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先日、群馬県富岡市の中高瀬観音山遺跡を現地調査してきた。関東の代表的な高地性集落らしい。一般的な説明は以下のHPなどを参照のこと。中高瀬観音山遺跡(文化遺産オンライン)中高瀬観音山遺跡(群馬県埋蔵文化財調査事業団)遺跡は富岡インターの近くにある。遺跡公園整備の予定はあったらしいが現状は駐車場もなく車でのアクセスは厳しい。おぢさんは高地性集落の防御力を確かめるために平地から歩いてみた。以下の地図に写真と観察記録。Googleマップに入る写真のサイズがやや小さいのが不満。。。中高瀬観音山遺跡地図(Googleマップ)弥生後期の集落の中心部は観音山尾根という南北に走る台地状の尾根上に立地している。尾根の周りは崖に近い傾斜になっており、そこを直接よじ登って攻撃するのは極めて困難に思える。集落を襲うとすれば、東のホージョーヤツか西のジョーコーヤツと呼ばれる谷伝いということになるのだが、平地から谷への入り口は左右から尾根が迫り守り易い地形になっている。そうすると北側からの攻略は難しい。南北方向の観音山尾根は、南側を東西に延びる尾根の支脈になっている。その東西方向の尾根伝いか、尾根の南斜面を登る南側からの攻撃が守る側としては脅威となるように思えた。おぢさんの撮ったものではないがこちらの動画を見ると遺跡からの眺めの良さがわかる。中高瀬観音山遺跡 国指定史跡(YouTube:めがね橋 群馬県安中市2010年7月18日)遺跡公園について参考:中高瀬観音山遺跡歴史公園(四十而不惑)にほんブログ村
2016.11.26
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最近、『東日本の古墳の出現』(甘粕健・春日真実編)という本を読んだ。東日本の古墳の出現(山川出版社)東日本の古墳の出現(Amazon)1993年秋に開催された日本考古学協会のシンポジウム「東日本における古墳出現期の再検討」の資料と記録を本にしたものだ。各地の様相を地域の研究者が報告して後半はシンポジウムの討議という型式。東日本の古墳出現期の前後にわたる政治的動向に考古学的に迫る内容で、おぢさんのメインテーマ「ヤマト襲来」に内容は重なっている。本書を読むきっかけになったのは松木武彦氏の『日本列島の戦争と初期国家形成』(2007)の以下の記述だった。高地性集落が時期を追うごとにしだいに北陸西部から東部へと分布を移し,その廃絶の跡をたどるように墳丘墓の祭祀が成立していくことが指摘されている〔甘粕・春日編 1994〕.p.129北陸についての部分的な話ではあるが、これこそヤマト襲来ではないかと思えた。上述の状況が考古学的にどれほど明確に確かめられるのか、また他の地域でも似たような現象がみられるのかなど興味をそそられて本書を手にした。在地勢力が東に追われていくような状況に関しては以下の記述があり具体的な遺跡名もいくつか挙げられている。また新潟平野の高地性集落の分布地図も掲載されている。新潟平野の場合は,ほとんど前期古墳と高地性集落の分布域というものが重なっております。そして,古津八幡山古墳,巻町山谷古墳のように,高地性集落が廃棄された上にしばしば前期古墳が営まれる。p.17能登の場合は1期・2期に防御的集落が盛んでありますが,3期にはそういった防御的な機能は抹消されるといいますか,濠が埋められるという状況になります。一方,富山平野では白鳥城遺跡のような非常に高い典型的な高地性集落がいくつかあらわれ,それらは3期にピークがある。新潟平野では出現の時期では能登と変わりないと思われるわけですが,3期・4期にもなお機能しています。p.15このような東への撤退が記されているのは北陸のみだった。他の地域はもっと複雑な様相を呈しているようだ。本書は20年以上前の本であり部分的には古くなっているかもしれないが、全体としては未だにホットな内容だ。資料は増えても東日本の政治的枠組みの変遷は依然謎のままで20年前からそれほど進歩していないように感じる。おぢさんにとってのポイント近畿の影響のまえに北陸系や特に東海系の影響が東日本全体に及ぶ。→東海に侵略され、さらにヤマトに侵略された?東海はヤマトの手先という見方も根づよい。能登が新潟平野へ、北陸が東北へ、東海が関東へ、関東が東北へという動き。→玉突き現象。東海や毛野は独自性を比較的長く保ち続けた。抵抗が強かった為か。にほんブログ村
2016.11.13
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