私訳・源氏物語

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佐久耶此花4989

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February 6, 2006
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私がこの本を読んだのは、小学3年生のころでした。


「ごんぎつね」はどのような物語で、新美南吉はこの中で何を言いたかったのだろうと、長い間考え続けてきました。

まず、ごんは全く悪気なしに、単なるいたずらでお茶目な遊び心から、兵十の、死にかけて「うなぎを食べたい」と言うおっかぁの、最期の願いを蹴散らし、食べさせてやりたいという兵十のやさしい真心を踏みにじります。
悪気でないことの残酷さ、世間知らずの残酷さが、そこにあるように思います。

貧しい暮らしの中で精一杯孝行しようという、少しあたまの足りないような兵十という男の実直な優しさは、哀れを誘います。

きつねはその償いに、いわし屋からいわしを盗んで兵十の台所に投げ込んできます。
そこで一つ、いいことをしたと思っている身勝手なお人よし。

最後にきつねは兵十に銃殺されてしまいます。


しかし、自分の犯した罪を償うということの重さ、自分の真心を伝えることの意味の深さは、自分のいのちを引き換えにするだけの価値を要する真剣な行為なのだと、言っているのではないでしょうか。

きつねは「栗やまつたけを置いていったのは、おまえだったのか」という兵十のことばに、目を閉じながらも頷きます。
私は、きつねは安らかに死んでいっただろうと思うようになりました。

私は自分の死が無駄でないこと、翻って考えるなら、自分の人生が有意義であったなら、死を受け入れていけるのではないか・・・と、そう思うのです。
だから、哀しいようでいて、理不尽なようでいて、決してそうではない、私たちが感動して涙するのは、きつねが殺されて悲しいためではなく、きつねが自分のいのちを賭けて兵十にその償いをしたからこそ、こころを打たれるのではないか・・・この頃はそんなふうに感じています。





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最終更新日  March 8, 2017 06:26:41 PM
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