました。合格発表の時、ただホッとしただけでした。その後大学院にも合格しました。この時も、やれやれと思っただけで、うれしくはありませんでした。そして、修士課程を経て、人文科学研究所の助手に採用されました。採用されたときには、本当にホッとしました。が、うれしくはなかったのです。若いときに立派な論文を書いて「日経・経済図書文化賞」を受賞しようと思っていました。34歳の時に受賞しました。この若さでの受賞は異例なことでした。どんなにうれしかろうと思っていたのですが、ホッとしただけでした。これらの経験を思い返すと、私は「○○したい」と強く念願すると、そうならなかったら「もう死ぬ」くらいに思い込むのです。そうすると人間は必死になるもので、何とかそれを実現してしまいます。しかし問題は、そうなったときにも、ちっともうれしくない事なのです。(生きる技法 安冨渉 青灯社 夢の実現についてより引用)安冨さんは目標をたてて、懸命に努力して、すべて見事に達成されています。難関を乗り越えて目標を達成された安冨さんは元々の能力が高いのだろうと思います。ところがホッとするけれども、心の底からの喜びは湧き上がってこなかったといわれています。この心理は、森田理論学習をされた人なら、すぐにそのからくりが分かるだろうと思います。何が何でも有名大学に合格しなければならない。有名企業に採用されなければならない。関わっている研究で、権威ある賞を受賞しなければならない。このような「かくあるべし」を自分に押し付けてしまうと、たとえ達成しても、そのあと憂うつ、空虚感、自己疎外、生の無意味さが付きまとってしまう。まして、目標が達成できないということになると、自己嫌悪、自己否定に陥ってしまいます。これはオリンピックの代表選手が、何が何でも絶対にメダルを獲得しなければならないと思って試合に臨むようなものです。「○○しなければならない」と自分を追い込むことは、その反対に、もし獲得できなかったときはどうしようというプレッシャーとも戦わなくてはならなくなります。そのような見えない敵とも戦いながら、メダルを獲得することは至難です。その分、普段の練習で出せたパフォーマンスが出せなくなってしまいます。たとえ運よくメダルが獲得できたとしても、ヤレヤレとホッとするだけで、思っていたような喜びは湧き上がってこない。反対に、結果はその時の運で決まってしまう。神様のみが知るところであると開き直れたらどうでしょうか。私は、メダル獲得に向かって4年間たゆまぬ努力を続けてきた。その力を存分に発揮することだけに集中しよう。どんな結果がでても潔く受けよう。もくもくと頑張ってきた自分を誇らしく思う。競技を精いっぱい楽しみたい。これはプロセスを大事にした、「努力即幸福」の世界ですね。これは別の言葉でいうと、現実、現状、事実を大切にし、達成可能な目標に向かって這い上がっているイメージを連想させます。「かくあるべし」で上から下目線で叱咤激励している態度とは全く違います。プロセスを大切にした生き方は、勝ち負けに過度にこだわらなくなり、今現在をいかに充実させて過ごすかに集中するようになります。
2020.08.17
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自愛と自己愛は違う。自愛とは、自分の存在や状態を、是非善悪の価値評価することなく、あるがままに受け入れていくことです。森田でいうと事実、現実、現状を素直に認めて、受け入れることです。先入観や思い込みで事実を歪曲し、否定することはしません。事実にできるだけ近づいて、真実を知ろうという態度です。事実に基づいて分析すれば、より正確に問題点や課題が見えてきます。そこを出発点にして行動することができます。森田でいう事実本位の態度です。自己愛を辞書で引いてみると、ナルシシズムとある。ナルシシストとは、自己陶酔型の人。うぬぼれの強い人のことをいう。水面に写った自分の美しい容姿に陶酔して、どこまでも美化してしまう。例えば、頭髪を念入りにセットし、きちんと化粧し、ダイエットや運動で体を引き締め、ブランド品を身に着けて、鏡に写った自分に自己陶酔しているようなものです。それが容姿だけではなく、能力、学歴、資産、地位、身分、体力、力、持ち物などあらゆる分野に及ぶ。自己愛の強い人は、優越感を持つことに喜びを感じる。あるいは完全、完璧を求める。理想主義者となる。森田でいうと「かくあるべし」の立場から物事を優劣を判断する人間になる。しかしすべての面にわたって完璧というわけにはいかない。プラスの面があれば、必ずマイナスの面があり、バランスが取れているのが現実だということが分からないのである。それをいったん見つけると、イライラして我慢できなくなる。忌み嫌って無きものにしようとする。せめて人前にさらさないようにする。ごまかすために偽装工作をするようになる。自己否定、他人否定をするようになる。すると日常茶飯事、仕事、家事、育児などに向けるべきエネルギーが枯渇してくる。生活が乱れてくるのです。神経症に陥ると、生活が不規則になり、依存的になります。自己愛を満たすために、エネルギーを使っていると疲れます。現実と理想は常に乖離し、その溝をふさごうとすれば、また別の溝が顔をのぞかせてくる。イタチごっことなり、最後には収拾できなくって、投げやりになってしまう。あれぼどの潔癖症の人が、いつの間にか部屋の中がゴミだらけになってしまうようなものだ。自己愛は「かくあるべし」を優先する態度であり、葛藤や苦悩を発生させてしまうものであることを認識したいものです。私たちは貪欲に自己中心を貫くのではなく、自分の今現在の状態に寄り添う態度を持ち続けたいものです。
2020.08.16
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他人と、容姿、性格、能力、態度、境遇などを比較して、優越感や劣等感を味わうことは誰でも経験があります。優越感というのは、相手よりも自分の方が優れると思っていて調子に乗っている状態です。心のどこかで相手のことを軽蔑して、否定しています。劣等感の場合は、相手よりも自分の方が劣っていると思っていて、自己嫌悪、自己否定している状態です。神経質者の場合はこちらの方が多いのかもしれません。比較するということは、常に是非善悪の価値判断を行っているのです。比較することで、否定と肯定が繰り返されているのです。他人と比較することはよくないが、過去の自分と現在の自分を比較することは構わないという人がいます。過去の自分と現在の自分を比較して、成長していれば自信になる。自分で自分をほめてあげることができる。しかしこれは現在の状況が、過去と比べて改善できていれば有効です。仮に、重大な病気にかかった。けがをして体の自由が効かなくなった。自己破産した。離婚した。認知症になった。寝たきりになった。人間的に成長していない。精神的に不安定だ。このような場合、過去はよかったのに、現在は奈落の底だと悲観することになります。それが自分自身を精神的に追い詰める材料となります。子育ての中でよくありがちなことですが、親が子供たちを比較して、「お兄ちゃんはきちんとできたのに、あんたはどうしてできないの。ダメね」などと叱咤激励することがあります。子供を早く親の理想に近づけようとしているのです。現在の子供の状態が見えていません。親の「かくあるべし」を子供に押し付けているのです。子供はそれがトラウマになり、自信が持てなくなり、自己否定するようになります。比較してどちらが優れているか、どちらがダメなのかと価値判断することは、自分と他人を精神的に苦しめるばかりとなります、メリットは何もありません。そのようなことになるのなら、比較しないほうがよいという気持ちになるのも無理からぬことになります。しかし比較することのメリットの部分を忘れてはならないと思います。例えば、生活習慣病検診をします。これは自分の血液の状態、血管の状態、糖の状態、内臓の状態などを健康体といわれる基準値と比較しています。高血圧、高脂血症、尿酸値、白血球の数などが正常範囲にあるかどうかを判定しているのです。比較するものさしがあるからこそ、自分の健康状態が客観的に把握できるのです。比較して、現在の健康状態が分かり、基準から外れていれば早めに対策を打つことができます。この場合は、検査して比較することで、客観的に自分の健康状態を掴むことができるのです。比較することが、価値判断に結びついて、他人や自分を裁く道具として使われるとこんなに害になることはありません。ところが、自分や他人の現在地を把握するために使われるとしたら、こんなに役立つことはない。つまり比較することが、「かくあるべし」と結びついてしまうということが問題なのです。「かくあるべし」を減少させて、事実本位の生活を続けている人は、積極的に比較するで、自分の課題や問題点を抽出しているのです。比較しないと何も始まらないということです。比較するというのは現在の自分の状態を客観的につかむために大いに活用したいものです。
