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第十八番 紫雲山 六角堂 頂法寺。鎮座地は本堂の三方にビルが迫り、エアポケットの様な空間に寺が鎮座しています。六角通に面した第十八番 紫雲山 六角堂 頂法寺山門。長禄・寛正の飢饉では京も飢饉となり、この山門には人々が集まり、六角堂門前で炊き出しがおこなわれたという。京は朱雀大路を中心に左京(東京)と右京(西京)の左右対称の町が作られましたが、右京は土地が湿って住居に不適当だったことから衰退し、人家は左京に集中するようになり、左京の市街地は南と北に延びはじめ、結果、北の方を上京、南の方が下京というように左京の町を二分する概念が生まれ、六角堂は下京の町堂として崇敬を集め、町衆のコミュニティーの場とした役割を担うようになった。江戸自体末期まで、京都を彩る祇園祭の山鉾巡行の順番を決めるくじ取り式が六角堂でおこなわれ、六角堂は京都の中心といわれるようになりました。山門前の六角堂解説より一部のみ抜粋。 「紫雲山頂法寺と号する寺で、本堂が六角宝形造である事から、一般に六角堂の名で人々に親しまれている。はじまりは、淡路島に漂着した観音像を聖徳太子が念持仏としたことによる。 用明天皇2年(587)に四天王寺建立用材を求め、京都を訪れた際に、池で身を清めるため、念持仏を木に掛けたところ動かなくなり、この地で人々を救いたいと太子に告げたため、六角形の御堂を建て安置したのが寺のはじまり。弘仁天皇13年(822)嵯峨天皇の勅願となる。 長徳2年(996)花山法皇り御幸があり、西国三十三所観音霊場となる。建仁元年(1201)親鸞上人百日間参篭、真宗開宗の根源となった。」山門から礼堂の眺め。切妻瓦葺の薬井門で太い角の本柱と冠木が載せられ、二本の控え柱を持つもの。寛永18年(1641)本堂・山門など復興されたと由緒にありますが、現在の門が当時のものか定かではありません。千社札厳禁の寺が多くなり、今どき流行らないと思うが、千社札が貼られている事から文化財ではないのか、それとも寛容なんだろうか。訪れた時だけかもしれないが、インバウンド客は皆無で大撮影会の光景は見られなかった。なぜ三十三ヶ所なのか「観音信仰の基礎となるのが「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」で俗にいう観音経です。 その中には、観世音菩薩は人々が真心をもって観音様の御名を唱えれば、悩める私たちの求めに応じて様々な姿に身を変えて説法してくれるとあります。観音様には聖観音・千手観音・如意輪観音など様々なお姿がありますが、観音様が人間世界に現れるときには 「南無大慈大悲觀世音菩薩」とお称えするように、慈愛溢れる性格から年齢・性別を問わず、三十三の身近な者の姿に変化して私達を救って下さいます。 観音経の中にもその変化の姿が三十三数え上げられ、この数にちなんで全国各地に三十三ヶ所の観音霊場が開かれています。」当寺はその第十八番にあたります。頂法寺礼堂。本尊は如意輪観音。伽藍は本堂右手に親鸞聖人像や親鸞堂、左に不動堂があり、本堂後方には太子堂がある。礼堂は入母屋瓦葺の平入で千鳥破風と軒唐破風の付くもので、後方の宝形の本堂と一体になったもの。「六角堂由緒紫雲山寺草創 用明天皇2年(387)聖徳太子建立。太子 大阪四天王寺建立のため用材を求めこの地に入られた時、夢に霊告をうけ、杉の大樹によって六稜の堂を建て自らの護持仏をここに安置された。 本邦伽藍建立の際初なるところから頂法寺という。天治2年、初めて炎上其後度々類焼し寛永18年の再建には朝廷より陣屋御殿の御寄附を得て本堂・山門・築地等を復興した。 今の御堂は明治9年に再建、創建以来1400余年。本尊 如意輪観世音菩薩。聖施太子の護持仏で六角堂定立の後は本尊として祀り其の守護を小野妹子大臣に命ぜられたと伝える。妹子は入道して専務といい太子沐浴の池のかたわらに坊を営んだので坊号を池坊という。 以来子孫が当寺住職として守護、今日に到っている 。本尊脇仏には木像地蔵菩薩像、毘沙門天立像(藤原時代作・重要文化財)等安置する。西国霊場 長徳2年(996)正月、花山法皇当寺に行幸される、これが西国巡礼の始りで、当寺は現在西国第一八番の霊場です。後冷泉天皇諸国の大寺に仏舎利一粒ずつを納るにあたって、当寺より始められたと伝えられ、今も舎利塔が現存する。太子堂 聖徳大師御作二歳像(南無仏)を祀る。見真大師像(夢想の後)建仁元年、大師夢想の内に四句の役を授かり給う御姿(本堂安置) 見真大師像(草鞋の像)建仁元年、大師比飯山より御参篭の御姿(親鸞堂安置)鐘楼堂 慶長10年豊臣秀吉の臣、堀尾吉晴の息忠氏が寄進。昔は水難・火難の際この鐘をついて急を知らせたという、鐘は第二次世界大戦に献納、現存のものは昭和29年に再鋳復元。鎮守堂 明星菩薩(唐埼明神)を祀る。へそ石 本堂古跡の石ともいい、京都市街の中心石として伝わる。聖徳太子木浴の古跡 太子堂周辺に枯山水の庭となって、その面影をとどめている。華道家元池坊 小野妹子(専務)は太子の教えに従って朝夕宝前に花を供え、代々の住職はこれを伝え、いけ花の名手を輩出した。室町時代(足利義政の頃)には専慶が立て花の名手と称えられ、室町後期には専応が出て、いけ花の理念を確立した。 いけ花発祥の地といわれる所以である。いまや池坊いけ花は、ここを拠点として発展し日本国内にとどまらず世界を結ぶ文化として重要な役割を果しつつある。」 山門をくぐり本堂に続く参道右側の縁結び柳の右に「へそ石」があるが、嘗ては六角堂のこの辺りが京都の真ん中と云われていたようで、その証が「へそ石」なんだとか。へその由来は体の中心にへそがあるように、今日の中心なのでへそ石と呼ばれるようになったとか。門前の六角通りにあったものを、明治時代初期に門内に移されたものだそうです。観世音菩薩と書かれた赤い提灯には輪宝紋が入る。内陣右に見真大師、左に聖徳太子の額が掲げられています。内陣。如意輪観音のお前立、本尊の聖徳太子御持仏の如意輪観音像の大きさは御丈1寸8分(約5.5㌢)とされる秘仏。礼堂左から六角堂方向の眺め。礼堂左の二つの祠は左が不動明王、右が石ふ動。左の不動明王堂内の火焔光背のシルエットは正に不動明王。正面の石ふ動。大日如来が一切の悪魔を降伏させるために姿を変えたのが不動明王で、煩悩を焼き尽くす火焔光背と怒りの形相をした姿をしています。こちらの石不動は安永9年(1780)刊行の「都名所図会」にも描かれている。六角形の宝形の本堂。六角形の宝形の意味は、人の眼・耳・鼻・舌・身・意によって生ずる六欲を指し、これらを捨て角の取れた円の姿になる「六根清浄」への願いが込められた形だという。礼堂の裏側の面にも複数の仏像が安置され、小窓から拝めるものの内部は暗く良く分からなかった。六角堂後方の太子堂・沐浴の古跡、手前の水盤の中にある二つの石は、天明八年(1788)に焼失したとされる、当時の六角堂の礎石とされています。太子堂。六角堂を創建した聖徳太子を祀り、開山堂とも呼ばれる宝形の堂で、内部には聖徳太子2歳の頃の像、16歳像、物部守屋と戦った時の姿とされる騎馬像が安置されている。礼堂外陣に安置されている賓頭盧尊者像。礼堂右の手水舎と十六羅漢。頂法寺の龍口。手水舎から更に奥には、右の一言願い地蔵と右手に親鸞上人像、正面の親鸞堂、六角堂の鎮守社唐崎社があります。地蔵の姿は頭を傾げ、参拝に訪れた方の願いを叶えるか否か考えている姿なんだとか。信心次第で欲張らずにひとつだけ願うと叶えてくれる、かも。親鸞堂。建仁元年(1201)、親鸞29歳の時毎夜比叡山を下り、この六角堂に百日参篭し真宗の開祖となった。内部には親鸞が夢のお告げを聞いている姿の像「夢想之像」と参篭時の姿を自ら彫った「草鞋の像」が安置されています。親鸞堂の右奥に朱の鳥居とその先に二社祀られています。唐崎社(右)。六角堂の鎮守社で、祭神は唐崎明神を祀る。近江八景の一つ唐崎の松で知られる滋賀県大津市の琵琶湖湖畔に鎮座し、持統天皇11年(697)に創建された唐崎神社の神様が祀られています。唐崎神社は日吉神社の摂社で比叡山延暦寺とも関係が深い神社。左は日彰稲荷。額には「唐嵜社・祇園社・天満宮」とあり、八坂神社と北野天満宮の祭神も合祀されている。親鸞上人像から見る礼堂・本堂(六角堂)の眺め。現在の本堂は明治10年(1877)の再建で、確かに六角形の形をしているようですが、もっとはっきりとはっきり宝形の見たいなら、境内左のwest18ビルのエレベーターに乗れば、高い位置から六角堂を眺めることができます。親鸞像の姿は、比叡山から本堂に参篭し、再び比叡山に戻る際の姿だという。west18の左側のEVで9階まで上がり、エレベーターホールから見た六角堂の全景。右手の礼堂と六角形の二重屋根の本堂が複雑に繋がったもので、本堂の内陣に如意輪観音、左側に毘沙門天立像、右側に不動明王が安置されています。本堂左上の小さい朱色の六角堂が太子堂、礼堂上方に見えている六角堂が親鸞堂になります。自分でいうのもなんですが、若い頃と比べれば、多少角も取れた方だと思いますが、まだまだ円の姿までは程遠いか。これで5/11巡拝。頂法寺開基 / 聖徳太子(伝)宗派 / 天台宗山号 / 紫雲山本尊 / 如意輪観音創建 / 伝・用明天皇2年(587)西国三十三所 / 十八番札所所在地 / 京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町248参拝日 / 2024/08/06関連記事 ・京都市内の西国33所巡り『17番・18番・19番』・下御霊神社・霊麀山 革堂 行願寺
2024.08.31
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名古屋市中村区太閤1牧野神明社。名駅の東は背の高い商業施設が林立して立っていますが、駅の西側となると以外に駅近くまで住宅街が広がり、視界を遮るような大きなビルが少ない。個人としては視野の広いこちらの街並みの方が落ちつける。牧野神明社は先回掲載した須佐之男社・迦具土社から、少し東に向かった大型スーパーの南の区画に鎮座しています。上は明治時代の笈瀬村、右はほぼ現在の地図の比較。神社の北側を東西に延びる道は、名古屋と佐屋街道を結ぶバイパスとして作られた柳街道。笈瀬村牧野集落の東に広がる田んぼの中心が鎮座地で、明治の地図からも鳥居の記は描かれています。この地域に鎮座する椿神明社、稲穂社、厳島神社、先に掲載した須佐之男社・迦具土社とともに、牧野5社のひとつに数えられ、尾張誌(1844)にも「牧野村神明社二社」として記されており、もうひとつの神明社は椿神明社を指しています。椿神明社と笈瀬川(お伊勢川)を伊勢神宮外宮・五十鈴川と見立て、牧野神明社は内宮として見立て対になる神社として捉えられていた。社地東側の太閤1付近から牧野神明社社務所と杜の眺め。周辺では貴重な緑の森が残されている。境内入口は社地の南側と北側、そして写真の東側の三方に参道があります。社地南側の社頭。鳥居の正面に拝殿が建っているのでこちらが正参道だろう。杜の木陰に一対の常夜灯と石造神明鳥居はあるが、社号標は見当たらなかった。神明社由緒。「御祭神 天照大御神例祭日 10月16日由緒 当所付近一帯に往古伊勢大神宮の神領地区一陽の御厨と称され、お伊勢川を挟んで当所に内宮椿森に祭祀されたものなり。尾張志にも「牧野村神明社二社ありと載せられあり。 明治の始め神社改革の際、当社は郷社指定され、近郷一帯の崇敬厚く、明治40年神饌幣帛料供進神社に指定せられる。昭和20年3月不幸戦災に罹り焼失せしが、昭和27年10月再建を見るに至れり。」やはりこちらも名古屋空襲の爪痕は残るようで、被害の甚大さは戦前・戦後の航空写真からも見て取れる。鳥居をくぐった境内西側から社頭の眺め。容赦のない陽光とアスファルトの照り返しが暑さに拍車をかけるけれど、露わになった地表と緑の杜の木陰の下は都会のオアシスだ。鳥居の寄進年は大正4年(1915)、常夜灯は昭和6年(1931)に寄進されたもの。どちらも空襲以前のものです。この手水石の寄進年は昭和7年のもの。境内には大きな常夜灯か或いは神馬像と思われる台座だけが今も残されています。拝殿の正面全景。手前を二対の狛犬が守護しています。手前の狛犬は奥の狛犬と比較すると時代が違う様で昭和に入って寄進されたもの。拝殿前の狛犬は大正初期に寄進されたもの。石材の種類、デザインなど年代の違いが感じられますが、吽形の後ろ足の欠損は戦災の爪痕だろうか。拝殿は戦後の再建という事もあり、切妻・妻入りの鉄筋コンクリート造り。拝殿額は「牧野神明社」で揮毫は愛知県知事によるもの、祭神は天照大御神。古来、牧野の村人は笈瀬川の水を汲み甘酒を醸し溶き、これを甘酒祭の時に牧野神明社、椿神明社や村内に鎮座する他の社にも奉献し、氏子の幸と安全を祈る祭礼が受け継がれているようです。仕込み水を汲みあげたとされる笈瀬川も時代とともに暗渠化され姿を消したが、今も残るとされる甘酒祭の仕込み水の入手先が知りたいところです。拝殿から南側の正参道の眺め。東参道の眺め。境内西側から社殿全景。中央の常夜灯は昭和8年に寄進されたものでした。社殿側面全景。妻入り拝殿と幣殿が繋がり、神明造の本殿に直線的に連なる。本殿の鰹木は5本乗っているが、千木の削ぎまでは見えなかった、それだけ濃い緑が残っている。境内の樹々の根もとの地面には無数の穴。へび?、いや、これは蝉が這い出て来た穴。街のなかの舗装化された地域に残る僅かな土壌から、種を残すため地下から這い出てきた痕跡。道行く人に木陰を提供してくれる杜は、生き物にとっても重要な場所でもある。境内北側から鳥居の先の眺め。ここから先は再び上と下から熱気が襲ってくる、携帯の画面も黒くなる訳だ。牧野神明社創建 / 不明祭神 / 天照大御神境内社 / 所在地 / 名古屋市中村区太閤1-18-7須佐之男社・迦具土社から徒歩 / 須佐之男社・迦具土社から東へ向かいスーパーの南に鎮座、5・6分程参拝日 / 2024/08/02関連記事 / ・椿 神明社・稲穂社・須佐之男社・迦具土社
2024.08.30
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山科駅から地下鉄東西線京都市役所から北へ10分程歩いた京都市中京区行願寺門前町に鎮座する第十九番札所 霊麀山 革堂 行願寺。寺町通の一筋北には下御霊神社が鎮座します。両脇を民家に挟まれる山門はどことなく窮屈そう。門前左に西国十九番札所の石標と鎮宅霊符尊神の石標。京都府内には11ケ所の西国札所があり、松尾寺、清水寺、成相寺は過去に訪れたが、今回市内の三寺巡るので6/11は巡拝する事になる。革堂(行願寺)解説。「霊麀山行願寺と号する天台宗の寺院で、西国三十三所観音霊場の第十九番札所である。 寛弘元年(1004)に行円上人によって、一条小川(上京区)に創建された。子を孕んだ母鹿を射止めてしまったことを悔いた上人が、常にその皮をまとって鹿を憐れみ、人々から皮聖と呼ばれていたことから、この寺も革堂と呼ばれるようになった。 以後、人々からの厚い信仰を受け、町堂として大いに栄えたが、度々の災火により寺地を転々とし、宝永5年(1708)の大火の後、この地に移された。現在の本堂は、文化12年(1815)に建てられたもので、堂内には行円上人の作と伝わる本尊千手観音像を安置している。 境内には都七福神巡りの一つになっている寿老人神堂をはじめ、愛染堂、鎮宅霊符神堂、加茂明神塔などがある。また、宝物館には、若い女性の幽霊が描かれた幽霊絵馬が展示されている。」 都七福神巡りとは、草創以来六百年を越える日本最古の 七福神信仰、室町時代の民間信仰として以下の七社寺を参詣し御利益をいただくもの。1.寿老神 不老長寿 革堂(行願寺) 寺町通竹屋町上ル。2.ゑびす神 商売繁盛 ゑびす神社 大和大路通四条下ル3.大黒天 開運招福 妙円寺 松ヶ崎東町4.毘沙門天 七福即生 東寺(教王護国寺) 南区九条町5.福禄寿神 延寿福楽 赤山禅院 修学院赤山町6.弁財天 福徳自在 六波羅蜜寺 東山区ロクロ町7.布袋尊 諸縁吉祥 萬福寺 宇治市五ケ庄三番割山門から見る本堂。行願寺は解説にあるように、寛弘元年(1004)、行円上人が一条小川の一条北辺堂跡地に堂を復興して行願寺と名付けたのが創建とされ、その始まりは更に遡る。本尊は行円上人の作と伝わる千手観音像。革堂の別称は、上人が殺めてしまった鹿の皮を身に纏っていた事から、人々から皮聖と呼ばれた事から革堂と呼ばれるようになったという。寺は幾度かの焼失再興を繰り返し、宝永(1708)の宝永の大火後、寺町荒神口の旧地から現在地に移転した。伽藍は写真の山門と正面の本堂、右に行願寺会館があり、この二階の展示室では、お文という子守女の幽霊絵馬を所蔵し、8月22日~24日の3日間に行われる幽霊絵馬供養の際に公開されます。本堂左に手水舎、庫裏、愛染堂、寿老神神堂、鎮宅霊符神堂、鐘楼が主な伽藍。参道左に天道大日如来と延命地蔵菩薩を安置する堂があります。この時期の境内は鉢に生けられた蓮が並び、花の時期は終わりを迎えたころでした。本堂と右手の行願寺会館。入母屋瓦葺の平入の本堂は千鳥破風と唐破風が付くもので、兎毛通には鳳凰、蟇股の龍の透彫、木鼻にも装飾が施されていますが金網に覆われ写真に収めるのは諦める。香炉の獅子飾から本堂の眺め。革堂観音と書かれた大きな提灯と、右手に「はなをみて いまはのぞみも かわどうの にはのちぐさもさかりなるらん」の御詠歌が掲げられています。寺紋は丸に三つ楓のようです。本堂右から本堂と庫裏方向の眺め、右手に寺守社が祀られ、外陣には賓頭盧尊者が安置されています。手水舎と火灯窓の付く愛染堂(右)。行願寺の不動明王。更に右には寿老神堂、七福神像、鐘楼、鎮宅霊符神堂に続く。都七福神行願寺の寿老神。中国の道教の神仙で、長寿を保つ玄鹿を従え、人々の難を払う団扇を持ち、長寿を授ける神。七福神像。蓮の蕾も幾つか残っていましたが、画面いっぱいの蓮の花は望めなかった。鎮宅霊符神堂。鎮宅とはお守りやお札の元祖の神とされ、鎮宅霊符は太上秘法鎮宅霊符、鎮宅七十二道霊符などとも呼ばれる72種の護符で、この霊符を司る神、鎮宅霊符神を安置する堂。鐘楼。文化元年(1804)に再建されたもので、京都市の有形文化財に指定されているもので、梵鐘の池の間に天女が舞っています。鐘楼左の二つの祠と宝篋印塔。右手の祠には年代不明の素朴なディテールの地蔵尊像が安置されていました。宝篋印塔から左に百体地蔵。表情も良くわからない地蔵像が安置され、一部に頭部のない像も見られます。加茂明神石塔と左の祠は出世辨財天。五輪塔の水輪が四角く彫りこまれ、見た感じで高さは約3㍍程で鎌倉時代のものとも云われています。水輪の中を拝見すると不動明王が祀られていました。出世辨財天の祠の中に安置されていた辨財天。年代や由緒は不明。行願寺の年中行事は以下。1/17・18 初観音御開帳2/3 初午3月・9月 彼岸供養6/30 愛染明王大縁日8/21-23 幽霊絵馬供養毎月7日 都七福神縁日毎月18日 観音縁日境内から山門前を横切る寺町通と真っすぐ西に伸びる竹屋町通りの眺め。海外からの観光客が多い京都ですが、この辺りはさほど見かける事はなく、静かな京都の趣が漂います。咲き遅れた一輪の蓮の花が参道脇に彩りを添えていました。4/11巡拝。革堂(こんどう)行願寺(ぎょうがんじ)開山 / 行円宗派 / 天台宗山号 / 霊麀山本尊 / 千手観音創建 / 寛弘元(1004)西国三十三所 / 十九番札所所在地 / 京都市中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町参拝日 / 2024/08/06関連記事・京都市内の西国33所巡り『17番・18番・19番』・下御霊神社
