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知多郡南知多町豊浜鳥居海岸線に伸びる国道247号線沿いに目立つ「とら薬師」の立て看板と白い幟が目に止まり立ち寄ってみる、まだしばらくはお迎え要請はないだろう。国道沿いから南を向いて豊浜漁港を見据えるように光明寺は鎮座します。 二層の小ぶりな瓦葺山門の外観は海を間近にすることから、さながら竜宮城のように見えないでもない。無理があるかねぇ。生垣で周囲を囲み、中央に龍宮の門が建っています。四脚二層の門は梵鐘が吊るされた鐘楼門なのかと云えば、そうではなさそう。山号額「成道山」と書かれています、小ぶりな門に対しこの額の大きさは印象に残ります。この門の建立がいつ頃なのか、残念ですが分かりませんでした。この寺の伽藍の中では最も古いのではないだろうか?山門から境内の眺め。正面に本堂、右に庫裏、左手前は手水舎、本堂左に薬師寺という伽藍です。手水鉢のタコ口。龍ではなく、タイやヒラメでもない、蛸が清水を注いでいます。今もそうですが、古くから豊かな海の恵みの恩恵を受け賑わってきたこの地、その様子は尾張名所図会にも描かれています。日間賀島のタコは良く知られるし、近年は河豚の好漁場としても知られる。なぜ蛸になったのか経緯は知る由もありませんが、この地にあって蛸が清水を注いでも不思議ではない、豊な海の恵みに対する畏敬の念が蛸に現れているような気がします。寄棟瓦葺の本堂。この辺りは須佐と名が付きますが、この寺の由来は715年、須佐の漁師の網に仏像がかかったと云われ、漁師は小さな草庵を建て仏像を安置したと云われ、やがて堂宇を建立し善光庵と称し善導大師像として祀られたそうです。この像は後に愛知郡東郷町に鎮座する祐福寺で安置されています。1469年(文明元年)虎得上人が寺を再興し光明寺と改称されたようです。本尊は阿弥陀如来像。 本堂左の薬師堂。本堂よりもこちらに視線が行きます、こちらも寄棟瓦葺です。山門左に複数の石仏が纏められています。左からお釈迦様、如意輪観音、三猿神、青面金剛童子。右は1660年(万治3)頃の江戸吉原で遊郭を営み、吉原を牛耳ったと云われる地元の富豪松本清十郎家の墓碑。1681年(延宝9)にこちらの薬師堂の再建に尽力したそうです。その薬師堂がこちら。薬師堂に安置される薬師如来は行基の作と云われ、三河の鳳来寺、大井医王寺の薬師仏と共に一本の木から彫られた一木三体の像で、寅年の時に開帳されることから「寅薬師」と云われるそうです。それが通りにあった「とら薬師」はこれを指すようです。堂内は撮影は禁止という事なので写真で紹介できませんが、内陣中央には薬師如来と左右に日光菩薩、月光菩薩が安置され、外陣には複数の蛸が描かれた絵馬や、格子天井に描かれた色彩は今も鮮やかに残り見事なものです。その他にも県指定文化財の「算額」や町指定文化財の「地蔵菩薩」などが安置されています。解説によれば「算額は1752年(宝暦2)内海中之郷村の榎本犀助章清、大岩久次郎則重が、「小佐の薬師堂」と呼ばれ近隣のから厚く信仰されていた東方寺(現浄土寺)へ奉納したものだとされ、1873年(明治6)に薬師堂は光明寺境内に移築の際に合わせてこちらに移されたとあります。」境内にある解説には移築は明治6とあるけれど、南知多の指定文化財HPの算額の解説には移築は昭和6とあり食い違っているので、ここでは境内解説の明治6で記載しています。本殿左のごめんなさい地蔵。この手のお地蔵様、何とも言えない愛らしい表情をしています。以前名古屋市内で見かけた「ごめんなさい地蔵」もいい表情をしていました。「ごめんなさい」と言葉に表し、「手を合わせる子供はすばらしい大人になる」素直さを忘れたおやじ、言葉や態度で表すことは難しいものです、こんな表情ができれば・・・・・それはそれで不気味か?かわいい表情の地蔵の左に素直さを忘れたおやじの姿がある。烏枢沙摩明王像(うす様明王)トイレの神様としてお祀りされているのを見かけると思います。こちらの明王は独立して祀られています。手前の柄杓で水をかけて自分の汚れを水で洗い流す、さながら「水かけ明王」とでもいえばいいのかな?向拝の火炎は全ての汚れを焼き尽くし浄化してしまう強烈な力の持ち主。汚れを嫌うだけに像はとても綺麗、手水鉢にさり気なく置かれたタワシは像を磨いて自らの汚れを落としてくださいという事でしょう。それにより「ごめんなさい地蔵」の様に素直で汚れなきおやじに戻れる?……磨きが足りないようです。烏枢沙摩明王像の後方の地蔵堂。ふく供養塔。伊勢湾や三河湾のとらふぐは今では認知度が高いけれど、漁業対象となったのは1975年と意外に新しいようです、今では篠島や日間賀島を始め代名詞のようになり、本家の下関と競う程の漁獲を誇るそうです。恵みに感謝し建てられたようです。なんでもそうですが、最初に「食べれるかも?」とチャレンジした人は勇気があるものです。ふぐの右には魚天観世音菩薩。魚供養塔ですね、菩薩の足元には鰯のレリーフが置かれています、スズキだ、ヒラメだと言っても彼らがいてこそ。生態系の頂点に立ち糧を得るものとして、食物連鎖の過程に存在する生きものに感謝しましょうという事なのでしょうね。「いた~だきます」です。素木のシックな龍宮城の門をもう一度見上げて光明寺を後にします。今頃かみさんはどこを歩いているのかナ? 2020/1/18山号 / 成道山寺号 / 光明寺宗派 / 西山浄土宗本尊 / 阿弥陀如来創建 / 715年(霊亀元年)住所 / 知多郡南知多町豊浜鳥居37-2車アクセス / 知多自動車道「南知多」ICから内海方向国道247号線経由20分程南知多三十三観音・18番札所
2020.01.30
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名古屋市東区筒井3丁目31-21市営地下鉄東山線「千種」からJR中央線沿いに北へ歩く。正月3が日ということもあり、普段は交通量が多く、喧騒に包まれる錦通りも閑散として静まりかえり、JRのアナウンスだけが今日はやけに大きく聞こえる。人波を縫うように歩いたり、喧騒に溢れた街より、静まり返った街を歩くのは結構好きだったりします。物部神社は、桜通りに面した赤萩交差点角、ここも普段は交通量が多いけれど、行き交う車の少ない事、正にひっそりと佇んでいます。人や車の映り込みのない写真はなかなか撮れないものです。直接こちらを訪れるのであれば地下鉄桜通線「車道」で下車、地上に出れば街中の杜が視界に入ります。さぞかし初詣に訪れる参拝客で賑わっているかと思いきや、意外に少ない。写真は境内西側の鳥居と参道、大きな由緒書きが掲げられています。上の絵は明治26年(左)と現在の比較として掲載します。ひと昔前の1893年の地図には物部神社は記されておらず、ここから東は東部丘陵地にかけ田畑が広がり村が点在しています。ここに神社が記されるのは大正に入った1920年からです。玉垣が続く桜通りに沿いの歩道を東に向かいます。表も裏も気にすることはないでしょうが、こちらの鳥居は二つあり、個人的に鳥居の先に拝殿が見える側から境内に入ることにしています。東の鳥居から境内の眺め。神社幟と門松、提灯も吊るされ最高にドレスアップした光景でしょうか。東側の鳥居に掲げられた物部神社扁額。千種駅周辺は古くは物部郷古井村などとも称され、豪族物部氏一族の尾張の拠点があったとされるところ、かつて尾張や美濃には多くの物部神社が存在したらしいけれど、それらは合祀の道を辿り、尾張国の物部神社としてはここ1社、美濃国には岐阜市中西郷と岐阜県本巣市上真桑本郷の2社が残ります。境内右の手水舎。手水鉢の龍も清水を注ぐのにフル稼働。庭火が焚かれる境内の右に南を向いて二つの鳥居。右は物部天神社。左に黒光りした撫で牛、幟や提灯には梅の紋が入れそれを物語ります。左の鳥居の先の四社はかつての屋根神だと云われます。詳細は分かりませんが熱田社、秋葉社、津島社だろうか。屋根神様を探しに歩きたいと思ってはいるものの、思っているだけで行けていない。屋根神様の左の東を向いて祀られた社と大国主之命を祀ります。ここの狛犬はよく見かける白い花崗岩ではなく、色合いは茶を帯びた石が使われ落ち着いた印象を受けます。目つきや耳の垂れた顔立ちもなかなか個性的。参道は二手に分かれ左にも鳥居があります。奥には狛犬が二対と覆屋の先に一つの社。正面の社には神紋の橘の神社幕と物部神社の提灯が吊られています。阿形の右には物部白龍社の幟が建ち、細い参道があり先へ進むと物部白龍社へ続く。物部神社の提灯が吊られているけれど詳細はよく分からない。この社の前の一之狛犬、この黒ずみ方は風貌に貫録を与えている。その先にニノ狛犬、彩色が施された小さなものです、余程の暴れん坊なのか檻の中です。拝所から社殿を眺める。神域には神馬と手前に…蛙か?風化により原型をとどめていないけれど、これでも立派な狛犬。石から彫り出したものではなく、素材が土の様です。正面に社殿、左右にキノコのような小さな灯篭建つ。この特別な祀り方はなんだろう、物部神社の本殿はここだという話を耳にした事があるけれど、本当なのかも知れない。阿形の狛犬から先に進むと大きな御神木を挟むように南を向いて二つの社の物部白龍社が祀られています。桜通りの歩道から良く見ることができます。正面から撮るには近すぎるので、一旦歩道に出て玉垣の間からの全景です。境内の名古屋市教育委員会解説板と由緒書き。「この宮は延喜式神名帳(905)尾張愛知郡の部に物部神社御祭神宇摩志麻遅命と記帳され、また国内神名帳(1707)に従三位物部天神と記されている。天神とは天津神と申し上げ、称号です。尾張府詩には神霊は一魂の大石で神武天皇が当國の凶魁を討たれた時、この石を国の鎮めとなされたため要石と称され、この古事によって石神の名が起り、この様な大石は世に根なし石とも伝えられ、全国には水戸、鹿島の三か所に存すると言う。元禄年間(1688~1703)藩主徳川綱誠(三代)は社殿の重修遷宮され、俗に石神堂山神と称して近くの人はもとより、遠くの人々まで厚く信仰されています。明治元年式内社に治定、昭和28年本殿・拝殿造営遷座。昭和30年斎館が作られ現在に至る。境内には加藤博庸撰の祠文碑天明7年(1787)があります。例大祭 10月7日」御神体は要石と呼ばれる石の様です。橘の紋が入った提灯をくぐり拝殿に向かい参拝することにします。切妻瓦葺の妻入拝殿。由緒には昭和28年本殿・拝殿造営遷座とあり御神体は神武天皇がこの地を平定した際に見つけた大石「要石」。過去の地図で鳥居の表記が現れるのは1920年以降、明治に至っては表記もない。由緒に「石神堂山神とも称される」とある様に、それ以前は神社の形態をイメージしてはいけないのか?尾張名所図会を見てみます。距離の描写はアドリブでしょうが、手前の立派な伽藍の高牟神社の先、右上に物部神社は小さく描かれています。物部神社を拡大してみます。田畑が広がる中にポツンと小高い場所があり、その頂に四方を玉垣で囲われ、南に鳥居と拝殿?らしきものが描かれています。このこんもり感はなんでしょうか?尾張名所図会は江戸時代末期から明治時代初期にかけて刊行されたとされます、当時からそれなりの伽藍を持っていた事がわかるだけに、なぜ地図に鳥居がないのか・・・・・顔馴染みの拝殿前の狛犬。拝所から拝殿内。創建 / 垂仁天皇の御代祭神 / 宇摩志遅命(物部氏の祖神とされる)要石は本殿の下の土中にあると云われます。拝殿扁額。切妻瓦葺の妻入り拝殿全景。後方に本殿らしきものがあるようですが見通せません。拝殿左の西参道脇に六角笠の灯篭と社号標。その先を進むと社務所を経て西の鳥居に至ります。田畑はビルや住宅が広がり街の中にあって、物部神社のこの杜は喧騒を忘れさせてくれる貴重な存在です。『物部神社』創建 / 垂仁天皇の御代祭神 / 宇摩志遅命住所 / 名古屋市東区筒井3丁目31-21公共交通機関アクセス / 名古屋市営地下鉄桜通線「車道」駅よりすぐさてと、初売りで人の溢れる電気屋さんに行くかぁ
2020.01.28
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天気は下り坂、関節の天気予報は意外に良く当たる このところ近場の散歩に出かけていなかったけれど蕾が膨らんで来たなと思っていた梅の蕾、いつしか花が咲き誇っていた 春を感じるスイッチが入ったようです 「雪景色撮りたい」そう思っていたけれど、どうやら今年は望めないのか? 綺麗に咲き始めた梅、忖度も袖の下、サイコロの目も使わずに頃合いを見て咲き誇る 自然は正直なものです、桜は咲くのだろうかぇ殺風景な景色に色合いが増えていくのは楽しいものです陽も暮れ、今にも雨が降りそうです 固まりかけた関節に潤いを与えるには「銭湯」に限るこの時世、人混みは避けるべきかもしれないけれどこれは譲れない 明日は雨だな!