2020.08.09
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佐藤健志氏のお話です。不真面目というのは、広辞苑を引くと、「真面目でないさま、物事に熱心に取り組まないさま」と書いてあります。他方、「真面目」の定義は「真剣な態度・顔つき、本気」とある。そこで「真剣」の定義を見ると、「まじめ、本気、真実」とある。真面目とはつまり真剣なことで、真剣とはつまり真面目なことですから、全くの堂々巡りになる。これを突破するヒントは、「真剣」をめぐるもう一つの定義にあります。それは、(木刀・竹刀などに対して)本物の刀剣、本身とある。本物の刀剣と、木刀・竹刀などの違いは何か。簡単に言ってしまえば、斬られたときのダメージの大きさです。「真剣」とは、「物事の結果が、自分にとって切実、ないし痛切な意味合いを持つ」ことと規定できる。「物事に真剣に取り組む」とは、「結果次第で、自分の利益・不利益が大きく左右されるという姿勢で物事に関わる」ということを意味するのです。(平和主義は貧困化への道 佐藤健志 kkベストセラーズ 351ページより要旨引用)私が不真面目さと真面目の違いを取り上げたのは、森田理論の「かくあるべし」の態度との類似性を感知したからである。真面目な人は、理想主義、完全主義、完璧主義、目標達成主義、コントロール至上主義に陥りやすい。高い理想を追い求め、ストイックになってしまう。努力精進しているだけならよいのですが、どうしても行き過ぎてしまう。自己否定や他人否定、事実や現実否定に陥りやすい。これは森田理論で、「思想の矛盾」といわれているものですが、これが葛藤や苦悩を作り出し、神経症を作り出す大きな原因となっているのです。こうなりますと、論理的思考性で突っ走り、純粋な理想主義を観念の世界で確立してしまい、後々大変な問題を背負うことになるのです。真面目で頭の良い人ほどその罠にはまってしまう。こうなりますと、葛藤や苦悩を持たない動物のほうがよほど幸せな生き方ができるのではないかと思ってしまいます。真面目に生きる、「真剣に生きる」の反対は、「不真面目に生きる」ということです。ちゃらんぽらんな生き方をするということです。反感を買う人が多いと思います。言葉の響きが悪いので、言い換えましょう。理想主義、完全主義、完璧主義、目標達成主義、コントロール至上主義を捨てた生き方を選択することです。「かくあるべし」を中心とした考え方を放棄して、事実の世界に自分の立ち位置をしっかりと固めて生きていくことです。そこを出発点にして、課題、目標、夢や希望を追っていくことです。佐藤健志さんは、課題、目標の立て方が間違っていたらどうなるかを説明しておられます。日本の防衛は日米安保でアメリカに依存し、経済ではまだまだ発展が見込まれている中国に向いている。政治や経済や外交の基本的目標として、経世済民という視点がすっかり抜け落ちて、支配層が「今だけ、金だけ、自分たちだけ」という日本の進むべき道に問題はないのかと問題提起されています。このことは日本の進むべき道を探る上で極めて大切な論点となります。私が主張したいのは、その問題を議論するにあたっては、事実、現実、現状、日本や世界の歴史をきちんと踏まえて、そこを出発点にしなければ何も始まらないのではないかということです。森田でいう事実の観察、事実に真剣に向き合う態度があいまいであるということは、ますます自分たちを生きづらくさせているのです。
2020.07.27
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5月号の生活の発見誌に「柿の実事件」の話が載っている。山野井房一郎氏の体験談だ。ある時森田先生が山野井さんに「柿の実を一つとってほしい」といわれた。柿の木には50個ぐらいの実がついていた。その時森田先生のところには23、24名の人がいた。50個とれば一人当たり2個から3個は回ると考えられました。他の入院患者の応援を得て、50個全部をもぎ取りました。その中から大きくて色づきがよい柿を3つ、4つ先生のところに持って行った。「よく取った」と言って森田先生からからほめられると思った。内心ここでまた私の信用が一段上がるかなと思っていた。ところが先生は「そうか」と小さな声でおっしゃったきりです。山野井さんは、私があんなに苦労して、しかも大勢動員して自分が大将のようになって、せっかく一生懸命に取りましたのに、心外だと思っておりました。山野井さんはこの事件を後で振り返って、これではまだ退院させるわけにはいかなかったのだなと感じたそうです。普通はこのように依頼があった時、言われたことだけではなく、プラスアルファを付け加えたのだから相手から評価されるはずだと考えます。言われたことだけをするのは、お使い根性といいます。イヤイヤ仕方なく、早く片付けてしまいたいと思って行動するので、心がこもっていない。また、実践・行動によって、弾みが付き、気づきや発見、興味や関心が高まることは少ない。森田理論は、実践・行動することで感情が動き出して、弾みがつくことを目的としていますので、山野井さんの行動は何ら問題はないし、評価されるものだと考えるのが普通です。どうしてこのようなずれが生まれたのでしょうか。これは相手の考えや気持ちを無視して、自分の考えや気持ちだけを優先して行動しているからだと思います。この時の森田先生の思いはどんなのだったのだろう。それは昔からいた婆や教えてくれた。「あれは先生が大事にしておられた柿の木で、昨年秋から1年経ってようやく実を結んだから、先生がとれといわれたら、枝や葉のついたものを、2つ3つ都合良く取って差し上げればよかった」森田先生の立場から見れば、相手の気持ちを軽視、無視して独りよがりの行動という事になります。自分の立場からのみ考えて行動したことは、相手と軋轢を生みだすという事です。行動するにあたって気づいたプラスアルファを付け加えることは素晴らしいことです。ただそれは相手から見ると、「小さな親切、大きなお世話」になる場合があるのです。そういう場合は、あらかじめ相手の気持ちや考えを確認する必要があるのです。「先生、柿が50個ぐらいありますので、全部とってもよいですか」この場合は、「いや、2個か3個でよい」といわれる可能性が高いと思います。そういわれれば、自分の考えは引っ込めざるを得ない。結果として相手と対立することはなくなる。気づきや発見、アイデアなどを思いついたとき、他人に何ら影響を及ぼさないのなら、積極的に行動に移してみるとよい。うまくいかなければ、何かを掴んで修正していく。どんどんやる気が生まれてくる。努力即幸福の世界に入れる。ところが少なからず相手に影響を及ぼす場合は、ひとりよがりの行動は慎む必要がある。自分の気持ちや考えと相手の気持ちや考えの2つを天秤にかけることが欠かせない。それが一致するところを確認して、初めて実践行動へと舵を切りなおしていくのだ。そうすれば二人ともハッピーになれる。自分一人だけの考えや思い込みで行動すると、相手と対立してしまうことが多い。なれあいの関係になると、「いつもこうしている」という先入観で、この基本を無視している。そして小さな対立が次の対立を生んで、人間関係が悪化する。終いには人を避けて自分一人で生活した方がどんなにか気が楽だという気持ちになる。しかし孤立、孤独な生活は味気ない。寂しいものです。それは精神的にも身体的にも、他人との付き合いの中でしかいきいきと生きていけない人間の宿命だと思います。それができると言い張る人は仙人のような生活に甘んじるしかありません。
2020.06.18
