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診療所でカウンセリング。第3診察室は今日は前回と机の配置が変えてあったが、落ち着かないので元に戻した。植木鉢がおいてあって、前回よりも人の気配がするというのか、落ち着いた感じになってきてありがたい。本を置いてみたくなるのが、週に一度しかこないのでそうするわけにはいかない。 今週は四日、明治東洋医学院に出講する。翻訳の場合は細切れの時間でもそれなりに仕事を進められるが、原稿を書くにはある程度まとまった時間がないと書けない。とはいえそんなことをいってられないので、いろいろと工夫している。コンピュータはいつでも使えるようにしておく(電源を落とさない。iBookであれば、外に行く時も絶えずスリープモード、復帰は一瞬)。本も閉じない。メールの返事をためない。原稿などの締切は守る(今朝も締切前に原稿を送った。没になるかもしれないのだけど)。できていないこと。まとまった時間眠ること。仕事の合間に休憩を入れること。こちらは数え出すときりがない。 アドラーの『個人心理学講義』の読み直し。「勇気があり、自信があり、リラックスしている人だけが、人生の有利な面からだけではなく、困難からも益を受けることができます。そのような人は決して恐れたりはしません」(p.26)「困難を克服するまで待てず、いらいらする人を見ることがあります…自分の困難は克服できると知っている人は、いらいらすることはありません」(p.57) この人生から困難がなくなることはありえない。困難に直面しても、その困難な課題を解決する能力がある、と思いたい。この頃、いらいらすることもあるし、リラックスできないでいることがあるが、焦ることなく静かな気持ちでひとつずつできることからしていこう。そういえばアドラーがこんな厳しいことをいっている。よい意図を持っているだけでは十分ではない、大切なことは、実際に成し遂げていること、実際に与えていることである(p.49)。
2005年01月31日
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朝まで眠れなかった。こんな日がいったい何日続いたことか。相変わらず気が休まらない。昼間仕事にならないので、本も閉じ、コンピュータも閉じて横になるが眠りはこない。昼間、講義をした日は夜なかなか原稿を書くだけの気力が起らない。原稿が先に進む日とそうでない日の差がはなはだしい。頑張れていると思える日が続くと反動が怖い。今がそうである。こんなに頑張っているといっているわりには、前に書いたメールを読み返していると、もうずいぶん前に着手しているのに未だ完成していない仕事が多すぎることに気づき恥ずかしい。あせることなくひとつひとつやりとげるしかない。いつもそう自分にいい聞かせるのだが。「繰り返す毎日に追われながら暮らしてても…」という宮沢和史の歌を思い出しながら、朝方眠りについたら、前の家にいる夢を見た。今は銀杏の木が大きく育ち何も見えなくなったが、この家の西にある窓から僕はよく外を眺めて過ごしていた。はるか遠くにある山まで一面田んぼしかない。夏にはこの窓から花火が見えた。三十秒くらいしてからかすかに音が聞こえた。それくらい遠くに上がる花火である。夢の中で見た景色は、その頃見たのと同じだった。大きな虹がかかった。僕は急いでその虹の写真を撮ろうとカメラを構えた。するとまた別の虹がかかった。この虹を見てほしい、と思った。「雨上がりの君の町にかかる虹に気づいていてくれますように」
2005年01月30日
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今日は朝からカウンセリング。最後の人が帰られた頃にはすっかり日が暮れていた。 過日、学校からシラバスを学生に配るが内容は同じでいいかという確認のメールがきた。そこで参考文献だけを少し書き換えてもらうことにした。僕の著書とAdlerの訳書を書いてもらったわけだが、これを機会にあらためてこの数日、アドラーの『個人心理学講義』と『子どもの教育』を読み返していると気づくことが多い。これだけ訳してから年数が経つと、自分の訳とは思えないような個所もあるし、少し内容を違ったふうに覚えていたところもあることに気づき驚く。日に日に新しいことを学んでいると思っていても、『個人心理学講義』に付した詳細な注釈を読むと、その頃既に学んでいたことであったことがわかり、複雑な気持ちになる。原文を何度も読んで細かい注釈を書いているが、注釈の体裁を取りながら僕自身の主張を盛り込もうとしているのもよくわかる。しばらく読み返してみようと思う(これは、今差し迫った仕事のために必要でもあるからだが)。 アドラーがこんなことを書いている。もしも哲学者が仕事を成し遂げたいのならば、いつも他の人と昼食や夕食に行けるわけではない、と(『個人心理学講義』p.58)。僕は当時ここのところを訳しながら、たしかにその通りだな、と思う。「というのは、自分の考えをまとめ、正しい方法を用いるために、長い間ひとりでいなければならないからです」。こんな時間がなければ考えをまとめることも、考えを書き留めることもできない。 しかし、とアドラーはいう、その後で、再び、社会と接触することを通じて、成長しなければならない、と。社会の接触は哲学者の成長の重要な部分である、とアドラーが書いているのを読みながら、これはプラトンが『国家』の中でいっていることと同じである、と思い、注釈にそのことに言及し、あわせて、(まだその時は訳していなかった)『子どもの教育』の関連する記述を紹介した。 この作業を通じて、哲学を学ぶ僕はアドラーが書いているように、ひとりでいるだけではなく、社会と接触できているだろうか、と思い、さらに、アドラーはなぜここで唐突に(と思った)哲学者の事例を出しているのだろう、と考え始める、と数行を訳すだけなのにかなりの時間がかかったことを思い出した。 そして、アドラーが書いていることは、アドラー心理学を学ぶずっと前から僕の関心事のひとつであった理論と実践の問題に関わっていることに気づき、そのようにしてアドラーの書いたこととの関連で考え始めたこの問題は2003年の12月に出した『不幸の心理 幸福の哲学』に結実していることに思い至った。なんとも息の長いというか、悠長な話ではある。 友人から著書が送られてきた。まだ礼状を出せないでいたのだが、彼のほうからメールが届いた。内容は読む前からわかったのだが、翻訳してもらえないか、と書いてきた。僕は断わろうと思っている。どう考えても時間がないのである。
2005年01月29日
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今日から明治東洋医学院で臨床心理学の集中講義。過日、鍼灸科一年生の講義と試験を終えたばかりなのだが、今度は二年生の講義である。A組とB組の顕著な雰囲気の違いを僕は楽しんでいる。講義中や講義が終わってからの学生たちの質問は、よく理解してもらっていることがわかりありがたかった。シラバスを配布しているが、急ぐこともないので、質問を受けながら話を進めていければと思う。いつもながら話しすぎる傾向があって、ノートを取っていたらもう次の話に進み、その話を聞きたいと思ったら、ノートを取れないという指摘を受けた。 これから二月の終わりまで講義、講演で出かける日が多くなる。なんとか乗りきりたい。新しいiBook G4は快適。Air H"も新しい機種に変えたら、電波が途切れることがなくなった。受信送信の速度が遅い点を除けば、外からでもインターネットに接続できるので、どこででも仕事ができ、ありがたい。Egbridgeの日本語変換の精度だけがやや不満。まだ思いもよらない変換をすることがあって、その度に思考が途切れるように思う。 