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東武鉄道 8000系:秩父直通特急「ちちぶ」特急「ちちぶ」と言えば、真っ先に西武鉄道のレッドアローを思い浮かべると思いますが、東武東上線から秩父鉄道に直通で乗り入れていた特急列車に「ちちぶ」の愛称を使用しているものがありました。昭和51年7月31日 撮影場所不明 東武8000系 特急「ちちぶ」東武東上線から秩父鉄道への直通乗り入れ列車は、西武鉄道からの同様の例として定番だと思っていたのですが、記事によると東武からの乗り入れは平成4年3月に廃止されてしまったらしいですね。写真は、中学生になったばかりの頃、電車で長瀞辺りに行ったとき、長瀞もしくは途中の交換駅で撮影したものと思われます。鉄道ファン誌の写真はきれいに写っており、晩年のヘッドマークも大変見易い中ぶりのきれいなものが装着されていますが、この写真では列車種別ホルダ(急行とか準急とかの札を入れるホルダ)をそのまま利用した非常に小さいヘッドマークであり、目を細めないと何が書いてあるかも判らないくらいです。8000系の2代目塗装として誕生した頃のセイジクリームと相まって、観光が栄えた古き良き時代の1コマでした。
2023.12.31
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20系寝台客車:急行「十和田」「十和田」は、上野~青森を結んでいた急行列車。線路容量の関係と思われますが、青森への夜行は常磐線経由の方が運転本数が多く、寝台特急「ゆうづる」が5往復運転されている中、これを補完する夜行急行「十和田」でさえも季節列車を含めて5往復設定されていました。(後に「ゆうづる」は「十和田」を格上げして7往復まで成長。)昭和50年代初頭までは、「十和田」は5往復とも旧型客車により組成されており、編成は寝台重点のものや座席重点のものなど多様に設定されています。昭和51年、24系25形100番台が登場するようになると、20系客車淘汰が急加速的に早まり、急行列車にも20系客車が充当されるようになります。そして、昭和52年9月、「あさかぜ」「瀬戸」及び新大阪~下関を結ぶ寝台特急「安芸」に25形100番台が投入されると、ここで捻出された20系客車が急行「十和田2号」に充当されることになりました。資料によれば、20系客車を使用した急行列車としては「銀河」「天の川」「新星」に続き4例目となるようです。上記3列車は寝台専用急行であったため、編成をそのまま充当されましたが、「十和田」の場合は寝台専用列車ではなかったため、ナロネ21を座席改造したナハ21が編成中3両連結され、旅客の便を図りました。20系誕生以来、座席車を寝台化したことはありましたが、寝台車を座席化した初めての例となりました。EF80に牽引され上野駅20番線に到着した20系「十和田」 カヤ211号車に連結されたナハ21のサボ最後部のナハネフ22写真は昭和52年~53年初頭頃、上野駅にて撮影したものです。「銀河」の登場時と同様に、テールマークは「急行」でした。資料を調べたところ、「十和田」が20系寝台客車で運転されていた期間は意外に長く、昭和52年10~昭和57年11月(上越新幹線開業)でした。その後20系客車はそのまま「津軽」に転用され、「十和田」は12系座席車化されています。旧型客車:急行「十和田4号」(回送)
2023.12.30
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185系:特急「水上」上野~水上間の優等列車の歴史を見ると、それまで準急であった「奥利根」が昭和41年に急行列車に格上げ、昭和43年に急行「ゆけむり」に名称が変更されています。昭和57年11月、上越新幹線が大宮暫定開業となり、185系を使用した列車が新特急「谷川」として運転を始め、急行「ゆけむり」は上越新幹線上野開業となる昭和60年3月に全て新特急「谷川」に吸収されます。JR化後もしばらくはこのまま推移しますが、平成9年、上越新幹線に「たにがわ」として名称を譲ることになり、新特急「水上」という愛称が誕生することになります。さらに平成14年、新特急の種別廃止により、特急「水上」となりました。平成20年8月22日 水上駅構内にて 特急「水上5号」こうした列車はそれまで殆ど撮ったことがなかったですが、デジカメを購入したことで撮る機会が増えました。平成22年1月16日 特急「水上1号」「水上」は、臨時を除き全て「草津」と併結運転となっており、上野口の特急列車としてはもっとも長い14連での運転となっていました。※以前は単独の編成があった模様。平成22年1月23日 特急「水上2号」・「草津2号」この頃からスカートの形状が変更された車両が登場します。あまり興味を持っていませんでしたが、旧スカート形状としては最後に撮影した「水上」です。平成22年9月26日 特急「水上2号」・「草津2号」185系に湘南色の塗装変更車が誕生し、「水上」にも充当されるようになります。この頃になると、旧スカート装備車は姿を消したようです。平成22年10月3日 特急「水上4号」・「草津4号」こちらも湘南色を含んだ編成です。次のダイヤ改正で「水上」の臨時化が発表されたため、結構撮りに行っていたようです。平成22年12月11日 特急「水上1号」・「草津1号」平成22年12月改正において、乗車率が良くないことを理由として、土休のみ運転する臨時列車に格下げされました。しかし、ここ地元では運行形態は全く同じで、土休のみ「水上」が表示され、平日は「草津」を表示して新前橋まで併結される14連は変わりませんでした。平成23年2月6日 特急「水上3号」・「草津3号」OMの185系は、冬場になると連結器にカバーがかけられるのが特徴です。平成24年2月、その利用の悪さから土休運転もなくなり、多客期のみの運転となります。これに合わせて「草津」との併結運転も解消され、14連の姿を見ることも出来なくなってしまいました。651系:臨時特急「水上」185系:新特急「谷川」
2023.12.29
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東京都交通局 上野懸垂電車(上野動物園モノレール):普通乗車券上野動物園モノレールの番外編として、普通乗車券をご紹介したいと思います。令和元年11月に購入した、西園から東園ゆきの小児用普通乗車券です。上野動物園モノレールでは、自動改札はもとより、ICカードのシステムも導入されていないことから、1区間のみで磁気もない、白色のロールペーパーが使用されていました。地紋もありません。発行日付は、西暦の下二桁のみの印字となっています。券売機の写真をうっかり撮り忘れてしまったのですが、1区間のみのためボタン数に大幅な余裕があり、大人・小人の組み合わせが様々で、小人3枚のようなレアなボタンも設定されています。この辺りは動物園内の乗り物としての特徴が強い設定ですね。こちらは、昭和50年11月に発行された小人専用の普通乗車券です。この時代は硬券であり、口座が少ないためか、大人用と小人用がそれぞれ用意されていたようです。この時代、都市部では殆どが金額式になっていたと記憶していますが、さすがに1区間だけのため、それぞれの停車場名が表示されています。裏面に表示されている「め」は循環番号(記号)と思われます。場所が場所だけに、小人需要が相当大きかった筈で、おそらくは、全国で一番小人の発行割合が高かった鉄道だと思います。停車場名が「東園・西園」ではなく、「本園・分園」となっていたのも時代を感じさせます。おまけに、スタンプ帳です。A5サイズ3連で、A4サイズ分だけスキャニングしてみました。本当は東園の乗車券も購入するつもりでいたのですが、乗車券を購入してから行列する西園に対し、東園は行列の途中に券売機が存在するため40分も並ばないと買えない状態で、せっかちな私はこれに耐えることは無理と判断し、敢え無く購入を断念しました。
