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夕方までカウンセリング。カウンセリングにこられた人は、駅が変わったことに驚いた、と。 旧約聖書の『コヘレトの言葉』に、何事も、例えば、生まれる時も、死ぬ時も、時があって、人が労苦してみたところで何になろう、と書いてある。しかし、その後に、「人間にとって最も幸福なのは、喜んで楽しんで一生を送ることだ」とあって、印象に残った。 プラトンの最晩年の対話篇である『法律』にはこんなことが書いてある。正しい生き方とは何か。それは一種の遊びを楽しみながら生きることである(803e)。 たとえ人間にはどうすることもできないことがあっても、なお、その限界の中にあっても人は幸福になることはできる。喜び楽しんで生きていけない理由はない。 年末から仕事が辛くて、何度か投げ出しそうになったが、これまで書いたところを久しぶりにプリントアウトしてみた。何日もかけ、手書きで清書した修士論文のことを思い出した。手がしびれて何日も書けなくなってしまった。今は、待っていればいい。
2006年01月31日
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事前に息子から情報を得ていたので遅れなかったのだが、僕が住んでいる街の駅の改築工事がいよいよ本格的に始まるようである。仮陸橋の使用が始まった。問題は、これまでよりも数十メートル東にずれ、新しい仮設の陸橋をわたって電車に乗るには回り道しなければならず、これまでよりも(おそらく)3分は余分に時間がいるのである。これまでは下りのホームは改札を入ればすぐに乗れたのだが、これからは上りも下りもどちらも階段を使わなければならない。僕は生まれたからこの方ずっと今の街に住んでいて、高校の時に京都市内の高校に通うようになってからずっとこの駅を利用している。これまで二回、骨折や捻挫をして松葉杖を使わないといけなくなって、その時初めて気づいたのだが、この駅にはエレベータがないのである。さてこれからはどうなるのだろう、と初めて新しい陸橋を利用して思った。これまでの改札口は閉鎖された。この日がくるのはわかっていたけれども、写真の一枚も撮っておけばよかったと思う。 違う駅を使っているような気がする。きっとすぐに慣れるのだろうが、ただ駅が変わったというだけではなくて、僕の世界が変わったといってもいいくらいである。それは他の人もみな同じ思いだろう。 診療所でカウンセリング。三月一杯まで学校の講義がないので時折ある講演をのぞけば、出かけるのは月曜だけである。四月になれば学校の講義が始まるが、その頃には子どもたちの進路も決まっているので、今年の春はいつもとは違ったふうに始まることになるだろう。
2006年01月30日
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暖かい日だったようだが、僕は全然知らなくて、明け方寝たので目が覚めた時は昼近くになっていた。 息子が四歳の時バスを一緒に待ったことがあった。その日、電車に二十分くらい乗って遠出をした。駅を降りてから目的地へバスに乗るつもりだったのが、一時間に一本しかないバスは今し方出たばかりだった。僕は息子にいった。「後、一時間しないとバスはこないのだけど」。息子が明るく答えた。「いいよ、待つから」。 かくて五月とは思えないほどの初夏の強い日差しを浴びながら、バス停にすわりこんでバスがくるのを待つことになった。急ぐことはなかった。時間が経つのをただゆっくり待てばよかったのである。しかし、この時間は、目的地に向かうバスを待つための時間であるだけではなかった。この時間はこれでだけ完結していた。たとえ、その日、バスがくることがなく、目的地に行き着かないで引き返すことになっていたとしても、僕は残念には思わなかっただろう。 息子はもう19歳になる。いつか、君にaikoの何がわかるというのか、というので、同じ言葉を返したいと思った。少しばかり息子より僕のほうが経験があるかもしれないが、知識の点では早くも怪しい。 娘はたずねた。「私のことを書いた本はないの?」塾の先生方に『アドラー心理学入門』を貸したようだ。読まれた先生の感想は、息子のことばかり書いてあるというものだった。事例に息子のことを書くのもずいぶんと遠慮しているのだが、娘のことを書いてもいいのならもっと書こうと思う。
2006年01月29日
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午前中カウンセリング。問題を見ればいくらでもあり、その解決にむけてしなければならないことは多々あるが、今日、今、幸福であると感じられるのであれば、もっと、と思うこともなく、今のこの瞬間がすべてだろう。幸福を先延ばしにしないということはここでもたびたび書いてきたが、今日も話していて、そのことを思った。 夕食を終えた頃からひどくいらいらしていて、息子にいわれた。イライラしているようだけど、原稿がうまく進んでないのかい、と。プラトンが、吟味されない人生は生きるに値しないといっているが、もはや試験を受けるということは僕にはなくても、評価を受けることは学校を終えてからもいくらでも経験したわけで、そのたびに強いプレッシャーを感じないわけにいかない。
2006年01月28日
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少しせっぱつまった感じになっていてよくない。テンションは高く、よく眠れぬままにずっと原稿書き。寝てしまわないように外で仕事をしようと思ったが、この期に及んで調べものがあって、たくさんの本を持ち出せないので断念。午前中2人カウンセリングをした後はずっとこんな感じ。 東横インの取締役が、条例違反だが、建築基準法違反ではない、という。そういう問題ではないだろう。犯罪者は常にいいわけをし、他者を責める、とアドラーはいっている。見つかってついてない、残念だとしかと思わない犯罪者は多い。自分たちだけではない、といいたいのだろう。