2024.08.29
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京都市中京区寺町通丸太町に鎮座する下御霊神社。京都御苑の南東角、寺町通と丸太町通が交わる交差点の南東に位置し、西国三十三所十九番札所革堂行願寺の一筋北に鎮座します。京都御苑の周囲ではインバウンド客が多いが、社頭に面した寺町通はそれほど目にしなかった。下御霊(しもごりょう)神社社頭。京都御所の南東に位置する神社で、1100年以上前の平安時代から続く歴史のある神社です。西向きの社頭の左に「府社 下御霊神社」の社号標と正面に朱塗りの明神鳥居と違和感を覚える神門を構えています。上の由緒から抜粋。「下御霊神社 平安初期の貞親五年(八六三)に神泉苑で行われた御霊会で祀られた崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原吉子、藤原広嗣、橘通势、文屋宮田麻呂の六座に、吉備聖霊と火雷天神を加えた八座、即ち八所御霊を出雲路(上京区)に奉祀したのが始まりである。いずれも無実の罪などにより非業の死を遂げた人物で、疫病流行や天変地異はこの怨霊によるものと考えられ、それを鎮めるために御霊が祀られた。 当初、御霊神社(上御霊神社)の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったといわれ、以後、社地を転々とし、天正18年(1590)に豊臣秀吉の命により当地に移転した。古来より、京都御所の産土神として崇敬され、享保年間(1716-1736)に霊元天皇が当社に行幸し、震筆の祈願文を納めている。 本殿は、寛政3年(1791)に仮皇居の内侍所を移建したもので、表門は、旧建礼門を移したものといわれている。境内の垂加社には、江戸時代の神道家、山崎闇斎を祀っている。京都市」神社栞の由緒概略は以下。「本殿祭神は、何れも国家の為に御尽くしになった方々ですが、事に坐して冤罪を御受けになり遂に薨去せられたのであります。 平安時代の人々は、疫病が流行し災害が起こるのは貴人の怨霊が原因だと考え、慰和する事により御加護を得る「御霊会」が各所で行われるようになりました。文献上最古の御霊会は貞観5年(863年) 5月20日に神泉苑にて行われたもので、その時に祀られた御霊六座に二座加わった八座が当社の御祭神であります。 かくして疫病退散、都民擁護、朝廷御守護の 神社として崇敬されてきました。御祭神 本殿八座 ・吉備聖霊(以下御霊の和魂) ・崇道天皇 桓武天皇皇太弟早良親王 ・伊豫親王 桓武天皇皇子 ・藤原大夫人 伊豫親王母 藤原吉子命 ・藤大夫 藤原廣嗣命 ・橘大夫 橘逸勢命 ・文大夫 文屋宮田麻呂命 ・火雷天神(上記御霊の荒魂)相殿一座 ・天中柱皇 霊元天皇主な祭礼 5月1日 神幸祭 5月第三か第四日曜日 還幸祭 神幸列(鳳輦列・神輿列)巡幸 8月17日・18日 例祭 宮中御神楽・東遊奉奏」下御霊神社は平安時代に冤罪を被り亡くなられた貴人の方々の怨霊をお慰めして御霊として、当時からお祀りし、疫病災厄を退散し、朝廷と都をお守りする神社として崇敬されてきました。社頭の常夜灯は天保15年(1845)の寄進。下御霊神社の狛犬。嘉永7年(1854)に寄進されたもので、大きな口を開けて笑う阿形の姿と冷めた表情の吽形の姿が面白い。違和感を覚えたのは、京都御所の旧建礼門を移設したことによるのだろう。沢瀉に水が神紋の様です。門の先には寛政10年(1798)に造営された拝殿とその先の拝所が一望できる。神門左の手水舎。手水鉢に注がれる清水は、明和7年(1770)京の町を見舞った干ばつの際に、お告げに従い掘りあてた「感応水」、当時の井戸は既に存在しませんが、同じ水脈から湧き出る地下水は、今も空容器をもって採水にくるほど名水のようです。京都酒蔵館別邸の中庭に湧き出ていたのと同じ軟水です。境内から眺める拝殿。この時期の境内にはサルスベリの白い花が彩りを添えてくれている。下御霊神社社殿解説。「京都市指定有形文化財 下御霊神社 本殿・幣殿・拝所・南北廊・拝殿現社殿は、天明8年(1788)の大火で旧社殿が焼失した後、再建されたものである。 本殿は天明八年に仮皇居の聖護院宮において造営された内侍所仮殿を、寛政3年(1791)に移建したもので、仮殿造営当初の規模、形式をよく残している。本殿の前に切妻造の幣殿(寛政5年)が取りつき、その前には更に唐破風造の拝所(寛政5年)がつく。 また、幣殿からは南北に入母屋造の廊(文政13年・1830)がのびている。本殿、幣殿、拝所そして南北廊が、屋根をそれぞれ交錯させて一連の内部空間をつくる特異な社殿構成は、市内の御霊社特有のもので、なかでも当社の社殿は造営の年代が古く貴重である。 また、拝所の前方に独立して建つ拝殿は、寛政十年に造営されたものである。昭和五十八年六月一日 指定 京都市 」拝殿西側の境内五社相殿。手前から日吉社 / 祭神日吉大神 / 文化4年(1807)。愛宕社 / 祭神愛宕大神 / 愛宕山に坐す火伏神。大将軍社 / 祭神大将軍八神。高知穂社 / 祭神高知穂神。 斎部社 / 祭神斎部神 / 社家の先祖神。五社相殿の右が大国主命事代主命社。祭神大国主命、事代主命 / 文化4年(1807)。天満宮社。西参道から入った左に鎮座し祭神は北野大神を祀る。社地西側から拝殿の眺め。入母屋妻入りの拝殿は寛政10年(1798)に造営されたもの。唐破風造の拝所。寛政5年(1793)の造営で、その先の幣殿には左右から廻廊が接続しています。解説にあったように現社殿は天明8年の大火で焼失後、寛政3年(1791)に仮皇居の内侍所仮殿から移設されたもの。拝所の両脇を守護する狛犬(寄進年未確認)幣殿両脇には写真の随神像が安置されています。拝所脇の本殿・八咫鏡・霊元天皇の解説。幣殿から本殿方向の眺め。額は「御霊社」手前には勇猛な容姿の黄金色の狛犬が守護する。拝所から左にも境内社が祀られていたようですが、見落としていたようです。拝殿から神門方向の寺町通の眺め。拝殿左の境内全景。右手が神楽所、宗像社と鎮座、赤い鳥居の稲荷社、その左が猿田彦社。稲荷社(右)、と猿田彦社(左)。稲荷社本殿。祭神は稲荷大神。その左の猿田彦社。拝所の額は右から江戸時代前期の儒学者山崎闇斎を祀る垂加社、猿田彦大神、柿本大神の額。随分境内社を参拝し忘れていたようで、後日HPを拝見したところ、下の境内図があったので訪れた際には参考にされると漏れはないと思います。下御霊神社創建 / 貞親5年(863)祭神 / 崇道天皇、伊豫親王、藤原大夫人、藤大夫、橘大夫、文大夫、吉備聖霊(前記御霊の和魂)、火雷天神(荒魂)境内社 / 日吉社、愛宕社、大将軍社、高知穂社、斎部社、大国主命事代主命社、天満宮社等所在地 / 京都市中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町参拝日 / 2024/08/06関連記事 / ・京都市内の西国33所巡り『17番・18番・19番』
2024.08.26
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8月2日、旅行の申し込みのため近鉄名古屋駅を訪れ、要件をすましたあと名駅南側の神社を参拝してきました。中村区太閤3「須佐之男社・迦具土社」名駅の南を東西に延びる太閤通り、通りを西に向かい笈瀬通交差点を左折、三本目の通りの角に神社は鎮座します。移動時間は15分はかからないと思います。写真のカッパの像が見つかれば、そこが神社になります。河童と神社は直接の繋がりはなく、関わりは嘗てこの辺りを流れて笈瀬川にあります。嘗ての当地は当地は伊勢神宮の神領で、この地には「御伊勢川」と呼ばれた川が流れていました。この名が後の笈瀬村や現在の笈瀬通りの名に繋がっています。上は尾張名所図解の挿絵にある笈瀬川。笈瀬川には子供好きの河童伝説が伝わっており、宝暦6(1756)年7月3日、曙の景色を見ようとして押切田面を歩いていると、小児が一人あとを付けてきた。これが「河童」であり、強い力で老士の肩に力をかけて引き倒そうとした。老子は勇強な男でこれを捕え、睨みつけると河童は笈瀬川へ飛び込んで逃げていったという。その様子が当時の挿絵に描かれています。その川も都市化に伴い、暗渠になり河童の痕跡は微塵もありません。笈瀬本通り付近を歩いていると河童のモニュメントが見られますが、なぜ河童なのか、これまで気にも留めずスルーしてきたがこの伝承を伝える目的で置かれています。上は台座に埋め込まれている河童の由来。「その昔、川でおぼれていた子供を河童が助けたという。以来「人助けのかっぱ」と親しまれ、この河童に肖り、笈瀬本通り商店街は家計を助ける「河童商店街」となったとという」名古屋の玄関口でありながら、駅の西辺りは遊郭や下町風情も残り、東側の町並みとは対照的ですが、リニアの工事に伴いそうした風情も薄れていくのでしょう。人助けのかっぱ像の裏側に須佐之男社・迦具土社の本殿が鎮座しています。駅近くの市街地に玉垣で囲われた社地と街中の歩道の真中に御神木の楠木が聳えています。根は歩道のタイルを押し上げるほどで、市街地故に通行の妨げになるとして伐採されがちだが、地元から御神木として大切に護られている。境内は西から入り、鳥居と社殿は南向きに鎮座します。歩道側の入口には社標はありません。石造の神明鳥居から本殿の眺め。鳥居の寄進年は昭和13年(1938)7月健之とあった。太平洋戦争開戦が昭和16年、名古屋への初空襲が昭和17年、名古屋大空襲は昭和19年、標的となる施設が多かったこの地域にあって、鳥居は戦災を免れたようだ。境内の手水鉢、年代は未確認。本殿全景。手前に一対の狛犬、本殿域に繋がる石段の両脇に社標がある。石段上り口で守護する狛犬も昭和13年7月に寄進されたもの。二つの社標、左が加具土社で右は須佐之男社。6本の鰹木と外削ぎの千木が載る本殿は、社標から迦具土神と須佐之男命を祀る二社相殿。神社の由緒は定かにはならず、創建時期も定かではありませんが、この地域に鎮座する椿神明社、牧野神明社、稲穂社、厳島神社とともに、牧野5社のひとつに数えられています。明治の地図には鳥居の記はなく、創建時期の推測が付かないけれど、笈瀬の集落の除災として創建されたものでしょう。戦禍から護られたのもこの二柱によるものなんだろう。下町の風情が残る神社南からビル群が林立する名古屋駅東側の眺め。大きな影の出来ないこの辺り、小さな影を探しながらの神社巡り、何社巡れるだろう。須佐之男社・迦具土社創建 / 不明祭神 / 迦具土神、須佐之男命所在地 / 名古屋市中村区太閤3-6-10名古屋駅から徒歩 / 近鉄名古屋駅から太閤通りを笈瀬通交差点左折徒歩15分参拝日 / 2024/08/02過去記事 / 椿 神明社
2024.08.25
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五智国分寺。先に掲載した越後一ノ宮 居多神社、一ノ鳥居跡から北を眺めるとすぐ先に五智国分寺の門前は見えています。五智国分寺門前の全景。南向きに伽藍が配置され、参道の先に仁王門を構えています。所在地は国府1丁目、国府町の五智国分寺。地名からすれば、ここが「越後国府の一丁目一番地かぁ」と思えますが、越後国府は発掘調査などから比定地は幾つかあるようですが、確定するだけの根拠に乏しく未だに謎のままだという。同様に五智国分寺の始まり地も謎に包まれており、開基や創建時期は定かではなく、寺伝によれば永禄5年(1562)、上杉謙信により現在地に移転・再興されたとされ、移転前の場所については海岸浸食で没したとする説など諸説あるようで、比定地も明確になっていないようです。上五智国分寺門前の全景。南向きに伽藍が配置され、参道の先に仁王門を構えています。五智国分寺は天台宗の寺院で、山号は安国山、院号を華蔵院と称し五智如来を本尊とします。広い境内の右側に上越地方唯一残る三重塔、左に経蔵と白山神社(現在再建中)が鎮座します。正面の本堂とこの地に上陸した親鸞上人が草庵を構えた竹之内草庵が主な伽藍。開基や創建時期は定かではなく、寺伝によれば永禄5年(1562)、上杉謙信により現在地に移転・再興されたとされます。移転前の場所については諸説あるようで、海岸浸食で没したとする説もあるようです。下仁王門。天保6年(1835)に建てられた切妻屋根の三間一戸の八脚門。扁額は「安國山」、左右の間に安置されている仁王像は天保7年(1836)のものとされる。現在の本堂は平成9年(1997)に再建されており、この仁王門も近年屋根は吹き替えられているようです。門前左の如意輪観音。安置される観音様の像容は良く拝めなかった。五智国分寺は天台宗の寺院で、山号は安国山、院号を華蔵院と称し五智如来を本尊とします。広い境内の右側に上越地方唯一残る三重塔、左に経蔵と白山神社(現在再建中)が鎮座します。正面の本堂とこの地に上陸した親鸞上人が草庵を構えた竹之内草庵が主な伽藍。山門付近の周辺散策マップ。先程参拝した居多神社と五智国分寺はマップの右下にあたり、多くの見所に案内してくれそうです。家路に向かう途中に立ち寄るところではなさそうです。仁王門全景。天保6年(1835)に能生谷小見村(能生町)の七郎左衛門の手により再建されたとされる三間一戸の八脚門。こうして見ると最近屋根が吹き替えられているようです。山号額は「安国山」左右の間に安置する仁王像。はっきりと彩色も残る二体の像は、名立町の長井要壱らの手により天保7年(1836)に製作されたという。仁王門の間に貼られている解説。「阿弥陀如来 薬師如来 胎蔵界大日如来 宝生如来 釈迦如来 五智如来とは、大日如来の五つの智恵を現す五仏です。向かって左の阿弥陀如来は、極楽往生の功徳、薬師如来は病魔を退散させる医薬の功徳、大日如来は太陽のように万物をいくつしむ功過、宝生如来は福徳財宝・五穀豊穣の功徳、釈迦如来は智恵聡明の功徳を授けてくださる仏様です。 中央の仏さまは胎蔵界の大日如来です。大日如来の印相は、二つの曼荼羅界で異なり金剛界では 智拳印を結び、胎蔵界の大日如来は法界定印を結び、瞑想にふける姿をしています。 左右は金剛の四方仏で、焼失前と同じ並びです。本尊は、半丈六(約130cm)でヒノキの一本造りで、漆と金箔で古代色に仕上げてあります。越後国分寺の由来 奈良時代の天平13年(741)に聖武天皇の勅命により、行基が開基した越後の国分寺です。その後、 幾度となく災厄を重ね、永禄5年(1562)に、上杉謙信がこの地に真言宗の寺院として再興しました。 謙信の甥俊海僧正が天台宗の国分寺として中興してかから、幕末まで寺領第200石が徳川川幕府より寄せられていました。昭和63年1月に本堂を焼失しましたが、多くの方々のご協力とご浄財で平成9年10月5日落慶法要を執り行うことができました。 今の本堂は、鎌倉時代の建築様式を模して、入母屋造り、銅版葺き、 間口7間、奥行き6間の建物です。 用材は主に青森ヒバ材で床にいたるまで槍ガンナで仕上げてあります。」仁王門から境内本堂の眺め。柱は自然木の形を残したものです。参道左の松尾芭蕉句碑と解説。「薬欄にいづれの花をくさ枕 「薬園の草が秋て美しいが、どれを枕としてここに旅寝しようかと、主人への挨拶をこめて詠んだもの」と解される。元禄2年(1689年)7月8日(旧暦)、高田の医師細川春庵を訪れた時の作句である。 春庵は薬草を栽培し、庭は泉水その他美しい庭だったと言われている。松尾芭蕉は、正保元年(1644年)伊賀上野に生まれ、俳句の道を志し、20歳の頃に初めて俳書に掲載された。 寛文12年(1672年)江戸へ出て創作活動を続け、元禄2年3月末、弟子の曽良を伴い奥の細道の旅に出ている。芭蕉は、旧暦7月2日新潟、3日弥彦、 4日出雲崎、5日鉢崎(現柏崎市)を経て6日に今町(直江津)を訪れ、翌7日も滞在し、8日から10日まで高田で過ごしたようである この句碑は、明和7年(1770年)に建てられたものである。」 右手を見れば上越地方で唯一残る三重塔が聳えている。五重塔や十三重塔の姿もいいけれど、均等の取れた外観は三重塔までかもしれない。