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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2011.04.17
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 日蓮は1222年の春、安房国小湊に生まれ、比叡山、高野山などで、修業を積んだ後、法華経にこそ仏教の神髄があるという信念を持ち、1253年に政治不安や天災に苦しむ社会を救おうとして鎌倉にやって来ました。

 邪教に惑わされている世間と邪教を許している幕府を強く批判しました。

 ”人物叢書 日蓮”(1990年12月新装版 吉川弘文館刊 大野 達之助著)を読みました。

 諸国を遊学して、数多くの経典や書物を学び、法華経こそが釈尊の真実の教え最高の経典であるとした日蓮の生涯を詳細に紹介しています。

 大野達之助さんは1909年生まれ、1935年に東京帝国大学文学部卒業、警察大学校教授、駒澤大学教授を歴任して1984年に没しました。

 日蓮は日蓮宗宗祖で、1282年の死後、皇室から、日蓮大菩薩(後光厳天皇1358年)と立正大師(大正天皇1922年)の諡号を追贈されました。

 父は三国大夫、貫名次郎重忠、母は梅菊とされ、幼名は善日麿と伝えられています。

 1233年に清澄寺の道善に入門、1238年に出家し、是生房蓮長の名を与えられました。

 1242年に比叡山へ遊学し、1245年に比叡山横川定光院に住みました。



 1253年4月28日朝、日の出に向かい南無妙法蓮華経と題目を唱え立教開宗し、正午に清澄寺持仏堂で初説法を行ったといいます。

 名を日蓮と改め天台宗の尊海より伝法灌頂を受け、1254年に清澄寺を退出して鎌倉に出て弘教を開始しました。

 1257年に鎌倉の大地震を体験し、実相寺で一切経を読誦し思索しました。

 1260年に『立正安国論』を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送りました。

 安国論建白の40日後、他宗の僧ら数千人により松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされましたが難を逃れ、その後ふたたび布教を行いました。

 1261年に幕府によって伊豆国伊東へ流罪となり、1264年に安房国小松原で念仏信仰者の地頭東条景信に襲われ、左腕と額を負傷し、門下の工藤吉隆と鏡忍房日隆を失いました。

 1268年に蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となりました。

 日蓮は、執権北条時宗、平左衛門尉頼綱、建長寺道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫りました。

 1271年に極楽寺良観の祈雨対決の敗北を指摘し、良観・念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴え、平左衛門尉頼綱により幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越龍ノ口刑場で処刑されかけるが免れましたが、評定の結果佐渡へ流罪となりました。

 流罪中の3年間に法華曼荼羅を完成させました。

 1274年に赦免となり、幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれ、「よも今年はすごし候はじ」と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する3度目の諌暁を行いました。



 1274年に蒙古襲来の文永の役があり、1281年に蒙古軍再襲来の弘安の役がありました。

 1282年に病を得て、波木井実長の勧めで実長の領地である常陸国へ湯治に向かうため身延を下山し、武蔵国池上宗仲邸へ到着し、池上氏が館の背後の山上に建立した一宇を開堂供養し、長栄山本門寺と命名しました。

 死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定め、10月13日辰の刻に、池上宗仲邸にて入滅しました。






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Last updated  2011.04.17 19:38:21
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