2023.12.28
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東京都交通局 上野懸垂電車(上野動物園モノレール):40形(後編)前編からの続きです。日本初のモノレールとして昭和32年に誕生した上野懸垂線。地方鉄道法(鉄道事業法)に基づく、れっきとした鉄道です。模索的に開業したまま延伸もされることなく、以来60年も動物園の乗り物として日本唯一の「上野懸垂式」として親しまれてきましたが、令和元年10月31日をもって運行が休止(ラストラン)されることになり、撮影に行ってきました。※撮影は、令和元年10月27日です。東園駅 訪問した時は40分待ちの行列が短くなることはなかったラストランイベントとしてモックアップが設置された東園の進入 この先に小さなSカーブが存在する「ありがとう40形」のさよならヘッドマーク東園駅 車庫・検修庫を兼ねた設備が整っており 少しの間はこの画が見られるようだ西園方向に帰りがてら 名残の撮影西園駅 撮り忘れの1発 電車が居る光景はもう撮れないかも遠くからさらに名残の撮影 柵に座ろうと思ったらその部分に柵が無くてコケる失態不忍池から結局1往復して、帰りも弁天門から。調べてみると、過去も車両の更新が必要になる度に存続の危機を経験してきたようで、また今回もという感じがしないでもないですが、昔と違ってコストの割高感はハンパではなく、今度ばかりは・・・という気もします。車両だけでも18億。その他、電気設備も大掛かりな改修が必要となるらしいです。動物園でだけ見ることができた夢の乗り物。もうそんな時代ではなくなってしまいましたかね。
2023.12.27
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107系100番台:上越線民営化以降、高崎地区のローカル運用で永らく活躍してきた107系電車。平成29年9月末にすべての定期運用から離脱し、平成29年10月7日のさよなら運転をもって完全に撤退することになりました。昭和63年、急行形の165系の機器を流用して製造された近郊型の車両で、台車や冷房装置に種車の面影を色濃く残していました。先に誕生し、平成25年3月ダイヤ改正をもって運用を離脱した日光線用の107系0番台から4年半で後を追う形で形式消滅となります。撮影日未調査平成2年8月26日 八木原~群馬総社間にて平成6年2月13日 渋川~敷島間にていずれも上越線を行く2連で、需要の少ない上越線では2両編成が多く見られました。平成6年2月13日 渋川~敷島間にて上の写真と同日。マミヤC33の標準で撮影したために被写体が遠く、プリントからのスキャンなので画像が不鮮明です。雪景色の上越線を行く107系4連です。107系は101~105までが0番台と同様の窓配置ですが、106以降は扉間3枚でかなり趣きが異なります。この写真は前期と後期をそれぞれ連結しています。撮った枚数が少ないためか前期車の写真がこれしか見当たらないようでした。平成23年5月3日 群馬総社~八木原間にてこちらは「DD51重連レトロみなかみ」の撮影アングルを探していた際に来たもの。準備していなかったので構図が良くなく、結局はこれが最後のショットとなってしまいました。JRになってから誕生した107系ですが、デザインも思想も国鉄そのものといった車両でした。107系0番台:日光線107系100番台:両毛線
2023.12.26
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711系交流電車:函館本線(オリジナル塗装時代)711系は、函館本線の電化事業とあわせ、徹底した耐寒耐雪機能を考慮して開発された北海道内初の国鉄電車です。国内における在来線営業車初の交流専用であり、新性能車における1M方式としても初の量産車となりました。昭和55年3月14日 函館本線 銭函~張碓間にて量産車としては昭和43年から製作されました。711系には0番台、50番台、100番台があり、詳細は覚えていませんが、外観上では100番台以降が電動サボを装備しているので、側面から容易に区別することができます。また、50番台までが両栓構造(前向きにも後向きにも自在に連結できる)であるのに対し、クハ711-100番台は向きが固定され、反対向きのクハ711は200番台として区別されるようになっています。昭和55年3月 札幌駅にて 711系 急行「かむい」車両構造が、極寒地の気候を考慮した内地で言うところの急行形と同じスタイルであるため、普通列車を基本としながらも急行列車にも多用され、「かむい」を初め、札幌~旭川間をノンストップで結んだ「さちかぜ」でも活躍しました。昭和56年3月11日 白石~厚別間にて除雪した雪が線路間に山のように盛られていて、足回りが見えません。真っ白な景色の中なので、旧塗装の交流色の赤がアクセントになりますね。昭和56年3月11日 白石~厚別間にて 711系100番台初めて写真でみたときは、交直両用型のローズピンクとはまた一線を画す濃い赤色(交流色)で、当時このスタイルではまだ珍しかった小さく鋭い目のシールドビーム。そして、デザイン案の検討とかなされたのか疑問を持ってしまうような大雑把な全面警戒色と、どれをとっても厳つい不気味な電車に見えました。当時地元で見慣れていた115系や165・455系の目の大きいお茶目な顔とは違った異質の車両に見えました。何時の頃からか、京成電鉄にも似たファイアーレッドの塗装に変更され、通勤対応試作としてクハ711を3扉に改造したものも誕生しています。当初は不気味な感じのした711系ですが、こうしてみると、やはり誕生したときのデザインというのは吟味されていたんだろうな、と思えるほど交流色が板に付いている感じがします。初の交流専用型電車、極寒地対策車としてその地位を確立し、初の交流特急形781系の礎ともなった711系ですが、老朽化と新性能車によるスピード運転格差が災いし、2015年3月13日の運転を最後に引退となりました。【新品】鉄道模型 1/150 711系0番台 3両セット(特別企画品) [10-1329]711系0番台 3両増結セット 特別企画品【KATO・10-1329】「鉄道模型 Nゲージ カトー」KATO Nゲージ 711系0番台 3両増結セット 鉄道模型 10-1329
2023.12.25
