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最近読んでじんわり元気になった本『なんくるない』(よしもとばなな、新潮社)『熊野詣 三山信仰と文化』(五来重、講談社学術文庫)『男の民俗学1 職人編』(遠藤ケイ、小学館文庫)『「満たされない心」の心理学』(根本橘夫、洋泉社)『君に読む物語』(アーティストハウス)
2005.01.31
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家族で「東京都夢の島熱帯植物館」へ行く。入場は大人250円 小学生以下は無料と、なかなか良心的。2歳と5歳にはちと早かったかな?という感じであったが、熱帯と聞くだけで血が騒ぐ私には、ジャングルの空気をちょっと感じられたのは、良い癒やしになった。館内で、15分くらいのミニドキュメンタリー映画を放映していた。マダガスカル島についてのドキュメントだった。アフリカ大陸にへばりつくように浮かんでいる島国。イースター島、ガラパゴス島とならんで、いつか行ってみたい「夢の島」、なのだが、じつはよく知らなかった。映画によると、この島は私たちアジアと深いつながりがあるという。遠い昔、私たちの祖先が遠く海を渡って、この地にたどり着き、根付いたそうだ。なので、この島国にはアフリカ系、アジア系が混在している。農村部の風景は見慣れたアジアの田舎にどこか似ている。段々畑をつくり、稲作をする。もちをつく。アジアの祖先が伝えた文化がしっかりと残っているのだ。いいなあ。新天地を目指して海を渡る……なんて、想像するだけで、ワクワクする。たどり着いた先で、自分たちの文化を伝える、というのもいい。ああ、冒険、いいなあ。で、はたと思う。私も、ここに来たのは、海を渡るのと同じくらいの冒険じゃなかったろうか。ちょっと前の男女雇用均等法まで、女性の正社員としての採用はほとんどなかったような世界。女性は増えているけれど、まだまだ少数派だ。就職活動のとき、それらしい志望動機を並べたてたけど、ほんとうは……、「わたし、冒険がしたかったんです」知らない世界を知りたかった。見たことのない風景を見たかった。そうだった。すんなりうまくいくなんてちっとも思っていなかった。勇気を出して、ドキドキしながら飛び込んだのでした。大変になると分かってて子供を産んだのも、そう。子供を産むっていう冒険がしたかった。出産や子育て、子供がいる暮らしがどんなものか、ひたすら、知りたかった。ぜんぶ、好奇心と冒険心だったのでした。初めての土地なんだから、異端児でみそっかすで当たり前。切り開いて耕すのに時間と手間がかかって当たり前。いろーんな摩擦や衝突があって当たり前。冒険者ですもの。自分の世界を広くしたいなら、遠くへ行くこと。冒険者の心は、人類のDNAに刻み込まれているはず。どこへでも行こう。わがままに、やりたいように生きよう。自分が変わるのも、周りが変わるのも、おもしろい。まだまだ、行くわよん、遠くへ、いろんなところへ。その世界に自分が持ち込んだ異文化が、未来、スタンダードになってるかもしれないし、ね。
2005.01.30
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ふと気づいたら、カウンター、10万アクセスを超えていました。書いたり書かなかったりの拙い日記ですが、大台にのるとしみじみするものですね。1アクセス1円としたら、10万円かあ、なんて(ポイントかよ)。拙サイトに、おいでくださったみなさま、ほんとうにありがとうございます。これからも、どうぞよろしくお願いします。
2005.01.29