自分に何か問題が起ったらどうするかという質問を受けた。自分のことは自分ではわからないことがあるので他の人に相談すると答えたが、それがかなわない時は自分でなんとかするしかない。もう一人僕がいればいいのにという話をいつかしていたことがあったが、もう一人の僕はこの僕に何を語るか。きっと厳しいことをいうだろうし、昨日書いたように、言葉を慎重に選ぶということもないかもしれない。 これも最近のテーマなのだが、本の原稿を書く時、自分に向けて書くとこれと同じようなことが起ることがある。自分がこれから書こうとすることは書く前からわかっているので、言葉は短くなりていねいに説明しなくなる。だから僕はあなたに書こうと思う。あなたは僕ではないので、僕にとって自明のことでも、言葉の限りをつくして説明しなければ伝わらないし、理解してもらえない。そう思って毎日原稿を書き進めている。きっと僕は一人だと何も書かないし、話さないだろう。 和辻哲郎の『イタリア古寺巡礼』の解説に高階秀爾が次のように書いている。「人は今では、昔ほど時間をかけて手紙を書くという習慣を失ってしまった…パリに住むようになってからも、故国との絆を保障してくれるものは、手紙しかない。当時は留学生が利用するのは船便というのが普通であったが、無理して航空便にしても、返事が来るまでは半月はかかる。それは日本と西欧との距離を実感させるものであった」 一人ならば、絆を求めることも必要はないだろう。人は本質的に<…と共にある(etre avec…)>という在り方をしているということは前に書いたことがある。
2005年01月28日
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今日も朝まで眠れなかった。眠れなかった分は、昼の間になんとか辻褄を合わしていかないと身が持たないが、昼は自分の思うように時間を使えるわけではない。明日から、来月末まで集中講義があって週に何日も学校に通うことになるので、こんなことを書くのもこれで最後かもしれないのだが。 僕は相談に与る立場にあるので、自分ができもしないことを人に勧めるようなことはあってはならない、と思っている。とはいうものの、僕が訳したアドラーの書いたものを読み返すと自分の至らなさに思いいたって苦しいものがある。今日は必要があって、『個人心理学講義』の第十一章「恋愛と結婚」を読み返していたが、アドラーがここで言及している、自分のことにしか関心がなく、人生の課題に対して準備ができていないでためらいの態度を取る人というのは、まさしく僕のことではないか、と思ってしまう。おそらくは自分に厳しすぎるところがあることも知っているが、カウンセリングでは言葉を選んで注意深く話すことなのに、身を守る暇さえ与えられず、強烈な一撃が加えられるような衝撃を感じ、立ち上がれなくなってしまう。この本は僕が初めて訳したアドラーの著作で今から見返すと至らぬところもないわけではないが、アドラーの一言一言を訳す度に、大きなため息をついていたように思う。「ためらう態度を取る人に対する適切な治療は、勇気づけることであって、勇気をくじくことではありません。困難に直面し、人生の課題を解決する能力がある、と理解してもらわなければなりません。これが自信を築く唯一の方法です」(p.60) まず、自分から始めよ、と当時も思ったし、今もそう思う。前に住んでいた家の台所に今となっては非力なPowerBookを持ちこんで毎日こつこつ訳していた。柔らかな冬の日の光が射し込み、テーブルには木の葉の影が揺れるのが映っていた。訳稿を提出することになっていた日の朝、大地が揺れた。阪神淡路大震災。
2005年01月27日
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採点を完了。朝までかかってしまったが、答案用紙と成績表を〆切よりも一日早く発送できて気分がよかった。講義が終わってしまったのでできないが、講義中に学生と問題について議論してみたい。採点中しばしば答案の余白に○とつけたが、これは僕が読んで、なるほど、と思った個所である。学生から学ぶことは多い。今回も不可をつける必要がなくてよかった。28日から今度は鍼灸科の2年生の集中講義を始める。 本も手紙も「あなた」(読み手)の中にある普遍的な人へと向けて書くのである。私信を普通他の人が読むことはないが、公刊されている書簡集を読んで心動かされることがある。私信に書かれた内容は本来的に二人にしかわからないことであるが(和辻の手紙でいえば、「照といっしょに見に行ったオペラ」と書いてある時、他の誰もその時の経験を共有はできない)書いた人がその言葉で伝えようとしたことは、二人の経験そのままではなくても、読み手の中の普遍に訴えるがゆえに理解できるのである。まったく個人的なことしか書かれていなければ、読んでも感動することはないだろうし、そもそも理解できないだろう。話の場合も同じである。僕は話を聞く機会が多いが、まれにどうしても理解できないことがある。もちろん、未知の外国語を聞くわけではないから、言葉の意味はわかるのであるが。 個性的すぎると理解できないが、他方、あまりに普遍的すぎると、これは書いている人から離れ科学、あるいは学問になってしまう。人は死すべきものであるということは誰でも知っているけれども、そう書いてあったからといって心を動かされることはない。 前にニーチェの言葉を次のような言葉を引いたことを思い出した。「人格や個性にかかわる点こそが反駁不可能なる永遠のものである。三つのアネクドート(逸話)があれば、それから一人の人間の像を描くことが可能である。私の試みはそれぞれの体系から三つのアネクドートを抜き出しては他を捨て去ることである」 逸話は個別的であるから、それを列挙するだけでは伝記は書けないだろう。かといって一般的なこと、普遍的なことをある人の人生の中に見つけて書いてみても、伝記にはならないだろう。 人に役立つということについての続きだが、どんな形であれ、自分が役立てている、必要とされていると思える方が、その逆よりは望ましいと思う。私は必要とされていないし、役にも立ってない。私さえいなければみんなもっとうまくやっていけるだろうと誰かが話し、自分もそんなことを思い話す時は要注意だろう。僕は心が弱っている時はそんなふうに思うことがある。
2005年01月26日
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うっかり人に役立つことはあるのだろうか。こちらが役立ちたいと思って、そのようにふるまってみても、それを相手が受け入れられなければ、役立つことはないが、相手が受け入れるかいなかはこちらはどうすることもできないとはいえ、少なくともこちらは意図的に役立つであろうことをしなければならない。もっとも、思いがけず、自分が意図していない人の役立つことはある。例えば、僕が書いた本をどなたが読んでくださるかは僕には当然のことながら予想できないが、僕の書いたもので何か思うところがあったとしたら著者としては望外の喜びである。 小学校の焼却炉で亡くなった子どもの話を本の中で書いたことがある(『アドラー心理学入門』)。その話をいつか講演の中でしたことがあった。その話を聞いた人が帰ってから友人に伝えた。その話を聞いた人はそんなこともあるのだな、と格別の注意をすることはなかった。数日後、その人の息子さんが交通事故で意識不明の重体になった。その時に友人を介して間接的に聞いた僕の話をその人は思い出した。この子はとにもかくにも生きている、と脳挫傷で生死の境を彷徨う子どもを前に生還を祈った。幸い、命をとりとめられたのだが、後になって僕はその人本人から話を聞いた。もしもあの時、僕の話を聞いていなかったら、あの日々を乗りきれなかっただろう、と。 