2006年01月27日
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今日はずっと仕事。3時くらいから(午前の)。昼をまわったので少し寝ようと思ったが、うまく眠れなかった。今夜、眠れるように、夕方寝ないおこうと、近所の喫茶店へ。一時間半ほど原稿を書いていたが、隣に深刻な話をする人がすわったので気になって仕事にならなくなったので退散した。それでどうやって誠意を示してくれるのか、示談で…というような話。 2003年5月10日の日記にこんなことを書いた。 朝、つけたワイドショーでは有事法制のことは宗教集団、SARSの後の扱いだった。キャスターはこんなことをいっていた。「白装束集団、SARSのことに気をとられているうちに有事立法が通りそうですね。たしかにわれわれはあまりとりあげなかった。ま、この法案に関しては議論が尽くされた感がありますが」。議論が尽くされたどころでない。 今日朝、この同じキャスターは「久しぶりにおもしろいニュースが入りました」といっていた。女性たちと同居する男性の家宅捜索の模様をワイドショーは伝えていた。猫の救出劇というのもあった。 先に引いた内村鑑三は、誰にも遺せるという意味で「最大」のもの、「人間が後世に遺すことのできる、そうしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりがあって害のない遺物」は「勇ましい高尚なる生涯」である、という。これについてはキリスト教の語彙を使って内村は説明するのだが、その中に、失望の世の中ではなく、希望の世の中である、悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯で実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去る(p.54)ということをいっている。今の世の中で、こんなふうに思うのはむずかしいが、現実の世の中が悲嘆に満ちたものであればこそ、理想を見失いでいたい。それには勇気がいる。
2006年01月26日
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集団で生活していた男性の家宅捜査について報道されているが、マスコミはライブドアのことも、耐震偽装問題のことも同じ比重で扱っているのではないかと思うことがある。耐震偽装問題はライブドア事件と重なってしまったが、政治家がからんでいるかもしれないこの問題から目がそらされてはいけないだろう。 お金そのものが人の価値観を変えるわけではないが、価値観の形成に影響を与えることはあるかもしれない。 アドラーは次のようなことをいっている。一度は家族が金持ちだったのに財産を失った時は、困難な状況が、とりわけ甘やかされた子どもにとっては過酷な状況が生じる。逆に、家族が突然金持ちになっても、親は財産を適切に使う準備ができてないので、もはや切り詰める必要はない、と、子どもを甘やかしたり、わがままに育てることになる。 僕が子どもの頃はまだ社会全体が貧しかったと思う。自分の家の経済状況など少しも知らなかったし、教えてももらえなかったが、裕福ではないことだけは確信していたので、ほしいものがあっても我慢した。小学生の頃、ゲルマニウムラジオのことを雑誌で読み、作ってみたかったのだが、材料費を工面できなかった(当時で千円くらい?)。後にアマチュア無線に興味を持ったが、本を買っただけで、実際に始めるだけのお金はなかった。もしもこれらのものを手に入れていたら人生が変わっていたかもしれないと思うことがあるが、その後、状況は変わっていないのに、本は手に入れた。その代わり、後何枚コピーできるだろう、と財布の中を確かめながら、図書館しかない本をコピーするような生活が続くことになった。
2006年01月25日
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夕方までカウンセリング。一日すわっているだけなので、疲れているのに夜うまく眠れない。 連日、堀江容疑者の報道ばかりだが、こんなことがあってもなお彼の味方であり、彼を信じ続ける人がいるだろうかということを考えていた。彼が無罪であると信じるというような意味ではなくて、人間としての彼を信じる人がいるかということである。もしもお金も地位も失った彼から皆離れていってしまった時、人は金で動かせるという信念をいよいよ強化することになるのだろう。 内村鑑三の『後世への最大遺物』には、この世を去る時にこの「地球」(国家ではないところが僕の注意を引く)を愛した証拠を残していきたい、では何を残すかということで、まず第一にあげるのが「金」だという(岩波文庫、p.19)。 ただし内村はこんなふうにいう。「金を儲けることは己のために儲けるのではない、神の正しい道によって、天地の正当なる法則にしたがって、富を国家のために使うのであるという実業の精神がわれわれのなかに起こらんことを願う」(p.25)といっている。さらに金をため、それを使うことを知っていなければならない。 内村はアメリカの金融業者、ジェイ・グールドの名をあげている。グールドは、親友を四人まで自殺させ、あちらの会社を引き倒し、こちらの会社を引き倒して二千万ドルためた(p.27)。しかし、それを慈善のために使うことはなく、ただ自分の子どもにそれを分けて死んだだけだ、と内村はいう。金を賎しめないという点で内村は当時の日本の基督者として独自だが、ただ金をためればいいといっているわけではないわけである。
2006年01月24日