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今日は、形外会で話し合われていた「面弱し」(つらよわし)について考えてみよう。佐藤先生によると、郷里の福島では、「恥ずかしやり」のことをいう。思う存分に、人と話の出来ないような人も「面弱し」という。また「面弱し」は気が強いともいう。国語辞典によると、面とは顔のことだが、顔のことをぞんざいに言う言葉である。「面」のつく言葉に、「面当て」「面の皮が厚い」「面の皮をはぐ」「面汚し」がある。「面当て」は、しゃくにさわることがあるとき、相手にまともに抗議したり、仕返しするのではなく、相手が嫌がることを、目立つようにやって腹いせすることである。「面の皮が厚い」とは、ひどくあつかましい人のことだ。「面汚し」とは、社会的な不祥事を起こして、○○家の名誉や誇りに泥を塗る事とある。結局は自分の考えた事を直接相手に伝えることができない。自由自在な言動がとれない。相手の思惑にとらわれているのである。その結果、自分の素直な言動を抑えこんで我慢する。耐える。それでは気分がイライラするので、別の手段で相手に嫌がらせをする人のことをいう。森田先生は、「面弱い」人は、優越欲求が強い。負け惜しみが強いといわれています。人よりも優れた人間でなければならない、人と比較したときに負けるようなことがあってはならないという考え方をしている人です。そのようなかくあるべしを多分に持っている人だといわれる。半面、人から批判、否定、拒否、無視、抑圧されることには敏感である。すぐに逃げ出すか、陰で陰鬱な仕返しを考えるようになる。森田先生は「面弱い」人は、「弱くなりきる」ようにするとよいといわれています。「弱くなりきる」というのは、人前でどんな態度をとればよいかという工夫の尽き果てたときであって、そこに初めて、突破・窮達という事が起きるのである。つまり自分の立ち位置を、事実、現実、現状に置くことです。常にそこから出発する。森田でいう事実本位の生活態度になることなのです。自分は優越欲求が強い。人の上に立ちたい。勝負をすれば負けたくない。馬鹿にされたくない。ぞんざいな扱いを受けたくない。それが「かくあるべし」と結びつくと、自分自身が苦しみ、相手を苦しめることになります。反対にそういう自分の特性や特徴を認める。受け入れる。そこを出発点にしての言動を心掛ける。人より優れた人になりたければ、少々困難なことがあっても努力精進していく必要がある。人から評価されるようなことを示していく必要がある。何かにつけて人には負けたくないという人は、いかにしたら勝つことができるのか考え抜くことです。自分で思いつかなければ学習仲間や専門家のアドバイスを受ける。自分を大切に扱ってもらいたいという人は、他人を大切にしないと。永遠に目的は達成されないでしょう。
2020.06.02
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森田先生はインギンな人は強情な人であるといわれている。人に対して、非常にインギンな人は、他の人の、どんな場合をも無頓着に、単に自分の礼儀を全うし、独善を押し通して、融通の利かぬ人である。つまり人に対して思いやりがなく、強情の人である。人の忙しいのも、見境なしに、廊下に座って、無理やり丁寧に、お辞儀するような人は、何かにつけて、人と調和・妥協のできない人である。インギンというのは国語辞典によると、とても丁寧で重々しいとある。類似語に、「インギン無礼」という言葉がある。表面上は丁寧な態度だが、実は内心馬鹿にしているということをいう。馬鹿にしていなくても、上から下目線で批判的な雰囲気を漂わせている。こうしてみると、インギンな人は自己中心的な人である。自分の言いたいことややりたいことを押し通そうとする。相手の立場を考慮して、自分の言動を抑制しようという気持ちは皆無である。相手との調和、バランスを意識していない。その結果、相手の人が全く見えていないようである。これを相手から見れば独善的とみなされるのである。森田での人間関係のコツは調和や妥協を目指していると思う。人間はそれぞれみんな欲望を持っている。それを前面に出しあって生きていくのが本来性である。という事は、ふたりの人間がいれば絶えず、言い争いが発生する。その対立点をはっきりさせて、話し合いによって妥協点を目指していく態度が欠かせない。そうしないと人間関係が破綻してしまう。インギンな人は、自分の「かくあるべし」という独特な価値観で、相手を追い詰めるのが習慣になっている人だと思う。インギンな人は、多くの人から敬遠されるので、表面上必要以上の丁寧さを押し出して、相手からの信頼感を獲得ようとしているのである。しかし現実はそれが裏目に出て、気の利かない人、無神経な人とみなされる。考えていることと現実があべこべになっている。そしていつも葛藤や苦悩でのたうち回っているかわいそうな人なのである。インギンでない人は事実をよく見て、その場にふさわしい言動になっている。事実本位の人はインギンではない人といえる。
2020.05.30
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最近樹木希林さんの本を読んでいると、森田先生の生まれ変わりの人ではないかと思うようになった。これから何回かに分けて紹介しょう。娘の也哉子さんが、「お母さんって愚痴を言うのを聞いたことがないね」とよく言っていたという。これに対して樹木希林さんは、「そうですね、こうすればよかったのに」とは言わないですね。「ああ、そうなっちゃた。さいですか」って。「さいですか」というのは、「そうでごさいますか」という意味ですが、樹木希林さんの口癖だったようです。理不尽なことやイヤなことがあっても、その事実を一応認めるということですね。「じゃあ、そこからこうしていくか」っていう感じですね。起こったことの原因は、全部自分にあると思ってればね、愚痴は出ないのよ。愚痴を言わないことは、立派ではあるけれども、あんまり自分に関心がないということでもあんのね。立派だというのは、自分はこうあらねばならないという縛りがないということなの。自分に関心がないということは、自分をぞんざいにに扱っているということなの。物事には必ず表と裏があるから、なんだかそこだけ誉めちゃダメなのよ。でもやはり、愚痴とか、かくあるべきとか、そんなのがない方が楽しいですね。(この世を生き切る醍醐味 樹木希林 朝日新書 152ページより要旨引用)樹木希林さんは私たちの目指している事実本位の生き方を実践しておられた方です。「かくあるべし」を他人に押し付けることはない。ただし自分の意見というのはしっかり持っておられる。それを相手に話すけれども、強制はしない。私の意見を参考にして後は自分で考えなさいと言うことなのだ。自分をぞんざいに扱っているということですが、人間は誰でも欲望を持っています。欲望に向かって、気分本位になりがちな自分を諫めて、努力していくのがまっとうな人間の生き方だと思います。つらいこと、億劫なことはしない。刹那的、享楽的な快楽を追い求める。その時の嫌な気分に流されて生きていく。問題点や課題、夢や希望にチャレンジしていくと、うまくいかなくて愚痴が出てくるものなんですよ。そうした愚痴を乗り越えて現実を受け入れることがないと、努力即幸福という心境には至りません。樹木希林さんの「この世を生き切る醍醐味」「一切なりゆき」という本は森田理論を深めるために、とても役に立つ本だと思います。この中からテーマを選んで読み合わせをして、集談会で意見交換をしてみたいと思っています。
2020.02.10
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私は通販サイトで少し大きめのテレビを買ったことがあります。最初は近くの量販店で購入しようと思っていたのですが、通販番組を見ているうちに、気持ちが動いたのです。通販サイトでは商品を購入したときのメリットをこれでもかというぐらいに説明します。テレビでいえば大型画面の迫力、臨場感、画素数、音響、厚み、録画機能などです。健康器具、美容器具、調理器具などでは、これらを使っていない場合の、デメリットについてモデルを使って実際の画像を流しています。これらの番組を見ていると、もうそろそろ買い替えようと思っている人は、気持ちが動いてきます。買い替える必要のない人の気持ちまで高ぶらせてしまうのです。しかし、車の車検も近づいているし、家のローン、子どもの教育費もある。今は我慢しておこうとストップがかかります。普通はここで購入に待ったがかかります。これに対して、通販番組では、下取り値引きの提案を行います。そして不要になったテレビはそのまま回収してくれるというのです。さらに、設置費用は無料、配送料も無料と言います。5つもスピーカーがついたテレビ台もサービスでつけてくれるというのです。分割払いの月々の支払いも可能であるという。その時の金利手数料は通販会社が持ちますという。さらに今回は限りの特典として、録画機もお付けしますなどと言う。ただし今回の台数は100台限りとさせていただきます。今から30分間オペレーターを増員してお電話お待ちしていますなどと言う。これは買いたいという感情が湧き起こっても、実際に購入するわけではないということを分かっているのだと思います。そこで理性が購入を決断しやすいようにこれでもかと後押しする話をしているのです。最初は是が非でも購入したいとは思っていなかったのですが、欲しいという感情を発生させて、実際に購入を決断させる手法には恐れ入りました。実際届いた商品は満足のいくものでした。価格は家電量販店とあまり変わりませんでしたが、その他のサービスが至れり尽くせりという感じで納得しました。