和辻哲郎の『イタリア古寺巡礼』は、先日来紹介している和辻哲郎の書簡がもとになったものである。読み比べてみると、もともとの手紙にかなり手が加えてあることがわかる。書き直しの結果、文はより洗練され、手紙には書かれていなかったことが書き加えられている。後から思い出したこともあったであろうし、他の人に宛てられた手紙から補われたかもしれない。 僕は一番興味深いと思うのは、もともとの手紙は照に宛てて書かれたが、『イタリア古寺巡礼』の中では照はいわば姿を消しているということである。単純な例をあげるならば、ベルリンで見たオペラについて和辻はこんなふうに照宛の手紙の中で書いている。「しかしとにかく私の主観的の感じでは、照といっしょに見に行ったオペラの方がずっと面白かった」(下、p.80)。この部分が『イタリア古寺巡礼』では、次のように変えられている。「しかしとにかくこの晩の感じでは、数年前に帝国劇場で見たロシアの旅役者のオペラの方が、ずっとおもしろかった」(岩波文庫、p.15)。「照といっしょに見に行ったオペラ」と和辻が書く時、その記述は思い出が鮮やかに蘇るいわば二人だけの秘密である。そんな記述が『イタリア古寺巡礼』では、すべて消えてしまっている。 前に和辻哲郎を引いてこんなことを書いたことがある。夜遅くまで原稿を書いている時いつも思うのだが、ここでこうして書いている僕はたしかに一人で書いているののだが、僕は「私」の意識を超えて、この原稿を読んでほしいと思っているあなたとの(和辻哲郎の言葉を使うと)「間柄」の中にあって書いている、と。だから、あなたが誰かによって書いている中身すら変わってくるわけである。今朝も僕は朝まで原稿を書き続けていた。
2005年01月25日
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やはり夜眠れず、一度寝ようとしたものの、起き出して朝方まで仕事をした。解説原稿を少し先まで進める。もう書き始めてから長くなるのに、調べることが多く、なかなか形にならない。こんなにたくさん書いてもいいのかという不安も少しある。これだけ書くことの必然性(おおげさないい方である)を認めてもらわなくてはいけない。翻訳に関しては解説原稿を完成すること。写真(伝記なので写真が載る)キャプションの翻訳も。三月の上旬には初校が出るかもしれない。まだ細々とした作業が残っている。 診療所でのカウンセリング。今日から第三診察室をカウンセリングに使わせてもらえることになった。他の曜日は診察のために使われるので、血圧計や顕微鏡などが置いてある。患者さんには好評。後は椅子が問題。けいわんやリウマチや身体的症状のある方が多いので、背もたれのない丸椅子はよくないだろう。僕はどんなふうであっても平気なのだが。二時間正座して講演をするというようなこともあった。与えられた状況に順応するのが得意かもしれない。過剰適応なのかも知れないが。カウンセリングを終えて部屋から待合室に出た時、診察を待っている患者さんに、すがすがしい顔をしてますね、といわれた。 こんなことを考えていた。知らない間に人に迷惑をかけることはあるだろう。例えば、バスの中ですわらないと決めているように見える人がいて、その人は自分の目の前の席が空いているのにすわろうとしない。問題はその人がそこに立っていると、他の人がすわれないということに気づいていないということである。すいませんねえ、ちょっとそこに立ってられると邪魔なんですよ、とはいえない。僕はいえないということだが。 ある時、二人掛けの席の一方に若い男性がすわっていた。髪を短く刈り込んでサングラスをかけたその人は、別に足を広げていたというようなことはなかったのだが、誰も隣にすわらない。見ればポケットからはみ出た鍵の束が隣の席をふさいでいる形になっていた。本人は眠っていたので、気づかない。隣にすわろうにもその鍵を除けないといけない。どうやって? すいませんねえ、ちょっとその鍵何とかしてくれませんかねえ。僕はいえない。ずいぶんしてからその人はふいに目を覚まし、鍵に気がついた。ポケットに戻してまた深い眠りについたが、きっと怖い人ではなかったと思うこの人は自分が迷惑をかけていることには気づかなかったであろう。 こんな場合、教えてほしいと僕は思う。知らないところで断罪されたくない。気のつかない人といわれても、黙ってられるよりははるかにありがたい。間違ったことをたくさんしているように思う。 これとは逆に、うっかり人に役立つことはあるのだろうか。これについては稿を改めて。 昨日、引いた和辻哲郎の手紙。目覚めている間中、照の顔が眼にちらついている、私の生活は私一人でできているのではない、と和辻がいっていることは僕にはよくわかる(上、p.158)。 照の詠む歌は心に染み入る。 夢さめてその夢おもふはかなさよ肩先さむし秋の夜永に もの思ふこの頃なれや雨雲のなかに曇れる十日ばかりの月 息子と進路のことで話しこむ。 心の中に大きな洞窟がうがたれてあるような気がする。
2005年01月24日
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学生の答案を一通り読みとおした。後、二度読んで点数を決めることになるが、今回は二クラス分なので時間がかかりそうである。 金子書房に原稿を送る。あいかわらず、なかなか気が休まらないが、焦らず、静かな気持ちでのりきっていきたい。 前の家の書斎から和辻哲郎の書簡集を持ち帰る(和辻哲郎『妻 和辻照への手紙』講談社学術文庫)。今と違って、和辻が毎日のように書く手紙が日本に届くまでには一月以上かかることもある。着いていると思っていた手紙が届いていないということもたびたびあったようである。和辻も手紙のくるのを待ちわびている。「手紙さえちゃんと手にはいれば、神経衰弱などには決してかからない」(上、p.110)。「少しでも手紙を書かないと気がすまないから、ちょっと書くことにする」(p.97)。書かずにはいられない気持ちに僕は共感する。
2005年01月23日
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学校から過日の試験の答案が届く。100枚を超える答案の入った封筒は大きく厚く、開封する前から怯んでしまった。木曜日には採点を終え、発送しなければならない。ため息をつく暇があったら一枚でも答案を読まないといけない。採点をすると、学生の力もわかるけれども、いつものことながら、僕の教え方が適切であったかがはっきりと思い知らされるので精神的にはかなりきつい。 努力し、仕事をやりとげる力、体力(これは必須)がほしい。机に向かっているだけなのに、肩で息をしているようではいけないといつも思う。昨日の夜はよく眠れなかった。すっかり夜が明けてから部屋を暗くして、静かな曲を流してじっと横になっていたら少し眠れたのだが。気が休まらない。出版社に返送する原稿はもう少しでできそうである。 世界は僕がいなくてもあり続けるが、世界がなければ、僕は存在することはない。世界は僕のためになくても、僕は世界の外にいることはできない。 こんなことを本の中には書いた。「世界が自分に何をするかを決めることはできない。しかし、世界に対して自分が何ができるかは決めることができる」(『不幸の心理 幸福の哲学』p.208) しかし、この世界が僕を受け入れてくれるかはわからない(ibid., p.223)。自分がしたいからといって、していいかどうかはわからない。 月曜日は診療所でカウンセリングをしているが、来週からカウンセリングのための部屋ができる。これまでは別の目的のための部屋に間借りをする形だったのでうれしい。医院に勤務していた時、カウンセリング室を作ってもらえるということになっていたので楽しみにしていたのだが、結局、その話はとりやめになって、別の目的のための部屋か、医師が診察しない時は診察室を使うことになった。僕はがっかりしたのだが、その気持ちを伝えることはなかった。だからいつまでも落ち着けないで過ごしたように思う。結局、三年にならないうちに医院を辞めた。その後、風の便りに僕が勤めていた医院は場所を移した、と聞いた。もうあの頃の僕の世界はなくなってしまったわけである。
