全31件 (31件中 1-31件目)
1

EF551+EF641001(原色)牽引:12系臨時列車※本記事は、2015-04-12に投稿したもので、当時の表現になっています。平成27年4月12日、予てから鉄道博物館入りを前提に整備が行われていたEF551ですが、本日から鉄道博物館における展示が始まったとのことです。本来であれば関東のニュースでもトップになりそうですが、早朝に起きた山手線の架線柱倒壊事故で都心の鉄道が大混乱、EF55のニュースはかき消されてしまったようです。過去ログでEF55の記事はいくつもアップしておりますが、今回はEF641001が原色時代に12系臨時列車を重連で牽引した数少ない記録をご紹介したいと思います。※撮影は、全て昭和61年8月28日です。敷島~津久田間にて確かEF55が復活して第2段目の運転だったと思います。第1弾は旧型客車(スエ78込み)を連結、単機で高崎~水上間を運転。そして第2弾は、高崎からなんと上越国境を越えて石打まで運転されています。国境越えにあたり、補機としてEF641001(当時はまだ原色)を連結した重連運転となりました。当時最新型であったEF641000番台との重連運転は完全なミスマッチでしたが、今となっては貴重な原色時代の記録となりました。石打駅構内にて 方向転換中のEF55EF55は機能的には片運転台と同様であるために方向転換が必要となります。転車台は石打駅構内に残存していたためこれを利用し、復路も正向きで運転が可能でした。EF55が引退となった今、SLが石打へ行く可能性も少ないため、転車台の役目も終ってしまいそうです。石打~越後湯沢間にてこの回の撮影で唯一順光で撮れた場所。しかし、送電線がうるさくて絵になりませんでした。足場がないために選択肢がありませんでした。越後湯沢~越後中里間にて上り列車は越後湯沢駅停車中に先回りができましたが、撮影場所を探している時間が無くて良いアングルでは撮れませんでした。渋川~八木原間にて今度は関越道を使って先回り。かなり日が傾いて暗くなってしまいました。今だったらデジタルでどうにでもなる条件でしたが、当時は限界でしたかね。この後の運転では、EF55の不具合時の対策のためか、EF641001が補機仕業につくことが多くなります。また、旧型客車による組成も頻繁に行われるようになり、EF641001は茶色塗装に白帯を入れた現在の塗装へと変更されることになります。ちなみに、翌年(昭和62年)4月には茶色となったEF641001が補機仕業に就いているのを確認しています。僅か数回であったと思われるEF641001原色との貴重な組み合わせの列車でした。
2023.05.31
コメント(0)

EF551牽引:快速「EL奥利根」平成21年2月をもってEF551が引退することが発表され、記念運転が実施されることになりました。その第1弾として、快速「EL奥利根」が上野~水上間に設定されました。平成20年12月5日 回9748レ 蕨駅付近にて尾久センターへの送り込み回送は、前日に実施されています。たまたま時間休を取ることができたので、地元で迎え撃ちました。編成はEF641001+EF551+12系6連で、EF55が逆向きになることを想定していたので、滅多にないことかと思って楽しみにしていた。しかし、いざ現れてみると、EF55は正方向を向いており、無動ではなく片パン上げた状態での運転。形式的には重連運転の形態となっていました。平成20年12月6日 西川口~蕨間にて 下り「EL奥利根」本運転では、EF55とEF64の順番が入れ替わり、もちろんEF551が先頭に。補機のEF641001も両パン上げた状態で運転されました。(帰路はEF55を高崎にて解放)送り込み回送では霧雨状態でしたが、本番はうって変わって晴天となりました。晴れてしまうと早朝下り列車はマトモに逆光になってしまうので、非常に厳しい状況になってしまいます。しかし、反対側には大勢が構えているため、人気のないド逆光側に構えるしかない状態でした。それでも、屋根が厳しく光ってくれて、絵面的に良い結果となりました。さらに、現地では京浜東北線北行と並走され、抜けきる前に本線上りにもカブられた筈なので、出遅れが結果的に〇となった記録でした。
2023.05.30
コメント(0)

113系:東海道本線 サロ110形グリーン車昭和50年3月改正以前、それまで地元東北本線や高崎線においては、急行形車両を使用した普通列車が走っており、グリーン車もきちんと営業していました。しかし、今でこそグリーン車に乗ることができる乗客は大勢いますが、昭和40年代~50年は中流社会と言えどもそれほど羽振りの良い乗客は多くなく、車掌の合理化削減も相まって、グリーン車の営業は廃止され、普通車として使用されます。一方、東海道本線・横須賀線に限っては伝統的に2等車~1等車からの流れでグリーン車の需要が絶えることはなく、特に普通列車用のグリーン車でさえ用意されていました。個人的には大垣夜行以外にグリーン車を利用することなど考えられず、社会人になって職場旅行などで乗ったことが数回ある程度でした。今回は、東海道本線の普通列車用グリーン車の写真が何枚かありますのでご紹介いたします。昭和54年頃 東京駅にて サロ110-9湘南電車と言えばグリーン車の連結ですね。2両1組で連結されるグリーン車は、急行形サロ153改造のサロ110、サロ152改造のサロ112、そして、サロ110のスタイルを元に新製した車掌室なしのサロ111が連結されていました。急行形からの改造車は、写真でご覧のとおり種車のまま空気バネとなっています。ほぼ同じ形態のサロ111は近郊形として新製されたため、コイルバネ台車で誕生しています。昭和58年12月1日 早川~根府川間にてサロ110基本番台やサロ111の老朽化により、サロ110-1200番台の増備、サロ113の関西からの転入、さらに不足する車両の補充として急行形や特急形からの改造車も多数出現するようになりました。上の写真がサロ110-501(←サハ165-7)+サロ110-301(サロ181-1001)、下の写真はサロ110-300番台or350番台+サロ110-1200番台初期形のようです。しかし、如何せん興味を持たなかった近郊型電車でしたので、それら改造車の写真を撮ることは殆ど無く、偶然撮っていたこの2枚だけでした。
2023.05.29
コメント(0)