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JR貨物 ED7950番台:重連貨物列車ED79形交流電気機関車は、青函トンネル専用機関車として、国鉄時代末期に余剰となるED75700番台の改造により誕生しました。基本の0番台と補機専用に搭載機器を一部省略した100番台があり、民営化時には全てのED79がJR北海道に継承され、昭和63年3月、青函トンネルの開業時において貨物列車を含むすべての列車の牽引を行っていました。青函トンネルが開業してまもなく、貨物列車の増発により増備が行われることとなりますが、増備車全てが貨物列車牽引用名目となったためにJR貨物の発注となり、改造では無くED790番台をベースとした新製車として誕生しました。そして、これらは50番台の区分が与えられ、平成元年~2年に掛けて10両が誕生しています。その後、老朽化したED75の置き換えを目的としてEH500が誕生し、東北地区のED75を淘汰するとともに、青函トンネルのスルー運転も実施されるようになると、ED79牽引の貨物列車も徐々に運用をなくしていきました。平成24年3月13日 ED7955ほか牽引 99レ 青森信~油川間にて写真は、下調べもせずに撮影に行き、偶然に捉えることのできたED79牽引の貨物列車です。後で調べてみますと、この時点でも既に定期2往復程度しか残っていなかったようで、日中に撮影することのできる列車もこの1本くらいしかなかったようです。本当にラッキーでした。青函トンネル開業後、北海道へは6度ほど行っていましたが、殆どがC623や道東・道央を絡めた撮影であったため、海峡線や江差線では1度も撮影したことがありませんでした。また、トンネル通過には「はつかり」か「北斗星」、「はまなす」と言った列車しか乗ったことが無く、快速「海峡」ですら写真に収めたことがありません。そんなこともあって、貨物列車の撮影もこの回が最初で最後となってしまいました。北海道新幹線開業に備えたEH800が徐々に完成し、ある程度の両数が揃うと、習熟を兼ねて定期運用に入るようになりました。そして、平成27年3月ダイヤ改正においていよいよ定期運用から離脱となり、特にイベントが行われるような様子もなく、静かにその生涯を終えることになってしまいました。誕生からわずか25年程度。近年の電気機関車としては非常に短命でした。
2023.12.24
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旧型客車:急行「十和田4号」(回送)小学生の時に撮った写真から。昭和48年頃 西川口~蕨間にて 急行「十和田4号」回送我が家の近所の線路沿いで撮影したもので、まだカメラを買ったばかりの頃と思われます。小西六のサクラパックでした。旧型客車によって組成された夜行急行列車で、この時代としては極自然なスタイルの編成です。EF15牽引の貨物列車にカブられてしまい、編成の全体像は見えませんが、後部からスハフ+スロ+オロネの順番となっています。記憶からも東大宮送りの「十和田」であることは判明しており、詳細に調べたところ、グリーン車及び寝台車が連結されているのは上り1号・3号・4号で、このうち荷物・郵便車を連結しないのは「十和田4号」のみであるため、直ぐに区別ができました。上り1号・3号は定期列車であるため、荷物・郵便車も連結されていますが、不定期(季節列車)には荷物・郵便車を連結しないのがセオリーでした。この時代は西側線路沿いに水路が残っており、正面の住友セメントの敷地をかすめて蕨駅の方まで抜けていました。現在は埋め立てにより道路となっており、一方通行ですが蕨駅の方まで抜けられるようになって、面影は全くありません。目前に「電話」があり、画的には非常に邪魔ですが、当時はモバイルなどありませんから、トランシーバーかこの電話が連絡手段として必須となっており、おそらくは数百メートル置きくらいに設置されていたんでしょうね。
2023.12.23
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キハ82901:特急「おおぞら」先般アップいたしました『キハ82系:特急「おおぞら」(その1)』で、キロ80形を先頭車化改造したキハ82900番台が連結されている写真をご紹介いたしましたので、やや詳細にご紹介したいと思います。キハ81系「はつかり」として誕生した初期80系のうち、グリーン車(1等車)のキロ81-1と-5をそれぞれキハ82-901と-902としています。ドアの無い側の車体を切り落とし、キハ82と同様の運転室及び発電エンジン用機械室を切り継いで改造されましたが、客室側はグリーン車のままの窓割りで存置したため、他のキハ82とは違い、小窓がズラリと並んでいるのが最大の特徴です。さらに、改造後先頭寄りとなるAU12クーラー2機分を撤去し、このスペースに無理矢理収まる1機を載せたため、半切れ状態のような中途半端な形状のAU12が搭載されています。また、細かい点ですが、行き先サボ受けがトイレ窓上にある初期型タイプのままとなっている点も他のキハ82には無い特徴です。(2次型以降は、客ドアの直ぐ上横にあります。)クーラーの設置方法やサボ受けの位置については、キハ82の初期車に形態が酷似していると言えます。昭和56年3月11日 大麻~厚別間にて 上り函館行き特急「おおぞら」2回目に訪問した北海道。1回目の時は殆ど走行写真を撮ることが出来なかったのですが、それを教訓にして、2度目の渡道では駅間撮影を行うことが出来ました。偶然にも900番台(キハ82901)を撮影できたもので、非常に喜びました。このような改造900番台というのは非常に希少種で、滅多に逢えるもんではありませんでしたから。残念なことといえば、ネガフィルムがあまりシャープになってくれていないので、番号までは判読できないことですね。鉄道ピクトリアルの解説では、『先頭車化、普通車化して「まつかぜ」などに充てる』とされていますが、他の雑誌等で写真をみてみますと、私が小学生だった昭和46年頃、気動車特急時代の「いなほ」に充当されていたようでした。改造が昭和43年と45年ですから、「いなほ」が電車化されるまでは中間車として使用されていたのではないかと思います。キハ80系の中の珍車は、このほかにも中間車の格下車キハ80とキサシ80のキシ化によるそれぞれ900番台が存在していましたが、先頭車であるキハ82900番台は2両とも晩年を札幌運転所で過ごしており、この写真を撮った翌年の7月には廃車となって、その一生を最北の地で終えることになりました。親ブログでご紹介した際、サボ位置の関係から901号ではないか?というご指摘をいただきまして、確認することができました。KATO キハ82900 & 改造キハ82902キハ82系:特急「おおぞら」(その1)キハ82系:特急「おおぞら」(その2)キハ183系:特急「おおぞら」キハ183系900番台:特急「おおぞら」試作車誕生~試用運転
2023.12.22
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スマイルコーポレーション(観光バス):ZIPANGダイムラー今から遡ること10年前、都庁近くNSビルの前に停まっていた怪しげなカラー、怪しげな風貌のバス。カメラを持っていなかったので、ケータイで撮っていた写真があります。※撮影は、平成23年10月13日、新宿西新宿にて。DAIMLER40確か、撮影日とその前日で2日続けて同じ場所に止まっているのを見掛けています。とにかく、変な窓割なんですよね。やたら窓が小さくて、景色を眺めるには不便そうなデザインです。当時、初めて見るバスなので調べてみたのですが、情報はかなり少なめでした。有名な自動車メーカー「ダイムラー」(DAIMLER)の40という型式らしいです。なんでも、「ZIPANG(元中央観光)」という会社(大阪府)で導入したバスらしく、バスファンの間ではかなり名車らしいです。しかし、どうも「ZIPANG」というバス会社とは塗装も違いますし、「ZIPANG」という文字も見当たりませんので、全く別会社かもしれません。ちなみに、シャーシはU-LV771R (スーパークルーザー)で、ボディーは富士重工のようですね。ということで、10年経過し改めて調べたところ、どうもZIPANGから譲渡されたバスで、当時の所有者は野田市にある観光バス会社「スマイルコーポレーション」らしいということです。ここまで分かっても情報を出している人はごく少数で、この塗装のバスをアップしている人は2人くらいしか居ないようです。1991年が導入年らしいので、当時としてもかなり車歴が経過しています。さすがに同社のHPを見ても、この車両が見当たる筈がありません。