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診療所。朝からの雪で、予約の時間を昼からにまわされた人があったりして、空き時間ができたが、原稿を書いていたらすぐに時間が経った。前に勤務していた医院ではこんな時間はなくて本を読む時間などももちろんなくて、帰りも遅く、勉強ができなかったことを思い出した。連日カウンセリングを続け、outputばかりでinputのない生活はつらかった。「朝、吹雪で出かけられずに時間を変えてもらいました」昼からこられた人と話していて、そんなにきつい雪ではなかったようだったが、と一瞬思ってしまった。でも、地域差はあるわけで、ここで雪が降ってなくても、大雪のところもあるだろう。今自分が置かれた状況で、自分の視点でしか人(やその人の状況)を見ると誤ることがあるだろう、と思った。 試験の採点終了。後は成績表に記入して、答案を返送するのみ。
2006年01月23日
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今日はカウンセリングと試験の採点。そして原稿書き。どんなに時間があっても足りない。 センター試験が終わってやれやれといったところ。もちろん、僕が受けたわけではないのだが、息子が無事に試験に臨めるか気をもんでしまった。季節柄、雪や風邪、インフルエンザのことを心配した。疲れたのか今夜は早い時間に休んでしまったようだ。正当に実力が評価される試験であれば、といつも思う。 試験の前の晩、息子と話していた。世界史の勉強をしていた。「トーマス・マンって誰?」とたずねるので、知らないことがあるのだ、と思って驚いたが、履歴と何冊かの著書の名前をいうと、僕が知っていることに驚いたようだ。でも、こんなことは覚えたわけではなくて、長い人生の間に著作を読んだから知っているというだけのことであって、教科書や参考書で覚えこんだわけではない。こんな問題は出るとは思わないが、こんなことを知っていることは瑣末なことであろう。見方を変えれば、例えば『トニオ・クレーゲル』を読んだことがなくても、こんな知識が必要であるなら、少し覚えるつもりになって頑張れば、すぐに覚えられることではあると思う。首尾よく試験に合格し、大学で学問を学ぶ日がくることを願っている。 土曜に久しぶりにクラシックのコンサートに行ったことでいろいろなことを考えた。リヒャルト・シュトラウスの『ホルン協奏曲』を演奏した人が続くブラームスの一番で第一奏者に入った。この人は力はあるのだが、他の楽器奏者との音のバランスが悪かったり、浮いてしまっているように思った。ブラームスのこの曲は、ある主題をいくつかの楽器が引き継いでいくところがよくできていると僕は考えているのだが、もしもそれがブラームスの意図であるならば、楽器の変化にだけ聞くものの意識が向いてはいけない。一人の奏者は完全に演奏できないといけないが、一人で演奏しているわけではないので、アドラーの言葉を使えば、「全体の一部」として演奏に参加する必要があるわけである。オーケストラが演奏する交響曲は人生の縮図である。決して一人では何もできない。
2006年01月22日
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母の人生ではもはやカウントされなかった一日を僕は今日生きた。そんなふうに思うと、いい日にしたいと思った。雪が降るかと思っていたら降らなくてよかった。今日は講演をする日だったので、電車などが遅れるようなことがなくてよかった。息子も試験だったが、試験場まで無事行けてよかった。 今日は栗東で講演。京都とは違って山が遠くに見えるのが印象的だった。インフルエンザが猛威を振るっていて参加者が少なかったのが残念だったが、反応がよかったので脱線を何度も繰り返しながら、どうしたら子どもと仲良くなれるかについて話した。 妹に誘われて講演後、演奏会に。どの曲も細かいところまで知り尽していたので楽しめたが、知らない曲だとわからないだろうに、よく知っているので部分にとらわれた聞き方をしたかもしれない。すぐにでも演奏できるとまで思ったが(ホルン)、もう今の身体では無理なのだ。 内村鑑三が『後世への最大遺物』の中で最大ではないけれども(誰にでも残せないという意味である)お金を後世に残すものとしてあげている。ただお金を稼げばというというのではなく、それが後世の人に役立つと考えているところは注目したい。
2006年01月21日
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今日は母の命日。別に命日は今年だけめぐってくるわけではないのだが、母が死んだのと同い年になり、とうとうその日を迎えたことにいささか感慨がないわけではない。たまたま母と僕は誕生日が同じということもあって、母が僕のこの歳のこの日から先は母は人生をカウントできなかったのだ、ということに思い当たり、でも、何かをそのことで考えたというのではなく、ただ、そうなんだ、とただただため息が出るような思いである。 中学生の時に交通事故に遭った。打ち所が悪かったら死んだかもしれない事故で、この時のことを僕は『不幸の心理 幸福の哲学』の中で長々と書いた(p.213)。そこには書かなかったが、それからの人生をずっと余生のように思って生きている。過日会った父が、こんなに長生きするとは思わなかったといっていたが、僕は父よりはるかに若いけれども、同じ思いである。全身を強く打ち、骨折していた僕は痛みで夜眠れなかった。個室にいたような記憶があるがよくわからない。母がずっと横についていてくれた。まさか母が病室に泊まったとは思わないのだが、後年、母の病床にいて夜を徹する日々を過ごした時にこの時の場面を何度も思い出した。静かな夜だったが、飛行機が飛ぶ音が聞こえた。夜にそんな音を聞いたことはその後一度もない。すべては夢かもしれない。 これからは二度目の余生を始めるつもりで、できるだけのことをして生きていければ、と思う。
2006年01月20日
