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『人 ニ ハ 1 一』 この意味↑、分かりますか? 友人の大阪案内人のプリントの入ったTシャツ(ヨレヨレでしたが・・) 大笹 吉五郎の墓石と詩碑人 ニハ|(芯棒=辛抱)一読み方は「人には芯棒(辛抱)が一番」昨日、京橋(大阪)のフールドワークに行ってきました。 大阪商人の大笹吉五郎の墓が京橋駅の京街道筋入口付近にありました。大正時代の証券相場師で、世界大恐慌のため、全ての財を亡くしたましたが、唯一、子孫に残したのがこの家訓だと伝えられています。「人には(芯棒)辛抱が一番」と掛け合わせています。辛抱の「辛」の字は一本足を両手で均衝をとり重荷を頭に乗せてジッと辛抱の姿です。土中から芽を出す為、熱と力と意気を持てば「幸」(しあわせ)の字だとも。「人ニハ1一」を組み合わせると「金」お金になります。「あなたは何の為に働いているのですか」と問われ、「お金の為」と答え、「乞食だ」と叱られた人がいました。 若いときは誰でも、そう思いがちです。 人の為に辛抱して働けば後からお金が回ってくるという心境になれたら 大阪商人の第1関門のハードルを越えたといえます。 人という字は、倒れかかった二人がお互いに支え合っている姿。 人間の本質を究めて「真の大阪商人」を目指したいと常に思っています。 私が師と仰ぐ商売の大先輩に若い頃「船場小学校に入学は出来るが、中々卒業できないぞ。」と言われた言葉は今も心に沁みてます。 父が亡くなる直前「自分の為に生きるな。人の為に生きろ!」,「人に泣かされても人を泣かすな」の言葉を肝に銘じつつ生きていますが、近頃は、「親を勝る子は無なし」の諺に「なるほどな~」と、納得する毎日です。
2007.05.27
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『風の島~済州』 柳銀珪(Ryu Eunkyu) ソウルから汽車に乗って木浦に着き、そこから船で済州島に渡った。そのとき私は20 才で、大学で写真を学んでいた。済州の港の検問はやけに厳しくて、「遠いところにやって来た」という実感がわいてきた。今から25年前の済州島は、韓国人の新婚旅行先として人気を集めはじめたところで、海辺の風光地では観光客を目当てにした開発が行われていた。しかし私の関心は、人々の暮らしの方にあった。島の人々は、海辺から少し離れた村に住んでいた。そういう村はまだ、観光開発とは無縁の素朴な場所だった。島の人々は、私が聞いてもわからない言葉で互いに話をしていたが、私には標準語で話しかけてくれた。私は一人で村人の家に何日も民泊するうちに、済州島の人々のあたたかさに触れ、どんどんこの島が好きになっていった。2 年の間に数度、私は済州島に渡った。観光地には行く気がしなくて、ただ村の人々の暮らしを撮り、村から見える風景を撮った。済州島には、いつも風が吹いている。強い風に吹かれながら、人々は暮らしを営んできた。華やかに変貌をとげた今の済州島に吹く風は、25 年前と同じだろうか。なつかしい写真を整理しながら、私は島の人々や風景を思い出している。この写真の中に吹いていた風を、心に感じながら……。※柳銀珪写真展 『風の島~済州(チェジュ)』ギャラリー渡来大阪市生野区桃谷4-5-15 班家食工房2階10:00~18:00(休館日なし)TEL:06-6718-1100※柳銀珪写真展 『変わるものと変わらないもの~青鶴洞(チョンハクドン)』6 月3 日~6 月9 日ビジュアルアーツギャラリー大阪市北区曽根崎新地2-5-23TEL:06-6341-4407※シンポジウム写真の国際交流を考える「東アジアの写真~韓国・中国~」講演:柳銀珪6 月3 日(日)14:00~16:30ビジュアルアーツ専門学校 新館3 階 アーツホー
2007.05.26