2020.01.27
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知多郡南知多町山海天神西南知多道南知多ICから内海を経由し、堤防が続く海岸線の国道247号線を15分程走る。小高い丘の麓、国道左に白く輝く神明鳥居が視界に入り立ち寄ってみました。『天神社』堤防を背にして神社全景を一枚。広い境内は鳥居の先は石灯篭と社殿、右に手水舎ととてもすっきりした印象。狛犬は見当たりません。スリムな印象の手水舎。拝殿正面全景。安定感のある一対の灯篭と切妻瓦葺の平入拝殿は温かみを感じる木張り。天神社ということなので、梅紋や撫で牛を探してみたけれど見かけなかった。大きなガラス引き戸がある拝所から参拝。拝殿から本殿。創建が新しいのか、建て替えたばかりなのか分からないけれど、伽藍全体はとても新しく感じます。少し調べてみるも2015年に法人格を取得したところまでです。社号標が一番古びていましたが、年号を見忘れました、鳥居には1934年(昭和9)とありました。神社が鎮座する山海天神西は古くは内海を中心に、江戸や大坂に結ぶ海上交通の要所として栄えていたそうです。1889年以前は久村、大泊、岩谷寺の三つの村があったようで、その後に山海村、内海町、南知多町と遍歴を重ねてきたようです。現在、天神西と東の地名がありますが、この神社を境に分かれているのかもしれません。創建は明治から大正末期ではないかと思われます。天神社創建 / 不明祭神 / 菅原道真御神徳 / 学問・受験の神、雷神、立身出世・農業の神拝殿と本殿を繋ぐ渡廊で見つけた狛犬。ここにいたか。後ろ姿しか見えていないけれど、随分と色白で肉付きの良い、頭でっかちかな?ここなら潮交じりの海風は避けられ、居心地はいいだろう。2000年(平成12)生まれ、ミレニアム狛犬という事です。拝殿から鳥居方向の眺め。鳥居の先の堤防、その先は伊勢湾が広がっています、お伊勢さん方向になるのかな。潮騒と潮の香漂う海岸に鎮座する神社は山海の学問の神『天神社』でした。住所 / 知多郡南知多町山海天神西2車アクセス / 南知多道南知多ICから内海経由で国道247号線を南へ15分程
2020.01.26
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名古屋市昭和区広路通5丁目の三体石仏堂昭和警察署の向かいに建つ小さな瓦葺のお堂があります上の写真は2018年に掲載した時のものです、当時から瓦の破損、梁などの木材の腐食が目立ち、車窓から眺めていても寂しい限りでした。最近前を通りがかって建て替えられた事に気付く。黒い瓦葺の外観は周囲に溶け込み、存在感に乏しかった堂、今風のハイカラな外観に変貌していました。劇的ビフォーアフターとでも言いましょうか。なんという事でしょう。それまでの暗くて切妻の重い瓦屋根から金属板の横葺屋根に変貌。三方吹き抜けだった暗い色調の木壁、今や素木の木目も鮮やかな明るい外観に生まれ変わりました。生まれ変わった新たな我が家にさぞかし住民の三体石仏も喜んで・・・・・ん?1、2、3・・・・・4、ついに数も数えられらくなったか?世帯主の大師像、お変わりないようで。首をかしげ「半跏思惟像」ポーズの如意輪観音は「何か悩みでも?言ってみい」とばかりに問いかけてくる。生まれ変わった新居に観音様も笑みがこぼれているような。新たな住人。どこかでお見かけしたような気がするが、あなた道路1本北に住まわれていた「馬頭」さんじゃないですか?「いえ〃私は・・・・・モジモジ」あなたのお顔は飯田街道でお逢いしてますって、人違いですかね?「実はその通り、話せば長くなるのであれなんですが諸事情がありましてねェ、丁度弘法さん家がリフォームされると聞いて、暗い一軒家に一人より新しくて明るい家にいい条件でシェアさせてもらった方が何かと・・・・・」そうっすか、大勢でワイワイガヤガヤ楽しいじゃないですか?。「そうなんです、目の前が警察署で治安はいいんですけど車の音がねぇ、慣れるまで大変ですワ」まあ、良かったじゃないですか、いつまでもお変わりなく。新築のお堂の中に令和2年と記されていました、通りにあって存在感を感じる住居ではないですか。馬頭観音が新たな加わり、三体から四体となり道行く人や車の往来を静かに見守っています。さて帰って馬頭さんの引っ越し先を修正するか。「川名の4体石仏堂」住所 / 名古屋市昭和区広路通5丁目15-2「あのおやじやっといなくなったねェ、ところで今晩仕事終わったらさぁ、馬頭さんの歓迎会で一杯やらない?」「いいねえ、私コンビニで仕入れてくるわ」「あん?またやんの?別にいいけど」「アザッス」
2020.01.25
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かみさんの知多四国八十八ヶ所霊場を巡る送迎で知多郡南知多町山海を訪れました。今頃は弘法大師を訪ね、微妙なアップダウンが続く道筋を歩いているはず。運転手のおやじは、国道247号線沿線の山海に来ています。山海漁港から北の小高い山の頂、そこに建つ赤い鳥居が視界に入り向かってみました。鳥居を目標に車を走らせる。山裾に巨大な「荒熊神社」の看板が、神社へは結構な上りが続くようです。駐車場は海岸の国道247号線から一本北に入った所に参拝者駐車場がありそちらへ駐車。駐車場には看板が整備され参拝口はそこから2~3分程。小高い山の裾野に写真の看板が建っています。そこから舗装された参道が頂に向かい続いています。入口の杖に嫌な予感もします。参道は右に続き、登り始めると山海の街並みとその先に伊勢湾が視界に広がります。ここからは眺望を眺めながらの「石段」が続きます。石段を数えながら登るも、奉納鳥居が連なる辺りで「あれ?何段だっけ?・・・・・」もう忘れた。石段の数は分からなくなったけれど、奉納鳥居を少し登った参道左に二体のお地蔵様が祀られていました。右のお地蔵様は「おきょうさま」と呼ばれる地蔵、以下のような由来が掲げられています。「昔、山海高座におきょうさまと呼ばれるお坊様がおられました。この方は山海の家々をまわられ病気や災難を除かれて、村人を助けながら千体の経文を石に書かれて世を去りその後に、土浪地蔵尊とともに祀られました。時代の変化とともに忘れられ六十八年も土の中に埋まっていました。今回、世に出すことができ、神社に祀ることになりました。一心に水と線香を供えてお参りください。病気平癒に不思議なご利益を頂けます。」左は土浪地蔵尊「水子や十歳にもならない幼子をお守りくださる地蔵尊です」お地蔵様から少し先に「荒熊神社」大きな看板、麓から見えていたものです。この辺りから南の眺望、陽光に輝く伊勢湾が広がり、遠く紀伊半島、神島、渥美半島が眺められます。手前に山海漁港、山海の街並みと参拝駐車場が眼下に見えます。普段街中の短い距離に慣れてしまった目には、こうして遠景を眺めるのも時には必要なのかもしれません。見える景色が妙に新鮮なものに感じます。視線を近くに戻し頂の境内を目指します。赤い鳥居を三回程くぐり石段を上がっていきます。最後の鳥居をくぐった先に赤い建物が見えてきます、これで石段も終わり。見えていた赤い建物は手水舎、山の頂にありながら龍口から清水が注がれていました。石段突き当りに社務所がありますが、常駐ではないようです。社務所から参道は右に、朱も鮮やかな鳥居とその先に拝殿。拝殿全景。「荒熊大神」の額が掛けられています。拝殿内に上がって参拝ができるようです。拝殿内全景荒熊神社「由来 荒熊大神は伏見稲荷大社奥の宮の熊鷹池に鎮座する熊鷹大神の霊場で修行を積み、人は因縁、自我、霊の災いなどによって苦しみ、悩むものが多く、それに哀れみを思い大正5年に修験者に着いて90年余り助け、救おうと現れた神。 祈願目、縁結び、家内安全、病気平癒、交通安全、大漁、進学成就。」ぽっくり弘法大師「年代は古くて定かではないが、お大師様を信仰していたお年寄りたちが、苦しみもなく楽往生したことが人づてに伝えられて、それが名の由来。」こちらのお守りを身に着けると、苦しむことなく寿命を全うできるとして参拝に訪れる方は多いようです。麓の弘法大師館でお守り、御朱印を頂けるようです。不動明王「不動明王は、厳しいけれども心を入れ替え精進する者に対して、救済の手を差し伸べる慈愛に満ちた明王です。(ご利益)交通安全・家内安全・商売繁盛・病気平癒など。」本殿祭神 / 荒熊大神、熊鷹大神、長者合槌命 山の頂ということもあり境内は広いとは言えませんが、限られたスペースに社殿と別社が建てられています。 拝殿右の「縁を結ぶ椿」「心をこめ鈴を鳴らし祈願することで縁は結ばれる」ようで、おみくじ掛けには無数のおみくじが結ばれていました。本殿右の傾斜地に三社が祀られ、神域は赤い玉垣が囲います。手前に霊神社と記されています。左と右手前の社は表記が読み取れず祭神は不明。右奥の社の祭神は弘安霊神、仲見大神、御興津彦大神、 御式大神、弘明之命。拝殿左に山神。拝殿左奥にも社。祭神は翁大神、緒畑大神。山海の山の頂から伊勢湾を望み、自然に囲まれた静寂な空間は清々しいものを感じさせてくれます。せっかく登ってきたのです、ベンチに腰掛け目の前の伊勢湾の眺めと青い空を楽しんでから下山することにしました。2020/1/18「荒熊神社」創建 / 不明 (明治末期~大正初期)祭神 / 荒熊大神、熊鷹大神、長者合槌命住所 / 知多郡南知多町山海高座1 車・アクセス / 知多半島道路「南知多IC」から内海経由20分程
2020.01.24
