2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
全31件 (31件中 1-31件目)
1
鈴鹿で講演。家を出た6時はまだ暗かった。午前はアドラー心理学の基本的な話をしたが、育児の話に終始しなかった。午後はライフスタイルのことなどについて話したが、子どものことよりも、パートナーとの関係についての質問がたくさん出た。伊勢新聞から取材にこられていた川北記者は午前中だけの予定だったのに、午後も参加し、初めて聞くアドラー心理学の話に大いに驚かれた様子だった。さてどんな記事にまとめられるか。帰宅後、日記の更新もしないですぐ就寝。起きたら携帯のメールや着信履歴がたくさん。気づかなかった。 自衛隊派遣承認案が衆議院通過後紛糾している。僕はひょっとしたら読み落としたのかも知れないが、国会でどんなに審議していても、もう派遣命令は出ているのではないか? イラク戦争の前、戦争回避の可能性も高いのではないか、という議論も一部あったが、アメリカ軍は戦争開始に具えて続々とイラクへ派遣されていたことを思い出す。先遣隊の調査報告の原案問題も笑止。既成事実の積み重ねばかり。 イラク国内での自衛隊の活動取材の際、記者証が発行されるが、条件があるという報道。いろいろあるが、負傷者の正確な数も報道が制限されるという。息子とこの件について話した。「(自衛隊に)死者が出ても発表しないのだろうね」「アメリカは、イラク駐留のアメリカ兵21人が自殺したことを公表したんだ」。日本の防衛庁はこんなことがあっても公表しないかもしれない。
2004年01月31日
コメント(4)
自衛隊派遣承認案が衆議院本会議で与党単独で可決された。小泉首相がまとめると「各党よく十分審議していただいて良かった」ということになってしまう。「これからもみなさんにもよりいっそう理解とご協力をいただくために努力はしていきたい」とも。「よりいっそう理解とご協力をいただく」では、既に理解し、協力してしまっていることになる。そういう「努力<は>」していきたい…努力はするけど、もう派遣は決まったことだから文句いわないで、というふうに僕には聞こえてしまう。 夜一睡もできなかった。朝がくるまでの時間は長い。昨日、紹介した『サラーム・パックス バグダッドからの日記』の続きを読む。戦争が始まってからもバグダッドの様子を伝える日記は緊迫している。電話もインターネットも通じなくなった中で、サラームは日記を書き続ける。その後、中村雄二郎の『共通感覚論』(岩波現代文庫)。トポス(場所)について少し考え、まとめてみた。朝になっても眠りはこなかった。昼になっても。 朝、娘の香水の瓶を落としてしまった。窓際のテーブルに置いてあって、洗濯物を干そうとベランダに出ようとした時、引っかけてしまったようである。硝子の瓶は割れなかったけれど、思いもかけず蓋が割れてしまって破片が散った。この香水は最近娘が買ったもので大切にしていた。夕方、娘が帰ってきたので、すぐに僕は謝った。すると、娘の表情が曇った。そして長い沈黙。新しい香水を買うという提案は、同じのはないから、と却下された。結局二人で瞬間接着剤で修復したのだが(見つからない破片があったので元には戻らなかった)、娘の、泣かなかったが、思い詰めた表情を初めて見てどぎまぎしてしまった。 池澤夏樹は、イラク人が求めているのは支援ではなく職、言い換えれば、普通に機能する社会である、いっている。去年の3月までイラクにはそれがあった。水道の栓をひねると水が出た。「アメリカと日本をセットにして見れば、彼らは(われわれは)右手が壊したものを左手で直すふりをしているにすぎない」「既成事実が次々に積み上げられる。まるで燃えさかる火事を見ているようです。水をかけたところですぐに消えるとは思えない。しかし、結局のところ、ひたすら水をかけるしかないのです。バケツ一杯の水で火事は消えはしないけれど、少し火勢を弱めることはできる。一人で川との間を往復していてはさしたる量は運べない。バケツ・リレーならばずっと効率がよくなります。どんな火事もいつかは消えます。それを少しでも早めるために、言葉の放水を続けましょう」 僕らには言葉がある…水をかけたところで少ししか火勢を弱めることができないからといって絶望してはいけない。
2004年01月30日
コメント(11)
今日は鍼。採点の疲れは見られるものの、いい鍼だった、と中根先生。先生は、今週から命じ東洋医学院で東洋医学の講義を始めた。僕が頻繁にこの日記で先生のことを書いていたり、また僕の講義の中でも言及していたので(今度出版した本の中でも書いた。p.34、2003年6月24日日記参照)、講義がしやすかった、と。講義の仕方についていくつかアドバイスしたが、その必要もなく、学生の心を捉えたであろう。 新聞ではなく実際の衆議院本会議での小泉首相の答弁を聞くとずいぶんといいかげんなことがわかるのに、asahi.comで記事を読んだら、答弁の支離滅裂さがほとんどわからない。「小泉首相は29日の衆院本会議で、陸上自衛隊の先遣隊報告に基づき、イラクのサマワ市評議会が「現在存在している」とした27日の本会議での答弁を撤回。そのうえで「評議会の解散は治安情勢に直接関係あるとは思わない。現地情勢への認識を変更するつもりはない」と述べた」 サマワの市評議会が存在するのでサマワの治安には問題がない、と首相はいったのだが、実はその評議会は答弁の時点では解散していたのである。石破防衛庁長官は同趣旨の発言を撤回し謝罪したが、小泉首相は撤回したが謝罪はしなかった(撤回の中に謝罪の意味はこめられている、と)。サマワの市評議会が存在するのでサマワの治安には問題がない、といっておきながら、後で、評議会の解散は治安情勢に直接関係あるとは思わない、といったわけであるから、首相の発言の支離滅裂さは明らかである。 海外に派遣されている自衛隊員を「支援」する、与野党の有志国会議員の会が29日午後、衆院議員会館で設立総会を開いた、という記事がasahi.comにあった(かぎかっこは岸見)。記事はこのように続く。総会には、自民、公明両党のほか、イラク派遣に「反対」する民主党の議員ら約160人が参加した、と(かぎかっこは岸見)。活動内容は、(1)海外派遣された自衛隊員の無事帰国を願う「黄色いハンカチ運動」を普及させる(2)インターネットのホームページを新設して、現地の隊員や家族を励ますメッセージを集める??などの支援活動を行うことを決めた。イラク派遣に反対する議員が参加とあるので意外に思って記事を読むと、これではやはり自衛隊の派遣を支持する会であることがわかる。官民合同でイラクに毛布を送る運動が始まるという記事も疑わしい。「自衛隊派遣以外にも国民として支援をすべきだ」ということだが、「以外」にもという表現からわかるように、善意の運動のように見えても、自衛隊の派遣を肯定することになっている。小泉首相も賛同のメッセージを寄せたというのはよくわかる。『サラーム・パックス バグダッドからの日記』(ソニー・マガジンズ)。著者は、29歳のイラクの青年。バグダッドから戦争の前からウェブログでイラクの情勢を伝えてきている。反フセイン政権の発言が随所でなさているのは驚き。他方、アメリカへの批判も。イラク人は誰一人、戦争を望んでいない。イラクの民主化を支援するというが、なぜイラクを爆撃するということになるのか、と戦争開始直前の2003年3月16日に書いている。爆撃で僕らを地獄に落とし、それから再建するというやり方はしないでくれ、と。邦訳は6月28日で終わっているが、当然、今日もサラーム・パックスのウェーブログ、Where is Raed?は世界に向けて発信を続けている。
2004年01月29日
コメント(14)
石破防衛庁長官が自衛隊員が地元住民らを誤射した場合の責任問題について、「誤射というのは過失犯だろう。過失の場合の行為が殺人罪、殺人未遂、傷害、傷害致死罪に当たる場合は我が国の刑法が適用される。隊員の責任が問われることはあり得る」と発言したことが報じられたが、このような可能性があるところに自衛隊を派遣することがそもそも問題なのではないか、と思うのだが。おそらく誤射かどうかは(正射というのがあるのか?)事が起こった瞬間には判断できないだろう。殺人罪になることを怖れて判断を躊躇したら殺されるかもしれない。そしてそれがテロによるものであれば、「テロに屈しない」と首相らは、いつのまにか、テロの一掃が自衛隊派遣の目的であるかのような発言をするのだろうか。 ブッシュ大統領は27日、クニワシエフスキポーランド大統領との会談の後の記者会見で、大量破壊兵器のイラクでの発見にまだ自信があるかという問いに答えなかったかという。フセイン政権打倒によってアメリカと世界はより安全になったと戦争の意義を語ったというのだが。池澤夏樹が『イラクの小さな橋を渡って』(光文社)の中で、イラク攻撃に反対する理由はいくつかある、として、まず、イラクはたしかに民主主義国家ではないが、それはまずもってイラク国民の問題であり、他の国が武力を使ってまで是正するべきことではない、といっていることを(pp.49-50)今も正しいと信じている。 南木佳士の「さとうきび畑」の中では医師にマルクス・アウレリウスの『自省録』を読むように勧めるのは、八十一歳の「老婆」である。彼女は隣村からバイクで通院してくる高血圧の患者である。村の婦人会の読書会で読んだ本を手渡す。この本を風呂を焚きながら読んだので煤で真っ黒だという。このようなことは、日本の中のドイツ人と称せられる信州人を相手にしてよくあったという。本というのは生きることに根ざして読まれるものだということをあらためて思う。本を字面を追って要領よく内容をまとめあげることは読書とは何も関係ないことなのだろう。iBlog版の日記に「読書をめぐって」というエッセイを書いたが、高校生や大学生の頃はずいぶん背伸びをしていたと思う。もっとも年を重ねた今、人生や世界の真理にあの頃よりも近いかといえば疑わしいのだが。