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保育園の帰りに、息子が「おんぶー」と言い出した。「ママはおけがしてるからダメ」と言っても、2歳児、聞きやしない。「おんぶ!おんぶ!おんぶ!……」の大騒ぎに根負けして、「ちょっとだけだよ」と、よっこらしょ、と、やっとこ背負った。『おんぶおばけ』という有名な怪談。夜道を歩いていると、赤ん坊に、「おんぶしてくれー」と声をかけられる。おんぶしてやると、歩いているうちに背中の赤ん坊が、どんどん、どんどん、重くなってきて、最後に石臼になってしまうってやつ。あの変な話、親になってみて意味が分かった。子供って、おんぶしていると、どんどんどんどん重くなるのだ。ホントに石臼になっちゃったんじゃないかと思って揺すると、スヤスヤ寝ていたりする。……あの昔話、ぜったい親が考えたにちがいない。「ねーねー、ままー、おともだち、いっぱいいたー」「よかったねー」「ねーねー、ままー、おもちゃであそんだー」「そおー、楽しかった?」「ねーねー、ままー」「なーに」……背中で上機嫌の息子は、私の髪を引っ張りながらいろいろお話ししていた。あーあ、重いよう、痛いよう。「ねーねー、ままー、みてー、おつきさまー」「あ、ほんとだねー」「ねーねー、ままー、おつきさま、ついてくるよー」「ほんとだねー」「ねーねー、ままー、おつきさま、あんよでついてくるよー」ふっと、ふしぎな気持ちになっる。私、なんだって会社の帰りに子供背負って夜道を歩いてるんだろうなぁ。この子はいったいだれだろう。わたしはいったいだれで、なにしているんだろう。いつかこの子が育って、少年になったり、男の人になったりしたとき、いま確かにここにいる、この重くてやわらかくてあったかい赤ん坊は、どこへ行っちゃうんだろう。いま歩いているお寺の前の細い道も、人生のなかでいまいる位置も、なにもかもが、ぜんぶ夢のなかのことのように思えてきた。ああ、そうだ、人生なんて、ぜんぶぜんぶ、夢みたいだ。未来は手をふれることができないし、過去はその瞬間消えていく。嘆くこともないし、有頂天になることもない。人生なんて、それほどのものでもない。ただもう、二度と逢えないそのときそのときを、大事に大事に。身のまわりのすべてを、大事に大事に。お寺の屋根の向こう、少しにじんだ丸い月がぽっかり浮かんでいた。月はほんとに、ゆうらゆらと、ついてきた。「人はみんな、道はたくさんあって自分で選ぶことができると思っている。選ぶ瞬間を夢見ている、と言ったほうが近いのかもしれない。私もそうだった。しかし今、知った。はっきりと言葉にして知ったのだ。決して運命的な意味ではなくて、道はいつも決まっている。毎日の呼吸が、まなざしが、繰り返す日々が自然と決めてしまうのだ。そして人によってはこうやって、気づくとまるで当然のことのように見知らぬ土地の屋根の水たまりの中で真冬に、カツ丼と共に夜空を見上げて寝ころがざるをえなくなる。ああ月がとてもきれい。」(よしもとばなな『満月』)
2005.01.28
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会社の先輩が社内報にちょっとコラムを書いたら、突然、地方の若い女性記者から、「会社を辞めようか悩んでいる。相談にのってほしい」という連絡があったという。その女性のことは全く知らないのだが、むげにするわけにも行かず、会うことにしたというが、彼女、なんと日本列島を半分以上縦断して、遠路はるばる訪ねてくるという。すごいパワーだ(なにかのついでかもしれないけど)。「奥さんには、何もないからって、必死で説得したよ。ああ、僕になにを聞きたいんだろう……」頭を抱えているので、「おもしろいこともあるものですねぇ」とあいづちを打ちながら、でも、彼女の気持ち、分からなくもないかも、と、おもう。うちの部署への異動を希望してるとか、待遇をどうにかしてほしいとか、そういうことを訴えに来るというわけではないとおもう。(そういうことなら、この人には頼まないよなあ、という、出世とかに背を向けた人だし、社内には他に窓口がある)最近やたら脳の本を読んでいるんだけど、女は男より、言葉を使って話したり書いたりしているときに快楽系のホルモンが出るらしい。コミュニケーションで癒やされるのだ。悩んだり行き詰まったりしたときに、とにかくだれかに話して、聞いてもらうだけで楽になる、というのがそれだとおもう。悩みの核心部分じゃなくてもいい、何気ない話でいいのだ。元気のないときには。で、「聞いてほしい」という思いが満たされないと、その思いがどんどんふくらんで、社内報の片隅の記事にピンときて飛んできてしまう……、というような、いっけん突拍子もない行動に出てしまうんじゃないだろうか。私も最近、ずいぶんいろんな人とメシを食い、酒を飲み、与太話をした。そしたら、ほんとに元気になってきた。北海道や九州に行かなくても、優しい人が周りにいるのは、幸いだ。