妻は、たった一日ケイタイが繋がらないと言っては、離れて暮らす二男の身を案じている。
大の心配性で、いつだって先へ先へと心配の種を播いて、それを自分で育ては憔悴している。
何故、わざわざ未来を悪いイメージで迎えなくてはならないのか、どうしてもその感覚がわからない。
聞くと、悪い方へ考えていないと余計不安なのだという。逆に良いことばかりを考えていて、悪いことが起こった時のショックが嫌なのだと言う。
悲観論そのものじゃないか。
全てを悲観的に捉えることで精神の安定を図ろうとする。鍋の底にいて天井を眺めているような状態は、傷つくのを恐れ一歩も外へ出ようとしない手負いのアナグマみたいなものだ。それじゃあ美味しい獲物にはありつけない。
先日亡くなった作詞家の星野哲郎氏のうた「幸せは歩いてこない、だから歩いてゆくんだね。」「一日一歩三日で三歩、三歩進んで二歩下がる。」の様に、幸せを掴むために前向きで一歩一歩進んで行く。
楽観主義でなければ一歩も出ないし、幸せはやってこないんじゃないか?
何事も悪く捉えていては運だって逃げていく。
多少の不安があってもプラス思考で考えれば、マイナスもプラスとして捉えられるようになる。そうすればマイナスのイメージが頭に残る事もなく、さらに前へ進むことが出来る。
先のことなんか誰にも分からない。自分の手ではどうしようもないことを、あれこれ詮索してもしょうがない。成るようにしかならない。
しかし、どうなってもいい様にとの心構えだけは持っている必要があるだろうけど・・・。
仮に娘がいたとして、もしこの繋がらないケイタイが娘のだったら親父は心配せずにいられるか、と言われれば、多分無理だろう。母親と末っ子、父親と末娘。この関係はちょっとばかりややこしい。
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