2004年01月28日
コメント(19)
八月、広島の秋葉市長はリンカーンの言葉を引いていった。「すべての人を永遠に騙すことはできない」。朝、8時ワイドショーは古賀潤一郎議員の福岡での弁明演説を長々と報じていた。福田官房長官はいった。「嘘つきは泥棒の始まりである」と。そんなことを他人事のようにいえるのか。福田氏は、デヴィッド・ケイ氏はどんな人か知らないが論評に値しないとも。 南木佳士の「さとうきび畑」という短編には、人が失いうるものは現在だけである。過去や未来を失うことはできない、なぜなら、過去や未来を我々はもっていないからである、という意味のことがくりかえし書いてある。マルクス・アウレリウスの『自省録』から引用されている。「長命の者も、もっと早死にする者も、失うものは同じであるということ。なぜならば人が失いうるのは現在だけなのである。というのは彼が持っているのはこれのみであり、なんぴとも自分の持っていないものを失うことはできないからである」(神谷美恵子訳) 過去は実体として存在するのではなく制作されるものである(「さとうきび畑」p.161)。痛みの記憶は痛くなく、悲しみの記憶は悲しくない。また、未来は人が現在において想像しているという意味で現在である。「家族」には最後に父親の独白がある(pp.101-2)。臨終の場面。だるいので目を閉じていると奇妙な言葉が頭蓋の底から浮いてきた。「今が終わる」なんだろうと一語一語を追いかけてみる。い、ま、が、お、わ、る。 中条ふみ子が歌を発表した時、愛や性、不倫を歌う中条に集中的な道徳的非難がされたという。歌の内容がそのまま私生活だと素朴に信じる人が多かったからである。しかし、短歌は日記や告白とは違うということが主張された。昭和20年代後半から30年代にかけての前衛短歌運動である。小説の中で「私」が人を殺しても誰も作者が殺したとは思わないだろう。短歌も同じである、と。作者の想像の産物であれ、短歌も小説も、もとよりリアリティーがなければ受け入れられないだろう。「灼きつくす口づけさへも目をあけてうけたる我をかなしみ給へ」(中条ふみ子)
2004年01月27日
コメント(0)
いよいよ陸上自衛隊の本体と海上自衛隊にも派遣命令が出た。デビッド・ケイ氏の発言をめぐって、アメリカでは戦争の大義をめぐって議論がされているが、衆議院の予算委員会での質疑応答にその問題が取り上げられても、そんなことは今さら関係がないかのように憲法違反の自衛隊の海外派兵は着々と進む。大量破壊兵器は将来見つかる可能性もある、と小泉首相はいうが、こんなことをいいだせば調査そのものが初めから意味がないことになるだろう。「なかった」と報告があっても、「いままったくないと断定はできない」(小泉首相)、今は見つからなくても、将来見つかるはず「可能性」があるといいだせば、どんな国にも戦争をしかけることができることになる。 南木佳士の『家族』という短編集におさめられている「家族」という短編は、死を前にした父親を前に、家族のそれぞれがどんな思いで父の病気、死を、そしてそれに至るまでの家族の歴史を見ているかを、息子、姉、息子の妻らの視点から、独白の形で語られる。同じ出来事を前にしてもそれぞれの立場でいかに見方が違うかが明らかにされおもしろいと思った。 とりわけ、医師として忙しい上に、小説を書き出した夫は自室にこもる夫はまるで「下宿人」のようだったという妻の独白は、僕もこんなふうに見られているのかもしれないと思わないわけにはいかなかった。後に、この小説に出てくる医師はうつ病になる。自宅療養が決まる前に妻は主治医からアドバイスを受けるが、その際、初めて、多い月には四、五人の肺癌の患者の死を看取っていた事実を知る。昨日、紹介した別の短編の夫が「もしこんな麗句を平気で口にできる女とだったら三日ももたなかっただろうな、」といっていることに対応する形で、この「家族」では妻はこんなふうにいっている。「(夫は)たぶん、生来、ひねくれた男なので、分かろうとする素振りを見せただけで逃げ出してしまったのではないでしょうか。なんとも厄介な人と結婚してしまったものです」(p.56) 母が生きている時は、よく父のことをあれこれ聞かされていたが、父の方は一度も母の悪口をいったことがなかった。表面的に何事もないかのように見える家族でもいろいろと問題があるということを僕は早くに知ったように思う。親の問題は子どもでも踏み込めないものであることもわかった。その後、思いがけずカウンセリングをするようになっても考えは変わらない。
2004年01月26日
コメント(9)
どうやらフセイン政権は開戦時、大量破壊兵器を保有していなかったと思えるのだが、兵器開発「計画」がイラク戦争正当化の論点とすりかえられようとしている。ブレア首相は、問題は実際の平気だが、計画も重要だ、と反論しているというが、パウエル国務長官の発言、「意図(intention)の点からいうと、フセイン氏は常に[大量破壊兵器を]持っていた」を想起する。計画、意図、可能性をもって罰せられたら大変なことになる。 戦争の大義が何であれ(あるいはそんなものがなかったとしても)フセイン政権が倒れたことはよかった、とはいえないだろう。フセインの圧制で苦しんだ人たちがいるのは本当だが、アメリカの空爆でどれほど多くの人が殺されたか。誰がその死を償うのか。破壊したものを人道という美名のもとに復興することはあるいは可能かもしれないが、不可逆的な人の命はどんなにしても元には戻せない。 南木佳士の『冬物語』と『家族』。登場する患者や医師が未来はないということを頻りにいう。また、過去は実体としてあるのではなく、制作されるものであるというような発言が出てくるので、不思議に思っていたら、はたして『家族』という短編集には主人公の意志が哲学者の大森荘蔵や中島義道の著作を読む話が出てくるのである。医師は人生の先が読めるように思い上がるが、想像された現在としての未来はあっても(したがって厳密にはこれは未来ではない)確実に来る未来はどこにもないし、余命を宣告する医師にとってすら明日の生存すら保障されるものではない。あるのは現在だけである。人が失いうるのは現在だけである。過去や未来を失うことはできない。なぜなら過去や未来を我々は持っていないからである…小説にからめて哲学の議論があって、思いがけないことだったので驚いてしまった。このような議論は本当は避けては通れないし、僕の本の中でもかなり詳細に論じたが、小説の枠組みの中で取り上げる試みは興味を引いた。「さとうきび畑」という短編に出てくる主人公の医師は深夜交通事故の現場に検視のためにかけつける。昼のニュースで事故のことを知った妻は夫に語りかける。「出かけるときには、まさかこんなところで死ぬなんて思わなかったはずよね。先のことなんて分かんないもんよね」。鼻水が出てきたので夫はそれをカーディガンの袖で拭った。妻は、やめてよ、汚い、と台ぶきんを投げてよこした。テレビで報じられる他人の死よりも目の前の鼻水の方が大事なのだ。妻はそれ以上事故に関する質問をしなかった。「だからこの女と暮らしてこられた」(台ぶきんをなげてよこした、というところリアル)「あなた、昨夜はこの事故のために朝まで帰れなかったのね。三人の死を見るなんてとてもつらかったでしょうね。ごくろう様でした」もしこんな麗句を平気で口にできる女とだったら三日ももたなかっただろうな、と夫。 僕は考え込んでしまった。僕はそうは思わないかも…
2004年01月25日
コメント(11)
陸上自衛隊の先遣隊の二人がわずか一日半の調査で、イラク南東部の情勢は他地域に比べて安定しているなどと帰国して報告。なぜこんなに調査を急がなければならないのかわからない。「深刻な失業問題を抱え、住民の不満が反連合軍活動に結びつく可能性には留意が必要」という指摘もあり、給水活動などの「緊急人道支援活動」に加え、雇用対策、文化協力、環境対策などの支援策を掲げたという。これらは自衛隊がすることではないように思うのだが。また、何度も書くが、浄水場などを破壊したのは誰だったのか。イラクの学校の校舎の八割(!)が戦火の被害にあっている。サマワ市内アルムサンナ高校は昨年四月、アメリカ軍の爆撃で校舎の一部が破壊された。当時、学校は旧フセイン政権側の軍事拠点の一つになっていて、生徒にけが人はなかったというが、いくら軍事拠点になっていたからといって、生徒がいるかもしれないのに攻撃していいという理由はないだろう。インフラ整備は「緊急人道支援活動」かもしれないが、何度もいうように、破壊しなければ復興も必要なかったのである。 アメリカのイラク調査団団長としてイラクで大量破壊兵器(WMD)の捜索に当たってきたデビッド・ケイ氏は23日に辞任したが、ロイター通信に対し、「イラク戦争が始まった段階で、イラクに生物・化学兵器の備蓄があったとは思えない」と語っている。