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5月24日は、お釈迦さまの誕生日でした。『お釈迦様の来られた日』と言って、韓国では祭日です。 韓国に仏教が伝来してから1600余年。仏教徒が専らを称えて来た節日が陰暦8日(4月 8日)でした。今でも、韓国では=チョパリル=『初八日』と呼んで盛大な行事を行います。お寺や家中に火を燈し、蓮の花の提灯を飾り、家内安全、泰平を祈願するのは、今も昔も変わらぬ習慣です。家から遠く離れた山寺は初七日夜に明かりを燈し、都市近郊のお寺では陰暦8日の夜に燈をつけます。昔は提燈行列をするのが 4月陰暦8日を祝う行事とされていました。朝鮮半島で、新羅と高麗に根付いた仏教は”国教”として国全体の文化、因習として定着しました。そんな意味もあっって4月の陰暦8日は仏教の節目でもあります。李朝鮮時代、儒教が国教となり、山の中に寺院が追いやられ、為政者によって迫害されますが、多くの庶民の手助けによって400年以上の間、細々と、仏教と寺院は守られてきました。こんな”ねじれ現象”が今日の様に変則的な釈迦誕生日になってしまった由縁でもあります。現に、近年、祭日となったといえ、多くの仏教国ですら釈迦の誕生日が統一してないことを受け、韓国でもこの日の名称が公式的に決まったことがありません。”4月初八日、 釈迦生誕日、仏誕節、 仏誕日、釈迦誕生節(釈誕節)、尊降誕節”などと未だに混乱してるのが実情です。釈迦誕生は、その時、龍が天から飛来して、香湯をそそいだという故事に基づくものですが、本来は旧暦で行われるものですが、日本では近年は新暦で、又は、それに近い日曜日に行われることが多くなってきています。これは余談ですが、韓国で法定祝日となっったのは、クリスチャンが急速に社会全体に増え、クリスマスが法定祝日となっていることから、一つの宗教だけを特別扱いしないための配慮であったといわれています。今年も、「釈迦誕生日」に、648人の囚人が恩赦により仮釈放されるほど韓国では大切な日でもあります。記事 2007/05/24 Updatedソウル中心部にある曹渓寺など、全国各地のお寺では、釈迦の誕生を祝う法要が行われました。盧武鉉大統領は釈迦誕生日に合わせて国民にメッセージを送り、「韓国の歴史の中で、仏教は国難を克服し、国の発展に大きく寄与してきた。これからも先進韓国を作り上げるため力を合わせよう」と呼びかけました。また、北韓の仏教の総本山とされる平壌市の広法寺でも、釈迦の誕生を祝う法要が行われ、曹渓寺と広法寺では、南北の仏教界が共同で採択した祈願文が朗読されました。一方、ソウルの城北区にある慶国寺では、仏教のほか、キリスト教などほかの宗教の合唱団も参加して、釈迦の誕生を祝うイベントが繰り広げられました。 「釈迦誕生日」を迎え、23日午前10時模範受刑者648人が特別仮釈放される。法務部は収容生活がまじめで、出所後再犯の可能性がないことが認められる受刑者たちを仮釈放対象として選定したと明らかにした。今回の仮釈放対象者には、毎月定期仮釈放に含まれない10年以上の長期受刑者48人と、収容生活が困難であることが判断される高齢者と患者など老弱受刑者74人が含まれた。『仏教関係HPからの抜粋』この3つの日を「三仏忌」といい、具体的には次の3つです 4月 8日 釈尊降誕会(ごうたんえ=誕生の日)12月 8日 釈尊成道会(じょうどうえ=悟りを開いた日) 2月15日 釈尊涅槃会(ねはんえ=入滅された日)ところが、この日付で降誕会の行事を行う国は日本・韓国・朝鮮・中国など大乗仏教の国の一部であります。これは、例えば釈尊降誕の日を、『ブッダチャリタ(Buddhacarita)』(=『仏所行讃』)の「4月8日」をそのまま太陽暦に当てはめてしまっていてこの月日したとか、その程度の理由だと思われます。ちなみに、ヴェサック月(太陽暦の5月付近)を元に降誕会を ヴェサック月の第8日成道会を ヴェサック月の満月の日涅槃会を ヴェサック月の満月の日とする資料もあり、スリランカなどの上座部仏教国のように、ヴェサック月の旧暦15日(満月の日)に三仏忌(降誕・成道・涅槃会)を一度に行ったりする国もあります。そこで、各国の祝祭日を元に、釈尊降誕の日がいつなのかを調べてみました。ヴェサック月の日付は太陽暦に直すと毎年変化しますのでご了承ください。昨年の月日を基にしています。タイ 6月2日 仏誕節 Wisakha Bucha Day バングラデシュ 5月3日 仏誕祭 Buddha Purnima (月齢により変わる) 香港 5月26日 仏誕 The Buddha's Birthday インド 5月4日 釈迦誕生日 Buddha Pournima インドネシア 6月3日 釈迦記念日 Libur Hari Raya Waisak 韓国 5月26日 釈迦誕生日 Budda's Birthday マレーシア 5月3日 釈迦誕生日 Wesak Day スリランカ 5月4日 5月5日 ヴェサック満月祭 Vesak Full Moon Poya Day ヴェサック第二日 Day Following Vesak Full