逆光で真っ黒だった三層部と相輪を無理くり見えるように調整してみました。放射状の垂木と、相輪先端の素材が銅製ではなく見慣れぬ形になっています。この塔、よく見ると屋根を支える各層の垂木が1・2層と3層では組み方が違います。1・2層は軒に対して直角に組まれていますが、3層だけは放射状に組まれています、更に各層の手摺(高欄)を見ると箱木や桁などがなく親柱のみで工事としては未完成なのが分かります。また一層・二層の各壁面の頭貫上部には十二支の彫刻が描かれています。修復作業以外で製作途中の塔を見るのは初めての経験、整った外観の塔ですが面白い塔です。五智国分寺三重塔「国分寺は、聖武天皇が天平13年(741)1国1寺の建立を命じたのがはじまりです。当時の越後国分寺の所在については諸説あり、現在まで位置はわかっていません。 現在の国分寺は、永禄5年(1562) 7月廃寺のようになって いたものを、上杉謙信が再興したものです。しかし、その後 何回か火災にあって焼失し、三重塔を現在の姿に建て直したのは安政3年(1856)です。 宮大工曾武川常右衛門、江崎の長三郎の手により、およそ20年かかっています。壁面には高田の住人石倉(後藤)正義銘の十二支と二十四支孝の中から選んだ十二孝の彫刻がはめこまれています。 高さ25.85m 間口4.8m 奥行き4.8m、新潟県指定文化財 昭和51年3月31日 指定 」とある。未完となった理由は定かにはならなかったが、ぱっと見は作りかけには見えない。境内左の経蔵。五智国分寺HPでは経蔵について以下の内容で語られていました。「経蔵の棟札によって、元禄6年(1693)2月22日に上棟されたもので、上越市内で記録の残るものでは最古の建物ともいわれています。 またこの経蔵には、鉄眼版一切経と呼ばれる一大仏教全集が納められており、元禄5年の寄進銘が記されています。」とあった。外観は瓦葺の桁行2間、梁間2間の宝形造です。尚、左側に白山神社がありますが、当日は再建に向け工事中でした。五智国分寺本堂正面全景。「 奈良時代の天平13年(741)に聖武天皇の勅命により、行基が開基した越後の国分寺です。その後、幾度となく災厄を重ね、永禄5年(1562)に、上杉謙信がこの地に真言宗の寺院として再興しました。 謙信の甥俊海僧正が天台宗の国分寺として中興してかから、幕末まで寺領第200石が徳川川幕府より寄せられていました。元禄2年、寛政6年と火災に遭い、現在の本堂は昭和63年焼失後の平成9年に再建されたもの。 昭和63年1月の本堂を焼失を受け、多くの方々のご協力とご浄財で平成9年10月5日落慶法要が執り行われたもの。今の本堂は、鎌倉時代の建築様式を模して、入母屋造り、銅版葺き、 間口7間、奥行き6間の建物で、用材は主に青森ヒバ材で床にいたるまで槍ガンナで仕上げてあります。」新しいものですが、入母屋銅葺屋根の平入で桁行7間、梁間6間で、正面に3間向拝が付く堂々たる建物です。本堂内部には本尊の五智如来像や聖観音立像が安置されています。向拝から堂内の眺め。左から阿弥陀如来、薬師如来、胎蔵界大日如来、宝生如来、釈迦如来の五智如来が安置されています。境内右から見る本堂の全景。軒先に向かって流れる屋根の勾配が描く曲線は優雅なものがある。境内右の竹之内草庵の手前に親鸞上人像。左手の岩に親鸞上人が腰掛けたとされる腰掛石がある。腰掛石。当地には空海も訪れ、本尊の五智如来は空海が安置したものといいます。竹之内草庵。親鸞上人像の左奥に建つ建物、「竹之内草庵」は竹林に囲まれていた事に由来するという。鎌倉時代の承元元年(1207)、親鸞聖人が越後に配流になった際、比叡山延暦寺時代の同門だった五智国分寺が親鸞聖人のために竹之内草庵を設けたもので、入母屋瓦葺で妻側に唐破風向拝が付くもの。内部には上越市指定文化財の伝親鸞聖人坐像が安置されている。破風に施された彫飾り。親鸞聖人越後配所草庵縁起。「平安末期から鎌倉時代にかけて、法然の開宗した専修念仏へ弾圧が加わり、承元元年(1207) 75才の法然は土佐に流され、その高弟の35才の親鸞聖人は藤井善信と還俗させられ越後に遠流となりました。 流罪となった親鸞聖人は国分寺境内の竹ノ内草庵で、国府代官荻原敏景の監視のもとに「延喜式」による流人の生活を約一年間送りました。翌年代官の命令で「竹ノ内草庵」から「竹の前草庵」に移られる。 建暦元年(1211)勅使岡崎中納言が国府に到着し、「赦免の宣旨」を授けた。赦免を喜んだ聖人が、別れを惜しむ同行の心根を思い、国分寺の北にある鏡ヶ池に自らの姿を写し刻まれたと伝えられる、親聖人座像が竹ノ内草庵(親鸞堂)に安置されています。 なお、国分寺の東に聖人が日常用いた清水が今もなお涸れることなく湧きいてでております。また、境内には聖人旅立ちの像、御配所草庵跡地の碑、句仏上人の碑があります。」 堂内中央の親聖人座像。背後の壁面は色が飛んでしまいましたが一面金箔が貼られています。親鸞聖人像の右奥に宝塔と複数の地蔵が安置され、その奥に「親鸞聖人御真筆」「南無阿弥陀仏」と彫られた石碑が立てられています。穏やかな表情だね。それにしても見所が多い、海辺にテントを張り、もう一泊したいと思わせる。息子に「三日して帰宅しなければ熊に襲われているかもしれないので通報宜しく」と出てきただけに帰らねば。運転する者から見ると一ノ宮巡りも遠くなってきた、日本海の沖に浮かぶ佐渡にもいかないといけない。若い頃のように帰宅予定を決めずに出かけて見たいものだ。五智国分寺宗派 / 天台宗山号 / 安国山院号 / 華蔵院 開基・創建 / 不明中興 / 永禄5年(1562)・上杉謙信本尊 / 五智如来所在地 / 新潟県上越市五智3-20-21参拝日 / 2024/07/20関連記事・無印良品津南キャンプ場を拠点に清津峡と越後一宮を訪れる 1『無印良品津南キャンプ場』・無印良品津南キャンプ場を拠点に清津峡と越後一宮を訪れる 2『清津峡とへぎ蕎麦』・無印良品津南キャンプ場を拠点に清津峡と越後一宮を訪れる 3『越後一宮 居多神社』・清津薬師堂・剣神社(上越市浦川原区)・石動(いするぎ)神社 (上越市浦川原区)・越後一ノ宮 居多(こた)神社
2024.08.24
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居多(こた)神社。新潟県上越市五智にある越後国一ノ宮。鎮座地の東を流れる関川左岸下流の高田平野に鎮座し、北に10分も歩けば、越後国府に配流となった親鸞聖人が上陸した居多(こた)ヶ浜があり、海は間近に迫っている。居多神社社頭は上越市国府にあり、社頭の状況は左に居多神社解説、右に明治15年(1882)に寄進された「県社 居多神社」の社号標と一対の常夜灯がある。wikiの紹介には、ここに一ノ鳥居を構える姿が残されていますが、現在はここに鳥居はありません。何をきっかけに、いつ頃鳥居が無くなったのか定かではありませんが、想像できる要因は限られてきます。この一ノ鳥居跡の社頭から、緩やかに下る参道を進むと、大きな駐車場と真新しい社号標が立つ二ノ鳥居の前に出ます。ここ一ノ鳥居跡から右に向かうと五智国分寺が目の前です。社頭の由緒。「越後一の宮 居田神社祭神 大国主命、奴奈川姫、建御名方命祭典 例祭 5月3日講社大祭 8月19日・20日由緒 弘仁4年(813)に従五位下を、貞観3年(861)に従四位下を朝廷から賜わった。 延長5年(927)の「延喜式」神名帳に記載された式内社である。 越後国司・越後守護上杉家・上杉謙信の厚い保護をうけ、越後一の宮として崇敬されてきた。 今日、縁結び・子宝祈願の神として信仰されている。宝物 居多神社文書・狛犬(上越市指定文化財)親鸞聖人御旧蹟 親鸞聖人日の丸御名号・御詠歌・越後七不思議「片葉の芦」境内社 雁田神社 祭神:高皇産霊神、神皇産霊神、子宝・安産の神 稲荷神社 祭神:倉稲魂命(商売繁昌の神) 」社頭右の社号標。常夜灯の寄進年は見忘れました。居多神社の創建年代は定かではなく、往古は現在の社地から北、親鸞聖人上陸の地居多ヶ浜の西の身輪山の海に面して鎮座していたとされ、上陸した親鸞聖人は最初に居多神社を訪れたと云われます。しかし、風や波の浸食、地震による社地の崩壊から現在地に遷されたようです。神社は幾度も兵火で焼失するも、都度再興されたが、明治35年(1902)社殿を焼失し、明治40年(1907)に仮社殿の再建以降は長年仮社殿のまま推移していたが、平成20年(2008)、現在の優美な社殿に生まれ変わりました。木陰に包まれた参道を進みニノ鳥居に向かいます。真新しい社標の前は車道が横切り、ニノ鳥居の先に拝殿が見えてきます。車で訪れると駐車場も近く、ここが社頭のようにも見えます。社標周辺の草むらをよく見ると、越後七不思議のひとつ「片葉の芦」も見られます。ニノ鳥居前の由緒、先の由緒と内容が同じなので割愛。石段の先のニノ鳥居。石造神明鳥居から境内の眺め。広々とした社地の参道の先に真新しい社殿がある。大国主命を祭神とする居田神社、拝殿に対し右に寄せられた向拝は出雲大社拝殿の趣に似ている。社殿右手に親鸞聖人の像や境内社が纏められています。参道左の手水鉢。拝殿前の狛犬、台座に皇紀2600年(昭和15年)寄進とある。向拝鬼板に左三つ巴の紋、向拝の額は居多大明神と書かれています。拝殿内の光景。祭神は大己貴命、奴奈川姫命、建御名方命、事代主命を祀ります。居田神社と書かれた拝殿額から先の幣殿は、本殿に続く階段が右に寄せられおり、大社造りに似ている。居田の「居(こ)」の読みは古くは「け」と呼んでいたようで、けたじんじゃと読んでいた、海岸線を西に進めば富山の越中国一之宮氣田(けた)神社も大己貴命を祀っていた。更に西に向かえば出雲の国に繋がる、日本海がこれら繋げているような・・・社殿左から全景。拝殿左の建物の用途は良く分からない、社地に神饌所が見られないので神饌所か?。社殿左は神輿庫。御朱印はこの左手奥に社務所があるのでそちらで頂ける。本殿後方眺め。三本の鰹木、外削ぎの置き千木が施された鞘殿に覆われ本殿の造りは分からない。鞘殿の基礎となる石垣は、随分と高く積まれ雪深い土地柄を感じさせる。社殿右の稲荷神社、倉稲魂命を祀る。慶応2年(1866)旧社地が崩壊する以前には、境内に天神社、八幡社、稲荷社、八坂社、諏訪社、大間神社の境内社あったとされます。この地に遷った現在の境内には、由緒にある写真の稲荷社と北参道の右に鎮座する雁田神社の二社。北参道左側に大国主命と奴奈川姫命の像があり、愛おし気に我が子建御名方命を抱く奴奈川姫命の姿が印象的だ。北参道口。右手の建物が境内社雁田神社。雁田神社。祭神は高皇産霊神と神皇産霊神。懐妊、安産、夜尿症治癒、性病治癒の神とされ、納得の御神体です。雁田神社の右の石碑。祥元元年(1207)親鸞上人が越後国府に配流となり、居多ヶ浜に上陸、最初に参拝したのが越後一宮 居多神社とされ、その時「すゑ遠く法を守らせ居多(こた)の神 弥陀と衆生のあらん限りは」と詠み神前に供えて祈願したところ、一夜にして境内の葦が片葉になったという。この片葉の葦は「親鸞上人越後七不思議」のひとつとされ、社頭右手の社標周辺で見ることができます。親鸞上人は後の建保2年(1214)に常陸国に旅立つまでの越後で生活した。写真中央の一際大きな岩には親鸞上人が詠んだ「すゑ遠く法を守らせ居多(こた)の神 弥陀と衆生のあらん限りは」と彫られています。境内右の親鸞上人像と社殿。この地に上陸した親鸞上人は、五智国分寺境内に竹之内草庵を構え、建保2年(1214)に常陸国へ旅立つていった。拝殿からニノ鳥居と五智国分寺が鎮座する一ノ鳥居跡方向の眺め。越後一宮 居多神社創建 / 不明祭神 / 大国主神、奴奈川姫、建御名方神(栞より)境内社 / 雁田神社、稲荷神社所在地 / 新潟県上越市五智6-1-11参拝日 / 2024/07/20関連記事 ・無印良品津南キャンプ場を拠点に清津峡と越後一宮を訪れる 3『越後一宮 居多神社』・清津薬師堂・剣神社(上越市浦川原区)・石動(いするぎ)神社 (上越市浦川原区)
2024.08.23
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前谷白山神社から県道314号線で九十九折れの峠を越え、石徹白地内の三叉路を右折し県道127号線で石徹白川左岸を上流に向け30分も走れば白山中居神社に到着できます。センターラインのないワインディングロードなので車はもちろん、ツーリングするバイクには注意した方がいい。過去の経験で、荘川村一色から峠を越え白鳥に向かっていた時の事。遥か先のコーナーから爆走して来たバイクが、視界が開けS字のコーナーの先から対向してきた自分の車に驚きそのまま転倒、無人のバイクだけがS字のコーナーを直線的に突っ込んできて、自分の車の側面に激突する事故を経験した事がある。幸いライダーは無傷、当方はタイヤ・サイドステップの下にバイクが喰いこみエライ迷惑を被ったことがある。当然過失割合も0:100、しかし同伴の車に白鳥の警察に連絡してもらうは、現場検証、ライダーを町に送り届けたりと過失割合では補いきれない無駄な時間を費やした経験がある。学んだのは対向車が来る意識のないドライバーも往来するので昼間の峠道は要注意、一番安心なのは夜間走行に限ります。急登のウネウネが続く峠道から石徹白地内の県道127号線を北上すると、写真の結界が見えてくる。運よくここまでは対向車も後続車もなく、目的地の白山中居神社も近い。平瀬から白山を登った事は何度かありますが、ここから白山を目指した事はなく、釣りで訪れていますが参拝目的で白山中居神社に訪れるのははじめてのこと。白山中居神社社頭の全景。大きな杉の樹や銅製の両部鳥居も変わらず聳えていました。社頭正面全景。一対の狛犬と鳥居右の社号標は「金幣社 白山中居神社」と記されています。その先には白山中居神社の象徴的存在の銅製の両部鳥居が建っています。社頭付近の長龍泉と短龍泉の解説。長走の瀧の入口までは車で行けますが、そこから瀧までは一人ではとても行く気にならない道なので、今回はどこまでも白山中居神社です。それでも駐車場から白山中居神社に向かうにあたって、靴とストック、お守り代わりの熊鈴を付けて社殿に向かいます。当日は見かけなかったけれど、白山山系には熊はもちろん、多くの猿が生息しています。泊りで釣りに訪れ、川からキャンプに戻るとサイトを荒らされ、朝釣って生かしておいた岩魚がなくなっていた事もありました。特に群れに囲まれると熊以上にタチが悪く、「まあ可愛い」と言えるような存在ではありません。銅製の両部鳥居から続く参道は石徹白川支流の宮川にかけて下りの参道が続きます。鳥居前の一対の狛犬、台座には昭和18年と刻まれていました。空の青、二本の杉の緑にも劣らず、鳥居の笠木や台輪、貫など全体は鮮やかな緑青の色に覆われています。鳥居の先の右側に建つ「岐阜県八景」の石碑。これは昭和34年(1959)、県内で特に美しい風景や名所を選んだ八つの景観のこと。内訳は以下の八景を指すようです。・苧ケ瀬池(各務原市)・岐阜城(岐阜市)・関善光寺・吉田観音(関市)・千代保稲荷(海津市)・白山中居神社(郡上市)・美濃三弘法円鏡寺(本巣郡)・岐阜成田不動(岐阜市)・城山公園(高山市)岐阜県には「岐阜県八景」の他にも、土岐市の山中で「岐阜県名所」なる石標も見た記憶があり、県の名所は多いようです。白山中居神社は白山国立公園エリアに鎮座しており、御存知のように白山は富士山や立山と共に日本三名山のひとつで、古来より神聖不可侵の御山として麓から崇める信仰対象でした。やがて修験者の修行の場として道が開かれるようになり、ここ白山を開いたのが泰澄大師とされます。後に民衆の霊峰登拝が広まると禅定道の麓に馬場が作られ栄ていきました。ここ石徹白は美濃側から白山登拝を目指す人の入口にあたり、石徹白の人々により登山道が整備されています。釣りでは何度も訪れた石徹白ですが、白山山頂へは平瀬側ばかりから登っていたので、美濃側から登った経験がありません。今回の目的地石徹白大杉はここ石徹白側のルート上にあります。鳥居を過ぎるといきなり下り参道。石段を下りた右手の泉。白山中居神社の由緒と白山古道の絵図。上「自山中居神社の由緒第十二代景行天皇の十二年、熊襲 東夷が朝廷に背いた時、皇御係を守る為、伊邪那岐・伊邪那美の二神が、打波との境の橋立山へ天降りされ、還か東南を望んで「善哉 奇しき舟岡ぞ」と、隈筥川のあたり東 長瀧川 西 短瀧川の間の森にこられ「これ清々しき舟岡山 中居」と申し給い、此処に大宮柱太しく立て鎮まりました。この時、舟岡山の坂路に、千引岩を引き、遠き神代に黄泉平坂にて事なせし如く、この岩を隔てて、許等度(別れの儀式)をされた。この時舟岡にひとむらの白雲がたなびいた。大神「これいとしろし」と申された。これより石度白と云う。石は千引岩を取り、度は許等度の度、白は白雲の白を取ったと云う。(正一位白山中居神社由緒書)より復昔 山中の古喜美という者あり、その名を武比古という。景行天皇の十二年正月(西紀前三十九年)伊邪那岐命が武比古に、皇御孫を守るため舟岡へ天下るから、舟岡の真中に宮を造れと武比古 神託により舟岡中居の地に宮殿を造り、天神を祀る、宮殿は七尺四方、高さ二丈一寸なり。御係を守る為舟岡へ天降るから、舟岡の真中朝日 夕日がさし、山と山瀧と瀧と 武比古 神託により舟岡中居の地に宮殿を造り、天神を祀る。(白山中居神社誌より)」先日、島根の意宇六社 揖夜神社を参拝した時と同じことがここでも行われたようです。下の絵図にも鳥居が見られ、中央の社殿、その上に大きな杉が描かれています。泰澄上人が白山開山の際、使用していた杖が大杉になったという伝承のある「いとしろ大杉」だろうか。よく見ると小さな堂が描かれており、これは淨安杉と思われ、その上にいとしろ大杉の姿は見当たりません。参集殿の脇から浄安杉に続く禅定道が伸びていますが、地図によれば約15分程で辿り着けますが、「いとしろ大杉」は更に上になります。