このケイ氏の発言は、開戦時にイラクが核、生物、化学の三分野にわたるWMDのいずれをも保有していなかったことを強く示唆するものであり、イラク戦争開始の最大理由に掲げられた大量破壊兵器の信頼性をめぐる議論が、大統領選の争点として再燃することは必至と見られている。日本政府もまた大量破壊兵器の存在をイラク戦争支持の根拠にしていたのであり、自衛隊のイラク派兵まで決めてしまった政府の責任が問題にされることを強く願う。「フセイン大統領が見つかっていないからといってフセインが存在しなかったといえるか」という小泉首相の笑止な答弁を思い出す。そうだった首相はこんなこともいっていた。開戦前、アメリカを支持するかどうかは「その場の雰囲気」である、と。そんなふうに無責任に支持した戦争でどれだけ多くの人が殺されたか、殺されることになるか… 南木佳士の小説には、印象的な患者さんたちがたくさん登場する。ある日、ホスピス病棟にやっていた「相川老人」の枕元の壁には四つ切り大のパネル写真があった。これは相川の家の写真ということだが、住宅というより文化財として保存されるべき明治時代の小学校のように見えた。相川の説明によれば、それは「奈良女高師」に似せて作らせたのだという。奈良女高師は今は僕が長く勤めていた奈良女子大学なので、すぐにイメージがわいた。僕が撮った写真はこちら。 相川は、学生の頃、下宿していた家の娘に恋をする。母親を手伝ってい台所に立っている娘の笑顔を見た日は眠れなかった。彼女が奈良女高師に行ってしまうと不眠になり、食事ができなくなった。思い余って一度だけ奈良に行ったが、校門の前で二、三度往復しただけで帰ってきた。僕にはなつかしい光景である。 ところがその年の冬、彼女は肺結核にかかり、半年で亡くなってしまった。後に隠居家を新築する時に、あの日奈良で見た校舎を思いだし、記憶を頼りにそれに似せて家を建てたわけである。 相川は、ホスピス病棟に新しくきた医師が、若くして亡くなった彼女に似ていることを主治医に告げる。このことを語る時、「肉の落ちた相川老人の頬に、涙が筋を造っていた。閉じられたままの眼の縁から涙はあふれるように湧いていた」。相川は力強い声で「死にたくないぞ。なあ、死にたくないぞ。生きたいんだ。なあ、分かるか。もっと生きたいんだよ、ぼくは」自らすすんで延命治療を受けることを拒み、この病棟に入った相川の中に、ふいに蘇る強い生への意志を見た「ぼく」は困惑する。 意識がまだはっきりしていた頃、死に行く母と長く話をした。肺炎になりやがて意識を失ったが、その直前、文字盤を使って母親との意志疎通を試みたことがあった。五十音の表を作ったのである。母は指を押さえていくのだがとうとう僕には母が最後に何をいおうとしたのかわからなかった。母も伝えたかったのかもしれない。生きたい、と。意識のなくなった母の脳裏には青春の頃の想い出が蘇っていたのだろうか。少しずつ死に逝く母の側にいて人生の意味探しあぐねる
2004年01月24日
コメント(4)
ニュースを読むと気が滅入る日が続いているが、自分の精神的な健康のために、ニュース断ちをしたら、悪化する世界情勢の変化についていけずいよいよ精神的打撃が大になることは必至である。 戦争に反対していても、日本は巨額のお金をイラクの破壊と復興(あってはならない取り合わせ。破壊しなければ復興の必要もなかった)のために使っているという事実をどうすることもできない。イラク派遣国会承認案について議論されている間に(造反議員を処分するという自民党)航空自衛隊はクウェートに着いてしまっている。イラクでの自衛隊の活動についての取材の制限はやむをえないと小泉首相。報道の自由や国民の知る権利を不当に制限するものではない、と。日本新聞協会と日本民間放送連盟は、取材提供・取材のルールを確立するように政府に要望したようだが、取材する側でこんなふうにするというルールを作って政府に伝えるのか、と思っていたがそうではないらしい。取材を制限してほしいといわれたらのんでしまうのだろうか。 南木佳士の『エチオピアからの手紙』半分ほど。今週は採点があって思うように本が読めない。「活火山」という短編に、天明三年の浅間山の大噴火のことが書いてある。流れ出た溶岩が熱泥流となって村を襲った。観音堂に逃げ登った村人は助かるがもとは百五十段あった観音堂への階段は今は十五段しか残っていない。石段を駆け登る途中で泥流に足を取られ埋まったものもいた。発掘調査で上から五十段目あたりまで掘った時、石段にへばりつくように重なった二体の人骨が出てきた。下にいたのが若い女性、上は腰の曲がった老婆。姑を背負った嫁ではないか、と推定された。嫁を捨てれば嫁は逃げられたかも知れない、捨てなかったのか、姑がしがみついて捨てさせなかったのか…こんな時人は何を考え、どんな決断をするのか、と読みながらいろいろ考えてみた。 主人公の医師は、この話を語った女医と実際にこの観音堂の階段で同じことをしてみる。「石段の下に降りて腰をかがめた勇の背に女医が体を預けてきた。豊かな胸が背をやわらかく押し、長い髪が首筋に触れた…膝が細かく震え、口の中に甘酸っぱい液が湧いてきて、勇は吐きそうになった。女医が甲高い声で笑い出した。「あなたなら絶対捨てたわね。重いものね。一人だけ逃げのびて、あとでうんと後悔して、そのうちにありきたりの想い出に変えてったりするのよね」。彼女の言葉がふいに僕に向けられ、困惑した。 『短歌に親しむ』(佐々木幸綱、日本放送出版協会)を手に入れる。俵万智に短歌を教えた人である。短歌らしい短歌をつくろうと思わないでよい、個性的な短歌をつくろうと試みるべきだという著者の主張は勇気づけられた。少しずつ読んでいこうと思う。「具体的に、細部を」というところでは、俵の歌をあげている。 砂浜のランチついに手つかずの卵サンドが気になっている(サンドイッチではなく、卵サンドであるところ) 見送りてのちにふと見る歯みがきのチューブのへこみ今朝新しき(ラミネートチューブをイメージしてはわからないかも…前夜からの二人の時がチューブのへこみに凝縮する) 具体的、細部か、なるほど…ということで作ってみたが…目を閉じて来し方眺む君の頬ポインセチアの赤色映える
2004年01月23日
コメント(7)
連日、採点の日々。少し根を詰めて採点したので、中根先生のところで肩に置鍼をすることになった。もっとも今回の肩凝りは採点の前からなのだが。朝から冷え込みきつく、洗濯物を干しにベランダに出たら空気が冷たく痛く感じられた。 中根先生のところのホームページがほぼ完成しているのだが、Movable Typeを使った日記のところだけがうまくいかなくて相談を受けた。ホームページを制作したWebデザイナー氏は目下、日本にはいなくて連絡がつかないとのこと。日本語で書かれたウェブログ関係の本をほぼ全部持っている(たぶん)。Movable Typeについて書いてあるところは読まなかったが、役に立ちそうである。残念ながら目下問題は解決しない。それでも時間が経つのを忘れるほど夢中になれるのはありがたい。時折、精神の均衡を取るためにデジタルな作業(というのかわからないが)をすることは僕には必要に思える。 陸自先遣隊がサマワ総合病院を訪問したという。息子が早く帰っていたのでこの件について話したのだが、軍人が病院に行って何をするというのか、と一言。求められているものは自衛隊は与えられないように見える。公明党の支持母体である創価学会の有志でつくる「イラク派兵に反対し平和憲法を守る会」が21日、同党本部に学会内外から集めた自衛隊派遣に反対する1800人余りの署名を提出したという記事。神崎代表は「いろいろな意見の方がいる。それらのすべてを参考にして(派遣の是非を)判断する」といっているが、どこまでこの署名が有効なのか。1800人の署名では数は多いとはいえないかもしれないが、このような動きは注目に値する。 創価学会の婦人部が派兵に慎重な立場だったとは前に読んだことがある。子どもたちの徴兵にも関わる問題だという切実感があればそうならざるをえないだろう。子どもや愛する人がイラクへ派兵されることに反対することは、国際社会への貢献などという言葉によってかきけされてしまいそうだが、シャーリー・マクレーンの言葉を思い出した。 「人を愛するときの勇気は、社会を変革しようとする勇気と同じように大切なのだ」(『カミーノ』p.17)「死なないで」と願うことが戦争反対ということと直ちに結びつかなくても声を大にしていうべきことだと思う。戦争の大義名分にかき消されてはならない。 国会の承認があろうとなかろうと、反対があろうとなかろうと、陸上自衛隊も近く派遣されそうな勢いである。民主党は今頃何をいっていると思わないわけにいかない… 「でももしそれ(普通のどこにでもある風景)が明日にはもう見られないかもしれないとしたら、それはあなたにとってすごく特別で貴重な風景になるんじゃないかしら」(村上春樹『海辺のカフカ』) 村上春樹の小説から引いたが、イラクへ派遣される自衛隊員の家族にとってはまさにこの言葉通りの日々ではないか、と思う。自衛隊がイラクに着いたら日本を攻撃するという警告が発せられていたことも忘れてはならない。日本にいても危険なわけであり、明日をもわからない日がくることになる。こんなこともすべて国際貢献、実は対米支援という愚行によるものである。
2004年01月22日
コメント(2)