2007.05.25
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「パッチギ!LOVE&PEACE」(パッチギ2)が封切り! 仕掛け人、シネカノンの李鳳雨氏とは・・ その佐藤栄作首相がノーベル平和賞を受賞したのが1974年10月。ノーベル平和賞について興ざめし、平和の二文字に絶望した時でもありました。 『パッチギ! LOVE&PEACE』にはこの日の新聞が出てきます。そしてこの映画が始まります。【映画】『パッチギ! LOVE&PEACE』 http://www.walkerplus.com/tokyo/latestmovie/report/report4880.html【挿入曲=イムジン河の記事】 http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/trackback/1466000/42722034この映画を配給したのがシネカノンで、その代表が在日の李鳳宇氏です。昨年の1月にソウルの明洞に日本映画を上映する映画館をオープンされましたが、そこで「上映したい日本映画はどんなものですか」という質問に、「日本人というのがどういうものかをわかってもらえるような映画を上映したいと思います。」と答えてました。配給会社シネカノン代表の李鳳雨さんは、「映画が好きでたくさん作りたいなら、監督よりもプロデューサーになるべき」という言葉のとおり、初プロデュース作の『月はどっちに出ている』(1992年)=在日監督、崔洋一(チェ・ヤンイル)監督、以降、精力的に製作を続けています。自ら作品の原案を練ることも当たり前、の映画プロデューサーです。去年の『パッチギ!』に続き、今年は『フラガール』も大成功。配給では、最初の作品となったK・キエシロフスキーの『アマチュア』以来、これまで国内外150本以上もの作品を扱ってきたそうです。また、韓国と日本の映画交流の立役者であることも忘れてはいけません。現在は渋谷、有楽町、神戸、ソウルに直営映画館を持ち、興行主としても頼もしい存在です。巧みな話術で、もう、ほんとに引き込まれてしまいます・・・面白おかしく語った先には「これって映画になるでしょ?」という思惑が。こんなに面白く語られたら、スポンサーも気持ちよく出資できるってものでしょう。私の好きな韓国映画を日本に紹介してくれたのも、シネカノンでです。林権澤監督の作品、『太白山脈』、『風の丘を超えて─西便制』、『祝祭』、『春香伝』。これらの作品がすべて小説を原作にしています。ニック・パークの「ウォレスとグルミット」やエドワード・ヤンの「麻将(邦題:カップルズ)」を日本に紹介したのもシネカノンです。ちなみに吉祥寺の「諸国空想料理店 KuuKuu」跡地にオープンした「韓国百菜食堂 minari(みな李)」は、シネカノンの経営だそうです。(東京在住の方、知って増すか?)日本観客100万人突破という驚異的な記録を立てた「シュリ」。その裏にはシネカノンの果敢な広報戦略でシュリ神話を作り上げた結果とも言えるでしょう。「輸入当時には50万人ほどだと予想した」と話し始めたイ・ボンウ氏は「封切られる前の8カ月間徹底的に準備をしたのが功を奏した」と分析。「日本人の中で、既存の韓国映画ファンは40代の知識人層。それより多くの年令層の関心を集めるのが第一の課題だった。韓国映画はレベルが低い、アートムービーしかないという日本人の偏見も障害物だった。広告料だけで3億円を使った。大冒険だった。”韓国映画といって見下すな。こんな映画もあるぞ”」という基本的なコンセプトで大々的な物量攻勢を浴びせ、その結果今まで映画館の収入総額が14億円。その後ビデオの版権2億円が追加されテレビ版権もけっこう得られたとのことです。しかしシュリの成果はこれだけではないとも言われています。 シュリ以降、今、日本には韓流ブームが起きました。映画だけでなく韓国文化全般に対して関心が高くなったのも周知の事実です。。日本の配給業者の態度も180度変わり、韓国映画なら無条件で契約するという映画館の社長もいたほどです。