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〇永らく大都会・東京には行っていませんが、電車の並び方やエスカレーターの立ち位置が整然としていて、感動すら覚えます。それに引き換え、関西人のそれは、本当に悲しい。電車のホームの一列目に立つのはどの扉前でもほぼ一人。直ぐ後ろに並ぶ人の左右のいずれかが、一歩前に出て一列目を完成すれば、前に習え式に、後列も順次、何とか形になりそうなものを。 信号待ちも然り。梅田のJRと阪急デパートを結ぶ地上の広い横断白線の場所。関西人は信号がまだ青に変わっていないのに、勇み足風にもう前進! その癖、歩行者用の青信号が点滅し始める時から、遅ればせに駆け出し渡る人々の何と多いことやら。小学校で正しい交通ルールを学ばせたとしても、多勢に無勢、 悪貨が良貨を駆逐するがごとく、折角の良いマナーも掻き消されそう。エスカレーターの並びも、きちんと左右を埋めた方が良いはず。 デパートやしかるべき施設が広報アナウンスにて洗脳して行かないと、関西地区のマナーが文化圏として遅れをとっていると言われても仕方ありませんね。
2024.11.26
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〇人付き合いの悪い書生ふたりが心を打ちとけ合ったのは、共通の趣味だった寄席好きにあったとか。その後ふたりは漢詩文の回覧、批評を通じて互いの才能を敬慕し合い、友情は生涯に至りました。 子規は随筆『筆まかせ』で漱石を畏友と称え、また、漱石も子規の天真爛漫な性格を畏敬の念で称えました。 松山市立子規記念博物館編集の『漱石と子規』という愚陀佛庵100年記念本(朝日新聞社)には子規については第一高等中学校在学中の写真は掲載されいて、 正岡常規(愛媛)と書かれているし、 漱石については大学予備門(第一高等中学校)時代の写真があり、成績表には塩原金之助(東京)とあります。俳誌「ホトトギス」第11巻12号の漱石のエッセイには、好き嫌いが激しく、豪放な子規の一面を書いています。
2024.11.25
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〇今は昔、昭和の御世に男ありけり。名をばくりおとぞなむ言ひける。世に名だたる金貸し業に就きて、ひねもす難波の企業など伺ひ居りしが、とある社の男より、暫し語らひたきことのあり、請け給ふやいかにと問はれ、茶房に入りたり。 その男の言ひやうは、我がともがらにくりお殿を慕ひゐる女人あり。何卒聞き入れ給ふべしと懇願し侍りぬ。くりおと言ひける男、いみじく小心ものなれば、迷ひ迷ひつ汗など流し居たり。 くりお、とほの前より彼の乙女の胸の中、それとなく推し量りゐたりけるが、もし此処にて聞き入れなば、その女を嫁にせざる成り行きに至るべしと思ひて、そもならじとて断わりたりけり。さるほどに、をんな、なかなか諦め得べかりき様にて、旅の土産など男の許に送りなどしける。商用にてその女の許に参りし折りも、そのをんなの全身より迸るもの感ずれば、可愛ゆしとも思いけるが、そのまま打ち捨ておきぬ。 このをんな、なりは小さけれど、肢体、目鼻立ちなど余人に非ず、いとおかしければ時々、心揺れ動きなどするも、色に出さざるやう努め侍りければ、やうやう女も諦めたるにやあらむ。 さてもさても、いつの世も縁と言ふ赤き糸の無かりせば、鴛鴦の仲など叶わざるとぞなむ語り伝へける。
2024.11.24
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〇 愛用の手帳太りて師走かな 秋の日暮れを釣瓶落しと言うのなら、この11月下旬近くから正月への慌しさを何と表現すればよいのだろう。 掲句は一昨年(2002年)の今頃に詠んだ句です。我々勤め人は、大なり小なり予定を日記代わりに手帳に書き込んで行きます。年の暮れともなると、愛用の手帳が横から見ると、でこぼこしています。何かの約束事や仕事の予定などを書き留めておくと、手帳の紙面が少しずつ膨れ、厚みがでますね。 熱燗の喉元すぎの天下人 私はどちらかと言えば下戸。週にに2度ほど、銚子1本の晩酌を楽しんでいます。菊正宗のCMは上手なことを言ってました。「うまいものを見ると、菊正が欲しくなり、辛口の菊正を飲むとうまいものが食いたくなる。(現在はアルコール中毒助長とかで放映されていません。)」身体の為になるべく晩酌が続かないようにしていますが、鍋物や和風の美味なものがテーブルに広げられると、禁を破りたくなってしまいます。 仕事を終え、電車に揺られ、普段着に着替えて、やっとこさ夕食を目の前にする。ぐつぐつ煮える鍋の音。誰憚ることなく、ぐ~いと猪口を傾けた時の快感。天下人になったような気分になるのです。(サラリーマン時代の心境でした。)
2024.11.23
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〇戦国期までは天子も将軍職も世襲制に慣って来ていましたが、自分の息子たちよりも後世を託すには能力者が良いという考えを記したものが、斉藤道三の遺言状で、京の妙覚寺に残されています。<わざと申し送り候意趣は美濃国の地、織田上総介の存分に任すべきの条、譲状、信長に対し贈り遣わし候事> この時は長男の義龍によって道三は滅ぼされたので、遺言通りになりませんでしたが、後年、孫の義興が信長に奪回されています。歴史的には秀吉が五大老に秀頼の事を託した部分が強調されていますが、宣教師フランシスコ・パシオ宛の手紙では、一旦家康に政権を譲り、秀頼が成人した暁には豊臣家に政権を戻して欲しい意向が記述されているそうな。秀吉の時代ではまだ、世襲制には戻らぬ戦国の名残があった事は秀吉にとって不幸と言えましょう。しかし家康とても二代目将軍を誰にするか重臣に相談したところ、意見が分かれていたようで、 本多正信は二男の秀康を、大久保忠隣は三男秀忠、井伊直政は四男忠吉を推したという事は、家康の子に秀逸な子の無かった裏付けとも。 小和田哲男著『国盗りの組織学』の副題<乱世を生きき抜いた知恵>を参考に拙文を書きましたが、秀忠の次の将軍選定は、ドラマ大奥にも・・・またの機会に。
2024.11.22
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〇古書店の店先にどれも100円という扱いで売られている文庫本に交じって、児童文庫の色鮮やかな『千夜一夜物語』が目に入ったので、パラパラページを繰ると、「船乗りシンドバッド」や「アリババと四十人のとうぞく」「アラジンとふしぎなランプ」など、誰でも一度は読んだことのある名作が、時折色鮮やかな挿絵を挟んでいます。あの挿絵は蕗谷虹児によるもので、昭和初期から戦後にかけてモダニズム溢れる詩歌と絵画を提供した人物。<きんらんどんすの帶締めながら花嫁御寮はなぜ泣くのだろ・・・>今でも風呂ン中で口ずさむ童謡、彼の作品だとか。
2024.11.21