2005年01月22日
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昨夜は突然ADSLが不調になり、インターネットに接続できなくなった。時折、こんなことがあって、そんな時は翌日まで待っているとたいてい復旧したのだが、今回は夕方になってもだめなので、NTTに電話をしたらたちどころに解決した。こんな時、何が原因かをあれこれ考えてしまう。AirMac Expressがよくなかったのだろうかなどとよけいなことを考えてしまう(少し考えたら因果関係のないことはすぐにわかるのだが)。これまで、たずねもしないで、どれほどくよくよ悩んできただろう。これは対人関係での話だが。 ゆっくりできるのは今夜が最後かもしれない。嵐の前の静けさというが、こんな感じかもしれない。なんとかやり遂げたい。でも今年の初めに書いたように、自分の置かれた状況を理由にまわりを巻き込むことがないようにしようと思っている。ずっと気が休まらず、夜、よく眠れない日が続くが、疲れをためないように眠れる工夫は必要である。主治医は朝三時に起きようと早く(例えば、九時)寝ることを勧めたが、なかなかこれはむずかしいかもしれない。 毎日、複数の(三篇)原稿を同時に書き進めている。新しく手に入れたiBook G4は重宝している。ずっとタイプしているような気がする。書きたいことを書こう。今はそれしか考えていない。一番早く仕上げなければならない原稿が一番遅れているのは困ったことだ。 前に少し書いたことだが、超えなければならないことは二つある。ひとつは現実。現実がどんなものであれ、人はその現実に埋没するのでなく、それを超えて自由に生きることができる。もうひとつは、「私」を超えること。 この間、研修の時にこんな話をした。赤ちゃんは泣かないと生きていけないので、お腹が空くと泣く。そんなふうに生きる時、自分が世界の中心でいると思うことはあるだろう。しかし、いつまでもこんなふうに考えているのは困る。たしかに人は世界(共同体)に所属しているけれども、そのことは人はその世界(共同体)の中心にいるわけではない。保育所や学校などの集団の生活に入った時、それまでのように自分が中心でまわりの人は自分のために動いてくれるという考えが通用しないことに気づく。中には気づかない子どももいて、やがてそのまま成長していってしまうが、なんとしても、自分は世界の中心ではなく、他の人は私の期待を満たすために生きているわけではないことを知ってほしい。このことを教えることができるのが教師であるといったら、強い反応があって僕は話しながらどぎまぎしてしまった。 とはいえ、子どもでなくても、大人もいつまでたってもこの考えから抜けられない。僕もそう思うことはよくある。自分の優先順位が下がったように思うと、ひどく悲しくなることがある。未熟である自分が恥ずかしくなる。 では人には何も期待しないで生きていくには人はあまりに弱く不完全である。結局のところ、一人では生きていくことはできない。このことに思い当たったならば、他者とどう関わっていくか考えないわけにはいかない。他者を無視するのか、支配するのか、協調していくのか、依存していくのか、等々。 僕はいつもあなたに何ができるかということを考えている。何もないかもしれないけれど。
2005年01月21日
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今日は大寒だった。母の命日。あの日も寒かった記憶がある。病院で過ごしてあの頃、いつも疲れていた。後、一週間こんなことが続いたら僕の身がもたない、と思ったことを今も後悔している。こんなことをいう人があったらどう答えるかも自分で知っているのだが。そんなふうに思った矢先に母は亡くなったので、もしもあんなことを思わなかったら、快復したかはわからないまでも、もう少し長生きできたのではないか、と思った。もちろん、これが不合理な考えであることもよくわかっている。最後の(といっても午前中のだが)バイタルサインの記録は、111/52 158。脈拍がかなり速い。記録は、「3時30分永眠」となっているが、僕はもっと早い時間だと長く思い込んでいた。母と帰ったのは夜だったと覚えていたが、この季節、5時ともなれば暗くなるから、そんなに遅い時間ではなかったかもしれない。いろんな記憶があせていくが、母は亡くなったという記憶は消えることはきっとないだろう。 時折、おそうひどい頭痛で夜に一睡もできないことが最近何度かあったが、母もこんなふうに苦しんだのだろうか、と思った。それなのに声ひとつかけなかったように思う。母は強い人だったから(強そうに見えるということかもしれない)病院にも行こうとしなかったし(このことを一番後悔する)、辛そうにしたりしなかった。辛いのは傍目にも明らかだったのに。このところ焦る気持ちが強かったのは、母のことを思っていたからかもしれない。僕ももうすぐ母と同い年になる。
2005年01月20日
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帰ってからひどく疲れていたのになかなか眠れなかった。前の晩も寝てなかったというのに。 前の日の講演を振り返る。たくさんのことをいい残したことに思い当たる。考えてみれば、限られた時間の中ですべてを語り尽くすことは不可能である。だからこそ話せるともいえる。原稿を書くことも同じように考えられたらいいのだが、こちらは時間がいくらでもあるように思え、後から後へと書き足したり書き直すことができる。それが問題で、地獄のような苦しい日々が続く。新しいコンピュータを使い始めてからもうあきれるほど書いたが、終わりが見えない。締め切りがあるのは辛いが、なければ、もっと辛い。 リルケが『フィレンツェだより』の中でロビアという彫刻家の彫る聖母像についてこんなことを書いている。「これらの聖母たちは、偉大な奇蹟などは行わなかったが(もしそれが欲しかったら、教会堂の中にある白くて壮厳な聖母たちの所へ行かなければならぬ)、彼女たちは若い娘たちに、その朝の一つ一つの祈りに、答えたのであった。《あなた方は美しくて輝かしい。人生は、あなた方の故郷です。人生はあなた方のように明るくて美しいからです。さあ行って人生を楽しみなさい》。美と歓びとに満ちて彼女たちは出かけて行った。こういう奇蹟で十分であった」(p.115)「こういう奇蹟」を忘れてしまっている。人生を楽しみたい。 今年も聖カタリナ女子高校で教えることになった。講師依頼が届いた。明日、僕の教科の試験。学生の健闘を祈る。
2005年01月19日
