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475系:急行「立山」上野~北陸線経由~大阪を走破していた急行「北陸」が上野~福井間に短縮され、これにあわせて分離延長され誕生したのが急行「立山」です。当初は客車急行列車で、大阪~富山を結んでいました。昭和31年のことでした。昭和40年10月のダイヤ改正に際し、複数の名称があった北陸線急行のうち、大阪~富山を結ぶ急行列車が「立山」に統一されます。その後、糸魚川へまでの延長や、富山地方鉄道線宇奈月温泉までの乗り入れも実施されました。一時は隆盛を極めた北陸急行「立山」ですが、その後は改正を追うごとに特急「雷鳥」に格上げされ、本数を減らしてゆきます。昭和55年8月 山崎~神足(現長岡京)間にて 475系「立山」ナンバーは確認できませんが、パンタ部のファンデリアグリルの形状からして471系の可能性が高いですね。この時点までは、種別幕のところが生きており、原形を保っています。昭和58年4月15日 富山駅にて 475系「立山」こちらは既に末期の頃になります。種別幕のところに鉄板が充てられています。これは、トンネルのツララによる破損が多いための措置で、末期まで生き残っていた475系列の車両は全て施工されています。その後、急行「立山」は全て特急「雷鳥」に吸収され、臨時夜行列車のみの特異なスタイルとなりました。写真はありませんが、583系を使用していた記憶があります。さらに、その臨時運用も冷え込み、ご他聞に漏れず全廃となりました。475系:急行「ゆのくに」
2023.08.31
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国鉄 EF55型電気機関車:高崎線 オハニ36ほか旧型客車EF55が本線復活した翌年、EF55牽引列車として初めてオハニ3611が連結されたと思われる写真があります。※撮影は、昭和62年4月5日、高崎線 岡部~本庄間にて。2台のM645で、焦点距離違いで撮影した2カットです。12系客車を牽く姿は現役時代とあまりにもかけ離れていたため、初回運転同様に旧型客車を牽く機会に出掛けていったものと思われます。国鉄から今の会社に転職して最初の休日かと思われます。復活デビューの際はオハニ36が連結されていませんでしたので、この回の運転がオハニの復活後初めての営業運転だったかもしれません。(D51牽引の場合は不明)さらに、この回は後補機にEF641001を連結しています。老朽化で故障が不安視されたEF55の運転ではEF641001がサポートすることが殆どで、確か、EF641001が初めて茶色の白線入りで運用されたのがこの時では無かったかと記憶しています。全国的にも珍しい保存例であるオハニ3611の復活に喜ぶとともに、標準貨物色から有り得ない茶色塗装となったEF641001に度肝を抜かれ、ガックリきた記憶がよみがえります。
2023.08.30
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EF551牽引:快速「さよならEF55碓氷」平成21年2月をもって引退が発表されたEF551の記念運転が実施されました。快速「EL奥利根」に続き、第2弾として、快速「さよならEF55碓氷」が上野~横川間に設定されました。平成21年1月16日 大宮駅にて EF641001+EF551+12系 送り込み回送運転日前日の午後に送り込み回送が行われました。前週の第1弾快速「EL奥利根」と同じく、EF55はまたもや次動で正方向での回送となりました。この写真を撮るため、当日のお昼に体調不良になって仕事を休みました。新宿から湘南新宿ラインに乗って大宮駅へ。平日にも拘わらず、かなりの人出がありました。平成21年1月16日 北浦和駅にて大宮駅での10分間の運転停車を利用し、京浜東北線で北浦和駅まで逃げて撮影です。ギリギリ2分前の到着、間に合いました。逆光でEF55が目立たないのが勿体ない。平成21年1月17日 快速「さよならEF55碓氷」そして本運転の日。EF551が地元を通るのはこれで最後。さすがにいつもの「奥利根」以上にテツが集まりました。天気が良過ぎて思いっきりの逆光です。画面に補正を掛けましたが、キレイに映し出すことは出来ませんでした。せめて前回同様に光ってくれたのが救いです。この運転の翌日である平成21年1月18日、高崎~横川間に運転された「さよならEF55横川」号がラストランとなりました。その後整備の上、鉄道博物館に収蔵されたのは周知のとおりです。
2023.08.29
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総武流山電鉄:昭和の風景総武流山電鉄は、常磐線馬橋駅から本社のある流山駅を結ぶローカル私鉄です。平成20年8月からは「流鉄」に社名が変更されています。今回は、総武流山電鉄の昭和時代の風景をご紹介いたします。昭和48年頃 武蔵野線車内からまだ小学生で写真を撮り始めたばかりなので非常に写りが悪くて申し訳ないのですが、既にネガが無いためこれ以上の鮮明さは望めませんでした。線路の位置からして、武蔵野線発車直後に車窓から撮影したものと思われます。紛れも無く新松戸の駅前なんです。遠く馬橋方面には住宅が建ち並んでいますが、立ち入り禁止にしていたかのように、こちら側には家が殆ど建っていませ過去にん。過去に発売された鉄コレのような車両が走っており、その辺りが「幸谷駅」のあるところです。昭和56年5月 武蔵野線 新松戸駅ホームより昭和56年8月30日 武蔵野線 新松戸駅ホームよりタマタマなんですが、何故か常磐線の撮影(もしかしたら一筆書き乗車?)と駅(Station)号を撮りに行った際についでで撮影したものです。まるで定点撮影のようにほぼ同じ場所から撮影しています。3ヶ月のブランクがありますが、線路際で新しいビルの建築に入った様子が判りますね。少し離れたところには巨大なマンションも建っており、発展目ざましい様子が伝わってくると思います。昭和56年8月30日 小金城址~幸谷間にてこのときは、「駅(Station)号」を駅撮りではなく線路沿いから撮影したため、移動の際に撮影したものと思われます。何せ、この写真を撮った記憶すら残っていませんでした。フィルムスキャンの産物の画像です。上の高架線は武蔵野線で、最初の写真はこの上辺りを通ったときに撮影したようです。平成20年4月12日 武蔵野線 新松戸駅ホームより比較用の写真を撮っておきました。ホームの柵も背が高くなり、私の身長(180cm)でも背伸びをして手を垂直に上げてやっと撮れるような状態になっていました。駅前のロータリーは昔の写真を変わらないようですが、あまりにもビルが建ち並んでしまったため、遠くにあった巨大なマンションすら見えなくなってしまいました。手前にもビルが建ち、踏み切りも全貌が利かなくなって、非常に窮屈な風景になってしまいました。せっかく貴重な時代に訪問していながら、車両の写真をほとんど撮っていなかったのが非常に悔やまれます。
2023.08.28