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〇私達はいつも何かを求めながら待っています。食べる物と寝る場所さえあれば最低限生きて行けますが、それだけでは犬畜生と変りませんので、人間らしいプラスアルファを求めているのでしょうね。 最近の女性は外国製のバッグなどに憧れているように見受けられますが、そのバッグを手に提げるに相応しい雰囲気、教養、人間としてのハイセンスを具えていないと高級バッグとはアンバランスな関係になってしまいます。金さえあれば、金を支払えば簡単に手に入るものは宝物ではありません。野球界なら新人賞とか年間MVPとかベストナインに名を連ねる名誉が宝物でしょう。これは運と努力無しでは手に入れることが難しいから。でも、郷里の美しい山や川、畑の産物、海で捕れる魚介類も本当は宝物なのかも知れませんし、自分を大切にしてくれる知人・友人・家族も又と得難い宝物なのでしょうね。
2024.11.20
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〇カキは1時間に15リットルもの海水を濾す能力があります。これを巧く利用すれば、無菌のカキを作れると考えたのが佐藤忠勇博士。カキの毒性は生殖腺に含有されているようで、その時期は4月から七月の産卵期、西洋ではひと月づれて、Rのつかない月のカキは食べるなと言われています。なるほど、May5月、June6月、July7月、August8月にはrがついていません。精力を使い果たした夏場は体力を回復するので、グリコーゲンなどの栄養分が豊富になり美味になります。カキは牡蠣と書きますが、これはオスしかいないと誤解されていた為で、産卵期になると一部のオスがメスに変ることで子孫を残しています。雌雄同体のミミズを思えば納得できます。フグも卵巣や肝臓などの内臓に有毒物質を持っていますが、やはり春の産卵期になると毒性が強まるようです。でも、こんなことを綴っていると、牡蠣や河豚をたらふく食べたくなります。(参考:樋口清之監修「雑学おもしろさ歳時記」)
2024.11.19
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〇俳句の歳時記を日捲りにしたものを数年から使っていますが、机やノートパソコンとの配置でやむを得なく真右の壁に吊っていると、つい見過ごして数日間の季語が溜ってしまって、日捲りの用を成さないのでパソコン背面の本立てに挿すことにしました。例えば11月13日(金)は、旧9月28日赤口、季題は蕪汁で、 白河に風がうがうと蕪汁 福原 十王<蕪を具材にした汁もの。蕪は加熱すると柔らかくなるのが早く、味噌との相性もよいので、まずは味噌汁がよさそうです。>の説明が添えてあります。 「蕪」と言えば四条南座近くの「一平茶屋」のお任せ蕪蒸しコース料理は、季節柄是非とも顔を出したい店。サラダ良し、あんかけ、ふりかけ、ソテーも良し。パスター、漬物、それに他の具材と容易に組合せそうです。
2024.11.18
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〇名にし負はば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな 三條右大臣逢坂山のさねかずらとは暗示的だね。きみに逢う逢坂山、きみと同衾するさ寝、それに蔓草であるツルをくるくるたぐり寄せるように、人目につかずここへ来る術はないのかな 三條右大臣とは藤原定方のことで、父は高藤、母は山科の豪族の娘。父母のロマンスが『今昔物語』にあって、若き高藤が鷹狩に出かけ、山科で豪雨に遇い、近くの邸で雨宿り、そこの娘と一夜を過ごしました。数年を経て再びその邸に寄ると娘は更に美しく、可愛い女児の母でもあったので、二人を引き取り、他に妻を持たず、仲良く連れ添い、定国、定方をもうけました。高藤は凡庸でしたが、雨宿りにもうけた姫を源定省という官吏と結婚させました。この男は光孝天皇の皇子で臣籍に下っていましたが、崩御を起点として皇族に復帰、宇多天皇に、姫は女御格に。お産みになった皇子が醍醐天皇となられ、後年、母の里を大切に思われ、山科の豪族の菩提寺として建てられたのが勸修寺なのでした。 〇
2024.11.17
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〇ホトトギスから独立して「駒草」を主宰した阿部みどり女さんと何故か父すばるは懇意にしていました。彼女の短冊や葉書も少々遺していますが「駒草」に寄せた句評やエッセイを記録したファイルが出て来ました。それによると、 昭和11年5月号「シャボン玉の幻想」と題して、みどり女さんの 雪掻いて普請はじまる弥生かなの句評などいろんな資料がまとめられています。同年11月号「俳諧漫歩」というエッセイ。善さん雛、句選評や13年10月「大阪に迎へたみどり女先生」など、実に42編もの記事を献じていました。片隅に絵筆によって描かれた無地の短冊がいくつかあって、「あ」のサインがあるのは、彼女の筆と思いつつ、私の拙句を書いています。
2024.11.16
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〇ダーウインの進化論によって、例えばキリンの首が次第に伸びて来たと思い込んでいますが、それなら、何故、首が中ぐらいの長さのキリンの化石が発見されないのか説明がつかない面もあります。猿から進化した人間だって、その過程のものの発見が少なく、急に人類になっているような気がしますね。 中原英臣・佐川俊共著『進化論が変わる』(講談社)によれば、「キリンの首は、ある時期にいっせいに長くなり、その後変化していないのです。そう考えれば(キリンの首は)短いのと長いのと2種類しか化石が出てこない理由に説明がつきます」「原因はウイルスです。キリン集団は突然、首が長くなる病気にかかったのです」 これらと同じ理屈で、ネアンデールタール人が、集団でウイルスに感染した結果、体毛も骨格も異なる現代人が誕生したという学説ですが、これを耳にすると、私たちは進化論かウイルス論か悩んじゃいますね。(参考資料・上前淳一郎『読むクスリ』20巻」)
2024.11.15
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〇今昔物語の巻4、天竺の部に「かくれぐすり」という話があります。 三人の悪童がいわゆる透明人間になって悪さの限りを尽くし、うち二人は灰を塗った廊下に附いた足跡から所在が知れて斬殺されたという話ですが、男ならずも誰しもが透明人間に憧れるのではないでしょうか。 田辺聖子さんはお菓子屋さんの大福餅やアンパンも食べられるし、駄菓子屋のアテモンも片っ端からめくってしまえるし、学校の教員室で試験問題を覗くこともできる・・・と書いていらっしゃる。 男児なら女風呂が覗けるっていう下卑たこと位しか考えないのでしょうけれど・・・。 小学館の学年シリーズの雑誌には工作の付録があって、日光写真や幻燈機などの付録は楽しかった。 印象的だったのは、子供向きの百科事典で、なぞなぞシリーズ、相撲の48手の解説書(これを勉強して相撲が好きになり、いろんな技を覚えた)、 野球ルール、理科実験、暗記法、その他盛り沢山の内容があって、愛読書になっていました。 同じ小学館の漫画には「腕を廻して空を飛行するシーン」ものや、「魔法のクレヨンで書けば、描いた自動車が実際に立体的になり、やがて動き出す」というような子供の夢を駆り立てるものがあったし、毎号にはそれぞれの行事などが掲載されていて季節感がありました。