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鍼灸科一年生の最終講義(臨床心理学)。講義の後、勉強になりました、ありがとうございました、と若い学生の一群から声が上がったことが思いがけないことでうれしかった。20日に試験。その後、すぐに2クラス分の採点。ほどなく鍼灸科二年生の集中講義が始まる。頑張るしかない。「今ここ」にいるということについて詳しく語った。この視点から対人関係も、いかに生くべきかという問題も、さらにほとんどの問題を解けるかもしれないという話。 どちらのクラスからも、今ここに集中するといっても、目標を持つことはいいことではないかという質問が出た。これについては、幸福になるという究極の目標以外は、必ずしも固執することはないと考えているという話をした。目標が幸福になることに役立たないのであれば、一度決めたからといって、あるいは、自分で決めたからといって固執することは意味はない。本の中では鶴見俊輔のサムライ的正義感という言葉を引いて説明した(『不幸の心理 幸福の哲学』pp.200-1)。一体、何度、僕は目標を撤回してきたことか、と思った。 その後、箕面の東保育所で講演。今回は自主研修会だったこともあって、サンドイッチとコーヒーが出てきた。もっとも話し始めると、食べることはできないのだが。明日からでもどうしたらいいか答えを求めようとされているのがわかったが、そんなものがあるわけではない。いかにあまり考えもなく子どもたちに話をしてきたかということがわかってもらえたらありがたい。とはいえ、二回目の研修だったので、保育士さんたちは熱心で好感を持った。 新しいiBookは好調。Jedit XとOmnioutlinerをインストール(いずれも前から使っているが今回ヴァージョンアップした)。 これくらいの講義、講演で疲れていては話にならないのだが、移動に時間がかかりかなりこたえた。
2005年01月18日
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神戸の地震から10年が経つ。あの日の朝、京都でも激しい揺れがあり、子どもたちをどうしたら守れるかと思ってみても、身体がすくんでしまい何もなすすべもなく揺れがおさまるのを待つしかなかった、と去年の日記で書いた。築五十年の家は倒壊するのではないか、と思った。何が起こったかわかるまでなお何時間もかかった。今年は思いばかり溢れて何も書けない。地震について新聞を読みながら茫然としていた。アドラーの『個人心理学講義』の翻訳を脱稿したのがこの日だった。 今日は診療所でカウンセリング。その後、診察を受ける。時折ある頭痛は血圧と関係あるとのこと。日記などを読み返すと、月に一度くらいひどい頭痛がして夜眠れないことがあるのがわかった。今は血圧は安定している。いつもの薬を処方してもらう。過日、父と話していたら、「私はもうだめかもしれない」という。僕はこの人よりも長く生きられるものなら生きなければ、と思った。こんなことを思っても何が起こるかは誰にもわからないのだが。 与える人だけが与えられるという話を講演の中でしたら反応があった。質問を受けて二つのことを補足した。これは自己犠牲をよしとするということではないということ。今となってはどうだったのかわからないが、僕の記憶の中では誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで起きていた母のことを思った。もう一つは、今、与えることができなくても、やがて時節が巡りくれば与える側に立つことができるということ。では今は何も与えることができていないかといえばそんなことはない。あなたがいるというだけでもう十分与えられていると思う。
2005年01月17日
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今日は講演。「ゼロからの再生」(僕が決めた演題ではないのだが)というテーマで話す。何をもって「ゼロ」とするかということが問題になってくる。痛みなどのために今は貢献できないとしても、まわりの人について何かをしているからではなく、その人がいることだけでよしと思えるのであれば、自分のことも他者がそう見ていると考えていけない理由はない(この場合、自分の今のあり方がゼロ)。もっと貢献するべきかもしれないし、そうしたいと思っても、現にできることはできることだけなのだから、できること(これがゼロ)から始めるしかない…という話。また、自分の病気についてまわりの人が無理解だからといって、そのことは他者を責める理由にならないという話もした。理解してもらえるよう努めるしかないのではないかと思う。 講演前に六角堂にお参りにいった。ビルの建ち並ぶオフィス街の一角に突如として現れる、聖徳太子を開基とする六角堂(紫雲山頂法寺)に入るとタイムスリップしたかのようだった。親鸞上人が六角堂に篭ったところ、九十五日目に聖徳太子の化身の救世観音が現れたという話もよく知られている。昔からここが京都の中心といわれている。ということは世界の中心ということか。三木清が、私には浄土真宗がありがたい、おそらく私はその信仰によって死んでいくのではないか、と書いていたことをふと思い出した。ひどく疲れた。
2005年01月16日
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カウンセリングを終え、疲れてぼうっとしていたらコンピュータが届いた。一度京都駅の近くの店で買おうと思ったのに、あきらめたのが十日ほど前。その時、決断していたら、今頃は新しいiBookにも慣れていたはずなのだが、判断を誤ったとずっと思っていた。 昨日、FireWire同士のケーブルを用意しておけば、データの移行は簡単にできるということを掲示板で教えてもらい、このことでいかほど助かったことか。人に助力をこうことが苦手なのだが、今回はありがたかった。ちはるさん、ありがとう。小一時間ほどかかったが、古い方のコンピュータのデータをそのまま移すことができた。デスクトップに乱雑に置き散らした書類はその位置を少しも帰ることなく同じ場所にあったので驚いてしまった。こんなところはコンピュータは融通がきかないというか、苦笑してしまう。 めずらしく父の夢を見た。前の家を訪ねると(今も、本を取りに行くことがある)、誰もいないと思っていたのに人の気配がするので誰だろうと思ったら、父がいて、上機嫌に話をする。ただそれだけの夢なのだが。駅を降りて西の方に向かって歩くと今住んでいるマンションがあるが、東の方に向かうと前に住んでいた家がある。引っ越してからも帰りの遅い夜、ぼんやりして反対の方角へ歩いていることに気づいて驚いたことが何度もある。もう今は誰もいないが、両親と妹と暮らした思い出だけが残っている家へと。 三木清が幸福についてこんなことを書いている。「幸福を単に感性的なものと考えることは間違っている。むしろ主知主義が倫理上の幸福説と結び付くのがつねであることを思想の歴史は示している。幸福の問題は主知主義にとって最大の支柱であるとさえいうことができる」(『人生論ノート』全集1、p.208) ここでいわれる「知」がどんな知なのか、何についての知なのか、ということをずっと問題にしてきたように思う。修士論文の口頭試問の時もこの点については譲れないことがあって、僕の論点を認めてもらえたことをうれしく思ったことがあった。後に、自分の立場を主知主義的アドラー心理学と称して、あまりいい顔をされなかったが、問題意識は学生の頃から連綿として続いているのである。自分の中での問いは継承されてきている。答えは出ているとはいえないのだが。 翻訳のためにあれこれ調べていたら、1937年に亡くなったアドラーのことをフロイトはどう考えたか気になって、ピーター・ゲイの『フロイト』の今読んでいるより少し先のところを読んでみた。「アドラーの死はフロイトを喜ばせた。あるいは少なくとも彼に痛みを与えなかった」(下巻、p.711) これだけである。そうか、そういうものなのか、と言葉が出ない。伝記作家がアドラーについてこれくらいの扱いしかしていないということなのだが。
2005年01月15日