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101系:南武線浜川崎支線JR東日本において、電化区間で最も車両の置換えが難しい南武線浜川崎支線。2両編成であるが故、長編成の多い管内路線では適当な車両が発生しづらい点で、国鉄時代から置換えが遅くなってしまう路線でした。過去ログ『旧型国電 クモハ11・クモハ12+クハ16:南武線浜川崎支線』でもご紹介いたしていますが、旧国時代は1M方式だったので問題なかったものの、やはり適当な車両の捻出は難しく、結果として使用されたのが101系でした。101系はMユニット2両単位になってしまいますが、登場当初から奇数偶数のどちらにもクモハが用意されていたため、ユニットの組替えによって2Mという過剰出力ながらもなんとか置換えを実施することができました。※撮影は、平成14年5月4日です。101系は20m級になりますので、ホームの延長が必要になったものと思われます。前回の旧国時代も昭和56年の写真ではホームが延長されていたことを今頃になって気が付きました。また、101系ではワンマン化も実施されました。交代当初はカナリア色だったと記憶していますが、後に路線カラーとなっています。浜川崎駅にて何回も訪れているので見慣れた風景ですが、101系を撮りに来たのはこの時が初めて。ワンマン化のため、ホームにはバックミラーが。そこには101系の表情が見えました。川崎新町駅にて浜川崎から次の川崎新町まで徒歩で移動。撮影の好適地は一切なし。写真を撮りようがないと言う感じ。仕方なく駅に入ってホームで撮影。この駅に来たのは生まれて初めてでした。しかし、変わった配線の駅ですね。八丁畷駅にて再び徒歩で八丁畷駅へ。この間も撮影できる場所は皆無。本当に難しい路線です。この駅は、京浜急行との乗換駅。12両編成・120km/hというスピードで下を通過する電鉄に対し、こちらは2両編成のローカル線。輸送力の差は歴然です。この駅も実は初めて来ました。場所が無いので、ホームの安全な位置から200mm×2(645判)で撮影。ビンが来てなかった・・・。103系化改造された101系を除けば、最後まで101系が残った路線としても有名でした。(私鉄譲渡車を除く)この後、他の路線と同様に、山手線等で余剰となった205系が各地で活躍することとなり、ここでも205系化されることになります。
2023.08.27
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JR東日本 HB-E300系:リゾートあすなろ編成南東北に新観光列車「SATONO」を導入リゾートあすなろ 最終運行(ツアー)JR東日本では、2010年に誕生したHB-E300系「「リゾートあすなろ」2両×2編成のうち1編成を改造し、新観光列車「SATONO」として導入することを発表しました。HB-E300系は今までに2両編成と4両編成が各3編成ずつ誕生し、このうちリゾートあすなろのみ2編成となっていました。この辺りの車両は特に興味をそそるものでもないので、今までにわざわざ地方まで撮影に行くこともありませんでした。もちろん、首都圏で見られる機会などないものでしたが、この「リゾートあすなろについては尾久車両センターの公開で上京したことがあり、その際に記録することができました。※撮影は、平成24年11月10日、尾久車両センターにて。HB-E300系 リゾートあすなろ編成「第12回 みんなあつまれ!ふれあい鉄道フェスティバル」が尾久車両センターで開催され、はるばる仙台から公開に駆け付けた「リゾートあすなろ」編成。元データを確認したところ、HB-E301-3+HB-E302-3の編成でした。こうしたことでもないとなかなか見ることのできないジョイフルトレイン。まだ新しいと思っていても、気が付けば登場から13年。令和5年8月、リニューアルのため「あすなろ」としての運転を終えたようです。
2023.08.26
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103系:京葉線京葉線は、開業当初に209系化によって余剰となった103系が使用されていました。新木場までの延伸、そして東京地下駅完成に伴う完全開業を迎え、205系の増備が実施されました。そして201系、さらには山手線のE231系化で余剰となった205系の転入などもあり、103系は終焉を迎えます。平成14年10月27日 葛西臨海公園駅にて京葉線の103系は既にかなり運用が少なくなっていたらしく、この1本しか撮ることができませんでした。京浜東北線沿線に住む私としては、昔からオリジナルのスカイブルーの103系を見て育ってきましたので、あの異様なスカートを履いている姿に非常に違和感があるのですが、それでも京浜東北線が209系化されて久しかったので、懐かしさが一気にこみ上げてきました。このとき既に遅しで、最初で最後の1枚となってしまいました。
2023.08.25
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EF81牽引20系寝台客車:臨時急行「あおもり」私が初めて知った急行「あおもり」は、名古屋から東京を経由して東北本線で青森へ行くという、当時としても奇抜な運転経路で走った列車というイメージです。Wikiに掲載される解説と矛盾しますが、運転期間のうち一部(運転初日?)が時刻表非掲載で上野経由となっており、高校時代に上野駅でアルバイトをしているときにも目撃した記憶があります。もしかしたら、局報で見たのかもしれません。或いは、中学時代にDJで見たことがあるのか、記憶が曖昧です。その後、日本海経由で正式に時刻表に掲載されるようになり、運転区間も大阪~日本海経由~青森で運転されています。晩年は583系が使用されていましたが、唯一私が撮影したのは20系客車を使用していた時代です。平成4年8月18日 八郎潟~鯉川間にてEF81が牽引する20系客車時代の臨時急行「あおもり」です。20系も上帯のない晩年時代です。おそらく、「日本海」が2往復化され、陳腐化した20系の活用を図るため設定されたと思われます。プリントからスキャンしたのであまり画像が良くありません。当時は風景重視の写真ばかり撮っていたので、列車写真としては使えない構図になってしまいましたね。もうちょっと線路に近いところから撮っておけば良かったと後悔します。
2023.08.24
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785系:特急「スーパーホワイトアロー」(登場当初)昭和50年7月18日ダイヤ改正において、道内初の電車特急「いしかり」が485系1500番台を使用して運転が開始されました。「いしかり」の運転区間は札幌~旭川間となっていましたが、昭和55年10月1日、千歳線・室蘭本線の白石~室蘭間の電化開業に合わせ、旭川~室蘭間を直通する特急「ライラック」へと発展していきます。その際、先行して誕生していた北海道の専用形式である781系900番台と量産車に形式も変更され、485系1500番台は北海道から撤退しています。昭和61年11月1日改正では、更なる利便性向上のために増便が実施され、速達タイプ特急列車が誕生します。この列車に付いた愛称が「ホワイトアロー」でした。なお、781系はすべてが6両編成で誕生しましたが、本数増に対応するため4両編成化され、不足する先頭車は中間車の先頭化改造により賄われました。そして、平成2年9月1日ダイヤ改正において、更にスピードアップを実現するために785系が導入され、愛称を「スーパーホワイトアロー」としてデビューすることになりました。平成2年9月8日 豊幌~上幌向間にて 785系「スーパーホワイトアロー」自分のクルマで渡道した際に撮影したもの。目的はED76500番台牽引の客車列車でしたが、合間に撮影することができたものです。運転開始当初は4両の基本編成と2両増結編成があり、4両又は6両編成で運転されていました。写真は4+2両の6両編成となっています。また、登場当初は着雪防止のための導風器が設置されておらず、非常にすっきりした表情です。その後、Uシート500番台の追加製造、新千歳空港へ直通運転などの変遷をたどりますが、平成19年10月1日に改正において789系「スーパーカムイ」へと移行し、781系「ホワイトアロー」及び785系「スーパーホワイトアロー」とも消滅することになりました。
2023.08.23