カニ24100番台:寝台特急「明星」新幹線の博多開業以前、九州方面の寝台特急は体系的に大変わかりやすく整理されていました。新大阪から鹿児島本線及び長崎本線系の客車寝台が「あかつき」、熊本への電車寝台が「明星」、日豊本線への客車寝台が「彗星」、岡山発の鹿児島本線への電車寝台が「月光」、京都発西鹿児島行きの電車寝台が「きりしま」、といった具合です。昭和49年、私が初めて大阪に行ったときは、客車寝台に二段式の24系25形0番台が登場していたため、客車寝台は20系・14系0番台・24系・24系25形0番台と非常に豊富でした。その中で、「明星」と言えば新大阪~熊本を結ぶ電車寝台特急のみを指し、しかも同一区間の定期で4往復も存在しました。他にも「あかつき」が7往復、「きりしま」1往復、「月光」2往復があったわけですから、如何に夜行列車の需要があったかということが分かります。ちなみに、夜行急行もかなりの本数がありました。博多開業後は夜行列車も整理されることになり、「あかつき」は長崎本線系だけに使用され、代わって鹿児島本線方面は、車種に拘わらず「明星」に統一されました。ここに、客車寝台の「明星」が誕生することになったのです。昭和55年8月 山崎~神足間にてカニ24100番台を最後尾に東海道本線を走る「明星」。全便新大阪止まりの筈なので、回送列車だと思われます。この頃は情報もなく、偶然に任せて写真を撮っていることが多かったです。この区間でも、時刻表には載っていない、予期せぬ列車を多く撮ることができました。暗かったのでブレてしまったのは残念ですが・・・。オハネフの向きから全車100番台の編成のようです。昭和57年10月6日 新大阪駅にて山口線のSLや小野田線のクモハ42の写真を撮った帰り、新大阪駅に寄ったときのもの。こちらはオハネフの向きから24系25形0番台ですね。両方の写真ともカニ24100番台だったので、バリエーションが無く残念でした。「あかつき」の吸収で最大で7往復を誇った「明星」ですが、新幹線の開業と九州内の特急のスピードアップにより需要が低迷し、最後は「あかつき」と併結になるなど寂しい状態になって、最終的には「なは」に名称を譲って消滅することになりました。「あかつき」併結前には単独のヘッドマークを付けることも無かったので、機関車側の写真も撮っていません。勢いはまだあったけど、飾り気が無かった関西のブルートレイン。そんな時代の写真でした。
2023.05.28
コメント(0)

旧型国電 飯田線:51系(秋編)飯田線では多数派の51系。大きな形態差は平妻か半流ですが、平妻は40系か42系が出自になりますので、オリジナルは半流のみになります。しかし、40系にも半流がいるため、サイドから窓数を見ないとハッキリ区別がつきません。昭和56年11月22日 江島駅にて秋の朝、柔らかい日差しにつつまれて・・・なんていうとマトモですが、実は結構寒かったりします。2両編成は絵になる。とは言いつつも、飯田線としては一番インパクトがない編成でした。でも、このウネウネ感はどうでしょ?昭和56年11月22日 東上~江島間にて クモハ54+クハ68またしてもインパクトの無い編成。思いっきり遊んでみた・・・。これがなかなか良い映りしちゃったんですよ。リバーサルからスキャン、無加工です。真っ青っていうのはこういう色のことを言うんでしょうね。昭和56年11月22日 撮影場所不明辰野か駒ヶ根に近い方に移動して夕方撮った写真。天気が悪くなっちゃってました。残念。豊橋口から入ったためか、80系が多く、戦前型はあまり撮れなかったようです。旧型国電 飯田線:クモハ54110+クハ4706980系導入以降は最大の多数派であった51系。飯田線の中では地味な存在でしたが、KATOで模型化されたことにより、引き立て役という存在感の強さを改めて知ることになりました。
2023.05.27
コメント(0)

旧型国電 飯田線:80系(その2)飯田線の80系です。前回の『国鉄 飯田線:80系(その1)」』に続いて第2回目。今回は秋編としてご紹介いたします。昭和56年11月22日 下地駅にて最終の東海道線で豊橋に着き、風吹っさらしのみどりの窓口の前で、寒くて眠れない夜を過ごしたのが鮮明に記憶に残っています。寒さを我慢できずに陽が昇る前(飯田線の始発が動く前)に豊橋駅から下地駅まで歩きました。メチャクチャ遠かった・・・。写真は夜が明けて陽が射してきた時間。昭和56年11月22日 野田城~東上間にてとりあえず定番の撮影地へ。区間の短い飯田線では、駅間を歩くのは当たり前でした。昭和56年11月22日 野田城~東上間にて昭和56年11月22日 東上駅にて80系同士の交換。昭和56年11月23日 伊那松島駅にて昭和56年11月23日 撮影場所不明秋は学校が休みのわけでもなかったし、あまり行ってなかったみたいですね。いずれ(その3)に続きます。
2023.05.26
コメント(0)

旧型国電 飯田線:80系(その1)鉄道史上初となった長距離用電車80系。長大編成で東海道を闊歩していた80系も、新性能化とともに西へと追いやられ、晩年は一部の幹線に残るのみとなりました。最晩年は、昭和52年に戦前型淘汰を目的として投入された飯田線。4連を基本とし、豊橋口では2両増結の6連も走っていました。飯田線にはかなりの回数を訪問しましたので、この80系の写真も多く撮っていました。今回は、5月から9月くらいの暖かい時期の写真を集めてみました。昭和56年7月21日 為栗~温田間にてこの写真は、高校の時初めて本格的に旧型国電の撮影に行き出した時のものです。初めての飯田線で何処で撮影したら良いものか分からず、こんなに奥まで来てしまいました。天竜川沿いの急峻な場所で、しかも一番本数が少ない区間だったので、あまり成果は得られなかったような気がします。これがある意味その後の飯田線行脚の引き金になったかもしれません。このあと、大糸線→身延線と旧国を訪ねる旅が続きました。昭和57年8月10日 撮影場所不明この撮影のときの行動の記録が無くて、詳細な場所が判りません。が、おそらく飯島~上片桐の間くらいではないかと思います。昭和57年8月10日 撮影場所不明こちらも同区間内でしょう。朝早い時間だと思いますが、天気も良くなく、夏らしい雰囲気は伝わってきませんね。昭和57年8月10日 大沢信号場にて初めて訪れた大沢信号場。時刻表に載っていないので、信号場があることは知りませんでした。この写真は、信号柱に上って撮っています。何故怒られないかって?頼まれたからです。撮影に行った時に運転主任氏に声を掛けられました。私も国鉄職員だったので話も弾み、何でも間もなくCTC化工事が始まり信号場が無人になってしまうとのこと。記念になるように、信号場の全景を撮ってくれたらとの依頼を受け、このようなアングルで撮ったわけです。昭和57年8月10日 大沢信号場にて運が悪く、写真を撮っていた時に来た2本の列車はいずれも80系でした。本当は戦前型が撮りたかったんですが・・・。この写真、右側通行になっています。この信号場は、本線と待避線の配線になっていて、交換する時しか上下の区別がされていません。交換・退避のないときは上下関係無く本線上に停車し、タブレットの授受を行って発車していきます。昭和57年8月10日 撮影場所不詳これも何処の駅かわからないのですが、多分、撮影の帰りに駒ヶ根駅辺りで乗り継いだ時に撮ったのではないかと思います。80系と165系の交換風景、今ではどちらも無くなってしまいました。となりの急行は良く見るとクハ+クハとなっているのが判ったので、「こまがね」のようです。昭和57年8月10日 伊那松島駅構内にてこれは帰りがけに伊那松島区へ寄ったときに撮ったようです。窓から嬉しそうに顔を出すなっちゅーの!いずれ(その2)に続きます。
2023.05.25
コメント(0)

