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「夢にも思わなかった」 紫綬褒章のつかこうへいさん・・・ 劇作家、つかこうへい氏が17年前に書いた「娘に語る祖国」の本を私は大切にしています。当時、同じ立場で「自分は娘に何を語れるのか?」と、この本を前にして自問自答したのを思い出します。本の中では歴史認識において私とは立場の違いも感じましたが、最後の部分で「人間の業というか、こういう難しい問題は、自分の娘に語るようなやさしい口調で、一つひとつ説いていかなければ伝えられない。人は、人をうらむために生まれてきたのではない。歴史は優しい穏やかな目で見るべきではないか」とある部分に私なりに共感を覚えました。しかし,2作目の「娘に語る祖国『娘に語る祖国 「満州駅伝」─従軍慰安婦編』(光文社,97年3月刊)の「従軍慰安婦問題でパパが誤解していたこと」という部分にると,「実はね,パパはいろんな人に取材をしたんだけど,従軍慰安婦の人たちは必ずしも悲惨じゃなかったんだ」そして、「パパは作家として,国としての歴史的事実よりも,一人の人間の小さな事実,その時 のその人の心の動きに興味があるのです。・・・と、ここまでくれば???違うんじゃないか?と嫌悪感すら感じました。今回の受賞を素直に喜ぶべきなのか?それとも右翼と言われる埼玉県の上田知事すら引用するこの2作目の内容が”本来の演劇での受賞と同時にマイナス要因にならなかった”と色眼鏡で見てしまうのは私だけでしょうか?カミングアウトした在日が、一歩でもお前に進む事が大切だと思い記事にしてみました。つかこうへい氏のHPにはこんなコメントが載せられている。つかこうへい 紫綬褒章受賞『私は韓国人であり、日本に国籍がございません。このような大切な褒章を受けるということは思ったこともございませんでした。私の両親は、もう二人とも亡くなりましたが、戦時中、日本に参りました。生きていれば、この栄誉をきっと喜んでくれたと思います。本当にありがとうございました。』 つかこうへいつかこうへい=本名:金峰雄(キムボンウン)春の褒章西日本新聞「韓国人の励みになれば」、「夢にも思わなかった」 紫綬褒章のつかこうへいさん談 紫綬褒章を受章した劇作家で演出家のつかこうへいさん(59)は在日韓国人。「日本の戸籍がないので、夢にも思わなかった。両親は亡くなっていますが、生きていたらきっと、喜んでくれたでしょう」としみじみと喜びをかみしめた。 大学在学中に演劇活動を始め、「熱海殺人事件」や後に小説版が直木賞を受賞した「蒲田行進曲」などを次々と発表。1970-80年代、若い世代の圧倒的な支持を集めた。 一方で俳優や劇作家、演出家の育成にも力を注いだ。94年に「北区つかこうへい劇団」を旗揚げし、小西真奈美さんや黒木メイサさんら人気俳優を輩出。「いろいろな役者を育ててきたことも評価されたと思います」 夏に各地で上演する「売春捜査官」は、娘が父である総理大臣を弾劾する物語。「権力と闘う姿勢はこれまで通り変わりません。弱者の目線で、ものづくりを続けていきたい」 2007年04月28日身を削って芝居で闘うhttp://ch-k.kyodo.co.jp/17kyodo/backnumber/backnumber2001/job/job03.html4月25日の演劇批評です。【演劇】北区つかこうへい劇団 ★北区つかこうへい劇団「売買捜査官~女子アナ残酷物語」 (北とぴあ・つつじホール@王子)木村伝兵衛部長刑事は東京警視庁でただ一人の女性捜査官として事件を解決してきた。そして今回の「容疑者大山金太郎が幼なじみで女子アナに憧れる山口アイ子を痴情の果てに絞殺した」一見単純な「熱海殺人事件」にはなぜか巨悪がちらつく。長崎県の原子力発電所に勤めていた大山金太郎は被爆していたのだ。何故なのか?禿げた上にホモセクシャルであることに悩む部下・万平の制止を振り切り、部長は敢然と真相に切り込む。そして国家権力に一歩もひかず立ち向かっていく部長の元に赴任してきたのは元恋人の熊田留吉。