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DD51型ディーゼル機関車:A更新青塗装車DD51と言えば赤の標準塗装を思い浮かべる世代の人間ですが、JRになってから様々な試験塗装が実施され、また、延命更新に際して、従来とは異なる塗装を施された車両が多数存在します。首都圏ではDD51が牽引する貨物列車さえ平成の早いうちに消滅してしまったため、八高線のセメント輸送がなくなってしまった時点で撮影する機会もなくなりました。まして地元では昔からまず見られる型式でもありませんでしたし。私にとってA更新車の青塗装と言うDD51さえ雑誌の中の世界のカマであり、実物を見る機会などないものと撮影すら諦めていた車両ですが、消滅間近の時期になって、運良くその姿を見ることが出来ました。平成21年5月23日 大宮車両所にて DD51893稲沢第一機関区に新製配置され、その後昭和56年に直方、昭和60年稲沢、平成7年に愛知機関区に配置になった893号機。写真は大宮センター公開の際にちょうど入場していたようで、分解整備工事のシーンに出くわしました。完全な状態を記録できなかったのは非常に残念ですが、数日ずれていたら新塗装のピカピカな状態に変わっていたことでしょう。そういう意味で、青塗装である最後の姿に会えたことになります。A更新青塗装に遭遇したのは、これが初めてのことです。平成21年8月23日 四日市駅にて DD51889平成21年8月23日 富田浜~四日市 DD51889四日市に遠征に行った際、時間的に撮ることができる唯一の列車にちょうど青塗装車が充当されていました。到着列車と交換で出発して行ってしまったために1枚撮り損ねた感じですが、同じカマが戻ってくるのでなんとか捕捉できました。実際に動いている青更新を撮ることができた最初で最後のシーンです。青更新車は検査に入るごとに赤塗装に変わり、この後まもなく消滅することになります。7008-J KATO カトー DD51 後期 耐寒形 JR貨物A更新色 Nゲージ 鉄道模型 【10月予約】7008-J DD51 後期 耐寒形 JR貨物A更新色[KATO]《10月予約》[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 7008-J DD51 後期 耐寒形 JR貨物A更新色
2023.08.22
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国鉄貨車 ホキ2200形:ホッパー貨車ホキ2200形貨車は、国鉄時代の昭和41年に登場した粉粒体農産物を輸送するために登場した貨車です。ホキ2200の登場により、それまで穀物等の原材料輸送は袋詰めで行われていたようですが、効率性からバラ積みできるようになりました。積荷の比重が軽いことから建築限界をいっぱいに利用した卵型の断面となり、ホッパー内の温度上昇を防止するために塗装をクリーム色に、さらに遮熱板を取り付けた独特のスタイルとなっていました。主にビール用の大麦輸送などに使用され、その汎用性から全国各地で見ることができました。また、黒やとび色で占められる貨物列車の中でも、クリーム色の車体が大変良いアクセントとなっていました。ホキ2200は、KATOの中でもかなり昔に製品化されており、古参の貨車となっています。我が家の在庫には2種類のナンバーがあり、商品番号・ケース形状・インサートは全く同一ですが、左側がオホキ13008、右側がホキ12580となっています。現在の同社HPの見本がホキ12580であることから、左のオホキ13008が再生産前の車両であると思われます。台枠・手すりの色調は同一ですが、ホッパー本体の色味が違っており、以前の車両は色が抜けた感じで台枠その他の色調とズレがあります。ホキ2200に関しては車両延長が大きいため、「オホキ」の表記が正しいものであり、12580はエラー品となります。HPの見本もそのままであり、20年以上もこのエラーのまま放置されているのも酷いですね。昨今、この手のエラーに厳しい消費者ですが、この点について騒ぎになっていないのは不思議な気がします。ハンプから散転されるホキ2200私が居た大宮操車場おいても、見ない日は無いと言うくらいメジャーな貨車でした。1両単位で運用されているものもあれば、3~7両程度を従えているものなど、模型運転ではどのような組成でもバリエーションに違和感はありません。昭和56年3月13日 新得~落合間にて操車場ではバラバラに分解され再組成されますので、どんな編成に仕立ててもOKです。昭和60年8月25日 栗橋~古河間にて昭和60年10月頃 蓮田~東大宮間にて59・2貨物大合理化後は、ほぼ専用貨物のような編成になったようですので、こんなのも良いかもしれません。ここでちょっと豆知識・・・ホキ2200って、動き出すと鈴のような音が聞こえるのって知ってますか?ホキ2200は、TR211(←初期車はTR207から改造)というコロ軸受けの性能の良い台車を履いていました。貨車はその目的から、ドアやアオリ戸などの可動部分が多く、走行すると何かしら音を発します。ガタガタと。しかし、ホキ2200に関しては、人が歩くくらいのスピードでは、まったくと言って良いくらい、音がしないのです。その代わり、ゆっくり動き出すと「シャリ~~~~ン・・・・・シャリ~~~~・・・・」と聞こえてくるのです。ソリの鈴の音がゆっくりとなる感じをイメージしてください。このことに関しては、ネットで調べるも触れているものが見つかりません。なので想像になってしまいますが・・・台車性能が良く、しかもガタつく構造がないので、無音のまま低速で転動してしまっても気づきづらい。このことは、激突や脱線、死傷事故にも繋がり兼ねないため、車軸に何らかの音の出る装置を添架している。ということではないかと思います。確かに、夜の入れ替えでは他の番線の入れ替えが終わったとたん、静寂になります。この「シャリ~~~~ン・・・・・シャリ~~~~ン・・・・・」の音を頼りに仕事をしていたシーンは何回もありました。通常の運転速度だとこの音は聞こえなくなります。周りの貨車の音に掻き消されてか、遠心力がかかって鳴らなくなってしまう、と言った理由だと思います。まあ、今となっては検証のしようもありません。模型でも再現してみたいギミックですが、さすがに1/150の世界では無理でしょう。ともかく、模型で貨物列車を再現するなら、是非活用していただきたい貨車です。ちなみに、同類の私有貨車でホキ9800という貨車も結構見掛けました。キリンビールだったと思いますが、少し角張っていて、台車も古いタイプのものでした。鈴の音も聞こえなかったと思います。
2023.08.21
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旧型国電 身延線:クハ47クハ47形は、戦前を代表する近郊型電車で、2扉クロスシートを設備した車両です。2扉間に小窓がズラリと並ぶ壮観さが私好みです。クハ47は大きく分けると3つのグループがあります。1つは、モハ32系制御車として誕生したタイプ。クハ47自体は20m車両なんですが、相棒となる電動車はモハ32(後のクモハ14)で17mの車両です。このクハ47が20m級電車の始祖となり、この部類が0番台となっています。また、同時に製造されたサロ45、サハ48も20m級です。電動車であるモハ32だけが17mであったのは、モーターを積んだ分、車体重量が重く、剛性に影響があったため(つまり、車体が重さで反ってしまう)と言われています。2つ目は、モハ32系サハ48に運転台取付改造を施した50番台。製造の経緯は0番代と同様ですが、地方転出に当たって不足する先頭車を確保するために改造されたものです。3つ目は、モハ42系20m車を相方とする貫通型で、誕生当初はクハ58を名乗り、関西に配置されていたタイプ。その後クハ47に編入し、100番台となっていました。