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名古屋市千種区赤坂町「弁天公園」かつての田代村と鍋谷上野村が一つになった東山村で、茶屋ヶ坂の集落から南の東部丘陵地にあたります。かつて赤土だらけの山野だったことから赤坂の地名がつけられたともいわれます。千種区鍋屋上野町の一部が1943年に同区赤坂町と名を変え、山野だったこの地は閑静な住宅地に変貌していきます。現在の弁天公園。公園の名の由来は当時このあたりにあった農業用の溜池弁天池から来ていて、宅地開発により池は埋められ、後の1944年に弁天池跡に作られたのがこの公園。この地に縁のある自分、物心ついた頃には既にここに池はなく、公園に整備されていた。よく此処で遊んだ記憶があります。当時、この公園の北側の一角の小高い場所に小さな社があった事だけは覚えています。変なものがあるな程度の頃です。当時のイメージは上の写真のような感じ。ばあさんに連れられ、ここにお参りに来るようになり、帰りに駄菓子を買ってもらえるお得感から、子供ながらにここは特別な場所という印象が芽生えた。純粋な頃のお子ちゃまも、今や煩悩まみれのおやじになった今、かつてのこの地を訪れると当時あった怪しい建物が無くなっていることに気づく。ずっと「あれ」はどうなったのか?記憶が違っているのか?気になっていました。周囲の景色は当時とはかけ離れていますが、公園の北角のこんもりした一画は今も残っています。そんなある日、ここの社と出会うことになりました。ここから西にある永弘院を訪れた際、境内で見かけた弁天様がそれでした。社の下で見かけた縁起の石板。そこに書かれていたのは「約500年近く弁天池の水神として農民から崇められてきたが、宅地化により見守る池は公園となり、1981年(昭和56)にこちら移設」とあった。子供の頃の記憶は間違いなかった、そして気になっていた社は廃社の道を辿ることなく、ここで出会えた事に懐かしいものを覚えました。弁天池の畔も今はなく、子供たちの遊び場となり、桜の時期には美しい場所です。社があった小高い場所はテーブルとベンチが置かれ御覧の通り。古くからここに住む者以外は想像できないことかもしれません。ここの社は西の永弘院の境内へ引っ越して行きましたが、社は故郷の弁天池を向いて祀られています。「弁天公園」住所 / 名古屋市千種区赤坂町公共交通機関アクセス / 市営地下鉄名城線「茶屋ヶ坂」下車南に徒歩5分
2020.01.23
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若狭彦神社(上社)から県道35号線を東小浜市方向へ車で5分も走れば若狭國一之宮『若狭姫神社(下社)』に到着です。県道沿いに少ないながら駐車可能なスペースが確保され、私達が訪れた時は空いていたので苦も無く駐車ができました。駐車場と神社の間には細い水路があり、社頭左に社号標と灯篭一対。社頭の灯篭は1774年(安永3)。この辺りは多田ヶ岳の北嶺、小浜から続く平野の南外れに位置し、若狭彦神社に比べ周囲は住宅が多い。住宅の少ない上社とは違い、下社は人と神社が身近につながる環境。鳥居前から住宅が並ぶ東の眺め。良く見れば、その先に石造りの鳥居が見えます、一ノ鳥居です。後で知ったことですが、この鳥居の脇には社号標と一対の狛犬設置されています。その狛犬は容姿も個性的で古びたもの、またニノ鳥居に向かう途中にも稲荷社と小さな神社があったようです。一旦戻って一ノ鳥居から境内に進むべきでした。県道から神社全景。社頭右の由緒。「名称 若狭国一宮、若狭彦神社下社又、若狭姫神社、遠敷神社と称し、上社を併せて若狭彦神社とも上下宮とも称される。延喜式名神大社。祭神 龍宮伝説で知られる豊玉姫命を若狭姫大神と称祀。所在地 福井県若狭国遠敷郡遠敷村遠敷、昭和26年町村合併に伴い小浜市遠敷となる。創建 奈良時代養老5年辛酉2月10日、昭和58年より1262年前祭日 下社 3月10日、上社 10月10日」目を引いたのは由緒の下に書かれていた「安全運転の誓い」で以下の様に書かれていた。「自動車は、車体、タイヤの原材料である鉱物、植物、加えてガソリンという天地自然の恩恵、人の尊い勤労で生み出された「神霊の宿る生きもの」、車を買ったらお祓いを受け若狭路を走りましょう」車をお祓いする意味にはこうした意味合いもあるようです。 石橋から境内の眺め。鳥居、髄神門、本殿が一直線に並びます。参道に入った左手に手水舎。右に社務所。神職は常駐なので、こちらで上社の御朱印も頂けます。社務所の向かいに北前船の模型が展示され、この地が古くから日本海の交易で栄え、鯖街道の起点となった事を伝えています。髄神門。上社のものと造りは同じ様です、屋根は全面檜皮が現れています。下社の門も上社同様に左右に四体の随神像が狭い空間に肩並べおさめられています。祭神のSP、眷属八人を表しています。文化元年に掲げられた遠敷神社額は黒漆の地に金箔を施したものだったらしい、今は漆も金箔も剥げ落ちています。門前から望む神門、菊の紋が入った紫の神社幕。乙姫?と所縁があるせいでしょうか女性の参拝客が多いようです。社殿全景。上社同様の神々しい空気が漂います。本殿左の御神木「千年杉」幹の太さと樹高の高さ、自然の営みの凄さたるや。人はこうした自然に何かを感じ、神格化し崇め守り伝えてきています。神門前のこの空間、ここに関して解説はなかったので何とも言えないけれど、過去に拝殿があったのかな?この灯篭は1692年(元禄5)寄進のもの。板敷回廊で囲まれた四脚門も上社を踏襲しているようです。苔むした屋根と板敷回廊、落ち着いた外観です。苔の緑が鮮やかな神門から本殿の眺め。参拝を終え、中を窺う、正面に鏡が鈍く輝いています。創建 / 721年(養老5)祭神 / 豊玉姫命本殿左方向から流造の本殿。大棟の彫飾りと鬼紋は金色の菊紋。外観では唯一煌びやかな部分。境内右手の神楽殿。建立された時期は調べきれませんでした。松と竹が描かれているようですが、三面吹き抜けでは退色するのもしかたがないか。オリジナルに修復された彩りを見てみたいものです。本殿右の玉守社。杉林の中にポツンと祀られています。祭神 / 玉守神本殿左、中宮神社。祭神 / 玉依姫の命(豊玉姫の妹)神徳 / 子育て守護、福徳円満境内の一番左に夢彦神社、夢姫神社夢を司る神としては全国でここだけだそうです。上招霊の木京都御所から明治時代に拝受したもので、祭祀の際に神霊の招請に用いるそうな。下夢彦神社、夢姫神社の左に男根陽石陰石、子種石、陽石の三種で想像力が豊かな方にだけイメージできるものなのかも。地上に露出したものか、どこからか運ばれたものか詳細は分かりません。若狭國一之宮『若狭姫神社(下社)』千年杉の自然の力強さと神秘さが満ち、自然への畏敬の念を感じる特別な空間です。住所 / 福井県小浜市遠敷65-41
2020.01.21
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知多郡南知多町内海小桝知多半島の西海岸線を走る国道247号線、内海千鳥ヶ浜海水浴場から車で5分程の海岸に「礫ヶ浦鳥居」はあります。国道沿いのパーキングで車を止め海岸線に向かいます。堤防では無数のカモメが人を怖がることなく一休み。このあたりのカモメは人からおやつを頂戴しているようなのか、手から直接与えることができるほど人の動きに合わせ近寄ってきます。だが、残念ながら菓子は無い。国道沿いに歩くと写真の様な案内板があるので、この看板を目印に海岸に出るとわかりやすい。海岸は堤防を挟んで砂浜と岩礁帯に見事に別れていて、堤防があるとはいえ別世界の様相。海岸線を歩いて見つけた道標。鳥居の材料も伊勢神宮からおさがり「京道」「丹波街道」と彫られているようですが、なんというかおおざっぱな道標だと思う。訪れたのは1月18日、当日は風が強く、暖冬とは言え海岸線を吹き抜ける塩交じりの風はとても寒い。先の海岸に小さく鳥居が見えてきました。礫ヶ浦鳥居に到着です。岩盤の上に神明鳥居が建ち、右側に大きな黒い岩がポツンと不自然に転がっています。鳥居の先は伊勢神宮に続きます。礫ヶ浦鳥居の正面にある由来。「この海岸は約1,500万年前の地層、火山活動・海底地震が生み出した大津波のエネルギー海底の大きな岩を運びこんでが作り出した。波打ち際の黒い石は礫岩と呼ばれる片麻岩で、その下は泥岩である。この礫ヶ浦の石は対岸の三重県伊勢市の岩の組成と同じもりだと云われます、伝説によれば天照大神を始め、伊勢の神様達が景色のいい南知多内海の海岸を目掛け石の投げ比べを行った。その中でこの地に届いたとものが礫ヶ浦だと云われる。大きな石は東の山、伊勢山(高峯山・標高128㍍)となり、小さな丸みのある黒い岩は礫岩となり海岸に散在する。この鳥居の正面は伊勢神宮、地元の人からは伊勢遥拝所としてここからお詣りしている。鳥居の部材は、20年毎に行われる伊勢神宮遷宮の際に出る古材を譲り受け、建立された」俄かに信じがたいものが残る・・・・・と言うのが夢のないおやじの感想。鳥居は伊勢神宮の鳥居と対面しているとされ、元旦には対岸の伊勢を向いてお参りする場所。こうして見える対岸の先が伊勢神宮と云われるとそうなのかもしれない。礫ヶ浦に鳥居が建てられたのはいつ頃だろう?、調べてみたけれどそれは定かにはなりませんでした。言えるのは、こうした黒い岩礁帯はここから師崎、日間賀島にかけて続いている事くらい。一風変わった土地の様相は神の戯れにより生まれたもの。礫ヶ浦鳥居住所 / 知多郡南知多町大字内海小桝96
2020.01.20