二人は長い時を経て誤解を解き、思いを通じ合わせる。しかし熊田に課せられた本当の任務は・・・そして大山金太郎の殺意の真相は、売春の元締めをすることでしか日本で生きる場所を見つけることの出来なかった在日朝鮮人・李大全と、六本木ヒルズの住人と合コンをする女子アナに憧れる女の悲痛な叫びがあった。はたして部長の戦いはどのような結末を迎えるのか!?桃組を観劇。若手公演だったけど、当初は「若手ふるい落とし公演」と冠がついていた公演で、劇団の方針が「ダメなら即クビ」だから、皆、フルパワーで熱演していましたね。滝のようにしたたり落ちる汗、久々に観たな・・・作品も2006年版に手を加えており、観やすくなっていたし・・・これで千円。かなりお得な公演です。つかこうへい=本名:金峰雄:直木賞作家。 1948年4月24日生まれ。福岡県嘉麻市(旧嘉穂町)出身。A型。慶應義塾大学文学部中退。在学中から作品を発表。在日韓国人であり、金峰雄という本名を持つ。 ■受賞作18回岸田国士戯曲賞(昭和47年)「熱海殺人事件」 第14回ゴールデンアロー賞演劇賞(昭和51年) 第28回キネマ旬報賞脚本賞(昭和57年)『蒲田行進曲』《脚本》 第6回日本アカデミー賞最優秀脚本賞(昭和57年)『蒲田行進曲』《脚本》 第42回読売文学賞戯曲賞(平成2年)『飛竜伝'90』《戯曲》
2007.04.30
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今こそ、1948年(昭和23年)4月24日、阪神教育闘争を思い起こす。 長い文ですが時間がありましたらお読みください。決して、過去の出来事を賞賛したり、評価しようとするものではありません。今、この時だからこそ、一人でも多くの人に”教育”について、そして、在日の人々が何故民族教育に対してこれ程までに拘りを持つのか。それが決して思想信条では無い部分を知ってもらい、これから先を考えたくてアップしてみました。1945年8月15日の解放(終戦)後、南にはアメリカ軍が進駐し軍政が布かれます。又、北にはソ連が入りで38度線が引かれました。南が今の韓国。左右の対決、例えば先日の4.3にアップした済州島の4・3事件等が方々で起こり、在日が帰るに帰れない状況が生まれきました。4・3事件は、済州島ので20万の人口で3万とも8万とも言われる島民が犠牲になりました。済州島だけでなく麗水・順天等々で1945年解放直後から、1950年、いわゆる朝鮮戦争が始まるまで、それは、めまぐるしく情勢が変化します。それでも帰国しようとした時、、マッカーサーの率いる当時の占領軍は、朝鮮人が持って帰る荷物は30貫、そして所持金は1000円(当時の金額ですが、)、ともかく1000円しか許可しなかったのが事実です。その連合軍の命令は1945年~47年まで継続されます。日本へ来て、苦心に苦心を重ねてね築き上げた財産を持って帰れない状況が続きました。生活の土台が故郷に無く、日本に来ていた1世の中には大正時代から暮らし、それ以外でも、徴兵や徴用,動員で日本に来た人たちは、生活の土台が故郷にもないわけです。そんな中、帰ることを前提としながら、ともかく、「われわれの子女に朝鮮の民族の魂を宿らせよう。」そう思いつつも戦前は許されず、皆、日本学校に通わせました。戦後になって「民族の歴史、特に言葉を教えなければならない。」そういう思いが爆発し、雨後の筍のように学校ができ始めます。1945年~47年と、戦後3年の間に、国語講習所という名前でスタート。後日、正規の学校となって行きます。統計によると1948年の時代には朝鮮学校が初等学校566校、生徒数53,000人。中等学校7校、生徒数3,300人。青年学校が33校、生徒数1,800人、これだけの学校が日本全土に出来ました。初等学校566校、そのうちでも大阪だけで66校に達しました。(この中には韓国系の建国学校もあり、このデモにも参加し、閉鎖反対運動を反対繰り広げました。) 【GHQと日本政府による弾圧と4.24阪神教育闘争】 しかし、G・H・Qと日本政府は「朝鮮語で民族教育をすること、民主主義的民族教育はいけない。」