※レアなところだと、17m車の事故車両の台枠を20mに延長の上に2扉の新製車体を乗せたクハ47011というのが居り、こちらは純正のクハ47ではありません。残念ながら、私は実物を見たことはありません。今回は私が撮影したクハ47のうち、身延線で撮影したものをご紹介いたします。昭和56年8月21日 西富士宮駅構内にて クハ47003こちらは基本番台の003。小窓がズラリと並ぶ壮観さ、たまらんです。正面の雨どいは改造されてカマボコ型になっていますが、直線のままの原形のものが数両居たようです。残念ながら写真には残っていなかったようです。昭和56年7月23日 身延線 鰍沢口~落居間にて クハ47007こちらは形態からクハ47007のようです。上の写真は正面窓が全部木製の桟のままですが、こちらの車両は3つともHゴム化されているので、相当印象が変わります。この辺りは好みの問題ですが・・・。それにしてもこのリベットの数はすごいですね。どんだけ~付いているのでしょうか?昭和56年8月21日 身延線 富士駅にて クハ47051こちらは中間付随車サハ48を改造した50番台の051。全く同じような運転台を取り付けたので、一見して基本番代との区別は難しいです。正面から見ると、新設運転台にはリベットがありませんので、比較的簡単に識別できます。こんなところにも時代の技術の差が現れているんですね。身延線にはモハ42系の100番台も居たのですが、どうも写真が見つかりません。個人的は、短足なイメージのある32系より、正面に貫通路の付いた100番台の方が好みです。身延線のクハ47は、飯田線の同形式よりもバリエーションも車両数自体も多く、旧車研究では恰好な路線だったと思うのですが、私が初めて訪れたときには既に115系のワインレッド車も運用が始まっており、どうも撮りきれなかったようです。何といっても圧巻は、2扉間オールロングシートのクハ47ではないでかと思いますが、私はあまり好きにはなれなかった車両です(笑)。
2023.08.20
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165系:東海道本線 普通列車東海道の普通列車と言えば、111系や113系といった平坦線区用の近郊型が思い浮かんでしまいますが、静岡~名古屋地区においては80系による普通列車が昭和52年くらいまで大勢を占めていたようで、私自身も乗車した記憶があります。新性能化により都落ちした111系の非冷房車に置き換えられ、さらに冷房化の推進にあたって余剰となった急行型車両によるローカル運用へと移行していきました。大垣区辺りには山陽地区や京阪神で余剰となった153系に加え、修学旅行で使用されなくなった155系といった非冷房タイプの車両が集められ、新快速色を含めた様々な車両が混結で名古屋~米原辺りの普通列車に使用されていたようです。『153系:新快速色の普通列車』国鉄末期からJR化された頃、東海地区では遅くまで急行列車が残っており、これの関係か静岡地区を中心として165系で組成された普通列車が運転されていたようです。平成6年8月20日 金谷~島田間にて 165系4連 普通列車結婚して間もない頃、ある意味この時代くらいから極端に鉄道写真を撮る機会が少なくなった頃です。ただでさえ東海道地区で普通列車の写真を撮る機会はありませんでしたので、たった1枚だけですが良く撮っていたな、という165系普通列車の写真です。モハユニットを含む4連で、おそらくは神領辺りに居た中央西線や飯田線などで急行列車に使用されていたものと思われます。直流急行型の活躍も最晩年となっており、その後次々とJR車両が誕生するに連れ、直流急行型は急速に姿を消していきました。113系:東海道本線 普通列車JR東日本 211系:東海道本線(東京口)E217系:東海道本線 普通列車
2023.08.19
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キハ58系:急行「丹後」今回は、山陰急行「丹後」です。昭和50年代、まだ山陰本線はオール非電化であり、この路線が電化されるなど想像も付かなかった時代です。しかし、幹線であったことに違いはなく、京都口では特急「あさしお」を始めとする優等列車でにぎわっていました。もちろん、急行列車も多数が健在であり、特急列車よりも多くが設定され、観光地への足が確保されていました。しかし、個人的なところでは、この京都の日本海側の地域に土地勘が無く、列車の行先も複雑怪奇で今もって良く理解できていないのが実情です。そんなこともあって、特に行先が難解な急行「丹後」については、列車名として小学生時代から知っていたものの、説明を避けたい列車なんです。昭和55年8月 京都駅にて キハ58系 急行「丹後」京都発の急行では「丹後」が定期で4往復設定されていました。同じくグリーン車連結の優等列車で「白兎」がありましたが、編成順序から「丹後」であることが判ります。昭和50年代半ばでもあり、さすがにこの地域では冷房化が完了しているようです。現在は駅舎も大きく変わってしまいましたが、配線自体はあまり変化がなさそうです。しかし、京都口は電化が完成してから既に久しくなり、発着する車両は大きく変わってしまいました。
2023.08.18
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489系・185系OM08編成:「ホームライナー古河」東北本線で運転されていた元祖「ホームライナー」の発展形であった「ホームライナー古河」が2014年3月のダイヤ改正で廃止されることになりました。私にとってはまったく縁のない列車ですが、帰宅が遅くなったとき、乗り継ぎの赤羽駅でしばしば出会っていました。平成22年2月18日 赤羽駅にて 「ホームライナー古河3号」平成22年度までは489系ボンネット車、その後が新潟の485系が使用されていましいたが、運用が変更され、最後は185系のみ下り2本となっていました。2本とも遅い時間であり、撮影する機会は殆どありませんでした。この日は運転最終日。運命を共にする「あけぼの」と合わせて夜の走行写真にトライしたものです。平成26年3月14日 185系OM08編成 「ホームライナー古河3号」真っ暗な状態ですので画面はザラザラですが、覚悟の上です。1/50秒の流し撮り、なんとかその姿を捉えることができました。最後を意識しての運用か、或いは偶然かわかりませんが、157系色のOM08編成が運用されました。昭和59年、全国に先駆けて運転された「ホームライナー」の名称が上野口から消滅しました。
2023.08.17
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EF8018牽引 20系客車:団体列車「駅station号」昭和56年、高倉健主演の映画「駅station」のキャンペーン企画で、20系の臨時列車が全国を走るというものがありました。後の「オリエント急行」みたいな企画でした。客車は特急運用の終焉を迎えていた20系であり、地域ごとに牽引する機関車が変わりましたので、かなり人気はあったようです。私は当時は高校生でしたので、全国を追いかけるほどの暇も金もありませんでした。よって、たまたまきっかけのあった時にのみ撮影でした。昭和56年8月30日 北小金~新松戸間にて EF8018牽引 「駅号」常磐線の直流区間は、客車はEF80、貨物はEF80かEF81という時代ですので、これも目新しいものではないのですが、「ゆうづる」は上野駅早朝の到着なため、EF80の牽くブルトレの走行写真を日中に撮れること自体には魅力がありました。しかも、この時代は東海道以外のブルトレにはヘッドマークがありませんでしたから、この区間では余計にカッコよく見えたものです。EF651096牽引 20系客車:団体列車「駅station号」