衆議院の代表質問で、民主党の菅代表が自衛隊のイラク派兵は憲法違反の疑いがある、といい、小泉首相は私はそうは思わない、と答える。首相が(憲法違反と)思う、思わないというのはイラク派兵の是非を問う時の本質的なことではないと思うのだが。第9条については、憲法学者ら研究者が長年議論してきている。そういう研究の積み重ねは、政治家の議論の中では無視されるのだろうか。 昨日、引いた対談の中で、池澤夏樹は、人道復興支援という小泉首相のキーワードは中身がない、といっている。「人道と復興と支援というつなぎ方はじつにグロテスクです。だってイラクを壊したのはアメリカですよ。壊したやつにだれが助けを求めますか。その手伝いに(自衛隊が)いくんだもの」。破壊した上での復興ということがおかしいということについては何度も書いてきたとおりである。 人道復興支援という言葉を使って、あたかも自衛隊の派兵に賛成しないことが「人道」を外れるかのような印象を植え付けようとしていること。5月18日の日記に、「あまりに単純な二分法(dichotomy)が議論の障害になるように思うことがある。アメリカのイラク攻撃に反対すれば利敵(=イラク)行為とされる。北朝鮮を悪の権化であるかのような昨今のメディアの報道の中、異議を唱えるとたちまち国賊扱いされない勢いである」と書いた。こんなロジックに欺かれはいけない。 サマワの人々は軍隊にはきてほしくない、といっている。甲冑で身を固めたような自衛隊員は受け入れられるのか。市街地から離れた砂漠の中に要塞を作るという。そこがどこなのかは治安上の理由で明らかにされていない。自動小銃を構える自衛隊員の写真を新聞で見た。娘がこんなことをいっていた。「そんな人(銃を構える人)がきたら怖いと思うやろうね」。こういう感覚はまともだと僕は思う。 テロや物取りは、自衛隊の撤退の理由にならない、と石破防衛庁長官はいった。またしても「テロに屈するな」ということになるのか。 iBlog版日記の方にこのところ、Googleなどの検索ページからの海外からのアクセスが増えている。Iraq, Self Defence Forces, Japaneseという検索ワードで引っ掛かるようだ。 違う話。昨日、娘は風邪で一日寝込んでいたが、今日は職場体験があるということで朝から張り切って出かけた。僕は7時に起きる必要があったので、朝方まで試験の採点などをしていたが、ふと気づいた時、娘がまだ出かけないでいることに気づいた。9時過ぎだった。いつもより遅い時間に行けばいいことになっていたようだが、一度起きていたのに寝てしまっていたようである。3時過ぎに帰ってきた娘は、楽しかった、授業よりもうんと楽しかった、といっていた。なんでも旅行会社に行っているようで、パンフレットにハンコを捺したりする仕事を任されたという。僕の時はなかった。息子にたずねたら工場に行ったというので(知らなかった)、何か作ったのかとたずねたら、その時はまだ「見学」だけだったようである。 学会か何かで講演をする夢。演題を知らされていなくて直前に見た演題は僕がまったく理解できないものだった。大きな声で話し始めたが少しも話が前に進まない。あせりはじめたところで目が覚めた。目が覚めた時の陰鬱な感じは少しましになってきた。いろいろなことを思い詰めて考えすぎないように、息をひそめるようにして生きていけば、きっと悩みなども消えてしまうのだろう、と思うのが、簡単にはいかない。息子にこの頃小さかった頃の話をよくしていたようで怒られてしまった。「そういう話はやめようや。僕は覚えてない。過去はない、今を生きているだけなのだから」と。確かに息子のいうとおりである。
2004年01月21日
コメント(12)
昨日書いた劣化ウラン弾の件で友人に、WHOが劣化ウラン弾の被害について認めていないのは本当である、ということ、WHOは基本的に、「低線量被爆」については正確に認識されていない、と考えていて、日本でも、今なお、被爆者団体などが「低線量被爆」を国に認めさせるために訴訟をおこしているという状態である、ということを教えてもらいました。この件についてはさらに調べてみたい。知らないことがあまりに多くて途方に暮れる。 今日の朝日新聞には、日本ジャーナリスト会議が、防衛庁が報道各社に自衛隊のイラク派遣に関する現地取材の自粛を要請したことに抗議、撤回を求める声明を出したという記事の横に、新聞・放送・通信など報道機関21社でつくる在京社会部長会が、防衛記者会を通じて、防衛庁に取材ルール作りなどを申し入れた、という記事があった。この後の記事の意味がよく理解できない。防衛庁に取材ルールを作るよう求めた、というのであれば、現地取材を防衛庁が自粛せよ、というのなら、どう自粛するのか明確なルールを防衛庁に作るよう求めた、ということか(それならばとんでもない話だが)。 また別の友人が「赤旗」に掲載された「言葉と政治をめぐって」という小森陽一、池澤夏樹の対談の切り抜きを送ってきてくれた。この中で、「広告」が今の政治の主流になっているという指摘があったのが注目を引いた。広告は論理ではなく心理である。普通の人たちの欲望をコントロールする技術が広告である。小泉首相は本質的な質問には答えないが、テレビカメラの前には毎日こまめに立って、「広告の言葉遣い」で話す。キャッチフレーズは何度も繰り返すが、説明がない(池澤は「単純反復絶叫型」と形容する)。文字通り、広告塔のような政治家である。「広告的な言葉に対して、筋の通った、論理的につながりのある言葉をつきつけていかなくてはいけないと思いますね」(池澤夏樹)。僕もそう思う。 僕はいつもソクラテスのことを思い出す。ソクラテスは青年に害悪を与えるという理由で告訴され裁判に臨むが、アテナイ人諸君に諒承を願いたいこととして、こんなふうにいっている。「それはわたしが、よその場所でも、また市場にある両替屋の店先でもなどでも、ふだんしゃべりつけていて、多数の諸君がそこで聞かれたのと、同じ言葉をつかって、今弁明するのを聞かれても、そのために驚いたり、騒いだりしないでほしいということです」(『ソクラテスの弁明』) なぜなら自分は今70歳であるが、裁判所にきたのは初めてのことなので、ここの言葉づかいは、まるでよその言葉であるからだ、という。ということは、裁判所では一般的でない話し方がされているということでもある。 このようにソクラテスは終始普通の言葉で語っている。専門用語を使った難しい話は一切しない。プラトンの対話篇ではソクラテスのみならず登場人物は普通の言葉で話す。そうでない人ももちろんいる。知識をひけらかすような話し方をする人もいないわけではあない。しかし、そういう人はソクラテスによってたちまち反駁され、無知であることが明らかにされる。 ソクラテスが法廷においても普段と同じような話し方しかできなかったことにかてて加えて、ソクラテスにとっては説得力があるとか、美辞麗句で飾られているということは問題にならず、ソクラテスの関心事はただ一つ。真実を語っているかどうかだけである。当時の若者は弁論術をソフィストから学び、それによって立身出世を図ったのだが、たとえ美しく語られるとしても本当のことを何一ついわないのであれば、そのような人のことを弁論家とはいえず、真実を語る者だけが弁論家である、とソクラテスは考える。「どうか言葉づかいのところは…あっさり見逃してください。そして私のいうことが、正しいか否かということだけに注意を向けて、それをよく考えてみてください」(『ソクラテスの弁明』) 中身のない空虚なことを美辞麗句で飾って話す人は今日も多くいるが、そういう人に対してソクラテスは容赦することなく無知であることを思い知らせた。こんなことをされた人は愉快ではなかっただろうし、そのことのゆえにソクラテスは法廷に呼び出され、ついには死刑になった。今の世にソクラテスがいたらどうなるか。ソクラテスはいなくても、我々がソクラテスの役を果たさないといけないだろう。 現代に蘇るソクラテスを描いた山下和美の『不思議な少年』について、2002年11月20日の日記に書いた。
2004年01月20日
コメント(6)
サマワに向かった陸上自衛隊の先遣隊は軽装甲機動者などに分乗してアメリカ軍基地に向かっているという。防衛庁の報道自粛要請にたいしてマスコミがどういう対応するか発表したのか寡聞にして知らない。正確な情報が届くことを願う。戦争前にバグダッドから撤退し、他方で、従軍記者を送り込んだマスコミの報道をどこまで信じていいものか。 讀売新聞のウラン劣化弾についての川口外相の発言については調査中。息子にコソボで使われたウラン劣化弾についてWHOが健康に害がないと発表していると聞いたが本当かたずねたら、コソボではたしかに癌の発生率が増したが、因果関係があるかまではわからない、しかしだからといって、ウラン劣化弾が健康に害がないということにはならない、と教えてくれた。森住士のHPの「サマワで使われた劣化ウラン弾」という記事を読むと今回の戦争で使われたこと、被爆の危険があることは疑いないのだが。 iBlog版日記に「若いというだけで」を書いた。音楽なら若い人は賞賛されるように思うのだが、文学となると風当たりは強いように思う。もっともシェーンベルグの斬新な音楽はウィーンの人には受け入れられなかったようだが。文学や哲学となると経験がないとだめということなのだが、年を重ねたからといって必ず賢くなるというわけではない。 斎藤茂吉の話の続き。母親輝子の方もスキャンダルがあった。茂吉は輝子を軟禁状態に置き、外部との接触を禁じた。輝子が茂吉の日記を消している事実が全集編纂のおり発覚したが、北杜夫は母親を擁護している。「母は世俗的に夫が偉いことは知ってはいたが、その文学を理解し崇拝していたわけではない。まして日記も書簡も、茂吉がずっと以前から発表を禁ずると言い言いしてきたものである。勝ち気である母が自分に不都合な個所をごくわずか消したり破ったりしたことは、一介の女性として自然な行為であったろう。また母はせっかちでちゃらんぽらんのところもあったから、日記を検閲するにしてもごく大ざっぱにやったと思われる。事実、残された日記中には輝子にとって嫌なこと、不利なこともかなり目につく。世の他の女性であったなら「日記」はもっともっと削られていたかもしれない」(p.113)