どういう男が女にモテるのか、というのは人類の永遠のナゾだけど、どういう男(女でも)が女に好かれ愛されるのか、はわりと簡単だ。上手に話を聞けるひと。上手に話を聞く、というのは、・目を見て相づちを打って聞く・過剰でない適切なリアクションをする・共感する・説教・議論しない(女が感情的になっていても)・安心感がある(内容が他に漏れたりしない)といったところかな。男のひとは、わりと、人の話をうまく聞けない人が多いように思う。「なにか役立つことを言わなくては」「なにか力にならなくては」と勢い込んでしまい、妙に熱く語ったり、説教モードになったり「細かいことは報告しないでいいよ。君の裁量でやっていいから」と背を向けたり(女にはそう感じられる)……女性に愛される上司になるなんて、簡単だと思うけどなあ。ただ、話を聞いて共感すればいいんだから。(あらら、なんか羽富さんの楽天日記みたいになってきたなあ)
2005.01.27
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北の方は、大雪で大変らしい。新聞の東北の地方版を編集している親友が、大雪で降版が一時間早まったので、ごはんでも食べない?と連絡してきた。大雪のときは、翌朝配達が遅れるのを見越して、〆切が早まるのだ。わたしはもう退社し、家の近くまで来ていたので、品川で会った。「会社も、いろいろ変に歪んで攻撃的な人がいて気を遣うよね。人間、自分が不幸だったり、みじめだったりすると、刃が外に向かう人と、中に向かう人がいるよね」彼女が、アーユルヴェーダのことをおしえてくれた。心には、「ラジャス」「タマス」「サットヴァ」という3つの状態があるという。わたしは大学で東洋哲学の授業をとったことがあって、「サットヴァ」はなんとなくおぼえていたのだが。活動的になったり、イライラしたり激したりするのが、ラジャス。怠惰でぼんやり、やる気なくて、諦念的になるのが、タマス。両極の要素がバランスして、調和が取れている幸せな状態が、サットヴァ。なるほど。ちょっと、心理学でいうところの、躁とか鬱とかに似てる?わたしは、「ラジャス」な空気はきらいじゃないけど、そんなに得意でもないので、疲れて気後れしてしまって、「タマス」になっては、ボーッとしてしまう。いや、わたしだけじゃなく、そういう人は多いんじゃないだろうか。近代資本主義社会、競争社会では、ラジャスであるほうが効率良く、実績が出せるということで、つねにそうあることを求められる。でも、それはとても疲れることだ。うつになるのは防衛であり、回復や癒しのためでもあるとおもう。あえていうなら、ラジャスな幸福は、達成とか勝利、到達、情熱……かな。とても興奮するが、ポッと瞬間瞬間で消えてしまうもの。恋愛でいうなら、恋。タマスな幸福は、諦念とか追憶、懐古、沈鬱……。これも、もし恋愛でいうなら、愛のほうに近いようにおもう。やがて至る(至りたい)サットヴァは、そのむこう。静かで、穏やかで、優しくて、中心はほっこりと温かく。この愛は、慈愛? すべてを包み込む、広くて大きな愛……。「〆切が早まると、早く終わるからいいけど、時間におされて大変よ」苦笑する彼女のむこうに、ふと、大雪の風景が浮かぶ。わたしは駆け出しのころ、3冬、とても雪の多い地方で過ごしたことがある。しんしんと、夜通し静かに降り積もる雪。そして、家のなかのほっこりとした温かさ……。
2005.01.23
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仕事があり、二人を夫の実家へ預けた。朝、電話をかけると、娘が電話口で言った。「めぐね、きのう涙、ポロポロ出たんだよ」「え? どうして泣いたの?」「ママのおけががしんぱいだったからだよ。もう、なおった?」義母の話では、「ママがいたくてかわいそう」とずいぶん泣いていたんだという。かわいいなあ、やさしいなあ、と笑ってから、なんだか手を合わせたい気持ちになった。だって、自分のために泣いてくれる、こんな有り難いことはあるだろうか。子育て、子育てというけれど、まったく、どっちが育てられているんだろうなあ。
2005.01.22
