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この記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/47408248.html 国家と国歌 fwapyさんの国歌に関する記事にコメントしてから、ずっともやもやしていて、どうにも落ち着かないのです。間もなく長女の卒業式があり、都立高校の卒業式ですから、国旗が講堂の中央に高々と掲げられ、その国旗に向かって敬礼することを否が応でも求められ(学校長に敬礼をすると国旗が後ろにあるので)、その上で起立して国歌を歌うことになります。どうしても仕事の都合で参列できませんが、出れば、この状況に不快感をもちつつも、国歌を歌うでしょう。これまでもそうしてきたようにです。それは国旗国歌法で制定されたからではなくて、私が子供の頃から国旗であり、国歌だと信じてきたものだからです。その国旗と国歌に私は敬意をもっていたい。それは自分のいるこの国への敬意です。この敬意とは何かを毎年この時期に私の中で考えてきました。試されてきたと言ってもよいでしょう。ひどい国だと思います。その思いはますます強くなっています。人権侵害国家とは日本のことです。どこをどう切り取っても、まともではありません。でも、その国に生きています。国歌を歌うことは国旗を国旗として見つめること以上に、法律制定以後ははっきりとした踏み絵に変わってしまいました。立つこと、そして歌うという行為が誰の目にも映るからです。私の問題ではなくなってしまった。どうしてこんな踏み絵を踏ませるような真似を国家がするようになってしまったのでしょう。国旗に敬礼しない、起立しない、国歌を歌わない人々を処罰するというところまできてしまった。最高裁判決のでた事例は私の住んでいる街のできごとでした。どうしても伴奏できないと考える人はいるでしょう。それは職業の問題以上のもっと高次の人間としての判断でしょう。この歌わない自由を確保できない人々を歌う自由を求める人々(あるいは歌わないことをあえて選択する理由をもたない人々)が、結果的にその無知故に苦しめているということなのでしょうか。国旗と同様に国歌もまた血塗られたものだという理由で、これらのものを拒否する自由を私は奪っているつもりはありません。仮にその理由に承伏できなくてもです。またその理由を想像できないほどに無知であってもです。沖縄本島出身の私の友人は決して歌いません。「歌えませんよね」と私の横で座っている。そんなことを私に説明する必要は無いのです。どうして、みんながそんな理由をわざわざ説明しなければならないような状況になってしまったのでしょう。私も歌う理由を説明しなければいけないのでしょうか。沖縄戦の本当を私は知りません。様々な断片的な情報をつなぎ合わせて想像するだけです。私の横に今度は在日の方が並びました。歌ったことがない、その状況に思いを巡らしています。歌わないその姿勢にどうして歌わないのですかと説明を求める必要はないでしょう。在日だからですとお答えになるでしょうか。そんな簡単なことではないのでしょう。私が本当に知っている数少ない在日の人々。中学校時代に転校してきた口数の少ない同級生、担任が朝鮮人と言っては苦しめて、直ぐに転校してしまいました。通名を名乗っていて、在日の存在を初めて知ったとき、そして初めて教師を呪ったとき。休みがちになり、届け物に何度か家を訪ねたけれど、何も話さなかった。その小さな家に驚きました。彼はどんな思いで、国歌をきいていたのでしょう。大学時代の同級生、何も知らないことが罪なのだと怒っていた。差別する側と差別される側、この二分論の中で、差別される側でないものは差別する側だと吐き捨てた、そんな暴力的な言い方があるものかと感じたことを思い出します。彼はどんな思いで、国歌をきいていたのでしょう。長女が生まれて保健婦さんのお世話になりました。バイオリニスト、チョンキョンファは民族の誇りですといった笑い顔を忘れない。市役所の中で管理職になることを求めて戦い、裁判で敗れたことが地方紙面に載ったのは随分と昔のことです。彼女はどんな思いで、国歌をきいていたのでしょう。みな、今の私と同じ年回りになっています。その思いを今、fwapyさんから聞かせてもらっているように感じています。
2007.03.05