2023.12.21
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E231系山手線:東京駅開業100周年記念ラッピング※本記事は、2014-10-13に投稿したもので、当時の表現になっています。東京駅100周年記念イベントの一環として、東京駅のシンボル、丸の内駅舎のレンガがイメージしたラッピング編成が運行されました。プレス記事は以下のとおり。東京駅開業100 周年記念イベントについて○本年12月20日に東京駅は開業から100年を迎えます。開業以来、首都東京とともに歩み続けてきた東京駅は、歴史、伝統、文化、学術、ビジネス、先進性が融合した街(TokyoStation City)として、これからも魅力を高めてまいります。○JR東日本では、開業100 周年に合わせて、これまでのお客さまのご愛顧に感謝し、駅構内をはじめ様々な箇所で記念イベントを実施してまいりますのでご紹介します。この機会にぜひ東京駅へお立ち寄りください。~中略~4 山手線ラッピングトレイン・開業当時の東京駅と現在の東京駅の姿を並べ、赤レンガ色にラッピングした山手線が走ります。・さらに12月18日からは、車両内部に東京駅にまつわる過去から現在の写真等を展示して、100年の歴史を振り返ります。○運行期間 : 2014年10月11日(土)~2015年3月31日(火)うち2014年12月18日(木)~2015年1月1日(木) の期間、車内装飾も実施○編 成 : 山手線1編成11車両○イメージ : 別紙参照運転開始から2日目、最近はこの手の列車の画像を押さえないと気が済まない?衝動にかられ、ちょこっとお出掛けしてきました。いつも終盤に慌てて行き、運悪く撮り逃すケースもありましたので、今回は早めの対応です。※撮影は、平成26年10月12日です。以上、西日暮里駅にて 514編成 1152G側面も撮っておこうと思ったのですが、残念なことに外回りにカブられました。以上、田端~駒込間にて 514編成 1252G無難なところでこちらの公園から。ちょっとブレてしまったみたい。何故かな・・・不満です。以前のチョコ電の例があったためか、ちょっと明るい茶色?は何か落ち着かない印象です。
2023.12.20
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国鉄・JR貨物:EF651065(EF652065)令和5年12月4日、JR貨物のEF652060・2063・2065の3両が廃車のために回送されたそうです。既にEF65の全般検査が終了したと発表されているため、検査切れになったものは廃車となってしまいます。今回は、EF652065号機と、同機改番前1065号機時代の記録をご紹介したいと思います。まずは改番後の2065号機です。平成24年8月8日 4094レ平成26年4月20日 3070レ平成26年9月27日 3083レ1枚目の写真は改番直後くらいで、かなりキレイな状態です。令和2年2月20日 配8593レ平成29年10月の検査において、なんと国鉄色となって出場しました。2139号機に続いて2例目のカマでした。しかし、撮影できたのはこの時1回のみ。続いて改番前の1065号機です。平成22年7月18日 2071レ平成22年11月21日 2071レ平成22年12月4日 単3075レ平成22年12月19日 3075レ平成23年7月3日 4094レその後のJR貨物標準色となる塗装になっていた時代。平成21年1月17日 大宮駅にて大宮駅で偶然に撮っていたものですが、この時代はいわゆる3色塗装でした。しかし、この時点においても検査入場の際に順次塗り替えが始まっており、翌年には塗装更新によって3色塗装は消滅してしまいました。平成14年3月31日 梅小路機関区にてさらに遡って、立ち寄った梅小路機関車館を見学していた時、柵越しに見えたEF66100番台の実物を見たのが初めてであったために撮影したもので、EF66と並んでいたために写り込んでいたのが偶然にも国鉄色赤プレ時代の1065号機でした。昭和50年代前半に誕生し、国鉄色→試験塗装→国鉄赤プレ→3色塗装→2色標準塗装→国鉄色復活と、随分といろんな姿になったものですね。他には例のない程の変遷ですが、これも長生きあってのものだと思います。
2023.12.19
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EF58牽引 10系寝台客車:寝台急行「天の川」「天の川」は、上野~秋田間を結んでいた寝台急行列車です。昭和38年6月に上野~新潟間の急行として誕生し座席車が1両連結されていたようで、昭和47年3月改正で上野~秋田間の寝台急行となります。20系化される直前の編成は10系寝台で構成され、上野←ユ+ハネ+ロネ+ハネ+ハネ+ハネ+ハネ+ロネ+ハネ+ハネ+ハネ+ハネ→秋田 でした。郵便車及び秋田方の編成は新潟回転車となります。※新潟~秋田間は逆編成となっています。上野から秋田方面への夜行列車は多数設定されましたが、新潟~白新線を経由する上野発の夜行列車としては唯一の存在でした。昭和49年頃 蕨~西川口間にて10系寝台時代の急行「天の川」です。当時、上越型のEF58が牽引する全車寝台の急行列車は、「天の川」の他に「北陸2号」がありました。「天の川」がA寝台を基本と付属にそれぞれ1両ずつ連結しているのに対し、「北陸2号」は2両連続で連結し、さらにグリーン車も連結していた点で、外観からも容易に判別できます。春闘の派手なスローガンも昭和の風景ですね。当時はこんな車両が来るとガッカリしてしまったものですが、今となっては懐かしい記録です。こんな姿で運用に就いているところからすると、陽の高さもそれなりにありますので、昭和49年の春休みくらいかもしれません。
2023.12.18
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JR東日本 255系:大宮総合車両センターにて平成5年7月、陳腐化した国鉄時代の183系一辺倒であった房総特急へ新たな車両投入を目的として、255系が誕生しました。登場から40年、令和6年3月ダイヤ改正において、房総地区から撤退することが発表されました。後任には運用がダブついてきたE259系が充てられるということです。9両5編成の計45両のみ少数世帯。既に251系、253系も引退となっていることから、この機会の置換えもある意味順当と言えるところでしょう。特に好きな車両であった訳でもないので、あまり撮影する機会はありませんでした。列車別は後のご紹介として、今回はついでに撮ることができたものをご紹介したいと思います。平成20年5月24日 大宮鉄道ふれあいフェア2008いつもは電気機関車の展示がメインの屋外会場ですが、この年は何故か電車、しかも先頭車だけは並べられるという変わって展示方法となりました。平成28年3月5日 大宮駅にてこれは展示ではなく、通常の入場シーン。まだ回着したばかりだったのかもしれません。娘の卒業式出席の帰り掛けに見付けて撮影したもので、Be-01編成でした。平成28年5月28日 大宮鉄道ふれあいフェア2016同年のフェアの際に工場屋内で撮影したもので、正しくBe-01編成であると思われます。平成30年5月26日 大宮鉄道ふれあいフェア2018さらに2年後のフェアでまた入場していました。編成は不明です。塗装を剥がされての大掛かりな整備となりましたが、次の検査を受けることなく廃車になってしまうのも勿体ない感じがします。工場の入出場の際は地元の線路を通っているものと思われますが、昼間の良い時間帯にもかかわらず平日限定の為、走行シーンをキャッチすることはありませんでした。改正まではおそらく激パ現象が起きると思われますので、ハズレ鉄にならないようにご自愛ください。