2004年01月19日
コメント(0)
強風でサッカーゴールが倒れて男子生徒が亡くなった中学校の校長が自殺した可能性があるという報道は衝撃だった。このようなしかたでは責任を取れるとは思わないが、残された生徒がこのことから何を学ぶかということまでは思いが及ばなかったのであろう。イラクで自衛隊員に死傷者が出たからといってすぐに撤退ではない、といってのける厚顔無恥の政治家を思うと、痛ましい限りである。もとより死をもっては責任を取れるわけではないのだが。 斎藤茂吉が永井ふさ子に宛てた手紙のうち(1月15日日記参照)最初の三十数通は茂吉にいわれるがままに償却されたが、焼いた後の「言いようのない寂しさ」(永井ふさ子)を思うと、焼き捨てることはできず、自分の生のある限り持ち続けよう、とふさ子は決心した。茂吉自身は公表されることをまったく望んでいなかった。 その残された多くの手紙を息子の北杜夫は読む。「古来多くの恋文はあるが、これほど赤裸々でうぶな文章は多くはあるまい」(北杜夫『茂吉彷徨』岩波書店、p.149)。父のことを謹厳実直な男だと信じていた北は、「この遅まきの恋愛事件を知ったとき、私が亡き父に抱いた感情は、「恐るべき勝手気ままな、横暴極まりない男だなあ」というものであった。父が言うがままに女に近寄らないでいたならば、私は今もなお童貞でいたかも知れない」(p.136)といっている。恐るべし子ども。時期を同じくして、妻輝子にもダンスホール事件というスキャンダルが起こり、二人は別居しているのである。 iBlog版日記の方に、綿矢りさの『インストール』の感想を少しだけ書いたが、amazon.comのレビューは酷評が多いので驚いた。芥川賞の受賞についてもこれからいろいろといわれるのだろう。こんなに若くして、まだ二作しか発表していないのに芥川賞などをとってしまうとこの先、さぞかしプレッシャーだと思う人もあるかもしれないが、教師として有能な学生を見てきた僕としては、何の苦もなく(ないというのはもちろんいいすぎだろうが。世間からのプレッシャーなどものともしないで、という意味)これから次々に作品を発表できる人だろう、と『インストール』を読んで思った。 大学センター入試があった。息子と、息子が行きたい大学が法科大学院のあおりで定員が少なくなり、センター入試でいうと100点たくさんとらないと受からなくなったという話をしたのだが、そのことを格別深刻な事態と受け止めていないことを知り驚いた。そういうことがまったく影響を与えていないとは思えないのだが、マイペースで勉強を続けているのを見て尊敬する。
2004年01月18日
コメント(12)
陸上自衛隊の先遣隊が17日朝(クウェート国際空港に到着した。自衛隊は人道支援に行くことになっているというのに、自衛隊のイラクでの活動につい防衛庁が報道制限をしようとしているのは、前にも書いたが納得できない。報道自粛制限の要請(命令?)がなされた時、その場で反論した人はいないのだろうか。一度、社に持ち帰られなければ、判断してはいけないことなのだろうか。 南木佳士の『長い影』という作品にはカンボジアへの難民医療チームに参加した医師の話が出てくる。成田を発つ時、ある官庁の役人がこんな挨拶をしたという話がある。あまりがんばらないでください。タイの農村だって貧しいのに、カンボジア難民にばかりよい治療をすると、問題が多い。日本のように医療訴訟は絶対起こらないから、身体を壊さない程度に適当にやっていてください。日本から医療団を出しているという、そこのところが大事だ、と。 これを読んで、ふとイラクに派遣される自衛隊のことを思った。先遣隊長の佐藤正久一佐は「陸上自衛隊が活動のステージに立った。歴史的な意義の大きさに身の引き締まる思いだ」とインタビューに答えていっている。個々の自衛隊員は任務を果たすべく身の引き締まる思いであろうが、政治レベルでは、日本の自衛隊がイラクに派遣されたという事実だけが重要なのかもしれない。それは憲法逸脱(今に始まったことではないが)の一つのステップであるし、国際貢献という名の下での対米支援の徴として意義があると見られているのではないか。何度も書くが、無法の侵略としか見えない戦争でイラクを破壊しておいて支援というのは(しかも「人道」支援)ひどい話である。バグダッドの浄水場を空爆したのは誰か。その上で復興するのが「人道」なのか? 谷崎潤一郎が根津(森田、のちに谷崎)松子に宛てた手紙を見ると、谷崎にとって松子は恋人であると同時にミューズ(詩女神)である。作家に霊感を与える存在という意味である。このことは、手紙の受け手である女性にしてみれば、自分は愛の対象である前に、作家に霊感を与えるための手段に過ぎないのではないか、との疑念を抱かすことになるのではないか、と宇佐美斉は指摘する(『作家の恋文』p.18)。その危険を察知して谷崎は、私にとって、芸術のためのあなたではなく、あなたのためでの芸術である、といっている。あなたと芸術が両立しないのであれば、喜んで芸術を捨てる、とも。しかし、本当にそんなことができるのかは大きな問題である。 リルケは、サロメのために、彼の愛の徴として、またよく勉強している証拠として日記をつけ、イタリアの印象を彼女に送る約束をした。この約束から生まれたのが『フィレンツェだより』である。サロメが誰かある男と情熱的に接すると、九ヶ月後にその男は一冊の本を生んだといわれる。サロメは自分が相手に霊感を与えるための手段に過ぎないと思わなかったかもしれない。ただ君の喜ぶ顔を見ることを励みとなして苦しみ耐えりわが仕事愛し尊ぶ君のためけして世のため人のためでなし
2004年01月17日
コメント(4)
神戸の地震から9年が経つ。あの日の朝、京都でも激しい揺れがあり、子どもたちをどうしたら守れるかと思ってみても身体がすくんでしまい何もなすすべもなく揺れがおさまるのを待つしかなかった。あの地震以来、この国では災害や事件、事故があるたびに、トラウマや心のケアという言葉がよく聞かれるようになった。別のところでも何度も書いたが、もしそこまで心のケアが大切であるというのであれば、子どもたちが戦争に怯えることがないように努力するべきではないのか。子どもたちは日常的に聞いているであろう戦争のことで心を痛めていないとでもいうのだろうか。 南木佳士の『ダイヤモンドダスト』(文春文庫)読了。巻末の加賀乙彦との対談がおもしろかった。精神科医の加賀は短編を書いた時は仲間に不評だったので長編を書くことにした。『フランドルの冬』を単行本で出したところ、芸術選奨新人賞を受賞し、それが作家になるきっかけになった。南木は、長編がいいのは加賀が精神科医であり、カルテの書き方と関係しないかと指摘している。精神科のカルテは会話などを含めて詳しく長く書くからである。加賀は「それはあるでしょうね。カルテに生きいきと患者の世界を定着しなければなりませんから」と答えている。今はカウンセリングをそれほどしていないのだが、精神科に勤務していた頃は毎日膨大なカルテを書いていたことを思い出した。『作家の恋文』(宇佐美斉、筑摩書房)続き。宇佐美はロラン・バルトの言葉を引いている(p.36)。「あの人のことを思う」とはつまり、「あの人のことを忘れる(忘却なくしてはいかなる生も可能ではないのだ)ということであり、しばしばこの忘却から目覚めるということでもある」。恋文を書くことで、相手を忘れている度合いに応じて彼(あるいは彼女)を立ち戻らせているのだ、という指摘はおもしろい。僕は、次の宮沢和史が歌っているように、常時、彼(や彼女)のことを思っていると考えていたのだが。あなたのことを 忘れている時があるそれは あなたに会っている時(宮沢和史『セイフティ・ブランケット』) 24歳で夭折した立原道造の手紙。「このごろ僕は夢のなかで おまへのかなしさうな顔やおまへの苦しさうな顔(そんな顔を一度も見たことはないのに 僕にはその顔が 夢のなかで はっきりと見える)ばかり見るのだ なにか かはつたことでもあるのだらうか 僕は心配だ」 夢の中でなつかしいあなたに会った。声をかけたら大粒の涙が頬にこぼれた。「どうしたの? 今は幸せにしているのではないの?」
2004年01月16日
コメント(6)