と通告してきます。韓国は軍政が布かれているから、朝鮮人は独立した国民とは認めない、こういう図式です。政府は、戦前の同化政策を継続使用とし、そんな状況下。1948年には、「朝鮮学校」という存在そのものが、「天敵」として見えてきます。朝鮮戦争を前にして、朝鮮学校閉鎖命令を、最初に山□県の学校から公布されます。(吉田内閣、何とも皮肉な?)そして、神戸・1948年4月12日になると、大阪、「大阪の66校のうちの17校は、設備が不備である。」と言う理由。「朝鮮学校はいらない、日本学校で学びなさい。」と、閉鎖命令が出ます。在日が自分の言葉を取り返し、真のアイデンティーを探そうと大阪在住の12万の朝鮮人が立ち上がりました。神戸や岡山でも。朝鮮の学校のある所は全ての規模に膨れ上がります。神戸では四月一五日、在日代表たちが県知事と交渉する約束をしていたにもかかわらず、突然拒絶されたため、抗議の座り込みしていたところ、全員が逮捕された。続いて二三日には民族学校の閉鎖が強制執行されます。24日、同胞たちは兵庫県庁前で約一万人の集会を開き、県知事と交渉した結果、学校閉鎖の撤回など5項目が合意されます。同時に、警察に15日に逮捕された人々を釈放させる約束も取り付けました。集会参加者たちは要求を勝ち取った感激を味わいながら、帰路に着きますが、同日深夜、神戸軍政司令部は突如非常事態宣言を発し、合意文書の無効を宣言するとともに、3日間で1,732名を無差別逮捕しました。大阪でも、4月23日、15,000名の在日同胞が、大阪市庁(現、大阪府庁)前に集まり、「閉鎖命令を撤回せよ!」と要求します。その時は、赤間文三が大阪府の知事でしたが、逃げてしまい、副知事が交渉を持ちます。その場で副知事は「朝鮮語で民族教育をすることが、治安に悪い。だから、朝鮮学校は閉鎖しなければならない。」まさに信じがたい論理で説明がなされます。本質的には同化政策を繰り返す意図です。今もその意図は変わらず、「朝鮮学校は閉鎖し、みんな、日本の学校で勉強しろ!」の不条理が続いています。(これが世にいわわれる阪神教育闘争の由縁です。)これに抗議し、民族教育を支援する市民や父母が逮捕され、留置場に入れられ、翌24日には、それに抗議し、再び、15,000名の群集が、前日逮捕された人たちの留置場に分かれて釈放を要求して抗議のデモを行いました。これに恐れをなした占領軍の神戸司令官、アイケルバーガーが24日、非常事態宣言を出し戒厳令が布告されます。そして、戦車、装甲車を出動させ弾圧を始めます。しかし”民族教育を守る闘い”に全大阪の在日同胞たちが結集し、その数45,000人が大阪市庁(現府庁)前の、大阪城公園に結集し、大阪支庁を取り囲んみます。警察も占領軍の指示によって8,000名が出動し、45,000名の市民とと対峙すました。 【少年、金太一君、警察の発砲で射殺】整然と隊列を組むデモ隊は、手に武器を持たず、スクラムを組んで整然と隊列を組んでいました。府庁の3階まで座り込みをしていましたが、官憲が武力で鎮圧しようとしたため、一旦退去しようとしますが、警察は「5分以内に退去せよ!」と、それは挑発でしかありませんでした。45,000人が解散するにはそれ相応の時間を要しました。その最中、消防車のホースでデモ隊を蹴散らし、混乱に一層拍車をかけ、まして、私服を着た挑発分子が紛れこんで。時を見計らい、「デモ隊が暴れてる!」ということで、銃をデモ隊に発砲し始めました。 そして、少年、金太一(写真、1948年4月27日、大阪赤十字病院で撮影。この40分後に死去と葬儀)という16才の少年が後頭部を撃たれ亡くなりました。この時、警察の弾圧で3000人ぐらいが逮捕されたと記されて。犠牲者は、金 太一(キム・テイル)少年が射殺され、神戸のパク・チュボム先生は捕まって獄中で死にました。そして重軽傷者数百名、裁判を受けて33人が追放になりました。勿論、占領軍による軍事裁判です。この時、デモに参加した動員数は延べで120,000人といわれてます。その後も、市内のデモ・集会は、全て禁止。