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名古屋市千種区上野にある臨済宗妙心寺派のお寺。交通のアクセスも良く、基幹バス「谷口」で降車、南に歩いて二~三分程。永弘院は近年補修が行われ、寺の西側から見る印象は子供の頃から比較すると綺麗なっている。何より大きな変貌を遂げたのは、写真左の駐車場。以前は小さな公園があり、そこには赤い社の八坂社が南を向いて鎮座していた。現在この八坂社は姿を消し、ここから東の上野天満宮の晴明殿(2017年造営)に合祀されたと聞く。ここから東に弁天公園がありますが、以前は公園北角の小高い場所に小さな祠があった、いつしか社もなくなっていました。推測になりますが、こちらも恐らくは上野天満宮で合祀されているのではないかと。当たり前の様にそこにあったものが、ある時気付けば姿がなくなっていると妙に寂しい思いに駆られる。ここ数年、近隣の長養寺なども含め改修ブームの様です。山門を構える南側からの伽藍全景。永弘院の南に小学校があるけれど、一帯はかつて上野城(1532年~廃城時期不明)があった辺り。城の遺構はなく、境内に城址の碑が立つのみ。山門。造営時期等は定かにならないけれど、伽藍の中では鐘楼と並び古いものです。右に「上野山 永弘院」の寺号標。子供の頃は「えいこういん」と教えられてきましたが、因みに「ようこういん」と読みます。木造瓦葺の切妻の四脚門。門から窺う境内、手前に百度石、敷石の先に夕陽を浴びて赤く染まる本堂。東海四十九薬師霊場28番札所。東海四十九薬師霊場とは三重県名張市の勝宝院福就寺を一番札所とし三重、愛知、岐阜の薬師如来巡礼するもの。木造の山門に土塀の白が冴えています。永弘院は幾度も焼失を繰り返して、都度再建されて来た、先の戦争でも空襲に見舞われ、山門、鐘楼を除き焼失。延焼を免れた山門、鐘楼には当時の火の勢いを示す焼け跡が残っています。山門をくぐり境内へ。綺麗に手入れされた庭の先に、正面に本堂、右手に石塔と庫裏、寺務所。境内右手の手前の鐘楼と奥の事務所。以前はこの右手に地蔵堂があったけれど、老朽化によりこちらに安置されていた地蔵は新たに新築した観音堂に遷座されています。現在は空の建屋のみです。四足の瓦葺り鐘楼。瓦には山号と寺紋の三階菱が施されています。梵鐘は戦時中に供出される憂き目にあうも、戦後に再び鋳造されたものです。除夜の鐘を突くことができ、毎年それを楽しみに訪れる方も多いようです。山門左の放生池、右は観音堂。観音堂。境内西に建ち、2019年に三十三観音、馬頭地蔵などがここに纏めらました。地蔵堂から遷座の際、像は水洗いされ永年の汚れを落とし、こちらに安置されました。放生池の袂に弁財天の碑。石橋の先に、東を向いて石の祠の弁財天が祀られています。ここで初めて分かったことがありました。この弁財天は先に書いた弁天公園に祀られていたものです。縁起によると、約500年近く弁天池の水神として農民から崇められてきたが、宅地化により見守る池は公園となり、1981年(昭和56)にこちら移設したらしい。本堂。本尊は薬師如来。創建は1538年(天文7)とされる。信州小笠原家後裔の下方氏一族の下方貞清が開山。上野城の北東にあった藥師堂に祀られていた薬師如来を本尊として建立されました。本能寺の変以降、下方氏一族は荒廃、それと共に永弘院も衰退していきます。当時上野村と呼ばれ、村人、檀家の支えにより、村の禅寺として伽藍は整えられていきます。以降も幾度となく災害に見舞われますが、都度再建され現在の姿に至ります。境内西の水子地蔵尊。その右に二体の石像が安置されていますが、詳細は不明。境内で見られる子供の石像。印象に残る表情のものしか掲載しませんが、ほかにも複数安置されています。山門をくぐった境内右隅に建つ上野城址の碑。築城年1532年(天文元)頃の、二重堀を持った平山城だったと云われる。現在は城の名残はなく、この碑がそれを伝える。永弘院(ようこういん)宗派 / 臨済宗妙心寺派山号 / 上野山創建 / 1538年(天文7)本尊 / 薬師如来。住所 / 名古屋市千種区上野1丁目4-18公共交通機関アクセス / 基幹バス2「谷口」降車、南に数分
2020.01.19
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福井県小浜市龍前2019/11/16小浜市の南東にある若狭國一之宮『若狭彦神社(上社)』を訪れました。多田ヶ岳の麓に鎮座する古社、上社と下社の2社を総称し若狭彦神社や上下宮とも呼ばれ、パワースポットらしい。上社の若狭彦神社。社頭に2~3台の駐車スペースしかなく、運良く一台分の空きがありスムーズに駐車できました。運が悪いとしばらく待つことにになるやも。若狭彦神社鳥居前から参道の全景。杉の大木が参道を包み込むように大きな杜を形作っています。薄曇りのとは言え、参道は真昼間でも薄暗く、神聖な空気が漂う空間は奥へと続きます。「若狭彦神社」社号標。冒頭記載したように若狭彦神社は上社と下社の2社の総称。ここは上社ですが宮司不在で境内に社務所はなく、御朱印は下社(北に1.5㌔先に鎮座)で頂くことになります。日本神話に残る海幸彦と山幸彦の兄弟のお話は御存じかと、ここは海幸彦(火火出見尊)を若狭彦大神として祀る神社。なので古来より、海上安全、海幸大漁の守護神として、若狭國一之宮として崇敬されています。下社の祭神は海幸彦のパートナー女豊玉姫を祀ります。鳥居前を守護する狛犬、小顔で肉付きの良い勇猛果敢な凛々しい容姿です。鳥居をくぐり境内へ。参道を包み込むように杉の巨木が杜を形作っています。苔むした参道。無人でありながら、参道に枯れ葉が積もる事もなく日々手入れがされているのがよく分かります。参道はここから先で右に曲がっていきます。参道途中の二本の杉の巨木「夫婦杉」。実は根本は一本で途中からこのように別れたもので、パワースポットとされます。右の杉が過去、左の杉が将来、その杉の間の空間が現在を表すそうです。この二本の巨木の間から空を眺め、過去を思い、将来の運命・運勢・幸運などを願うのだそうです。また、夫婦和合、良縁成就にご利益があるパワースポットらしい。参道を進むと正面に表れる素木造りのシックな門は「髄神門」。江戸時代に造営されたと云われる入母屋造りの一層の八脚門。奥には神門が見えています。髄神門。派手な彩色や飾り金具を敢えて避けたようなシックな門です。屋根は金属材で葺かれているようです。門をくぐり始めて髄神が祀られていることに初めて気が付く。髄神と云えば正面を向いているものだと思っていたけれど、こちらの髄神は通り過ぎるものを見据えるように通路に対して対面して祀られています。左右に夫々に4体、計8体の髄神が祀られているのも珍しいのでは。門の中も外観同様派手さはないけれど、桐や菊の紋がさり気なく彫られています。若狭彦神社由緒上社・若狭彦神社の祭神は「彦火火出見尊」を祀る。遠敷郡下根来村白石の里に表れた彦火火出見尊、その姿は唐人のようであったという。次いで女豊玉姫が現れた事から、714年(和銅7)に両神が降臨した白石に仮社殿を営んだのが始まり。今の地に遷座したのは715年(霊亀元年)と云われ、白石の前鎮座地には、若狭彦神社境外社の白石神社が残っています。女豊玉姫を祀る下社の若狭姫神社は、721年(養老5)に上社より分祀して創建されたもの。無人ということからでしょうか由緒や解説が掲げられ、初めて訪れた者にはありがたいものです。髄神門から神門の眺め。神門と本殿の全景。静寂の杜に包まれ佇む若狭彦神社は趣のあるものです。周囲は板敷回廊で囲われ、檜皮葺き流造の高い屋根を持つ本殿は、10本の鰹木と内研ぎの千木が施されています。右手に小社が祀られています。手前の四角い一画、以前の拝殿跡で昭和40年に台風により倒壊してしまったようです。入母屋の拝殿だったようですが、今は6個の礎石が残るのみです。境内左に宮山の湧水が注がれる手水。神門。1830年(天保元年)に造営された桧皮葺の切妻造りの四脚門。彩色はなく素木の落ち着いた印象を受けるものです。手前の灯篭には1692年(元禄5)と刻まれています。菊の紋の入った神社幕、その前に吊るされた大きな鈴を鳴らして上社参拝です。静かな境内に鈴の音だけが響き渡ります。 1905年寄進の立派な鈴です。本殿。檜皮葺の流造りで1813年(文化10)造営、本殿も素木造。屋根の曲線を見るため神門右から本殿を撮ってみました。一周する事は出来そうなので、流造の優美な曲線がよく見れる場所があるかと思います。本殿右の小社は若宮社。鵜葺草葺不合命を祀る。ここから本殿を一周できそうな気もするが、やめておこう。神門から見る髄神門、苔が一面に広がる拝殿跡の礎石。こちらから見ると髄神門の屋根は檜皮が現れています。下界の喧騒とは全く無縁で、鬱蒼とした杜に囲まれた若狭彦神社は、自然が持つパワーを感じることができる別世界かも知れません。薄暗い境内参道から鳥居の眺め、俗世界に戻り下社・若狭姫神社に向かいます。鳥居付近で見かけた案内板上社・若狭彦神社、下社・若狭姫神社の2社からなる「若狭彦神社」下社も参拝しない訳にはいかないでしょう。若狭國一之宮 上社・若狭彦神社創建 / 715年(霊亀元年)祭神 / 彦火火出見尊住所 / 福井県小浜市龍前28-7
2020.01.18