アメリカ防総省の発表したところによれば、イラク駐留米兵の「非戦闘中の死者」のうち、少なくとも21人が自殺である。「戦争のストレス」が原因とみられるという。「ストレス」などの問題を理由にイラクから離れた兵士は開戦以来、計約400人に上るという。同省では、通話料無料の電話相談を受けられる態勢をとったほか、精神科の専門スタッフをイラク国内で増強するなど、「心のケア」対策を強化しているという。 必要なのは、一日も早くイラクから撤退することだと思うのだが。 藤澤令夫先生から葉書がきた。先生にギリシア哲学の指導をしていただいた。博士課程を終えてからアドラー心理学の研究を始めたこともあって、実はもうかれこれ15年ほど会っていなかったのだが、今度『不幸の心理 幸福の哲学』を上梓したのを機会に先生に本を送ったことへの返信である。「いつのまにかこれだけの文章を考え書いて蓄積していたとは驚き感心しました」という先生の言葉はありがたかった。ことに「蓄積」という表現は、今度の本が原稿の執筆そのものは数か月だったが、著作の形をなすまでには研究の「蓄積」があったことをわかってもらえ、ギリシア哲学から離れずに今日までこられてよかった、と思った。先生ご夫妻に仲人をしていただいたこと、結婚後、二人で八ケ岳にある先生の山荘まで車で出かけたこと、そこで後に十年ほどして再会することになる医学生(後に精神科医になる)と出会ったこと、など忘れていたことをいろいろと思い出した。 鍼の帰り旭屋書店へ。ここには僕の本は一冊もおいてない。『作家の恋文』(宇佐美斉、筑摩書房)。作家達の恋文を読むと、恋愛が詩的、文学的エネルギーの源泉であるのがよくわかる。例えば、伊東静雄。「放浪する半身、愛される人」をはぐくんだ揺籃の地である京都での恋愛は後に『わがひとに与ふる哀歌』に結実する。北杜夫の著書によって斎藤茂吉と永井ふさ子との恋愛のことは知っていたが、この本にはふさ子の写真が載っていて、実のところこの本を買い求めたのである。彼女に宛てた茂吉の書簡は赤面もの。しかし歌は美しい。ふさ子は縁談があったがついに婚約を解消。しかし茂吉との恋愛を続けることも自分に許せず、東京を去る。書簡による交流も間遠になった。二人の最初の出会いは茂吉53歳、ふさ子は25歳だった。
2004年01月15日
コメント(0)
防衛庁が従来行ってきた同庁幹部や自衛隊幹部による定例の記者会見を大幅に縮小するという。先般のイラクからの報道自粛要請とあわせて、イラクでの自衛隊の活動についての情報隠蔽をねらっているように見える。会見縮小の理由について、他省庁と比べ会見数が多すぎるということがあがっているが、イラクへの派遣問題があるのだから当然ではないか、といいたい。 石破防衛庁長官はこの件について、「我々としてこういう(削減)方針でいきたいと思っている」と述べ、一方で「説明責任を果たしていくという防衛庁の姿勢には何ら変わりない。情報操作や情報隠しをやろうという意図はない」としたうえで、「報道側の理解が必要なのは当然だ」とも語った。どういう理解が必要なのか。 昨日、引いた『言葉は京でつづられた』の続き。「人の心に磁力があるように/ふいに誰かに会するときがある/会して、別れ、会して、別れ/やがて会してなくとも/結ばれていることもある」「生涯のうちに、出会いの時は/無数に訪れる。/そのいくつかは、/生きる分岐ともなる」 生きる分岐になる出会いなのかはその時にはわからないことがある。後からでは遅すぎる… 浅田次郎の『活動寫眞の女』という小説がある。京都が舞台なのでなつかしい。主人公の学生は文学部の一回生。同じ大学で哲学を専攻する三回生の学生と恋に落ちる。しかし、やがて東京に戻ることを決意する。「俺、来年東京に帰るよ。そうする」「いいわよ、がんばってね。恋愛と引きかえてでもやらなければならないことは、いくらでもある。とても楽しかった」 その夜をしおに、二人は再び肌を触れ合おうとしなかった、愛し合う気持ちには何の変わりはなかったのに…恋愛と引きかえられるものなどあるのだろうか、なぜその日から身体に触れようとしなかったのか…「「僕が愛しているのと同じくらい僕のこと愛している?」と聞いたよね。私がどれほど愛しているかわかる? すごい好きなんだよ。だからそんなふうに苦しんだりしないで。そういうのっておかしいと思う。会っていても会っていなくても心が穏やかでいたいから」「こんなことってない? 今しがた会ったばかりなのにもうまたすぐに会いたくなる。あなたがいっていた<情が移る>という感じかなあ。離れている時はあなたはいないわけだから他のことに意識を向けられそうなものなのにそんなわけにいかなくて、ずっと思い続けているよ。今日の一日を思い出して、時間を戻して一緒にいた時に戻りたい、会いたい、って思う」苦しくて耐える恋にはあらずして心潤ふを願ふと君は
2004年01月14日
コメント(4)
明治東洋医学院専門学校の最終講義。試験前にこれまで話したことをまとめた。講義の前と後に学生がサインを求めに。本がほしいといってきた学生も。それと初めて言葉を交わした学生も何人も。試験の問い合わせの他、講義についての質問、感想などである。でも今日が最後だったので、いつもそうなのだが講義が終わってしまうと寂しい。『医学生』読了。著者の南木佳士があとがきにこんなことを書いている。総合病院の呼吸器科病棟で年間5,60人の末期肺癌患者さんたちを看取る本業の傍ら、小説を書いていた。もとより小説を書くための時間が充分あるわけでなく、芥川賞受賞の翌年に短編小説を一冊出してから、小説を書けなくなり、医師を続けていく自信もなくした。「自分が存在していることそのものへの不安。死への恐怖。体のふらつき感。焦燥。動悸。いら立ち。不眠」(p.237)。パニック障害がうつ病に移行したという診断を受けた。しばらく自宅安静の後、病棟勤務を外されたが、日常の診察はなんとかこなせても、原稿に向かう気にならなかった。過日読んだ『阿弥陀堂だより』の夫婦(夫は作家で妻は医師)がこのようであった。『医学生』では上田先生という医師が、自律神経失調症になって半年の休職後、人間ドック棟で診察をしているという話が出てくる。自分で書いた死亡診断書が三百枚を超えたあたりで調子を崩したのである。これは『阿弥陀堂だより』の美智子先生と同じである。研修医の京子は、この上田医師が、患者のことを真剣に考えすぎた、彼ほど自然な死を患者や家族に迎えさせようと努力する医者を見たことがない、といっている。「死ってのは他人のものでじゃなくて、いつか必ず自分の番が来るんだから、半分は自分のものだと思っていた。そう思わないと告知した患者と話なんかできないものな。でも毎日をそういう思いで過ごすってのは精神衛生上とてもよくないことだったんだな。気づかないうちに少しずつボディーブローをくらったようなもので、ある日限界がきちまったんだな」(p.222) 精神科の勤務が続けられなくなった時のことを思い出した。『言葉は京でつづられた』(青幻舎)。中原中也、梶井基次郎、西田幾多郎らが京都で綴った小説、詩、日記などのアンソロジー。写真も美しい。「人の心に磁力があるように/ふいに誰かに会するときがある/会して、別れ、会して、別れ/やがて会してなくとも/結ばれていることもある」京はそのような出会いの磁場である(pp.36-7)。あの山は比叡といふと君が指すすべては我の夢にありしか
2004年01月13日
コメント(4)
『阿弥陀堂だより』のビデオの方では、美智子先生が、若い医師に「よく生きることがよく死ぬことである」と語っている場面が印象的だった。しかしこれは原作にはない言葉である。原作にないエピソードも含めて、人間の生と死、病からの再生というテーマが扱われているこの作品を深夜見終えたらなぜか涙が出て止まらなかった。 同じ作家の書いたものを読みたくて『医学生』(南木佳士、文春文庫)を手に入れ、読み始めている。秋田大学の医学部で学んだ著者の自伝的小説。 本の中に神谷美恵子の言葉を引用した(p.139)。「愛に生きるひとは、相手に感謝されようとされまいと、相手の生のために自分が必要とされていることを感じるときに、生きているはりあいを強く感じる」(『生きがいについて』六四ページ) 必要とされていることが感じられたら、と思ってしまった。長年の友人からメールをいただいた。「今まで何度助けていただいたことか…生きててよかったと思ったこともありました」。素直にうれしい。時に感謝を求めているのではないか、と思って自分が嫌になる。 いつか食事をしていた時、書きやすいから、とシャープペンシルをプレゼントしてもらったことがあった。ちょうどペンを掴むところが柔らかくなっていて、それを手にすると思っていることを考えこまなくても素直に書けそうな気がした。何も考えないで手を動かすともうすっかり忘れていたと思っていたハイネの詩の一節が書けた。Ich shau’ dich an. Und Wehmut schreicht mir ins Herz hinein. 間違っているのかもしれないが、意味は「我汝を見れば憂い我が胸に入る」。その時の気持ちを表していて怖かった。 我が前で微睡み過ごす冬の日の君の面影心離れず
2004年01月12日
コメント(2)
オニール前アメリカ財務長官がイラク戦争に絡み、「ブッシュ政権は01年の発足直後から、フセインは悪人でフセインを取り除く必要があるという信念があった」とCBSテレビのインタビューで語っている。CBSの記事は次のようである。「ブッシュ政権は、アメリカ軍を投入することも含めて、ブッシュ大統領の就任後間もなく、イラク侵攻のプランを立て始めた。先に報じられているように9月11日の攻撃(テロ)の後、8ヶ月後ではない」 同時多発テロも、大量破壊兵器の存在(するだろうという決めつけ)もすべてはこの目的のために必要だったことになる。 小泉首相は、開戦前、アメリカを支持するかどうかは「その場の雰囲気」といったが、決めていた(決めさせられていた)のではないか、と考える方が筋が通りそうである。自衛隊のイラク派遣も同じである。 対人関係でも同じである。この人のことをどう見るかを最初に決めてしまっている。好きだと思ったら、その人のどんなこともよく見える。ところが、この人のことが嫌いだと思ったら、その人のどんなことでもとことん嫌いになる。その嫌いだと思っていたまさにそのことをつい昨日までは好きだったというのに。きちんとして几帳面であるのが雨期だと思えていたのに、ある日、細かいことにこだわってうるさい人だと思うようになる。また、おおらかなところが好きだったのに、無神経な人と思えるようになることもあるのである(岸見一郎『不幸の心理 幸福の哲学』pp.119-20) ある日こんなメールがくる。「メールが多すぎて負担になっている…」いいよ、そんなふうに思うんだったらもうメール書かないから。そう固く決心する。それなのに、その人に心が残っているとしたら、またしばらくして、「どうしてる? 電話で話す? 寝てるか?」というメールがくると、さっきまでの決心はどこへやら、あっけなく、上機嫌で電話をしてしまうことになるだろう。 個人の関係とは違って、もしもオニール前財務長官の証言が正しければ、ブッシュの決心は多くの人を犠牲にしたという意味で許しがたい。