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今日は朝からカウンセリング。やはりカウンセリングの後は疲れてしまい、しばらく仕事が手につかないが、わりあい早く復調。明治東洋医学院の試験問題を火曜日に提出したのだが、それの校正をファックスで。僕がワープロソフトを使って作ればいいのだが、B4で作るという指示があったりするとワープロを使い慣れない(僕はエディタがあれば用が足りるので)僕はいつもながら問題文だけを作ってレイアウトを任せてしまう。ところが今回は思うように仕上がらず、何度もファックスでやりとりをしなければならなかった。その後、翻訳の校正原稿の続きが届く。ゲラの印刷まで後一息(二息?)。少しずつ仕事が形をなしてくるのは嬉しい。 明日からセンター入試。一人受験生がいるけれども、腫れ物に触るように接してきたわけではないので、いつもと何も変らない。天候のことだけは心配なのでぎりぎりに行かないで早めに行ったらとはいったけれど。『アドラー心理学入門』などに登場する息子はまだ幼いがいつのまにか成長してしまった。こうして自立していき離れていこうとしているのを見ると寂しい。これでよかったわけだが。
2005年01月14日
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今日は尼崎で保育士の研修会。事故や災害、事件の多発する今、子どもたちに、このことについてどう伝え、教えるのかという話から始める。 研修会の前に講演の打ち合わせ。講演で話せばいいものを、問われるままにこんな話をしたい、と話してしまう。大いに期待してもらえたわけだが。 昨日、コモンセンスについて書いたが、誰もが合意しているという意味ではない。真理は多数決とは何も関係ない。 外に出かける機会が増えるのでノートパソコンがないと不便この上なく、しばらくなしで過ごそうかと思っていたが、iBookを注文した。出荷完了ということだが、一体、どの国から出荷したのか気になるところである。 待つのを止めよう、その間にできることをしよう。そんなことができるものならば。毎日できることを着実にこなしていくこと。
2005年01月13日
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今日はいくつか同時進行で進めている原稿の一つである翻訳の解説を書いていた。昨日の日記の中で書いた「当たり前」ということについて考えていたら、アドラーの書いたものを読んでも同じ印象を受けることに思い当たった。 いわれてみればたしかにそうだということを書くのはむずかしいと思う。読む側は深遠だったり、難解な思想を好むかもしれないが、僕はプラトンを、後にアドラーを学ぶようになって、書く時も話す時も可能な限りに言葉のむずかしさが理解の妨げにはならないような書き方をするように心がけてきた。実際そのことに成功しているかは別問題で、いつか前に書いたのだが、僕の本が「むずかしい」という一言で切られたりすると、まだまだ自分の非力を思い知らされる。 アドラーがあるところで講演した時に、今日の話はみんな当たり前の話(コモンセンス)ではないかといった人があった。アドラーは答えた。「それで、コモンセンスのどこかいけないのか?」なるほどそういうことなんだ、と、たとえ、世界のすべてをそれによって解釈できるような考えでないとしても、一度知ってしまうと生き方が変ってしまわないわけにいかないような知、そんなことを聞いてしまうと、くやしさのあまり、そんなことは私は前から知っていた、といってしまいたくなるかもしれない。しかし、そんなことを書いてみたいし、話したいといつも思っている。 この頃、僕は心配ばかりしている。「そんなことはあなたは知らなくて」とaikoなら歌うところだろう。父のことで夕方妹から電話。心配事がまた一つ増えてしまった。検査にも医師のムンテラにも動かせない講演などの予定があって申し訳ないと思っている。時々思うことなのだが、僕の日程は僕しか把握していないので、もし僕に何かあった時はどうなるのだろう。時間になっても講演先にこないので初めて連絡がとられるが、連絡先は僕の携帯電話であったり、仕事場の電話なので、僕以外の誰も出ない…健康に留意することをこの一年きびしくいわれてきたので、以前のような不養生な生活を送ってはいないのだが、それでも時折ある頭痛や発熱があると不安になる。できることは先延ばしにしないでしていかなければ、と思う。
2005年01月12日
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明治東洋医学院での講義。後、一回で試験。何度目かの講義の後、学生の一人が、先生の講義はおもしろいけれどポイントがいまひとつわかりにくいといわれ、反省頻り。 もう最後に近づいたので、二つのクラスのどちらでも、勉強しようという話をする。本を読んだり、人の話を聞いたり、貪欲に学ぶことの必要について話した。僕が医院に勤務していた時、たまたま出会った精神科医が僕にこのことを忠告してくださった。勤務先の院長は本を読むことをよくは思っていなかったので、本を読むことを理解してもらえたら職場での居心地もずいぶんと違うだろう、と思った。もちろん、院長がいったことはわからないわけではなくて、本を読む際、僕がただ頭でだけ理解しようとするのではないかという危惧があったのだと今は思う。 勉強することを勧めた医師の夫にあたる人が僕の所属していた研究室の先輩にあたる。僕のところに毎年、大学の同窓誌が届くのだが、昨年末に届いていたはずの本を僕は読まないでいた。本の間から出てきたので何気なく目を通したら、その先輩の書いた藤澤令夫先生の追悼文があったので驚き、急いで読んだ(小池澄夫「顧影獨盡、忽焉復酔」)。この中には僕の名前も記してあったのだが、それはともかく、八ヶ岳にあった先生の山荘で医師になったばかりの小池先生との出会いのこと、後に僕の勤務先の医院で再会した時のことを昨日の如く思い出した。先生の山荘で会った時は僕は大学院生だったので、まさか後に精神科で会うことになろうとは夢にも思わなかった。いろいろなことがつながっているのだろうか。 追悼文の中に引かれていた藤澤先生の言葉。「ぼくはいつも自分の考えが当たり前だと思えば、もっともっと当たり前にしようと努力して、何度も論文を書き直す」。これをこのところ原稿を書く時にかかえていた問題が一つ解決した。奇をてらうのはやめようと思ったのである。 小池さんの言葉。「このように断片的な回想を綴りあわせて、あらためて思ったが、心の底で私は真に敬愛できる師にめぐり会うことを願っていて、そしてその願いはかなえられていたのである」 僕には「かなえられていたのである」という表現が言い得て妙だと思った。「かなえられた」というのとではずいぶん違う。
2005年01月11日
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今日はかなりたくさん仕事をこなした。 タイで活動している日本人の僧侶が、今回の津波の後、仏教徒としてあるまじき行為をしている人がたくさんいるが、私の存在が助けになればいいといっているという記事を読み、そんなふうにいえたらいいのに、と思った。僕は神ではないからそんなことはできない。アリストテレスなら、神は不動の動者だというだろう。自らは動かなくても人を動かすからだ。神ならぬ僕は動かなければならない。 ぼんやりテレビを見ていたら、ドボルザークの「新世界」が流れてきた。アシュケナージの指揮、NHK交響楽団の演奏。この曲を演奏したのはもう何年前のことか。今でも、すぐに吹けそうなくらい細部まで覚えている。 いろいろなことを思い出した。父が病床でこの曲を何度も聴いていたこと。講義にもでないでオーケストラの部室で本を読んでいたら、後輩がその本を見て(詳細は長いので省くが)後にギリシア哲学の藤澤令夫先生との邂逅に繋がることになる出会いを導いてくれたこと(あの日僕がそこにいなかったら今僕はここにいないかもしれないのである)、大学から離れてもホルンを吹きたくて、毎週教えに通っていた奈良女子大学のオーケストラの練習に参加させてもらおうと思いながらも、申し出る勇気がなかったこと、今は教えに行くことがなくなった奈良女子大学での懐かしき日々などなど…気がつけば曲は終わってしまっていた。 生きる力がほしい。強い心がほしい。生きる喜びがほしい。 生きる力がほしい。強い心がほしい。「機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現れる。歌わぬ詩人というものは真の詩人ではない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのづから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である」(三木清『人生論ノート』)