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今日は朝からカウンセリング。診療所でのカウンセリングが最近はメインのようになっていて、自室ではあまり最近予約を入れていないのだが、予約が少ないがゆえに、その分、気持ち的には余裕があるといえるかもしれない。『人はなぜ神経症になるのか』の第5刷決定。 4月からも聖カタリナ女子高校での講義をすることになった。どこの学校でも非常勤は毎年更新なので、この時期になると落ち着かない。 明治東洋医学院から試験の答案が届く。火曜日には採点して発送しないといけない。時間がない。 何か人知を超えた、偶然とは思えないようなことに遭遇すると、運命を信じたくなる。アドラーは、何か恐ろしいことに遭遇しながら傷つくことなく助かった人は、運命があらかじめ定まっていると思うようになることがある、という。たしかにこんなことはあると思う。 次のような経験を語った人の例をアドラーは挙げている。ある時ウィーンの劇場に行こうとしていたのだが、その前に別のところに行かなければならないことになった。ようやく劇場に着くと、劇場は焼け落ちていた。何もかもなくなったのに、彼は助かった。このような人が自分が何か高い目的へと運命づけられていると思うようになるのは容易なことである、とアドラーはいう。問題は、このような人がその後の人生においてそのような来たいとは違った結果に終わる経験をした時である。勇気をくじかれ、重要な支えを失ってうつ状態になることもあるからで(アドラー『個人心理学講義』pp.130-1、岸見『不幸の心理 幸福の哲学』p.205)。 運命を信じると、自らの責任で決めなければならないことを運命に委ねてしまうことがある。何もかも決まっているとしたら、努力することはないだろうし、他方、努力しても「人間万事偶然のみ」で、いかなる幸福も長続きしないと考えるならば、人間を超えるように見える力の前でただ立ち尽くししかないことになる。 プラトンは次のようなことをいっている。「運命を導くダイモーン(神霊)が、汝らを籤で引き当てるのではない。汝ら自身が、みずからのダイモーンを選ぶべきである」(『国家』617e、藤澤令夫訳) ギリシアでは、各人にそれぞれの運命を支配し導くダイモーンがついている、と考えられていた(『パイドン』107d)。プラトンは、一般の通念とは違って、運命は与えられるものではなく、各人が自分自身で選び取るものであることを強調している。「責(せめ)は選ぶ者にある。神にはいかなる責もない」(『国家』617e) こんなふうに思えたら、と思う。人は誰も自分のためになるという意味での善を欲するとプラトンはいう。時に人はこの善を実現するための手段の選択を誤ることはたしかにあるけれども、選択する時には、「それで善いのだ」という諦観ではなく、「それが善い」という積極的な、あるいは主体的な選択をしたい。そしてその選択に伴う責めを誰かや何ものかに帰するのではなく、この自分で引き受けたい。
2006年01月19日
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今日は予約などがなくてゆっくりできたこともあって、体調、気分ともよく、外出することもできた(といっても近くの喫茶店で原稿を書き進めたということだが)。年末、年始、ずっとこもって一歩も外に出なかったが、また外に出られるようになると、気分転換もできていいようだ。 ライフスタイルを知るために早期回想をたずねることがある。アドラー自身は次のような回想を語っている。「私には私の人生と緊密に結びついた空想上の早期回想がある。私は三十五歳になるまでこの回想を胸の内にしまっていた。私はこの回想を誇りにしていたのである。国民小学校にはいった時、私は五歳でした。その学校は、ディースターベーグ小路のペンツィングにあった。私の早期回想は、私と級友は毎日墓地を通って学校へ行かなければならなかったというものである。私はこの墓地を通っていく時に気持ちよくなかったし、いつも胸が締めつけられるような思いだった。ところが私の級友たちは楽しそうに通っていったのである。(中略)私は墓地を超えて行くことを大きな重荷に感じていた。このような不安から自分を解放しよう、と私は決心した。そこで次に級友と一緒に墓地に着いた時、私は級友たちから遅れて鞄を墓地の柵にかけ、一人で歩いて行って、墓地を最初は急いで、それからゆっくり行ったりきたりして、ついに恐怖をすっかり克服した、と感じられるようになった」(『学校における個人心理学』) ところが、三十五歳の時、一年生の時に同級生だった人に出会って、この墓地のことをたずねた。「あのお墓はどうなっただろうね」。そのように問うアドラーに友人は答えた。「そこにお墓なんかなかった」。この回想をアドラーは空想していただけだった。それにもかかわらず、この記憶はアドラーにとって「心の訓練」になった。子どものアドラーが訓練することでいかに困難を克服しようとしたか、子ども時代の勇気を思い出すことで、現実のその後の人生における困難を克服することに役立ったのである。 アドラーは、困難な課題に直面した時に、この時のことを思い出しては、苦境を乗り切ったのであり、数ある記憶の中でこの記憶をアドラーは選び出したわけである。 もっともその回想は事実とは違った。このように他の人の証言があって、そのような墓場が事実としてなかったということが判明することはたしかにあるが、このようにはっきりとはしなくても、以前に書き留めた過去の回想を後になって読み返したら、細部が、今、現在思い出している過去の記憶とは、微妙にあるいはかなり異なったものになっていることに気づき驚くことがある。 カウンセリングの場面で、カウンセリングが進んでから、相談にこられた人にもう一度早期回想をたずねることがある。たとえ同じ回想であっても、もしもその時語られる記憶の細部が違ったものになっていれば、その違いに注目することでカウンセリングの進行具合がわかる。『アドラー心理学入門』では、忘れられていた記憶がよみがえり、そのストーリーが付加されることによって、回想の意味そのものが変わってしまった例を引いた(pp.105-6)。
2006年01月18日