185系OM08編成:特急「草津」平成24年2月、大宮総合車両センターに入場していた185系OM08編成が、157系を模した塗装となって姿を現しました。単調な185系群の中で、湘南色と合わせて異彩を放ち、写欲をそそられました。今回は、「草津」として運用された姿を集めてみました。平成24年4月1日 「草津32号」平成24年4月28日 「草津31号」平成24年4月30日 「草津31号」平成24年5月13日 「草津31号」平成24年5月13日 「草津32号」平成24年7月17日 「草津1号」登場時から強化型のスカートを装備しており、他の塗装と同様に黒色となっていましたが、157系との食い違いを気にしたのか、わずか数カ月でグレー塗装へと換装されました。平成25年12月8日 「草津31号」平成26年2月11日 「草津31号」平成26年1月26日 「草津31号」14連運用が「あかぎ」以外に解消されてしまいましたので、すべて単独編成、しかも撮影時間帯の関係から、週末定期の「草津31・32号」の写真ばかりでした。
2023.05.24
コメント(0)

旧型国電 飯田線:クハユニ56 0番台クハユニ56は、晩年に飯田線で活躍した郵便・荷物・三等客車の合造車です。元は首都圏で活躍していた「クハニ67」という荷物・普通合造制御車を郵便室付きに改造してクハユニとしたものが0番台とされ、「モハユニ64」という荷物・郵便・普通合造電動車を未電装のまま制御車化してクハユニにしたものが10番台を名乗っていました。クハユニ56の0番台は、元荷物室だけであったため、片側2つの荷物扉が両方とも大型になっているのに対し、10番台は郵袋の出し入れ用に作られていたため、初めから二つ目の扉が小さくなっていたのが特徴です。また、クハニ67時代はロングシートでしたが、飯田線転出に際してセミクロスシート化、便所の取り付け改造がされています。クハユニ56の0番台は4両が存在し、リベット付き、シル・ヘッダー車の001(元クハニ67001)と、ノーシル・ノーヘッダー車の002~004(元クハニ67003~005)があり、少数の中でも差異のある興味深い車両でした。今回は、このクハユニ56のうち元クハニ67から改造された0番台車をピックアップしてみます。昭和56年7月21日 為栗~温田間にて クハユニ56001元クハニ67改造のクハユニ56の中で、この001だけが唯一シルヘッダーをつけていました。また、正面窓が3枚ともHゴム化されており、茶色時代も同様のスタイルとなっていたようですから、かなり早い時期に改造されていたようです。せっかくの希少車種ではあった訳ですが、撮る角度が良くなかったため、あまり車両写真としてはいただけないものになってしまったのが残念です。昭和57年8月10日 伊那松島機関区にて クハユニ56002機関区内にてジックリ撮った写真です。荷物扉と郵便室扉の大きさが全く同じ大きさであることがお判りいただけると思います。この車両以降はノーシルノーヘッダーとなりましたが、スカ色の塗分け線がシルヘッダーと同じ位置の為、ちょっと分りづらいのが勿体ないですね。002は、正面窓の中窓の下桟の幅が太くなっているのが特徴です。昭和58年1月11日 千代~天竜峡間にて クハユニ56003形態の特徴が私の目からは004と区別が付きませんでしたが、相棒のM車から003であることが判明しました。昭和58年7月1日 湯谷~三河槙原間?にて クハユニ56003旧国のさよなら運転より1ヶ月くらい前ですが、定期運用最期の2往復にはさよならヘッドマークが付いていました。さよなら運転に取り付けたものとは違うようです。こちらは定期運転に最後まで残った編成として003であることが判明しています。昭和58年1月11日 天竜峡駅電留線にて クハユニ56004こちらはクモハ61とペアを組んでた004。運転席のHゴム窓が下辺にほぼくっついている感じで、近くで良く見ると003と区別が付くのかもしれませんが、これだけ離れてしまうと識別は難しそうです。今の時代まで残っていれば、茶色復元なんてイベントもあったかもしれませんが、これら希少な車両もすべて解体されてしまいました。
2023.05.23
コメント(0)

485系ボンネット型:特急「雷鳥」特急「雷鳥」は、昭和39年10月の改正において、東海道新幹線の開通とともに誕生した特急列車です。特急列車としては初となる、交直両用型の481系が使用された、当時としても画期的な列車でした。ここでの成功は、東北本線への電車特急の誕生、山陽から九州への乗り入れの速達化に貢献しました。登場当初からしばらくは481系初期車が使用されましたが、485系の誕生とともにシフトされ、金沢運転所の特急車両配置とともに489系も使用されるようになります。今回は、485系(489系)からボンネット型のご紹介です。昭和49年8月 大阪駅にて初めて大阪に連れて行ってもらった際に撮影したものです。新幹線の博多開業前で、山陽特急の第二黄金期とでも言いましょうか、多くの優等列車で賑わっていました。昭和55年8月 大阪駅にて高校時代、山陰への行き帰りで寄り道した時のものです。急行「比叡」と並ぶ、古き良き時代の最期とでも言えましょう。昭和55年8月 神足~山崎間にて良い構図で撮影できる場所だったのですが、残念ながら手ブレしてしまいました。 昭和55年8月 京都駅にて前後がボンネット型で整った編成でした。随分昔になってしまいますが、ボンネット型の「雷鳥」としては最後の対面でした。その後、新潟色のボンネット型、京都車の「ゆうトピア」対応用の密連スカート欠き取り改造をしたボンネット型なども運用されましたが、逢う機会はありませんでした。
2023.05.22
コメント(0)

