私は当初、低学年の子や幼児に、仮説を楽しむ科学実験教室をすることに、慎重でした。罪悪感さえもっていたかもしれません。
シュタイナー教育の言葉を、聞きかじったからでもあり、ピアジェの発達段階説を踏まえての判断でもありました。
しかし、偶然、小さい子たちに、授業をするようになって、
これは、もしかして、狭い判断だったのではないか、と疑問をもつようになってきました。
ピアジェの理論では、思考の発達は次第に新しい構造が出来てくるという方向性をたどることになっています。
その理論によれば、科学実験に耐えられるのは、形式的操作期の12-3、4歳であって、
この青年期の初めの頃になって、
一生続く形式的、抽象的思考操作が可能になると考えられています。
「もし~であれば」と、いった、仮説演繹的思考も行えるようになるのです。
最低でも 具体的操作期に達している必要があり、
もろもろの保存が成立し、
可逆的操作も行えるようになることが必要です。
自己中心性も脱し、他者との相互作用の中での思考も可能になってること。
など。
日本の学校の教科書も、この 発達段階によって
「出来る・出来ない」と判断し、
「これは、まだ教えない」、という基準になっていると思います。
しかし、あらためて、ピアジェ理論を学んでみると、
現在では、ずいぶん訂正というか、問題点がはっきりしているようです。
それは、文脈依存性を考慮していなかった点です。
つまり、能力とは、どんな場合でも発揮されるのではなくて、おかれた状況に強く関係するということに、触れていなかったのです。
これは、特別支援教室で、寅さんが衝撃を受けたことでもあり、また、一般の子にも、言えることがわかって、「どんぐり倶楽部」に惹かれた契機でもありますが、
計算能力を例にします。
1桁の足し算、二桁の足し算、引き算、かけ算、わり算を算数ができるとします。
ある子どもが20+32を52と計算できたならば、
それはお金の計算(20円+32円)でも、
長さの計算(20cm+32cm)でも、
計算の内容に関わらず計算できると考えがちです。
それは、計算能力という一般的な能力があると考えているからです。
ところが、実際は違うのです!
ドリルでは、計算できるのに、理科や社会としては、計算できない子どもが
少なからずいるのです。
また、逆に、発展途上国で、ものを売っている子どもが、
学校に行っていないので、数学の計算は出来ないはずなのに、
自分自身が普段売っている物の代金の計算は、
極めて速く・正確に出来るという話は、どこにでもあります。
つまり、世の中には「数学の時間の計算能力」、
「理科の時間の計算能力」、
「社会の時間の計算能力」、
「市場での計算能力」・・・という別々な能力があるのである。
このような現象を、文脈依存性と呼び、
認知心理学では、知識・能力は一般的に文脈依存性をもつことが明らかになっているのです。
ピアジェはこの文脈依存性を考慮していなかったようです。
そのため、ピアジェが実験した状況で子どもが課題を解けない場合、
それに関する能力は無いと判断したのです。
ところが、ピアジェ理論では出来ないはずの子どもが、
楽々と課題を達成することが明らかになってきました。
子どもたちが普段やっている状況に近い状態で課題を解かせたからです。
今では、ピアジェの発達段階で指標となる様々な能力
(例えば保存性や脱自己中心性)などは、
極めて早い段階から持っていると考えられています。
実は、ピアジェ自身も、自分の理論を教育に簡単に適用できないと考え、
注意深く教育と自身の発達理論を分けていたのです。
しかし、周囲はいつも金科玉条にしてしまいます。
つまり、「教えられない、分からせられない」ことに対する免罪符として、
ピアジェ理論を使っている心配があるようです。
もちろん、ピアジェ理論は全て否定されているわけではありません。
人間が主体的に知識・能力を高めていくという彼の基本理論は未だに健在です。
私たちは、子どもたちに、自ら考え自ら学ぶ主体的な能力と、
豊かな社会性、人間性を備えた人間になってもらいたいと教育しています。
そのためには、従来の教師指導による知識詰め込み型のものから脱皮して、
子どもの発達に沿ってその主体的な活動を重視する指導へと変換させていくことが不可欠です。
この新しい教育の在り方の理論的基礎を提供しているのが、ピアジェ理論です。
すべての思考は、感覚運動的活動に起源を持っていること。
感覚運動的活動が内面化し構造化することによって、論理的思考が生まれてくること。
子どもの思考が発達するためには、自己中心性からの脱却が不可欠なので、
そのために友だちとのかかわりがきわめて大切であること。
子どもの思考力は、正しい知識が累積されて発達していくのではなく、
子どもが自分の考えの過ちに気づき、自ら修正していく活動を通して発達すること。
おとなが与える知識を子どもがどんなに多量に覚えてても、
それは決して思考の発達には結びつかないこと。
子どもが自分で探索して得た知識をめぐって、
その中に含まれる過ちに気づき、
自分でそれを訂正していく努力によってのみ、
子どもの思考の発達が可能となることです。
子どもの発達は、子どもが自ら環境にかかわり、
それによる環境からの反作用や応答に即して、
子どもが新たな仕方でかかわっていくという相互作用が、
発達には不可欠なのです。
この相互作用においてとくに大切なのは、
環境にかかわろうとする子どもの知的好奇心と探求心、
および自分の思いに沿って環境を変化させたという実感にもとずく達成感と有能感です。
ピアジェは、情動を軽視しているように見られることもあるようですが、
ピアジェ理論は、感情や意欲を思考の働きのエネルギーとはっきりみなしています。
とにかく、発達にとって最も大切なのは、
子どもの主体的活動だといえます。
しかし、日本の教育は、この主体性の確立に、本当に乏しい内容であり、理論武装も貧弱です。
もう一度、知識は受身的に与えられるものではなく、
子どもが能動的に構成するものだという原点に立って
授業を考えてみたいものです。
説明しない授業 2011.09.07
電気となかよくなろう 2009.08.04
PR
Freepage List
Category
Comments