2024.11.14
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〇乙訓地区で育った某合唱団。結団以来、毎年リサイタルを開催。これは10数年前、10回目の記念すべき演奏会の模様を日記に認めていました。ソプラノ15名、アルト9名、テノール7名、ベース5名総勢36名の小団体ですが、音楽を探求する姿がそのままステージに顕われていました。大曲モッツァルトの「レクイエム」は、8つの部門に分かれていて、どの1曲を採り上げてもスタミナを消耗する曲です。それを僅か36名の構成メンバーが声を衰えさせることなく、謡い上げたのですから、日頃の地道な研鑽ぶりが伺えると言うものです。団員各自が受身ではなく、貪欲に理想のハーモニィの実現に挑戦され、切磋琢磨された能動的な情熱以外の何ものでも無いと思いました。最後には頬を涙が伝わる感動を戴きました。
2024.11.13
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〇井沢元彦著『歴史不思議物語』を参考に、戦国武将の英傑・織田信長のアイディアをご披露。 戦国時代の兵は9割が領内の農民兵で占められていたので、武田信玄や上杉謙信と謂えど農繁期には兵力を本国に戻す必要性がありました。 *ならば年がら年じゅう戦のできるよう専門の兵隊を作れば良いという風に信長は考えたようです。その表れが鉄砲重視とも言えそうです。 *長篠の合戦では千梃もの鉄砲を使ったとされていますが、1梃5万石とすれば、5千石、5千人を1年間養え得る価額と言えます。兎に角、金がかかります。そこで目をつけたのが商業政策でした。 *楽市・楽座を推奨、商人に稼がせた売上金を一旦回収し、再分配するという方法を採りました。 国会議員の条件には「地盤、看板、カバン」と言われていますが、まさにその通り。信長には尾張という地盤があり、再興させた将軍(足利義昭)という看板、商業で吸い上げた金というカバンがあったのでした。 *農業生産を基準にしていない信長は、本拠地の尾張から、美濃、近江と経済基盤を拡大していったのです。恰も植民地政策的には、領地全体を取りに行ったポルトガルやスペインと異なり、商業都市を抑え管理し稼ぐイギリス型と同じ考えに徹したのでした。
2024.11.12
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〇徳川時代初期の長崎奉行所に残されている記録には、漂流して日本に着いたベトナム漁民の終始たばこを食べる様子に、人々は驚きを隠せなかったとあります。<煙を吸うべきものを、食ぶるとは異なることなり>と筆者の印象も添えられているのですが、これはどうやら<かみたばこ>だったようです。 かみたばこの習慣はアメリカ・インディアンの間に早くから伝えられ、水や食物を入手することが困難な砂漠地帯を旅する時には欠かせない携行品の一つだったようで、喉の渇きや飢えをしのぐ役割を果たしたと言われています。その原住民の知恵が欧州を経てベトナムの漁民に伝えられたものと考えられます。アメリカの大リーグの選手が、かみたばこしながらバッターボックスに立っていた光景が記憶にありますね。
2024.11.11
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〇すき焼きという言葉は十八世紀の文献に初めて登場するようですが、江戸時代は牛の屠殺が禁じられていましたので、牛肉ではなく、魚が具になっていたようです。魚の薄い切り身を浅い鍋て焼いたものを「すきみ焼」といい、それがやがて「すき焼き」になって行きました。牛肉がすき焼きに使われたのは大正時代になってからで、明治維新後、外国船が神戸に寄港したときに買い入れた神戸肉が、横浜に寄港して食べたところ、殊の外に美味だったので、すき焼きといえば、神戸肉、神戸から横浜に要する時間、肉の腐敗が絶妙だったのでは??
2024.11.10
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〇阿久さん、冒頭に曰く「昭和と平成の間に違いがあるとするなら、昭和が世間を語ったのに、平成は自分だけを語っている。」 また歌謡曲のほかに流行歌という分類が増え、生まれては消えて行くのがポップ系の流行歌。私見が許されるのなら、一時的に日本全土に行き渡る個性的、ユニークな曲が多々ありました。黒猫のタンゴやおよげたいやきくん、走れコータロー、或いは平凡な主婦の手に依る麦畑など。山本リンダのどうにもとまらない、八代亜紀の舟唄、森田公一らの青春時代、一世を風靡したピンクレディの透明人間<透明人間あらわる あらわる 嘘をいっては困ります あらわれないのが透明人間です・・・見事としか言えない表現ですね。
2024.11.09
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〇読書の秋。先日或る番組で日本の児童が本を読まなくなった現象を数値的に明らかにし、その原因の一つに親が読書しなくなったからと分析していました。 スイッチを捻れば面白い番組が音と画像付きで報じられるのだから、ついつい時間を忘れてピノキオになってしまうのも無理からぬ話です。 子供の頃漢字一つを覚えるのにザラ半紙に何遍も繰返し書きなぐって暗記したものですが、最近はパソコンや電子辞書、スマホという文明の利器がある為、 読む力は残っていても書き取りの能力が劣化している事に驚いてしまいます。 テレビよりはラジオ、ラジオよりは書物に書かれた文章の流れから、主人公の顔だちや声質、或いは景色などを自分の想像の世界で自由に羽ばたかせたいものです。 俳句の世界は僅か十七文字で一つの光景を演出する芸術ですから、思えば私たちは大それた事に挑戦しているようです。 クラシック音楽や美術・工芸、舞台芸術などから得た感動を雑記して置く手間さえ惜しまなかったら、後日それが一つの句として生まれ変わる事でしょう。
2024.11.08
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〇大山崎町に在る古い琺瑯製の火災信号板は真っ赤に塗りこめられた鉄板に、火災を知らせる鐘やサイレンの符合を白抜きで記した一覧表で、所どころに錆が付着しています。1番上の段には火災信号という枠、山林火災信号枠、火災警報信号枠、演習召集信号枠の4つが並んでいます。2番目の段は種類を表す欄で、3段目が打鐘信号の図柄、4段目がサイレン信号の図表です。例えば火災信号の部の近火信号(消防屯所から800m以内)なら、都をどりの串団子模様そっくり、鐘は連打を示し、サイレンは高音5秒低音2秒。出場信号なら3連打ごと、応援信号は2連打で、サイレンなら高音5秒に低音6秒、間を置いて繰り返す。報知信号は1点ごと切り離して打ち、鎮火信号なら1点と2点の斑(マダラ)打ち。山林火災信号の部では3点と2点の斑ら打ちなら出場命令・応援命令を表し、サイレンは上10秒下2秒の繰返し。火災警報では1点と4点との斑ら打ち、サイレンは高音30秒低音6秒、その解除信号は2点と2点との斑ら打ち、サイレンは上10秒下3秒更に高音1分と長く鳴らのだそうです。