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名鉄瀬戸線(瀬戸電)「尼ヶ坂駅」から南へ徒歩約10分も歩くと、北垂れの傾斜地が現れます。この辺りは芳野2丁目、静かな住宅街が続き、小洒落たお店も点在します。瀬戸電の清水駅から森下駅周辺を車窓から南を見ると、小高い丘の様相。崖下から北へ低地が続き、その先は矢田川に広がりを見せています。その昔の名古屋台地の北外れと言っても過言ではないでしょう。この丘の高台にある高校の北斜面に細い道路があり、その道の奥に赤い鳥居が見えるはずです、今回の目的地は「義市稲荷社」。神社前から道は右に折れ、瀬戸電の高架下に向け緩やかに下っていきます。左手の建物が高校の校舎、その建物を支える法面と境内の高さ比較すると結構な斜度なのがよく分かります。この時期なので草木も枯れすっきりした印象がありますが、夏場には赤い鳥居以外は鬱蒼と生い茂る木々に包まれ全体が見通せないかも知れません。右手の義市稲荷社と刻まれた社号標、奉納されたのが昭和49年とあります。義市稲荷神社扁額。恐らく伏見から勧請したものだと思います。創建は1628年(寛永5)と云われ、尾張徳川家、名古屋藩付家老の竹腰正信の屋敷に祭祀されたのが始まりの様で、1871年(明治4)の廃藩置県により上地となり、1874年(明治7)に共祭公許となったようです。この神社は片山八幡神社の管轄にあるようなので、こちらに問い合わせると詳細な事もわかるのかも。鳥居脇の手水鉢、年号未確認です。本殿前の狛狐、痩せ(狐はこんなもんか?)ていて、右の狐の顔は風化して表情はよくわからない。台座の奉納年度は意外に新しく1938年(昭和13)とあった。妙に哀愁が漂う狐です。切妻瓦葺の建物は本殿かと思いきや、鞘堂のようです。薄暗い堂内を覗かせて頂き、ノールックで撮影する、そこには正面に社殿と左右に小さな社が祀られているようです。社の屋根は多分檜皮葺きだと思われますが、屋根はグレー一色で不思議な色合いを呈している。これは何?、埃りが堆積しているのか?よもや・・・・・相殿の祭神は良く分からない、宗像社と春日社、天神社の合殿だとも語られていますが、この絵だけでは何とも確証が得られません。言えるのは、供えられた榊はフレッシュで小まめに面倒みられている事ぐらいでしょうか。こうした方や参拝に来られた方に直接伺う機会があるとすっきりするのでしょうが、どなたにも遭う事はありませんでした。祭神は食物の神、倉稲魂尊を祀ります。義市稲荷社から北の眺め、道は瀬戸電の高架に向け緩やかに下り続けています。静かな住宅地そのもの、地名の芳野は竹腰氏の家臣吉田弥四郎が、ここから少し西の高台にある片山神社境内に吉野桜を植えた事に由来するらしい。この地が竹腰氏のお膝元だった事はここからも伺えます。義市稲荷社創建 / 1628年(寛永5)祭神 / 倉稲魂尊住所 / 名古屋市東区芳野2丁目7-29公共交通機関アクセス / 名鉄瀬戸線「尼ヶ坂」駅から瀬戸電高架沿いに東へ徒歩約10分
2020.01.15
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岩倉市本町南新溝廻間、新溝神社の杜から西側に歩いても1~2分の距離に神社が祀られています。名鉄犬山線の線路沿いの岩倉北小学校校庭南角の一画に鎮座するのは「招魂社」。校庭の南側の道路に面し一ノ鳥居と「岩倉町招魂社」の社標が建っています。後方の建物は校舎で、更に右手に校庭が広がっています。一ノ鳥居をくぐり、境内へ。参道は左に折れ、正面にニノ鳥居、その先に社殿。建立の詳細は不明ですが、鳥居には昭和11年と刻まれており、この前後が建立時期と思われます。招魂社は明治維新前後、または以降に国家のため、戦争や公務で殉職された方々を奉祀した神社。全国各地に広く祀られる指定外護国神社は、忠魂社や英霊社等と様々で、東京、神奈川を除く各県に一社、指定護国神社が建立されています。愛知県の護國神社は名古屋市西區南外堀町に鎮座しています。祖国のため、公務の為に尊い命を捧げられた方々、岩倉市の戦没者は、480余柱に及んでいます。先の大戦等により、多くの市民も犠牲となり亡くなられているそうです。今の繁栄と平和な日々は、こうした尊い犠牲の上に成り立っているといっても過言ではない。北区の忠魂社は杜と草に覆われ、ひっそり佇む社の姿を見て言葉に表せないものを感じたけれど。岩倉招魂社は明るい境内から、子供たちの声を聞きながら変わりゆくこの地を見守っている。新溝神社初詣の参拝客も招魂社まで参拝される方は少ないようです。それ程遠くはないので、こちらにも感謝の意を込め参拝に足を向けてはいかがでしょうか。ニノ鳥居から東の眺め、校庭が広がりそこで走り回る子供たちを見守る様に鎮座する「招魂社」です。名鉄犬山線の線路から見る招魂社、車窓からも大きな木々の間に見える社は良く見えるはずです。岩倉 招魂社住所 / 岩倉市本町南新溝廻間36-3公共交通機関アクセス / 名鉄犬山線「岩倉」下車北に徒歩15分
2020.01.14
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2020/1/1毎年恒例、かみさんの実家に新年の挨拶と岩倉の総鎮守神明太一宮の初詣に訪れました。 新年を迎え普段送迎の車の多い岩倉駅西口ローターリーは車も少なく静まり返っています。上は右がこの地の明治24年頃と現在。岩倉街道を中心に集落が点在し周囲は田畑が広がる、現在の岩倉駅周辺は特に民家が集中している事が分かります。岩倉駅からは線路沿いに徒歩5分程。公共交通機関のアクセスも良く、駅からも近い。岩倉市中本町西出口に鎮座する神明太一宮(社)は岩倉市を含めた4市3町の総社。そうした事から社頭や境内には初詣に訪れた参拝客で賑わっています。地元の方々から如何に崇敬されているのかが良くわかります。境内右に神池と太鼓橋があります、現在周囲は柵で囲われ立ち入り禁止となっているようです。新池の先に手水舎と入母屋瓦葺の建物は神饌所だろうか手水舎の左に神馬。腹部に丸に太一の神紋が入っています。太一とは、古代中国の思想で宇宙、天地、万物の根源とされ、日本では天照大神と捉えるそうです。神宮雑書には鳥羽天皇奉献の神領の地で、1113年~1118年(永久年間)に伊勢神宮を勧請、奉斎した神明社とあります。この太一はそうしたお伊勢さんとの所縁から神紋に使われているのでしょう。鳥居の正面には石造りの蕃塀が不浄な者の侵入を防いでいて、その先に切妻平入の拝殿と本殿の伽藍。神明太一宮の創建年代などの由緒ははっきりしませんが、鳥羽天皇が奉献した神領の地であり、前述したように平安時代以前から伊勢神宮と所縁がある神社で、北伊勢大神宮とも呼ばれた様です。戦国時代の1559年(永禄2)、信長の岩倉城攻めで社殿を焼失、1594年(文禄3)に再建されたもの。以降は徳川家康の四男で尾張藩主の松平忠吉(1580~1607)の棟札が残存、尾張德川家から厚遇されたようです。祭神は天照皇大神、豊受大神、国常立尊、倭姫命。境内社には稲荷社、子安社、白山社、天神社、津島社、市神社、猿田彦神社、出雲社。境外摂社は東町神明社、大市場町神明社、大地町神明社、南新町神明社。境内左の猿田彦神社(左)と出雲社。更に右には子安社が祀られています。この西側に参拝駐車場があり、車で訪れても駐車場所に困る事はないでしょう。拝殿左手にある白山社と津島社が祀られています。拝殿右手にも同じ様に市神社、天神社と本殿右手に秀成稲荷神社があります。初詣と言う事で大勢の人写りもあり、これ以上の撮影はやめる事にします。我家情報、ここのおみくじは息子曰く大吉が良く出るとしている。息子が小さく可愛かった頃、地元の神社で大吉が引けず、実家に向かう途中の神社で引きまくり念願の大吉を「当たった」と称し大喜びしていた事を思い出す。何か違っているが子供の頃はそんなもんです。大人になった彼は今年もここで参拝しおみくじを引いていた。「当たりかい、外れかい?」結果を尋ねると「教えない」とな、マァ可愛くないこと。『新明太一宮』創建 / 不明祭神 / 天照皇大神、豊受大神、国常立尊、倭姫命住所 / 岩倉市中本町西出口4公共交通機関アクセス / 名鉄犬山線「岩倉」下車徒歩5分程
2020.01.13
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win7サポート終了まであと二日となりました。会社のPCも一部7が残っている、以前ならリスクを回避する側だったけど、現役卒業しバトンを渡した身としてはお手並み拝見です。十分に事前案内もされ、更新の猶予はあったはずですが間に合うのだろうか?永年快調に動いてくれたwin7、悩みながらも昨年末には代替機更新を決め事前に買ってはいたものの、使いにくくて今日まで7ばかり使ってきた。けれど、いよいよ本当にお別れとなりました。今日は漸く更新機を開梱し朝からセッティングに取り掛かる。漸く設定も変更し、CORTANAさんとも意思疎通ができるようになった。困ったのは、アカウントをさっぱり思い出せず古い設定を探すのに時間を費やした形です。パスワードやアカウント情報をソフトに依存せずやってきたけれど、それがハンデになってしまった。今回wifiは繋がないことに、以前なら気にしなくてもよかったけれど、これだけ見覚えのないものが一杯入ってくると繋ぐ気にはなれませんでした。パスワードかけてますよね?それにしても変える度にPCの能力は上がり、薄く、軽く、静かになってきたものです。驚くばかりです。CORTANAさんのお顔は拝見していないが、声が妙にそっけない。アシスタントととして期待はできなさそうです、秘められた何かがあるのでしょうが、今はそこまで彼女の扱い方を理解していません。「CORTANAさんエクセル立ち上げて」・・・・・エッジの検索が立ち上がるだけ・・・・・。期待したおやじが世間知らずでした。いつになれば音声操作ができるんだろう?画面なんか触らないし、タッチ操作より最も欲しい機能である。いまだ動いていないものがあるけど、今日から使う・・・・・しかない。納得いかない買い替えを強いられたユーザーもみえると思いますが準備は整いました?