2023.12.17
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DD51ディーゼル機関車:DD511805※本記事は、2018-06-01に投稿したもので、当時の表現になっています。平成30年5月下旬、JR貨物愛知機関区において最後の国鉄色となっていたDD511805とDD51835が解体線に送られたという情報が入ってきました。自分の世代からすれば、DD51と言えば国鉄ディーゼル機関車色が当たり前であり、JR化によって試験塗装やJR貨物色、或いは青色の更新色など、そうした塗装変更を切ない目で見てきました。それでも社の計らいで国鉄色を保存したり維持したりと、楽しませてもらって来ました。しかし、絶対数が無くなって行く中で、とうとうそれらの懐かしい姿も終わりを告げようとしています。平成21年5月23日 大宮車両所にて DD511805DD51のラストナンバーであった1805号機。元々は成田空港開港に伴うジェット燃料輸送を目的とした最終増備車のうちの1機でした。千葉方面へ写真を撮りに行っていた頃には未だ誕生していませんでしたので、この車両をリアルにキャッチしたことはありませんでした。時は流れ、JR貨物になって中京地区で活躍していました。そして、鉄道ふれあいフェスタで整備中の美しい姿を目にした情景は新鮮に残っており、まだまだ活躍しているものと思っていましたが、この情景を記録してから9年も経過していたことを知り、時の流れの速さを痛感しました。今後もDF200が進出し、残りのDD51を淘汰する日もそう遠くはないと思います。その中で、最後の国鉄色DD51が消滅してしまったことは非常に残念であり、国鉄という言葉すら色褪せて消滅しそうな時代を迎えてきました。DD511805昭和53年 3月23日 三菱製 佐倉機関区配置平成??年??月??日 転属 吹田機関区平成??年??月??日 転属 愛知機関区平成30年 5月??日 解体
2023.12.16
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秩父鉄道 300系:急行「秩父路」秩父鉄道の元祖急行形電車として活躍した300系をご紹介いたします。300系の誕生当初は2両編成で、後に中間車(T車)を追加製造、3両編成となっています。300系は急行用として2編成が在籍する少数派ですか、中でもサハ2両のうち1両がアルミ製となっており、秩父鉄道の車両としても異彩を放っていました。車体形状は同社の普通列車用の新性能車500形に酷似していますが、室内はクロスシートとなっており、また、ベンチレーターにも違いがあります。そして、500系ではヘッドライトが2灯化されたのに対し、300系は最後まで1灯のままでした。以下の写真は、東武熊谷線の撮影に行った際、熊谷駅で撮影したものです。※撮影は、全て昭和56年8月28日 秩父鉄道熊谷駅にて側線に停留中のデハ303編成アルミ製のサハ352出番に備えて待機中のデハ304+サハ352+デハ303(手前から)の3連。秩父鉄道では、急行専用車輌として300系を2編成配備していました。そのうち、この編成の中間車サハ352は、ローカル私鉄では珍しいアルミ製車体を用いていることで有名でした。デハ301こちらは、もう1編成ある300系(デハ302+サハ351+デハ301:奥から)の編成。朝方の下り急行の運用に就いていました。こちらの中間車サハ351は、他の車輌と同じく鋼製です。昭和34年に誕生した300系。この撮影時点で既に20年を経過しており、塗装から古さは感じましたが、決して時代遅れなデザインではなかったと思います。この写真の時代は旧塗装でしたが、旧国鉄101系転入の際、普通用の500系とともに黄色に塗色変更されました。(500系は茶色のライン、300系はブルーのライン。)しかし、塗装変更後の写真は撮っていませんでした。長きにわたり、秩父鉄道の看板急行列車として活躍してきた300系ですが、さすがに非冷房で有料急行列車としての看板は守りきれなかったのでしょうか、元国鉄165系改造の3000系に道を譲り、平成4年度をもって引退しています。
2023.12.15
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国鉄・JR貨物:EF651060(EF652060)令和5年12月4日、JR貨物のEF652060・2063・2065の3両が廃車のために回送されたそうです。既にEF65の全般検査が終了したと発表されているため、検査切れになったものは廃車となってしまいます。今回は、改番前のEF651060号機と、改番後の2060号機時代の記録をご紹介したいと思います。まずは改番前の1060号機です。平成20年11月22日 亀有駅にて EF651060+DE10最初に捉えた同機は、3色更新機でした。次位にはDE10が連結されています。平成22年5月22日 大宮車両所にて次に会ったのはおおみや公開にて。ピッカピカですが1000番台のままです。平成22年12月28日 EF651060 3075レ改番後の2060号機です。検査から半年ほどの間に2000番台化されました。平成26年6月21日 EF652060牽引 3070レ最後の記録はこちら。その後は地元のPFスジも配給だけとなってしまったため、出会う機会はなかったようです。
2023.12.14
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旅バス(ツアーバス):KIRAKIRA号(キラキラ号)平成20年を前後として、新宿で見ない日はないというくらい活況を見せていたKIRAKIRA号(キラキラ号)。真っ赤ボディに星マークが並んだド派手デザインが特徴で、新宿西口に別々のツアー車がそこかしこに往来していました。時は過ぎ、なんか見なくなったなと思っていたら、どうも会社が倒れたらしく、すっかり目にすることがなくなりました。※撮影は、平成19年2月7日、新宿区西新宿にて。KIRAKIRA-06同社では、車両が同じデザインでも「KIRAKIRA」の後にハイフンとナンバーが表示されており、番号の大きいものでは20番台もあったように記憶しています。こんなのが同じ時間帯にそこら中に停まっていたり走っていたりしました。側面を拡大して見ると、集客事業の母体となる株式会社ロータリーサービスのほか、ケーケーエアー、ホープツアー、キラキラツアー、HOTDOGなどの子会社も表示されており、手広く集客していたことが窺われます。バス自体は株式会社旅バスが所有・運行していたそうです。資金繰りの悪化でバス事業を手放すことになり、平成26年に桜交通(福島県)に港とされ、その後の規模は良く知りませんが、今でもこの塗装デザインは残っているようです。