2024.11.07
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〇人間オギャ~と生まれた時から左肩に倶生神という神様が乗っかって居られ、その人の良い行いも悪しきも全て記録して居られます。この世からあの世へ行く時、一旦閻魔さんの前に出て裁判を経なければなりません。生前中の行いを読み上げられ六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)のいずれへ送り込むのか7日ごとに裁判を受けます。わたし達が七夜ごとに故人を回向するのは、裁判における弁護士の役目をしていることになります。 大山崎の宝積寺には160cmを超える檜彫の閻魔さまを初め、それと遜色の無い4名の王が揃って祀ってあって、睨みを効かしたその迫力たるや・・・拝観者の誰もが感心されるほどの凄さです。桂枝雀さんが面白・可笑しく演じられた「茶漬け閻魔」という落語と抱き合わせにしてガイドしますと、お客様は大喜びでした。
2024.11.06
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〇今からちょうど20年前の職場がらみのカラオケ同好会の翌日の一文です。 その折は27名の参加で、2巡目から私が司会をしていました。 一旦全員席より立ち上がって貰って、大きな伸びをして貰います。もっと、もっとと励まし、「ね!これで縮んでいた身長が1.5センチ戻ったでしょう?」。 初めに約束事をしておきます。 ご自分の歌をほかの人にちゃんと聴いて欲しいとお思いでしょうから、人の歌もしっかり聴いて(これは歌が上手になる秘訣)、いろんなものを盗みましょう、そして盛大な拍手を惜しみなく、みんなで盛り上げましょう。 リード次第で雰囲気はどんどん盛り上がります。私は司会する時は、できるだけ歌う人の個性を浮き彫りにして紹介します。例えばNさんは「歌もさることながら、その表情をみなさん楽しませて貰いましょう!」とか、歌い廻しの上手なKさんなら「プロになるには、Kさんのような歌いっぷりが必要ですね」とか、 「人生70余年、真面目一筋に生きて来ました、このAさんの清純さを分けて貰いましょう」といった具合です。 私の場合、その場その場の雰囲気を瞬時に判断し、浮かんだ言葉を口にします。こうして文章にしてしまうと即興的な雰囲気はお伝えできませんが、極力、場を明るくするよう図ります。これはガイドや俳句の集いの場でも同様です。
2024.11.05
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〇ひぃ、ふぅ、みぃ、よ・・・と数え始めても、途中で何台目か解らなくなってしまう程に、40数台もの貨車を繋いで、JRの貨物列車が山裾を走ります。大阪府の北端に位置する此処は、阪急電車京都線の上牧、水無瀬辺り。 見渡せばやまもと霞む水無瀬川 夕べは秋となにおもひけむと後鳥羽上皇が詠まれたように、淀川と西山連峰の延長が平行するこの地域は、実に風光明媚な地域です。 JR高槻市駅から長岡京駅に至る間で、天王山と淀川とが接近する狭い部分には、JR東海道線、阪急電鉄、新幹線、国道171号線、そして淀川の対岸に在する男山の手前を京阪電鉄が京都に向かって走っています。それでも、この辺りは僅か10キロほどの区間ながら四季折々の風景がまるで箱庭のように、季節によって変化して楽しむことが出来る地域で、谷崎潤一郎の『葦刈』の舞台にもなっています。
2024.11.04
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〇父が一時、地酒に凝ったことがありました。さして上等でない頒布品の徳利や盃が残っています。ここに読売新聞社の「地酒の旅」(特集号)があって、その発刊日が昭和57(1982)年11月20日だから、その頃だったと思われます。目次には「酒の匂い、酒を讃(ホ)むる」大岡 信、「知られざる名酒を訪ねて」「北陸のうま酒」藤原審爾、「名醸地北摂は今」藤本統紀子、「旅で見つけるぐいのみの楽しみ」日本列島地酒の旅、地酒を育てた人びと、などのコーナーのほか、瀬戸内晴美、岡部冬彦といった方々の随想も載せてあります。熱燗の美味い寒さになりましたので、逸品を購入して来ようかとも思っています。驚くほど美味と思った日本酒は、奈良の「春鹿」や滋賀の「七本槍」など。
2024.11.03
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〇起床時の少雨には驚きましたが、間もなく回復、お客様の表情も晴れやかになりました。私の受け持った13名様は神戸市からの4名、高槻・尼崎両市の各2名のほか、守山、伊丹、京田辺市、茨木市などからお越しで、男女の比が9対4。60才代が7名、50・70才代が各2名、30代が1名、80代の男性も元気に歩かれました。お申込みいただいた往復はがきの返信には、台風21号の被害が甚大ゆえ登山コースは中止の旨お知らせしていました。山崎聖天・観音寺前に見えたものは、倒木が朱色の稲荷社の屋根に根こ削ぎ倒れ込んでいる光景。自然の破壊力の凄まじさに一同息を呑んだのでした。止む無く登山中止に至った事情は容易にご理解いただけたのでした。 隣り街、長岡京市のわが家の出窓から始終眺めていた酒解神社前に聳えるクリスマス・ツリーそのものに見えていた樅の大樹。それがまるで羽抜け鶏のような哀れな姿に変貌していたので、道すがら仰ぐ天王山の頂きの何れの大木が樅の樹なのか判別しかねる状態でした。ほたる公園の手前では、数段に及ぶ大送電線がぷっつりと見えなくなり、地中からやがて中腹の送電塔につながる訳ですが、塔そのものは山麓と同じ緑色に塗られている町の心遣いをガイドしました。そしてサントリービール工場見学後の生ビールの美味にお客様とご一緒に癒されたのでした。
2024.11.02
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〇昔から験担ぎの言葉や隠語が幾つか伝わっています。例えば一六銀行と言えば質屋さんのこと、十三里は焼き芋屋さん。九里(栗)四里(より)美味いをじっています。また肉屋の隠語は十八で、二九(肉)十八から。そしていよいよ本題の櫛の話。 古事記には素戔鳴尊が奇稲田姫の姿を櫛に変えて髪に挿し八俣の大蛇を退治した話があります。古来より櫛には魔を除ける力があると信じられてきました。縁を切る時に櫛を投げたり、櫛の歯が折れるのは凶事の予兆とみて恐れたりしました。「櫛は縁切り、簪は形見、指輪は繋ぎ」という諺も残っています。愛する人が旅に出ると、その安全を祈願して、その間、櫛を断つという禁忌の伝承も残っています。 櫛の話はこれ位にして、十七屋というのは飛脚屋の別称。十七屋は十七夜、それは「立待月」、「忽ち着き」をもじったとは何と風流な。
