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映画「源氏物語」の前宣伝を、しかもTVで垣間見ただけなのだが、登場人物たちの立ち居振る舞いが、どうにも気になって仕方がない。
平安時代の女性は身分が高いほど、人前に顔を晒したりはしなかった。
例えば「雲井の雁」は父親に対してすら顔を隠し、映画のように女性が真正面から男性に相対することなどあり得ない。
しかも常に几帳の中にいて、たとえば光源氏と話す時にはお付きの女房によって伝えられ、二人が直接言葉を交わすこともない。
ただ須磨へ流謫する前の対面で、藤壺の宮が源氏に直接話をしたが、それは藤壺が既に出家している身だからであって、それ以外は女性の声すらも聞こえなかったのだ。
そのため男性は息を殺し、耳を澄まして女性の声を、衣擦れの音を聞き取ろうとする。源氏が、明石の上の袖が琴の糸に触れた、そのかそけき音や、身じろぎした衣擦れの音に、愛しいひとの「存在」を感じて胸をときめかせたように。
相手の女性の容姿もしぐさもかくされているのだから、この時代の男性の恋心は、妄想の上に成り立っているようなものなのだ。
それにしても平安貴族の男性は、うんざりするほどよく泣く。涙は、「あはれ」を知る感受性豊かな人間であることの証拠だったから。それにとても気取って、本音をはっきり言わず、もったいぶった話し方をしていた。
つまり現代に生きる私たちが、平安貴族の光源氏に色男としての魅力を求めるのは無理なのだ。
意思をはっきり表明せず、恩着せがましい「光源氏」という男性に、私は色男としての魅力をまったく感じる事ができない。
まして個性的な女君たちに比べると、光源氏の存在感はきわめて薄い。作者が筆舌を尽くして事あるごとに源氏を褒めたたえるのも、平面的なパーソナリティーに何とか存在感を与えようとしているからではあるまいか、と私は勘ぐってしまう。
光源氏が人格と個性をもつ、生きた男性として立体的に動き出すようになるのは、明石の上に姫が生まれたあたりから、と私は感じている。
生まれた娘を入内させようと画策し、身分の低い母親から取り上げて皇族に繋がる紫の上に養育させるという残酷な策略ができる政治家の顔にこそ、外柔内剛でしたたかな光源氏の存在感がある。
最愛の紫の上が病を得た時のうろたえ方もいい、恢復時の喜びようには身に迫る想いがあって共感を覚える。
還暦過ぎた私には、優雅でお洒落でオトコマエの、若く未熟な男より、うろたえ、後悔し、嫉妬し、苦悩する現実的な男の姿にこそ惹かれるものを感じる。
光源氏を筆頭とする男君たちが物語の縦糸とするなら、そこに絡まる女君たちこそが長編の物語を織りなす横糸といえるだろう。
個性豊かで立体的な人格をもつ横糸があってこそ、立田姫の錦がみごとに織り上がるのだから。
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