韓流がれ去ったと言われ、韓国内でも邦画の入場者が37%も減ったといわれる中、このパッチギが韓国内で人気なのも何か皮肉な現象だといえるかもしれません。氏は「パッチギ」の舞台となった、京都の朝鮮高校出身で、自身の経験を交えた作品とも言えます。映画の中での加茂川は当時、向こう岸は日本人の暮らす街。そしてこちら側は在日が暮らす「バラック小屋」の集落。それをそのまま表現したかったと話してました。(私とは友人を通しての知人)映画の中で、棺桶が家に入らない時、木づちで入り口を壊す場面は、「幼い頃、筋ジスで亡くなった一回り上の兄の葬儀の時、父が泣きながら壊した情景」だったそうです。「人物をできる限りあぶりだす事で、その時代背景が浮かび上がると思います。私は映画の中で、お涙頂戴!と言う映画は作りたくありません。笑いの中から、自然と出てくる悲哀の涙、それを観客に訴えたいんです。」その言葉の中には私が話す、「在日を見れば日本が見える。」の言葉がそのままリアルに表現されてると思います。回の二部作品も「亡くなった兄の病気を治そうと全国の病院を走り回った家族の思い出」だそうです。皆さんも是非、この映画に足を運んでください。そして、まだ、一部の作品を見てない方は、是非、レンタルビデオで鑑賞してみてください。http://www.youtube.com/watch?v=Ab5v8gDs6ec 井筒監督 政治思想を辛口に語る。書籍紹介 映画『パッチギ! LOVE&PEACE』のすべてがわかるサブテキスト。 書籍名 : 愛、平和、パッチギ! 著者名 : 井筒和幸/著 李鳳宇/著 出版社名: 講談社 発行年月: 2007年5月 価格(税込): 1,600円 目次 第1章 HISTORY2つの李家の物語(李鳳宇)歴史なしには平和も未来も語れない(井筒和幸)第2章 TALK(姜尚中×李鳳宇対談)済州島で、日本で考えた東アジアと僕たちのこと(加藤和彦×井筒和幸対談)『イムジン河』から『あの素晴しい愛をもう一度』へ第3章 MAKING撮影日記「今日も明日も編集室」(井筒和幸)プロデューサー日記「今日までそして明日から」(李鳳宇)
2007.05.24
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安倍ー岸 信介、麻生ー吉田 茂=つまりは、孫より祖父が犯罪的である。 安倍、麻生の祖父は改憲論者 『祖父の血』(佐高 信) (1)『現在および将来の日本の食糧事情からみて、余分な人口の維持は不可能であります。米国の好意により、日本は大量の食糧を輸入しており、その一部を在日朝鮮人を養うために使用しております。このような輸入は、将来の世代に負担を課すことになります。朝鮮人のために負っている対米負債のこの部分を、将来の世代に負わせることは不公平であると思われます。』 (2)『大多数の朝鮮人は、日本経済の復興にまったく貢献しておりません。』 (3)『さらに悪いことには、朝鮮人の中で犯罪分子が大きな部分を占めております。彼らは、日本の経済法令の常習的違反者であります。彼らの多くは共産主義者並びにそのシンパで、最も悪辣な種類の政治犯罪を犯す傾向が強く、常時7000名以上が獄中にいるという状態であります。』 この3項目は石原慎太郎の発言ではない。敗戦まもない1949年に、時の首相、吉田茂がGHQ最高司令官のマッカーサー宛てに出した、在日韓国・朝鮮人の母国送還を求める書簡である。『朝日新聞』論説主幹の若宮啓文が『和解とナショナリズム』(朝日新聞社)に書くように「驚くような差別と偏見に満ちた書簡」であり、さすがにGHQも受け入れなかった。 そもそも吉田が朝鮮に対する植民地支配について何の疑問も持っていなかったことを、若宮は次のエピソードで示す。 韓国の駐日大使を経て外相になった金東祚は、日韓条約締結の翌年に吉田と会い、吉田から、「奉天総領事のころ、しばしば朝鮮を訪れたが、朝鮮総督府がいかに善政を施しているか、総督の口からいろいろと話を聞いていた。なのに韓国はなぜこれほど日本を嫌い、反日だ反日だというのか」と言われる。 金は即座に、「アメリカの占領下で苦労した吉田さんとも思えない言葉だ」 と切り返したが、吉田はピンとこない様子だったという。 現外相、麻生太郎の『創氏改名は「朝鮮の人が望んだ」』という発言は、この祖父の血をまっすぐに受け継いでいる。政敵、石橋湛山の公職追放に関わった吉田は、まっとうなリベラルとは言えない。岸信介の孫の安倍晋三も問題だが、つまりは孫より祖父が犯罪的なのである。。 週刊金曜日 ウソ発見誌より