2024.11.01
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〇太陽に勢いがあると凌ぎやすい秋うららの日和ですが、曇り空になったり強めの風が吹くと、いよいよ遠い大陸の方から冬の足音が小太鼓の刻みで日本を目指して来ているような気がします。風というものはそばに障害になる建物があると、渦巻くような動きをしたり、東西南北いずれの方向にも瞬時に向きを変えるものですね。 今から十数年前には青桐が西の庭にあって、この時期は道路からの引込み電線に触れないように、建物に近い部分の枝葉は伐り落としましたが、それでも、かさこそと大きな乾いた音を立てていました。嫌いな冬の到来が近いぞと予め知らせてくれているような風の嗄れ声が聞えていました。 シンデレラの魔法が解けて冬木立 by星子
2024.10.31
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〇某年某日、俳句の知人のお誘いで岐阜県の薄墨桜を観に行った折、近くの川に敷かれた魚道を見て、感動しました。海で育った若鮎が、川を上る際に、人間が取水のために作った堰やダムが多くなって、遡上が思うように捗りません。そこで魚のために作られたのが魚道で、ダムとほぼ同じくらいに魚道の歴史は古いのです。階段式の場合、落差が大きすぎると、魚とて上り切れません。そこで考案されたのが<らせん式魚道>。円筒形のビル内に緩やかにつけられた螺旋階段をぐるぐる回りながら上がるという寸法。円筒形の立体駐車場みたいなビルを川岸に建て、魚を誘い込めば、あとは魚の習性で楽に遡上できるという訳です。北海道には鮭、鱒用に、10メートルものらせん魚道が有るようです。興味ある方は、魚の遡上という検索でtubuを拾ってご覧遊べ。段差をものともせず痛々しくチャレンジする魚たちの姿に胸を打たれますよ。
2024.10.30
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〇乙訓寺は推古天皇の勅によって聖徳太子が建立された乙訓地区の古刹。当時に伝わる哀話は、長岡京遷都のさなか、藤原種継が暗殺された事件の首謀者として、桓武帝の弟君・早良親王に嫌疑がかかり、当寺に幽閉されました。ハンストを以て無実を唱えられたけれど、そのまま四国に流される船内で息絶えられた。また乙訓寺は、811年には空海が別当を務め、翌年、最澄が空海に教えを請いに来て対面した記録も残っています。前段が長くなりましたが、当寺に零余子が生っていた記憶があります。また俳句の仲間から両の掌ほどの零余子をいただき、零余子飯を食した記憶もあり、素朴な味わいは今も舌先に残っています。 ミうれしさの箕にあまりたるむかごかな 蕪村きくの露おちて拾へばぬかごかな 芭蕉
2024.10.29
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〇古い日記を繙いていると、次のような詩を残していました。若い女性の身になって、その初恋の想い出をつづったのでしょう。 「桜貝のような脆い恋」秋というピュアな世界に誘われて恋することを知りました 宝石箱の緋毛氈 桜貝のような脆い恋心 しずかに秘めやかに収めたの時は光陰の速さで行き過ぎて永らく忘れてた透明の化粧水に似た懐かしさ 私は還る あの頃へセーラー服に汚れなく恋のいろはも知りもせず恋という字に憧れた 便箋に書いてまた消す二つ文字 好き 好き 好き 小さな紙を埋め尽くす 彼の名前と好きの文字
2024.10.28
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〇人が死ぬと「あの世」へ行く。この世は三次元世界、「あの世」は四次元世界で、そこには物資も時間も空間も距離も重力もない。波動の上下によって厳格な縦割制度が作られていて、まず霊界があり、その上に幽界、更にその上に霊界、神界と上がって行くのが四次元世界である。 人が死んで肉体が消滅すると幽体が残る。幽体はエーテル体で(それは人が生きている時、オーラとして肉体の形に添って輝いている)、ひとまず幽現界へ行く。一般に死後49日間は死者の魂はこの世にいるといわれるが、これが幽現界である。「あの世」とは幽現界の上の幽界で、そこへ上がったことを「成仏した」というのだ。(中略)・・たいていは49日を過ぎても幽現界に留まっているという。幽現界から幽界へステージを上げ、そこで霊界へ上がる心境に達すると自発的にエーテル体を捨ててアストラル体となって霊界へ上る。 幽現界(現世と幽界の間)は現世での執着物欲などを引きずったままの世界である。そのためになかなか幽界へ上れず、死者の大半はここにいるといわれている。(出典・佐藤愛子著『私の遺言』)
2024.10.27
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〇志村有弘著『陰陽師列伝』第1章の列伝では、吉備真備から始まり、7番目に安倍晴明など13名の陰陽師。カラー口絵には妖狐調伏の題があって、時は久寿元年(1154)の頃、或る魔物に憑かれ給うた鳥羽院の話。事の次第は以下のとおり。 御所に現れた美女は知恵学問に優れ、弁舌にも長け、忽ち院の寵愛を受け「玉藻前」と称されました。しかし院の健康が優れず、諸山の高僧の祈祷も効果なく、死期を悟られた院は玉藻前とも今生のお別れの辞を召されました。安倍安成は病気の根源を玉藻前に違いないと卦をたて、「泰山府君祭」を行い、もろこしからやってきた老狐を追い払いました。しかし止めを刺す必要があるので弓矢の名人、上総介・三浦介の両名に那須野にて射止めさせました。後年、玉藻前の霊の棲みつく殺生石を源翁和尚の読経で漸く石が砕け、玉藻前の霊も成仏するという話で、12の絵巻になっています。
2024.10.26
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〇年末になると必ずと言って良いほど上演される演目に「仮名手本忠臣蔵」がありますが、「仮名手本」と言うのは、いろは四十七文字の事で、赤穂四十七士をを暗示しています。又、人生の手本、人の鑑を指してい、「忠臣蔵」とは、忠臣の詰まっている蔵と言う意味です。歌舞伎・浄瑠璃の外題は、五字か七字で表し、読み方も七・五音或いは五・七音で読ませる工夫がされています。漢字が偶数になりそうな場合には、二十を廿とか、神を神明と記して逆に増やして調整しているのです。 では読みを考えて下さい。1)道行思案余 2)色増栬夕映3)助六曲輪菊 4)伽羅先代萩5)隅田川続俤 6)籠釣瓶花街酔醒7)お染久松色読販 8)色彩間苅豆9)深山桜及兼樹振 10)江戸生艶気樺焼11)稗史億説年代記 12)莫切自根金生木<解答>1)みちゆき しあんのほか2)いろまさる もみじのゆうばえ3)すけろく くるわのももよぐさ4)めいぼく せんだいはぎ5)すみだがわ ごにちのおもかげ6)かごつるべ さとのよいざめ7)おそめひさまつ うきなのよみうり8)いろもよう ちょっとかりまめ9)みやまざくら とどかぬえだぶり10)えどうまれ うわきのかばやき11)くさぞうし こじつけねんだいき12)きるなのねから かねのなるき <注・これだけは廻文になっています>参考「日本故事物語」池田弥三郎)
