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尾根ルート を登り高台に出ると
東に 関ヶ原 、この向こうから 織田軍が攻め てきました。
左は伊吹山 右手に姉川 が流れます。
ちなみに^^;私も向こうからやってきました。
~姉川~
1570年、 浅井・朝倉連合軍 (21.000)と 織田・徳川軍連合軍 (34.000)が姉川を挟んで合戦。
初めは浅井・朝倉軍が優勢だったが、徳川軍の善戦により織田・徳川軍が大勝利する。
義景の援軍は越前に敗走し、長政の軍勢も小谷城(おだにじょう)に逃げ込み、浅井・朝倉両氏の滅亡の遠因となった。
~大堀切~
この春、NHK教育で<城シリーズ>を特集していました。
この堀切は水を通す為ではなく、 防衛の為 のもの
背後から本丸を護り、ふもとから本丸を襲われても更に上の奥を護る。
この 堀切と石垣が貴重 だと言ってましたっけ^^
テレビだとすごくダイナミックに見えた・・・プロは凄い!
堀切の奥には、中丸・京極丸・小丸、山王丸と続く。
【中丸】大堀切の北にある曲輪で三段からなる。虎口を左右に振り分けて攻めにくくしている。
【京極丸】京極氏の屋敷跡と伝わる。1573年8月17日夜半、 秀吉に攻め落とされ 、久政(2代)の子丸と長政(3代)の本丸との 間を分断 されてしまう・・・
【小丸】久政(2代)の引退後の居住。秀吉に攻められ、介錯(かいしゃく)により49歳で自刀した。
~山王丸~
~大石垣~
城跡に残る 最大の石垣 。高さ5m、規模は本丸を上回る。大部分が崩壊しているが、東面に残る石垣に往時の姿を偲ぶことができる。
~山王丸跡~
最頂部、 山王権現が祀られ 、 小谷城の詰めの丸 。現在は小谷神社と名前を変えて、ふもとの小谷寺の一角に移っている。
~ちょっと^^お腹が空いた~
山王丸跡で一休み お弁当にする。
今日は簡単に作ってみました~おやつはビスコ(受け売り♪)
~何もない神社あとに~
このまま戻ろうか・・・大獄城跡に登ろうか・・・迷っていたけど
お腹が満たされたらその気になりました^^*
裏手の道から六坊跡に進みます。
~六坊跡~
久政(2代)は軍務や政務を司っていた6つの寺院が、分散していて不便だったためここに集めた。
~小谷山へ~
六坊の脇に分岐点あり。
左は清水口へ下る谷沿いの山道、右は更に100m高い小谷山(495m)への階段
山頂には城跡がある。
~大獄城跡~
1523年頃 亮政(初代) が築城されたと伝わる。2年後には六角氏に攻められている。1573年8月12日朝倉氏の援軍が城を守っていたが、 織田軍の攻撃を受けて落城 した。
~標高 495m~
尾根の坂はなだらで歩き易かったけど、
六坊跡から小谷山への 階段 は なっかなか~結構足にくる><。
~きのこ たぶん毒~
ひと月後なら、山一帯が秋色に染まるのだろう。
~大野木屋敷跡~
六坊跡の分岐点に戻り 谷に沿って続く階段を延々と下る。
登りの道が<陽> ならば
こちらの道は高い木が生い茂り 光もさほど入らない <陰>の道
~三田村屋敷跡~
谷の向こうに 重臣、大野木土佐守・三田村佐渡守の屋敷跡が見える。谷側、西側にわずかに野面積みの石垣が残る。
~布袋岩~
~蛙岩~
~子丸岩~
階段 (ノд・。) いったいどこまで続くのよ~足腰がガクガクしてきた。
谷ルートは木に囲まれて薄暗く なーんの景色も見えない。
冬は日本海から暗雲が流れてきて いかにも寒そう。
所々にある面白い石を見ながら テンションを 引きずり上げる。
写真だとイマイチだけど どの石もかなり大きいです。
~堅堀~
山城の斜面に沿って上下に堀り上げ土塁をもった堀で、敵が移動するのを防ぐ目的で造られた。
~御屋敷跡~
浅井亮政・久政・長政やお市の方とその子供、茶々・初・江が暮らした所と考えられる。
お屋敷跡はだいぶ下りてきた所にあり、
家臣の屋敷跡も谷ルートにまとまっていたようだ。
林道からは清水口は、もぅわずかだ。
~追手道~
清水口からの追手道を登ると 尾根ルートの出丸付近に通じる。
~小谷山~
向こうに見えるのが小谷山(大獄城跡)
ゆっくりゆっくりと歩いて 4時間の山城ハイキングでした。
~おまけに続く~
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