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ケガのほう、抜糸をしたら、ずいぶん楽になった。腕もあがるようになってきた。まだつり革は無理だけど。ケガなんかしないほうがいいにきまっているけれど、自分のなかに、どこか「よくなっている」部分があるというのは、気持ちのいいものだ。【元気のツボ】心も体も、キズは治るようにできている。今朝は二人はずいぶん泣いた。上の子(5歳)は突然、「幼稚園までずっとアンヨで行く」と駄々をこね出し(きみの足じゃ、4,50分はかかるね)、下の子(2歳)は「保育園、行かないーっ!!」とストライキ。朝の忙しいさなかの二人のわがままぶりに、ダンナも怒るより、脱力して、呆けたようになってしまった。ニコニコご機嫌でいい子に出かけるときもあれば、こういう日もある。やたら甘えてくる日もある。ちびなりにストレスが貯まってたり、我慢していることが多くて情緒不安定なのかなあ。せめて2人の保育園が同じだと送り迎えも楽だし、きょうだいがいると安心なんだけど……待機児童がひきもきらないなかで、きょうだい同じ保育園に入るなんて至難のワザ。会社の先輩(共稼ぎ)は、3人の子が3人とも(1組は双子)保育園がバラバラになってしまい、市役所とがんがんやり合って、「市長への手紙」なんかでも訴えたりして、ついに一緒にしてもらったとか。2カ所にわたるだけでもこんなに大変なのに、3カ所なんて……。アンビリーバブルですな。「保育所の充実なんて、少子化対策にならない」と、さる高名な学者が主張していた。ほー、そうかい。会社に着いてしばらくして、夫から携帯にメールが来た。「朝はスマン。こっちはがんばっとるのに、二人そろってぐずるので、糸が切れてしまった……。二人とも嫌ならもうずっと一緒に行かないからっていったら、めぐがびっくりして、りょーのこと一生懸命なだめてた(涙)」【子育てのツボ】この国で、仕事しながら子育てするのは、修行だ。鍛錬しましょう
2005.01.21
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広尾の沖縄料理店で、半年ぶりに高校時代の親友たちに会った。もう20年来の(ゲゲッ、そんなになるのか)付きあいの彼女たち。このところの不調を打ち明けると、あっさりこう言ってくれた。「あなたがのように元気で精力のある人がこわれるなんて、それはもう、相当なことだって。がんばらなくていいんだってば!」どんなことがあっても、かわらず味方でいてくれる。昔の友人って、なんてありがたい存在だろう。つらいとき、昔の自分を知っている人に会いたくなるのはなぜだろう。とても安心できるのはなぜだろう。荒唐無稽な考察をしてみた。「資産」という言葉。あらゆる資産は、過去に属するものなんじゃないか。努力だったり、なにかの成功だったり、そういう積みかさねが形として残っているのだから、いま、資産はつまり、「過去」の結晶。たとえ、親からポンと受け継がれたものだとしても、親や祖父の時代のなにかが形になっているものだ。不動産や貯金に限らない。家族も友人も、なにかの権利も福祉も。いまの自分はすべて、過去でできている、といってもいい。古い友人たちとの心地良い関係は、過去にそれをつくり、そして積み重ねてきたから存在する。(って原因と結果の法則、みたいだなぁ)ダメだなあと思ったら、過去に会いに行くというのは、理にかなってる。うん。くぅー、沖縄の古酒は心にしみるぜ。【元気のツボ】ダメなときは、「昔」に会いに行こう
2005.01.20
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痛くて何もできず横になっていたとき、気をまぎらわすためにビデオの一気見をした。『白い巨塔』、唐沢と江口の「新」のほう。なんだかまだ心に余韻が残っている。(ちきしょー、いっぱい泣いちゃったぜ)前半部、主人公財前五郎が大学病院の第一外科助教授から教授になろうと燃えるような執念を燃やすさまには、最初はアホやなあと思ったが、いつしかすっかり感情移入。・・・後半、医療過誤訴訟になるあたりからは患者側を応援してしまったけど。『白い巨塔』には、命や医療の問題、人間の業や師弟愛など、実にいろいろな深いテーマが描かれている。それぞれについてあえて触れないけど、組織の様子にはちょっと既視感。どこか、うちの会社に似てるんだもん。