清洲橋 元はケルンの吊り橋をまねしたものだが、現在は鋼鉄製で吊り橋ではありません。 優美な姿は残しています。
永代橋の ○○××× について (前回のブログ参)
なかなかコメントいただけませんでしたが、
車を運転する人はご存じの、これは、車線変動のマークなのです。
朝の通勤時間帯から夕刻手前までは、上り車線が3本下りが2本、
夕刻からは下りが3本になるようにセンターラインが移動するのです。
それを案内するために、走っていい車線の上に○がでるのです。
実際に走っていると、夕刻の時間帯は、3車線目(中央の車線)は、
「間違って反対から走ってくる車があるのでは」という心配もあって
とても勇気が必要で、あまり利用されていません。
朝の上りには効果がありますが、夕刻はあまり効果がないように思います。
下りが渋滞を起こしたときには効果があるのかもしれませんが。
寄り道しましたが、清洲橋側から 芭蕉庵史跡展望庭園
へ行きます。
ここでは万年橋を渡らないといけません。
江戸時代には、万年橋は木製の太鼓橋です。(広重の江戸百景に描かれる)
※ そしてここは、小名木川という運河の入口です。
徳川家康が1590年ごろに小名木四郎兵衛に命令し、開削させた運河
だと、ウィキペディアに載っています。
運河の両側で水面の高さが異なるので、この1Kmくらい先の扇橋閘門で、
船が入るとスエズ運河のように水面の高さを変えるのです。
ちょっと珍しいとこです。一度船で、閘門のところに行かなくっちゃ。
おやおやまたも脱線だ。
橋を渡ると芭蕉庵跡。現在は芭蕉稲荷になっています。
この近所ではあるけど、ホントにこの場所だったのかどうか不詳です。
(奥の細道に行く前に人に譲ってしまった)
芭蕉がここに住んだ頃は、このあたりは葦の生えた湿地帯だったそうです。
当時、隅田川下流、大橋(現在の両国橋)しかなくて相当不便だったようです。
なので、隅田川に掛かる2番目の橋・新大橋ができたときは、
芭蕉が大変喜んで句を詠んだそうです。
この新大橋も、広重の江戸百景に描かれています。
芭蕉・広重・ゴッホに愛された「新大橋」 (江戸・深川)
http://plaza.rakuten.co.jp/lovingEuropeTrip/diary/200505250000/
この裏手に 芭蕉庵史跡展望庭園 があります。
階段を上ると、正面で、芭蕉が我々を迎えてくれます。
休日だったので、結構遠方からの観光客の方がまったりしています。
猫の額のような小さな庭園ですが、芭蕉のことが少しだけわかります。
この芭蕉が動くの? と、00分になるまで待っていました。
動きませんでした!
実は、動く時間はもっと後でした。
※ この庭園は17時で閉園して、その15分後に隅田川向きに回転して、
夕刻からはライトアップされるのだそうです。
今度見に行かないと。
ふと見ると、
隅田川に不思議なものが。
ヒミコ です。
松本零士のデザインした、隅田川ラインの船だ。
浅草と豊洲を結んでいる。
逆光でうまく写らない。なんとも斬新なデザインだ。
この展望庭園からは、清洲橋と新大橋が両方見られます。
この近くには、芭蕉記念館という 博物館があります。以前に行ったことがあるし、散歩がメインなので寄らなかった。
隅田川テラスはまだまだつづきますが、ここで離脱します。ここから 清澄庭園脇の清澄公園を抜けて、最後の目的地へ行きます。
深川芭蕉庵を引き払った芭蕉は、ここ、彩茶庵から千住~奥の細道へと旅立ちます。
彩茶庵は、この座像があるだけです。
※※ この日5/16は、「旅の日」だそうです。
1689年の5月16日(旧暦3月27日)のこの日、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅のため河合曾良を伴い、彩茶庵(弟子の庵)を出発したことから、
昭和63年日本旅のペンクラブが制定した記念日。
行く春や 鳥啼魚の 目は泪
東北・北陸のこの旅は、全行程約2400km。
奥の細道は大垣までの行程。芭蕉は1691年に江戸へ帰還した。
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