泉から少し先に、樹齢を重ねた大杉が聳える中を参道が続きます、手前の常夜灯は大正拾年の寄進。いぼ取石。右手の大杉の根元にある岩で、岩の中ほどの窪みにたまった水をイボに付けるとたちどころに治るとされるもの。右手の大杉の脇に鎮座する社は猿田彦社。祭神は猿田彦大神、久那戸大神。一ノ瀬・今清水より合祀。御神徳 道の神・旅行安全の神。杉の間に続く参道(登山道に近い)は再び下りとなり、石徹白川支流の宮川に架かる宮川橋に続きます。宮川と宮川橋。ここが俗世界と神の領域の境界で、橋から先は比較的整備された参道となり境内に続きます。宮川橋から下流の眺め、一帯は禁漁区で6月にしては水量は少ないように見える。昔のように大雪も降らなくなり、山が蓄える水は減っているのだろうか。宮川橋の先に社殿が見えてきます。橋を渡り左の石段を上ると社殿が現れます。白山中居神社社殿全景。社殿は左の両社と中央に磐境、石段の先の高みに本殿覆屋、右の大宮殿が主なもので、両社の左奥に参集殿があります。境内入口の狛犬。泰澄堂跡の石碑(左)と両社。磐境(左)と本殿覆屋、手前が大宮殿。雪深い石徹白を感じさせる外観の社殿です。大宮殿前から手水舎方向の眺め。大きく開けた口に配管を突っ込まれ、冷たい清水を懸命に注ぐ龍。そろそろ開放してもいい時期ではないかなぁ。両社正面全景。二社を祀る両社の解説。須賀社(向って右)素戔鳴大神を祀る。御神徳 病気平癒災難除け、産業闻拓(農業山林,渔漁業)。合祀 ニノ峯 水呑社の鸕鶿草葺不合神 (安産神)。地造社(向って左)大己貴神(大国主命)を祀る。御神徳 産業振興、縁結び商売繁昌。医療の神様 。僅かに外光が差し込む中社内部の二社、左が地造社、右が須賀社。其々の社の前を小さな狛犬が守護する。手前の解説の下に金運の招福の玉が安置されていた。御神木が朽ちその内部に分身として生まれた石という。白山中居神社の社殿配置と案内図。石徹白大杉は案内図にある淨安杉の更に奥に聳えており、それなりの靴に履き替え、熊鈴を付けた方が賢明。何れもすぐ近くで、楽に思えるかもしれませんが、そんなに甘くはありません。白山中居神社が所蔵する文化財。一帯の森そのものが天然記念物に指定されています。大宮殿を大杉が包み込む。泰澄が開いた美濃国禅定道は、ここから白山へとつながります。大宮殿の横に掲げられている由緒と磐境の解説から抜粋。「祭神は伊邪那岐大神・伊邪那美大神、菊理媛大神。創立 景行天皇12年。養老年間、僧泰澄白山を開くため石徹白を訪れ、社殿を修め、社域を拡張、神仏混合の元を開いた。明治維新の神仏分離により仏像や奉納品は中在所太子堂で所蔵されている。祭礼 例大祭 正月三ヶ日祭、5月15日 5月第三日曜、7月18日創業祭、10月20日。境内神社五社新嘗社 祭神 大日霊貴大神、 創立 養老年間。皇祖美社 祭神 盤長姫大神、 創立 養老年間。須賀神社 祭神 素戔嗚大神 創立 養老年間。地造神社 祭神 大己貴神 創立 養老年間。道祖神社 祭神 猿田彦大神 創立 養老年間。その他明治3年村社。同44年幣帛供進神社。大正10年5月県社。昭和37年金幣社。」本殿に向かう石段中程の磐境は、古代原始時代に崇敬対象とされ、稲の豊作をもたらす白山の正面にあたる遥拝の場。大宮殿正面全景。大宮殿右から見る社殿。大宮殿内部、中央に「金幣社 白山中居神社」の額。大宮殿(幣殿・斎殿)。祭神 菊理媛大神。神徳 調和と結合の神、和解の神、全てのものをくくり合はされるを御使命とされる仲直りの神様。盤境。本殿域続く石段の中ほどにある丸い大岩で、神様が降りてくる目印となる場所とされ、太古からの自然崇拝の場。毎年7月18日に創業祭が行われ、この盤境の前で舞姫が「浦安の舞」「豊栄舞」が奉納される。城壁のような石垣の上の本殿域へ続く石段。杉の巨木に囲まれた覆殿全景。白山中居神社本殿解説。本殿は安政2.3年頃、福井県の永平寺町大工棟梁玄之源左衛門が建築を担当。彫刻は後藤兼之介と諏訪の立川和四郎二代富昌、昌敬(京都御所御門の彫刻を施す)の合作。昌敬は白山中居神社の彫刻を最後の作品として残した。「七五歳立川富昌(花押)」この粟穂に鶉の優しく強い家族愛を表現しており、見つめる事で暖かい気持ちが伝わる類稀なる名作。海老虹梁の龍、脇障子の獅子は力強く、正面扉の菊花紋、両脇屏風、両左右の浜千鳥・梅など傑作と称される。本殿は欅の一尺八寸×5尺、脇障子は四尺三寸、本殿梁は六尺五寸×一尺五寸。白山美濃馬場の奥之院、白山中居神社本殿、祭神 伊邪那岐大神・伊邪那美大神。解説にある部位の彫刻は望遠を持ってきておらず、ここまでです。本殿左の西相殿。祭神 瓊瓊杵尊大神。氏子の安楽と幸福を守護する神、神鳩社より合祀。祭神 盤長姫大神。寿命長生の神、美女下社より合祀。本殿右の東相殿。祭神 大日霊貴大神(天照大神)。氏子の安楽と幸福を守護する神、神鳩社より合祀。祭神 盤長姫大神。諸神統合の祖神、平和と民族の生活をお守りくださる神。東相殿から本殿域社殿全景。大宮殿右から眺める本殿域全景。大宮殿右から白山古道入口に続きます、その案内板から社殿全景。白山古道入口。石徹白の方々が藪を刈り、禅定道はある程度整備されています。歩けない事はないですが、足元が見えず蛇との遭遇は避けられそうもない、蛇にも怖い奴がいるんで「いとしろ大杉」へは参集殿の左の林道を車で30分程走り、石徹白川沿いの白山南縦走路の登山道から向かう事にします。そこまでの道は対面通行の林道で100㍍間隔で待避所もありますが、道幅は狭く、角のある落石が転がっており注意しないとバーストや車の底を打ち、トラブルに繋がるので注意が必要です。白山南縦走路登山口駐車場到着。目的の「いとしろ大杉」は登山口から、石段が続く山道を350㍍、約10分程登った先に聳えています。泰澄上人が白山を開山した際、使用していた杖がこの大杉になったという伝承があり、太い幹の半分から上は枯れて折れているようですが、今も樹勢は衰えず空に向かって成長しています。周辺は杉の保護のためロープが張られ、近づいたり触れたりすることは出来ませんが、周囲の大杉ですら子供のような存在にしか見えません。樹齢1800年以上と推定される大杉は、縄文杉が見つかるまでは日本有数の大木とされたようです。この森の主として堂々たる存在感を漂わせています。ここから白山の頂までの道のりはまだまだ遠い。白山中居神社創建 / 景行天皇12年(82)祭神 / 菊理媛神、伊弉諾尊、伊弉冉尊祭礼 / 5月15日・10月20日所在地 / 岐阜県郡上市白鳥町石徹白3-48参拝日 / 2024/06/19関連記事・白鳥町の神社・石徹白白山中居神社・いとしろ大杉を訪れる・・金幣社 伊岐神社・河邉(河辺)神社・白鳥町中津屋 白山神社・海上神明神社・那留 白山神社・為真 白山神社・白鳥町二日町 村社 八幡神社・長瀧白山神社、長滝寺・前谷 白山神社
2024.08.20
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石動(いするぎ)神社。横川から国道253号線を約6㌔程西に走った浦川原区飯室地区に鎮座する神社。国道から県道253号線に入った右側に杉の杜に包まれた社殿は見えているのですが、社頭になかなか辿り着けず、地区内に鎮座する本教寺の門前から西に進んだ先で社頭を見付けることができた。一帯は幅員の狭い生活道路で路駐は出来ません、社頭左に更地がありそちらに車を停めさせて頂きました。万が一の為かみさんには車の中で待ってもらい、大急ぎで参拝し社地をひと回りしてきました。社地は県道253号線の東に隣接し、社頭は東向き。真っすぐに伸びる見事な杉の杜に囲まれ、石動神社の社殿が建てられています。炎天下の下、石動神社の杜が作る木陰は涼し気だ。社頭全景。一ノ鳥居は石の明神鳥居で参道脇の二本の杉の巨木が印象に残る。鳥居左に古い手水鉢が置かれており文字も刻まれていましたが、寄進年などはっきり読み取れなかった。境内に続く石段の奥に石燈籠と石像が安置されています。新潟には古くから伝わる郷土玩具の三角だるまがあります。それが摺りこまれているのか、この石像は達磨にしか見えない。達磨か否かは定かではないが、実に穏やかな表情をしており、いつもこうした顔でいたいと感じさせる。最近は歩くことが多くなった。地元の街中を歩いていると、車や自転車の運転者の法令順守意識の低さを実感することが多くなる、そんな時はついつい目は三角になるが、そんな時こそこの表情に戻して反面教師として捉えないとねぇ。一ノ鳥居の額は「石動神社」。石段の先のニノ鳥居は靖国鳥居。右手が拝殿で左手に手水舎があります。石段を上った境内の正面に複数の石の祠が祀られています。こちらも新潟県神社庁上越市の神社一覧に石動(いするぎ)神社として登録はあったがそれ以上の情報は得られらかった。手水舎。境内に入ると灼熱の外気とは別世界で苔が自生する涼しい環境。石動神社拝殿全景。手前で狛犬が守護し、その先に形も見慣れて来た常夜灯(昭和49年)が立っています。拝殿は切妻造の平入で向拝が付くもの、落雪を促す様な屋根の勾配。拝殿を守護する狛犬。台座には平成19年(2007)寄進と刻まれています。向拝に架けられた扁額も石動神社。賽銭を納め参拝。拝殿内は格子戸から垣間見ることは出来ず、建物は比較的新しく境内に由緒など見当たらなかった。浦川原村史(1984)に石動神社について記されていました。「石動神社所在地 飯室字ブタイ474番地祭神 伊邪那岐命祭礼 4月14日・11月3日」とあったが、創建時期についての記述は見られなかった。しかし昭和57年当時に撮影された写真では、今の社殿はなく、石段正面の石祠の位置に社の姿があり、現社殿はその後に造営されたものと思われます。拝殿左から鞘殿後方に繋がっており、そこから社殿見た社殿全景。平入の拝殿と妻入りの渡殿・幣殿、平入の鞘殿がひとつに繋がっています。社殿を支える高い基礎は積雪の多さを感じさせます。社殿を包み込む杜が強い陽射しを遮ってくれています。境内から見下ろす一ノ鳥居、寄進年は昭和55年のものでした。石動(いするぎ)神社創建 / 不明祭神 / 伊邪那岐命境内社 / ・・・祭礼 / 4月14日・11月3日参拝日 / 2024/07/20所在地 / 新潟県上越市浦川原区飯室474横川剣神社から石動神社 / 国道253号線(ほくほく街道)に戻り5~6分程先の浦川原区飯室地区の飯室山西の信号を右折・直進した右側。関連記事 / ・無印良品津南キャンプ場を拠点に清津峡と越後一宮を訪れる 3『越後一宮 居多神社』・清津薬師堂・剣神社(上越市浦川原区)
2024.08.19
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我家の米びつの在庫が少なくなり、スーパーに買い出しに行く。相変わらず「おひとり様一袋」「ひと家庭一袋」の貼り紙だけで物がない。災害備蓄をしていない家庭が多いと理解したいが、なぜ、過度に買い求める理由があるのか理解に苦しむ。トイレットペーパー・米・灯油・ガソリン・マスクetc、過去にもいろいろなものが姿を消した。素人目にもその要因は過度な買い溜めによるものでしかない。買い溜めした数だけ他の世帯にまわらなくなる。「我家だけはなんとか」事が起これば、逃げ出すので精一杯、備蓄倉庫の家は潰れ、火災で焼かれる。あれ以降、毎週のように米を運び込む光景を見かけると、来るべき時の配給品、自分の住宅街に分かち合いの気持ちがあるのか、そちらの方が心配になる。供えができていれば過度に食糧品は買わず、冷静でいたい。
2024.08.18
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剣神社。魚沼群津南にキャンプで訪れた際、津南の豪雪地帯に鎮座する神社に立ち寄れず、帰路に立ち寄った神社。東頸城丘陵の西端、頸城平野の東端に位置し、ほくほく線「うらがわ駅」から徒歩10分程の新潟県上越市浦川原区横川に鎮座します。標高400㍍程の津南町から随分と下り、標高40㍍程の丘陵地に位置し、ここまで下りてくると津南町で見かけた神社の姿とは少し様相は変わってきます。写真は社地前の生活道路から社頭方向の眺め。生活道路から社殿の眺め。傾斜の強い切妻屋根の拝殿と鞘殿が連なっています。地元名古屋であまり馴染みのない形の常夜灯、寄進年は分からなかった。剣神社鳥居から境内の眺め。鳥居前の常夜灯は大正10年に寄進されたもので、石造の靖国鳥居は平成12年に寄進されたもの。鳥居の額は剣神社とある。参道左の手水鉢。剣神社社頭全景。当神社の詳細について新潟県神社庁上越市の神社一覧に登録がありましたが、創建や祭神などの情報は得られなかった。当地の「浦川原村史」という地史の「神社」・「神社現況」から横川剣神社の創建・由緒は定かにはならなかった。その中の「神仏分離」の項に以下の記述と共に昭和9年ごろ剣神社で行われた大祓式の白黒写真が添えられていた、記述は以下。「明治4年からは、全国の神社が、官幣社、国幣社、府県社、新社、村社、無格社のいずれかに格付けされ、伊勢神宮を頂点と するピラミッド型の組織に編成され、一村一社を目指し小祠の統合も進められた。 浦川原村では、横川の剣神社が明治6(1873)年十一月に新潟県第十一大区、七小区の村社に定められ、祭神の草薙御剣とともに、地域の産土神が合祀された。」とあり、祭神は草薙御剣(天照大神)、一村一社制に従い周辺の産土神を合祀する村社だったようです。社殿左側の石祠がそれにあたるのかも知れないが、社名などは分からなかった。拝殿に吊るされた鈴、拝殿の三方はガラス戸で拝殿内には外光が差し込み明るい印象を受けます。拝殿中央には「剣神社」の拝殿額、拝殿内と幣殿にそれぞれ随神が安置されています。内部の木札から以下の改修履歴が分かりました。・大正10年(1921)本社殿修膳。・平成10年(1998)には拝殿改修。大正時代の木札が本社殿修膳とあるので、創建は明治・江戸時代にまで遡るかも知れません。拝殿内の随神と大正15年に奉納された戦艦長門の写真、幣殿内の随神は写真に収める事は出来なかった。雪がしんしんと降り積もっても支障のないように、拝殿から幣殿・鞘殿は一続きになっています。幣殿のガラス越しに彩色された随神像の姿が見えます。拝殿から鳥居方向の眺め。過去に周辺のスキー場を訪れた際、一晩で車を掘りだした思い出があります。標高は低いとはいえ、厳冬期のこの辺りどれくらいの積雪になるのだろう。路面が薄っすら白くなる程度で大騒ぎになる地方に住む者には想像はつかない。剣神社創建 / 不明祭神 / 草薙御剣(天照大神)、周辺地域産土神。境内社 / ・・・参拝日 / 2024/07/20所在地 / 新潟県上越市浦川原区横川254津南キャンプ場から剣神社 / 国道117号線津南駅入口左折、県道405号線で津南駅前を右折、県道49号線、国道353号線、国道253号線で直江津方向へ約1時間40分程関連記事 / ・無印良品津南キャンプ場を拠点に清津峡と越後一宮を訪れる 3『越後一宮 居多神社』・清津薬師堂
2024.08.17
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前谷白山神社。長瀧白山神社から国道156号線を北進すると、歩岐島大橋手前の国道156号線から県道314号線との分岐があります、前谷白山神社へは左折して県道314号線を走り、白鳥高原スキー場やウイングヒルズスキー場方向に向かい鎮座地の前谷集落まで約5分程になります。スキー場の名前もカタカナになり、昔のスキーヤーにはピンと来なくなった。前谷集落の玄関口にあたり、阿弥陀ヶ瀧から流れ落ちた水は、前谷川となり長良川に注ぎます。谷筋の傾斜地に水田が作られた緑豊かな環境にあり、鎮座地は前谷川の左岸にあたります。6月とは思えない強烈な陽射しですが、川や田んぼを吹き抜ける風は心地いい。写真は鎮座地の大日橋下流から長良川方向の眺め。大日橋の手前に鎮座する前谷白山神社全景。境内左に沢山の白い花を付け、恰も雪が積もったようにも見える樹が聳えており、近づくと爽やかな香りが漂っていた。なんじゃもんじゃの樹に似ていたが、あれから調べて見るも結局分からなかった。社頭の眺め、県道から一歩入ると石造の明神鳥居があり、右側に白山神社の社標がある。鳥居から境内の眺め。社殿は正面の拝殿と奥に一間社流造の本殿、左右に境内社が祀られている他、右側に郡上宝暦義民の一人、助左衛門定次郎の顕彰碑が立てられています。岐阜県神社庁の白山神社解説は以下。「白山神社主祭神 伊弉冊尊、伊弉諾尊、菊理姫命 住所 岐阜県郡上市白鳥町前谷字島反別319番地の2由緒由来 養老二年(718)僧泰澄越の白山登山の砌当大字に暫く逗留あり。折から悪病流行に付き、右病難消除のため当大字小字正ヶ洞白山神社を勧請したりと云ふ。 嘉永五年(1852)当大字五郎左衛門と云ふ者後刻成就のため当大字字森に山城国稲荷神社を勧請創設したりと云ふ。大正六年十二月四日右二社を当字に移転合併したり。 祭礼 8月20日」とある。こちらの神社も、泰澄が白山開山の際当地に訪れ、当地の病難消除のため阿弥陀ヶ瀧下流の正ヶ洞床並に白山神社を勧請したのがはじまり。大正6年に集落の島反別に遷宮鎮座し、字森の稲荷社(大鍬社)を合祀。昭和35年第二室戸台風で本殿を除き下流の長良川に流失し、昭和39年に再建されたもの。社殿を流失させたのは目の前の前谷川の氾濫か、山津波なんだろうか。現在の社殿は平成17年に再建されたものという。境内右手の光景。右手が倉庫で左手に二つの石碑が見える。郡上宝暦義民の一人、助左衛門定次郎の顕彰碑が立てられています。上の解説には以下のように解説されています。「前谷村 定次郎顕彰碑 郡上宝暦騒動の際、総百姓の若手指導者として切立村喜四郎と共に活躍、駕籠訴(かごそ)五人中の一人。箱訴実行の画策に奔走し、ついにその目的を達成し、宝曆八年十二月二十六日三十一歳の若さで打ち首、翌年正月八幡穀見野に晒し首となった。 郡上宝暦義民顕彰会 」下の「郡上八幡穀見ヶ原の刑場跡について」の解説は以下。