2005年01月10日
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強い緊張感が続き、心が休まらない。 再生しない僕のコンピュータはスリープ状態であることを告げるランプが点滅し続けている。この二年間どこにいく時も一緒だったのに。 昨年(2004年1月~12月)の業績を報告してほしいというメールがあった。本を出版したのはこの期間に入らないので、結局、『児童心理』の六月号に書いた論文が一篇だけである。年譜のようなものを作ったら、不作の一年ということになるのだろうか。前年と同じくらい頑張ったのだが。 僕が書いた『不幸の心理 幸福の哲学』と三木清の『人生論ノート』の幸福についての項目と通じるものがある、と指摘してくださった方があって、読み直していたら思いがけず影響を受けていることに気づいた。僕はギリシア哲学を学ぶ決心をする前は、日本の哲学者に興味があって努めて読んでいた時期があったが、やがて離れてしまった。48歳で亡くなった三木清は20巻の全集を残しているのだが、僕の書斎の不遇な場所にしまいこんでいた全集をある日雨漏りのために痛めてしまった。今は仕事場に一部を持ち込み、読み返している。今書き進めている原稿に三木のことをしばしば引用している。本との邂逅にも時期というものがあるのだろう。
2005年01月09日
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昨日は夜に高い熱と頭痛があって、眠ろうにも眠れず結局朝まで起きていた。本を読むこともできず、暗い部屋の中でじっとしているのは、かなり苦痛で、時折携帯電話で時間を見ると、やっと一時間経った、という感じで、時が歩むのを止めてしまった。 その後、少し眠れたようで目覚めた時、熱も少し引き、頭痛もひどくはなくなっていた。それでも、何度かこんなことがあったので、用心のために、近くの内科を受診した(いつもの京都の診療所まで行く力はなかった)。外は寒く、遠くに仰ぐ山は雪が積もっていた。三代続くこの内科にはもうこれまで何度もきたのだが、初めて息子さんの診察を受けた。結局、よくわからなくて、鎮痛剤を処方してもらった。帰ってから飲むとたしかに楽になった。風邪といってもらったほうが納得できたし、血圧が高いから頭痛がするといってもらったほうが安心したかもしれないのだが、このような素人の推理はあっけなく否定された。無理をしないよう、この身体とつきあっていくしかないだろう。 カウンセリングをいつもしているとまれに患者側にまわると気づくことは多々ある。僕のほうが気を遣ってしまう。もっと愛想よくてもいいのではないか、とか、いっていることはそのとおりだけれど、そんな言い方をすると患者は不安感を持つではないか、などなど。 ともあれ、今日は机に向かえるだけ力が戻ってきてよかった。もう入れようがないと思っていたのに、二月にもう一件講演の予定を入れてしまった。日が決まっていたからなのだが(そういう依頼が多い)、可能なら三月にまわせたらよかった。断るのが苦手。プライベートなことでもである。断るということはよほどのことがないとない。同じことを人にも期待してしまうところがいけないことを僕は知っていなければならない。
2005年01月08日
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今年初めてのカウンセリング。朝、九時から四人。今の僕にはこれが限界でこれ以上の人と一日に話すのは無理だと思う。夕方、頑張っているというメールを書いて送った直後から体調不良。眠れないことはあっても、決して無理をしたとは思わないので情けない。 今日も三木清の詩や短歌、書簡など。後に若くして亡くなる喜美子さんへ宛てた手紙は印象深い。勤勉な三木が、がっかりしてほとんどこれという仕事ができず恥ずかしい、と書いているのはよくわかる。「この淋しさはやはり仕事によって克服するのほかないとやっと覚悟も定まりましたから、これからは我武者らに仕事をするつもりです」(昭和11年11月19日、坂田徳男宛) この文脈での「仕事をする」という言葉には悲壮な響きがあるように思う。 三木の詩(何編か残されていて「私の果樹園」という詩を一番好む)を少し引用。あかつき光薄うして寂しけれども魂の故郷(さと)求むれば川に沿ひ道ゆき行きて還るまじ
2005年01月07日
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コンピュータのことに気を取られている場合ではないのだが(こんな時のために常時複数のコンピュータを使っているわけである)、最近の不調だったので大事なデータは別のコンピュータに保存しておいたから、最悪の事態は回避できたが、それでもデータを移動する作業が終わる前だったので、大事なファイルを救えないでいる。コンピュータを長く使っているわりにはこういうトラブル時に僕の知識はあまり有用ではなくていつも残念に思う。何をしても中途半端で、もう少しきちんと学んでおけばよかったと思うことが多々ある。 ピーター・ゲイ『フロイト2』(鈴木晶訳、みすず書房)を手に入れた。暮れに出かけた時には書棚に並んでいなかった。原書は1988年に出版された。一巻目が出るまでに9年、二巻目が出るまでにはさらに7年かかっている。「ひとえに訳者の非力と怠慢によるもの」と鈴木氏は書いているが、僕が書くのならいざしらず、「ライフワークのひとつとして覚悟」して、「最初から最後まで孤独な作業を貫いた」この訳業から(二巻目はこれから読むことになるが)多くのことを学んだ。訳文も日本語として遜色なく、僕もこんなふうに訳せたら、と思わないわけにいかなかった。内容についてはいずれまた。 非凡な才もいらないし、天才でなくてもいい。三木清の言葉を借りるならば、「魂の秀れたる哲学者」でありたい。しかし、実のところ、このことほどむずかしいことはないだろう。誤ったり失敗してばかりである。願わくば僕に関わる人が僕によって害を受けることがありませんように、と心が弱っている時は、そんなことばかり考えている。与えるどころか、与えられ、支えられてばかりである。 髪の毛を切りに行く。順番を待っている間、三木清の詠んだ歌と詩を読んだ(二百五十首ほど残している)。 疲れたる心の奥に生(あ)れ出でて何が動くか寂しみの湧く
2005年01月06日