2023.12.13
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キハ58系:急行「たかやま」高山本線の優等列車と言えば特急「ひだ」となりますが、かつては特急「ひだ」と名古屋鉄道からの乗り入れ特急「北アルプス」が1往復ずつしかなく、むしろメインは急行「のりくら」が多く設定されていました。また、観光シーズンには様々な臨時急行も運転されており、名古屋発をメインとしながらも、大阪発の定期急行列車も設定されていました。それが、急行「たかやま」です。古くはキハ55系なども使用されていたかもしれませんが、キハ58が主たる運用車両となっていたと思います。もちろん、国鉄時代は標準色となりますが、民営化後も急行列車としての設定が継承され、特に平成2年頃からはアコモ改造車も導入されるようになりました。平成6年12月12日 上枝~飛騨国府間にて キハ58系 急行「たかやま」こちらの写真は、『C56160牽引:快速「SL奥飛騨」(高山本線)』を撮影している際に偶然撮ったものです。当時は塗色変更を受けた車両には全く興味がなく、完全にノーマークでした。多分、カメラをセッティングしている最中に背後から襲われ、シャッターを切ったのではないかと思います。こんなアングルでありながらやたら遠くまで逸してしまったのは、フィルムを巻き上げていなかったからではないですかね。上の写真を切り取ってアップにしてみました。サービスサイズからのスキャンなので、見るに堪えないほど不鮮明ですが、原版は6×4.5判なので、ネガスキャンすればもう少し見られるようになるかもしれません。キハ58系でこんな塗装はないだろう、と言いつつも、目の前を行く急行「たかやま」を撮り損なったという気持ちは当時も強かったと思います。これもSLばかりに夢中になり、下調べを怠ったためとしか言いようがありません。4両と短編成化されつつもグリーン車まで連結しており、まだ急行の面目を保っていた頃でした。結局はこのあとに遠征する機会は無くなってしまい、気が付けば急行「たかやま」もキハ58系ごと消え去っていました。
2023.12.12
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C56160牽引:快速「SL奥飛騨」高山本線にC56160牽引の列車がが走るということで、この時はクルマで行ってきました。設定が非電化区間であり、やはりその辺りは出掛けるか出掛けないか判断の基準としては大きかったと思います。しかし、高山本線での設定は運転区間が非常に短く、1日2往復を設定してチャンスが多いとは言えど、撮影ポイントが限られてしまい、撮影枚数が多い割には面白みに欠ける構図となってしまいました。平成6年12月12日 上枝~飛騨国府間にて 快速「SL奥飛騨1号」友人たちに案内された撮影地で、この回の運転区間では唯一の山場となる場所らしいです。逆に言えば、その他はこれと言ったインパクトはない、と言うことでもあったようです。平成6年12月13日 上枝~飛騨国府間にて 快速「SL奥飛騨1号」基本は12系客車による運転でしたが、この日は1往復のみに旧型客車2両が充てられ、大きな変化がありました。1日目もあまり天気が良くなかったのですが、2日目はさらに悪天候でした。気圧の関係か、低い位置に煙がしっかり残るみょーな絵面となりました。平成6年12月13日 飛騨国府~上枝間にて 快速「SL奥飛騨2号」全ての運行において、返しはバック運転となりました。バック運転で旧型客車を牽くC56は絵になりましたが、日の丸バカが全てを台無しにしてくれました。平成6年12月13日 高山駅構内にて撮影を終えた後、帰り前に形式写真を。SLは小さめ撮ってしまうので、ヘッドマークを記念に。SL保存機を持たないJR東海ですので、このような運転では基本的にカマを借り入れることになりますが、SL運転の設備も持ち合わせていないことから、C56と言うカマは非常に扱いやすかった思います。その後もJR東海に呼ばれた実績が物語っています。しかし、C56160が営業線上からの引退となってしまったので、JR東海でのSL運転はなくなってしまうでしょう。
2023.12.11
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小田急電鉄 50000形VSE車:特急「スーパーはこね」小田急電鉄でかつてはフラッグシップロマンスカーとして君臨していたVSE。2005年デビューとまだまだ若い車齢ですが、2022年3月11日をもって定期運用から離脱していました。その後、イベント列車や企画列車として臨時運転されたものの、2023年9月に第2編成が引退、残る第一編成も12月10日を最後に引退となりました。平成20年1月26日 箱根板橋~風祭間にて 「スーパーはこね13号」500系「のぞみ」の撮影に行った際、復刻塗装のLSEを発見、これを追っ掛けて箱根登山鉄道まで行った際に撮影したVSE。小田急線に的を絞った撮影はしたことがなく、VSEもこの時が初遭遇だったと思います。平成20年1月26日 栢山~富水間にて 「スーパーはこね23号」同日、場所を移動して小田急線内で撮影。平成23年10月29日 喜多見駅にて 「スーパーはこね13号」平成23年12月27日 南新宿~参宮橋間にて 送込み回送平成24年1月26日 新宿~南新宿間にて 「スーパーはこね13号」平成30年2月17日 梅ヶ丘駅にて 送込み回送令和2年3月22日 新宿駅にて 「スーパーはこね11号」結構撮ったような気がしたのですが、集めてみたらそれほど多くはありませんでした。やはり編成数が少なく、「スーパーはこね」の運用も限定されていたこともあったようです。職場旅行がなくなってから、箱根に行く機会もまったくなくなってしまいましたので、LSEやこのVSEには一度も乗る機会には恵まれませんでした。小田急電鉄 50000形VSE:特別団体列車
2023.12.10
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165系:臨時急行「伊那路」昭和58年7月、それまで運転されていた飯田線豊橋口からの急行「伊那」が廃止されますが、平成4年に165系による臨時急行として復活。愛称は「伊那路」となりました。当時、淘汰が進んでいた165系による運転と言うのも話題になり、後年には往年の東海型ヘッドマークまで掲げられるようになります。平成6年12月10日 飯田線 東上~野田城 165系「伊那路」165系の老朽化、淘汰はさらに進み、平成8年3月の改正により特急化、急行列車としての短い役割を発展的解消により幕を閉じました。
2023.12.09