103系:常磐快速線常磐快速線は、上野~取手間を走る路線であり、千代田線との相互乗り入れとなる北千住~取手間の緩行線とは分離されている急行線区間です。本線系統である401系~415系、或いは優等列車等と同じ路線を走る通勤電車となっており、中央快速線と性格的に似ています。通勤型電車としては戦前型国電を経て103系化されており、101系の導入実績はありません。その点では、近代化が遅かった路線と言えます。昭和53年頃? 三河島駅にて愛機のキャノンFTbがしばしばシャッターの走行ムラを起こすようになりました。そんなこともあって、画面の左側が極端に真っ暗になってしまった写真。低窓ですが、方向幕の表示と正面下部に通風孔がないことから、冷房改造車編成のようです。新製配置の無い常磐快速線に、やっと冷房車が配置になった頃でしょうか?昭和57年の5月頃か10月頃 上野駅にて東北新幹線か上越新幹線の開業の前だと思います。高架ホーム12番線には、折り返し成田行きの103系常磐快速電車。もう時代的には後期に入る頃なので、冷房改造が実施されています。その横下には16番線に停車中の583系「はつかり」がいます。583系の長大編成の特急列車は、こうして見ると貫禄タップリですね。この時代は結構な乗車率を誇っていました。残念ながら17番線の列車は見えませんが、さらに18番線には東北本線方面の455系急行列車が停まっています。平成15年5月3日 南柏~柏間にて一気に時代は飛んで、いきなり最晩年です。確か、103系は10両編成、5両編成とも2編成ずつしか残っていませんでした。日中は本数がただ出さえ少ないので、やっとの想いで撮った1枚です。上野駅でアルバイトをしている時代から、常磐快速というのは縁が深い電車でもあったわけですが、とにかく、興味の対象ではありませんでした。山手線、総武・中央緩行線、中央快速線と、ことごとく103系の写真がありません。当時は103系なんてフィルムが勿体無くて写真なんてまったく撮る気がありませんでしたが、いま後悔している一分野です。103系1000番台:常磐緩行線(千代田線代々木公園行き)TOMIX 国鉄103系 エメラルドグリーン 販売が告知されました。通勤者でもグレードにこだわって製品化されることは歓迎ですが高過ぎだろ!こんな金額がスタンダードになってしまうなら、もうNゲージは買わない。送料無料◆セット販売 98534/98536 TOMIX トミックス 国鉄 103系通勤電車 (初期型非冷房車・エメラルドグリーン) 基本セットA(3両)+増結セット(2両) Nゲージ 鉄道模型 【11月予約】9017 TOMIX トミックス 国鉄電車 サハ103形 (初期型非冷房車・エメラルドグリーン) Nゲージ 鉄道模型 【11月予約】98536 TOMIX トミックス 国鉄 103系通勤電車 (初期型非冷房車・エメラルドグリーン) 増結セット(2両) Nゲージ 鉄道模型 【11月予約】送料無料◆セット販売 98534×2/98536/9017×2 TOMIX トミックス 国鉄 103系通勤電車 (初期型非冷房車・エメラルドグリーン) 基本セットA(3両)×2+増結セット(2両)+サハ103形×2 Nゲージ 鉄道模型 【11月予約】
2023.05.21
コメント(0)

103系:鶴見線205系による103系の淘汰が顕著になってきた頃、各線の103系を手当たり次第に撮ってきました。その際、鶴見線にも訪問しています。旧型国電に廃止以来、鶴見線を訪問することがありませんでしたので、103系としては最初で最後の鶴見線訪問でした。撮影は、すべて平成14年5月5日です。国道駅にて旧型時代も含めて、初めて下車しました。国道駅って、何か昭和30年代の映画に出てくる風景のセットのように感じました。写真は645のリバーサルダイレクトプリントですが、あの頃デジカメを持っていたら駅の写真をたくさん撮っていたことでしょう。浅野駅にて鶴見方面から分岐への進入。複線同士の振分線は、奥羽本線の「赤岩」を思い出します。(周りの風景が違いすぎますけど・・・。)浅野駅にて逆光でチョット厳しい写真になってしまいました。しかし、この芝浦支線のホーム、都会にあるまじきカーブですね。安善~武蔵白石間にて高圧線柱を兼ねたうっとしい風景。普通なら腹立たしいのですが、鶴見線らしいという風景でしょうか。鶴見線は、103系が終焉まで残った路線ですが、低窓車のみ残留配置という、ある意味幸運な路線でした。すべてが3両編成運用のためクモハが必要なこと、上り下りで違うタイプの運転台に不都合があったこと、などが考えられると思います。旧型国電 73系:鶴見線【中古】Nゲージ KATO(カトー) 10-1247 101系 鶴見線 3両セット 【A´】 外スリーブ若干の傷み10-1744D KATO カトー 103系 (カナリア) 中間車3両セット Nゲージ 鉄道模型(ZN94057)10-1743D 103系〈カナリア〉 4両セット[KATO]《発売済・在庫品》
2023.05.20
コメント(0)

301系:東西線の乗り入れ車両国鉄301系電車は、営団地下鉄東西線用の電車として昭和41年に誕生しています。ベースは103系となりますが、国鉄としては初のアルミニウム合金車体となり、さらに通勤型としては初の空気バネ台車を採用しています。※撮影は、平成15年5月3日です。東京メトロ東西線 行徳駅にて東京メトロ東西線 原木中山駅にて昔から301系の存在は知っており、興味のあった車輌ではありましたが、通勤型の車輌の写真を撮る習慣が無く、また、地下鉄という撮影の難さもあって、全く撮る機会はありませんでした。しかし、301系の全廃のニュースが流れると、身近に走っていながら1枚の写真も撮っていない悔しさもあって、最後の最後に慌てて撮りに行った次第です。平成15年8月のさよなら運転を最後に全廃となっていますが、1両の先頭車のみ現在も大宮総合車両センターで保存されています。平成19年5月26日 大宮総合車両センターにて。
2023.05.19
コメント(0)

185系OM03湘南色編成:特急「草津」185系OM車で運用する特急「草津」をご紹介しておりますが、OM車の中でも特に度肝をに抜かれたのが80系湘南色を模した塗装のOM03編成でした。平成22年10月に「草津」運転50周年を記念し「草津51号」としてデビューしましたが、予備を含めてキツキツの運用であった都合上、実際にはその前から一般運用に入っていました。平成22年10月17日 「草津3号」サロ185-206中でも注目したのはこの昔ながらの淡緑色の帯を再現したグリーン車。私の年代では中学生の頃まで当たり前だった塗装ですが、あっという間にこの世から消えてしまった憧れの塗装です。前面は無理があると賛否両論が起こりましたが、このグリーン車に関してはクレームは聞かれなかったように思います。平成24年7月15日 「草津32号」平成24年7月16日 「草津32号」平成24年10月6日 「草津31号」その話題性からか、どうもOM03編成は週末運転の「草津31・32号」に充当されることが多かったように思います。また、14連で運転されることから、後部に連結されている場合など写真を撮ることが少なく、さらに「草津」は逆光側に連結されることもあって、定期の「草津」として撮る機会が少なかったようでした。OM03編成は、185系田町車を吸収した際に真っ先に6連化され、ある種感動を与えてくれたグリーン車も真っ先に運用を離脱、がっかりさせられました。その際、OM車ながら湘南ブロックカラーとなって異彩を放ち、さらに0番台踊り子塗装と目まぐるしく変化していきました。
2023.05.18
コメント(0)