そして、この崇高な民族教育を守ろうとした闘争を、日本政府は「破防法」として位置づけ、以降、朝鮮総連を「破防法指定団体」とし、日本政府からすれば、この時の朝連(総連の前身)のイメージをそのまま今日まで引っ張っているのは事実です。 【大阪市との民族教育に関わる覚書】1949年10月19日、正式に朝鮮学校閉鎖命令が出て、警察隊が朝鮮学校に押しかけ、ガラスを割ったり戸を潰し突入してきますが、父母や子供たちは一緒に抱き合って学校を死んでも守るんだと闘いますが、結局、閉鎖の赤紙を貼られ、ついに朝鮮学校は閉鎖されます。 しかし、この最中に大阪市と覚書と言う形で協定を結びました。その後も交渉は続き、1948年5月3日に文部大臣と、朝鮮連盟(朝鮮総連の前身前身)との間で次のような覚書が交わされます。・閉鎖後は、付近の日本学校に所属させ、朝鮮人教育の自主性を生かす。・朝連が推薦する教員を認める。・国語・社会・地理・歴史・音楽などは、朝連教科書編纂委員会で作成されたものを使用する。・認可手続き過程では、日本学校と全く同じように行う。」この覚書が、今日、現在日本学校の中にある「民族教室」の基礎となっています。しかし、4・24の阪神教育闘争は、結局、学校閉鎖ということで幕を閉じるわけです。戦後、子どもたちが自分の国の言葉、国語を知らなかったので、出発(帰国の)までに片言でもしゃべれるようにしてやらなければならない。このような在日の願いがかなって、朝鮮の子どもたちに朝鮮語を教える講習会ができました。民家の空室や工場、そして倉庫の片隅などを作り替えて教室にしまし。そこに自分たちの作った机や椅子、黒板が持ち込まれました。若者たちがこしらえたガリ版刷りのプリントで授業が始まり、いわば寺子屋ができあがったわけです。その頃、日本の学校は全て荒れ果てて、青空教室で授業が続けられるという混乱振りのせいもあり、朝鮮の子どもたちは、ほとんどが学校に行けなかった現状でした。だから子どもたちは喜んで朝鮮語の講習会へやってきました。こういうバラックみたいな学校で勉強すると「朝鮮学校、ボロ学校」そういうように言われたらいしいです。それでも、学校で勉強し、民族性守ったのもつかの間、ついに66校あった学校が全て閉鎖されました。ただ一つ、大阪市内の西今里公立朝鮮中学校だけが(現本庄中学校向かい)、その分校としてありました。今は、中大阪朝鮮中級学校となっています。その西今里朝鮮中級学校でも日本の先生がほとんどでした。講師で朝鮮人の先生が数人。その頃になれば日本の先生が授業してたと当時を振り返ってお年寄りが話されています。故金太一のオモニの話「あの子はかわいそうな子です。6つのとき父を失い、勉強も他人様のようにさせられませんでした。学校といえば、小学校4年で中退して、7人の家族を養うために工場で働き、行商に出歩いたり、辛いことばかりでした。26日の朝、(4月26日ですね、4・24というのは非常事態宣言布告の日ですから、その後も25、26、と闘争が続いたんですよね)その日は、『人民大会には行かない』とわたしたちを安心させておいて、自分たち、友達同士では『学校を守るために参加しなくてはならん』と言って出かけたんですよ。」【朝鮮学校前を素通りして、日本の学校へ】生野区には、在日韓国・朝鮮人が75%在籍しているという学校があります。その学校では在日の子供たちが大多数を占めています。学校名は御幸森小学校(みゆきもり)です。コリアンタウンがある近くにある学校です。その子達は富士山は習っても、白頭山は知らないんです。ウリマルを全然知らんない、それこそ、日本人でもない、韓国・朝鮮人でもない子が、この大阪にいっぱいます。http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2007042600046&genre=K1&area=K1F
2007.04.24