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どうやらこのところ、この点を超えたらだめという限界が自分でよくわからなくなってしまっていて、これくらい大丈夫だと思っていたことができなくなってきているように思うことがある。診療所に行く前日に講演などが入っている時は要注意ということがよくわかった。一度、少しでも限界を超えるとなかなか元に戻れないようだ。リチャード・カールソンが『小さいことにくよくよするな!』の中で、ストレスに強い人はストレスに弱いと書いていることは前にどこかで欠いたかもしれない。ストレスに強いと思っている人には、強いストレスがかかるまで我慢してしまう。僕の身体は決して頑健ではないが、わりあい無理がきくので、つい度を越してしまうようである。 須賀敦子の表現を借りるならば、「脳の筋肉」を酷使しすぎのこの頃はなかなか辛いが、体力もいるわけで、身体のことにあまり構わないでこれまで生きてきたことの報いを受けてきているのかもしれない。
2006年01月17日
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診療所でカウンセリング。昨日からひどい肩凝りで苦しかった。前からこの日は英語で話さないといけないカウンセリングの予約が入っていることが、思いの他、緊張していたのかもしれない。思うようには話せなかったが、英語の知識が役に立てたとしたらうれしい。 村上春樹の『遠い太鼓』に村上が『ノルウェイの森』を執筆していた頃のことが書いてある。毎日小説を書き続けるのは辛く、「ときどき自分の骨を削り、筋肉を食いつぶしているような気さえした」(p.182)。それでも書かないでいるのはもっとつらい。「文章の方は書かれることを求めているのだ」(p.183)。集中力が必要。長く持続すれば、ある時点で辛さは「ふっと克服できる」(p.184)。次の村上の言葉は心にとどめておこう。「自分を信じること。自分にはこれをきちんと完成させる力があるんだと信じること」(p.184)
2006年01月16日
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今日は講演。昨年に引き続きまねていてもらってありがたかった。二回目なので(といってもはじめての方がおられるわけで、前の話を前提にしてしまうわけにいかない。それに一年前の話を全部覚えてられる人はないだろう)、昨年よりは厳しい話をした。 話は3点。1)できることから始めよう2)他者に貢献すること(他者に関心を持つこと、与えること)3)生きる姿勢(人生を先延ばしにしない) 心の病気や身体の痛みは人にはなかなか理解されない。たまたま講演前に見せてもらったニュースレターに「もっと想像力を」という感想が書いてあった。病気について「少し想像力を【働かせていただく】ことが〔患者と他者の〕溝を埋めることになる…たしかにそのとおりであるけれども、現実にはむずかしいことであることが多い。他の人が病気について正しく理解することは期待できない。だからこそ、理解してもらえるよう努力しないといけないが、理解してもらえないからといって、そのことを責めることはできないし、そうすることは、その人との関係をよくはしないだろう。 講演前に息子に会った。今日、息子が出かけている場所の近くで講演をするので、ひょっとしたらという思いはなかったわけではなかったのだが、いざ見かけた時はどうしていいかわからなかった。無視されるかと思ったらそんなことはなかった。『アドラー心理学入門』を娘が先生方に貸しているという。「それで何か感想は?」とたずねたら、おにいちゃんのことばかり書いてある、って。返答に窮してしまった。
2006年01月15日
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昨日、引いたヘーゲルの『法の哲学』の序文の中の言葉、「ここがロドスだ、ここで跳べ」 には出典があって、アイソーポス(イソップ)の寓話の中の話である(『イソップ寓話集』中務哲郎訳、岩波文庫、pp.46-7)。国ではいつももっと男らしくやれ、とけちをつけられていた五種競技の選手が、ある時海外遠征に出てしばらくぶりで帰ってきた。男はあちこちの国で勇名を馳せた、と大言壮語したが、ことにロドス島では、オリンピア競技者でさえ届かぬほどのジャンプをした。もしもロドスへ出かけることがあれば、競技場に居合わせた人が証人になってくれよう、というと、その場の一人が遮っていった。 「おい、そこの兄さん、それが本当なら、証人はいらない。ここがロドスだ、さあ跳んでみろ」 僕がこの話を引いた意図とは少し実はずれているのだが、アドラーがライフスタイルについて説明している次のような記述を思い出した(『個人心理学講義』p.98)。三人の異なるタイプの子どもたちをライオンの檻の前を連れていった。どの子どももライオンを見るのは初めてだった。 最初の少年はいった。「家へ帰ろう」。二人目の少年はいった。「なんてすてきなんだろう」。でも彼は実はこういった時震えていた。三人目の少年はこういった。「ライオンにつばをはきかけてもいい?」 もちろん、この少年はライオンが檻の中にいるからこそ、こんなことをいえたわけである。 また、別の話も思い出した。僕の本の中で引いた(『不幸の心理 幸福の哲学』p.35)コンラート・ローレンツの話。犬は、垣根に隔たれていて相手が決してこちらのなわばりに入ってこおないことを知っている時にだけ激しく吠え、互いを威嚇し合う。 空間的のみならず、時間的にも安全圏にいる人は何でもいうことができる。「もしも…なら」と。「もしも…ならば」は神経症者のドラマの主題である(『人はなぜ神経症になるのか』p.18)。
2006年01月14日
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「人生は限りのあるものであるが、生きるに値するものであるには十分長い」(アドラー『子どもの教育』p.174) 限りあることがわかっていても、死がどのようなものであっても、生き抜きたい。
2006年01月13日