2023.08.16
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485系(国鉄時代):特急「にちりん」「にちりん」は、博多・小倉~日豊本線方面への都市間を結ぶ特急列車でした。50・3改正以前までは、東京方面からの寝台列車、関西方面からは寝台列車及び昼行の直通特急列車が多数設定されていたため、「にちりん」自体は九州内における都市間列車と定義付けて良いと思われます。新幹線が博多まで開業したことにより、それまで夜行列車に頼っていた体系も昼間完結型の輸送需要が大きくなったため、関西からの昼行列車の廃止とともに、新幹線からのアクセスとしての役割が大きくなっています。昭和50年代、使用車両は481系又は485系が主たる使用車両であり、後半に583系による間合い運用が登場するまでは、単一的な車両運用となっていました。昭和54年3月24日 別府にて 200番台貫通型 上り「にちりん」九州に初めて着地した日、最初に出会ったのは貫通型を使用した「にちりん」でした。長崎本線が電化した際、ボンネット型クロ481や貫通型の車両が大量に九州に流れ込みました。そんなこともあり、非貫通型の車両を1度も見なかったような気がします。53・10改正以降ですので、ヘッドマークもイラストとなっています。昭和54年3月25日 日豊本線大分駅にて昭和54年3月25日 日豊本線 列車内から九州内発着の特急列車はなんと言ってもボンネット型が主体でした。特に、北陸本線系から流れた初期の赤スカート車が多く存在しましたが、塗装合理化以降は赤ひげを消されるようになってしまい、なんともしまりのない顔になってしまいました。赤スカート車大好きの私にとっては、なんともやりきれないシチュエーションにガッカリしたものです。そして、国鉄の分割民営化準備に入ってきた頃、広域転配によりこれら赤スカ車を含むボンネット車が、勝田電車区に大挙してやってくることになるとは予想できませんでした。
2023.08.15
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Fw:KATO 455系「まつしま」「ばんだい」と旧製品457系KATOから発売された新製品455系「まつしま」「ばんだい」セットと旧製品457系に関する記事の続編をアップしました。続:KATO 455系「まつしま」「ばんだい」と旧製品457系
2023.08.14
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チキ80000形:コンテナ積載貨車 長物車チキ80000は、生石灰(せいせっかい)を輸送するために製造された用途を特定した貨車で、昭和51~55年に掛けて44両が製造されています。日本鋼管京浜製鉄所向けの生石灰輸送は、青梅線奥多摩駅や東武鉄道大叶駅から南武線浜川崎駅までホッパ車にて輸送が行われていましたが、京浜製鉄所が昭和51年に扇島へ移転した際に専用線が敷設されなかったため、浜川崎駅からトラックによる輸送体系とする必要があったことによるものです。外観や用途はコンテナ車そのものですが、車籍編入の条件のために特定コンテナの積載専用とする長物車に分類されたということです。これは、国鉄の私有貨車制度においてコンテナ車の私有を認めなかったこと及び運賃制度においてコンテナ車の扱いになると割高になるためであったそうです。そんな事情で製造されたチキ80000は、外見も他の貨車には見られない、不思議な風体の貨車に思えました。昭和55年11月2日 尻手駅にて EF15199牽引チキ青梅線から南武線を経由して浜川崎へと向かう、EF15199が牽引する貨物列車です。次位以降に連結されているのがチキ80000で、後部は何を連結しているのか判らないのが残念です。ED16が昭和58年くらいまで活躍していましたので、この頃でも当然ED16が牽いてきても良さそうですが、この列車は立川機関区のEF15となっていますので、もしかしたら東武大叶からの列車なのかもしれません。昭和58年3月20日 撮影場所不詳 ED168牽引 奥多摩工業チキ80004大宮操車場で貨車の入換を担当するようになり、やっと貨車への興味が出てきた頃です。大宮操車場でも稀に大宮工場入場のためにハンプに落ちてくることがあり、添乗したことがありました。しかし、最初の頃は、チキを名乗りながら車上に添乗するスタイルだし(通常は側面に添乗)、短いし、奇妙な貨車だと思っていたんですよね。工場入場においてはコンテナが外された状態で来てしまうので、それまで空車の姿を見たことのなかったチキ80000が、この写真と同一の貨車だとは思っていませんでした。さすがにこの写真を撮った頃にはその正体が判っており、やはり記録としてこのようなアングルで撮ったのではないかと思います。昭和61年3月17日 EF641020牽引 上り貨物列車こちらは分割民営化直前の青梅線です。ED16やEF15の姿は既に無く、貨物の大合理化で余剰となった新性能の電気機関車に置き換わりました。写真では浜川崎方に3両が連結されています。現在はフツーにコンテナが私有化されていますので、現在も続いていればおそらくコキ50000或いはコキ200のような車両で運転されていたのでしょうね。チキ80000は全車ともJR貨物に引き継がれましたが、その直後から廃車が始まってしまい、青梅線の貨物輸送廃止で完全に消滅してしまいました。新製が昭和51~55年ですから、最終新製車は8年程で廃車されてしまったようです。
2023.08.14
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485系:特急「雷鳥」(非貫通型)特急「雷鳥」は、昭和39年10月の改正において、東海道新幹線の開通とともに誕生した特急列車です。特急列車としては初となる、交直両用型の481系が使用された、当時としても画期的な列車でした。ここでの成功は、東北本線への電車特急の誕生、山陽から九州への乗り入れの速達化に貢献しました。登場当初からしばらくは481系初期車が使用されましたが、485系の誕生とともにシフトされ、金沢運転所の特急車両配置とともに489系も使用されるようになります。今回は、485系(489系)から非貫通型編成のご紹介です。昭和55年8月 京都駅にて 下り「雷鳥」昭和57年8月8日 富山駅にて 下り「雷鳥」この写真は富山駅を新潟方面に発車するところを撮ったものなので、新潟行きの「雷鳥」だったのでしょう。元々大阪~新潟を結んでいた特急は「北越」を名乗っており、昭和50年3月のダイヤ改正から、大阪発の北陸特急は行先に違わず「雷鳥」を名乗るようになりました。平成20年4月22日 加賀温泉駅にて クハ481-322 「雷鳥38号」晩年の写真で、富山方はごく一部の編成を除き、非貫通型のクハが連結されていました。一部にはクハ489の編成も存在してました。485系ボンネット型:特急「雷鳥」485系クロ481ー2000番台:特急「雷鳥」485系 クロ481ー2300番台:特急「雷鳥」581系・583系:特急「雷鳥」
2023.08.13