2004年01月11日
コメント(12)
アメリカがこれまでCIAのデビッド・ケイ特別顧問のもと、1400人態勢で旧フセイン政権の核兵器や生物・化学兵器などを捜索してきたが、兵器貯蔵庫やミサイル発射装置の捜索を主に担当していた約400人からなるチームが、ひそかに撤収していた。国防総省関係者は「調査に値するものは調査し終えた」とニューヨーク・タイムズに語り、大量破壊兵器(WMD)を発見する可能性が小さくなったことを示唆した。WMDが発見されないとなるとイラク戦争の大義はなくなることなる。 New Yorks Times紙によれば、パウエル国務長官は、フセイン氏は過去に禁止された武器を持っていた、たとえ手元に実際の武器がないとしても、ひとたび国際社会が関心を失ったら復活させるであろう明らかな兆候がある、といった。「意図(intention)の点からいうと、フセイン氏は常に[大量破壊兵器を]持っていた」というのである。持とうとしたことが、持つことと同義であるといっているわけである。さらにいえば、大量破壊兵器を実際に持っていなくても、持とうとする意図があっただけで、侵略が正当化されることになってしまう。人を殺そうと思っただけで殺人罪で逮捕されるようなものである。 一日模擬試験で缶詰めだった息子が帰ってきたので、「現地での取材を可能な限り控えるようにお願いする」という石破防衛庁長官の報道自粛要請について伝えたら、日本の報道だけを押さえても意味がないではないか、と一言。今はインターネットがある。 石破長官が自衛隊員を前に、「リスクを犯しても守らなければならないものがある」と熱く語った守らなければならないものとは何か。このリスクは自分自身のリスクではありえない。イラクに派遣される自衛隊員、テロの標的になるかもしれない日本の国民のリスクということであろう。 南木佳士『阿弥陀堂だより』(文春文庫)の感想をiBlog版日記に書いてみた。
2004年01月10日
コメント(13)
石破防衛庁長官が、イラクやクウェートでの自衛隊支援活動について「現地での取材を可能な限り控えるようにお願いする」という取材自粛要請をした。「部隊・活動地域の位置」や「部隊の将来の活動にかかわる情報」など、「派遣部隊や隊員の生命・安全にかかわる情報」についても報道の自粛を求めている。一体自衛隊はイラクに何をしに行くつもりなのか。報道機関がこのような自粛要請を受けないことを願う。従軍する(といっていいのかわからないが)記者たち(「現地での取材を予定する報道関係者」とasahi.comには書いてあった)が襲撃された場合などに具えて訓練を受けたという記事を昨日読んだばかりなのだが。 ふと思い出した。イラク戦争を前にアメリカ国防相が募集した従軍記者がいたが、朝日新聞は「おことわり」として、同社が海軍と海兵隊にそれぞれ一人の記者を同行させること、国防総省は「従軍記者の報道に一定の条件を設けていますが、前線で何が起きているのかをより詳しく伝えるため、記者を派遣することにしました」と書いている。「一定の条件」とは、部隊の装備、人員の詳細なデータの公開や作戦の予告などを禁じるということだった。 日記に瀬戸内寂聴さんの法話のことを書いたことがあった。「人には定命というのがあって人間死ぬ時は死ぬが、定命に達してなかったら死ねない。私はいつ死んでもいいと思っている…と会場をわかせた後、「でもまだ今は死ねないと思っている。戦争を経験した七十五歳以上の老人が戦争の悲惨を訴えていかないといけない、とテロと報復への反対、有事法制への反対、と政治むきの話を力をこめて語る。戦争の悲惨さを知らない人がこんな法律を作るのだ、誰が愛する人を戦場に送りたい、と思うものか、と力強い話が続いた。もちろん、寂聴さんの考えに肯んずることのできない人もいるわけで、ざわめきがあって僕にはちょっと驚きだった」 南木佳士の『阿弥陀堂だより』(文春文庫)を半分ほど読み進む。医師と結婚した作家志望の夫は新人賞を受賞するが、その後は不遇が続く。世間には、充分な収入があり、多忙で有能な妻と、稼ぎはなく家事しかできない無能な夫と見られているだろう、と二人は意識していた。このあたりのくだりを読んでいて、家事もできなかった無能な頃の自分のことを思い出した。決して無能だと思っていたわけではないのだが、こだわっていたことはたしかである。人並みに常勤の仕事に就きたいと思い、実際そうしたこともあるが、続かなかった。結婚前に「一体いつまで娘を働かせるつもりですか?」と母親に詰め寄られたこともあった。小説を読むと、奨学金を頼りに(今も返済を続けている)研究を続けた日々のことを思い出してしまった。やがて小説では妻はパニック障害を発症する。この後二人はどうするのか。
2004年01月09日
コメント(8)
尼崎での保育士研修会。三年以上続いているこの会では毎回、いろいろなテーマで僕が話すこともあれば、事例検討をすることもある。今宵は「わかる」というのはこんなことか、と思う瞬間があった。場に居合わせた誰もが同時にわかったのである。僕が教えたというわけではない。長く研鑽を積んだことの一つの成果のように思った。 向田邦子の遺書を読んだ(向田和子『向田邦子の遺書』文藝春秋)。「○どこで命を終わるのも運です。 体を無理したり、仕事を休んだりして、骨を拾いにくることはありません」 自分の最後を予見しているような…僕はこんな覚悟をして生きているわけではない。書くとしたら一体何を書くだろうか、研修からの帰りの電車の中で考えてみた。向田のようなお金は持っていないから、お金のことでもめることはないだろう。昨日、電話をしてきた若い友人が働けど働けど通帳が二桁でしかない、と歎いていたが、僕はいつもマイナスだから… 若い友人と話をしたのだが、彼は結婚後もずっと恋をしたいのだという。もちろん、結婚した相手と、という意味である。見合いをした彼に僕は助言した。それなら、恋愛経験のある人がいいよ、と。「なぜ?」「何らかの事情があって恋愛による結婚を断念した人なら、恋愛の楽しさを知っていると思うから。だから見合いをきっかけに会い、結婚した人ともそのような関係を築きたいと思うのではないだろうか」。はたして見合いの席で、これまでのことをたずねていいのか常識のない僕にはわからないのだが(普通、聞かないのだろう)、この提案を少しおもしろいと思ってくれてよかった。いうまでも夫婦の形はさまざまで、一般的に論じることはできない。
2004年01月08日
コメント(2)
今日から新学期が始まったようで気がついたらもう誰もいなかった。午前中カウンセリングをしている時に娘は早くも帰ってきた。カウンセリングが終わった時見たら、娘は昨日遅くまで宿題をしていたせいかソファで眠っていたが、僕の気配に気がついて飛び出すようにしてクラブに出かけた。ところがこの時どうやら鍵を忘れたようで、僕はその後家を出たのだが、帰ってきた時、鍵がなく5時間ドアの前で待ったようである。こんなことは前にもあったが、小学生の時は仲良くしていた近所のお友達の家に行って過ごしていたが、今はもうその友達とはつきあってないようなのである。こんなことがあってさぞかし機嫌が悪いのではないか、と思ったが、そうでもなくて安堵した。 昼から鍼に。実は僕は午前中に予約していたのに3時からだと思い込んでいた。同じような失敗を二回も繰り返してしまった。「初めて悪くなりましたね」といわれたのも少しショックだった。よく休めてないですよ、とも。 安倍晋三自民党幹事長が、現行憲法の字句修正ではなく、白紙から書くのが望ましい、と憲法の全面改定を目指しているという話を息子にした。徴兵制については氏は明確に否定したということだが、徴兵制については、息子がいうには徴兵制を導入すれば国民の政治への意識が高まり、そうなることは政府にとっては都合が悪いのではないか、という。論点はわかるが徴兵制の導入という事態になる前に政治への関心を高めなければ、と思う。 短歌を最近また作っているのだが、表現が直截で自分のことをあからさまに見せることになり、公開できない。もちろん、直截でない表現をすることも可能なのだろうが、英語で作文する時のようにストレートにしか懸けない。 俵万智によれば、これは、短歌の主語が基本的には「我」であるからである。「正直言って私自身、恋の歌を発表することにさえ、ためらいがあった時期がある。けれど、言葉にせずにはいられないという思いと、これは身の上話でも日記でも表現なのだという、ささやかな誇りのようなものを持てるようになって、気持ちが変わった」(『あたなと読む恋の歌百首』朝日文庫) 君のために書いた歌が あとひとつできたら あふれ出すこの思いを 打ち明けられるだろう(宮沢和史「口笛が吹けない」)