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189系:特急「あさま」「あさま」は、上野~長野・直江津を結んでいた特急列車。181系によって運転を開始しましたが、碓氷峠を通過するに当たり8両までという編成両数の制限がネックとなっていました。これを解消するため、165系電車によるEF63との協調運転の試験が実施され、その成果からまずは489系が落成、金沢行きの「白山」が誕生するとともに「あさま」にも使用されるようなりました。さらに、181系の老朽・置き換えを目的とした耐寒型の183系1000番代が誕生し、強調運転が可能な189系も順次投入され、特急「あさま」用の車両として活躍を始めます。昭和51年 上野駅にてもうちょっと早く写真を写真を撮り始めていれば、181系も記録に残っていた筈なんですけども。実は1枚だけ181系「あさま」の写真がありましたが、ネガも写真も紛失です。もっとも、小さ過ぎて判らないような写真でした。昭和52年 蕨~西川口間にて昭和53年10月改正までは文字マークで運転されていました。昭和53年8月 上野駅にて上野駅で181系「とき」と並ぶ189系「あさま」。日中は「あさま」が34分発、「とき」が38分発でしたので、このような並び風景は1日に何度も見ることが出来ました。昭和54年 南浦和~蕨間にて53・10改正の少し前辺りから、ヘッドマークはイラスト化されています。この頃から特急列車の写真を撮る意欲が失われてきました。昭和56年 蕨~西川口間にて昭和56年8月 蕨~南浦和昭和57年 上野駅にて昭和60年5月 北浦和~浦和間にて昭和57年11月改正からは489系が定期運用が撤退し、189系しか見られなくなります。国鉄色は堅持されていましたが、面白みのまったく無い列車でした。国鉄色で12両編成。面白みが無いなんて、現状からすると贅沢な話ですね。昭和60年11月4日 岡部~深谷間にて赤字による合理化策として、直流型特急電車の2パンタ→1パンタ化が実施されました。昭和62年4月5日民営化によりJRになった直後。写真では判りづらいですが、先頭車側面に{JR」マークが入りました。昭和63年12月23日 西川口~蕨間にて平成元年11月4日 軽井沢~横川間にて国鉄色時代に1度だけ訪れた碓氷峠。ろくな写真を撮っていませんでした。平成8年11月2日 御代田~追分間にて189系がグレードアップしてからは碓氷峠が廃止になる頃まで殆ど撮ったことがありませんでした。SL撮影の合間の写真で、偶然に撮っていました。
2023.12.08
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国鉄型電気機関車 EF15121:高崎第二機関区EF15型電気機関車シリーズで、今回は高崎第二機関区のEF15121です。昭和54年頃 西川口~蕨間にて 単機回送ブレてるしピンも怪しいし、なんとも・・・。昭和55年 川口駅にて EF15121牽引 貨物列車 レサ5000を連ねた貨物列車で、夕方に近い時間の下り列車と思われます。121号機は、スノープラウとホイッスルカバーの上越仕様となっています。後期型の中でも初期のカマになり、パンタグラフはPS15を搭載していますが、ナンバーはプレート型です。前面は黒Hゴムですが、側面はHゴム化されておらず美しい車体でした。EF15121 昭和29年12月10日 落成 東洋電機・汽車会社製 豊橋機関区新製配置昭和31年11月11日 稲沢第二機関区へ移動昭和38年12月12日 岡山機関区へ移動昭和44年 7月12日 東新潟機関区へ移動昭和54年12月12日 高崎第二機関区へ移動昭和56年 8月27日 廃車国鉄 EF15牽引 レサ5000:冷蔵貨車
2023.12.07
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国鉄 大隅線:垂水駅私が国鉄に入社した年、試用期間が終わり10月から全国パスの交付を受ける権利ができましたが、何と、1ヵ月半後の11月15日(57・11改正:上越新幹線大宮暫定開業日)をもって廃止されることになってしまったのです。これが目的で国鉄に入社したようなものだったのに何たる仕打ち。同期入社の年上の先輩と結託し、職場の先輩を説得して最初で最後のパス旅行決行。このときに立ち寄ったのが、九州の大隅線でした。昭和57年11月25日 国鉄大隅線 垂水駅大隅線に乗る目的で訪れたのではなく、鹿児島港から桜島を観光して反対側へ抜けた結果、辿り着いたのが大隅線の垂水駅でした。あまり記念写真など撮らない性分ですが、確か列車が行ってしまったばかりで、次まで2時間半くらい待たされたため、時間つぶし中にこんな写真を撮っていたんですね。合間には駅近くにあったパチンコ屋で時間を潰したり、入場券や乗り継ぎのための特急券を買ったりしてました。私(向かって左側)が何故か下を向いているときにシャッターが下りてしまったようです。当時爆発的に流行っていたデザインのスタジャンを着ています。ファッションに興味の無い私ですが、当時このスタジャンはお気に入りでした。そして、右側に立っている「Rio」の自動販売機。全然見なくなったデザインですが、調べましたら、相当前に倒産してしまったのか、この自販機自体は殆ど現存していないらしいです。今見るとメチャクチャにレトロに感じるデザイン、当時流行っていた「当たり」付きも懐かしいですね。「Rio」でどんなジュース類を扱っていたかすら、全く記憶に残っていません。こうした何気ない記念写真も、時代考証に一役買う存在になりつつあります。『キハ25:大隅線』
2023.12.06
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DD51牽引20系寝台客車:急行「だいせん」急行「だいせん」は、昭和43年10月の改正により誕生した急行列車で、昼行列車と夜行列車が存在しました。大阪から福知山線経由で山陰島根方面を結んでおり、行先は複数が存在しました。昭和53年10月改正より、それまで10系寝台・旧型客車の編成であった夜行列車が20系化されます。夜行の20系化当初は、大阪~出雲市間が急行運転で、普通列車となって大社線退社まで乗り入れていました。他の気動車列車は単行?程度のローカル線であるにもかかわらず、B寝台車のほかにA寝台車を座席改造したナハ21が3両連結(いずれも指定席)を連結した長い編成での運転となっていました。(ただし、大社線内は自由席。)昭和59年2月12日 大社駅にて DD511113牽引 急行「だいせん5号」終点大社駅は、昔から優等列車が乗り入れていたため長い有効長を持っていましたが、さすがにこの20系編成には対応できなかったようで、DD51が機回しされて出雲市方に連結されると、出発信号の確認できる位置まで編成を1両分程度押し込み、所定の位置で折り返し待機するという方法が採られていました。写真は、機回しが済み、所定の位置に後退停止後の折り返し出発待ちの様子です。夜行急行「だいせん」は、昭和61年11月改正から14系寝台+12系化されましたが、この際には編成が5両程度に短くなっています。さらに、平成11年10月からはエーデル車両により気動車化(2両編成)されてしまいました。そして、平成16年10月の改正により、山陰の老舗急行「だいせん」は姿を消すことになりました。
2023.12.05
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秩父鉄道:800系(元小田急1800形)秩父鉄道の800系電車は、元小田急から購入した1800形電車です。さらに元を辿ると、国鉄63系にまで遡ります。昭和54年、小田急電鉄において廃車となった1800形を秩父鉄道が22両を購入しています。入線に当たっては若干の整備・改造が実施されましたが、秩父鉄道の塗装となった以外は、特に大きな変化はありませんでした。昭和56年8月28日 秩父鉄道熊谷駅にて 側線で待機中のデハ801ほか4連秩父鉄道に入線してからまだそれほどの年数が経っていない頃ですね。特に興味があった車両という訳ではないですが、小田急時代に現役車を見たことが無かったので、新鮮さはあったかもしれません。その後、他車に合わせて黄色塗装化され、さらに平成元年くらいから元国鉄101系(現1000系)が入線したことにより、800系は全廃となっています。