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この記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/47297560.html 君が代を歌った事がない私 starさんが [再掲]君が代を歌えない私と冬ソナhttp://blogs.yahoo.co.jp/starstory60/28871022.html のブログがありますが、私はそれを見て、↑【君が代を歌った事がない私】を思い出しました。ひょっとして、私の人生で、小学校の低学年は覚えてませんが、モノ心ついた頃から、声を出して歌った記憶はありません。ーーーーーーーーーー転載ーーーーーーーーーーhttp://easyform.net/bn/Fx.exe?Parm=ns0108!NSKiji(Aさんの書き込み)2007.2.27の判決「君が代伴奏裁判」の最高裁判決が出ましたね。こちらは地裁・高裁・最高裁と全て訴えが却下されつづけました。 来月に迫った卒業式に私たちはどう備えるべきでしょうか?もうひとつ日本で生れた9歳の女の子(父親は日本人だが認知せず、母がフィリピン国籍)の日本国籍請求にたいして、高裁は地裁判決を却下して国籍を認めない判決を出しました。人権などよりももっと大事な価値をお持ちなのは、政治家様や官僚様だけでなく司法官(判事)様も同じ穴の狢様のようです。(Kさんの書き込み)Aさん・・・日本てへんな国だね。★「君が代伴奏裁判」の最高裁判決が出ましたね。★「日本で生れた9歳の女の子」(日本国籍NO!)それに★「人権」を尊重しすぎるとメタボリックに・・・大臣発言★「イラン人娘を残して家族帰国」★「クラスター爆弾禁止」国際条約に、日本不賛同昨日、今日のニュースを見ていて、「日本はもう駄目だ!」と呟いてしまいました。 >来月に迫った卒業式に私たちはどう備えるべきでしょうか? うーん?♪君(ちゃん)が用は?千代兄(ちゃん)に八千代(姉ちゃん)に、 佐々玲(と言う名の)医師の胃は音鳴りて,苔の蒸す間で(苔がいっぱいで部屋中ムンムンしてるんだ)♪ こんな風に聞こえるけったいな歌を歌わないと処罰される国って何?世界中何処へ行っても歌わなければ罰せられてしまう歌なんて一曲も無い筈だよ。罰せられてでも歌いたくなる様な歌が国家だと好いけれど。
2007.03.04
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日本の堤岩里虐殺隠ぺいを立証する朝鮮軍司令官の日記発見 日本の堤岩里虐殺隠ぺいを立証する朝鮮軍司令官の日記発見 中央日報1919年3.1独立運動後の4月15日、日本憲兵が京畿道華城(キョンギド・ファソン)堤岩里(ジェアムリ)住民28人を集団虐殺した事件を軍首脳部が徹底的に操作・隠ぺいした事実が、当時韓半島に駐屯した日本軍最高指揮官である朝鮮軍司令官の日記で確認された。 当時司令官だった宇都宮太郎大将(1861-1922)は堤岩里虐殺直後の18日付の日記で、「幹部との会議で(住民が)抵抗したため殺りくしたものとし、(日本軍の)虐殺・放火などは認めないことに決め、夜12時に散会した」と記録したと、朝日新聞が28日報じた。 宇都宮は日記に「堤岩里で日本軍が約30人余の住民を教会に閉じ込めて虐殺・放火した」とし「事実を事実として処分すれば簡単だが、虐殺・放火を自認することになり、帝国(日本)の立場は甚しく不利益になる」と記した。 19日付の日記には、虐殺事件に関与した日本軍中尉に対し「鎮圧方法に適当でない点があり、30日間の重謹慎を命ずることに決心した」と書かれている。 問題の中尉に30日間の謹慎処分が下されたと、同紙は明らかにした。 宇都宮は独立運動が始まると、日本政府の武断統治(軍隊や警察などの武力による強圧統治)を批判し、「朝鮮人の怨嗟動揺は自然」と日記で指摘した。 また3.1運動は「キリスト教徒、民族宗教の天道教徒、学生らが主導し、外国人宣教師が後援して蜂起したもので、根が深い」と評価した。しかし抵抗が次第に激しくなると、宇都宮は「もはや姑息な鎮圧手段では到底効果を上げることはできない」とし、朝鮮総督に軍動員の承認を受けて鎮圧に乗り出したと、同紙は伝えた。 その後、宇都宮は”文化政治”(親日派育成・利用政策)導入を主張し、朝鮮人の民族運動家、宗教指導者らと会い、懐柔作業を繰り広げたことが分かった。 翌年5月には日本陸軍大臣に書簡を送り「今後は朝鮮に日本式の‘府県制’や自治を認める‘自治植民地’を作らなければならない」と提案した事実も明らかになった。 滋賀県立大の姜徳相(カン・ドクサン)名誉教授(朝鮮近・現代史)は「3.1独立運動当時の代表的な流血鎮圧である堤岩里事件の隠ぺい過程と民族運動家に対する日本の懐柔工作記録が明らかになったのは初めて」とし「従来の研究で確認されていない部分を埋める近代史の1級史料だ」と評価した。 宇都宮の日記は孫が保管していたもので、来月以降に岩波書店から刊行される予定だ。 東京=金玄基(キム・ヒョンギ)特派員 luckyman@joongang.co.kr