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ずっと年末から集中的に書いていて、しかも月曜は2日、9日と休みだったので月曜に診療所に行くことなく、ようやく9日の振り替えにカウンセリングに行ってきた。5時すぎに診療所を終え、尼崎での保育士研修会へ。たくさんの人と会い、刺激的な一日だった。 自分が直面する課題にバランスよく取り組む必要について話した。このところワーカホリックな毎日が続いた僕は仕事が立て込んでいて、これができない、あれができないといってしまう。でも、アドラーならこういうのだ。これやあれをしないためにワーカホリックになっているのだ、と。 恋愛至上主義という言葉を使っていた人があったが、愛が人生のすべてではない。それなのに、そのように思ってすべてを愛に賭けているように見える人がある。 今の暮らしは仮のもので、これやあれが実現したらその時本当の人生が待っている、と考える人がいる。でも、この仮の人生しかないのであって、この生がすべてではないか。「ここがロドスだ、ここで跳べ」(ヘーゲル『法の哲学』序文)
2006年01月12日
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いよいよ診療所に行く日を明日にひかえ、しかも夜は研修などで生活を変えるべく、夜に十分寝ることに成功した。 娘の受験に京都府の証紙がいるので買いに行ってきた。ずいぶん遠くにあり片道30分もかかるとは大変、と思っていたら、娘が自転車の鍵を渡してくれた。おかげで快適に自転車で買いに行けたが、久しぶりの(今年二度目)外出は少しこたえた。それと手袋をはめるべきだったのだろう、帰ってから手の指が腫れ上がってしまい、しばらくキーボードを打てなかった。しかし、今年二度目の外出はなかなか気持ちよかった。 親は、子どもが自分でできること、あるいは、しなければならないことを肩代わりしてはいけないが、手出し口出しをしてしまうことはないだろうか。アドラーはこんなことをいっている。 人形のために帽子を縫い始めた三歳の女の子がいるとする。その様子を見て、なんてすてきな帽子だろう、といい、どうしたらさらにいいものにできるか提案すれば、少女は勇気づけられる。いよいよ努力し、技術を磨くだろう。 ところがこれに対して「針をおきなさい。怪我するから。あなたが帽子を作ることなんかないの。外に出かけて、もっといいのを買ってあげよう」といえば、彼女は努力を放棄するだろう。 違いは明白である。
2006年01月11日
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【仕事が立て込んでいて、コメントに返事ができていなくてすいません】 お前はだめだというようなことをいわれて、実際にそのとおりだと思ってしまう子どもは、そのことがアドラーがいうように生涯にわたる固定観念になってしまう。 アドラーは才能は遺伝ではないということ、子どもが自分に課した限界を取り除くことができることを自分自身の数学の事例を引きながら説明している(What life could mean to you, pp.146-7、『アドラーの生涯』p.23)。子どもが自分はできないと思っている時に、教師もまた同じように思っていたら、限界を取り除くことに成功しない。 教師が一見解けそうにない問題に立ち往生したことがあった。その時、アドラーだけが答えがわかった。この成功によって、アドラーの数学への心構えはすっかり変わってしまった。数学を楽しむようになり、能力を伸ばすためにあらゆる機会を捉えるようになった。この経験から、アドラーは、特別な才能や生まれついての能力が誤っていることがわかったといっている。 以上のようなことを考えて、才能や遺伝に影響を認めないアドラーが「誰でも何でもなしとげることができる」と主張するようになったことはよく理解できる(『個人心理学講義』p.168)。 ところがこのアドラーのモットーは批判されることになった。そこでアドラーは、これは文字通り解釈してはならず、問題のある子どもたちと関わっている時に教育者と治療者の間に楽観主義を植えつけようとしただけだ、と自ら弁護することになったのだが(『アドラーの生涯』p.175)、自らに限界を課することの弊害を思えば、アドラーが「誰でも何事でもなしとげる」と主張したことの意味はよくわかる。ただの無邪気な楽天主義とは違う。 数学が苦手な娘のアレクサンドラがアドラーからこんなふうにいわれた。試験を受けずに家に帰ってしまったのである。「どうしたんだ? 君は本当に誰もができるこんなばかばかしいことをできないと思っているのかい? やろうとしたらできるんだ」。アレクサンドラはわずかな期間で数学で一番になった(『アドラーの生涯』pp.108-9)。
2006年01月10日
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夕食後、疲れて横になったら熟睡したようだ。まわりが騒がしくなって、目が覚めた時、朝だと思った。今日から学校は新学期だったとぼんやり思っている。でも、いつまで経っても、家族が出かける気配がない。枕元に置いている携帯電話で時間を見たら1時半だった。 アドラーは楽観主義を吹き込むことが大切だといい、ウェルギリウスを引いている。「できると思うがゆえにできる」(『子どもの教育』p.80) もちろん、アドラーがここで意図していることは、精神主義の類いではない。僕がフルマラソンを完走しようと思ってみても、土台無理というものである。アドラーは、子どもが自らを過小評価する危険を説いているのである。そのような子どもは「もう追いつくことはできない」と信じてしまう。そして、このことが生涯にわたる固定観念になってしまって、決して進歩することなくその場に踏みとどまることになる(『子どもの教育』p.156)。しかし、実際には、追いつけないというのは本当ではなく、追いつけるのであるから、親や教師はそのような判断が誤っていることを指摘しなければならない。教師自身が子どもが自分に課した限界は動かせないと思っていたら、限界を取り除くことはできないだろう。
2006年01月09日