「寛文年間(1661)から遠藤、井上、金森、青山の各城主が二百余年の間に亘って領内の罪人を処刑する為の仕置場として使用した所である。 宝暦年間の農民一揆にあたり、気良村の甚助は城下の店先で突然足軽小頭に捕えられ、徒党の張本人と言うことで牢へつながれた後、罪状の公示もなくその年の十二月十八日の夜七ッ刻(午前四時)にその刑場で打首になったのである。甚助処刑事件はのちに藩側が幕府の審判に 釈明出来ない過失となり金森家の断絶の一ッの理由となった。 また、この一揆の首領として前谷村の定次郎、步岐島村の四郎左ェ門、切立村の喜四郎の三名は江戸において処刑され、その首は塩漬にされて郡上まで送り届けられ、穀見ヶ原の処刑場にて曝首にされたのであります。穀見ヶ原の処刑の跡の石碑の台座になって居る石は 処刑の際、罪人がその上に座り、膝の上に石を抱かせ、 打首をするのに使われたものと伝えられている。」ここに現れる穀見ヶ原の処刑場は、長良川左岸の八幡町稲成地内の国道左に「穀見野刑場跡」として今も残されています。手前のには「宝暦の嵐に散り志 若桜義民乃勲 永遠に伝えむ」と刻まれた石碑と奥が定次郎顕彰碑。顕彰碑から左の本殿域。手前の手水舎、朱の鳥居は稲荷社、白山神社本殿と続く。稲荷社。嘉永5年(1852)に京都伏見神社から勧請、大正6年にこちらに遷したもの。境内右から見た拝殿。入母屋鋼板葺の平入で、訪れた時は四方吹き抜けになっていた。豪雪地帯に建つ拝殿の正面の全景。大きな屋根を支える柱は平側5間、妻側4間で、四方の壁は全て欄間になっており、炎天下でも風が良く通り涼しく感じます。拝殿内から本殿方向の眺め。拝殿左から本殿・稲荷社方向の眺め。「前谷白山神社の由緒祭神 伊弉册尊 伊弉諾尊 菊理姫命倉稲魂命 当白山神社の創建は養老二年(西暦七百十八年)に、越前の泰澄大師が白山登拝の時に当地に暫く遠留あり、おりから悪疫流行に付き病難消除の為に、字正ヶ洞床並の鎮守地に白山妙理大権現を勧請し鎮座したのが始まりとされています。以来千歳の星霜を氏子中及び石徹白への往来の人々や、白山登拝の道俗衆に崇拝されてきました。 大正六年に集落の字島反別に遷宮鎮座し、また、字森の稲荷社(大銀社)を合祀しました。昭和三十五年の第二室戸台風により、拝殿・狛犬・鳥居・力石・立木は流失し境内は一面河原となりましたが、貴いかな妙なるかな本殿、倉庫は流失を免れました。 境内は整備され拝殿は昭和三十九年に再建されました。 拍大は悲願寺歩危の長良川河原で発見され泰納安置されています。 近年、本殿の老朽化が激しくなり、氏子中より本殿再建の声が数多あり、建設委員会を結成し再建準備を始めたところ、氏子中及び近卿有縁の多くの方々から浄財をいただき、宿願の本殿が平成十七年六月に完成しました。ここに神々の和光同塵の霊験を崇め敬慎して記念碑を建てます。 平成十八年八月吉日前谷氏子中 」稲荷社から見る流造の本殿。本殿域全景。鷹の羽紋の入った玉垣の先に一対の狛犬と常夜灯があり、一段上に本殿がある。本殿域の狛犬、台座には昭和10年とあり、流されたのはこの狛犬と思われます。彼らが流れ着いた悲願寺は北濃駅の少し上流あたり、ここにも白山神社が鎮座しています。県道から眺める社殿全景。炎天下を歩き石徹白を目指す者には拝殿の大きな影や木陰は有難い事だろう。この境内を河原と化した自然の力は凄まじいものがある。今、予地できない南海トラフ臨時情報なるものの発表以降、街中のスーパーから特定の商品が姿を消している、神奈川で起きた地震についても、南海トラフとの連動を打ち消すマスコミばかりで、関東大震災の震源について言及するメディアは見られなかった。自然の振舞いは予知できない、マスコミに煽られて過剰に買い溜めする必要はない、備えは日々行うもの。喜ぶのは便乗して利ザヤを稼ごうとする者くらいだろう。それにしてもこの白い花を付けるこの樹はなんじゃ、今はこちらの方が知りたい。前谷 白山神社創建 / 養老2年(718)、嘉永5年祭神 / 伊弉冊尊、伊弉諾尊、菊理姫命、倉稲魂命境内社 / 稲荷社祭礼 / 8月20日所在地 / 岐阜県郡上市白鳥町前谷319-2長瀧白山神社から前谷白山神社車アクセス / 国道156号線を北進、歩岐島大橋手前から左折、県道314号線を直進、前谷集落まで約5分。関連記事・白鳥町の神社・石徹白白山中居神社・いとしろ大杉を訪れる・金幣社 伊岐神社・河邉(河辺)神社・白鳥町中津屋 白山神社・海上神明神社・那留 白山神社・為真 白山神社・白鳥町二日町 村社 八幡神社・長瀧白山神社、長滝寺
2024.08.16
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8月6日、この日は青春18切符を握りしめ、JR金山駅から朝7時の快速電車で京都市内の西国33所の17番から19番札所を巡って来ました。JR東海道本線米原で乗り換え、インバウンドで混雑する京都駅を避け、一駅手前の山科駅で降車し地下鉄東西線で京都市役所に向かうことにした。その前に山科駅の「京都志津屋」のぶどうパントースト・ゆで卵・コーヒーセット(@520)で朝食を摂る。右上は志津屋名物のカルレ(@270)、フランスパンにハムとオニオンスライスをサンドしたもので、シンプルですがオニオンが主張し個人的には好きかも知れない。ぶどうパントーストはそれ自体美味しいだろう、マーガリンが浸み込みこんだパンの上に追いマーガリンも乗り、油を欲する時には魅惑的だろう。歳も重ねるとやや過剰気味のマーガリンより、レーズンの甘味やパンの風味を求めたくなる。山科駅から地下鉄東西線で京都市役所まで約25分程、そこから北へ10分程歩いて京都市中京区行願寺門前町に鎮座する第十九番札所 霊麀山 革堂 行願寺には10:50到着。京都は暑くて、海外の観光客で溢れている印象しかないが、ここまではそれ程ではなかった。門前の西国十九番札所 の石標。京都府内には11ケ所の札所があり、松尾寺、清水寺、成相寺へは過去に訪れたが、今回三寺巡るので6/11は巡拝した事になる。長い人生急ぐことはないが、一ノ宮、西国三十三、四国八十八と手を広げすぎ、遅々としてコンプリート出来ていない。山門から見る本堂。行願寺は寛弘元年(1004)、行円が一条小川の一条北辺堂跡地に堂を復興して行願寺と名付けたのが創建とされ、その始まりは更に遡る。幾度かの焼失再興を繰り返し、宝永(1708)の宝永の大火後、寺町荒神口の旧地から現在地に移転した。伽藍は山門・本堂・愛染堂・寿老神神堂・鎮宅霊符神堂・鐘楼が主な伽藍。参道から本堂の眺め。参道両脇をはじめ、境内には鉢植えの蓮が置かれており、ピークは過ぎていたが境内にピンクの彩りを添えてくれていた。現在の本堂は文化12年(1815)の再建とされ、入母屋瓦葺で前が千鳥破風と唐破風向拝が付き、後方にも千鳥破風が付くようです。本尊は千手観音。陽当たりの加減で、一部にはまだ蕾の固い花も残っており目を楽しませてくれそうだ。4/11巡拝。革堂(こんどう)行願寺(ぎょうがんじ)開山 / 行円宗派 / 天台宗山号 / 霊麀山本尊 / 千手観音創建 / 寛弘元(1004)西国三十三所 / 十九番札所所在地 / 京都市中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町次は十八番札六角堂 頂法寺に向かいます。来た道を戻り、県道37号線を越え南下し、六角通を西に進みます。六角通東洞院西入堂之前町に鎮座する頂法寺門前までは約25分程で着けるはずです。第十八番 紫雲山 六角堂 頂法寺門前。鎮座地は本堂の三方をビルが迫り、エアポケットの様に寺が鎮座しています。頂法寺本堂は六角形であることから六角堂の名で親しまれています。また、池の坊発祥の地として知られます。頂法寺のはじまりは、淡路島に漂着した如意輪観音像を念持仏としていた聖徳太子が、用明天皇2年(587)に四天王寺建立の材木を求め、京都を訪れた際に池で身を清めるため、念持仏を木に掛けたところ動かなくなり、この地で人々を救いたいと太子に告げたため、六角形の御堂を建て安置したのがはじまりと伝わります。聖徳太子が創建したと伝わる六角形の本堂は、人々から六角堂や六角さんとして親しまれている。親鸞聖人が六角堂で百日間の参籠を経て浄土真宗を開宗したはじまり地で、境内には親鸞聖人の像や親鸞堂などが建てられている。山門をくぐり本堂に続く参道右側の由緒書き付近に「へそ石」があるが、嘗ては六角堂のこの辺りが京都の真ん中と云われていたようで、その証が「へそ石」なんだとか。西国三十三所十八番札所頂法寺礼堂。本尊は如意輪観音。伽藍は本堂右手に親鸞聖人像や親鸞堂、左に不動堂があり、本堂後方には太子堂がある。親鸞聖人像から見る六角堂の眺め。現在の本堂は明治10年(1877)の再建で、確かに六角形の形をしているようですが、もっとはっきりと見たい。境内から左のwest18ビルのエレベーターに乗れば、高い位置から六角堂を眺めることができます。west18の9階から見た六角堂の全景、右手の礼堂と六角形で二重屋根の本堂が複雑に繋がったもので、本堂の内陣に如意輪観音、左側に毘沙門天立像、右側に不動明王が安置されています。本堂左上の小さい朱色の六角堂が太子堂、礼堂上方に見えている六角堂が親鸞堂になります。これで5/11巡拝。頂法寺開基 / 聖徳太子(伝)宗派 / 天台宗山号 / 紫雲山本尊 / 如意輪観音創建 / 伝・用明天皇2年(587)西国三十三所 / 十九番札所所在地 / 京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町248さて巡拝最後であり、最大の目的地である西国三十三所十七番札所 補陀洛山 六波羅蜜寺に向かいます。頂法寺から東に向かい、鴨川を渡り鴨川左岸の東山区轆轤町に鎮座する六波羅蜜寺までは徒歩で35分前後、約2.3㌔の距離になります。補陀洛山 六波羅蜜寺門前。本堂全景。補陀洛山 六波羅蜜寺は天暦5年(951)、醍醐天皇第二皇子 光勝空也上人(903-972)により開創された西国第17番の札所で、本尊の十一面観音の他、多くの仏像や平清盛像などを所蔵する寺で、今回京都を訪れるにあたって最も楽しみにしていた寺院です。平安時代末期には平正盛が付近に阿弥陀堂(現・常光院)を建立して以来平家との繋がりができ、平忠盛が当寺の塔頭に軍勢を駐屯させ、境内の隣に六波羅殿と呼ばれる館が建築され、平清盛によって六波羅蜜寺は平家の屋敷群に取り込まれてしまい、寺の内外一帯に5200棟余りの平家一門の邸館が栄えたという。しかし、寿永2年(1183)に平家没落の際に炎上し、本堂を除いた伽藍は焼失した。其の後は源頼朝、足利義詮による再興修復や火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉による修復や徳川歴代将軍から朱印を与えられた。寺号にある六波羅蜜とはなにか、ということになります。HPによれば「この世に生かされたまま仏の境涯に至る六つの修行」を指すようです。成仏の境涯を得るためには、憎しみや貪欲の心を和らげ、煩悩から解き放ち、全ての命に感謝し慈悲心を育み仏に近づくことを目標とするもので、自分なりに要約すると「人として資質(成長)を高めよ」という事かと勝手に解釈する。それを達成するための六つの修行として、布施(貪欲の気持ちを抑える)・忍辱(堪え忍ぶ)・禅定(自分自身を見つめる)・持戒(自らを戒める)・精進(不断の努力)・智慧(実践)があるという。煩悩まみれの自分が現代風に置き換えると、給与・忍耐・自己分析・コンプライアンス順守・努力・実践となり、サラリーマン人生そのもののようにも思え、これらバランスよく実践すれば昇進や平穏な家庭も自ずとついてくるものと理解する。仏の境地には到底到達できないが、人として幸せな人生を得るためにこれら欠いてはならないものかも知れない。まずは、ストレスから三角に吊り上がった目の周りの筋肉を緩めてやるだけでも何かが変わるような気になる。本堂正面全景。現在の本堂は貞治2年(1363)の修営で、明治以降荒廃していたが、昭和44年(1969)に解体修理が行われたものという。本堂向拝に架けられた額は「六波羅蜜寺」、この向拝は文禄年間(1593-1596)に秀吉により新たに附設されたものという。幾度も伽藍は火災に遭いながら唯一残るのがこの本堂です。この本堂の右にある銭洗い弁財天の前を奥に進むと六波羅蜜寺令和館があり、そこが目指す場所です。空也上人像(HPより)。館内には平安・鎌倉時代の国宝・重文に指定された見事な仏像や像が拝観できますが、六波羅蜜寺を開創した空也上人像を見ることが最大の目的でした。HPには空也上人について「南無阿弥陀仏を称え、今日ある事を喜び、歓喜躍踊しつつ念仏を唱えた。上人は常に市民の中にあって伝道に励んだので、人々は親しみを込めて「市の聖」と呼び慣わした。」とあった。特徴のある鹿の角の杖の経緯も書かれていました「上人が鞍馬山に閑居後、常々心の友としてその鳴声を愛した鹿を、定盛なる猟師が射殺したと知り、大変悲しんでその皮と角を請い受け、皮をかわごろもとし、角を杖頭につけて生涯我が身から離さなかったという。定盛も自らの殺生を悔いて上人の弟子となり、瓢をたたき、法曲を唱し、寒い夜もいとわず京中を巡行して衆生の能化につとめた。」とあり、少しはこの像の意味が分かった。この像は運慶の四男康勝の作で胸に金鼓、右手に撞木、左手には友だった鹿の杖をつき、草鞋をはいて、念仏を唱える口から六体の阿弥陀が現れたという伝承を再現したもので、実に写実的で今にも南無阿弥陀仏と唱える声が聞こえてくる。椅子がなく立っての鑑賞になりますが、空也上人像の前でずっと見入っていました。また、鎌倉時代に作られた平清盛像座像もありますが、あの清盛とは思えぬ実に穏やかな表情をしたもので印象が少し変わったように思える。その他の仏像も時が過ぎるのを忘れるほど見応えがあり、六波羅蜜寺を参拝の際に拝観される事をお勧めします。これらの仏像のポストカードが販売されておらず、そこがやや心残りだった。6/11巡拝。補陀洛山 六波羅蜜寺開山 / 空也開基 / 村上天皇宗派 / 真言宗智山派山号 / 補陀洛山院号 / 普門院本尊 / 十一面観音創建 / 天暦5年(951)西国三十三所 / 十七番札所所在地 / 京都市東山区轆轤町81-1以上で目的としていた寺を参拝、ここからは当日立ち寄ったお店を取り上げます。京都酒蔵館別邸第十九番札所 霊麀山 革堂 行願寺から西に10分程の中京区堺町通二条上ル亀屋町にあり、お酒と京都らしい飾りつけの料理が食べられる店。右側の京都町屋麦酒醸造所と隣接してクラフトビールのお店「味の蔵 奥満笑屋」もあります。天明元年(1781)創業のキンシ正宗の酒蔵兼町家をリノベした店舗。ぱっと見は古くから続く酒屋さんの印象を受けますが、内部はもともとの建物を活かした落ち着いた雰囲気のお店になっています。国の登録有形文化財である酒蔵を利用しており、黒光りした太い梁と白壁の対比が綺麗。店内には酒蔵時代の用具も残され、酒蔵当時の趣も残されています。店内では日本三大酒処のひとつ伏見から京都府北中部、京都府下全域の酒が揃えられており、タブレットから地域・好みを選択するとお勧めの酒に巡り合える。店内には当時の桶や左手から中庭に出ると仕込み水「桃の井」が湧き出ています。大きなカウンターとテーブル席がある店内、テーブル席へ案内される。メニューは蕎麦・肉料理・魚料理など幅広く取り揃えています。朝食が多少遅かったこともあり写真の酒肴六種盛り(@2200)とお漬物をオーダー。で、お酒は三種の飲み比べセット(@1600)を其々オーダーする。こうした飲み比べセットに15種もあるが、訳がわからなくなるのでこれにしました。3種類といっても30蔵の中から好みの銘柄を選ぶので、タブレットでは決めきれない。お店の方に北中部の酒蔵ですっきりしたお勧め三品を選んで頂いたのが上の銘柄。・若宮酒造 (綾部) 綾部の四季 純米 【使用米】京の輝き 【日本酒度】+3 【酸度】1.7 まろやかな口あたり・白杉酒造(京丹後) 丹後のヒカリ 純米吟醸 【使用米】丹後産コシヒカリ【日本酒度】±0 【酸度】1.8 絹のようなのどごしと甘み・羽田酒造(洛中) 羽田 純米 【使用米】京の輝き 【日本酒度】+3 【酸度】1.6 絶妙な酸のバランスと旨味が特徴この三品どれも美味しい訳だが、金メダルが丹後のヒカリ、銀メダルが羽田、銅メダルが綾部の四季となる。店内奥のテーブル席。ガラスの向こうは昔のままの漆喰壁、天井の太い梁や柱は、今では見る事もない。暑い京都、酒蔵で涼みながら美味しいお酒を飲むには最適か。京都酒蔵館別邸営業時間 / 昼9:00~14:30(LO14:00)、夜17:00~22:00(LO21:00)※土・日・祝日は9:00~22:00、定休日 / 水曜日所在地 / 中京区堺町通り二条上る亀屋町172そろそろ帰途に着くため京都駅方面に向かいます。下は帰り際に立ち寄った錦市場の様子。もはや地元の人の市場ではなくなっていました、海外観光客率90%。ここから脇道にそれて市バスで京都駅に向かうが、バスもガラガラを持った観光客が多く何本か見送る。空いたバスに乗るも、それとて途中からガラガラで一杯になり、乗れない人も多く見かけた。今回訪れた西国33所の各寺では海外の観光客は見られず意外な気がした。それにしてもやはり京都は暑くて混む、その印象は変わらなかった。電車を乗り継ぎ18:30には、これまた暑い名古屋に戻り、駅近くの餃子ニュー柳橋でお疲れ様の祝杯をあげることができた。
2024.08.13