2024.10.25
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〇大山崎の歴史資料館には行基(聖武天皇から菩薩号を下賜)ゆかりのインゴット(銅塊)が6個保存されています。数年かけてその銅塊を分析した結果、東大寺の大仏とほぼ同じ成分であることが判明。おそらく大仏建立に献身的に寄与した事への褒賞品だったのかも知れません。日本最初の大僧正に任じられても行基菩薩は何ら表情一つ変えなかったとされるほど謙虚な人物だったようです。<山どりのほろほろと鳴く声きけば 父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ 行基菩薩>行基菩薩が永眠されたのは、天平21(749)年2月2日、享年80。芭蕉翁が鑑真像を見て詠まれた句は <若葉して御めの雫ぬぐはばや はせを> 鑑真和尚の偉いところは、日本から懇請されて日本への渡海を何度もチャレンジされましたけれど、度々海上で遭難、失明する傷も負っても怯まず、6度目にやっと日本の地に辿り着かれたことで解ります。それは754年1月16日の事で、大仏開眼の2年後。捨て身の鑑真さんに翁も共感されたものと思われます。 桓武天皇は旧体制の奈良に嫌気され、長岡京、そして平安京に遷都を果たされましたが、その折に出された名文が、<山河襟帯、自然に城を作(ナ)す。・・・・よろしく山背国を改めて山城国となすべし。また子来の民、謳歌の輩、異口同辞、号して平安京という>玄武・白虎・青龍・朱雀という四方の地形が四神相応に即していたから千年以上も都であり得たのかも知れません。(参考・半藤一利著『この国のことば』・平凡社)
2024.10.24
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〇大阪は船場でリース会社に勤務していた頃、隣りのドトールでモーニング珈琲を飲む習慣になっていました。オープン当初の女店員さんは、心から、この店を大切にしていて、働き者でした。全体を見ながら細かい所にも気配りの出来る人でした。 彼女は後輩を育て、やがて転勤か退職なのか定かでなかったけれど見なくなってしまいました。後輩の女性の中で、只一人或る受付嬢が彼女の教えを忠実に守り、そして自分の個性も織り込んで、実に明るく振舞っていました。その娘さんは全てのお客さんに身体ごと体当たりする感じで接し、笑顔と優しさ、臨機応変な対応をしていました。 僅かな金で珈琲一杯を戴くショップですが、ともすれば食器返還の棚に珈琲カップなどが所狭しと置かれていて、もう置き場の無いような状態の時があります。各お客様が最後まで快い気持ちで店を出て行って欲しいと願うあまり、私は自分が返還する時には、乱雑に置かれた棚の食器類をちょこっと整理していました。これは本来、客である私のすべきことではありません。従業員さんがいつ気付いてくれるかなと淡い期待を持ちながら態度で示していたのです。通勤電車ではドアの近辺はギュウーギュー状態ですが、奥に詰めればそれほど満杯状態でないケースが多いのです。ちょうど食器返還の棚の上は、そんな状態になっていたのです。食器返還の場所には皿洗い担当の従業員が居られるのですが、他の用事を優先にするのでしょうか、直ぐに返還棚にカップ類が溢れる状態になるのです。客のモラルにも問題がありますが、やはり気持ちよく帰っていただくのが客商売の基本ですから、ついつい、私が余計なことをしていたのです。それを知っていた二代目の明るい彼女から、或る朝、お早ようございますの挨拶を交わして下さったのでした。
2024.10.23
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〇明治28(1895)年4月26日付の報知新聞によれば、今とは雲泥の差のスピードでの旅の大変さが解ります。<東京と京都間、汽車で馳すれば1日ほどなり。長さを問えば329.25マイル、汽車の賃金は下等にて3円29銭、中等はこれに倍す。上等はこれに3倍す。(中略)朝6時20分に新橋停車場を発すれば、午後10時47分には京都七条の停車場に着くを得べし。さても便利の世の中とやいわん。さりながら便利はとかく無風流、一日中に直行しては音に名高き東海道の名所旧蹟も電光石火と過ぎ行きて、五十三次の走馬灯を見る如し。殊に直行列車は上等に乗りても退屈でたまらず、中等にては腰が痛み、下等にてはまことに一日の辛抱とや申すべし。京都に着きてホッとひと息するほどならば、旅行の楽しみにあらで苦しみなり。急ぐ人は詮方なし。急がぬ人は京都直行の目的にても、名古屋あたりに1泊するをよしとす。泊らば翌日も途上の風景を眺めつつ行かるべし。 (シセキ)泊らずして夜に入れば呎尺も千里、近江八景を闇夜に通る無風流となるべし。1泊の利やかくの如し。それよりも余裕ありて2泊3泊ゆるゆる途中を見物することのできる身はいよいよ興味多からん。>(以下略)東海道線の新橋ー神戸までの全線が開通したのは6年前の明治22年7月1日。当初は1日1往復の運行で、片道20時間を要した。明治29年から上下各3本に増やし、その翌年から急行列車が走った。所要時間は、17時間22分、明治39年4月からは13時間40分に短縮された。(以上、参考図書は「新聞と写真にみる京都百年」岡満男著)しかし永らく鎖国をしていた島国の日本が、明治維新から僅か数年で自前の鉄道を完成させたということには、当時の欧米諸国は無論のこと、現代の日本人である私たちも、その国力、情熱、技術力に敬意を払うべきでしょうね。
2024.10.22
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〇今手元には172頁ながら和紙による装丁をこらせた京の行事を吟じた句集があります。昭和25年7月1日、頒価200圓で発刊されたこの本の選者は京鹿子社の鈴鹿野風呂翁で、流枕さんの跋にもあるように、四季の巻首を飾る画は当時病床の身の高倉観崖さんの流麗な画。春は提灯、夏はぎをんさんへ挨拶にゆく稚児の列、秋は大文字、冬は顔見世の招きと時雨の図。作品には、丸山佳子先生、先師:丸山海道、牧野浄雨、高桑義生、中田余瓶、松本三余、内藤十夜、風間八桂、中井大夢、谷口八星、佐々木一水、田中王城、飛騨桃十等のお歴々に混じって父すばるの句もあります。都踊出でて日のありはれがまし都踊見せて返しぬ預り娘やおん田植終へて仕人野路もどる木屋町もこぼれにぎはふ祇園ねり鉾の灯が鉾の形にともりけり地蔵会やはや睡き子に数珠廻しをしどりといふ髷の名もお節分節分や縁を願ひのお染髷などの句を拾っていただいています。勿論、画の観崖さんの句も多々載っていますが、当の観崖さんから頂いた軸や画つきのハガキもわが家には沢山残っています。
2024.10.21