2007.03.02
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今日は 3・1節=サミルジョル 祖国の独立を願って… 今日 3月1日、韓国では祭日にあたります。3・1節=サミルチョル)は、1919年3月1日、日本の植民地支配に抵抗して、市民たちが韓国独立を願って行った「3・1独立運動」をたたえた祝日です。1949年に祝日に制定され、現在は韓国の4大祝日のひとつにもなっています。★4大祝日:3・1節/制憲節=憲法記念日(7月17日)/光復節=解放記念日(8月15日)/開天節=建国記念日(10月3日) 当時、民衆の間で歌われた歌がります。踏みにじられた民族の哀しい運命を花にたとえ歌とした、「ポンソンファ(鳳仙花)」という歌曲です。日本でも加藤時子が1970年代後半に訳詞で歌ってヒットしたした歌です。怨みや憎しみでない「恨」に染められたその旋律は、聞く人の胸を打つ。この歌は、当時の民心を率直に表しているといえるます。表だって批判できない植民地統治とそれに対する民衆の抵抗を軒の下に咲くホウセンカの花に託した歌で、今も歌い継がれる名曲です。http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/11/14/20051114000011.htmlhttp://tab.search.daum.net/dsa/search?w=musictab&m=track_song_more&q=%BA%C0%BC%B1%C8%AD%20%C0%BD%BE%C7%20%B3%EB%B7%A1%20%B5%E8%B1%E2&page=2&lpp=10&SortType=3 2P目の一番下が歌曲、一番上が歌謡曲です。1P目の笛の音は心の染みます。是非時間があれば聞いてみて、当時の民衆の思いに心を巡らせて見てくだされば幸いです。♪鳳仙花♪♪垣根の下に立つ 鳳仙花よ おまえの姿が みすぼらしく もの哀しい 長く長い夏の日に 美しい花になる時 可愛い 乙女達が おまえを 喜び迎え たわむれたろう いつの間にか 夏は去り 秋風が そよそよと吹き 美しい花房を 無惨にも 冒したから 花は散り 萎れてしまった おまえの姿が みすぼらしく もの哀しい 北風と冷たい風雪に おまえの姿かたちが無くなってしまっても 平和な夢を見る おまえの魂は むかしながらのゆえに 麗らかな春の風に 生まれ変わることを 願ってやまない _________________________________________三・一独立運動とは 1910年、「日韓併合」により、世界地図から「韓国」の文字が消えていった。 それから10年たった1919年3月1日、市民たちは日本の支配に抵抗し、全世界に朝鮮民族の自主独立を宣言し、平和デモを開始した。まず、正午にパゴダ公園(現在のタプコル公園)で独立宣言書が読まれ、一斉にデモが始まっていった。 武器を持たず、人々はただ「大韓民国独立万歳!」と叫んだ。そこにはあらゆる階層の人達がいた。大学生、女子高生、主婦、そして6歳にも満たない少年が父親と一緒に…。密かに作っておいた太極旗をその手に振りかざし、デモは全国に広がっていったのである。一方、独立運動に恐れを抱いた日本は武力行使をもって、すさまじいまでの弾圧を行なっていった。日本軍の弾圧により、多くの人が無差別に殺害された。この運動で命を落とした人数は7509名と記録されている。 参加者 死者 負傷者 朴殷植調べ 203万人 7509人 15961人 朝鮮総督府発表 106万人 553人 1409人 憲兵・警察官 8人 158人 韓国のジャンヌ・ダルク 柳寛順(ユ・グァンスン) 3.1運動は、この人抜きでは語れないというほど象徴的な人物、柳寛順。彼女は3.1運動が始まると在学していた梨花学堂でデモを行い、学校が休校になると故郷の天安(チョナン)に戻り万歳運動を指揮した。この時日本憲兵の発砲により父母が死亡、自身は西大門刑務所に移され、獄死した。17歳の若さだった。1962年に建国勲章を与えられている。 現在でも、3.1運動の発祥地となったタプコル公園では、運動の様子を描いたレリーフ、運動の中心になった人々の銅像や記念碑などを見ることができる。また、柳寛順をはじめとする独立運動家が投獄された西大門刑務所も歴史館として一般公開されている。 【参考資料】三・一独立運動 1919年3月1日を期して始められた朝鮮近代史上最大の反日独立運動。