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【写真】根室本線 混合列車:混441レ&混444レ※ 2021/7/13 6:22のリバイバル記事のため、表現が当時のものになっています。過去ログ『根室本線 混合列車:混441レ&混444レ』『【続】根室本線 混合列車:混441レ&混444レ』でご紹介した根室本線の混合列車。時刻表と模型レベルでの話をしようとしていたところ、金町のHさんから実列車の写真を多数提供していただきました。自分は経験できなかったC58牽引時代の貴重な写真ばかり。今回、まとめてご紹介させていただくことにしました。昭和48年3月23日 厚岸 444レC58が牽引する444レ。最後部にコキ10000が1両連結されています。機関車次位は張り上げ屋根のマニ36。マニ362222ではないか?と想像を膨らませてしまいます。昭和48年3月23日 落石 444レ2日後のC58牽引444レ。前回記事の写真はこの一連の連続写真の一部。編成はまったく同じ構成のようです。昭和48年7月18日 上尾幌 444レC58が牽引する444レ。こちらは夏場の写真。客車編成はおなじですが、コキ10000が2両となっており、さらにレ12000が連結されています。昭和48年12月23日 厚床 441レ機関士と助士の様子から、列車が到着したところでしょうか?貨車は連結されていません。これから荷物車での積み下ろしが行われる。そんな状況が伝わってきます。昭和48年12月23日 初田牛 441レ同じく同日の441レ。この列車に乗って移動したようですね。SL列車、混合列車にイベントではなく日常で乗ることができた時代です。昭和48年12月23日 糸魚沢 444レC58408が牽引する444レ。望遠なので判りづらいですが、コキが2両連結されているように見えます。あれ?オユ10が連結されていませんね。遅れとかで運用できなかったのでしょうか?C58のツララ切りも良い演出です。昭和49年2月26日 厚床 441レ厚床駅で荷物扱いをしている貴重な写真。この高さから放り投げるように荷物を落としています。今だったら即クレームの乱暴な扱いですが、当時は当たり前だったみたいですね。厚床はこの地域では大きな町。標津線への乗換駅でもあるので、ここからさらに奥へ入っていく荷物もあったのでしょう。結構多いですね。さらに荷物の向こう側には、郵袋と思われる山もあり、拠点であったことが窺えます。昭和49年3月3日 茶内 441レこちらは後部から撮影した441レ。上りの444レに比較して極端に貨車の連結が少なかったようですが、この写真ではコタキ+レム5000+コトラ+ワム+レ12000と現車5両の貨車が連結されています。急行「狩勝」からの流れでスハフには独立した暖房装置が無いため、貨車は後部に連結するしかなかったようですね。昭和49年7月24日 厚床 441レこちらは厚床駅を発車した441レ。とうとう無煙化でDD51に置き換わってしまったのでしょうか?当時は新鋭重連仕様・耐寒型のDD51524。最後部にはワムが4両程度連結されているように見えます。現役SL時代を知らない私にとっては、こちらの方が自然に見えてしまうのは年代差でしょうか?この列車の特徴として、急行「狩勝」(後の「まりも」)の座席車2両がそのまま使用されていたこと、荷物車と郵便車が隅田川~根室間を急行「ニセコ」「狩勝」そして441レとロングランをしていたこと、さらに、上りの444レではこれらの車両が折り返すとともに高速貨物列車「北海ライナー」の源流となるコンテナ輸送の一部を担っていたことが挙げられます。なお、この昭和50年3月ダイヤ改正前の写真においては荷物車2両連結されていたようで、当時はさらに荷物需要があったことが窺えます。それほど深堀りすることはないと思っていた記事ですが、思わぬところから深くツッコミを入れることになり、全貌とは言わずともかなり明らかになりました。荷物車、郵便車、コキ10000と、それぞれが緻密に運用され、全車寝台でも良かった急行に指定席車2両が連結されていた謎。この混合列車にすべてが詰まっていたとは思いもしませんでした。
2023.08.12
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455系(仙台車):東北本線急行列車 列車番号表KATOから455系仙台車による急行「まつしま」7両セット及び急行「ばんだい」6両セットが発売になりました。2セット合わせると、昭和50年を前後とするサハシを含む13両フル編成を仕立てることができます。車両については親ブログKATO 455系「まつしま」「ばんだい」と旧製品457系でもご紹介を始めたところですが、今回、もう一つのポイントを確認したいというところで、当時の東北本線上野口における列車番号対比表を作成してみました。今回の455系がフルリニューアルされたということで、機能的なグレードアップのほか、旧製品では457系でお茶を濁していた製品が現実的な構成になったことに加え、列車番号まで表示できるようになりました。より現実的な列車へ仕立てるため、正しい表示をしたいという意味でお役に立てればと思います。交通公社時刻表昭和50年7月号より抜粋右クリックで「新しいタブで画像を開く」と大きく見られると思います。昔から母親の実家へ行くために急行列車を使用していたので、非常に身近な存在でした。良く線路際に電車を見に行っていたし、非常に多くの設定があったことを記憶していますが、こうして並べて見ると、毎日運転の定期列車は意外と少ないことを初めて知りました。しかし、現実に季節列車は運転期間が長いので、やはり多くの急行列車が運転されていたことは記憶違いではないようです。特徴的なところでは、①白河発の「なすの」に黒磯発の普通列車を宇都宮で併結して運用されており、これを送り込むためにそれぞれ宇都宮発の下り普通列車が設定されています。※ちなみに、ここには載せていませんが、宇都宮までは上野発の普通列車が夕方に設定されていました。下りで小金井行き13連2本が設定されていたと記憶していますが、運用が定かではないので、ここでは省略しました。この宇都宮始発の下りも宇都宮滞泊だったのか、小金井~宇都宮を回送で送り込んでいたのか定かではありません。②「いわて」「まつしま」で、盛岡~仙台や仙台~郡山といった、地方のみを補完するような定期運用がありました。閑散期には上野への運用が省略されていたみたいです。③下り「いわて1号」は仙台行きとなっており、大部分の日において盛岡までの延長運転となっていたようです。郡山以遠は「ばんだい」を切り離してサハシを含む7連となりますが、仙台においてなんとまた付属編成を増結するという、末端短編成の原則を打ち破る離れ業を繰り広げていたようです。④上り「まつしま6号」は、臨時ながら水沢始発がありました。ただし、これが各年代で恒例であったのかは確認できていません。私はまだ付属のシールまでは確認していませんが、「なすの」まで用意されているところはさすがだと思いました。この年代はサハシを含む13連ですが、ビュッフェの営業は既に休止されています。昭和52年頃までは連結されていた筈ですので、非営業でもこの編成で問題ありません。昭和50年3月ダイヤ改正以前の時刻表がちょっと出せない状態ですので、またその辺りを掘り起こすことができましたらご紹介したいと思います。KATO 455系 急行まつしま・ばんだい 販売 鉄道コムまだ在庫店が沢山あると思っていたら、既に売り切れとしてしている販売店が殆どでした。過去ログ写真455系:急行「まつしま」455系:急行「ばんだい」455系:急行「いわて」455系:急行「あづま」
2023.08.11
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Fw:KATO 455系「まつしま」「ばんだい」と旧製品457系KATOから発売された新製品455系「まつしま」「ばんだい」セットと旧製品457系に関する記事をアップしました。KATO 455系「まつしま」「ばんだい」と旧製品457系
2023.08.10