2007.05.23
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互いを認め合う!夫婦って・・・。5月21日は 『夫婦の日』 韓国では5月21日は『夫婦の日』です。21日は、ふたつ(2)が一つ(1)になるという深い意味を込めた日とも言われています。韓国で家族の月とされる5月子供の日5月5日、父母の日5月8日、先生の日5月11日、成年の日(成人式)5月の第3月曜日、そして1995年に制定されたのが夫婦の日です。夫婦の日の始まりは、1981年アメリカで始まりました。“'世界結婚記念日”を韓国式に変えたものです。韓国内で1995年からキリスト教を中心に記念である制定運動が展開され、その目的は夫婦関係の絆を再認識させ,睦まじい家庭を掘り起こすのにあるといわれています。言い換えれば夫婦の日は核家族時代の家庭の核心である夫婦が睦まじければ青少年問題、高齢化問題など各種社会問題を解決することができるという考えで出発した法定記念日です。しかし、祝日ではありません。結婚した夫婦は良かれ悪かれ次のような七つの峠を越えなければならないとされています。第一峠(幻想の峠)新婚から 3年頃かかって過ぎる峠で,いろいろの難しさを夢うつつに笑って泣きながら越える 涙峠第二峠(妥協の峠)結婚後 3-7年の間にお互いに現われた短所に対して妥協する心で、危ない倦怠期を越える 生汗峠弟三峠(闘いの峠)結婚後 5-10年の間、本当の相手を知った次に互いが自分と闘って相手を包容する、めまいがする ビモング峠第四峠(決断の峠)結婚後 10-15年が経ち、相手の長所、短所を現実で認めて補助し合い、それを繰り返する むなしいタイヤ峠第五峠(別に峠)結婚後 15-20年後に生ずる病気で一緒に暮しながら精神的に家庭内離婚の様に、別々に自分の生を諦めながら越えるアリラン峠第六峠(筒である峠)今まであった全てのものをお互いに覆って新しい気持で献身と責任を持って相手のために残った人生を捧げながら暮す 下り坂峠第七峠(自由の峠)結婚後、20年が経ったって現われる完熟の段階。努力しなくても互いが気付き理解して幸せを分かち合う 天堂峠★この運動を韓国で起こしたのはバラを抱えた牧師として有名なキリスト教の牧師グォン ジェド氏です。牧師は10年前子供の日に、TVに出演した子供が 別居中の両親について、「私の願いはパパとママが一緒の家で暮らす事です。」と言うシーンに衝撃を受けて夫婦愛キャンペーンを決心したといわれています。牧師は愛情表現が下手で、ぎこちない夫婦に対して、21日の夫婦の日に、バラの花をプレゼントすることから始めて見なさいと勧めています。ご主人は妻に情熱の意味で赤いローズを,妻はご主人に愛と尊重の意味を兼ねてローズピンクのバラをプレゼントして恋愛時代の暖かい心を思い出して下さい呼びかけています。牧師が提案するもう一つの方法は連れ合いに送る手紙です。『去年開催された “夫婦キャンプ”で手紙を書いて朗読する時間があったが皆、感動して涙した。』と話しています。『誤解を招く即興的な言葉を百並べるより、自分の心情をたんたんと綴った短い手紙一枚のほうが夫婦の間に積もり積もった高い壁を崩してくれる。』とはなしてます。クリスチャンが多いソウルの教会では、“夫婦で歩く大会”に始まりに“夫婦フォークダンス”、“私の主人・妻の3分間スピーチ”、“夫婦で愛の告白”、“夫婦で愛のカード送りあい”など夫婦が参加するイベントが目白押しです。いかにも韓国らしい“情”の社会が映し出されたニュースでしたので、書いてみました。自分自身に置き換え、反省したり、考えさせられた記事でした。
2007.05.21