「提灯殺し」高輪橋架道橋下区道東海道本線の品川~田町間に東西を結ぶ地下道がありました。実際には一方通行になっていたので、自動車は「往来」できない構造でした。東海道本線、京浜東北線、山手線の他、田町電車区や品川客車区の群線に東海道新幹線もある幅の広い鉄道用地を潜り抜ける非常に距離のある地下道です。この地下道の特徴は、200mもある距離に加え、非常に低い制限高1.5mという、自動車が通るにも人の往来でさえも有り得ない高さにあります。実際には1.7mくらいあるらしいですが、安全の問題から1.5mとしているようです。昔から何かの情報で存在は知っていたと思いますが、特に鉄道に直接の関係もないので場所も知らず、行こうと思ったことすらありません。しかし、現場仕事時代、偶然にもこの近くの会社に訪問したことがあり、初めて現地実物を見ることが1度だけありました。※撮影は、平成24年8月27日です。当時はまだカメラを持って歩くようなことはしていなかったので、仕方なくケータイのカメラで撮影したものです。レンズもかなり行っちゃっているので写りが悪く残念です。これは西側の入り口で、手前方が山手線、ここをクロスするための京浜東北線北行の高架橋の上り口もみえます。普通乗用車セダンの大きさからも入口の低さが判りますね。一方通行ではありますが、至近に線路を横断できる道路が無いため、かなりの交通量がありました。ただし、ワゴン車などの自動車は屋根どころかフロントガラスを壊してしまう高さです。時間の関係もあってか、人の往来も結構ありました。ただでさえガードが低いにもかかわらず、さらに車高を抑えるためのガードで入口を抑えています。どうも中に入るとまた低くなっている場所があるらしいです。向こうから歩いて来る人も居ますが、身体を屈めて歩いて来る姿が明らかです。私も180cmあるので、おそらくは同様のスタイルで200mも歩くことなります。集合時間までそこそこありましたが、途中から引き返さなければならず、通行人の迷惑になってしまいそうなので中には入りませんでした。その後、この付近に行く用事などある筈もなく、すっかり忘れていましたが、知り合いとの雑談の中でこの道路が廃止になることを聞いたので、過去ログから引っ張り出して記事にしました。東京機関区、品川客車区、田町電車区はすべて廃止され、さらには再開発、高輪ゲートウェイ駅の開業で、今ではこの辺りの線路の移転も終わり、すっかり更地になってしまったようです。代替になる横断道路が建設されるそうで、元々の水路から由来するこのインパクト強の地下道も2020年に役目を終えたようです。【追記】後になって気が付いたのですが、手前側は陽射しが道路を照らしているのが判りますので、道路が完全に覆われていないのですね。ということは、雨の日は傘を差す必要がありますので、さらに30cmくらいのクリアランスが必要と言うことになりますので、これはもう私の身長では歩行困難であったと思われます。
2023.05.17
コメント(0)

旧型国電 飯田線:51系(夏編)旧型国電の博物館とも言われた飯田線。私が同線を訪れたのは、旧型国電の活躍も終焉を迎える頃。多いときは月に3回も行ったことがありました。今回は、同一形式としては一番両数の多かった51系の夏場の撮影シーンをご紹介いたします。昭和56年7月21日 為栗付近にて高校2年の時に初めて訪れた飯田線。いずれも為栗駅を前後として撮影したものです。昭和57年8月10日 為栗~温田間にて昭和57年8月10日 撮影場所不明昭和57年8月10日 撮影場所不明昭和57年8月10日 撮影場所不明左がクモハ60(クモハ41を出力アップ)をクロスシート改造したクモハ54129。右から交換するは、オリジナルのクモハ51(クモハ54?)です。右側の列車はクモハ+クモハ+クモニの変則運用みたいですね。昭和58年6月6日 赤木~沢渡間にて昭和58年6月6日 撮影場所不明昭和58年6月6日 撮影場所不明半流クモハ53007を連結した編成。昭和58年6月26日 飯田線 伊那松島機関区にて クモハ54正式なさよなら運転の車両ではありませんが、旧国廃止直前に伊那松島機関区に行ったらお手製のさよならヘッドマークを付けたクモハ54がいました。この車両がヘッドマークを付けたまま本線を走ったかどうかは定かではありません。51系は、オリジナルのクモハ51・クハ68の他、40系クモハ41・クハ55をクロスシート化し編入したもの、42系のクモハ43・クモハ53・クハ47・サロハを3扉化して編入したものがあり、非常に複雑です。さらに高出力化によってクモハ54・クモハ50などの形式も存在するため、その複雑さに輪をかけています。
2023.05.16
コメント(0)

EF5868牽引 14系客車:臨時特急「踊り子」過去ログ『EF651116牽引 14系客車:臨時特急「踊り子」』で14系客車による臨時「踊り子」をご紹介いたしましたが、今回は、待望のEF5868牽引による「踊り子」をご紹介したいと思います。※撮影は、昭和58年5月14日、保土ヶ谷~戸塚間にて。EF5868牽引 14系客車 「踊り子55号」一大ブームを巻き起こしたEF58の活躍も末期となり、EF58牽引の列車が走るというだけで人が集まってきた時代です。しかし、東北・上越新幹線が開業すると夜行列車も殆どが廃止となり、また、12系や14系客車自体も団体列車くらいしか使用されなくなります。まして、東海道方面を受け持つ東京機関区(後に田端機関区に統合)では、ジョイフルトレインの牽引くらいしか仕事がなくなりました。当時はあまり気にしていませんでしたが、その後の583系や今で言うところの185系を残しているのと同じような動きであったと思います。
2023.05.15
コメント(0)

アメリカ海兵隊:VMFA-332今回は、今まで一度もアップしていなかった飛行機ネタです。アメリカ海兵隊の航空機で、その正体がイマイチ良く分からないままアップできなかったもの。機体に表示された記号番号でググって見ると、Wikipediaも存在するのですが、英語版なので日本語に翻訳しても何を言っているのか正確性に欠くため良く理解できません。平成14年2月8日 硫黄島にて仕事の関係で1度だけ硫黄島に行ったことがあります。帰りの輸送機を待っている際、偶然にもアメリカ海兵隊の飛行機が来ていました。当時は軍用機など全く興味がなかったのですが、フィルムの消化を兼ねて撮ったような気がします。同じような機体が3機いましたが、2機が1人乗りに対し、写真の機体は2人乗りでした。この後、あまり時間を置かずに出発して行ってしまったため、この写真1枚しか撮っていなかったのが残念。かなり詳しく解説してくれているページを見つけましたので、興味のある方はリンク先をどうぞ。http://skywarriors-gallery.com/vmfa(aw)-332sub.htm
2023.05.14
コメント(0)

キハ85系:特急「(ワイドビュー)南紀」永らくキハ85系で運転されて来た特急「南紀」ですが、特急「ひだ」のHC85系化にやや遅れて、令和5年6月一杯をもって置換えとなります。撮影不便な場所なのであまり訪問歴のない関西本線~紀勢本線で、キハ82系もギリギリ記録していたという感じでした。キハ85系の「南紀」も同様です。平成21年8月23日 富田駅にて佐久間レールパークと絡めて中京地区中心に撮影に行った際、四日市貨物の帰りに寄り道した富田駅にて、通過するキハ85系「南紀」を撮ることができました。名古屋駅でも撮影できたような記憶があったのですが、やはり本数の多い「ひだ」だったようで、キハ85系「南紀」を記録できたのはこの時だけでした。キハ82系:特急「ひだ」
2023.05.13
コメント(0)