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7月19日新潟県の清津峡を訪れた際、清津峡の入口付近で見かけた清津峡薬師堂を紹介します。名古屋から新潟県の清津峡までは距離にして450㌔、高速を使用しても片道で約5時間はかかる。制限速度を無視すれば更に短縮できるのだろうが、取り締まりの目もあり無駄に速度超過はしないに限る。私達は近くのキャンプ場に二泊してこちらを訪れました。清津峡の観光用トンネル「清津峡渓谷トンネル」は、SNSなどのフォトスポットとして御存知の方は多い。特に第四見晴所からのこの写真はネット上に溢れています。開坑時間直後に訪れれば、水面に写り込む柱状節理の荒々しい清津峡の写真を撮る事ができます。観光客が増えると水面は乱れ、思い描いた世界とは違うかもしれませんが、見晴所から眺める清津川と柱状節理のV字谷は見応えがあります。今回掲載する清津峡薬師堂は、トンネルに向かう遊歩道沿いの「日本秘湯を守る会」の提灯が吊るされた宿のすぐ先に写真の参道と解説板が立っています。「清津薬師堂の由来曹洞宗「雲洞庵」は旧・塩沢町(現・南魚沼市)雲洞にあり、奈良時代初期の創庵。 戦闘の武将上杉謙信公の帰依厚く、拾万石の格式と越後四ヶ道場の一つに数えられる越後屈指の名剤である。第四十世東海百川大和尚は、謙信公縁りの「薬師如来像」を清津郷の守りとして安置せられ、以来この地に鎮座し現在に至っている。」曹洞宗「雲洞庵」は、ここから東の峠を越えた魚野川右岸の谷筋に鎮座し、藤原房前が母親の蘇我娼子の菩提を弔うため、養老元年(701)に創建された尼寺から始まる寺。その後の室町時代、関東管領・上杉憲実公が藤原家末裔の因縁で庵をうけ、曹洞宗雲洞護国禅庵を開創以降、北陸無双の大禅道場として栄えてきた名刹。十三世通天存達和尚は、幼少期の上杉景勝や直江兼続らを雲洞庵で引き取り、教養や中国古典などを教育したという。清津郷の守り神「薬師如来像」はそちらから移されたようです。薬師堂の前には朱の鳥居が建てられており、神社のような趣き。左に○○神社と彫られた石標があります。薬師堂の由来は入口のものしかなく、薬師堂や雲洞庵などから調べて見たが分からなかった、頭二文字が読めず○○神社としたが、それが分かるともう少し情報も出てくるかもしれないが、読めないだけに何ともならない。鳥居から境内の眺め。一対の常夜灯と狛犬の姿がある。堂の全景。そこそこ高い基礎の上に切妻妻入りの堂が建てられています。どうみても神社の趣が漂いますが、すべての生物を救うため、仏が仮の姿の神として現れる本地垂迹思想の流れを汲んでのものだろうか。由来には薬師堂の創建時期は記されていないが、雲洞庵第四十世からその時期も分かってくるだろう。暗い堂内、コントラストを変えると厨子の中に安置された像の姿と鏡が浮き出てきた。温泉の存在自体は古くから知られており、上杉謙信の薬師如来像のお告げにより掘り当てられたとされる温泉を利用した清津峡温泉や、清津峡渓谷トンネルが整備されたのは昭和に入ってからの事。この清津薬師堂も清津峡温泉の整備とともに歩んできたものだろう。それ以前はまさに隠し湯・秘湯の湯治場だったことだろう。今では舗装された道路で繋がり、日帰りで手軽に訪れることができるようになり、秘湯の温泉宿の趣は随分と薄くなり、各地で秘湯を守る会の提灯を吊るさなくなった宿も少なくない。清津峡渓谷トンネルは盛期には事前予約がないと入れません。薬師如来のお告げで湧出した温泉宿に泊り、開坑時間の清津峡渓谷トンネルから自然が創ったアートが見られればいいのですが、宿泊者も同様の扱いになります。薬師堂の前の柱状節理のV字谷を早い流れの清津川が流れ下っており、早瀬の渡渉にてこずるカモシカの姿が見られました。自然は大きく変わっていないだろうが、大きく変わったのは対岸の大勢の人影と観光バスのエンジン音と排気熱、てこずっていた訳ではなく躊躇したのだろう。…熊もそうあって欲しいものだが清津薬師堂創建 / 不明本尊 / 薬師如来所在地 / 新潟県十日町市小出2126-1参拝日 / 2024/07/19関連記事・無印良品津南キャンプ場を拠点に清津峡と越後一宮を訪れる 2『清津峡とへぎ蕎麦』
2024.08.12
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岐阜県郡上市白鳥町長滝。白鳥町二日町の八幡神社から長良川右岸沿いに国道156号線を2.3分程北上すると、国道と並行して伸びる長良川鉄道の「白山長滝駅」が今回の目的地の「長瀧白山神社」の参道口になります。長良川鉄道白山長瀧駅。駅手前の踏切の先に長瀧白山神社の広い駐車場があり、夏場の渓流釣りやドライブ中睡魔に襲われた時には木陰の駐車場で仮眠をとらせてもらいました。駐車場から見る長瀧白山神社、長滝寺参道口。「霊峰 白山への道」と記された大きな石碑がある。上参道右に「表本宮白山神社」社号標、左に「天台宗白山長瀧寺」の寺号標。下参道は長瀧寺と白山神社の双方を兼ねており、参道脇には往時の勢いを偲ばせる坊跡が残っています。参道の先に神明鳥居が見えますが、白山神社社殿まではまだまだ先になります。長滝白山神社について岐阜県神社庁の解説は以下のように書かれています。「白山神社通称 長滝神社。 主祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊、彦火火出見尊、菊理姫尊、天忍穂耳尊、大己貴尊。所在地 岐阜県郡上市白鳥町長滝字杉山91番地。 由緒由来 霊峰白山を神体山と仰ぎ、白山信仰の表日本における一大拠点であり、いわゆる美濃馬場とはこの地のことである。 古くから土民の祀る一社があったが、養老元年(717)泰澄大師が白山に登拝してからは、修験道で栄え、白山妙理大権現を祀る霊場となった。一方この地は奈良の都の鬼門にあたり、元正天皇は帝都鬼門勅願所に定められ、飛州河上郷に至まで、1万3千石の神領を拝受し6谷6院360坊を置いて隆盛を誇り、全国から参集する信仰者によって文化の栄えた処である。 明治の神仏分離令によって白山神社、長滝寺、阿名院等に分け、その後明治32年の大火に依り焼失するも、神仏習合の旧観を保ち、雄大な本殿と豊富な文化財を今日に伝へている。」と書いています。写真は鳥居手前の長滝白山神社、長瀧寺指定文化財の一覧。 古くから伝わる神社だけに、火災から難を逃れた国・県・市指定の文化財を多く所蔵し、それらは社務所のある白山龍宝殿で公開され、白山信仰の歴史を知ることができます。下の絵図は江戸時代の「白山中宮濃州長瀧寺之図」。 明治の大火で社殿を焼失後、復興されていますが、嘗ての三重塔や鐘楼等はなく、本殿も神明造に変えられています。養老年間に創建された白山中宮長瀧寺は、天長9年(832)に加賀馬場(白山本宮)、越前馬場(白山中宮平泉寺)と並ぶ美濃馬場として、絵図からは白山登拝の美濃禅定道の拠点として栄えた往時の姿が描かれています。参道の鳥居。蔵泉坊跡。参道には写真のようなプレートが置かれ、往事の長瀧寺の伽藍を知ることができます。ここは宝暦4年(1754)、郡上藩で起きた大規模な百姓一揆「郡上藩宝暦騒動の犠牲者」を偲ぶ宝暦義民碑が建てられています。海上神明社にも建てられていた宝暦義民碑同様、郡内にはこうした碑が建てられている。江戸時代の伽藍図では現在の鳥居あたりが山門になり、瀧泉院は門前にあたるように思えますそうした事からも境内の伽藍図には記載されていません。宗派も真言宗とあり詳細や長瀧寺(天台宗)とのつながりは良くわかりません。参道に面した経聞坊跡の解説板。あくまでも参道に面した坊のみであり一部でしかありません。参道中程の太鼓橋毎年5月5日の無病息災を祈願し「でででん祭」が行われるそうです白装束を身にまとい、でででん〃と太鼓を打ち鳴らし神輿を担いだ氏子たちがこの太鼓橋を超えて行くそうです護摩檀と金剛童子堂解説。太鼓橋の先の参道左に祀られる護摩檀跡(手前の円形サークル)、白山登拝時にここで護摩を焚き祈祷したとされる場所。息を止めて石を持ち、そのまま堂の周りを三周する事で力を授かる事が出来るとされます。奥は金剛童子堂。稲荷堂。金剛童子堂の右に祀られています。石段右の白山美濃馬場の碑、碑文から一部抜粋。「霊峰白山の加賀馬場・越前馬場と並び、白山信仰の東海側の拠点美濃馬場白山中宮長滝寺として栄えたこの地は、文永・明治の二度の火災や明治の神仏分離など時代の変還と度重なる災厄を乗り越えて数多くの歴史遺産がある。 社会経済は変貌し、心の時代へと移り、人々は「いやしの空間」を求めるようになった。中略 貴重な歴史文化遺産の保存活用に努め、後世に末永く伝えることは、我々の責務であり懸案の白山文化の里づくりの事業を完遂することができた。」とある。文永・明治の二度大火に見舞われているようだ。二対の石灯籠の先の境内正面には、西安4年(1302)願主伝燈大法師覚海と彫られた石燈籠、その奥に拝殿がある。石段を上った境内入口の狛犬。境内北側の全景。右手が火災により難を逃れた寺宝が保管展示されている白山龍宝殿で、正面が西安4年(1302)の石燈籠。後方には拝殿と右手に参集殿。境内左の手水鉢。境内は湧水が湧き出ていて、境内に小さな流れを作っています当社は白山信仰を厚く崇拝した奥州藤原氏と所縁があり、手水舎後方には中尊寺で800年の時を越え発見された中尊寺蓮蓮を株分けしたものが生けられている。上辨天池を潤す延年水、夏でも枯れる事はなく、この地では古くから五穀豊穣、悪疫鎮静のためにこの霊水を神仏に供えるという。辨天池を潤す延年水、白山参拝者はこの霊水を薬水として利用したとされ、白山頂上の千陀ヶ池から来ていると伝わっています。夏でも枯れる事はなく、この地では古くから五穀豊穣、悪疫鎮静のためにこの霊水を神仏に供えるという下辨天池と弁財天堂、後方が白山長瀧寺大講堂。辨天池右側の石段は薬師堂に続きます。白山長瀧寺大講堂とその解説。「白山長滝寺奈良時代の養老年間(717-24)泰澄の開基と伝え、天長5年(828)法相宗が天台宗に改宗、その後比叡山延暦寺の別院となった。 長滝白山神社と一体で白山本地中宮長滝寺と称し、加賀・越前と並ぶ白山信仰三馬場として栄えた。全盛時には堂社三十余宇・六谷六院・僧坊三百六十を擁した、明治初年の神仏分離で天台宗白山長滝寺となった。 18間に14間の長滝寺大講堂と内陣の1丈2尺の大日如来像など7仏像は、明治の大火で焼失。往時の大講堂の偉容は残る礎石によって偲ぶことができる。 「木造釈迦三尊像」「木造四天王立像」「宗版一切経」をはじめ多数の寺宝を所蔵する。」寺号の長瀧はここを創建した泰澄が、夢の中で女神から霊泉があるとのお告げを受け、山中に分け入り見つけた阿弥陀ケ滝に由来しています。(写真は2019年の阿弥陀ケ滝)白山白山登拝の拠点として「上り千人、下り千人、ふもと千人」と云われるほど賑わったと云われますが今はその面影はありません。宝篋印塔。宝篋印塔は本来は経文を納める塔として建てられますが、いつからかこうした形の塔を宝篋印塔と呼ぶようになった様です。1825年(文政8)に豪潮律師により三千人講が起こされ、1833年(天保4)に建てられたもの。四面に描かれた梵字は豪潮律師(1749~1835)の筆によるもので、仏画師としても優れ、「釈迦三尊像」、「十六羅漢像」を白山長瀧寺に寄進している。境内左から拝殿、本殿の眺め。入母屋鋼板葺の拝殿の内部は内陣と土間の外陣に分かれ、毎年、1月6日には約1000年の歴史がある国指定重要無形民俗文化財の「長滝の延年」が外陣で奉納されますその際、格子天井の四角い穴から吊るされた花を奪い合い、これを持ち帰ると家内安全、商売繁盛に御利益があるとされ、「花奪い祭り」と云われるそうです。拝殿左の長瀧天満宮。長瀧天満宮の左奥の「白山千陀ヶ池霊泉」から上に小道があり、往事の三重塔址へ通じており、そこから本殿域を見下ろすことができます。下の写真は長瀧天満宮の右に祀られている児御前社と竃神社。児御前社・竃神社と向かい合う様に東側にも二社祀られています。上本殿全景。大将軍社、神門は左から越南智社、白山大御前社、別山社の白山三社と本殿域左に大将軍社、右に若宮社が祀られています。主祭神 / 伊弉那岐大神/伊弉那美大神/菊理媛大神下児御前社・竃神社と向かい合う様に鎮座する稲荷神社と神明神社。越南智社の左の大将軍社。5社が整然と並ぶ姿を収めるのはなかなか難しいようです。現在の社殿の造りは火災の後に神明造に改められています。以前参拝に訪れた際、拝殿内で祭礼の準備に追われる中、お声がけして頂いた巫女さんからそのあたりの事情を教えて頂いたり、白山登山の事など色々と話しも弾みました。幾度か火災にあいながらも守り続ける社殿、並々ならぬこの地に対する誇りのようなものが伝わってきました。別山社の右に鎮座する若宮社。長瀧白山神社創建 / 717年(養老元年)、泰澄により白山中宮長滝寺として創建(伝承)祭神 / 伊弉那岐大神/伊弉那美大神/菊理媛大神境内社 / 児御前社、竃神社、稲荷神社、神明神社、若宮社、大将軍社、長瀧天満宮、弁財天、金剛童子堂、稲荷堂長瀧寺大講堂創建 / 718年(養老2)泰澄が法相宗の寺院として創建(伝承)、828年(天長5)天台宗に改宗本尊 / 釈迦如来像所在地 / 岐阜県郡上市白鳥町長滝138公共交通機関アクセス / 長良川鉄道「白山長滝駅」から徒歩1分関連記事・白鳥町の神社・石徹白白山中居神社・いとしろ大杉を訪れる・金幣社 伊岐神社・河邉(河辺)神社・白鳥町中津屋 白山神社・海上神明神社・那留 白山神社・為真 白山神社・白鳥町二日町 村社 八幡神社過去記事・「白山長瀧寺と長瀧白山神社」・奥美濃へ 「阿弥陀ヶ滝、長瀧白山神社」
2024.08.11
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為真 白山神社から国道156号線を北上し、二日町地内の長良川鉄道「白鳥高原駅」付近に鎮座する八幡神社まで約6分程です。 所在地は岐阜県郡上市白鳥町二日町335で、東西に山並みが迫る白鳥盆地の長良川右岸に鎮座します。国道沿いの社頭。右側に村社八幡神社の社号標があり、東方向に長い参道が伸びています。社殿は左のこんもりとした杜に包まれており、境内東端を長良川鉄道の線路が横切り、線路の先には長良川にかけて水田が広がり、解放感のある光景が広がります。空に向かって真っすぐ伸びる針葉樹と右側の桜が杜を形作っています。昭和13年(1938)に寄進された鳥居から社殿方向の眺め。社殿は杜が作る大きな木陰の下に南東向きに建てられています。社殿全景。左手に手水舎、中央に拝殿と本殿、右の線路脇に境内社が主な伽藍。境内には当神社の由緒や沿革など記したものが見当たらず、岐阜県神社の解説は以下の内容でした。「八幡神社主祭神 応神天皇 所在地 岐阜県郡上市白鳥町二日町字宮ノ端335番地由緒由来 創祀未詳。天文年中消失。 慶長年中再建。同16年小野木縫殿助拾地の御神田を上げ、残田高八斗五殊付け来。 元禄4年京都に於いて丈七寸五分の神体を彫刻し岩清水八幡宮の分霊を遷し奉り、其の後遠藤但馬守領主の御社田上地造営米・神事入費等領主より下付。然る処、延宝年間祈祷料として当村神田の内より田高八斗五升寄付に相成。 則、岩出藤ェ門支配す。その後井上大和守領主の節、社田残らず上地となる。祭礼 9月23日」新撰美濃志(1900)では祭神応神天皇以外情報がなかった。室町時代の天文年中(1532-1555)に「消失(焼失か)」とあるので、更にどれだけ遡るのだか。もともと古い土地柄で、現在地から上流の北濃駅付近には源平合戦で敗れた平家の落人伝承から来ているものと思われる「平家」の名を冠したスキー場などもあった。拝殿・鞘殿全景。切妻造・平入のもので四方に腰壁が付く吹き抜けのもの。拝殿から本殿方向の眺め。内部には再建時期を知る木札は見当たらず、詳細は不明。鞘殿右脇に境内社の姿が見えます。こちらもまた、組物と蟇股だけ吹き抜けとなっています。鞘殿全景。内削ぎ千木と6本の鰹木が付くもので四方板壁で内部の様子は見ることはできません。以前は雪深い土地柄だったことが伺われます。奥美濃のこの辺りには、過去には白鳥スキー場や先の平家平スキー場など小規模のスキー場が存在したが大規模なスキー場や高速の整備に伴い、おっかない峠道を走らなくなり、国道沿いの小規模なスキー場は姿を消していきました。鞘殿正面。玉垣で囲われた本殿域には一対の狛犬と常夜灯があります。扉右手の木箱に賽銭を入れ参拝。熊が出そうな人気のない山奥の神社だと、拍手も強くなるがここはそうした不安はない。本殿域を守護する狛犬、素朴な顔つきの小さなもの、かなり古そうに見えましたが、寄進年は分からなかった。狛犬の脇の常夜灯、竿には安政5年(1858)戊午と刻まれています。鞘殿右の境内社。切妻造の覆屋の下に納まる本殿は流造で、社名札がなく社名を知る手掛かりがなく不明。不明社の右の二本の標柱。郡上市重要文化財「二日町八幡神社の木造神楽面」と「二日町の八幡踊」とある。9月23・24日(日付は変更有)、白鳥地区の日吉、白山、八幡の3神社に宮入りし、大神楽と八幡踊りが奉納されるとのこと、しかしコロナの中断を経て再開されているようですが、伝統芸能の継承に中断の影響は少なからず支障になっているようです。境内東外れの覆屋。覆屋に架けられた額には「神明」とあるが下が読み取れない、恐らく神明神社と書いてあるのだろうか。本殿。檜皮葺のシンプルな社はやはり神明神社なのか。覆屋内には狛犬らしき姿の岩と宝塔らしき岩が安置されていました。当神社へは長良川鉄道「白鳥高原駅」から徒歩2分と公共交通機関でのアクセスも良い。境内右から国道156線の社頭の眺め。この広い社地は八幡踊のために必要なスペースなのだろう。村社 八幡神社創建 / 不明祭神 / 応神天皇境内社 / 不明社二社祭礼 / 9月23日所在地 / 岐阜県郡上市白鳥町二日町335参拝日 /2024/6/19為真 白山神社から車アクセス / 白山神社から国道156号線を北上し、二日町地内の長良川鉄道「白鳥高原駅」付近の八幡神社まで約6分程。公共交通機関アクセス / 長良川鉄道「白鳥高原駅」から徒歩2.3分関連記事・白鳥町の神社・石徹白白山中居神社・いとしろ大杉を訪れる・金幣社 伊岐神社・河邉(河辺)神社・白鳥町中津屋 白山神社・海上神明神社・那留 白山神社・為真 白山神社
2024.08.10