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昨日、父は駅まで迎えにきてくれた。駅からタクシーで行くことも考えていたのだが、迎えにくるというので心配はしたが、外に出られるほどの元気はあるということでひとまず安堵した。会う時は京都駅近辺ということが多く、父の車に乗ったのは久しぶりのことだった。僕の記憶間違いかもしれないが、僕の知らない新しい車で迎えにきてくれたことには驚いた。 僕はたしかに父と話しているのだが、冷静に話せるようになったと思う。僕の声がよく聞こえないようなので、僕はあまり口を挟めない。本当に必要なことだけを時折大きな声で伝える。父は話すのだが好きなのだな、と思った。 コンピュータの調子がいよいよよくなくてどうしたものか、検討中。デスクトップのWindowsマシーンは健在なので致命的ではないが、移動時間が長く、出張も多いので、ノートパソコンは必須である。一日中使い続けているので、普通に使っている人よりはかなりこの数年の間に使ったと思うし、これによって書いた原稿はたくさんあって十分元はとれたと思うけれども、ひところから思うと(1984年頃からマックを使っている)安くなったとはいえ、買い替えが必要だとするとかなり痛い出費にはなるだろう。とりあえず悩んでいてもしかたない。 三木清の1936年の日記を少し読んだ。二月二十二日(前略)先生(西田幾多郎)と話していると勉強がしたくなる。自分も哲学者として大きな仕事をしなければならぬ。自分の使命と力とを決して軽くみてはならない。私には出来るのだ。他を羨むことも恐れることもない。私の現在の境遇が何だ! 仕事だ! 仕事だ! そう考えると私は幸福になる。私には力がある。
2005年01月05日
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父に会ってきた。昨年末の体調不良もあって今年の正月は母の墓参りに来られなかったので、僕が会いに行くことにした。身体のほうはともかく気が弱っていることが気になって、ゆっくり時間をかけて話をした。食欲がないといっていたが、一緒に食事をしたからか、量的にはかなり多いと思った料理をほとんど食べたのを見て安堵したのだが。自分のこともだが、僕の身体のことまで気遣ってくれるのはありがたかった。心配しているつもりが、僕が心配させているわけである。 年末から少しも夜、眠れない。今朝も父と会わないといけないのに朝方まで眠りがこなかった。言葉があふれてきて書き留めて続けている。名文でなくていいから(そもそも書けない)自分の言葉で正確に自分の中に浮かんでくる思念を書き留めたい。今はそれしか考えていない。日記を読み返すと二ヶ月くらいこんなことばかりしているのに、なかなか形にならない。あせらないこと。必ず、これでいいという瞬間がくるのだから。ただそれがいつくるかはわからない。
2005年01月04日
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今年の正月の時の歩みは遅く感じられる。大晦日朝五時くらいまで原稿を書いていた。今日の朝も一度寝ようとしたが寝られず、五時くらいまでキーボードを叩いていた。年賀状だけは書けてない。年賀状を書く習慣がないので、正月早々にいただく年賀状を前にして申し訳ない気持ちでいっぱいになる(まだ返事が届いていないという方があればごめんなさい。もうすぐ届きますので)。『なんくるない』は短編小説集だった。最初の「ちんぬくじゅうしい」を読んだ。僕の理解ではよしもとばななの小説は、ストーリーの展開にわくわくするというよりも、中でゆるゆると語られる言葉が時折ふいに胸に突き刺さるというところが好きで(鈍痛といえばいいか)、余韻を楽しみながらゆっくり読むのがいい(僕の『不幸の心理 幸福の哲学』の中で一ヶ所、よしもとばななを引いている。はじめに、p.iv)。「ちんぬくじゅうしい」では父と母から離れ、那覇のおばのところにあずけられた「私」が、おじさんとおばさんは優しかった、と語っている。その優しさは「生きていることの不確実さをふまえた、切ない優しさだった。明日どうなるかわからない、今いっしょにいる人に優しくあろう、でもできる範囲でね、という感じがかえって私をゆったりとくつろがせた」(p.35) いつも優しくありたい、ゆったりと。縁があって出会えたのだから。「まぶいを落とす」という表現を知った。おばは「私」にいう。あなたのお母さんは、きっとどこかでまぶいを落としてしまったのよ」(p.38)。魂を落とすという意味で、おばは「あなたのお母さんはとても純粋な心の持ち主だけど、そういう人が雲をつかむようなところばかり見ていると、足もとがあやしくなって、どうしても足が地面から浮いたようになってしまうのよ」(ibid.)という。 現実に足をしっかりつけて思索しなければならない、と思った。
2005年01月03日
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年末から集中的に書き進めている原稿が少し行き詰まってしまい、気分を変えるために、よしもとばななの『なんくるない』(新潮社)を少し読み始めたら、両親と暮らしていた頃のことを思い出してしまった。 そして(連想は突飛だが)中学生の時、交通事故にあって、救急車が到着するまでに、僕が母を呼んでいたこと(僕自身は覚えていない)、お風呂に入っていた時に鼻血が出ていつまでも止まらなかった時、父が見にきてくれて「大丈夫」と声をかけてくれたことを思い出した。父とはいい思い出があまりないのだが、この日のことはよく覚えていて、父が声をかけてくれたので、このまま血が止まらないのではないか、死ぬのではないだろうか、と不安におびえたのに(子どもの頃の話である)大丈夫なんだと本当に安堵したのである。『なんくるない』を読んだからこんなことを思い出したのではなくて、その前から考えていたことであり、読んだことをきっかけに過去の記憶を思い起こしたというのが本当のところだろう。人に恃まず、自力で何事もなしとげようなどと思ってみても、実際には、不断に助けられ、守られているのである。そのことに感謝し、かつ自力でなしとげることができることは極力まわりを巻き込むことなく、頑張っていこうと思った。そんなことはできるかどうかわからないし、いつも助けてもらってばかりなのだが。 久しぶりに外出した。暮れに降った雪がまだ溶けていないところがあった。雪に反射する日の光は眩しかった。歩いていけるところにあるお寺に、母の墓参りに出かけた。悲しかった。
2005年01月02日
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昨年は体調を崩すなどいろいろあったけれど、無事、新しい年を迎えられ嬉しい。誰もいない静かな元旦を過ごす。いつもと変わらない一日。講義は4日から始まるのだったろうか、とふと不安になる。年末、日程を確かめて帰るのを忘れてしまった。 年が改まり、気持ちを新たに生きていこうと思う。今年はこうしようというような決意表明のようなことは書かないのだが、年末から考えていたのは、今年は、「忙しい」ということをむやみにいうのはやめようということである。 リルケの言葉を引いたことがある。「(木は)春の嵐の中で平然として、夏はこないのではないか、と不安に思ったりしないで立っています。しかし、夏はかならずきます。あたかも目の前には永遠があるかの如く、静かにゆったり構えている忍耐強い人のところには」(『若い詩人への手紙』) しかし木は何もしないでいるのではない。木は「忍耐して待つ」が、見えないところで、果てしなく働いている。果てしなく働いているのはともかく、「見えないところで」ということを今、考えないと、自分のことが嫌いになってしまいそうである。 仕事についていえば今年は翻訳を出版予定である。著書も二冊原稿の準備をしているが、企画が通らないことには前には進まない。学校の講義は契約更新があるかまだわからない(非常勤の弱み。時期的にはもうとっくに話があってもよさそうなのだが、期待しない)。講演は一番先のは11月だが、まだそんなに入ってない。依頼があるのを待つのみ。健康に留意して一つひとつこなしていくのみ。 いつまでも必要とされる人でいたい。必要とされる時でいいので。
2005年01月01日
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