南・北朝鮮では今日でもこの日を記念日として重視している。第1次世界大戦以後、民族運動や革命運動が世界的な高まりを示したが、朝鮮でも独立を達成しようとする動きが一段と活発になった。1918年秋、中国東北部、シベリア方面に移住していた朝鮮人は、ロシアの革命派に協力して日本のシベリア出兵軍と戦っていた。同じころ、アメリカや上海で活動していた安昌浩、呂運亨、金奎植らのグループは、パリ講和会議に朝鮮人代表を派遣し、朝鮮独立の必要性を国際世論に訴えるため奔走していた。さらに、朝鮮内では天道教、キリスト教、学校の教師・学生の間でそれぞれ独自に独立運動計画が練られていた。初め別々に進められていたこれらの運動は、1919年に入ると相互に連絡がつけられた。1月22日に死去した前国王高宗は日本のさしがねで毒殺されたという禾がとびかい、2月8日には在日留学生が東京で独立宣言書を発表するにおよんで、独立運動促進の気運が急速に盛り上がった。最終的な運動方針は2月の末になって決められた。(1)ソウルのパゴダ公園で独立を宣言し、朝鮮全土で独立宣言書を配布すること、(2)日本政府および貴族院・衆議院あてに朝鮮併合は無意味であり即刻独立を認めるべきであるという通告文を送り、アメリカ大統領ウィルソンと講和会議各国委員には朝鮮独立を支援するよう請願書を送ること、がその要点であった。独立宣言書は崔南善が起草し、これに天道教の孫秉熙(そんへいき)、キリスト教の李昇薫、仏教の韓竜雲など計33名の〈民族代表〉が署名した。ひそかに印刷された2万1000枚の独立宣言書が宗教者や学生たちによって全国に運ばれた(各地ではこれを元にした別の宣言書が作成されたこともあった)。こうした大がかりな準備が〈水も漏らさぬ〉と豪語した日本の官憲の眼をぬすんで成功裡に進められた。 3月1日、運動はまずソウル、平壌、大邱、開城などの主要都市で始められた。ソウルではパゴダ公園に集まった学生たちが正午の鐘を合図に行動を開始した。彼らは独立宣言書の朗読を終えると太極旗(大韓帝国時代の国旗)をうちふり〈独立万歳〉を高唱しながら街頭に出た。これはたちまち数万の群衆が参加する大規模なデモとなった。それ以後各地の運動は大衆の集まりやすい市のたつ日に合わせて行われ、3月中ごろからは朝鮮全土が反日独立運動のるつぼと化した。わけても農村部の運動が激しかった。1918年に終了した朝鮮土地調査事業によって、朝鮮の農村は日本人地主や親日的な地主たちが支配するところとなった。また、大戦中に日本の工業の成長を支えるために綿花や桑苗の作付強制がなされ、朝鮮米が大量に持ち出された。農民たちが面事務所(村役場)を襲い、土地台帳や作物の供出簿を焼きすてたのはそのためであった。ところが、日本の支配層はこの運動を徹底的に弾圧した。憲兵・警察のほかに正規軍をも投入した鎮圧作戦によって、水原の堤岩里事件(4月15日29名虐殺、近辺の死者は1000名を越した)、天安事件(4月1日並川市場でデモ隊20名射殺、〈朝鮮のジャンヌ・ダルク〉柳寛順が逮捕され獄死)、定州事件(3月8日デモ隊、市民120名余を無差別殺戮、民族代表李昇薫らの家宅破壊さる)などが相ついで引き起こされた。 この運動は多くの犠牲者を出して終わったが、その影響は大きかった。世界大戦の戦勝国に対する闘いとして、同年のインドの非暴力運動(4月)や中国の五・四運動(5月)の先がけとなり、また、日本の植民地支配者には深刻な打撃を与えた。学校教師が帯剣して授業することや憲兵警察制度は廃止せざるをえなくなった。制限つきではあったが、朝鮮人は集会・結社の自由や言論の自由をかち取った(翌年《東亜日報》《朝鮮日報》などが発刊)。朝鮮総督の長谷川好道は更迭されて斎藤実が第3代総督となった。斎藤は、非妥協的民族主義者を除外して自治派などの妥協的民族主義者をとりこむという朝鮮民族の分断を策して〈文化政治〉を唱えたが、三・一運動を経験した朝鮮人はさまざまな組織を作って頑強にこれと闘った。労働運動、農民、女性、青年などの運動や衡平運動(朝鮮の部落解放運動)などの大衆運動は、三・一運動をその出発点として本格的に展開されることになった。国外では4月10日、多くの独立運動家たちが集まって、上海で大韓民国臨時政府が組織された。それは亡命政府ではあれ、朝鮮最初の共和政体の登場を意味するものであった。なお、柳宗悦などごく一部の日本知識人は三・一運動の本質を理解したが、多くはアメリカ人宣教師の扇動による暴動とみるなど無理解であった。(馬渕 貞利)平凡社大百科より
2007.03.01
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