まあ、ダメな組織というのは、どこもみんな似たりよったりなのかもしれない。人事あり、ポスト争いあり、嫉妬あり、情実あり、根回しあり、友情あり、戦略あり、もちろん仕事が評価される部分もあり。で、思う。きっと世の中、いたるところでみんなこんなふうに競争してて、財前のようにポストを狙って立ち回っているひとや、ほりえもんのように「稼ぐが勝ち」とガンガン稼いでいるひとがいっぱいいるんだろうなあ。でも、もちょっと考えてみると、私は医学部の教授になりたいと思ったことは一度もないし、「稼ぐが勝ち」とは、もっと思わないんだよね。みてるぶんには楽しいけどさ。そ。競争競争といったって、みんなそれぞれのゲームを、それぞれのフィールド(組織など)で、それぞれのルールでプレイしているだけ。ゲームには無数に種類があって、ルールもいろいろ。「○点を入れたら勝ち」というのもあれば、ドッジボールのように、「生き残ったら(逃げ切ったら)勝ち」というのもある。しりとりみたいに、「ん」のつく言葉を言ちゃったらダメ、とかね(笑)。仲のいい上司に言われた。「君も僕も、私立文系でしょ。全科目で勝負しようとしなくていいじゃん」好きで得意なゲームでプレイすればいい。なければ、探すか、つくっちゃうって手もある。プレイも、プレイ(勝負)から、プレイ(遊び)まで、いろいろあるしね。いつのまにか、『白い巨塔』からずれてしまったぞ。まあ、組織って、アホなルールがあったり登場人物たちがキャラ立ちしていたりするほど、観察しているぶんには、おもしろくてエキサイティングなんだよね。
2005.01.17
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先日、怪我をしてしまって、しばらく腕が上げられなかったが、ようやく痛みがゆるんできたところ。リハビリも兼ねて、キーボードに向かっている。今朝の読売新聞の読書欄。沢木耕太郎の『視えない共和国』についてのコラムが載っていた。表題作は与那国島についてのルポルタージュだ。島は沖縄の果て、日本のドンヅマリ。でも、意識の上で国境線を取り去ってみると、世界への入り口になるのだ、という。コラム子は綴る。「ドンヅマリが世界の入り口。なんて発想だろう!」若いころ、自分自身が人生の行き詰まりにいるような気持ちがしていた時にこの本を読んだのだという。ドンヅマリが世界の入り口……。じっさい、私も、そんな気分になることがある。子育てをしながら仕事、というのは、ホント楽じゃない。仕事はいいが、それに子育てを追加すると人生は急にしんどくなる、というべきか。仕事はどんなに大変でも、おおむね自分のペースで進められるし、最大のリスクといっても、その仕事と、そこから得られる賃金を失うだけ。なくしたら、また探せばいい。別の人間の命と人生への責任を丸ごと抱え込んでいる、物理的なしんどさと精神的な重みは、比較にならない。てなこと、親になってみて初めて、知ったんですけどね。一昨日、デスクに言われた。「自分が選んだことだろう。嫌だったら、(会社を)辞めればいいってことだ」……嫌なら辞めろ、か。たぶん、大勢のワーキングマザーの人たちは、職場やいろいろなところで、たくさん肩身の狭い思いをしていると思う。悔し涙を流すことも幾度となくあると思う。(子供がいると、早く帰れるからいいね)(ダンナがいるんでしょ、なにも仕事にしがみつかなくたって)でも、一方で、いろいろなことに行き詰まっては落ち込む小さな弱い自分を、子供や子育ては、吹き飛ばしてしまうほど感動させ、世界をまったく違って見せてくれることがある。心を三段抜きで成長させてくれることがある。仕事世界をさえ、豊かにする。深めてくれる。その妙なること。――いろいろな気持ちを痛いほどに感じて味わって、飲み込んで、それで、涼しい顔で仕事するっていうのも、大事な修行のひとつかもしれないしね。読売新聞のコラムは、与那国島に残る老人の台詞で締めくくられていた。<この島がクガネ(黄金)の島だからさ>「『ドンヅマリ』でも『世界の入り口』のどちらでも、本当はいいのかもしれない。島をクガネ(黄金)と思うように、自分の居場所を大切に思えるのならば」
2005.01.16
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