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583系:特急「はつかり」その1「はつかり」は、昭和33年10月ダイヤ改正で誕生した東日本初となる特急列車で、上野(東京)~青森間を結びました。誕生当初は、東海道線特急列車の電車化により発生したスハ44系及び10系グリーン車・食堂車を使用した客車列車であり、ブルートレインと同様の塗装をした大変オリジナル色の強いものでした。また、しばらくの間は常磐線経由の設定となっています。昭和35年、国鉄初となる気動車特急キハ81系により無煙化、スピードアップが図られますが、初期故障が多く、遅れが多発したことは有名です。昭和43年、東北本線の全線電化開業により、初めて東北地区に583系が誕生します。583系による運転は9月9日となり、さらに10月のダイヤ改正では東北本線経由に改められます。大きな改正ごとに本数が徐々に増発され、昭和48年のダイヤ改正で初めて「はつかり」にも485系が使用されることとなりました。今回は583系「はつかり」の昭和53年10月改正前の写真をご紹介いたします。昭和51年 上野駅にて昭和52年 上野駅にて昭和52年頃 「はつかり5号」中学生になったばかりくらいなんでご勘弁ください。この頃から上野駅でよく撮影するようになりました。昭和53年10月改正以前は文字マークが使用され、特にこの583系の夜行列車の雰囲気をした緑色の文字が大好きでした。昭和51年頃昭和52年頃昭和52年頃東北地区の583系の運用が増大する中で、これに不足した車輌を西日本から転属で賄うことになり、このとき青森所に転属してきた車輌の中に、クハネ583-29及び-30がありました。型式はクハネ583ですので、特に「変わり者」というものでもないのですが、この2両は暖地向けとして製作された車輌であったため、タイフォンが開放型であったわけです。見慣れない顔つきに、初めて見たときはものすごい違和感を覚えました。転属してきた最初の頃は、前後で-29と-30がペアを組んでいたようですが、後にバラされてしまい、後も確認しないとわからないという、神出鬼没的な車輌でした。おかげで、なかなかバッチリとした写真を撮ることは困難を極めました。いつの間にか標準の開閉式に改造されてしまったようで、1年強の期間くらいしか見ることができなかったように記憶しています。昭和53年10月改正以降についてはいずれまたご紹介したいと思います。
2023.08.10
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EF6224牽引14系客車:団体列車「イカルス」昭和の時代、国鉄の大赤字に由来する利用促進の策の一つとして誕生したミステリー列車がありました。「銀河鉄道999」はその始祖としても有名ですが、この好評を得て、昭和55年に運転されたのがミステリー列車「イカルス」号です。昭和55年7月23日 蕨~南浦和間にて EF6224牽引「イカルス」号実は、この写真を撮影した記憶はもちろんあったのですが、いつ頃のものか全く判らなかったのです。ネットで調べても詳細な記事を発見することが出来ず、半ば途方に暮れていたのですが、フィルムスキャンをしたときに、スライドのマウントの裏側に鉛筆で撮影年月日が書いてあったことに偶然気が付いたのです。スライドホルダに入りっ放しだったので、全然気が付かなかった訳で・・・。さてこの列車、写真を見てお判りのとおり、EF62が牽引していますので、横軽経由であることは容易に判断できますね。記事によると、行先は黒姫で、乗客の皆さんは野尻湖に連れて行かれたようです。私も友人たちと夜行「妙高」で行ったことがあったので馴染みがありました。帰りはかなり遅い時間に戻ってきたと記憶しています。安売りで間違って買ってしまったタングステン光(蛍光灯用)リバーサルを使用してしまったため、本来はプリントに耐えない画像なのですが、大幅な加工・修繕で何とかアップできるところまで漕ぎ着けました。原版と大幅に違う画像であることをご承知おきください。で、結局この「イカルス」号ですが、二番煎じ的な印象は拭いきれず、おそらく、当時において乗車した方や直接撮影でもされた方以外はまず印象に残らなかった列車ではなかったかと思います。ネットでググって見ても、「銀河鉄道999」に比べて全く当たりが違うので一目瞭然と言う感じです。
2023.08.09
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153系:新快速「新快速」と言えば、京阪神を代表する国鉄時代からの看板列車です。その昔、関西急電に始まる料金不要の俊足列車は、京阪神を結ぶ輸送網の要であり、常に最先端の車両が投入されるほど重要な位置付けを与えられています。「新快速」の名称が与えられた当初は113系湘南色で2年程運転されていたようですが、昭和47年3月から153系が使用されるようになったそうです。私は鉄道に興味を持ち始めた頃と重なっており、図鑑にも乗っていた「新快速色」はとても斬新に見え、好きな塗装の一つでした。昭和54年3月 京都駅にて 153系「新快速」 姫路行ライトグレーをベースにスカイブルーのラインを入れたデザインは、当時としてはかなり斬新なカラーリングであったと思います。小学生の頃から知っており、関西に行くことができなかった小学生時代は憧れの車両・塗装でした。写真は九州への卒業旅行の帰りに立ち寄った京都駅で撮影したもので、まともに撮れていた写真としては唯一のものです。この翌年である昭和55年7月には新鋭117系と交代することになり、153系新快速としては、既に終盤となっていました。昭和49年8月 大阪駅にて 153系低窓 「新快速」本当に申し訳ないほどのクソ画像ですが、小学生の時、大阪駅で撮影したものです。ポケットカメラで小さく写っているものを無理矢理切り取って拡大してみました。こんな画像ですが、私的には唯一の低窓「新快速」。ちゃんと写っていたらどれだけ喜べたことか・・・。
2023.08.08
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DD1611牽引:「パノラマ八ヶ岳号」昭和61年8月、小海線に行ったのはこの時が初めてだったと思います。当時の小海線はキハ52や58ばかりで、特に変わった路線ではありませんでしたし、アンノン族と言われたミーハーどもが集まるところなんか行きたくもありませんでした。たまたま全国的にも貴重になったDD16型が客車を牽くということもあり、何となく連れられていった感じです。「パノラマ八ヶ岳号」は、DD16がヨ+ヨ+ヨ+オハ46+ヨ+ヨという6両編成を牽いて運転されています。昭和60年頃に緩急車の連結が廃止されたため、大量に余剰となった緩急車をこう言ったイベント列車として活用する例が見られ始めた頃だと思います。撮影は、平成61年8月ですが、残念ながら何故か日付の管理がされていませんでした。入場券も購入していませんので、特定できません。前後のコマからするとお盆休みくらいのようです。確か夜行日帰りで行った記憶があるので、1日に2往復していたと思われます。当時は大量に余った客車や緩急車(車掌車)が活用され始めた頃。ヨ8000は1ボックス4人分しか席がなかった筈なので、どのように乗せていたのでしょうかね。貨物列車の廃止で既に貴重な車両になっていたDD1611も動態保存のごとく使用されてきましたが、2021年12月27日に廃車、翌年に解体となったようです。
2023.08.07
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115系高崎車:快速「むさしの奥多摩」平成24年に久し振りに設定された快速「むさしの奥多摩」です。201系四季彩が廃車され、この回に設定されたのは何と高崎の115系でした。つまり湘南色の115系です。東北・高崎線から115系が撤退して以降、大宮以南には殆ど顔を見せたことは無い筈ですので、大宮工場内を除けば本当に久し振りに見ます。※撮影は、平成24年8月12日です。新座駅にて 115系高崎車 快速「むさしの奥多摩」高崎車4両編成で、専用のヘッドマークが装着されました。ヘッドマークは前後で同じデザインですが、枠の色のみ前後で異なっていました。運転日は平成24年7月28日~8月19日までの土日でした。運転初日には青梅線内で故障を起こし、青梅線を大混乱に陥れた張本人となってしまいました。その際、同日の上り列車と翌7月29日は豊田のE233系が代走する事態となっています。異色の115系高崎車による運用は、この1シーズンのみで終わってしまいました。