次に電化製品が寿命を迎えたとき、購入先の一つとして考えてみようという気になりました。これは森田理論で学習したことを、そのまま応用しているのではないかと思います。森田先生曰く。我々の日常生活は、実際において、まず第一に、時と場合における「感じ」から心が発動し、種々の欲望が起こる時に、それに対して、理知により、理想に従いて、自分の行動を調整していくのである。すなわち第一が「感じ」で、次に理想が働くのである。これを反対に、理想を第一にして、それから感じを出そうとするのは間違いである。(森田全集第5巻 405ページ)この森田理論の考え方は、ただ理論として学ぶだけではなく応用していくべきだと思います。自分の場合も、感情が湧き出て、理性で調整しながら、積極的な行動へと進んでいます。また他人をその気にさせて、行動に駆り立てるための基礎理論でもあると思います。私たちが自助グループの会員を増加させようとするとき、あるいは集談会の参加者を増やしたいと考えるときも、この考え方を基にして、膨らませて取り組む必要があると考えています。最初に「感じ」を刺激していくというプロセスを大切にする必要があると思う。それから行動を具体的に起こしていく道をいろいろと提案していくことです。この順序を逆にしてはうまくいかない。そして実際に具体化して丁寧に取り組んでいくことも大切である。
2020.02.07
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私たち人間は五感でチャッチしたものをそのままに味わっているわけではありません。その時々に湧き起こる感情に一喜一憂しているだけなら、犬や猫などの動物と同じです。感情の事実そのものになりきっているわけですから、悩みや葛藤は生まれません。最終的にはその情報を大脳の前頭前野に送って、情報処理を行っているのです。情報処理とはかっこいいものですが、是非善悪の価値評価を下しているのです。それに基づいて行動を選択しているのです。価値判断するためには物差しが必要です。その物差しは人によって微妙に違っています。それは生まれ持った性格、資質、生育環境、家庭環境、家庭教育、時代環境、学校や社会教育などに左右されます。誰でも自分が下した是非善悪の価値評価は絶対に間違いないと思っています。それは自分が独自に正しい判断していると思っていますが、実際には様々な影響を受けているのです。これらの条件が違えば価値評価はいとも簡単に裏返ってしまうというものなのです。たとえば戦時中は、国家に洗脳されて、自分の命はお国のために差し出すのが当たり前という価値観を植え付けられていました。ゼロ戦や人間魚雷のようなものに乗って、敵艦に体当たりするようなこともできたのです。今考えると間違った価値観ですが、その当時は絶対に正しいという確信めいた価値観だったのです。その不安定で変化してしまう価値観を絶対的なものとして崇め奉り、自分や他人に押し付ける態度を森田では「かくあるべし」の弊害として説明しています。森田先生曰く。「この善し悪しとか苦楽という事は、事実と言葉との間に非常な相違がある。この苦楽の評価の拘泥をを超越して、ただ現実における、我々の「生命の躍動」そのものになりきって行く事ができれば、大学卒業程度のものであろうか。「善悪不離・苦楽共存」というのもこのことである。(森田全集第5巻 653ページより引用)森田先生は、安易な価値評価、価値判断を現実に当てはめようとする態度は問題である。価値評価への拘泥から解き放されて、事実に寄り添う生活態度の養成が重要である。いかようにも変化しうる価値判断を優先して、事実を「かくあるべし」に従属させるような生活態度を強く否定されているのだと思われます。これが森田理論の眼目なのです。事実を認めて、事実の立場から出発して、生の欲望の発揮に邁進することが肝心です。明日はこの安易な価値評価を乗り越えるためのヒントを考えてみたいと思います。
2020.02.04
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臨済宗の住職、玄侑宗久氏のお話です。「うすら寒い」とか「うすらバカ」などという言葉は、どちらかというと否定的な言葉である。しかし、禅宗ではこの「うすら」というのは大変重要な言葉である。これは森田理論の核心に迫る言葉であるので紹介してみたい。「うすらぼんやりと」と見るとどんなことが起きるのか。試しに、目の前に人差し指をたてた手を置いていただきたい。距離は30センチくらいだろうか。手の長さに自然に任せればよい。その上で、普通にその指を見てください、といえばおそらく指に焦点を合わせるだろうから、当然指は1本に見えるはずである。それでは次に、その指を含んだ景色全体を「うすらぼんやり」と眺めていただきたい。しばらく「うすらぼんやり」していると、指が2本に見えてこないだろうか。これはもともと左右の目に見えている2つの像が、「うすらぼんやり」することで統合されずに見えている状態であるから、別に驚くほどのことはない。しかもその指の像は、よく見ると向こう側の物を透かして半透明になっていると気づくだろう。また試しにその状態を保ったまま、腹を立てよう、あるいは不安を感じようとしてみてほしい。あなたがもしちゃんと「うすらぼんやり」しているなら、それが無理であることに気づくだろう。感情に伴った身体状況が得られないから、感情は定着できないのである。しかもその「うすらぼんやり」状況で、あなたの体がリラックスしていることにも気づくはずである。いわば生命力が最大になっている。なんと人間は、「うすらぼんやり」で生命力が最大になるという厄介な生き物だったのである。「うすらぼんやり」には価値判断もなく、好き嫌いもない。どうやら理解したり表現したりする世界ではなく、ただ味わうだけの世界なのだ。(禅的生活 玄侑宗久 ちくま新書 48ページより抜粋して引用)私は早速指をたてて実験してみた。たしかに玄侑宗久氏のいうような現象が起きる。うすらぼんやりと眺めていると、意識の集中は起きない。ぼやけているから固定できないのだ。意識の集中が起きないということは、いわば大脳の前頭前野が活動を休止している状態だ。いいとか悪いとか、好きとか嫌いだとか、正しいとか間違いだとかという価値評価のない世界に入り込んだ感じだ。この状態では腹を立てたり、不安や恐怖を感じようとしても不可能である。つまり神経症の原因となる、不安、恐怖、違和感、不快感などは発生しないのである。「うすらぼんやり」の反対は、「はっきり、しっかりと精神を集中させて眺める」ということだろう。一点に神経を集中させている状態である。自分の気にしていることに対して注意の固定が起きる。その時、周りのことは全く見えていない状態である。こういう条件が整ったときに、大脳の前頭前野がたちまち活動を開始する。大脳の前頭前野は、その人が今までの人生の中で経験、習得した確信的な思考パーターンによって、価値評価を下していくのである。いつもネガティブで否定的な思考パターンを身につけた人は、それなりの価値判断を下すのだ。これは本来の思考力、創造力、問題解決力、分析力を担ってる前頭前野の活用方法を間違えているとしか思えない。森田理論ではとらわれたときはそれにとらわれていればよいという。ただし、気になる一点にとらわれすぎるのは、百害あって一利なしという考えである。とらわれる対象が時間の経過とともに、どんどんと変化していくことを想定している。気になることや解決すべきもので、何とかなるものはどんどんと処理していく。どうにもならないものや自分の手に負えないものは、そのまま積み残していくという考え方なのだ。飛行機に乗り遅れた人を、親切に待ってあげるようなことはしなくてもよいという考えだ。時間がたてば解決することもあるし、どうにもならないこともたくさんある。放置しておくことは、後ろ髪を引かれる思いがするだろうが、そのままに放置しておくしかないものもある。苦しみや悲しみはつぎつぎと目の前に現れてくる。それでも小川の水はさらさらとさらさらと流れいく。生命力が最大となるというのは、とらわれて淀みを発生させるのではなく、いつもさらさらと勢いよく流れている小川のごとくである。それが生命力を最大に発揮させる自然な人間の営みなのである。
2020.02.03