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http://search.daum.net/cgi-bin/nsp/search.cgi?nil_profile=g&nil_Search=sugtop&sw=tot&q=5.18+%B9%CE%C1%D6%C8%AD+%BF%EE%B5%BF1961年5月16日、 軍事クーデターを通して権力を掌握した朴正煕軍事独裁政権は己の権力を正当化するために経済成長に邁進し、幾たびの民主化運動に対し”反共”を旗印に、何度となくスパイ事件を捏造し、強権弾圧で国内世論を押さえていました。そんな中での低賃金政策は経済成長のための必須条件。維新憲法と緊急措置は民主化運動勢力を圧殺して政権を維持づるための手段でした。それにもかかわらず、民主化運動は耐えることなく、全国的に広がっていました。そして、その力の政権は遂に限界に到逹し、朴正煕軍事独裁政権は 1979年 10月 26日朴正煕大統領自身の腹心である金載圭中央情報部長の銃弾によって幕を閉じました。しかし朴正煕政権の時代から軍部内で自身の勢力を蓄えてきた全斗換を主軸にした新軍部は、民主化過程の過渡期に乗じて自分たちの集権シナリオを準備して、どんどん政権中枢に上り詰めて行きました。12月12日、軍事反乱によって権力を掌握した後,当時噴出していた全国民の民主化熱望を抑えるためには民主化運動勢力と野党の力抑え込むのにあらゆる謀略を練ります。そのターゲットになったのが全羅道=光州だったのです。民主化運動が活発に展開されて来た所で野党の力が最も強く、大衆の絶対的支持を受けていた金大中(キム・デジュン)の政治的故郷がここ、全羅道光州だったのも大きな要因のひとつです。 全羅道光州は1970年代朴正煕軍え事独裁時代から、その”身代わり”りだったとされるぐらいに、政敵である金大中の政治的地盤であるのと、韓国社会の地域対立の象徴的な差別構造から、国内的には徹底的に疏外され、経済では立ち後れていました。しかし全羅道地方は国と民族の将来のために命を賭けて闘って来た民主闘士の故郷でもありました。最新鋭の機甲部隊を投入して無差別殺戮を行った全斗換新軍部勢力の虐殺蛮行に対して一歩も退かないで市民全体が一丸となって抵抗した歴史の事実は精神的側面、社会経済的な側面からみても、ごく当たり前の出来事だったかもしれません。結果として、軍の鎮圧によって5・18民衆抗争は学生、市民の多くの犠牲をもたらしましたが、その後の、韓国における1987年の民主化に大きな影響を与えたのは周知の事実です。ちなみに、当時、政府の転覆を狙ったとして、このデモの首謀者としてでっち上げられ、裁判で死刑宣告を受けた金大中氏は国外退去を引き換えに刑の免除を受け、後日、政権のトップである大統領になったのは「奇跡の大統領」としてあまりのも有名です。そして、その後の良心的な民主運動家や市民運動によって殺戮魔『全斗換一党』を歴史の審判台に立てることでこの5月18日を光州民主化抗争といして、正当性を韓国のみならず、全世界に知らしめた記念すべき日となりました。
2007.05.18
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たった1時間半の距離を走るのに『100年/半』かかった。 京義線で南側列車がトラソン駅を出発し、北に向かう途中、軍事境界線の通門を開けて走る歴史的な瞬間 今日、朝鮮半島の南北を隔ててる38度線の軍事境界線を56年ぶりに鉄路が結ばれました。記念すべき56年ぶりの往来です。日本のニュースでも流れていますが、韓国のニュースでは、『たった1時間半の距離を走るのに100年/半』がかかった、と皮肉って報じてました。しかし一方、年老いた北から越南してきた人々(韓国では失郷民といい全人口の10分の1に相当します。)を思えば、喜んでばかりはいられません。 韓国政府内の支持姿勢に対する甘さに国民の批判もあり、たった1回の試験運行の為に、 8000万ドル相当の軽工業資材物資と米を北朝鮮に援助(上納?)しなければならない.あまりにも大きい試験運行費用だとも思えます。 イムジン河を渡る統一列車 http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/42722034.html ここまでして北朝鮮を助けなければならないか?助けてもらう北朝鮮は横柄な態度に終始し、援助する側の韓国は回りの事情を察して事の成功だけに奔走する始末。あまりにも荒唐な取引関係だと言えるかも知れません。・・・と思うのは私だけでしょうか? 朝鮮戦争前夜の冬の京義線それでも、朝鮮戦争から56年ぶりに結ばれた鉄路を使って大量の人と物資、文化が行き来する日が来ることを願いつつ、「平和への第一歩」が歩みだした事実を素直に喜ぼうと思います。
2007.05.17
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