JR四国 2000系:特急「しまんと」2000系 リバイバル南風号(ツアー)土讃線特急として誕生した「しまんと」。瀬戸大橋の開業により「南風」が岡山発着となり四国拠点の高松を通らなくなったため、高松発着の土讃線特急として「しまんと」としました。特急「南風」と同様に、平成2年からは振り子式2000系が使用されてきましたが、令和3年3月のダイヤ改正において土讃線から2000系が撤退し、2700系に車種統一が図られることとなりました。やはり四国に発上陸した際、運良く捉えることができました。※撮影は、平成22年7月25日です。高松駅付近にて 特急「しまんと3号」国分駅にて 特急「しまんと7号」瀬戸大橋への乗り鉄出発前と、戻ってきたときにそれぞれ1枚ずつ撮影することができました。いずれも多度津で岡山からの「南風」と併結するため、2~3両編成のミニ特急となっています。形式は新しくなってしまいますが、運転形態は同様となっています。
2023.05.12
コメント(0)

153系:急行「比叡」東海道本線の名古屋~大阪を結んでいた急行「比叡」は、昭和32年に同区間に設定された80系電車による準急列車に端を発する、由緒ある列車でした。設定当初は名称を持たなかったようですが、直ぐに「比叡」という名称が与えられ、翌昭和33年には新製の153系電車が導入となり、東海道新幹線の開業前までは最大で8往復も設定されていたそうです。東海道新幹線の開業及び増発により4往復体制へと削減、昭和41年には準急列車から急行列車へと格上げされます。当時はサハシも連結された豪華編成だったようですが、運転時間が短いために利用者が少なかったようで、昭和47年3月のダイヤ改正で営業が休止され、運転本数も2往復へと縮小してしまいます。※ほかに臨時列車の設定がありました。昭和55年8月 神足~山崎間にて 急行「比叡1号」153系8連で大阪へ向かう急行「比叡1号」。当時はヘッドマークのない急行列車などに興味はありませんでしたが、中間に新快速色のクハ153低窓が連結されていたために慌てて後部から撮影したようです。ちょうど新快速の117系化が完了した頃で、状態の良い新快速色の153系は大垣電車区へと異動したため、東海道本線の普通列車や修学旅行列車の急行「こまどり」などにも連結されていました。8連の中間には自由席グリーン車が連結されており、こちらのみサロ165となっていました。昭和55年8月 大阪駅にて 急行「比叡2号」1枚目の写真を撮影後、大阪駅に移動した際に再び撮影できました。とは言っても特急「雷鳥」を撮影したものであり、並び写真として偶然に写っていたものです。「比叡1号」と同じ編成の折り返しのようで、中間に新快速色のクハ153系が連結されていました。詳細なメモは残していないのですが、当時の時刻表から、急行「比叡2号」と特急「雷鳥17号」の並びのようです。この写真を撮影した2か月後の55・10改正で1往復に削減され、さらに59・2改正でとうとう廃止になってしまいます。153系の全廃に伴い、165系化されたのは東京口の急行「東海」と同様で、Wikipediaには165系化された末期の急行「比叡」が掲載されています。
2023.05.11
コメント(0)

東京メトロ千代田線:06系東京メトロ(帝都高速度交通営団)06系は、平成5年度に実施される千代田線輸送力増強のために不足する編成を増備するため、平成4年12月に落成した系列です。スタイルはそれまでになかった丸みのあるもので、有楽町線用の07系と同様のスタイルとなりました。※本記事は、2015-10-01に投稿したもので、当時の表現になっています。落成は1編成のみとなり、その後の輸送力に変化がなかったため、増備は行われませんでした。その結果、1編成のみの特異な存在となってしまったことが災いし、寿命を早めてしまったようで、平成27年9月末現在、一部の車両の解体が始まってしまったようです。昭和44年製である6000系2次試作編成の6001が現役で45年強も活躍を続けているのに対し、06系はたった20年強の活躍で終わってしまいました。平成20年4月12日 新松戸駅にて16000系導入計画頃から注目を集めていたように思いますが、1編成しか存在せず、さらには近年休みがちだったこともあり、なかなか捉えづらい形式でした。この写真もJR東日本207系900番台の撮影に行った際、偶然に捉えることができたもので、この時に遭遇していなければ逢わず仕舞いになってしまったかもしれません。また、同じ1編成ながら偶然にも何度か乗車したことのある207系900番台に対し、06系はもしかしたら1度も乗車したことがないかもしれません。平成21年12月5日 綾瀬検車区にて初めて綾瀬のイベントに行ったときに展示されていました。あまりにも地味だったので撮影していたことすっかり忘れてました。これが最後の遭遇でした。
2023.05.10
コメント(0)

583系秋田車(初代):団体列車「わくわくドリーム」動態保存的な車両として残っていた秋田の583系ですが、夜行団体列車や臨時代走など比較的活発に活躍しており、特に定期的に舞浜臨として使用されてきた団体列車「わくわくドリーム」号の運用はメジャーな存在でした。平成20年5月3日 潮見駅にて「わくわくドリーム」の下乗車は舞浜駅ですが、折り返しができないため東京駅での折り返しとなります。ヘッドマークは回送の東大宮操までそのままとなりますので、特に回送列車では撮影しやすい時間の設定となっていました。秋田区の583系は、当初サロ込みの9両編成でしたが、塩害などの影響もあったようでサロ及びユニット1組を廃車とし、徹底的な整備をした上で6連に組み替えられました。平成20年11月22日 南流山駅にて昼寝回送は、京葉センターだったこともあったような記憶があるのですが、東大宮操が定番でした。南流山では中線にて時間調整がありました。仙台車による舞浜臨では「臨時」表示でしたが、「わくわくドリーム」は専用のヘッドマークが用意されていたため、写欲が湧くものでした。なお、運転開始当初はヘッドマークがステッカー式逢ったようですが、早いうちに幕が用意されました。仙台車に比べると現役後期の状態のままとなっており、ヘッドマーク周りも手当が痛々しい感じでした。平成21年5月23日 東大宮操車場にて仙台車による舞浜臨と近い時間で東大宮操へ回送されてくるため、同時運転となる日は効率良く2編成の583系を撮影することができました。この頃は仙台の583系も活躍していましたが、秋田車は老朽を理由に廃車となり、代わって仙台車が2代目を継ぐことになりました。
2023.05.09
コメント(0)

107系100番台:両毛線民営化以降、高崎地区のローカル運用で永らく活躍してきた107系電車。平成29年9月末にすべての定期運用から離脱し、平成29年10月7日のさよなら運転をもって完全に撤退することになりました。昭和63年、急行形の165系の機器を流用して製造された近郊型の車両で、台車や冷房装置に種車の面影を色濃く残していました。先に誕生し、平成25年3月ダイヤ改正をもって運用を離脱した日光線用の107系0番代から4年半で後を追う形で形式消滅となります。平成20年8月2日 桐生駅にて両毛線を走る4連で、たまたま18きっぷで周遊していた際に乗車したもの。107系に乗ったのはこの時が最初で最後となりました。車内禁煙になってから久しいですが、107系には各ドアの脇に国鉄時代の灰皿が残っており、ロングシートながら喫煙ができる状態であることに驚いたものです。この時代でさえ、とても喫煙できるような雰囲気ではありません。
2023.05.08
コメント(0)