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登山家の野口健さんのお話です。毎年5月下旬になればヒマラヤは雨季がやってくる。曇りの日が多くなる。雪崩が多くなり、遭難する確率が高くなってくるのです。そうなると、欧米から来た登山家は、早々にあきらめて帰国する。日本や韓国の登山隊は簡単にはあきらめない。事態が好転しなくなって、日本隊は無念のまま撤退する。韓国隊は「なにがなんでも登頂する」と、悪天候の中を突っ込み、遭難者を出す。韓国人登山家に、「何で韓国隊は悪天候の中を突っ込むのか」と聞いたら、「我々は国を背負っている。登らないと国に帰れない」と答えたという。つまり、「目標達成至上主義」という「かくあるべし」にとらわれて、勇気ある撤退ができないのだ。「必ずエベレストに上るぞ」と決意して、アタックしても成功率は3割しかない。後の7割は途中で撤退、ないしは遭難で失敗に終わっている。勇気ある撤退ができないで、雪崩に巻き込まれる、酸素不足、凍傷などにかかるとすぐに死に直結する。そうなれば2度とチャンスはやってこない。ヒマラヤにはカチカチに凍った遭難者の遺体がたくさん放置してあるという。登山家として世界的に有名だった植村直己さんが、厳冬のマッキンリーで消息を絶った。雪洞の中で発見された日記には、「なにがなんでもマッキンリーに登るぞ」と書いてあったそうだ。「凍傷にやられた」と追い詰められていく様子が克明に記録されていたにもかかわらず、植村氏は頂上を目指し、行方不明になった。野口健さんや植村さんの奥さんは、「自滅だと思います」と語っている。どうして、世界的に有名な登山家である植村さんが「なにがなんでもマッキンリーに登る」と日記に書いていたのか。植村さんは、マッキンリーに挑戦する前に、冬季エベレスト、南極大陸横断と立て続けに結果を出せないでいた。すると、それまで応援してくれていたスポンサー契約が打ち切られた。さらにマスコミから評価されるどころか、無謀な挑戦とこき下ろされるようになった。追い詰められた植村さんは、「なにがなんでも結果を出して信頼を取り戻す」という気持ちになっていたのではないか。スポンサーやマスコミからは結果至上主義を押し付けられた。それを後押しするように、自分自身にも結果のみを求める「かくあるべし」を押し付けていった。不死身ではない人間がこのような「かくあるべし」に立ち向かっては勝ち目がないのは自明の事実である。「かくあるべし」が一人の世界的に評価の高かった登山家の命を奪ってしまったのだ。(自然と国家と人間と 野口健 日経プレミヤシリーズ参照)
2020.02.01
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今日は「絶対」という言葉について考えてみたい。上司の命令は絶対である。絶対にそんなことはするな。絶対ミスや失敗をするな。絶対に勝つ。絶対に成功させる。絶対に彼氏、彼女と結婚する。絶対服従。絶対安静。これらの言葉は挑戦的に見える。なんかしんどい感じがします。自分の行動を自ら金縛り状態にさせている。相手の気持ちはお構いなしで、無条件で、100%の結果を求めている。目標達成至上主義の臭いがぷんぷんしてくる。無理やり自分や他人を「かくあるべし」の世界に追い込んでしまっている。「かくあるべし」の気持ちがあると、注意は目の前の物事に集中できなくなります。「もしミスや失敗をしたらどうしよう」という気持ちとも格闘しなければならなくなります。「うまくやりたい。成功させたい」という気持ちとの葛藤が生まれる。その混乱した状態が、浮ついた行動となって、ミスや失敗をおびき寄せてしまう。それとは反対に、思いつく限りの準備をした。十分な練習を積み重ねてきた。普段の練習の通りのことが出せれば十分だ。あとの結果がどうなるかは、神のみぞ知ることだ。自分には予測不可能だ。自分ができることは、運を天に任せて、思い切ってやるだけだ。失敗しても命まで取られるわけではないのだから思い切ってやるだけだ。そのほうがよい結果を生みやすいことは、誰でも分かります。「絶対に」という言葉を連発する人は、要注意人物だ。気を付けたほうがよい。テレビショッピングは絶対にお買い得です。絶対に役に立ちます。今回限りの企画です。オペレーターを増員してお待ちしてます。裏を返せば、暗に買わない人は損をしていることを吹聴しています。絶対に買いなさいと強迫している感じです。実は買ってもらわないと、多額の広告宣伝費を使い販売している私どもが困るのです。他人がこのような言葉を使うときは、詐欺的な商売をしている可能性が高い。あるいは自分の分析に、妄想的な過大な思い込みがある。さらに過大な思い入れがあって、ついこのような言葉を発しているのです。事実は逆になるケースが多い。その時は素晴らしいと思ったが、よく考えると不要なものだった。自分の考えていたものとは、性能も使い勝手もいまいちだった。この世は常に変化流動しているものであり、絶対的で固定しているものは何もない。確信の持てるものは何もない。宇宙の営みからしてそうです。絶対的というのは、変化するものを人為の力でむりやり固定してしまおうというやり方なのです。そのやり方は無理があります。必ず反動が起きるとみるべきです。「絶対」「絶対的」という言葉の対語は、「相対」「相対的」という言葉です。「相対」というのは、この世のものは、他のものとのつりあいで成り立っているということです。だから単独で絶対的なものは何一つないということです。相手や状況が変化すると、相対的に自分も変化流動しないと存在することすら危くなってきます。
2020.01.27
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子どもに「早く風呂に入りなさい」「早く食事をしなさい」「勉強しなさい」などと強制することがあります。会社では上司が部下にノルマ達成のために指示命令を出して強制する。集談会でも遅々として行動が伴わない人に、実践・行動するように強制している。強制と言うと、自分の「かくあるべし」を相手に押し付けて、無理やり行動を押し付けているように思う。「かくあるべし」を押し付けると、相手は反発する。人間関係は悪くなる。相手も自分がやりたいと思ったことではないので、意欲が持てない。イヤイヤ行動することは、苦痛である。強制労働ほど人間性を棄損させるものはない。これに対して、藤田英夫さんは、強制力は人間力を発揮するために必要なものだ言われる。その理由は、我々人間は、頭では立派なことを考え、それらを口にしながらも、ついついそれとは逆の易き方へと流れていってしまうという特徴を持っているからである。生産的欲求は、消費的欲求にしてやられてしまうからである。ですから強制力のマイナス面ばかりではなく、プラス面も見ていく必要がある。我々人間は、諸状況による強制の中で活かされ、生きているのではないか。自然から与えられている環境も、時間も、人間によって作られた法、社会的な制度やルールも、躾も、総ては人の自由を縛る強制力を有している。我々は外からの力による強制だらけの中で人生を味わい、過ごしているのだ。藤田さんは、すべての強制を是としているのではない。それは誰のための強制かではっきり分かれる。対象たる我が子、我が生徒、我が部下のためのそれなのか、自分のため、自分の都合、「自己満足」のためのそれなのかである。「人間力」を出させるための強制か、「道具力」を出させるための強制かである。「人間力」、中でもそれが枯れ果てている人のそれを芽生えさせるには、当事者からすれば、暴力的とでも感じられるほどの他力を要する。それこそが、その当事者にとっては至高の助けになるのである。もちろんそれが、人びとをして切れさせ、さらにだめにさせてしまうリスクもある。助けになるかその逆になってしまうか、それは紙一重のことかもしれない。それを分けていくのは、一に「上」の人間としての有り様にかかっている。(人間力をフリーズさせているものの正体 藤田英夫 シンポジオン 308ページより引用)たしかに人間は意欲的、創造的、生産的に生きていきたいと思っている。反面、楽したい、さぼりたい、現状維持に甘んじたいという気持ちもある。両者が綱引きをしているようなものだ。現在に満足してしまうと、それ以上に挑戦することはしなくなる。苦労や困難に立ち向かうことはしなくなる。消費的欲求がますます強くなり、他に依存していくようになる。そこには生の喜びは感じられない。ただ生きながらえているだけで、精神的には耐え難い苦しみが発生する。それを打ち破るには、他からの刺激である。いわゆる強制力がそのきっかけとなる場合があるということだと思う。自分の自己満足や征服欲、コントロール欲求を満たすために「かくあるべし」を相手に押し付けることは厳に慎まなければならない。相手の「人間力」を目覚めさせるための強制力は、ぜひとも発揮させなければならない。何年か経って、あの時のあの人の強制力を持った言動で、今の自分があると感謝されるような強制力を発揮していきたいと思う。
2020.01.11