2020.01.12
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和泉國一之宮 『大島大社』から今回の青春18切符大阪寺社巡りの最終訪問地に向かいます電車内でかみさんに目的地を訪ねると世界文化遺産に登録された「百舌鳥・古市古墳群」の中心的な存在「仁徳天皇陵」へ行くらしい。鳳駅から阪和線で最寄り駅「百舌鳥駅」までは3駅、時間にして10分少々。「百舌鳥駅」から仁徳天皇陵は徒歩で5分も歩けば着いてしまう距離。駅を降りると写真の様なマップが掲示され、世界遺産に登録されPRに余念がない。子供の頃は仁徳天皇陵と教えられた気がするけれど、今は「大仙陵古墳」と言うべきなのかな?修学旅行にでも行く来たかの様なワクワクした気分になる。世界遺産に認定されたのは2019年の事、登録の対象範囲は大阪府南部の堺市、羽曳野市、藤井寺市の3市にまたがり、4世紀後半から5世紀後半の45件の49基が対象という。その一つを訪れようとな、面白い!。ただね、デカい(全長460㍍)と言う事は巨像に纏わり付く蟻の様なもの、全容を捉えるには無理がある。なにせ世界一の墳墓。しかも今は当時と違い墳丘全体は木々が生い茂り古墳の姿ははっきりしない。遥か先に大仙公園と手前にこんもりとした里山が見えてきます。周囲は柵で囲われ公園なのだろうか?いえいえ、ここは既に古墳が密集するエリアに突入しています。見えていたのは収塚(おさめづか)古墳傍から見ると柵で囲われた小山そのもので、頂きに社を構える鎮守の杜の雰囲気が漂います。まるで円墳の様に見えますが、前方後円墳。解説板も整備され、そこに描かれたイラストで漸くそれを知ることになります。5世紀頃に作られた全長60㍍を超える古墳、前方部分は削平され濠は埋められています。なので円墳の様に見える訳です。「陪塚」と呼ばれる小型の古墳、大型の古墳の周辺に親族や副葬品を埋葬したと云われています。埋葬品は埴輪など出土しているようですが、主は分からないようです。尚、ここから西には長塚古墳と呼ばれる前方後円墳もあります。大仙古墳の案内板古墳の密集地なのが良くわかります。古墳好きにはたまらない場所かもしれません。大仙公園の中で目を引く白い像は百舌鳥耳原由来の像像は仁徳天皇で傍らに鹿が寄り添っています。日本書紀に「仁徳天皇がここへ御陵を造営の真っただ中、野から突然現れた鹿が作業域に走り込んできた。鹿は何故かそのまま倒れ、引き裂かれた鹿の耳からモズが現れ飛び立った」それが百舌鳥耳原の由来らしい。百舌鳥は大阪府の鳥でもあるようです。仁徳天皇陵拝所付近にレプリカが置かれています、当然ながら縮小されている訳ですが、これが作られた当時の姿を知るうえで一番分かり易い。今は杜となっている墳丘も白く輝く丘のように高く長く聳えていた訳です。海岸線が迫っていた頃には、船でこの地を訪れる者に、巨大なモニュメントとして国力を象徴する意味合いもあったとか。こうして見ると宇宙船の様に見えなくもない、人工的なものが持つ美しさみたいなものを感じます。仁徳天皇陵の周濠。もとは3重の濠が取り囲み、外濠は江戸時代に一度埋められたようですが、明治に入り再び掘り返したようです。二の濠の前に神明鳥居が建てられており、古墳は三の濠の更に先にあります。仁徳天皇陵拝所。私たちが立ち入ることのできるのはここまでです。ここは厳粛な空気感が漂う特別な空間。16代仁徳天皇が埋葬されているとされます。応神天皇の第4皇子で、母は仲姫命。民のかまどでも伝わるように仁政を施す統治を行った方。かまどの煙が立ち上らない町を見て、税の徴収を免除しその間は天皇自らも宮殿の整備を見合わせるなど目線は民衆に向けられていた。桜を愛で、百舌鳥のように飛び立ち、忖度と袖の下に目のくらんだどこぞの方々、庶民のかまどの煙は見えてますかねェ、見るも見ないもサイコロ次第かナ。陵の周囲は周遊路があり、周辺の陪塚を含め見て廻れるよう綺麗に整備されています。一周するのに50分程かかるらしい、電車の都合で半周しかできませんでした。上の写真で行くと、左下から時計回りに右下あたりまでは歩きました。周遊路は坂もなく平坦なので周遊だけなら50分あれば廻ることはできそうです。それにしても大きく、巨象の全容を見るには及ばない。世界遺産となっただけに、ボランティアガイドの方々以外に一ひねりする事はありそうです。朝日寺古墳の北隣に位置し、山号は霊鵲山、日蓮宗のお寺で創建は1752年(宝暦2)とされる。もとは大阪市森ノ宮付近に建立された朝日庵を起源とし、1931年にこの地に移転した寺。入母屋瓦葺の二層の屋根と唐破風向拝を持つ。伽藍全景、周遊路は寺の横の熊野街道を北東方向に続きます。朝日寺の後方が銅亀山古墳。百舌鳥古墳群の中では珍しい一辺が26㍍の方墳。この辺りに掲げられていた仁徳天皇陵解説板。周遊路の歩道にはこうした距離や方向を示すシールが貼られ整備されていました。世界遺産として多くの外国人観光客が訪れることを考えると、情報が欠けてしまう素材は残念。マンホールのようになっていれば識別不能ということはないのでは。上丸保山古墳、前方後円墳。天皇陵の北西の外濠に位置し、住宅街の中にあります。下国道310号線の先の小高い山も陪塚、永山古墳と呼ばれるようです。天皇陵北からの眺め。左の小高く盛り上がった部分は茶山古墳と呼ばれる56㍍の円墳。天皇陵を取り囲む濠の堤に古墳が作られるのは珍しいそうです。大安寺山古墳茶山古墳同様に堤の上に築かれた直径63㍍の円墳だそうです。天皇陵の上といえばいいのか、下なのか、丸い部分にあたる国道310号線沿いは西高野街道。高野山参拝の為に整備された街道で傍らには「ミユキ御苑 仁徳天皇御陵参拝道」と刻まれた石標が立てられています。みゆきとは行幸を指します。この石標から外濠沿いに周遊路は右に続き、塚廻古墳を経て来た道に戻る事になりますがここまでです。道すがらの源右衛門山古墳。駐車場の一画に残る直径34㍍の円墳で、源右衛門の名は江戸時代の所有者の名から付いたようです。一帯は大小含め17基ほどの古墳が残る、全て見て行くと一日がかりかも知れません。一泊二日の大阪寺社巡りもここで終わり、阪和線「三国ヶ丘」駅から帰途に着くことにします。2019/12/27大仙陵古墳(仁徳天皇陵)住所 / 大阪府堺市堺区大仙町7公共交通機関アクセス / JR新大阪から御堂筋線⇒阪和線利用⇒「三国ヶ丘」駅下車45分程
2020.01.11
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福井県大飯郡青葉山。標高は693㍍で福井県大飯郡高浜町と京都府舞鶴市にまたがる山。別名「若狭富士」とも呼ばれるそうです。西国第二十九番札所 「松尾寺」はこの山の中腹に鎮座します。細い道を登り切ると左の高見に仁王門が現れます。車はこの先の右側の駐車場に止めることになります。道路からはこの石段を上り境内に、この反対側には石段が麓へと続いています。随分とショートカットしているので途中に色々と見所があるのかも知れません。仁王門。山号は青葉山、両脇には仁王像が・・・・・、見えているのは実は写真のパネル。オリジナルの仁王像を修復の際にパネルを掲げたものらしい、それが修復後もこの状態を維持したまま。2Dですが新たにレプリカ像を作り安置よりもいいのかも知れませんね。修復を終えた仁王像、霊宝殿で公開されているようです。やがてはフォログラムなんて時代になっていくんでしょうかね。入母屋瓦葺の仁王門、1730~1802年(享保15~享和二年) の建造とされます。門の至る所に千社札が貼られています、どうやってここに貼ったの?といつも思う。派手な彫や彩色が施されている訳ではありませんが、大きな屋根を支える木組みは伽藍の中で目を引く存在感があります。京都府の文化財に指定されています。仁王門をくぐり参道を進みます、右手は霊宝殿、左手に勅使門があります。正面には特徴のある屋根を持つ本堂が見えてきます。参道左、菊の紋が施された勅使門。この先が庫裏になります。参道から仁王門の全景。その先に麓を見下ろすように南を向いて立つ仁王門。やはり麓からここまで自分の足で訪れ、眺める景色なのかもしれない。 最後の石段を登ると境内が広がり、正面に二層の屋根を持つ本堂。右手には手前に手水鉢、その先に鐘楼、左手に太師堂が見通せます。大きな一枚岩の手水鉢。龍口からは勢いよく清水が注がれています、鉢は苔に覆われ味のあるものです。境内左の経堂。瓦葺宝形造りで、露盤・宝珠が施された一見すると蔵の様な建物。仁王門と同時期に建てられたもので、こちらも京都府の文化財に指定されています。経堂の脇に銅葺屋根のお堂があるけれど、額もなく、回廊には六地蔵の石像が安置されています。本堂左の歌碑が並び、山裾に赤い堂が立てられています、詳細は不明。西国三十三所第29番札所 松尾寺「本堂」宝形造りで銅葺の二層屋根を持ち、大きく張り出した唐破風の向拝が印象的です。現在の建物は1730年(享保15)に再建されたものらしいけれど、右手の渡り廊含め細かいところに痛みが目立つ。とはいえ、西国札所の風格を備えたものです。本尊は馬頭観世音で、農耕や牛・馬、車馬交通の守り仏として三十三霊場で唯一の観音像。右手の大師堂とは渡り廊で繋がっていますが、随分と痛みが目立ちます。「松尾寺」山号 / 青葉山 宗派 / 真言宗醍醐派創建年 / 慶雲5年(708年)開基 / 威光上人本尊 / 馬頭観音菩薩絹本著色普賢延命像(国宝)、 絹本著色孔雀明王像・木造阿弥陀如来坐像など重要文化財を多数。堂内は多数の額が掲げられ、本尊の馬頭観音坐像は秘仏で拝観はできません。お前立ちが本尊に酷似しているとのことなので、そこからイメージするか77年に一度訪れると云われる御開帳を待つことになる。2016~2020年、西国三十三所草創1300年記念として三十三所の各札所では普段非公開のお堂や諸尊の御開帳や庭園が公開されてきたようです。本堂唐破風向拝梁、木鼻、向拝下の龍の彫物など見とれてしまうほど手の込んだものです。見ると惚れぼれします。ここにも千社札がびっしり貼られています。本堂の右の大師堂。左の渡り廊と繋がっています。正面の額は心霊閣と書かれ、内部には空海の像が安置されています。鐘楼。銅板葺の袴腰入母屋造。左手の大きなイチョウは1119年(元永2) に鳥羽天皇お手植えによるもの。 聞くところによると、寺社にイチョウが良く植えられているのは、イチョウの葉は燃えにくいそうで、火災の延焼除けに植えられると聞いた気がします。 