E217系:東海道本線 普通列車平成16年10月、湘南新宿ラインの増発に伴う整理が行われ、横須賀線専用形式であったE217系15連3編成が国府津車両センターに転属、ラインカラーを湘南帯に変更し、東海道本線を走るようになりました。東海道本線も横須賀線も15連を基本としていますが、ご存じのとおり付属編成の連結位置が異なっているため、転属に当たっては組み替えも行われています。その後、一部が横須賀線に戻されたりと変遷がありましたが、上野東京ラインが開業する平成27年3月の改正をもって、東海道本線に残っていた2本のE217系が横須賀線に戻され、約10年にわたる東海道線での活躍に終止符が打たれることになったようです。平成20年8月16日 E217系 F-51編成 小田原駅にて平成19年11月23日 E217系 F-53編成 茅ヶ崎駅にて平成21年2月28日 E217系 F-53編成 横浜~東神奈川間にて平成25年10月12日 E217系 F-52編成 大井町~品川間にて時代的変化は乏しいですが、撮影時期に開きのある最後のコマのみ、運転台窓下部にあった「E217」のロゴが「JR」に変わっています。これは横須賀線の本家E217系も同様の変化となっているようです。横須賀線の帯色が変化した時期と一致しているようでした。最近は東海道方面がご無沙汰になっていますが、新幹線500系や「富士・はやぶさ」などを撮りに行った際は遭遇率が非常に高かったように思います。それでも撮影したものとなるとこの4コマしか見つかりませんでした。マークしていない時に目の前に現れ、乗車してしまう、というパターンが多かったかもしれません。113系:東海道本線 普通列車JR東日本 211系:東海道本線(東京口)
2023.05.07
コメント(0)

14系寝台客車:寝台特急「出雲」「出雲」は、昭和47年の改正で急行から格上げされて寝台特急として誕生しています。誕生当初は20系を使用していましたが、昭和50年の改正から24系となっています。牽引機は誕生当初からEF65500番台が牽引しており、その後のPF化は「富士」や「はやぶさ」と同じ経緯を辿っています。日本の特急列車では指定が一番取りづらい列車であった「出雲」。ほかの特急・寝台特急もシーズンを除けば空きがあるのが一般的でしたが、「出雲」に関しては平日も含めて空きがあるのは珍しいことでした。そんな好調の「出雲」に大きな変化をもたらしたのが、昭和50年3月のダイヤ改正。急行「銀河1号」の運転区間を米子まで延長のうえ特急列車に格上げし、寝台特急「いなば」が誕生しています。さらに、昭和53年10月のダイヤ改正において出雲市までの区間延長を行い、2本目の「出雲」となりました。同改正において、列車号数が下り奇数・上り偶数となったため、東京~浜田間の24系25型「出雲」が「出雲1・4号」に、東京~出雲市間の「出雲3・2号」になっています。昭和54年頃 品川客車区にて スハネフ14「出雲」テールマークがイラストになっていますので昭和54年後半か、もしかしたら昭和55年になっているかもしれません。撮影の難しい14系「出雲」。走行写真は撮れることなく終わり、精々ここで見ることが出来るくらいでした。EF58が牽引している姿を撮ってみたかったです。昭和55年8月 揖屋~荒島間にて DD511172牽引 特急「出雲3号」特急「やくも」を撮りに行った際、初めて山陰本線内で撮影できた「出雲」。ヘッドマークの復活は昭和59年頃となりますので、ただ単にDD51が牽くブルトレ時代の姿です。やはり特急列車にはヘッドマークは不可欠で、このようなスタイルの列車を見ても味がありませんし、魅力に欠けます。写真の下り3号・上り2号の列車は、東京~名古屋間で紀伊勝浦発着の「紀伊」を併結していました。急行「銀河1号」→特急「いなば」→「出雲3・2号」→「サンライズ出雲」の流れをくむ列車です。平成26年11月15日 尾久車両センターにてオマケ画像です。2014ふれあい鉄道フェスティバルで、DD51895に「出雲」のヘッドマークが掲げられました。いつも搭乗禁止のテープが張られてしまうのですが、全体を仕切って締め出したため、すっきりした状態で撮ることが出来ました。客車「出雲」(24系25形)末期の頃にはDD51重連が運転されたりと撮影意欲をそそる時代もあったのですが、山陰での撮影は3日間の休みを確保する必要もあり、DD51牽引ヘッドマーク付の「出雲」を撮影することは叶いませんでした。
2023.05.06
コメント(0)

EF651108牽引:臨時特急「サロンエクスプレスそよかぜ」「サロンエクスプレスそよかぜ」は、逗子~軽井沢を結んでいた臨時特急です。客車にサロンエクスプレス東京を使用した全車グリーンの豪華特急列車で、その昔運転されていた臨時急行「軽井沢グリーン」を髣髴させるものでした。高崎~軽井沢間はEF62が牽引していたと考えられますが、逗子~高崎間はEF62ではない機関車が牽引していました。これは、おそらく横須賀線区間にEF62が入線していなかったため、訓練を省く目的があったのではないかと思われます。※昭和59年5月、蕨駅にて。EF651108牽引 特急「サロンエクスプレスそよかぜ」どうもこの時が同列車の初シーズンだったようです。バブルという言葉はない時代だったと思いますが、好景気上向きで、給料が毎年1万円くらい上がって行った時代。Wikipediaでは昭和59年7月から運転と記述されていますが、昭和59年春号のダイヤ情報(当時は季刊)にも掲載されており、4月29日~5月3日のGWにも設定されています。私も詳細な記録を取っていないのですが、前後の撮影記録からこのGW期間中に撮影したものであることは間違いありません。14系 サロンエクスプレス東京他のシーズンは良く分かりませんが、この最初のシーズンでは「サロンエクスプレスそよかぜ」の専用テールマークが用意されたみたいです。鮮やか過ぎるのでステッカー式でしょうね。既に国鉄に就職し、59・2ダイヤ改正で大宮操車場を追われて間もない頃。この蕨駅も貨物扱いが廃止になったばかりで、まだダブルスリップポイントが残っているのが判ります。昭和57年頃から地元線路沿いに金網柵が設置され、自由に写真を撮ることができなくなったため、やむを得ずこんな窮屈な場所で撮ったものと思われます。バブル景気の到来でこの後も頻繁に運転されたようですが、EF65PF牽引では話題性にも欠き、この後しばらく撮影はしていませんでした。
2023.05.05
コメント(0)

485系 NO・DO・KA: 臨時快速「妙高ミズバショウ」信越本線の新潟~妙高高原を結んでいた臨時快速の「妙高ミズバショウ」です。いつ頃から運転されているのか記述が見つからないのですが、毎年ゴールデンウィークに設定されており、主に485系NO・DO・KAが使用されていました。日本海側を走る同臨時快速列車には縁はないのですが、急行「きたぐに」の写真を撮りに行った際に偶然運転日と重なったため、撮影することができました。※撮影は、平成23年5月4日、潟町~土底浜間にて。485系NO・DO・KA 臨時快速「妙高ミズバショウ」ヘッドマークの掲出はできますが、特に臨時快速運用では名称を入れることはなく、普段着のままのNO・DO・KAです。この車両の走っている区間への撮影は過去にもこの時くらいしか例がないため、地方での走行シーンは唯一のものとなってしまいました。平成30年3月、485系NO・DO・KAの引退により、過去のものとなりました。
2023.05.04
コメント(0)