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〇或る省庁のお役人が職員の教養講座に当時60過ぎの名妓・美智奴姐さんを呼んだそうな。会議室に6、7枚の畳を敷いてお座敷風に設え、100人もの職員の前で、若い頃の苦労話や舞踊への苦心談などを語って貰ったあと、椅子を片づけた畳の上で、加賀鳶という舞を踊って貰ったそうな。事後の労いの語らいに、「今日の畳は、足袋の裏が全然汚れませんでした。今どきはそんな座敷は数える程なんですよ」とお褒めの言葉をいただき、彼は驚いたと言います。美智奴姐さんの話では、昔の料亭では、座敷で白足袋の裏が汚れないよう、拭き掃除が行き届いていたけれど、近頃は畳が良くても廊下を歩いただけでも足袋裏が黒く汚れることも多々あるとのこと。日舞では再々足を上げる所作があるので、足袋の裏が黒いと客への礼を逸するから、今回は有難かったという次第。 美智奴姐さんの舞台となった畳を徹底的に磨くように指示したのは、総務課長さん。何でも彼は地元の旧家の育ちだから、客への心遣いを幼い頃から躾けられていたそうな。こういう些細なことにも気配りをするところが日本の文化なのでしょうね。
2024.10.20
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〇爆報「脊椎動物の寿命からすれば人間は120~140才まで生きられる筈」と或る医学者の説があります。寺川国芳さんが歯科医師の立場で研究されたお説では乳歯、第一大臼歯、第二大臼歯、高校生の頃親不知の第三大臼歯、そして24才頃で顎の関節が石灰化して完全な大人になるとか。よく噛んでから食物を喉に通せば、唾液をたっぷり浴びるので、ガン細胞が増えるのを抑える恩典に預るという次第なンです。また顎を動かせば動かすほど脳の血流が良くなるので脳卒中や脳血栓の予防にもなるとか。それに顎が動いて脳へ血液を汲み上げるポンプ役をするので、心臓の負担が軽減されるというワケ。加うるに、よく笑うと目尻が下がり、口角が上ります。すると胸腺が刺激を受けて胸線ホルモンの分泌を促すので、癌などを攻撃する免疫力を持つNK細胞を活発化することになり健康を維持できるとも。(参考・上前淳一郎著「読むクスリ」No31)
2024.10.19
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〇喫茶店で使うストローを紙製にしようと試みる運動が始められていますが、加工食品を容れるプラスチック容器や包装紙代わりのビニール袋など、石油製品の多さに愕然とします。このまま地球の資源を派手に使ってしまって良いのでしょうか?エジプトやシルクロードに見られる砂漠地帯。昔は緑に包まれた素敵な環境だったろうに・・・。子供の頃の包装用具は先ず一番に新聞紙、次にどんな形状のものでも包める風呂敷の至便性。そして夕暮れ、笛を鳴らして練り歩く豆腐屋さんには鍋や丼を予め用意していました。現在は剥き出しの商品は少なく、ほとんど全てがプラスチック製品などでくるまれています。風呂敷は幾通りもの包み方があって、日本人の智恵に感服します。それにもっと資源を大切にしないと、無味乾燥な砂漠を子孫に残す愚かを犯すかも知れませんね。
2024.10.18
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〇生白庵行風が編んだ『後撰夷曲集』から百人一首の本歌取り。巻三・秋歌 秋茄子嫁不喰といふ世話を ちぎり置し秋茄子をば姑か あはれことしも嫁にくはせず本歌<契りをきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり>(藤原基俊) 月見にはちゝと酒こそのみたけれ 我身ひとつもなるにはあらねど本歌<月みればちぢに物こそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど>(大江千里) 淡路島通ふ千鳥を肴にて いく夜ね酒をすまの関守本歌<・・・千鳥の鳴く声にいく夜ねざめぬ須磨の関守>(左京大夫顕輔) 忍れば白もやせけり我恋は 物やくはぬと人のとふまで本歌<忍ぶれど色にいでにけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで>(平兼盛)有名な曰く付きの歌合戦。壬生忠見の<恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか>が負けました。 鼻の穴はつまりにけりなかみいたう 我身よるひる咳気せしまに世界3美人の一人小野小町の<花のいろはうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに>も形無しですね。 ながらへば又新発意や忍ばれん しらがあたまぞ今は悲しき父顕輔と不和で、沈みがちな心境を詠んだ清輔の<長らへばまたこのころやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき>が本歌。「新発意」は、しんぼっちと読み、出家して間もない僧のこと。白髪頭が悲しいと。
2024.10.17
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〇父が昭和37年に買い求めた長岡京市のこの地は阪急の駅から徒歩15分、小高い丘陵地にあります。昔は竹林、名産の筍がいっぱい獲れたところだったと思われますが、何故か一等地という評価があります。書斎から天王山の稜線が見えるのがその裏づけなのでしょうか。 オトクニ この地もそうなんですが、乙訓と呼ばれる一帯は西に嵐山辺りから西山丘陵が連綿と連なり、梅雨どきや秋霖の時季には、まるで絵屏風に描かれる雲海のような雲が龍が這うように山頂や山麓にたなびいてきます。一番美しいのは 見渡せば山もとかすむ水無瀬川 夕べは秋と何思ひけんと『枕草子』に清少納言の「夕べは秋」に比して詠まれた後鳥羽院の歌で有名な水無瀬地区。そこから西を望む山容は、まるで「動く水墨画」です。乙訓一帯は雨催いの折には、絵巻物、絵屏風に描かれる雲の帯、綿菓子(綿飴)を楽しむことのできる一等地です。この地を終の棲みかに選んで呉れた父に感謝しています。
2024.10.16
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〇コアラが好むユーカリの林が山火事になった時には、何週間もかけて燃え続くようです。あのユーカリは油を多く含んでいるので、実は大変燃えやすい木。南半球のオーストラリアでは1~3月にかけての夏場に吹く風は威力があり、空気も乾いているので樹木同士が擦れることで自然発火します。それ故、異常乾燥期には戸外での一切の火の使用を禁じています。トータル・ファイア・バンという法律が発動され、公示、放送されます。タバコのポイ捨てやバーベキュウ、ゴミの焼却など一切駄目で、違反したら2年の禁固刑。ところが、火事をお蔭で、ユーカリ林に混在するアカシアは子孫を残して行くのだそうです。種子はインゲン豆のような形の固いサヤに入っていて、少々の事では種子が外へ出られないのですが、大火事のお蔭で、火に炙られて種子が弾け、地上に落下。大雨や消火によって消えたあと一斉に発芽する仕組みになっているようです。一方、地下にしっかり根を張るユーカリは、幹が黒焦げになっても平気の平左で新芽を出し、燃えカスを栄養分として育ちます。(参考・上前淳一郎著「読むクスリ(20巻)」)