大師堂の裏手に神社が鎮座します。松尾寺と係わりは無いようで、この下の村の方々により祀られているようです。松尾寺の境内に隣接する趣のある神社でした、こちらにも足を運んでみて下さい。杉林の中に笠木の曲線も美しい明神鳥居、その先に本殿が見えています。石段の先の本殿と、左右の狛犬、燈籠は味があります。本殿前の狛犬と石灯籠。石灯籠はキノコを連想させます。狛犬は台座に大正元年、明治天皇崩御記念?と刻まれていたと思いますが、味のある表情をしています。屋根は銅葺きで素木の本殿、近年手が加えられたのでしょうか、シンプルで綺麗な外観です。社名は色々調べた結果、六所神社の様です。祭神は笠津彦・笠津姫を祀るようですが、それ以外は創建時期を含め、はっきりとしませんでした。六所神社の参拝も終え、駐車場へ戻ります。やはりこの寺は仁王門ですね、帰り際境内から見る門の光景はとても印象に残ります。門の右手に見える小さな池「放生池」と呼ぶそうです。仁王門の右手の石標「まつのをのてら」と彫られている。また、この石標の右にトイレがありますが、立ち寄られる事をお勧めします。「放生池」の先にも小さな社が二社鎮座していました。駐車場の近くに掲げられていた文化財の案内板、境内で由緒などの解説は見られなかった。幾度となく火災にあい、その都度、細川幽斉や京極家により再建され、今の本堂は牧野英成により修復されたとされます。これだけの寺です、もっと広く外に向かって誇ればいいと思う。御詠歌「そのかみはいく世経ぬらん便りおば 千歳もここにまつのをのてら 」松尾寺住所 / 京都府舞鶴市字松尾532松尾寺へのアクセスは県道772号線経由と県道564号線経由の二手になりますが、訪れた2019/11/16時点は県道564号線からのルートは工事通行止め(現在は通行可)。見通しの悪いヘアピンが続く山道を車で25分程登ると松尾寺に至ります。このような道ですが対向車は結構多く、見通せない場所に限って必ず対向車とすれ違うものです。無意味な意地の張り合いは時間の無駄、待避所に近い車が潔く進路を譲らないと混乱は必至。車にはRも付いています、後ろにだって進めます。譲られたら挨拶を忘れずにすることで気持ちも伝わり、お互いに嫌な思いをすることなく遠出のドライブを楽しめます。
2020.01.10
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市営地下鉄千種駅、JR中央本線千種駅とリンクしアクセスが便利なところ。ここから近くの電気店に用もありこの辺りを少し寄り道をしてみました。地下鉄3番出口から東の眺め。正月休みということで行き交う車の少ない事、普段は騒がしい街も静まり返っています。錦通りを東に進み、内山三丁目交差点を左に桜通りを超えます。上は桜通りから東の池下方向の眺め、目指すは千種区内山1丁目の「蝮ヶ池八幡宮飛地境内社 西八幡社」。内山町の由来は諸説あります。その一つにその昔ここから東にかけて台地の荒れた山が迫り、この辺りは台地の端っこにあたり、その谷間の小さな平地だったことから山の縁、縁山が訛って付いたと云われ、今でこそ丘陵地に緑はなくなり、延々とビルや住宅が広がり、そうした面影はなくなりました、坂の多さでそれを想像するのみでしょうか。大手電機店の東の通りの一画に小さな杜があり、玉垣が視界に入ってきます。目的地の「蝮ヶ池八幡宮飛地境内社 西八幡社」。神社正面全景、コンクリートの向拝と橘の神紋が入った提灯がつるされています。左の柱に蝮ヶ池西八幡社と記されたの社号札が掲げられています。向拝の先はすぐに本殿。手前には小ぶりな狛犬が守護しています。境内右の手水鉢。こちらは古い手水鉢でしょうか。本殿全景。流造の社で東を向いて鎮座しています。右手に保存樹ヒマラヤスギとありますが立札のみで、既に存在せず切り株だけが残っていました。街中にあって植えられた木々は大きく枝を張り、小さな境内は日差しが届かないようです。それがまた、ここが特別な空間であることを物語っている。小さな狛犬ですが、小顔で表情も険しく、肋骨が浮かび上がり凛々しい容姿をしています。境内左に由来が掲げられています。「西暦1633年、蝮ケ池八幡大神を一時仮安置された由緒ある神社。元の鎮座地が拡張道路敷地内にあった為、昭和11年に現在地に祭祀された。昭和19年新しく伊勢神宮、熱田神宮、津島神社の御祭神をお祀りしたところ、御神徳あらたかで先の大戦で町内の氏子は空襲の災害を免れました。荒廃甚だしい畏れ多い状態にあった神社は町内氏子を中心に社殿改築を図っていた時、御神託により「地蔵の氏神様である蝮ヶ池八幡宮の御祭神「応仁天皇天皇の御両親の神様をお祀りせよ」とのお告げがあり、昭和二十七年山口県下関市豊浦村の忌宮神社より両大神様を迎えた。同年神社本庁から蝮ヶ池境内社西八幡宮として承認を受ける。昭和五十七年には御鎮座30周年を記念し社殿の台座、階段の修復、玉垣及び手洗所賽銭箱を新調設置、境内整地を行った。徳川美術館所蔵の古文書に記載が残る。」とある。蝮ヶ池八幡宮は、明正天皇(1624~1696)に尾張藩の兼松源蔵が石清水八幡宮の分霊を勧請し、自邸(現在の仲田付近)に近い西八幡社の地に祭ったのがその始まりと伝わる。後に蝮ヶ池八幡宮の社殿を現在地に造営、当地の鎮守として建てられたと云われる神社で橘が神紋。上の話から行けば、蝮ヶ池八幡宮飛地境内社の西八幡社はそれ以前、或は同時期にはどこかに鎮座していたことになる。そして昭和11年に入り道路拡張に合わせ現在の内山町に遷座、神社庁から飛地境内社に承認後30周年が昭和57年という事になのだろう。分からないのは、西八幡社の「元の場所は何処よ、当時はなに、なぜ飛地になったの」と言う事ですがさっぱりわからない。因みに蝮ヶ池龍神社・辨天社も蝮ヶ池八幡宮の飛地境内社になります。上は明治24年の周辺の地図、右は現在。赤塗は西八幡社、黄色が蝮ヶ池八幡宮、青塗りが蝮ヶ池龍神社・辨天社。現在の西八幡宮の位置には神社はない、仲田付近にもそれらしい記載はありません。ここは由来を純粋に受け入れ、考えるのは止めた方がいいのかもしれない。徳川美術館か蝮ヶ池八幡宮でこのあたりは分かってくるのかも知れません。今見えるコンクリートの外観に囚われてしまうと駄目ですね。蝮ヶ池八幡宮飛地境内社 西八幡社創建 / 不明祭神 / 仲哀天皇、神功皇后住所 / 名古屋市千種区内山1丁目20-17公共交通機関アクセス / 市営地下鉄東山線「千種」駅下車東へ徒歩10分程
2020.01.07
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岩倉市本町宮西1『新溝神社』名鉄犬山線「岩倉」駅から線路沿いに北へ徒歩で15分程の所に鎮座します。昔は名古屋城下を起点に岩倉を経由し中山道を結ぶ岩倉街道として、年貢を運ぶルートとして整備された古くからの街。左は1891年(明治24)と右が現在の鎮座地の移り変わり。黄色の南北に延びる岩倉街道沿いに集落が点在していることがよく分かります。この地は岩倉城主織田信安の家老、山之内盛豊の子、山之内一豊の生誕地と云われ、信長にも所縁のある古い土地柄。街中を歩くと昔の名残を感じるさせる道筋が残り、この街道筋には多くの寺社が点在します。新溝神社参道。右に社号標、その先に常夜灯と鳥居を構えます。鳥居から社殿方向の眺め。真っすぐに伸びる参道、その先に鎮守の杜が見えています。参道は参拝者駐車場にもなっているようです。参道を横切る道路の先に境内は広がります。左に手水舎社、正面に蕃塀があり、社殿は窺えません。新年を迎え、初詣に訪れる参拝客で賑わっています。切妻瓦葺で四方吹き抜けの拝殿は派手な飾り金具はなくシンプルに見えますが、軒先瓦には「新」の印がが入り、妻部分には龍の彫も施され落ち着いた趣があります。こんもりと二段に盛られた神域の上に本殿。手前には二対の狛犬が守護しています。神社当番の氏子の方々により庭火が焚かれる境内、暖冬とはいえこの暖かさはありがたい。二対の狛犬達。どちらも似ているようですが筋肉の付き方、子を抑える前足などに個性があります。コピーしたように同じフォルムでは味気ないものです。本殿前に小さな狛犬、彼らが一番のベテランの様です。小さな体でこちらを見上げるその顔つきは、どことなく愛らしい表情をしている。本殿の眺め、神紋は五七の桐。祭神は新溝大神を祀り、創建は不明。本殿域は6世紀頃の円墳の上に建てられていて、それ以前には古くから岩石群が祀られていたという。大正初年の社殿改築の際に古墳として認識され、それらの岩石群を移動、一部を玉垣内の本殿域に拝石として祀り、一部を石段の台石などに利用したという。玉垣で囲われ窺うことはできないけれど、本殿域東側に「磐座」として祀られているとのことです。岩倉市の由来は「磐座」から、近くの新溝廻間の地名は新溝神社からきているとも云われます。本殿全体は見通すことはできませんが、本殿右の八幡社から銅葺の屋根に5本の鰹木と外研ぎの千木、棟飾りの桐紋が見て取れます。境内左に東向きに祀られた板宮造りの社、詳細は不明。境内右に八幡社。もともとは牛頭天王社だったと思われます、こちらにも拝石があるらしく探してみれどそれらしい石は見当たらなかった。参拝を終え、神社外周を見て廻っていた際に気付いた社、本殿西側に南を向いて祀られています。神社北側からの眺め、石垣の上に透塀で囲まれた本殿が木々の隙間から見て取れる。流造の様に見えます。古墳を整地して建てられたと云われるだけに、ここからの眺めはそれらしい雰囲気が漂います。神社の東側に隣接して本町山車の収納庫があります。訪れた時には正面が開けられお披露目されていたけれど、一回りして戻るとそこは閉じられていました。裏口が開放されていたのでそこから山車を撮らせてもらう。1629年(寛永6)に建造され尾張地方最古の山車と云われたようです、1798年(寛政10)頃に作り直された三段の山車。別称「唐子車」と呼ぶそうです。毎年8月上旬に下本町神明生田神社、中本町神明大一社の祇園祭と、ここ本町新溝神社の天王祭の宵祭で山車曳きが行われ、3台の山車が岩倉街道を巡行されるそうです。かみさんの実家がありながら、今だ一度も見たことがない、提灯に彩られた山車が巡航する姿を一度は見ておきたい。神社西側の眺め、延々と玉垣が続き杜を囲んでいます。彩りが乏しくなった景色、手水舎の裏側咲く寒桜の薄いピンクの彩りはとても新鮮に見えます。2020/1/1『新溝神社』住所 / 岩倉市本町宮西1公共交通機関アクセス / 名鉄犬山線「岩倉」下車徒歩15分程