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那留 白山神社から西に10分程の白鳥町為真地内の為真 白山神社までは車で約10分程の移動時間。白鳥交差点手前の国道156号線右側に鎮座する神社で、下道で奥美濃のスキー場を目指すと、白鳥町の入口に鎮座する見覚えのある神社だと思います。社頭から西の山麗を眺めれば、九頭龍方向へ続く中部縦貫自動車道の巨大な高架と右側に白鳥町に繋がるループ橋が見えています。下道から眺めると昔の光景も随分変わったものです。為真(ためざに) 白山神社社頭。国道沿いに社地があり、ほぼ南向きに社頭を構えています。社頭右に「白山神社」社標があり、一対の狛犬と石造りの明神鳥居があり、北側の杜にかけて拝殿・本殿が連なります。鳥居左側の玉垣には白鳥町天然記念物「為真白山神社のヒノキと為真白山神社の大神楽」の碑が立っています。為真の大神楽。歴史は350年前より現在に続くとされ、自治会と氏子らにより5年間隔で奉納されてきたが、それも少子化や若者の減少に伴い、役者の確保や舞の所作が年々困難になってきているという。為真白山神社のヒノキ。境内西側(国道沿い)の胸高幹周り3.3㍍、樹高約30㍍で樹齢300年のヒノキで平成12年に白鳥町天然記念物に指定されたもの。社頭には「白山宮」と刻まれた台座の上に狛犬(寄進年未確認)が安置されています。境内右の社務所。境内左に写真の手水舎があります。境内から眺める拝殿・本殿方向の眺め。岐阜県神社庁の当社の解説は以下内容でした。「為真(ためざに) 白山神社。 主祭神 伊弉冊尊。由緒由来 元正天皇の御代養老元年(717)、泰澄大師が此の森に休み、木の枝に幣帛を懸けて置かれたのを里人が敬って一小社を建立し、これを御神体として祀り「シデカケの宮」といった。その後神主鷲見九郎左衛門が本郡長瀧村の某女と結婚したので、その縁により、長瀧寺より神像を神主に贈られた。 そのため此の神像を本殿に合祀した。祭礼 8月23日」また地元資料によれば「古来より為真住民の氏神であり、白山美濃馬場・中宮長滝寺の六所王子の一社である。 白山神社創祀の由来は雄略天皇21年(477)、白山へ大神を祀れとの勅令が下り、勅使大途見彦命が奈良の都から白山への道すがら、立花・洲原・苅安・梅原・佐良・金剣への祭祀を経て、この地に和幣(シデ)をかけて神を祀ったのがはじまり。この事から里人は、古来よりシデカケの宮として敬ってきた。 養老年間には泰澄大師がこの社で休まれ、桜の樹を植えられたと伝わる。安永2年(1773)、中宮長滝寺より伊弉冊尊の御神像を贈られたのを期に社殿を再建、社号を白山神社と改め、以後この里の鎮守の神様として崇敬されている」土地柄から秦澄が祭祀した神社は多く残り、立花・洲原・苅安・梅原・佐良・金剣など、秦澄の足跡を訪れて見たいものだ。拝殿から本殿の眺め。中央に白山神社の拝殿額と左右に二枚縁起が架けられています。拝殿額。右側に架けられた縁起、左右共に内容は似ていますが其々の内容を下に記載します。「白山神社の縁起 元正天皇の御宇養老元丁巳年(皇紀1377・西暦717年) 秦澄太子此の地に憩い桜樹一本を植え 幣帛を懸け置かれした里人恭敬し小社を造営し、これを御神体として注連懸大権現(してかけの宮)と唱う。 貞享三丙寅年八月十八日(皇紀2346・西暦1686年)社殿建立の記あり。安永二癸巳年(皇紀2432・西暦1772年)、祢宜 蕙見九郎左衛門と言える者 長滝寺より妻を娶り 此の由縁をもって長瀧寺よりを寺より伊弉冊尊の御神符を贈らる。 依って九郎左衛門、里人と諮りて社殿を再建し 同年八月二十三日此の神符を合せて安置し、社号を白山神社と改め 里の鎮守の神として斎き祀り今日に至る。祭神則ち是なり、爾来毎年八月二十三日を当社の縁日として祭事を執り行う。 泰澄太子御手植の桜は三抱え余の大樹となり、年々華麗なる花を咲かせしが、惜くも昭和四十九年遂に千二百五十七年の樹齢を全うす、依って拝殿の一隅に遺木を存置す。社叢に存続する樹林を共栄の叢」と言い氏子これを敬仰す。 昭和五十年秋吉日 白山神社氏子」左側に架けられた由緒。「美濃国郡上郡 為真村字大藪1148村社 白山神社一 祭神 伊井冊尊、 合祀 伊弉諾尊、菊理媛命一 由緒 養老年中創建同時僧泰澄山地ニ休憩シ一樹二幣帛ヲ懸置シヲ村人奉シテ小社ヲ建立シシテカケ宮ト云フ 其後社人鷲見九郎左衛門ナル者郡長瀧村ノ某ヨリ神像ヲ受ケ之ヲ社殿ニ安置ス 今猶当社本殿ニ奉ル神像是ナリト云一 本殿 明治四十一年二月二十六日岐阜県告示第五十三号ヲ以テ 神饌幣帛料供進神社二指定一 社殿 本殿 縦 一間二尺四寸、横 二間二間四尺八寸拝殿 縦 五間、横 四間 門 縦 一間、横 五尺一 境内 五百拾三坪官有地第一種一 氏子 百八十戸」本殿域全景。大きな覆屋の屋根が本殿域全体を覆っている。境内右から見る本殿。銅葺屋根の流造で木鼻飾りや左右に脇障子を持つようですが、これ以上は寄れないので細かな意匠まで分からない。本殿左の泰澄注連掛け桜遺木収蔵庫。縁起に記されていた泰澄太子御手植の樹齢1257年を誇った注連掛け桜は、遺木としてこちらに収蔵されています。村人にとってこの桜は、尊い神そのものなんだろう。収蔵庫側面の「泰澄注連掛け桜 遺木収蔵庫建立の経緯 白山神社の注連掛け桜については岐阜県神社明細帳に「養老年中 僧泰澄この地に休息し一樹に幣帛をかけ置きし、村人奉じて小社を造立しシデカケ宮という」と記されるように、為真の里人はこの桜を御神体同様に崇めてき ました。けれども、この桜は拝殿に揚額された「白山神社の縁起」に「泰澄注連掛け桜は、惜しくも昭和四十九年ついに千二百五十七年の樹齢を全うした。 よって遺本を拝観の一隅に存置する」と記されているように、樹齢を全うして枯れてしまったので、昭和五十年に伐接され一部を遣木としてしばらくは拝殿に安置されていたが、神社での催しものの都合などもあって、近ごろまでは本殿裏に置かれていた。しかし、本殿裏では風化が早いことが心配されることから、平成二十四年初春、氏子総代相談の結果、新しく遺本収蔵庫を造り「神社の縁起」 と一緒に保存することにしました。 平成24年8月23日」収蔵庫右の力石。昔の人はこれを持ち上げ力を誇示したいい、昭和のはじめまで実際に使用されたとある。境内の最も右の忠魂碑。本殿右側から見た本殿域全景。拝殿右から見た社殿全景。拝殿の四方の壁は、これまで見た梁の上の組物と蟇股だけの欄間のような造りになっています。為真 白山神社創建 / 養老元年祭神 / 伊井冊尊、伊弉諾尊、菊理媛命境内社 / …祭礼 / 8月25日所在地 / 岐阜県郡上市白鳥町為真1184参拝日 /2024/6/19那留 白山神社から車アクセス / 西へ、為真交差点左折、白鳥IC交差点右折、白鳥IC出口交差点右折し750㍍先の右側。移動距離4㌖、約10分程。関連記事・白鳥町の神社・石徹白白山中居神社・いとしろ大杉を訪れる・金幣社 伊岐神社・河邉(河辺)神社・白鳥町中津屋 白山神社・海上神明神社・那留 白山神社
2024.08.07
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最後の目的地「意宇六社 揖夜神社」に向かいます。鎮座地の東出雲町揖屋まで東に約7㌔、長閑な郊外から市街地に入り、東出雲IC付近から出雲郷東の信号にかけて、ICから降りた車と一般道を走る車が合流して渋滞し、信号の右折も滞り、捨て左折したらえらく遠回りになり時間を無駄にした。揖夜神社社頭に到着。県道191号線の南に接する社頭は、石の明神鳥居、左に手水舎があり、駐車場は写真左にあります。意宇六社巡りもここ揖夜神社で終わりを迎えます。社頭の解説。「奈良時代に中央政権が編纂した『日本書紀』の斉明天皇五年(659)に、「この年、出雲の国造に命せて、厳神の宮を修めしむ。 狐、於友郡(意宇郡)の役丁(公用の労役に使われた成年男子)の所執れる葛の末を喰い断り、而して去ぬ。また、狗(犬)、死人の手腎(腕)を言屋社に喰い置けり。言屋、此を伊浮琊(いふや)といふ。 天子の崩りまさむ兆しなり。」と記されている。この報を受けた天皇は恐れ畏み、出雲大神の神慮を慰めなければならぬと、神殿の建造を急がせたと伝わっています。 古くから、揖夜神社が黄泉の国に縁の深い社として、中央でも重視されていたことが窺えます。」意宇六社ひとつ揖夜神社は延喜式には「揖夜神社」、出雲国風土記には意宇郡内「伊布夜社」として記される古社で、祭神は伊邪那美命が祀られています。鎮座地の東方の揖屋町平賀には黄泉国で変わり果てた伊邪那美命に追われた伊邪那岐命が、現世に逃げ帰った、現世と黄泉の境をなす「出雲国之伊賦夜坂也」と伝わる場所があり、この案内にもそちらへの道筋が紹介されています。県道沿いに司馬遼太郎が揖夜神社を訪れ、街道をゆくの中で記載した内容が掲げられています。「六社さんと呼ばれる出雲国意宇郡(現松江市の一部)にある。 国造家ゆかりの六社神社の一社として、崇敬されている揖夜神社ですが、古くは『古事記』『日本書紀』や『出雲風土記』に記述があり、少なくとも平安朝以前には広く知られていた由緒ある古社であります。その古い神社としての佇まいについて、嘗て作家の司馬遼太郎氏が当社を訪れ、自著の『街道をゆく』の中に以下の様に記載されています。 『どうやらそのあたりは古くは揖屋(揖夜、言夜)といった界隈のようだった。イフヤという地名は、いったい何語の、どういう意味なのであろう。 車をとめた場所が、たまたま揖夜神社という神社の鳥居の前だった。戦前の社格は県社だが、鳥居をくぐって広い境内に入ってみると、いかにも出雲の神社らしく社殿そのたがひどく立派で、大きなしめなわの姿なども他地方の神社を見なれた目からするとただごとでなく、ぜんたいに出雲寂びている。 境内のすみに、林とまではゆかなくても樹木のまばらの一角があって、湿った黒い絹のような木下闇(このしたやみ)をつくっている。その淡い光の中に祭神もホコラも個性ありげな摂社や末社がならんでいて、その一つ一つに出雲の何事かがにおっている。 それらの中に「荒神社」という標柱の出た石のホコラがあった。荒神社(こうじんじゃ)ではなく荒神社(あらじんじゃ)。 とふりがなが振られているのが、おもしろかった。アラという呼称は日本の古い姓氏にも多い。 安良という文字をあてたりする。太田亮博士は荒氏は「任那(みまな)帰化族なるべし」などと推量されているが、おそらく南朝鮮の伽耶(かや)地方を故郷とする氏族なのであろう。 古代、朝鮮半島全体もしくは一部を、カラ(韓)、カヤ(伽耶)、アヤ(漢)、アラなどと呼んだ。とすればこの「荒神社」も、韓神をまつるホコラなのかもしれず、すくなくともそんな想像を刺激してくれる。 当神社の佇まいについては司馬遼太郎氏が訪問された、四十年前と変わりありません。」社頭全景。石造の明神鳥居と両脇に石燈籠があり、左に手水舎がある。天保六年(1835)寄進の石灯籠は、左の石灯籠の竿から上が載っていませんが、亀の台座(亀趺)を持つもので、右の燈籠の亀趺は一部欠損していますが、竿には龍が彫られるなど手が込んでいます。手水舎の先の狛犬は、寛政7年(1795)の寄進で、尾の形はピンと跳ね上げたものではなく、丸く纏めてデザインされています。参拝当日の社殿全体は遷宮に向けて改修中で、写真の随神門も改修中で外観のみとなる。随神門前の狛犬は天保15年(1845)に寄進されたもので、出雲ではお馴染みの姿。狛犬の脇の由緒。「特別神社 揖夜神社祭神 伊弉冉命、大巳貴命、少彦名命、事代主命。 本殿 大社造(御神座は出雲大社と反対向に御鎮座)境内社 韓国伊太氏神社、三穂津姫神社 御鎮座についての詳細は不明ですが、古事記神代巻には「伊賦夜坂」について記述があり、 日本書紀齋明天皇五年の条に「言屋社」、出雲国風土記 に「伊布夜社」、延喜式神名帳に「揖夜神社」の記述があり、平安朝以前から知られる古社。古より朝廷の崇敬が篤く、「三代実録」には清和天皇の貞観13年に「 正五位下」の御神階が授けられた記録がある。 武将の崇敬も篤く、大内氏、尼子氏、毛利氏、堀尾氏、京極氏、松平氏がそれぞれ寄進や社殿の修造を行っています。また、社殿の営繕は松江藩作事方で行われ、御遷宮には藩主の代参がありました。 當社は出雲国造との関係が深い「意宇六社」の一であり、御遷宮には今でも出雲国造の御奉仕があります。」現在令和7年の正遷座に向け、令和5~令和6年は改修工事が行われており、神門や本殿には近づくことは出来ません。社殿は標高100㍍程の山の西嶺に鎮座し、手前の拝殿とその右側の仮殿以外は立ち入り禁止。仮殿から社務所と境内社の眺め、一本の椎の巨木が大きな影を落とす。この境内社の他に仮殿の右奥に稲荷社、火守神社などが鎮座します。社務所左の境内社 恵比須神社。祭神は事代主命で、明治43年(1910)に揖屋村字五反田地区から遷座したもの。荒神さん。中央に藁蛇が巻かれ御幣が立てられているものが「荒神さん」、須佐之男命を祀り、周辺の集落からこちらに纏められている。樹齢600年とされる御神木の椎。志多備神社の御神木とはまた趣が違う。太い根は蛇のように地表を這い、幹には樹洞もあり、何かが宿る神木の貫禄が整っている。左が天満宮。菅原天満宮より勧請され、近隣の小学校に建立されていたものを、戦後境内に移設したもの。右が荒神社、祭神は須佐之男命。恵比須神社。事代主命を祀り、揖屋村字町鎮座していたもので明治42年(1909)境内に移転されたもの。拝殿。前回(1934)の遷宮の際に建立されたもので切妻造で向拝の付く、銅板葺きの四方吹抜けのもの。神紋は出雲大社と同じ二重亀甲に剣花菱。揖夜神社由緒はHPによれば以下となっています。「鎮座についての詳細は不明ですが、『古事記』神代巻には「伊賊夜坂」についての記述があり、『日本書紀』齊明天皇五年(659)の条に「言屋社」、『出雲国風土記』に「伊布夜社」、『延喜式神明帳』に「揖夜神社」の記述があり、少なくとも平安朝以前には広く知られていた古社であることは疑うべくもありません。 神社に所蔵している棟札・古文書によれば、戦国時代頃から「揖屋大明神」「揖夜大社』「揖屋大社」と称されていた様です。出雲国造との関係 当社は出雲国造との関係が深い「意字六社」(熊野大社・神魂神社・八重垣神社・六所神社・真名井神社・揖夜神社)の一として、江戸時代から「六社参り」の参拝者が絶えず、御遷宮には今でも国造の御奉仕があります。江戸時代の書物『出雲神社巡拝記』に、揖屋大明神の項に「意字六社とて有其ーツ也、六社とは当社及、熊野大社、大庭かもしの社、山代いざなぎの社、佐草ノ八重垣、大草の六所神社是也、巡拝の人 格別の社なれば一々心をとめて拝礼すべし」と書かれています。御祭日 大祭 例祭10月19日、祈年祭4月19日、新嘗祭 11月25日、古伝祭 御田打祭1月3日、御田植祭 5月28日、穂掛祭 8月28日、ーツ石神幸祭 同日」古事記の伊賊夜坂は、死者の国との境となる「黄泉比良坂」を「いふ」と呼ぶようで、社殿後方の東出雲町揖屋には、黄泉の国とこの世の境の黄泉比良坂があり、伊邪那岐命が変わり果てた姿の伊邪那美命に追われ「黄泉比良坂」まで逃げ、巨岩で黄泉の国の入口を塞いだ岩や亡くなった方に思いを届けるポストがあるという。拝殿右から神門の眺め。精一杯寄った神門と本殿。大社造の本殿の右には三穂津姫命を祀る三穂津姫神社、左には須佐之男命、五十猛命をお祀りする韓国伊太氐神社があるが見る事は出来なかった。拝殿左の御仮殿。本来は神楽殿らしいが、現在はこの仮殿に祭神が祀られているので、参拝はこちらとなります。御仮殿右の稲荷社。二つ目の鳥居の先に本殿が見えているので、それ程参拝に時間は要しない。二つ目の鳥居から本殿の眺め、右の道を進むと大守神社に至ります。稲荷神社本殿全景。右側の覆屋にも沢山の狐が守護する稲荷神社があります。稲荷神社から眺める揖夜神社本殿域。綺麗に修復された姿がお披露目されるのも間もなくだろう。火守神社。稲荷神社から右に少し入った場所に鎮座し、詳細は不明で小さな狛犬が守護しています。以上が伊弉冉命を祀る意宇六社『揖夜神社』になります。ここまで訪れたなら、背後の山の東にある伊賦夜坂(黄泉比良坂)までは車で数分、是非とも訪れたい場所ですが、地元スーパーで土産や酒を買う必要もあり島根の神社巡りも揖夜神社で終える事にします。古くからの伝説が伝わり、古き出雲の姿を感じさせる光景の中に鎮座する意宇六社、出雲大社とは違う印象に残る神社が多かった。意宇六社 6/6 『揖夜神社』創建 / 不明祭神 / 伊弉冉命、大巳貴命、少彦名命、事代主命境内社 / 天満宮、恵比須神社、稲荷社、火守神社、不明社所在地 / 島根県松江市東出雲町揖屋2229参拝日 / 2024/05/25関連記事 / ・稲佐の浜と弁天島・出雲大社末社 「下宮」・出雲大社摂社 上宮(仮宮)・出雲大社摂社末社 大歳社・出雲大社 1 『一ノ鳥居から本殿域』・出雲大社 2 『北島出雲国造館』・出雲大社 3 『神楽殿、境外摂社 大穴持御子神社』・意宇六社 1/6 『出雲国一之宮 熊野大社』・松江市八雲町『志田備神社』・意宇六社 2/6 『神魂(かもす)神社』・意宇六社 3/6 『八重垣神社』・玉作湯神社・意宇六社 4/6 『眞名井神社』・意宇六社 5/6 『六所神社』
2024.08.06