2023.08.06
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E257系5000番台 OM92:団体列車「長岡大花火大会」令和5年8月、長岡の大花火大会が4年振りに開催となったようです。花火は好きなのですが、行列、待ち時間、ノロノロ歩きが大っ嫌いなので、そのようなイベントにはまず参加しません。平日の開催ですが、各方面から団体列車が走り、盛況のようです。この日は、渋谷の現場から荻窪の現場へと移動することになっていましたが、午前中の現場が早くに終ってしまい、移動時間にかなりの余裕がありました。そのため、新宿駅第3ホームで時間潰しの一服をするためにホームに降りると、団体列車が停まっていました。まさに乗り込みが終ったところのようで、何の団体かは知りませんが、滅多に捉えることのできない9両編成だったので、駅撮りで記録しておきました。※撮影は、令和5年8月3日、新宿駅にて。E257系5000番台 OM92編成 団体列車「長岡大花火大会」まだ発車しないと高をくくっていたら、編成端へ来る前に全員の乗車確認が終ったと業務連絡が入り、ドアがしまりました。すると、シャッター切る間もなく、発車して行きました。鉄道ニュースを見ていたらまさしくこの列車が長岡大花火大会で運転された団体列車と知ることができ、事なきを得ました。本当に偶然の遭遇だったのでラッキーでした。週末にKATOの新製品が発表され、この編成が製品化されるようですね。要らないですけど・・・。送料無料◆10-1883 KATO カトー E257系5000番台 9両セット Nゲージ 鉄道模型 【12月予約】
2023.08.05
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小田急電鉄 60000形MSE:特急「あさぎり/えのしま」※本記事は、2018-03-12に投稿したもので、当時の表現になっています。複々線化完成による大きなダイヤ改正を迎える小田急電鉄。列車の運行体系が大幅に変わる中で、ロマンスカーの運用も意外と動きがありました。この中でも一番の話題は、GSEの営業運転開始やそれに伴うLSEの引退の足音が聞こえるなどもありますが、地味な変更として御殿場特急の「あさぎり」が「ふじさん」へと名称変更されるというのがありました。列車そのものの存在は60000形MSEのままであり、行き先等も変更されないので地味な名称の変更だけ、ということでもありますが、長年親しまれてきた「あさぎり」という名称が無くなってしまうショックは結構大きいものでした。さらに、土休ダイヤのみに設定されていた「えのしま」との併結運用も、平成30年3月のダイヤ改正で消滅してしまうということで、特に小田急の併結特急では併結列車の名称を合わせて表示しているので、見た目にも判りやすくなっていました。変更直前の付け焼刃な撮影でしたが、記録として撮影しておきました。※撮影は、平成30年2月17日、新宿駅にて。先発の特急が発車すると、掲示板の案内が更新されます。この表示も改正を迎えれば表示されることは無くなります。特急「あさぎり11号/えのしま11号」「はこね」の」折り返しとなりますが、到着時点でヘッドマークは切り替えられて現れました。暗くて判りづらいですが、ヘッドマークのアップです。小さくて走行写真での視認性は悪くなりますが、暗い場所ではくっきりと映ります。横サボはそれぞれの列車名のみが表示されます。号数も表示されるので、記念撮影にも重宝されそうです。小田原方の先頭です。こちらは暗くて撮りづらいのですが、壁面に描かれたGSEとの並びが面白い対比だったので記念に撮っておきました。特急「あさぎり」としての運行はもうちょっとありましたが、この併結特急「あさぎり/えのしま」は土休日限定の運用であるため、平成30年3月11日で運用を終えています。また、今改正でこの併結運用も解消してしまうため、「ふじさん/えのしま」というような特急の出現もないようです。セイコー 小田急線開業95周年記念 特急ロマンスカーMSE ウオッチ 数量限定5,000点【中古】Nゲージ マイクロエース A7572 小田急ロマンスカー60000形MSE 改良品 6両基本セット 【A】
2023.08.04
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国鉄 城端線:キハ45系?のサボ城端線は、北陸本線高岡駅から分岐して城端駅までを結ぶ富山県内の路線です。若い頃、少しだけですが乗り鉄をしていた時代があり、1度だけ訪問したことがあります。昭和57年8月8日確か一日中雨で、ただ乗って往復しただけのような記憶です。途中も殆ど寝ていたような・・・。車両も撮らずにサボだけ。本当は形式を一緒に入れて撮れば良かったんですがね。古いサッシ窓のようなので、キハ45系のようです。
2023.08.03
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103系1000番台・1200番台:東西線の乗り入れ車両103系1200番台は、先にご紹介いたしました301系の増備車として誕生した地下鉄東西線用の車両です。国鉄の財政状況を反映し、製造費の高い301系の新製が見送られ、103系の波及番台が誕生しています。301系と同様の7両編成で落成、後に10両編成化されました。誕生当初は301系と同じく黄帯を巻いていましたが、中央・総武緩行線に205系が誕生したことに伴い誤乗防止のためスカイブルーの帯に変更されています。昭和50年頃 中野駅にて 103系1200番台ポケットカメラのネガから強引にスキャンしました。場所は中野駅の東西線発着ホームだと思われます。営団5000系との並びで、手前の103系は1200番台です。この時代は中央総武緩行線と同じラインカラーである黄帯を巻いていました。平成15年5月3日 東京メトロ東西線 行徳駅にて 103系1000番台301系と同時に103系も全廃されることになっていたため、1日2運用の中で103系を撮れたのはラッキーでした。しかし、撮ることができた車両は東西線用の1200番台ではなく、常磐緩行線から転属していた1000番台でした。興味の範疇外であった東西線の車両たち。この良き時代に訪れたのはたった1回だけとなってしまいました。
2023.08.02
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485系T18:団体列車「柏崎海の大花火大会夜行臨時列車」平成26年、この年は花火臨が多く運転されました。その中の一つ、「柏崎海の大花火大会夜行臨時列車」をご紹介したいと思います。平成26年7月26日 柏崎23:10 9321M~9726M 上野06:20平成26年7月27日 上野07:08 回9763M 新潟 13:29485系T18編成 9726M 「柏崎海の大花火大会夜行臨時列車」485系T18編成 回9763M 返却回送ヘッドマークは「団体」~「回送」でした。返却回送では、途中で「いなほ」が掲示されたという情報もあります。このときはT18編成が充当され、「能登」や「ムーンライトえちご」が廃止になった後で、貴重な列車となりました。
2023.08.01
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