2020.01.05
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「八王子神社」名古屋市昭和区の御器所八幡宮参道脇の銭湯を訪れた際、この通りから少し西に入った村雲町で出会った神社。御器所八幡宮が鎮座する一帯は御器所と呼ばれ、南北に御器所台地が伸びる、ここから西側は精進川低地につながり、その先の熱田台地へ続きます。町名の由来はこの辺りで熱田神宮の祭礼で使用する土器を作っていたことからこの名が付いたと云われ、それ以外に熱田神宮に供える榊等もこの周辺から調達、奉納されたこともあり榊森とも呼ばれたようで、熱田神宮とは古くから所縁のある地。「八王子神社」はこの通りから二筋程西の、村雲小学校北側の静かな住宅街に鎮座しています。神社が鎮座する村雲、その昔は村雲の里とも呼ばれ、熱田神宮が「草薙剣」をご神体とする事から、この地名や向かいの村雲小学校の校名、なにやら縁がありそう。神社は道路を挟み南に小学校、住宅が立ち並ぶ道筋の一画に鎮座します。伽藍は木造の鳥居があり、境内左に手水鉢とその右に地蔵堂、正面に本殿、その右に小社が祀られています。タイルだろうか?清水と描かれている手水鉢。手水鉢右の地蔵堂。綺麗に手入れされた堂内には前掛けをかけられた像と地蔵菩薩が安置されています。堂は新しく手が掛けられたようですが、二体の像は年代を重ねてきたもののようです。本殿正面の扉は閉ざされ、中を窺うことはできませんでした。本殿に掲げられた額、シンプルで味がある。八王子の名から祭神は建速須佐之男命と天照大神との誓約から誕生した8柱を祀るものと思われます。建速須佐之男命の十拳剣から生まれた三柱の女神多紀理毘売命、多岐都比売命 、市寸島比売命。天照大神の八尺瓊勾玉から生まれた、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命の五柱の男神の事を指し、それらを祀る神社が八王子神社とされる事が多いと云われますが、一概にそうとも云えない事もあり、ここ村雲町の八王子社が前述した8柱を祀るものか定かではありません。小さな境内ですが氏子の方々により綺麗に維持されています、通りすがりに参拝に訪れた者にこの神社の由緒を案内板に掲げて頂けるとありがたいものです。境内左の小社、こちらは社名が掲げられていないので詳細は不明。八王子神社の創建は分かりませんでした。ここから数分の所に淨元寺がありますが、寺は空襲により伽藍を焼失しています、八王子神社も被害を受けているはずで、そこから再建され現在に至っているものと思われます。この神社については、御器所八幡宮で尋ねると詳細がわかるかもしれません。後日訪れてここに書き加えることにします。南を向いて鎮座する本殿から鳥居の眺め、陽は随分と西に傾いてきました。「八王子神社」創建 / 不明祭神 / 不明住所 / 名古屋市昭和区村雲町11公共交通機関アクセス / 市営地下鉄鶴舞線「荒畑」駅下車、淨元寺経由徒歩20分程
2020.01.04
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大阪二日目、最初の目的地「和泉國一之宮 大鳥大社」を目指す。大阪から大阪環状線と阪和線を乗り継ぎ最寄り駅の「鳳」駅までは40分程の電車移動。鳳駅の北口から一旦右方向を歩き、熊野街道へ。街道を5分程北上すると右側に大鳥大社の杜が見えてきます。神社までの歩道には熊野街道を示すタイル表示が所々に施されています。和泉國一之宮大鳥大社の鳥居は街道に面し、大きな木造鳥居があります。鳥居左に大鳥大社由緒が掲げられています。鳥居前を守護する狛犬。初詣の準備でテント設営も急ピッチ、テントや車の陰に隠れてしまい、存在感は薄くなっています。鳥居をくぐり東方向に延びる参道を進みます。参道は授与所から右に折れています。右に折れると右手に絵馬殿(右)が見えてくる。正面には社務所と右の大きな建物が崇敬会館。参道脇には奉納されたこの地の酒樽が勢揃い。社務所、右の会館に比べ小さなものです。ここから参道は左に折れます。参道脇の堺市が設置した解説板。「祭神は日本武尊と大鳥連祖神の二社、和泉國一之宮にあたる延喜式内社。式内社の大鳥北浜神社・大鳥美波比神社・大鳥伊勢神社・大鳥羽衣神社と併せ、大鳥五社明神と呼ばれる。本殿は大社造りに次ぐ古い様式の大鳥造と呼び、切妻造、妻入りの神社建築は1905年(明治38)に焼失、同42年に造営されたもの。神域は千種森と云われ、白鳥が舞い降りた際に一夜にして樹木が生い茂ったという伝説がある。」下に写真があり本殿とあるけれど、この絵は拝殿ではなかろうか?日本武尊像と神馬。神社の案内で先に出てきた白鳥や神社の起源については以下のように案内されています。「日本書紀によるとヤマト王権に抵抗する九州南部の熊襲を平定、帰途も従わぬ者たちを征伐しながら出雲の国をも平定しました。そして、宮へ帰ると休む間もなく東国の平定を命ぜられたので直ぐに赴き、様々な災難に遭いながら何とか帰途つきます。その途中に伊吹山の荒ぶる神を倒すために山に入ったところ神の祟りに遭い病となってしまいました。 病身のまま大和を目指したのですが、都にたどり着くことができず伊勢国能褒野にて身罷りました。そこに陵を造り皆が嘆き悲しんでいると、日本武尊の御霊が白鳥となり陵から飛び立ったのです。 最初に舞い降りたのは大和の琴弾原(ことひきのはら)、再び舞い上がり次に降り立ったのが河内国の古市、その後は社伝によると再び天空高く舞い上がり当所に降り立ちました。そこに社を建てお祀りしたのが当社の起源であり今から約1900年前の話であります。」伊勢国能褒野は現在の三重県亀山市田村町字女ヶ坂にあり、能褒野古墳群ひとつで能褒野王塚古墳と呼ばれる前方後円墳のようです。そこから飛び立った白鳥がこの地に舞い降りたということです。社務所から左に進むと正面に鳥居を構えた摂社の大鳥美波比神社と末社の織姫神社が正面に見えてきます。大鳥神社本殿はこの手前を左に進みます。大鳥神社手水舎、手水鉢。龍の口から注がれた清水は青竹に注がれ、竹から流れ落ちています。参道から拝殿正面の眺め。檜皮葺の切り妻、妻入りで新年を迎え巨大な賽銭箱が準備されています。神社幕に菊の紋、鈴はないようですね。創建 / 927年(延長5)、(823年(弘仁14)大鳥連が祖神を祀ったのが始まりともいわれる)祭神 / 日本武尊、大鳥連祖神防災雨祈の祈願社として知られるようです。拝殿から神門、本殿の眺め。既に子年の大きな奉納絵馬が準備されています。神門と透塀外研ぎの千木と鰹木は3本。大鳥造の本殿は切妻造、妻入りで出雲大社に次ぐ古い建築様式といわれ、出雲の大社造に酷似しているらしい。とはいえ、その全貌が窺えるビューポイントは少ないようです。本殿の千木、鰹木は5本で菊の紋を含め近年補修されたようです、陽光を浴び輝いています。こちらの神社は地元の保育園?のお散歩コースとなっていて、拝殿前でおちびさんの集団が参拝する光景を見ました。神社仏閣は厳粛な空間、なので「あれは禁止、これは禁止」と敷居を高くする傾向があるけれど、そうしたところで子供の遊ぶ光景はあまりお目にかからない。子供の頃はこうした空間は不思議な空間ではあったけれど、敷居は低く身近な存在だったのを記憶しています。鼻水を垂らし乳母車に乗せられ、小さい頃から地元の神社に親しんでいる姿を見て、ほのぼのとしたものを感じます。神門の右に小さな小社が祀られていましたが、詳細は分かりません。摂社の大鳥美波比神社。末社の織姫神社は鳥居の左になります。鳥居前の狛犬。吽形の左に見える社が織姫神社。右手に撫で牛もいます。銅葺屋根の入母屋造りで平入の拝殿。拝殿の扁額と賽銭箱の八尋白鳥の神紋。大鳥美波比神社祭神 / 天照大神元は北王子村(西区鳳南町4付近)に鎮座していたといわれ、1879年(明治12)に旧神宮寺の五重塔跡地に遷座し、1934年(昭和9)に本堂跡地の現在地に遷座したそうです。主神の他、庭津日神、天児屋根命、両道入媛命、押別命、国常立尊、市杵嶋姫命、菅原道真の七柱を合祀する。本殿は銅葺屋根の流造、創建は125年(景行天皇55)と云われるが定かではなさそう。境内左の末社の織姫神社、四柱を合祀する社です。この神社には複数の猫が住み着いているようで、人慣れした猫が至る所で日向ぼっこを楽しんでいました。織姫神社祭神 / 火鎮大神、宗像大神、稲荷大神、織姫大神織姫神社から左に続く参道の先に御神木の「根上がりの大楠」根っこがご覧のように地表に隆起していることから「値があがる」とされ古くから財運向上の御神木として崇められているそうで、根の穴には鳥居と楠神霊が祀られています。根もさることながら、枝ぶりが見事な大楠です。大楠から先を左に進み、本殿の裏側に石鳥居と小さな手水鉢があり、参道は左に続いています。社号標や石柱に社名につながる彫は見当たりません。先に進むと小さな覆屋があります、位置的には本殿の後方になります。その中は玉垣で囲われ、その中心に石柱が安置されています。石神様なのだろうか?、詳細は分かりません。遥か昔からここで祭祀を行う場なのでしょうか、今もこうして参拝に訪れる方も見えます。賽銭箱はなく、四隅に積んでいくのが習わしなのかな?積ませて頂きました。大楠を右に進むと脇参道を経て東の鳥居に出ます。官幣大社大鳥神社の社号標と石鳥居を構えます。境内へはこの他に絵馬殿からも参道があるようです、ここはこのまま次の目的地に向かう事にします。和泉國一之宮 大鳥大社創建 / 927年(延長5)、(823年(弘仁14)祭神 / 日本武尊、大鳥連祖神摂、末社 / 大鳥美波比神社、織姫神社住所 / 大阪府堺市西区鳳北町1-1-2アクセス / 大阪から大阪環状線、阪和線「鳳」駅下車、徒歩で北に10分程さて、目標の三社を参拝したけれど、もう一か所どこかに訪れるようです。いつもの事で、電車旅は切符はもちろん、目的地もかみさんに任せっきり、なので迷子になるとおやじは帰れなくなる・・・・・白鳥のように羽ばたくことはできない。
2020.01.02
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あけましておめでとうございます 2020年が良い年になりますように
2020.01.01
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