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昨日は気分本位の弊害について考えてみました。今日は理知本位の弊害について考えてみましょう。人間は言葉を使います。言葉を使って過去のことや未来のことに思いを馳せます。また論理的なこと抽象的なこともどんどん膨らませて思考するという特徴があります。そのうち言葉を使い頭の中で考えたこと、観念、思想を事実と取り違えてしまうことが起きます。また事実や現実を軽視して、観念や思考を優先して先入観や決めつけで行動するようになります。その態度は森田理論では「かくあるべし」の弊害と見ています。神経症の発症には事実や現実を軽視して、理知本位の生活態度が大きく絡んでいるとみているのです。したがって、事実本位、物事本位の生活態度に改めることができたならば、神経症はたちまち霧散霧消してしまうものなのです。理知本位は、地図を見て理解したことを、現地そのものと思いこんでしまうようなものです。地図は地形などの大まかなことは分かります。位置関係も分かります。進むべき進路はおおよそ見当がつきます。しかし、現地そのものではありません。現地に足を運んでみると、地図では分からなかった多くのことに気づきます。ですから地図で大まかに把握した段階は、初歩的な認知にすぎないと自覚する必要があります。実際に現地に足を運んで、自分の目で確かめることが不可欠なのです。そして地図よりは現地の状況に沿って対策を考えてみる必要があるのです。現地に行ってみれば過酷な自然条件だった。寒すぎる、熱すぎる、風雨が激しすぎる。冬は曇天の日が続く。毎年台風が来る。真砂土で土砂災害が起こる。草も生えない不毛の土地だった。昔は墓地だったところだった。活断層があり地震のときに被害を受けやすいところだった。獰猛な野生動物が多数生息しているところだった。沼地でとても歩けるような場所ではなかった。もしそんな土地を安いからと言って、地図だけを頼りに買ってしまったとしたら、後で後悔することになります。言葉、観念、思考よりは事実、現実を優先する態度がとても大切だということです。事実や現実を優先する生活態度に変えるためにはどうすればよいのか。まず森田理論学習で、かくあるべしの発生と苦悩の始まりについてよく学習することです。実際には、できる限り事実に寄り添い、観察することです。それを基にして、行動することです。他人に話す、日記を書く場合も事実を基にすることです。抽象的ではなく、具体的な事実を取り扱うことが大切です。また隠しごとや言い訳、ごまかしなどはご法度です。掴んだ事実に対して、安易に是非善悪の価値判断は慎む必要があります。事実だけを淡々と積み重ねることで、おのずと方向性は見えてくるようになります。その他森田理論を学習していると、「純な心」の体得、「私メッセージ」の活用などが出てきます。これらは、「かくあるべし」から事実本位の生活態度に近づくための強力な手法となります。是非ものにしていただきたいと思います。さて神経症に悩んでいるときには、事実には不安や不快感などの感情の事実のことを思い浮かべることが多いと思います。事実にはそれ以外にもたくさんあります。私は事実を4つに分けて考えるようにしています。明日は事実の中身について投稿したいと思います。
2019.12.30
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完全主義と完璧主義について考えてみたい。夢や目標を持って、完全や完璧を目指していく姿勢は立派なものであると思う。その過程では、気になることや問題点や課題が次から次へと出てくる。それを一つ一つ解消していくことで完全・完璧に近づいていく。そういう姿勢や態度を持ち続けることは、生きがいを持って生きていることにつながる。さて、日本の製造業は、その技術や品質の高さが世界に認められている。それは職人さんたちが、よりよいものを作り上げることに心血を注いできた結果である。また、テレビで予約のとれない寿司屋や料理店などが紹介されている。接客態度、料理の質や味付け、盛り付け方などが最高レベルに高められている。これらは一朝一夕でできたものではない。素材選び、製造工程、技術のレベル、人材の育成をとことんまで向上させてきた努力のたまものである。品質や技術は、並みのレベルには、日々努力怠らなければ到達できると思う。ところが、ある程度のところに達し満足してしまうと、技術や品質の進歩はそこで停滞してしまうのだ。周りから高い評価を受け続ける人は、現状に妥協しないで、さらに高みをめざして努力しているからこそ可能なのである。そういう人はもっともっと評価されてもよいはずだ。ですから完全主義、完璧主義を目指すことは、非難される筋合いのものではない。ところが森田理論の学習では、完全主義、完璧主義、理想主義は否定されている。本来の完全主義、完璧主義、理想主義と森田でいわれているものとはどこが違うのであろうか。私が大きく違うと感じるのは、自分の立ち位置であると思う。完全や完璧を目指している人たちは、問題や課題を抱えた現実にしっかりと足をついている。そして目線を一歩上においている。当面の目標をクリアするために努力している。それが自分の行動指針として確立しているのです。次から次へと障害が現れても、それを押しのけて次のステージに進んでいる。そして時間の経過とともに、誰も到達したことのない地点に立っている。しかし本人はそこが山の頂だとは思っていない。一山超えれば、見た次の頂が頭を表す。自分はそれを追いかけていくだけだと思っている。これにひきかえ、最初から理想、完璧、完全主義の立場に居座っている人がいる。批評家、評論家、コメンテーターといわれるような人である。もちろんすべてとは言わない。とにかく、現実の問題点や課題をえぐり出すことを自分の使命と心得ているような人である。現実、現状、地上で格闘している自分や他人を批判・否定・攻撃することを任務と心得ているのだ。お前たちは自分では問題点を見つけられないだろうから、ポテンシャルの高い私が的確な現状分析をして問題点を指摘して上げているのだ。上から下目線で叱咤激励しているようなものだ。自分の身は安全なところに隔離しているので、実害は及ばない。批判や否定ばかりで、自分がその責任を引き受けることはない。森田ではこういう人のことを「かくあるべし」の強い人と言っている。完全主義、完璧主義、理想主義、コントロール欲求の強い人で、自分のみならず、他人や自然環境にまで実害を及ぼしていると見ているのである。一口に完全主義といっても、それを目指して素晴らしい人生を築き上げている人もいる。片や犬も食わない完全主義を身にまとって、自他ともに不幸を撒き散らかしている人もいるのである。これは本人が気づいていなくても、立ち位置が明確に違うことが分かる。
2019.12.20
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認識の誤りの学習の中で「全か無」の思考法の弊害が出てきます。例えば、1位にならなければ挑戦する意味はない。だから取り組もうとしない。一流企業に就職できなければ、仕事にはつかない。外国人は、宗教が違えば敵であると思う。上司に仕事のやり方の改善を指摘されただけなのに、「要するに能力がないということですね」と反発する。友達にそっけない態度をとられたと感じると、「要するに自分のことが嫌いということなのだ」と決めつけてしまう。新規の営業活動でも、「あの人が買ってくれるはずがない。無駄な営業活動は疲れるだけだ。だから営業活動はしない」などと言い訳をしてさぼる。0か100。白か黒。正しいか間違いか。成功か失敗か。敵か味方か。善か悪か。好きか嫌いか。どちらかの立場を決めて、それ以外の考え方、態度、他人などは一切受け入れないということです。いわゆるグレーゾーンはないという立場に立っています。これらは「かくあるべし」の一種ですが、決して妥協のない「かくあるべし」の思考方法です。100だけは認めるが、1から99までは完全ではないので、批判や否定の対象にするという態度です。雲一つない日本晴れならよいが、少しでも雲があれば、不快な気持ちになるので認めない。融通がきかない。妥協点を見つけて歩み寄ろうという気持ちはさらさらない。こういう考え方は窮屈だ。自他ともに苦しむことになる。さぞかしつらいだろうと思う。ちょっとした不安や不快感、恐怖や違和感も見逃さないのです。自分の容姿、性格、能力、弱点、欠点、ミス、失敗はことごとく目の敵にしてしまいます。他人の容姿、性格、能力、弱点、欠点、ミス、失敗も決して許すということをしません。理不尽な自然現象、経済変動などへは恨みつらみでいっぱいになります。「全か無か」の思考方法をとる人は批判や否定名人です。否定することに生きがいを見つけているような人です。誰でも自分のことを非難され、存在を無視されると腹が立ちます。そして反抗的な態度をとります。