問題生徒への対応のヒントをいただきました。
人間には「自分のことを知りたい」と思う本能があります。これはかなり根元的な本能のようです。だから、痴呆になって自分のことが分からなくなると、ものすごく不安になります。
私は何のために生まれてきたのか。
私は誰なのか。
私は必要とされているのか。
私には何が出来るのか。
私はこれからどうなるのか。
私は何をすべきなのか。
人は意識的、無意識的にいつでもこのようなことを考えて生きています。
そして、その答えを求めて学び、考え、成長しようとします。人は学び、考え、成長することで安心を得ることが出来るのです。
……(飛びます)
そして、自分で自分を傷つけたり、他の人を傷つけることで、自分の存在を確認しようとします。
それは、夢の中で自分の存在を確認するために、自分のほっぺたをつねるようなものです。
お母さんに無視されている子も、「私」という存在が不安定になってしまうので不安に駆られ、トラブルを起こし、お母さんの反応によって「自分の存在」を確認しようとします。
引用させていただき、ありがとうございます。
やっぱり、授業は、哲学が必要ですね。
哲学と結びつかない授業は、子どもに意欲を湧き起こさせません。
お説教でではなく、実験を通して、これらに自問自答できる授業を目指したいです。
ただ、私個人としては、
この世に、客観的な存在目的があるとは思いません。
よく、存在目的がなければ人生はむなしい、という人がいますが、
私はそうとは思いません。
いや、逆に、もし私の存在目的がすでに決定しているなら、
それこそ、私は、むなしく感じます。
これは、人それぞれですから、説得しようとするのではありません。
私も、人とのつながりに喜びを見出します。
喜んでもらえる子どもたちの顔や、保護者の驚きの顔を思い浮かべると
エネルギーがモリモリ湧いてくるものです。
そして、社会の中で、このアホがそれなりにお役に立っていると感じられるのは、
無上の喜びです。
瞬間的ですが、この命がどうなっても構わないという
そんなとんでもない精神状態にすらなったりします。
でも、でも、なんです。
あくまでも、私個人の価値観ですが、
私は、「無意味な」白紙のキャンバスこそ意義があると思っています。
人間はこうあるべき、という論理ではなく、
やりたいことで満ちあふれているとき、
「むなしさ」は吹っ飛んでしまうと思うのです。
逆に、「人生の目的」とか「人間の存在意義」にこだわってしまうのは、
自分の中に主体的にやりたいことを発見していないからではないでしょうか。
「道がなければ歩けない」と、騒ぐのではなく、
「自分の通った道が、道なのだ!!」、
「自分こそが、価値の創造者なのだ」、 と
無限の荒野を活き活きと歩きたいもんだと思っています。
(もちろん、大義名分で生きる人もいていいと、思いますよ。 )
何か、脱線転覆です。
何を言おうとしていたのか、自分でもわからなくなりました。
おっと、例の問題の生徒ですが、
滑り出しは、まあまあ、順調です。
では、また。
金・土と、古川第一小学校
田尻小学校のPTAの皆さま、お世話になりました。
ありがとうございます。
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