2023.12.04
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東京都交通局 上野懸垂電車(上野動物園モノレール):40形(前編)令和元年10月31日をもって運転が休止となっていた上野モノレールですが、予定していた正式な廃止予定が前倒しとなり、令和5年12月27日をもって正式に廃止となり、解体が開始されると発表されました。廃止の要因は、老朽化による車両の更新や施設等の改修に掛かる費用が莫大な費用が掛かることによるものです。実は、このような状況は初めてではなく、平成11年にもありました。3代目となる30形が老朽化で更新が必要になった際、阪神淡路大震災の教訓に基づき実施された耐震診断で、橋脚の耐震補強も必要となったのです。この時、ちょっとだけですが仕事に関わったことがありました。車両だけでも当時1両で1億円超という概算に驚いたものです。さらに、耐震補強にもかなりの費用が掛かることが分かり、東京都交通局は廃止の方針を打ち出していたようです。しかし、上野動物園の看板でもあるモノレールを無くしたくなかったのでしょう。動物園を管理する東京都建設局が工事を実施し、運行を交通局が行うことで存続が決定したのです。車両の製造には宝くじの助成金を充てることも実現し、40形車両には「宝くじ号」のロゴが表示されています。そんな経歴に関わったモノレールですが、この40形が導入されてからは上野動物園には行ったことがなく、休止間近に撮影に行ってきました。枚数をそこそこ撮ってきましたので、2回に分けてアーカイブしたいと思います。※撮影は、令和元年10月27日です。西園駅から発車する40形。多分、東京スカイツリーが写し込める唯一の場所。ただし障害物が多くて画にならず。このアングルだけは都会的な雰囲気。周辺の樹が高いので、順光なのに陽当りが良くありませんね。多分、木が育って昔よりかなり大きくなってしまったんでしょうね。運行最後の日曜日ともあって、モノレールに乗車するために行列するお子様連れ、モノレールには乗らずにただひたすら写真を撮り続けるテツ達。思い思いに時間を過ごしていました。
2023.12.03
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小田急電鉄 50000形VSE:特別団体列車令和5年も12月を迎え、既に定期運用から撤退していた小田急電鉄の50000形VSEロマンスカーも完全引退間近となってきました。2編成のうち50002編成は既に引退しており、残る50001編成も12月10にラストランを迎えるそうです。こうした状況になると、どうしても沿線がオーバーツーリズムになるので、悪評名高い撮り鉄行為に混ざるのはいや。そんなことでもあり、もうVSEに会う機会など期待もしていませんでした。先日、行きたくもない町田への現場が組まれてしまい、しかも午後だけだったので、新宿を11時半頃出発して町田で昼食を摂ってから仕事、とういう段取りで出掛けました。この時間はちょうどロマンスカーの無い時間帯だったので何も気にせず新宿駅へ行ったのですが、何気にロマンスカーホームを覗いたところ、何とVSEが停まっていました。乗車予定の快速急行はまだ到着もしていなかったので、ホームを移動しながら記録してきました。※撮影は、令和5年11月30日、小田急新宿駅です。久し振りに再会したVSE。駅内の工事により喫茶店が消滅。壁に囲まれて撮りづらくなってしまいました。良く見てみると、ありがとうステッカーが。近くでもう1ショット。他には誰も撮っている人は居なかったのですが、私が撮影しているのに気付いた数名の女子たちが集まってきて、スマホで撮影を始めました。展望車の特徴である反位側に設置された乗務員扉。この先では、浮かれた10名ほどのテツたちが横断幕を持って記念撮影。乗客か?案内表示を見ていなかったので気が付きませんでしたが、側面サボには「特別団体専用」の表示が・・・。側面にも大きなありがとうステッカー。廃車間近な車両にありがちなボディーの劣化は全く見られません。なんだか勿体ない。まだ時間があったので先頭まで。残念ながらこちらもテールランプでした。撮影したときには気が付かなかったのですが、展望室には花束が・・・。何の団体か分からなかったので色々調べたのですが、この日のVSEを記録した記事を上げているが全く見当たりません。どうも小田急トラベルで貸切集客をしていたようで、これに応募した団体が運転させた列車だったようです。運転予定も発表されていないもののようで、平日ということもあり、撮影者もほとんど見掛けませんでした。この後、町田で昼食後の時間調整中に線路端で写真を撮っていたのですが、ロマンスカーを2本撮影後、もう何も来ないと思ってスマホをいじっていたところ、何とまたこのVSEが新宿方面を走ってきました。突然だったのでカメラを出す余裕もなく、この日の新宿駅が最後の記録となってしまいました、元々撮影できるチャンスなどないと思っていたので、ステッカー付の姿を記録することができ、ラッキーな最後となりました。
2023.12.02
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EF65500番台牽引:寝台特急「出雲」昭和47年に急行列車から格上げされ寝台特急となった「出雲」。今回はEF65500番台の姿をご紹介したいと思います。昭和50年頃 東京駅にて 発車を待つEF65527牽引「出雲」ポケットカメラでの撮影なので、構図・画像とも大荒れでスミマセン。多分、鉄道写真を始めて最初に見た「出雲」です。他では白や青を基調としたヘッドマークデザインが多い中で、鮮やかな赤をベースとしたヘッドマークが非常にカッコよく感じられました。昭和52年頃 東京機関区にて 夕方までお昼寝中のEF65507「出雲」東海道線か横須賀線電車の車内から覗いて撮った写真です。この位置にヘッドマーク付きの機関車が停まっていることは珍しかったと思います。しかも、早朝着夜間発の「出雲」は子供の頃にはGETし難い列車でしたので、非常にラッキーでした。昭和53年? 田町駅にて EF65507牽引 「出雲」「出雲」は18時過ぎに東京駅を発車しますので、夕方の走行写真を撮れるのは相当陽が高い時期限られます。したがって、おそらく夏休みに入って直ぐくらいだったのではないかと思います。当時、望遠レンズは持っていなかった筈なので、標準レンズに中古の3倍テレプラスなんかを付けて撮っていたような気がします。撮り慣れていないので、ピントが合っていませんね。東京駅では比較的早い時間に到着する「出雲」で、それほどではないにしても、蕨に住む私からしてみれば、撮るのは難しい列車でした。走行写真はこれだけではないかと思われます。「出雲」だけは、東京~京都~東京と即時で折り返してくる運用だったため、常に前後にヘッドマークを付けていました。よって、本運用でも回送でも普通に撮影できた唯一の特急でした。昭和53年9月 東京駅にて EF65512「出雲」東京駅に到着し、品川客車区へ回送のために機回し中のEF65512。平成21年5月23日 大宮総合車両センターにて昔からこんなにきれいに撮ることができればねぇ・・・14系寝台客車:寝台特急「出雲」24系24形・25形寝台客車:寝台特急「出雲」14系寝台客車:寝台特急「いなば」
2023.12.01
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