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今日は頑張ったのだが、夜、不調で食事をほとんどとれなかった。その後、原稿を書いているのに時折、夢の中で交わした話の続きを頭の中で続けていた。時間がいくらあっても足りない。さっきノートの端に「あと3日」と書いてみた。締切が後三日という意味ではないのだが、出かけないでずっと原稿を書いていられる日数である。 アドラーの書いたものを折りに触れて読み返すのだが、そのたびに発見がある。自分で訳したはずなのにすっかり忘れていることもある。 他者をどう見るかで対人関係のあり方は大きく変わってくるだろう。このことは、人と話す時、相手と目が合うかどうかというようなことからもわかる。アドラーは、大人の顔をまっすぐ見られない子どもは不信感を持っている、といっている(『子どもの教育』p.86)。これは悪意があるからというわけではなく、目をそらすことは、瞬時のことではあっても、自分を他の人と結びつけることを避けようとしていることを示しているのである。 子どもを呼んだ時に、どれくらい近くまでくるかということからも、子どもが他者をどう見ているかがわかる。多くの子どもは、ある距離を置いて立ち、まず状況をさぐり、必要があれば、近づくこともあれば、遠ざかることもある。 保育園や幼稚園などに講演に行くと玄関に入ってすぐに子どもたちが話しかけてくることがある。僕自身はその頃そんなことができなかったので、驚いたり、うらやましく思ったりする。
2006年01月08日
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朝まで原稿を書いていた。時折、窓を開けて外を見たが、天気予報でいったように雪が降る気配はなかった。ところが一瞬目を離した隙に雪は降り始め積ったようだ。写真はマンションのドアを開けて録ったもの。去年も今頃、雪の写真を撮ったことを思い出した。大雪の中、出かけているに違いない人の身を案じた。 双子の姉妹が出てくるドラマをテレビで数日前に見た。同じ女優が二役をこなしていたが、演じ方や服、化粧などで雰囲気が変わるのに驚いた。地味な姉は派手な妹を妬むのだが、どんなに妹になりきっても姉の心は満たされなかったのだろう。あんなに人になれたらいいなと思うことはあるけれど(もっと才能があればいいのに、などと思ってしまうのである)、僕はその理想とする人にはなれないけれど、その人だって僕にはなれないのである。この自分には誰も変わることはできないのだと思うと、こんな自分のこともいいかなと思う。
2006年01月07日
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朝からカウンセリング。今日は昼間に仕事をしようと頑張ったが、夕方力尽きた。 昼頃、娘が部屋にくる。風邪を引いたみたいなので、塾を休みたいという。ダイニングのテーブルで勉強している姿を午前中見かけたが、朝から食欲がないといっていたので気になっていた。自分の病気は自分で我慢するけれども、子どもの病気はなんとも辛い。食事を作ることだってできるが、食べられない、吐きそうという子どもには何もできなくて、幸い、夜には調子を取り戻したようだが。 親に甘やかされた子どもはparasitaer(英語だとparasitic)になるという表現をアドラーは使っている。子どもをパラサイト(parasite)にするわけである。この子は言葉の発達が遅いのですよ、という母親は、子どもの通訳を務める。子どもは自分では話さなくてもいい。親のエプソンの後ろにいつも隠れている。ここにいる限り、世界は安全だが、一歩外に出ると、甘やかされた子どもにとってそこは「敵国」である。愛情不足ではなく、今日問題なのは、親の側でいえば愛情過多、子どもの側でいえば、愛情飢餓がである。
2006年01月06日
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今年初めて外に出た。といっても、足りない食材を買いに行っただけだが。外に出た時、雪が降り始めていることに気づいたが、引き返さなかった。帰る時、傘を持って出なかったことを後悔した。 ちょうど今論文を書いている人と電話で話をした。もう書き始めよう、というところで話が一致した。調べ始めたらきりがないのである。どこかで線を引かないと、いつまでも書けない。今書いているものはベストではないかもしれないが、今書きうる最善のものである。 夜は仕事がはかどるが、気分転換をするとしても、時間が時間なのでおのずから制限がある。 年賀状がたくさん届く。年末に出されたと思うものばかり。今年もたくさんいただいた。再婚したという知らせ、大学への就職が決まったという知らせを読み、一年とはいえその間に起こった年賀状をくれた友人たちの大きな人生の変化のことを思った。
2006年01月05日
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今日からカウンセリング。4人でこられたので、僕の部屋は狭く感じられたかもしれない。一体、今年は何人の方とカウンセリングの場面で会うことになるのだろうか、といつも年初めに思う。可能な限り、早くカウンセリングを終えられたら、と思っている。 オーボエ奏者の宮本文昭が高校生と「風笛」を共演する様子をたまたまテレビで観た。来年の三月でオーボエ奏者であるのをやめるという。新しい夢をつかむためには、今の持っているものを手放さないといけないという意味のことを語っていたが、その決断には勇気がいると思ったが、「二足のわらじ」であってはいけないのかとも思った。 今日はこんなことを思っていた。『アドラー心理学入門』に書いた話。ある時、ニューヨークの医師会が、アドラーの教えだけを精神科治療に使うために採用したい、ただし医師にだけ教え、他の人には教えないという条件を提示した時、アドラーはその申し出を断わった(p.32)。「私の心理学は〔専門家だけのものではなくて〕すべての人のものだ」 講演やカウンセリングをしていて思うのは、哲学を研究していた時のように、仲間の前で、あるいは学会で話すのと違って、僕の話を聞かれる人のバックグラウンドは実にさまざまなので、誰にでもわかる言葉で話さないといけないということである。 