否定する人は自他ともに不幸な人生を送ることになります。また、非活動的になります。自分が成功間違いなしと確信を持てることしか手を出さなくなります。自分が手がけないことは、他に依存するようになります。したがってますます自立することができなくなります。経済的にそれが可能でも、肩身の狭い思いをします。そして暇を持て余すようになります。神経質性格の人は、自己内省性が強いですから、ますます気持ちが暗く沈んでいきます。日本人は宗教では一つの宗教に凝り固まっている人は少ないようです。葬式は仏教でも、クリスマス会を開き、正月には神社に初詣に行く、結婚式になると、洋式、和式と様々です。ちゃらんぽらんです。これを外国人から見ると、信念がないとみる向きもあるようです。外国では宗教が違うといがみ合いの戦争に発展してしまいます。これを優柔不断な民族とみるか、あるいは多様性を受け入れる包容力を持ち合わせた民族とみるか。多様性を受け入れると、自由な生き方ができるように思います。人間関係も、敵か味方かを厳密に区別しないので、幅広く展開することができます。この思考パターンから逃れる方法はないのでしょうか。田原総一郎さんの討論番組を見ていると、全く違う考え方をしている人を呼んでいます。そして喧々諤々激しいバトルを繰り広げさせます。中には勢い余って、相手の人格否定をする人がいます。時には、途中で退席してしまう人もいます。その人たちはある一定の考え方に凝り固まっているので、簡単には考え方を変えるようなことはありません。ところがそれを周りで見ている人にとっては、もう少し相手の考え方を理解するようにしたらどうなのかと思ってしまいます。ひとつの見方・考え方に固執してしまったときは危険が迫っているときだと思います。自分、他人、自然現象を批判・否定して、打ち負かすことにエネルギーを集中します。その結果、最終的には自分の存在、人間関係などの破壊に向かってしまいます。森田では両面観の考え方をお勧めしています。例えば円錐柱を上から見ると円に見えます。横から見ると三角に見えます。いずれも間違いです。多方面から見ることによって、円錐柱であることが分かります。ひとつの考え方に凝り固まったときは、「ちょっと待て」というキーワードを自分に対して発して、別の見方・考え方はないのかと考えてみることです。自分一人では判断がつかないときには、周囲の人の考え方を聞いてみることが大切です。するとバランスのとれた中庸の見方・考え方に変わってくるものと思われます。
2019.11.20
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ティモシー・ギャロウエイの著書に「インナーゲーム」がある。コーチングのことが書いてある本です。彼はその中で、「一人の人間の中には二人の自分がいる」といっています。一人は、本能的に知っているプレーをしようとする自分(セルフ2)です。現状を打開してなんとか上手にプレーできるように努力しようとしている自分のことです。もう一人の自分は、その自分に命令を出し、よい悪いと評価をし、もっとうまくやらせようと叱咤する自分(セルフ1)です。何かに無心に取り組む自分(セルフ2)を、もう一人の自分(セルフ1)が冷たい目で眺め、「そんなことじゃダメだ、もっとうまくやれ」と囁きます。セルフ1の声が聞こえた途端、私たちは緊張し、本来セルフ2が知っているはずの最高のプレイができなくなります。セルフ1はまるで、口うるさい親や上司のようです。子どもや部下のすることを信頼せず、くどいほど教え、指示や命令をします。コーチの仕事は、対象者の心をセルフ1に支配させずに、セルフ2に自由にプレーさせることです。それこそが、人間の潜在的な能力の発揮であり、コーチの役割なのです。(コーチングの技術 菅原裕子 講談社現代新書 参照)よりよく生きたい。夢や目標を実現したい。人様の役に立ちたい。などと思っている自分を、押しとどめているもう一人の自分がいる。この考え方は驚くべことですが、そういわれればそうだと思う人が多いのではないでしょうか。そんなに苦しい思いをしなくてもいいじゃないか。そんな煩わしいことにかかわり合わないで、他人に任せたらどうだ。もっと快適で楽ができることを存分に味わって生きようよ。こういう考え方にどっぷりと浸かってしまうとどんなことが起きるでしょうか。セルフ1の力が強くなって、セルフ2を軽蔑するようになります。常に完全、完璧、理想の立場から現実を見下すようになります。次第に自己嫌悪、自己否定するようになります。現実や現状は否定するために存在しているようなものです。自分の存在ややることなすことすべてにおいて、批判的、否定的に眺めているので、精神的には本当に苦しいものです。これが神経症の発症の大きな原因となっています。セルフ1の力を弱めて、骨抜きにしてしまうことが重要になります。セルフ1の言うことは、参考程度にとどめて、あくまでも現実、現状、事実にしっかりと根を張って生きていくことです。森田でいう「かくあるべし」を減らして、事実本位に生きていくということです。森田理論学習では、その方法について幾つも提案しています。決めつけや先入観を排除して事実の裏をとる。事実を観察する。具体的に赤裸々に話す、価値批判しないで事実を把握する。両面観、純な心、私メッセージ、自分中心の生き方、win winの人間関係の構築などです。これらを身につけて、少しでも「かくあるべし」を減らして、事実本位の生活態度を身に着けたいものです。そうすれば神経症的な葛藤や苦悩は激減していくはずです。
2019.10.26
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森田先生の言葉に、「練習より実際に当たれ」という言葉がある。スポーツや楽器をされている方は、違和感を感じる方がおられるのではなかろうか。この言葉は練習の効果を軽視しているように感じるからである。私は老人ホームの慰問活動で、アルトサックスを吹いている。曲目は早いときで半月前には決まる。大体定番曲意外に5~6曲ぐらいある。私は曲目が決まると、本番前に50回は練習するように心がけている。手が勝手に動き、暗譜でもほぼ90%くらいは問題なく吹けるのだが、機械的に50回は必ず練習するようにしている。するとどんなことが起きるのか。本番になると、「うまく吹けるだろうか」という不安、プレッシャは必ず出てくる。これは精神拮抗作用といわれているものだ。防ぎようがない。その時、この反復練習が活きてくる。徹底的に練習を繰り返していると、「あれだけ徹底的に練習したんだ。大丈夫だよ」という根拠のない自信のようなものが出てくるのだ。それに支えられているだけで、精神的には随分楽になるものだ。一流のプロ野球の選手が言っていた「練習は嘘をつかない。一流選手は見えないところで猛練習をしている」という言葉を信じている。それでは森田先生の言われていることは意味のないことなのか。そうではない。これを説明してみたい。森田先生のところに入院してくる人は、経済的にも恵まれ、日本を背負って立つ気概にあふれていた人たちだった。一般庶民はほとんどいなかったということだ。大体1日4万円という入院費を払える一般庶民がそんなにいたとは思えない。それは形外先生言行録に原稿を寄せてくれた人の、職業を見てみると容易に想像がつく。論説委員、医者、大会社の社長、取締や役員、官僚、士業、成功した自営業者、大学などの教育関係者、弁護士、外交官、軍人などそれぞれの道で日本の牽引車となっていった人たちであった。その人たちの特徴は、一言でいうと「東京で成功したい。大都会で一旗揚げて、故郷に錦を飾りたい」という気持ちが強かった。いわゆる立身出世を夢見ている人が多かったのである。そういう人が、森田先生のところで、下肥の汲み取りをやらされる。猿やニワトリ、兎の世話をさせられる。あるいは、掃除をさせられる。飯炊きをさせられる。野菜市場に行って、その辺に落ちている野菜くずを拾えといわれる。高い入院費をとってなぜお手伝いさんがやるような雑用をさせるのだと反発する人もいたのである。また入院生の中には、「自分はここまで落ちぶれてしまったかと、涙が出てきた」という人もいた。つまり、こんな仕事や日常茶飯事のつまらない、価値のないことは自分の取り組むべき課題ではない。私は、もっと価値のある、クリエイティブで多くの人から賞賛されるような仕事に取り組むようなステータスの高い人間なのだという自負というか変なプライドが強かったのである。「かくあるべし」が強くて、鼻持ちならない人が多かった。それが神経症の原因となっていたということです。森田先生の指導は、そのような価値観を粉々に砕いていったということです。森田先生は、「風呂焚きをするときは風呂焚きになりきれ、飯を炊くときは飯炊きになりきれ」と徹底指導されたのは、自分のやることなすことに是非善悪の価値判断を持ち込むなということを言いたかったのです。目の前の課題や問題点、日常茶飯事に精魂を込めて取り組みなさい。練習の時のような逃げ道のある気持ちを捨てて、一心不乱にものそのものになりきって取り組みなさい。是非善悪の価値判断は、「かくあるべし」を強固にして、現実との乖離に苦しむようになるのですよと伝えたかったのだと思います。入院中にそのことに気づいた人は、その後の人生が大きく花開いています。