2004年01月07日
コメント(14)
『向田邦子の青春』という本をまとめるにあたって、妹の和子は姉邦子の若き日のポートレートと向きあうことになった。 僕は、娘に邦子の写真を見せた。過日、娘と一緒にテレビで『向田邦子の恋文』を見ていたので、娘は興味をもって写真を見た。「わあ~きれい、えっ、モデルさん?」そうではないんだけど… 和子は気づく。「そこには私の知らない姉がいた…どこかを遠くを見つめている。かと思うと、カメラに親しげな眼差しとあたたかい表情を送っている。二十代の輝きときらめき、可憐さ。その一方で、憂いと暗さのようなものも感じられる。それに、撮影者その人の眼差しを感じる」(pp.100-1) ゴッホの絵を見れば誰もがゴッホの絵だというだろうが、リチャード・アベドンが撮影したミック・ジャガーの写真を見ても、アベドンの写真とはいわないかもしれない(山川健一『希望のマッキントッシュ』p.192)。宇多田ヒカルの「Addicted to You」のCDジャケットを撮影したのがアベドンであるとは、誰も知れないかもしれない。 それでも撮影者を離れて写真は存在しない。「写真は何を写すのか」に、「優れたカメラマンならわずかな時間の間に被写体である人についてその「全体」を知り、現実を伝えるというより、その人の(おおげさな表現をすれば)生き様まで見て取り、それをカメラに定着することができるであろう」と書いたことがある。 妹が知らない姉が写っていてもおかしくはない。その写真を撮ったのが和子を愛する人だったとしたら。 N氏に宛てた邦子の手紙を読んだ和子はいう。「姉がありのままの自分をさらけ出している。甘えたり、ちょっぴり拗ねてみせたり、愚痴をこぼしたり。そして姉らしい、細やかな心遣いとユーモアがある」(p.121) そんなありのままの自分を見せることができた邦子は幸福だったと思う。
2004年01月06日
コメント(2)
哲学者の三木清がいっている。人間は執着があるからこそ死ねるのだ。逆説的な表現だが当たっているかも知れない。人の一生というものは完結して終わるより何かやり残すものだと最初から思っておいたほうがいい。道半ばという言い方をするが、そういう表現が妥当しない、人生についての見方を今度の本では提案してみた。「沖縄島最南端の喜屋武岬の断崖に追いつめられて、いよいよそこで最後を遂げて、岩かげに朽ちはててしまうのかと思ったときほど、さびしかったことはなかった」 戦争で殺された女性の手記を編んだ仲宗根政善の報告の中で見つけた言葉だが、多くの沖縄の人がこんな思いで死を選んだであろうことを思うと万感交々至る。「おいとまをいただきますと戸をしめて出てゆくやうにゆかぬなり生は」(斉藤史) ドラマ『向田邦子の恋文』の中で、最後に自死を選んだ男の母と恋人が縁側で泣きながらこの歌を繰り返す場面があった。 あなたが甘やかせるからあの子は働かないのだ、という言葉を母親が息子の恋人に語る場面があった。脳梗塞の後遺症で思うように働くことができない彼を向田が経済的に支えていたようである。 演出の久世光彦は「今回は少しわかり難い話だったかもしれない」といっているが、向田をして「ここにこなければ一行だって書けないのよ」といわしめたN氏の魅力がほとんど描かれていないように思った。僕には向田のいっている意味がわかるように思う。 誰かに貸して手元にないと思い込んでいた『向田邦子の恋文』(向田和子、新潮社)を見つけた。もう一度読んでみようと思う。
2004年01月05日
コメント(5)
たまたまテレビで森山良子のことを取り上げている番組を見た。「涙そうそう」は、涙がぽろぽろあふれるという意味であることを初めて知った。詞を作ることになって送られてきた曲のタイトルは「涙そうそう」だった。その意味を聞いた時、森山は一つ年上だった兄が亡くなった時のことを思い出したという。 交通事故で息子さんを亡くした友人が、せめて後一度でいいから一緒に食事をしたいといっていた。 ある人に何人きょうだいかとたずねたら、「一人っ子です、でも…最近、一人っ子になったといったほうがいいかもしれません」という答えが返ってきて困惑したことがあったことも思い出した。最近二歳年上の兄を亡くしたこと、あまりに辛かったので大学を辞めようとまで思ったという。 どんな別れであれ、人と別れるということは、「後一度」という思いを残すことなのかもしれない。いつもこれが最後になるかもしれないと覚悟をして生きなければ。いつもそう思っていたのだが。会いたくて会いたくて君への想い涙そうそう 森山は、この時代に恋や愛ばかり歌ってばかりいてはいけないという母の言葉を聞いて、「さとうきび畑」をコンサートで迷うことなく歌うようになったとも語っていた。戦争や平和の問題と愛の問題は深く結びついていると思うのだが、政治的なメッセージを含んだ歌を歌うこと、そういう発言をすることはたしかに勇気がいる。「さとうきび畑」は十分を超える曲だが、歌を聴いた人の心を動かせるとしたら僕のように本を書くよりはるかに影響力があるといえる。しかしこれとて比較するようなことではないだろう。
2004年01月04日
コメント(10)
高橋邦典『ぼくの見た戦争 2003年のイラク』(ポプラ社)を読む。アメリカ軍海兵隊の従軍記者として(このことは必ずしも本意ではなかった)イラク戦争を現場で写真を撮影する。イラク兵の死体の写真。「これが戦争なんだ。人が死ぬ。多くの人々が……」ほとんどが18歳から23歳の若い海兵隊の兵士達をどうしても悪者とは思えなかったと高橋はいうのだが。戦場に行かないという選択肢は彼(女)らにはないだろうし、戦わないことは自分の死を意味する。自らは決して戦争で傷ついたり死ぬことがない政治家たちが若者の命を奪い、イラクの人たちが犠牲になる、戦争の愚かさ。 ミシガン大学の哲学の先生からメールをいただく。アメリカでは、他の国の人がイラク戦争にどんな反応をしているかほとんど知ることができないでいるので、iBlog版の日記に連載中の「イラク戦争日記」(の英訳)は啓発的である、という内容だった。無力感と絶望の中にあった僕へ喜ばしいメール。驚くべき偶然でこの先生のページにたどり着いたのだが、このことについては他の機会に。 正月の街を歩く。過去はもはやないというものの至るところに過去の面影を見る。二十数年前からついこの間のことまで。 自分が死んでからの世界のことを考えた。昨日、見た向田のドラマのことをまだ引きずっていた。結論は簡単で可能な限り長く生きよう、と。必ずしも遠い未来のことを考えているわけではないのだが。まだ仕事(するべきこと、というべきか)が僕には残されているようだ。
2004年01月03日
コメント(4)
『向田邦子の恋文』がドラマ化されるということで見てみた(脚本、大石静:演出:久世光彦)。感想は別のところに書いたことがある。「ある時私が隣の部屋で寝ていて、トイレに行こうと思って姉の部屋の襖を開きかけた。すると姉がヘナーッと座っているのが見えた。整理ダンスに何かをしまおうとしていたのだろうが、途中で放心状態になっていた。でも、「どうしたの?」と声をかけることができず、その後ずっと私の心の中に仕舞い込んでいた」(『向田邦子をめぐる17の物語』KKベストセラーズ)。 邦子は、半分ほど引いた抽斗に手を突っ込んでいた。予想通り、ドラマでも恋人を亡くした次の日に妹の和子がうっかりと見てしまう場面があった。この時和子は姉にたずねることができず、真相を知るのは三十年以上経ってからのことだった。 人気脚本家として多忙を極めた邦子が仕事の合間をぬって中原氏を訪ねる気持ちは共感できる。「ここにこなければ一行だって書けないのよ」という。そんな邦子が彼と死別した後、どんな気持ちで生きたのか。「邦子は一途だった。ほかに心を動かすことはなかった。それが、向田邦子という人だ」 恋人を失い生きがいを喪失したにもかかわらず、その経験をバネにたくさんの著作を書き、ハンセン病患者のためにつくした精神科医の神谷美恵子について今度の本で書いたが(『不幸の心理 幸福の哲学』p.5)向田も同じだったのだろう。僕がそのような状況に置かれたら、神谷や向田のように生きられるのだろうか。
2004年01月02日
コメント(13)
僕は申年なので年男ということになるようだ。49歳で亡くなった母は僕とちょうど二回りちがっていて同じ申年で誕生日まで同じである。ただそれだけのこととはいえ、不思議な気がした。 二十年以上前から知っている街を歩いた。僕が知っていた店はなくなり別の店ができていた。久しぶりに会った人たちは僕の記憶の中にあった人とは違った。僕が浦島太郎ではないのは、僕も時の流れの中で同じように年を重ねているから。母だけが年をとらない。 中国、韓国の反発を当然予想していたはずなのに元旦早々小泉首相が靖国神社を参拝したことに驚いた。「どこの国でもその国の歴史や伝統、習慣を尊重することについて、とやかく言わないと思います。だんだん理解をいただけると思います。毎年参拝します」ということである。憲法の政教分離の原則のことなどこの首相は知っているのだろうか、とまで思ってしまう。誰も私人としての参拝だとは思わないだろう。
2004年01月01日
コメント(9)
全31件 (31件中 1-31件目)
1
![]()