ソクラテスは青年たちと哲学の議論をする時、特別な言葉を使ったわけではなく、日常的に使われる普通の言葉で語った。ソクラテスにとっては説得力があるとか、美辞麗句で飾られているということは問題にならなかった。ソクラテスの関心事はただ一つ、真実を語っているかどうかだけだった。「どうか言葉づかいのところは……あっさり見逃しておいてください。そしてただ私の言うことが、正しいかどうかどうかということだけに注意を向けて、それをよく考えてみてください」(『ソクラテスの弁明』18a) ソクラテスのような言葉で語りたいし書いてみたい。このことで扱われるテーマが簡単に理解できるかというと、また別問題ではなるけれども、言葉のレベルでつまづくような話であってはいけないだろう。 カウンセリングにこられた方が主治医が診察の際に使う言葉の意味をたずねられることがあって、こんなことを思った。
2006年01月04日
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昨日は、牛乳を温めて飲んだら急に眠くなって、予定していなかった時間に寝てしまった。そのまま朝まで眠れたらよかったのだが。ともあれ思ってもいない時間だったが、仕事が遅れることさえ考えなければ、眠れたのはよかった。去年、亡くなった恩師である森先生のエッセイに、眠れぬ夜に牛乳のカルシウムに鎮静作用があって、「酒の代わりにミルク」と思い立って飲んだ話をふいに思い出したのだ。プリントアウトした原稿を読み出したら、思うように書けてなくて、読むのがつらくなってしまって、もう今夜は寝てしまおうという思いを牛乳が正当化しただけかもしれない。 この三日一歩も外に出なかった。 子どもの頃、火鉢があって、その灰の中に祖父が牛乳瓶を何本かいれて温めていた。おいしかったのだが、白いかたまりが喉にからみつくのがいやだった。でも、本当は、小学校に上がってから給食に出たミルクのことと記憶が混同しているかもしれない。小学生になった僕は、大きくなったら京大に行けよ、といつもいって僕を甘やかしていた祖父の期待を満たせるほど勉強ができなかった。毎日頭がくたくたになるほど考えて続けていても、思うように書けなくて、火鉢で温めた牛乳と僕に無邪気に期待をかけた祖父ことを思い出したような気がする。どんなにしても人の期待を満たそうとしてもできるわけはないのだから、この日記を書き終えたら、今日書ける分を書けるところまで書いて一日を終えよう。
2006年01月03日
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今日は父がきた。コンピュータが不調なので修理できるものか見てほしいと持ってきたのだが、ACアダプターを持ってこなかったので、とっくに放電してしまっているコンピュータを立ち上げることはできなかった。でも、アダプターを別便で送ってくればすむことで、いつかウィーンに行った時に、アダプターを入れるのを忘れ、あっという間にコンピュータが重い塊に化してしまったことを思えば何ということはない。前にあった時より元気がなかった。ハワイに行くと張り切っていたのに、医師の診断書がいるからだめかもしれないと弱気だった。暖かくなれば、また気分も変わってくるかもしれない。「こんなに長く生きるとは思わなかった」と父はいう。兄、妹を亡くし、妻まで亡くした父親の人生は一体どんなものだったのか。一時、同居したこともあったが、若い時の僕は父の力になれなかった。父と話せるようになって何年になるのだろう。遠くに住んでいるのであまり会えないのだが、穏やかに話せるようになったのはありがたいことだと思う。「古いことはよく覚えてるのだ」と実家の話をしてくれた。過日、近くを通りかかった。もう今はないと聞いていたので探しはしなかったが、父が住んでいたというだけで、地名には懐かしい響きがある。「僕も一度行ったことがあるよ」といってみたが、父は覚えていなかった。父に知らないといわれたら、自信がなくなってくる。しかし、父が描写する家の様子は僕の記憶にある家なのである。父と車で出かけたことがある。どこかのお寺で撮った僕の写真が残っている。僕は覚えてないのだが、どこのお寺だったのかたずねたいと思っているのに、会うと忘れてしまう。 新しい年の二日目が終わろうとしている。今日もずっとコンピュータに向かっている。
2006年01月02日
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今年の正月は常と変わらぬ一日として迎えることになった。寝る時間に向けて仕事がのってくるというのは問題で、寝ないといけない時間になっても少しも眠りがこない。 今年は年賀状を書けてない。賀状をたくさんいただいた。何年も音沙汰がなかった人から、日経に出た『アドラーの生涯』を見たと書いてあって嬉しかった。 息子と二人で夕食。全部、作ってくれた。僕は外食でもいいかな、と思ったのだが。では買い物に、というと、その必要はない、と冷蔵庫から必要なものを探してだしてきた。僕どころではないほど忙しいはずなのに嫌な顔はしない。僕は息子の歳の頃は勉強を理由に料理を作ったことはなかったように思う。恥ずかしい話だが。 同じ言葉をかけてもそれをどう受けとめるかは相手次第で、何でも自分の都合のよいようにしか受け取らない人に対しては、話すのをやめてしまおうかと思ってしまうことがある。甘やかされた子どもは、もしも親があなたが生きているだけでいいというようなことをいえば、本当に文字通り何もしなくていいのだと思ってしまうかもしれない。ある言葉を発する時、その意味についての正しい理解がなされるとこちらが想定する文脈を相手がまったく理解しない。人と話をしていても、カウンセリングをしていても、何かを書いても問題はここに集約されるように思う。
2006年01月01日
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