2024.10.15
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〇クレハ・ホームソングの中に下記の歌がありました。 木犀匂う村はずれ 栗毛の馬と少年は いつも仲良く並んで通る 馬はたてがみ靡(ナビ)かせて 口笛ふいて 口笛吹いて 朝の風ざっとこんな歌詞だったようで、亡父もよく歌っていました。そんな木犀の匂う季節。 ロマンティックなので四季の中、一番秋が好きという人が多いように思いますが、冬への橋渡し、日増しに日暮れが早くなるばかり、寒さへの重い序曲のような季節だという理由で、私は秋にな狼に襲われる前の<赤頭巾ちゃん>の心境みたいな感じです。とは言うものの、白雲が僅かに浮かぶ、澄んだ青い空を見上げていると地球からわが身が飛び出しているような錯覚に陥ります。蛸のような吸盤で地面に固定し、傾きながらも地表から突き出ている自分の姿を思い浮かべるのです。
2024.10.14
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〇京都と言えば古色豊かで、いかにも雅の総本家のように称されますが、只単純に古い伝統だけを守り通して来ただけなのではありません。一見排他的に見える京都人の気質はプライドと謙虚さを巧く配合することに長けていて、新しい流行や文化を一旦謙虚に受け入れながら、その研ぎ澄まされた美的感覚で、都のあった処として相応しいものかどうかをプライドという秤にかけながら良いもの選別し、その良いものを京都色にリフォームしながら残して来たのだと思います。京都人に謙虚さが無かったら、単に旧いものだけを守るだけで、デッド・タウンと化した京都でしかあり得なかったと思われます。京都は謙虚さを以て、新しいもの、新しい血を受け入れ、常に住みよい、心癒される町として悠久の歴史を伝えて来ているのだと思います。 わたし達もできるだけ謙虚な姿勢を忘れないで、ここに集まる仲間の斬新的なものの考え方や感覚の優れた部分、自分の琴線に合う部分を吸収し、更に自分という原石を磨いて参りましょう。奥義を極めた剣豪は、相手の構えを見るだけでその力量が推測できると言われます。謙虚さは自分を大きく育てる大切な身の置き所なのでしょうね。
2024.10.13
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〇昨日の夕から本日の午後まで11名にて彦根荘の近江牛しゃぶしゃぶ、別室にて小野から来てくれたK君手配の酒類、おつまみ、極上の葡萄・・・遅くまで語らい、歌い、翌日は琵琶湖博物館、特に淡水魚水族館の迷路を巡り、彦根駅までの爽秋の近江平野を満喫しました。
2024.10.12
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〇駄洒落と頓智の巻物・ビックリハウス版国語辞典「大語海」の”さ”の部から摘んでみました。菜食健美=菜食は美容と健康に良いということ。再三妻子=何回も離婚と結婚を繰返して妻子を次 々と代えてゆくこと。妻三妻四=俗に言う浮気者。三三九度=三回体温を計っても三十九度熱がある こと、確実に病気である。三時制限=痩せるための必須科目。三権分立=ジャンケンのこと。雑句場乱=このビックリハウスのこと。産婦人可=四十男の花嫁募集広告文の一例。三者宅一=両親と子供一人の家庭、核家族。左右対象=乞食の場合。菜涙弾=タマネギ。サボタージュ=手を抜いて作ったスープ。更科日記=そば屋の日記。座盗一=イス取りゲーム。サルマネラ菌=他人のギャク等をすぐに真似した がり、シラケた空気をつくる人間。サロンパス=盛り場を自由に出入りできること。如何でしたか?
2024.10.11
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〇今から7年前の某日、京都駅から送迎バスに乗り、午後3時頃呂輝ド比叡にチェックイン。フランス料理、幾種類もの茶を味わいました。翌朝6時から工事中の根本中堂に向かい、朝の読経と法話を聞きました。何よりもシャトルバスでの道中で、雲海を目の当たりに見ました。その見事なこと。ガーデンミュージアム、横川、西塔など巡り、ホテルに戻り、再び送迎バスにて京都駅まで送って貰いました。
2024.10.10
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〇日増しに秋色が濃くなって来ています。ご近所には永らく放置された恰好の売地があって、いつの間にやらいろんな雑草が蔓延っているのですが、中でも犬蓼、赤まんまが目につきます。植物に詳しい或る方の記述に拠ると、「犬」がつくものには食用にならない、の意味をもつものが多く、犬胡麻、犬芥子、犬薺、犬稗、犬蕨などが挙げられます。幼い頃、原っぱから取ってきた<赤まんま>の粒つぶでままごとに耽られた方も多いことでしょう。哀しいかな、今の女児たちは茣蓙を敷いて<ままごと>遊びに更けることを知らないようで、そんな画像がインターネットから見つけることができません。それに、ママゴト遊びの小物がセットで売られていますので、子供の創造力進化の上で疑問を感じてしまいます。犬蓼の大型品種で虫刺されの毒消しされる大毛蓼もあって、花野は幼年期への郷愁そのもの。 買手無き百坪ほどが赤まんま 星子
2024.10.09
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〇某日、乾いたカンカチの出し昆布を噛んでいて、歯が砕け抜けてしまいましたが、小倉百人一首でお馴染みの藤原定家も歯の治療を受けていた事に親近感を覚えたのでした。 <歯取りの老嫗を喚(ヨ)び、歯を取らしむ> 建暦2(1212)年、51歳になると彼にも老いの様相が出てきます。元日の宴から退出した折、階段でよろめき刀を損じた事が後鳥羽院にも伝わり哄笑を買ってしまった事や、1月21日には弱くなった足腰ながら有馬温泉まで湯治に出かけたものの効果なく、2月に脚気、咳、きつい腹痛(膀胱結石?)など惨憺たる日々が続いていたようです。神経痛や腹痛に対し漢方薬「大黄」や「鹿の角」などを服してみたり、身体の7ケ所に灸をすえたり・・・。そしていよいよ8月22日には上記の抜歯の記述に至ります。 当時は歯科医など居なく、歯取り専門の老婆が居たらしく、その手法は18年後の日記(寛喜2年4月4日)から察するに、<苧(カラムシ)を付け、少年嬰児の如くに引落し了んぬ>苧(イラクサ科の多年草つまり麻の一種)の頑丈な皮で作った糸で歯を抜き取ったようです。麻だから麻酔効果があったのかも知れませんし、巻きつけて置き自然に抜けるのを待つ方法だったのかも知れません。(参考・堀田善衛著『定家明月記私抄』続編)
2024.10.08
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