183系OM車:快速「エアポート常磐」「エアポート常磐」は、成田空港へのアクセスを目的とし、上野~成田線経由~成田空港間に設定された臨時快速列車です。需要の調査のような位置づけもあったようで、好調であれば定期化あるいは季節運転も考慮されていたかもしれません。車両は大宮センター183系を充当し、サボの設定が無いことから愛称名および側幕もステッカーが貼付されて運行しました。平成20年1月5日 成田線 木下~小林間にて成田線内では高速運転はできるはずもなく、単線運転による列車交換のロスもネックになったのではないでしょうか?平成20年1月5日 我孫子駅にて我孫子駅で発見したホームの案内表示。期間限定の割にはしっかりとした対策が取られているので、ある程度の重要性を持った施策のように思われます。平成20年1月6日 松戸~金町間にて常磐線を行く快速「エアポート常磐」。途中の停車駅が少ないので、乗客も少ないですね。平成20年4月29日 西川口~蕨間にてこちらは同年のGWでの写真。他の列車の撮影の都合もありましたので、回送を撮りました。朝の列車と午後の列車設定に大幅な時間があり、午前中~午後に掛けて東大宮操への昼寝回送があったので、運転に関係の無いこの区間でも撮影することが出来ました。ステッカー式ヘッドマークの恩恵写真です。ちなみに運転日は、2007年12月29日~31日、2008年1月3日・5日・6日2008年4月26日・27日・29日2008年7月26日・27日、8月30日・31日です。結局はそれほどの需要が認められなかったのか、たった3シーズンで運転を終えています。
2023.05.03
コメント(0)

日本油脂㈱武豊工場専用線その昔、現JR東海武豊線の終点武豊駅から日本油脂㈱武豊工場に向かう専用線がありました。昭和61年、当時の国鉄武豊線にSL「C56160」が走るということで、国鉄職員時代ということもあり、友人数人と示し合わせて休暇を申請、愛知県まで行ってまいりました。もちろん、目的はSLのみですから、特に他の車両などを狙っていたわけではありません。撮影2日目は、イベント気分を盛り上げるために終点の武豊駅まで出向いています。SLをバックに記念集合写真を撮ったり、窓口で入場券を買ったりと楽しんでいたのですが、武豊駅構内の奥に何やら車両が居るのを発見し、近寄ってみたのです。当時、そこに鉄道が、まして電化鉄道があるなんてことは全く知らなかったので、驚きあり、そして新鮮でもありました。※撮影は、昭和61年4月23日、日本油脂㈱武豊工場専用線跡地にて。※ 私も武豊線の存在すら良く知らなかったので、正直、解説できる立場ではないんですが、目撃者としての立場で報告します。最初に目に飛び込んできたのがこのような無残な風景。中途半端に線路が剥がされ、倒された架線柱が切断されたりと悲惨な姿になっていました。しかし、まだ廃止になったばかり、というのが明らかに判る状況でもありました。デ2形国鉄武豊線側の貨物輸送廃止に伴って、専用線も役目を終えざる得なくなったのでしょうか?かつては貨車を牽いて、輸送の玄関となる武豊駅と工場の間を往復していたようです。武豊駅寄りのボンネット上は、パンタグラフの下ということもあって油汚れが酷いですが、全体は比較的キレイで、整備されてそれほど時間は経っていないように見受けられました。モ101元西武鉄道の2代目モハ103ということですが、そのルーツは、大正11年製元西武軌道202形と、かなり古い車両が母体となっています。ク102こちらも元西武鉄道の2代目クハ1113で、やはり大正10年に製造された初代モハ102の電装解除改造車となっています。ク102 台車こちらはク102が履いていた台車で、当時は0系の古い気動車の実物を見たことが無かったため、このスタイルの台車を見て非常に驚いた記憶があります。もっとも、当時から鹿島鉄道とかを訪れていれば、現役車がほんの数年前まで居たわけですから、それほど驚くことも無かったでしょうけど。このような風景に出くわしたことは偶然にしても、良い資料が撮れて良かったと思いましたね。しかし、人間欲が出るもので、走っているシーンを撮りたかった、と思ったのは、私だけではなかったと思います。受け渡し先の武豊線が全線非電化であるにも拘わらず、その先の専用線に電化区間が存在するだけでも異色だと思ったのですが、さらには社員通勤輸送に電車まで存在していたとは・・・絶句でした。そして、専用線は廃止になってしまいましたが、これら3両の車両は1つ漏らさず保存されているということで、マイナーな専用線の割には幸運だったなと思います。西武鉄道の前身を物語る、大切な車両でもありますから・・・後世に大事に伝えてもらいたいもんですね。送料無料◆10-898 KATO カトー 郵便・荷物列車「東北」 6両セット Nゲージ 再生産 鉄道模型 【9月予約】10-898 郵便・荷物列車「東北」 6両セット(再販)[KATO]【送料無料】《09月予約》[鉄道模型]カトー 【再生産】(Nゲージ) 10-898 郵便・荷物列車「東北」 6両セット[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 3070-2 EF56 1次形
2023.05.02
コメント(0)

荷物・客車合造車:スハニ642143旧型客車で、客荷合造車と言えばオハニ61が有名ですが、オハニ61を電暖化した際に重量が変わり、結果として新形式が与えられたのがスハニ64です。暖房方式以外はオハニ61と何ら変わりません。昭和53年頃 黒磯駅にて スハニ642143昭和50年代、客荷合造車は亜幹線での使用が殆どであり、需要の多い東北本線では珍しい存在だったと思います。毎年数回、母親の実家へ行く際に、急行に乗ったり普通列車に乗って行ったりしましたが、黒磯口ではホンの数回しか見たことがありません。そういう状況の中で、たまたま旧型客車を撮りに行ったときに偶然にも居合わせたので、非常にラッキーだったと思います。[鉄道模型]カトー 【再生産】(Nゲージ) 10-034-1 旧形客車 4両セット(ブルー)[鉄道模型]カトー 【再生産】(Nゲージ) 10-034 旧形客車 4両セット(茶)10-034-1 KATO カトー 旧形客車 4両セット (ブルー) Nゲージ 鉄道模型(ZN107232)10-034 KATO カトー 旧形客車 4両セット (茶) Nゲージ 再生産 鉄道模型 【9月予約】3070-2 KATO カトー EF56 1次形 Nゲージ 鉄道模型 【9月予約】[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 3070-2 EF56 1次形
2023.05.01
コメント(0)
全31件 (31件中 1-31件目)
1
![]()
![]()