2019.09.05
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私が大学生のころ学園祭で夕方から夜にかけて大きなダンスパーティーが開催されることになりました。彼女や彼氏のいない人は、誰か相手をみつけないと入場できません。参加したい人は、同好会や知り合いに声をかけて、相手を調達していました。ダンスを楽しみたいという気持ちが強ければ自然にそのように行動します。事実即席のカップルがたくさん生まれました。ところが「女性に声をかけてペアになる了解をもらわなければならない」という気持ちになると、厄介なことになります。人生の重大な決断を迫られるような気持ちになってしまうのです。声をかけてもダメなんじゃないか。もし冷たく断られたらみじめだ。自尊心が粉々に砕かれてしまう。などと悲観的なことばかり考えてしまうのです。実はこれは私のことです。今になって、この心理状態を考えてみました。このように「・・・しなければならない」と考えることは、「かくあるべし」を自分に押し付けていることです。そういう気持ちになると、「・・・したい」という気持ちは、すぐに弱まってしまいます。これが積極的に声掛けできない一つの理由です。でもそれだけではありません。もっと重要な理由があります。それは、「かくあるべし」と思考すること自体が、積極的に行動することを押しとどめるように作用するのです。言葉を変えれば、いろいろと逃避や回避、言い訳の理由を積極的に探しまわるようになるのです。「フォークダンスも踊れないのに、自分にはムリだろう」「自分の提案を受け入れてくれる女の人なんている訳がない」「声をかけてみたいような魅力的な女の人がいない」「それよりパチンコのほうが楽しい」「友達と飲みに行こう」などなど。これらは本心とは違います。本音の部分では積極的に行動したくないという気持ちが支配しているのですから、その結果として声掛けをすることを止めてしまうのです。結局現状維持に甘んじてしまうのです。ダンスを楽しみたいという気持ちを無理やり抑圧してしまうのです。我々がしばしば陥りやすい「かくあるべし」思考は、それをしないでも済む理由を、脳の無意識の部分で、どんどん加速度的に作りだしているというからくりが働いているのです。「かくあるべし」は自分や他人、自然現象などの事実を否定して葛藤や苦悩を作りだしています。それだけではないのです。金縛りにあった状態になって、本心に基づいた行動を抑制してしまうということも見落としてはならないと思います。そういう意味からも「かくあるべし」を減少させることが、とても大事になってくるのです。
2019.08.27
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メキシコオリンピックで1500mでケニア人初の金メダルを獲得した選手がいた。キブチョゲ・ケノイ選手である。この選手はそれまでのレースでは、最終400mでいつも激痛を感じていた。いいところまで行くのだが最後に抜かされてしまうのだ。ルー・タイスという人に相談しました。ルー・タイスは彼に聞きました。「レースのポイントに差しかかったとき、何を考えているのか?」彼は、「あと400mも走らなければいけないと考えます」と言いました。「では走るのを止めたらどうだね」「そんなのバカげています。走るのを止めたらレースに負けてしまうじゃありませんか」彼は怒りました。そしてむきになって言いました。「僕が何のために走っていると思っているんですか。オリンピックで勝てたら、牛がもらえるからです。ぼくの国では、それでずいぶんお金持ちになれるんです。家族は、ぼくをアメリカの大学に送るために、自分たちの生活を犠牲にしてきた。だから、家族のためにも、国のためにも、絶対に金メダルを獲りたいのです。」これは森田理論でいうと「かくあるべし」の考え方です。オリンピックで何が何でも優勝しなければならない。もし優勝できなければ家族にも、国にも顔向けできなくなる。失意のうちにケニアに帰ることだけは絶対に避けなければならない。そういったプレッシャが、彼に重くのしかかっていたのです。ルー・タイスコーチは言いました。「君は無理して走る必要はない。レースを走りきる必要もない。いつだって走るのを止めてもいいのだよ。それでも走りたいのか」彼ははっとして次のように言いました。「僕は小さいときから走るのが得意で、とにかく走ることが大好きなんです。走るのを止めてしまったら、ぼくがぼくでなくなってしまいます。走ることだったらどんなつらい練習でも苦にならないんです。そしてどんな強い選手にも勝ちたいと思っています。そうだ、ぼくの夢はオリンピックに出場して優勝したいんだ。」「よく分かった。じゃ、そのことに気持ちを集中させなさい。」ちなみに彼は1500mで金メダルを獲得したほか、5000mでも銀メダルを獲得したそうです。「かくあるべし」から出発することと、自分の本心の部分から取り組むことは、その後大きな差となって現れるということだと思います。
2019.08.26
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次のように言う人がいる。「理想の自分ばかり見て、現実の自分を裁いていました」「頭では理解できるのですが、かくあるべしがとれません」「どうすれば自己肯定感がもてるのですか」この方は、森田理論学習によって「かくあるべし」の弊害について理解されたのだと思います。現実や事実を把握する前に、是非善悪の価値判断をして自分を裁いていた。観念や理想通りの人間にならなければならないと叱咤激励していたのです。上から下目線で現実の自分を否定するのが常態化していたことに気がついた。それが葛藤や苦しみを生みだして、神経症へと陥っていった。なんとか「かくあるべし」を自分に押し付ける態度を改めなければならない。そして現実や事実に寄り添って、事実本位の生活態度を身につけていきたい。そうすれば、ありのままの自分を受け入れることができる。自己肯定感が生まれてくれば、自分の中で思想の矛盾が解消されるので、楽に生きていけるようになる。でも「かくあるべし」を減らすために具体的にどう行動すればよいのか皆目見当がつかないという悩みを抱えておられるのだと思います。私は次のようなことをお勧めします。・森田理論学習によって「かくあるべし」の弊害は常に意識していく。・「かくあるべし」を少なくするよりは、事実本位の生活態度の養成に力を入れる。そのために以下のことに注力していく。・事実を先入観や決めつけによって軽々しく扱うことを止める。過去の経験で事実の予想ができることでも、改めて事実確認を行う。観察に徹することである。・事実を口にするときは、具体的、赤裸々に話すようにする。抽象的、隠しごとをしてはならない。・事実を見て是非善悪の価値判断をしない。事実を認めて、そのまま受け入れるように心がける。・感情の事実はマイナス面が出てきたら、プラス面からも見るようにする。これは森田理論の両面観の応用である。・他人から温かい言葉をかけもらったときや何かをしてもらったときは、「ありがとう」と感謝の言葉を口にする。これを習慣づける。・「あなたメッセージ」から「私メッセージ」の発信に切り替えていく。「私」を主語にして話すことだ。「私はこう思う」「私はこうしてくれたらうれしい」など。・森田理論の「純な心」を自分の生活の中に取り入れる。初二念の感情が湧き起こったときに、「ちょっと待て」と自分に声掛けをして初一念に立ち戻ることだ。・他人は決して自分の思い通りにコントロールできないことを肝に銘じておく。その溝を少しでも埋めるために、歩み寄ったり、妥協していくのが対人関係のコツだ。これ以外にも、それぞれ心がけておられることがいろいろとあると思う。森田理論の学習会の場などで話し合ってみてもらいたい。そして、これはと思うものをぜひとも実行してほしい。これらを実行することで、非難、否定、説教、命令、指示、禁止、叱責することが少なくなり、自己受容、評価、感謝の態度が増えてくれば、事実本位の生活に着実に近づいているのです。
2019.07.14
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