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眞名井神社から参道を南下して、意宇川堤防道路を左折し1・2分程上流に向かいます。前方に橋が見えてくれば左側に意宇六社五社目の六所神社の杜が見えてきます。社頭の南を流れる意宇川の眺め、先に見える橋を渡った左には大草古墳群もあります。意宇川の堤防から六所神社の参道と社叢の眺め。堤防から川へ降りる石段が整備されており、ここも禊場のような雰囲気が漂います。堤防道路沿いに狛犬が安置されており、堤防道路下に降り神社に向かいます。車は写真右側の出雲国府跡の広場に停めさせてもらいました。堤防道路に安置されている一対の狛犬。色黒でぴんと突き上げた尻尾を持ち、隙あらば今にも飛び掛からんばかり凛々しい姿をしています。堤防を下りた参道には一対の石灯籠があり、参道はその先の杜に続く。意宇六社 六所神社社頭全景。鳥居はなく、左手に「出雲国総社 六所神社社標」、ここでも飛びかからんばかりの狛犬が守護する。この地方の神社で見かける形のもので、こうした姿のものを出雲型と呼ぶようです。いずれも柔らかい素材の来待(きまち)石が使われ、宍道湖周辺が産地とされます。宍道湖の南の宍道町東来待には、採掘場を公開した「モニュメントミュージアム来待ストーン」があり、来待石が古代から現在までどのように利用され、出雲から各地に広がったのか知ることができます。ニノ狛犬と出雲國総社 六所神社の社号標。何れも寄進年を見忘れました。鎮座地は意宇川左岸の平野の南端に位置し、広大な水田が広がっており、水の張られた田んぼに眞名井神社が鎮座する神名樋野(現在の茶臼山)が姿を映す。社地の右手から後方にかけて、奈良時代に国府が置かれ、社頭付近にはその正門あったと云われ、国府跡には建物の柱が復元され、古代出雲の中心地だったことを忍ばせる光景が広がっています。鎮座地は国府の中心に位置し、以前は国府の少し東に鎮座していたようですが、平安時代以降、国府の衰退とともに、かつての国府中心地に移転し、この地区の氏神として信仰されてきた。国府と隣接した六所神社は出雲國総社に都合が良かったのかもしれない。社頭・境内に由緒はなく、島根県神社庁から当社の解説を調べて見た結果は以下のようなものでした。「主祭神 伊邪那岐命・伊邪那美命・天照皇大神・月夜見命・素盞鳴命・大己貴命。例祭日 10月15日。御神徳 諸願成就。由緒・特殊神事『延喜式』、『出雲国風土記』に記載されている古社。 奈良時代以降は「出雲国総社」として社格を有し、国内の神社に奉る幣帛を班つ班弊式や諸祈願は、出雲国内の神主を当社に集め、国司が斎行した。王朝時代以来続く古伝「御田饌神事」は、観応元年(1350)までは勅使の御参向があり、その行列と儀式を描いた壁画は県の文化財に指定されている。 出雲国造家と関わりの深い「意宇六社」の一つで、御本殿は大社造、神紋は二重亀甲に「有」である。この神紋は、出雲大社の古来の神紋であり、神魂神社と眞名井神社も同紋である。」参道右の手水舎と随神門。手水鉢の龍が清水を注いでいるので鉢の水は澄んでいました。随神門から拝殿の眺め。入母屋瓦葺の八脚の随神門で、左右の間には随神と狛犬が向き合う様に安置されています。内部の随神と狛犬、何れも木造のもので、制作年代は不明です。脱色と劣化はありますが、今も彩色の一部が残っています。拝殿正面全景。入母屋瓦葺の平入で向拝が付くもので、向拝柱には大きな注連縄が架けられています。先に掲載した八重垣神社と六所神社は、出雲国風土記(733)や延喜式神名帳(927)に記された「佐久佐社」・「佐久佐神社」は自社であるとの論争があり、現在は八重垣神社が比定地として落ち着いた?ようで、一時期佐草神社と称していたが大正11年に慣れ親しんだ八重垣神社に戻された。拝殿の外観に比較すると向拝に吊るされた大注連縄や〆の子は大きく感じます。賽銭箱や本殿鬼板などの神紋は二重亀甲に有の文字が入るもので、既に訪れた神魂神社や眞名井神社と同じ神紋です。シンプルな拝殿額は「六所神社」と書かれている。下は拝殿から幣殿、本殿の眺め、薄暗い内部にあって中央の鏡は外光を受け鈍く輝いていました。拝殿左側から眺めた社殿全景。本殿左の境内社「王子神社」、祭神は高御産霊命、神御産霊命をお祀りします。本殿は出雲では定番の大社造りで、幣殿から続く向拝は本殿宇豆柱の中央にくるもの。祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、天照皇大神、月夜見命、素盞鳴命、大己貴命を祀る。神社の創建は不詳ですが、出雲国風土記(733)、延喜式神名帳(927)に記される古社であることに間違いなく、出雲国総社の六所神社に参拝すれば出雲国内の神社に参拝するに等しいことになる。境内左の石の社は外観から社名は判断はできなかった、奥に結界の張られた一画がある。拝殿右から社殿の眺め。社地右側の片隅に古い狛犬が安置されています。本殿右の「丁明神社」、祭神は須佐能乎命の御子青幡佐久佐彦命。大草郷の地名の由来となる神で、大原郡の高麻山に初めて麻を蒔いたとされる。国府跡に繋がる境内右手に鎮座する天満宮。拝殿前から随神門・社頭方向を眺める、御朱印などは参道の右側の宮司宅で頂けます。車を停めた広場の前の出雲国府の解説。解説文は以下。「今から1300年前(奈良時代初め)、全国60余国に地方政治の中心となる国庁が造られた。国庁の周りには様々な公的施設が造られ、これらまとめて「国府」と呼ぶ。国府のうち、国庁は発掘調査により六所神社境内周辺にあったことが明らかになる。付近には国庁の正門があったと推測。古代出雲の政治・行政・文化の中心地だった。」上は解説の復元模型に六所神社(赤星)と概ねの方角など落したもの。現在の写真と比較して、民家はあるものの当時の風景と大きな違いはない。広大な一帯に掘立て柱が建てられ当時の姿を想像することができます。写真は六所神社東から北の正殿・後殿・後方官衛の眺め。後方官衛から西方向の遺構と右に神名樋野(茶臼山)の眺め。六所神社社地西側から、水が張られた稲田と眞名井神社が鎮座する神名樋野(茶臼山)の眺め。都市化と称し森が消え、地表はアスファルト化され、緑や水辺は悉く消えてしまった身近な光景から見ると、出雲の原風景をそのまま残すこの光景は貴重な光景でもある。意宇六社 5/6 『六所神社』創建 / 不明祭神 / 伊邪那岐命、伊邪那美命、天照皇大神、月夜見命、素盞鳴命、大己貴命境内社 / 天満宮、丁明神社、王子神社、不明社所在地 / 島根県松江市大草町496参拝日 / 2024/05/25関連記事 / ・稲佐の浜と弁天島・出雲大社末社 「下宮」・出雲大社摂社 上宮(仮宮)・出雲大社摂社末社 大歳社・出雲大社 1 『一ノ鳥居から本殿域』・出雲大社 2 『北島出雲国造館』・出雲大社 3 『神楽殿、境外摂社 大穴持御子神社』・意宇六社 1/6 『出雲国一之宮 熊野大社』・松江市八雲町『志田備神社』・意宇六社 2/6 『神魂(かもす)神社』・意宇六社 3/6 『八重垣神社』・玉作湯神社・意宇六社 4/6 『眞名井神社』
2024.08.05
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今回紹介する白山神社は、白鳥町那留地区の海上神明神社から北東へ約1.5キロメートル、車で約5分の那智579に鎮座します。鎮座地は白鳥盆地を流れる長良川左岸にあたり、母袋烏帽子岳から続く山並みの西麓に位置します。那留地区のほぼ中央、なだらかな傾斜地に白山神社の社頭があります。道路から眺める社頭は、石段の先の正面に明神鳥居、境内右側に村社 白山神社の社号標と手水舎、境内左に神楽殿が建てられています。南東を向いた社頭、石段先の境内は左右に長い社地を持ち、右側の杉の杜の中に社殿があります。境内から社殿の眺め。前面に石垣が組まれ、その上に本殿域が作られ、幹が太く、背の高い杉の杜が本殿域に大きな影を落としています。手水舎と御大典記念で寄進された社号標(昭和3年)。龍のいる鉢には清水は張られていなかった。外は炎天下ですが、一歩日陰に入れば名古屋ほどの湿度もなく、涼を感じることができます。本殿域全景。一対の狛犬が守護する先の本殿域には、大きな覆屋が拝所と幣殿、本殿を覆っています。狛犬(寄進年は未確認)。岐阜県神社庁の白山神社解説は以下内容。「祭神は伊邪那美命、摂末社祭神が伊邪那岐命、菊理姫命。由緒由来 治承3年(1179)、泰澄大師白山へ登山し、其のおり当村前畑孫七なる者泰澄大師に随身し、白山へ登山し、その後長瀧神社を創建と同時に白山権現のご神体を泰澄和尚より賜り、病難除け並びに五穀成就村民安全のため勧請し、社地を寄付して村民とはかり氏神として崇敬し村社としたと云う。明治41年(1908)12月同村川島村、村社熊野神社を合祀。熊野神社創建、治承4年(1180)疫病消除のため紀伊国熊野本宮を勧請し村社としたと云う。明治41年12月同村宮ノ上御鍬神社を合祀。元治元年(1864)8月12日田中長衛門と云う者、五穀成就村内安全のため勧請す。」泰澄大師白山登山と治承3年の時間軸がしっくりこないが、はじまりは恐らく養老年中(717-724)と思われ、治承3年(1179)に神社が建てられたようです。大きな覆屋が社殿を覆い、降雪から護っている。拝所左から本殿の眺め。本殿は木造の神明造で千木は内削ぎ、6本鰹木が付くもの。祭神は伊邪那美命、伊邪那岐命、菊理姫命の他、熊野神社の家津御子神、熊野久須美命、御鍬神社の速玉男神、豊受姫命の七柱が祀られている。本殿域から正面の神楽殿と白鳥町と遠く石徹白の山並みの眺め。那留地区の家々が一望できる神楽殿は、風の通りが良く思わず昼寝がしたくなる。大きな入母屋屋根を妻側の八本の柱で受け取め、河邊神社や中津屋白山神社同様に、梁の上に壁を設けず組物と蟇股だけの吹き抜けになっています。本殿からはここで奉納される舞いや氏子の集落の様子が良く見渡せる。神楽殿左の由緒。「白山神社祭神 伊邪那美命、伊邪那岐命、菊理姫命創立 養老年中(717-724)、年月不詳治承3年(1179)、泰澄大師白山へ登山し、其のおり当村前畑孫七なる者泰澄大師に随身し、白山へ登山し、その後長瀧神社を創立と同時に白山権現の神体を泰澄和尚より孫七随神の償として賜り、病癒並に五穀成就、村民安全のため勧請し、社地を寄付して村民と計り氏神として崇敬し村社とすと云う。(例祭 9月1日、春祭3月20日、秋祭11月20日)熊野神社祭神 家津御子神、熊野久須美命明治41年(1908)12月5日、同村字川島村社熊野神社を合併せり。熊野神社の由緒は、創立治承の庚子年(年月不詳)当村農、与三兵衛という者、病疫消除の為、一村協議の上、紀伊国熊野本宮を勧請し一村社と崇敬す。御鍬神社祭神 速玉男神、豊受姫命明治41年12月5日、同村字宮ノ上無格、御鍬神社を合併せり。御鍬神社の由緒は、元治元年(1864)8月12日、当村農民、田中長衛門と云う者、五穀成就、村民安全の為勧請す。(右三神社の七柱の御神体を合祀して、村民氏子の安全を期す、尚右由緒文は昭和27年4月11日神社庁規則認証社第8号に依る)◎神仏を信仰し、他力に報謝遥かな昔より私達の先祖は、村人の安全、子孫の幸福を願い、宮や寺に堂を建て神仏を祀り崇めて信仰して報恩感謝する様にと説き教えておられます。従って神仏への礼拝は己れの欲望・願望を適えて貰う為であっては成らず、あく迄も護ってお救い下さる御恩報謝のお礼の為のお参りと致しましょう。」とある。先人達が村を思い創建した神社は、何世代にもわたって今も受け継がれている。那留 白山神社創建 / 不明祭神 / 伊邪那美命、伊邪那岐命、菊理姫命、家津御子神、熊野久須美命、速玉男神、豊受姫命境内社 / 熊野神社、御鍬神社祭礼 / 8月25日所在地 / 岐阜県郡上市白鳥町那留579参拝日 /2024/6/19海上神明神社から車アクセス / 北東へ1.5㌖、約5分程。関連記事・白鳥町の神社・石徹白白山中居神社・いとしろ大杉を訪れる・金幣社 伊岐神社・河邉(河辺)神社・白鳥町中津屋 白山神社・海上神明神社
2024.08.04
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玉造温泉街から国道9号線で東に向かい、松江市山代町に鎮座する意宇六社『眞名井神社』までは20分程の移動時間。鎮座地周辺は水田が一面に広がる長閑な光景が広がります。社頭から南に伸びる道路は400㍍の直線道路でしかも一方通行、車道というより農道なんだろうか。中央には松が植えられ、なんだが参道の様にも見えます。まさにこれは眞名井神社の参道で、以前は水田の中に神社に続く立派な松並木が連なっていました、それも松枯れにより荒廃し、かつての姿を取り戻すため、道路を整備し松を植樹したものと言う。この道を南に向かうと意宇川の堤防道路に突き当り、往古はこの川で禊をして神社に参詣たのかもしれません。神社には参拝駐車場はありません、車は道路左側の空き地に止めるといいかもしれません。眞名井神社の社頭方向の眺め。社頭の前を県道247号線が横切っており、目の前の茶臼山の南麗に社頭を構えています。背後の茶臼山(標高171㍍)は松江平野を見渡せ、地の利を生かして山城も作られたようです。県道から眞名井神社社頭の眺め。歩道際の植木が蕃塀の様に前方を遮り、大きな杜の影になり社頭は意外に分かりづらい。道路からだと右手の大きな自然石の社標が目印となるか。社頭全景。手前に一対の狛犬と木造の明神鳥居、石段の上り口の両脇にも一対の狛犬が安置されています。社頭を守護する狛犬(年代は不明)。鳥居左手の手水「真名井の手水」今の眞名井神社、出雲風土記では、神祇官社に眞名井社、不在神祇官社に末那為社が載っており、神祇官社が本社にあてられ、不在神祇官社は境内社があてられ、元は近くの眞名井の滝に鎮座したとされます。その眞名井の滝は社頭前の県道を右手に進み、茶臼山へ少し分け入った辺りにあるらしいが入口が良く分からなかった。この手水はその眞名井の滝から引かれているものだろうか。眞名井神社鳥居から石段と拝殿方向の眺め。上り口に青竹の杖が置かれていますが、そこまで急な坂ではないので大丈夫かな。ただ不規則な石積みの石段は、角が取れて滑りやすいので足元だけはよく見ていく必要がある。石段上り口の苔むした狛犬。年代は不明、先の狛犬と比較すると年代は古そうです。拝殿に続く石段の眺め。石段を上ると一対の狛犬の先に拝殿が建てられています。こちらの狛犬は年代未確認。拝殿から本殿域の眺め。四方吹き抜けで梁間・桁行三間のシンプルなもので、礎石の上に柱を建てただけで床はなく、昭和9年(1934)に建てられたもの。拝殿右の神職常駐の社務所と神楽殿。神紋は二重の亀甲に「有」の文字がはいる。社務所右の真名井神社解説。「県指定建造物 真名井神社本殿昭和49年12月27日指定社殿は本殿、中門、拝殿、神楽殿、境内社から成る。本殿は大社造り檜皮葺きで周囲に透塀をめぐらす。祭神は伊弉諾尊、天津彦根命(山代直の祖)当社は出雲国風土記にいう「真名井社」、延喜式に記す「真名井神社」で古い歴史をもつ意宇六社の一社である。背後の山は神名樋山で出雲国内四神名樋山の一つで東南麓に真名井の滝を存す。 中世・近世は「伊弉諾社」として知られていたが明治以後は旧号に復し村社に列さられていた。現本殿は、寛文2年(1662)の軸立で、内殿は正面に向っている。殿内には彩色絵がある。拝殿は昭和9年に新築された土間床の造り。境内社には末那為神社(向って右)、児守神社(向って左)、宍道若宮社、山代神社、荒神社が合祀してある。 なお、神紋は二重の亀甲に「有」の字。祭日は10月17日である。」出雲国造家と特別な関係にある「意宇六社」の一つ眞名井神社は出雲國風土記の4つの神備の一つ神名樋野(現在の茶臼山)の南東に鎮座し、社記にも「背後に聳える茶臼山は地元ではかんなび山」と記されているようです。神備とは神様が隠れ籠るところの意味で、昔の人々から特別な信仰対象として崇められて来た山で、旧鎮座地の眞名井の瀧(見付けられなかった)あたりだと云う。神名樋、出雲国風土記の神名樋の山は4ヶ所が記されています。・意宇郡の神名樋野 松江市の茶臼山 眞名井社。・秋鹿郡の神名火山 松江市の朝日山 佐太大神社。・楯縫郡の神名樋山 出雲市の大船山 多久ノ社。・出雲郡の神名火山 簸川郡斐川町仏経山 (曽支能夜社)これらの神名樋の山を地図に落として見ると、宍道湖と出雲平野を見守るように神の宿る山が聳えているのが分かります。社務所右から見る拝殿と大社造りの本殿。本殿域と右手の境内社の眺め。右手の境内社は一対の狛狐が守護する末那爲神社(稲荷神社)、祭神は倉稲魂命と思われます。本殿域は透塀が取り囲み中門と一体となったもので、戸にも金色の二重亀甲に有の神紋が入る。本殿は大社造りで外削ぎの置千木と三本の鰹木が付くもの。現在の本殿は寛文2年(1662)に建てられもので、本殿内面には極彩色の壁画が描かれているという。江戸時代には「伊弉諾社」と呼ばれ、明治初年に現在の眞名井神社に改称した。拝殿左側から境内社と本殿の全景。左の境内社は兒守社、祭神は住吉四神(底筒男命、中筒男命、上筒之男・息長足媛)と思われます。大社造りの本殿は県の有形文化財に指定されている。今一つ鮮明ではないですが、高床式の社を支える二本の宇豆柱と中央の心御柱が見えます。内部の状況が分からないので男造なのか女造なのか定かではありません。今のように重機も電動工具もない時代の出雲大社ではこうした柱を束ね、48㍍の高さの本殿が築かれたという。日本の技術と知恵の素晴らしさを改めて実感するものです。神が鎮まる神名樋野の麓に鎮座する社殿全景。意宇六社 眞名井神社。神社周辺の景観、神名樋野の杜に包まれた社殿の雰囲気といい、ここまで巡ってきたなかでは一番印象に残る神社かもしれない。意宇六社 4/6 『眞名井神社』創建 / 不明祭神 / 伊弉諾尊、天津彦根命境内社 / 末那爲神社、兒守社所在地 / 島根県松江市山代町84参拝日 / 2024/05/25関連記事 / ・稲佐の浜と弁天島・出雲大社末社 「下宮」・出雲大社摂社 上宮(仮宮)・出雲大社摂社末社 大歳社・出雲大社 1 『一ノ鳥居から本殿域』・出雲大社 2 『北島出雲国造館』・出雲大社 3 『神楽殿、境外摂社 大穴持御子神社』・意宇六社 1/6 『出雲国一之宮 熊野大社』・松江市八雲町『志田備神社』・意宇六社 2/6 『神魂(かもす)神社』・意宇六社 3/6 『八重垣神社』・玉作湯神社
2024.08.01
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