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2012.01.14
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(Alain Corbin, L'harmonie des plaisirs. Les manieres de jouir du siecle des Lumieres a l'avenement de la sexologie , Perrin, 2008)
~藤原書店、2011年~


「感性の歴史家」として名高い近代史家、アラン・コルバン(Alain Corbin, 1936-)の邦訳最新刊です。
 アラン・コルバンによる方法論についての著作(邦訳)について、次の3冊は記事を書いています。

・アラン・コルバン(渡辺響子訳) 『感性の歴史学-社会史の方法と未来-』 御茶の水書房、2000年
・アラン・コルバン(小倉和子訳) 『感性の歴史家アラン・コルバン』 藤原書店、2001年
・フェーヴル/デュビィ/コルバン(小倉孝誠編) 『感性の歴史』 藤原書店、1997年

 また、本書とも関連する、いわゆる性の歴史に関する次の文献にも、コルバンによる論考が読めます。

『愛と結婚とセクシュアリテの歴史』 新曜社、1993年
・J・ル=ゴフ/A・コルバンほか(小倉孝誠/後平隆/後平澪子訳) 『世界で一番美しい愛の歴史』 藤原書店、2004年

 そして本書の訳者である尾河直哉さんによる訳書としては、本書の他に、次の方法論に関する1冊について記事を書いています。

・イザベル・フランドロワ編(小河直哉訳) 『「アナール」とは何か-進化しつづける「アナール」の百年-』 藤原書店、2003年
(この中にも、コルバンによる論考が収録されています)

 …と、その方法論について興味を持っていたコルバンによる大著、『快楽の歴史』(原題:『快楽の調和』)の構成は次のとおりです。

ーーー
日本の読者へ

序―熱・忘我・錯乱


 第1章 「自然」の要求
 第2章 快楽の質と細部
 第3章 疑惑から告白へ
 第4章 欠如の苦しみと過剰の苦しみ
 第5章 「まがいものの快楽」と官能の衰弱

 第7章 ほど良い好色さ
第2部 肉体の反逆
 緒言 情欲の系譜を粗描する
 第8章 夫婦の床―そのタブーと快楽
 第9章 淫奔さに対する自省の洗練
 第10章 告白の綿密さと罪の算術
第3部 快感の絶頂
 第11章 猥褻なものの魅力と快楽の予備教育
 第12章 「性技」とエロティックな錯乱
 第13章 新しさを求める十九世紀

結論―性科学の到来と快楽の調和の一時的な後退

原注
訳者あとがき
人名索引
ーーー

 三部構成からなる本書は、第1部で医師の言説、第2部で聖職者の言説、第3部でポルノ作家の言説を分析します。
 全体で606頁という大著で、本論は莫大な文献の引用・分析からなっています。圧巻、という感じですね。
 上記の構成からもうかがえるように、本書は通史的な叙述ではなく、快楽をめぐるテーマごとの叙述です。1章のなかで、いろんな人物の言葉があれこれ紹介されるので、時代背景になじみがない分、なかなか理解しにくい部分が大きかったです。私の理解力が足りないせいもありますが…。

 そんな中でいくつか興味深かった点を挙げておきます。

 まず、医師の役割が、信徒の告解を聞き、助言を与える聴罪司祭の役割と似たような部分があった、ということ。
 性をめぐる話なので、患者の中にも、言いにくいことは多々あった。そんな患者たちからいかに話を聞き、また上手に助言を与えるか、というのが、医師たちの重大な役割だったわけです。コルバンは次のように言います。
「聴罪司祭と臨床医は人に慰めをもたらすという共通の使命を負っている」(116頁)、と。
 関連して、民衆に対して、医師は「患者に理解できるよう簡単な言葉を使い(中略)必要に応じて粗雑な言葉を使うこともあり」えた、という指摘も面白かったです。
 時代は異なりますが、私は13世紀頃の説教活動について勉強してきているので、説教師の方法と通じるものを感じました。
 もちろんこうした方法は、現在、プレゼンなどを行う際にも大事ですね(国民向けの記者会見で、難しい言葉をそのまま使う政治家たちは、逆に自らの能力がどの程度であるかを露呈していると思います)。難しい言葉を分かった気になってそのまま使うのは簡単ですが、それを分かりやすい言葉にかみ砕くのは難しいものです。
 私も気をつけなければいけません。

 第2部からも、興味をもって、ふせんを貼ったのは、やはり聴罪司祭に関する部分です。
 彼らは、告解をする人がどのような職業や身分の人なのかを知り、その義務の果たし方を知らせなければならなかったと言います。
 また、告解をする人々が、告解についてどのように考えていたのか、というのも面白かったです。
「告解に行くことは、当時、一年間司祭から間違いなくサービスを受けるために払うコストくらいにしか考えられていなかったのである」(357頁)
 一方、告解は、個人が聴罪司祭に行うものですから、たとえば、ある妻が聴罪司祭に、夫の性的な部分の不満を言うとします。そうすると、同じ共同体にいつつ、聴罪司祭はある家族の性的弱さや欲望などを知っていて、逆に家族はそれを知らない、ということになります。なので、不満を言われた夫と聴罪司祭が道でばったり出くわして、聴罪司祭が「角を曲がったとたんににやにやする」という場面もありうる。こういうのを考えるだけで腹が立つと、ミシュレという歴史家は言っているそうです(355頁)。

 第3部では、文学の中の言説の分析は難しいなぁ、とあらためて感じました。
 私の理解力がないので、なんともいえない部分がありますが、本当にそこからそういう結論が出せるのか、と、疑わしいような気持ちになる部分もいくつかありました。

 全体的に、理解できたとはとてもいえませんが、上に書いたような、医師の役割と聴罪司祭の役割が似ていることや、民衆が告解をいかにとらえていたかなどについて、勉強になる部分も多かったです。





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Last updated  2012.01.15 16:55:41
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のぽねこ @ シモンさんへ コメントありがとうございます。 久々の再…
シモン@ Re:石田かおり『化粧せずには生きられない人間の歴史』(12/23) 年の瀬に、興味深い新書のご紹介有難うご…
のぽねこ @ corpusさんへ ご丁寧にコメントありがとうございました…

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