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今日は4.19民主革命=サイルグ)1960年に韓国で起こった李政権打倒の日です。 4.19民主革命(サイルグ)韓国は戦後、朝鮮戦争を経験し、そして建国の父と言われた李承晩政権の、不正、腐敗選挙を国民自らの力で打倒した歴史を持っています。そして常にその先頭には学生がいました。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』にはこう記載されていました。四月革命とは、1960年4月に起きた民衆デモにより当時第四代韓国大統領の座にあった李承晩が下野した事件。最も大規模なデモが発生した日が4月19日であったことから、4.19革命、4.19(サイルグ)とも言う。目次 [非表示]1 四月革命にまで至る経過 2 1960年の大統領選 3 馬山暴動と4月19日の蜂起 4 註 [編集] 四月革命にまで至る経過1960年3月に行われた大統領選挙の焦点は当時既にかなりの高齢(85歳)であった李承晩の後継問題にあった。1956年の選挙では、与党民主党の大統領候補・申翼煕が遊説中急逝し大統領は与党の李承晩候補が棚ボタ勝利となったものの、副大統領選挙については弔い票などを集め約20万票差で野党・民主党の張勉候補に奪われ、政権内に与野党が共存するねじれ現象がおきた。そのため李承晩は自由党の政権継続を確固たるものとすべく、大統領権限の強化と張勉副大統領への干渉・進歩党事件など民衆運動の弾圧を行い、独裁色を強めた。[編集] 1960年の大統領選1960年3月15日に予定されていた大統領選挙では、李承晩大統領は側近の李起鵬[1]を副大統領候補に擁して選挙戦に臨んだ。一方で野党・民主党も趙炳玉と張勉を正副大統領に擁して選挙戦を戦ったが、大統領選中に趙炳玉が死去[2]、李承晩の4選は半ば確実となった。しかし、副大統領には張が優勢なまま選挙戦が進み、前回大統領選同様に与野党で正副大統領を分け合う事態が再来し兼ねなかった。このため政府・与党は官僚機構や御用組織・暴力団まで動員して全力を尽くし不正選挙を行い、李起鵬を当選させるまでこぎつけた[3]。[編集] 馬山暴動と4月19日の蜂起3月15日の選挙当日、慶尚南道馬山(マサン)で、学生と市民が大統領選の無効を主張して暴動を起こした。この暴動は鎮圧されるものの、4月11日に暴動に参加して行方不明になっていた学生が変死体で発見され[4]、反政府機運が高まった。4月19日に至り全国各地で数十万人もの学生や市民が李承晩退陣を要求して示威行動に出る事態となり、これに対し李政権はソウル・釜山・大邱・光州で戒厳令を布告、デモ隊への発砲で死者183人・負傷者6,259人を出す事態になった。それでも事態は収拾することなく4月24日には李起鵬が当選辞退を表明し事態を乗り切ろうとするものの、翌4月25日に全国27大学の教授400余名が連名で辞職要求のデモ隊に加わり李承晩・李起鵬の自宅を包囲。4月26日には李大統領が辞任を表明、後事を許政首相に託してハワイへと亡命した。李起鵬は一家心中[5]という悲惨な結果となった。この革命の後、許内閣による過渡政権を経て、同年6月15日に議院内閣制を採った第二共和国憲法の成立を見る。
2007.04.19
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長崎市長暗殺犯が在日朝鮮人で本名「白正哲」という情報はデマ・・・・・ 長崎市長を銃撃した城尾哲彌の本名が白正哲というのは完全なガセである事が判明しました。☆朝鮮人「日米同時銃撃事件」一考 (「博士の独り言」。なおこのブログは日本屈指の人気ブログであり、影響力がきわめて強い)http://grandbee.iza.ne.jp/blog/entry/154426/http://tinyurl.com/3yhyj3伊藤一長・長崎市長が17日夕刻に銃撃を受け、18日未明に亡くなった事件で、報じられた犯人の指定暴力団山口組系水心会会長代行、城尾哲弥容疑者(59)の本名は「白正哲」であることが判明。読者より情報をいただき、通信社筋に確認したところ、確認が得られたので小稿に報告する。一方、米国・バージニア工科大で、米犯罪史上最も多い32名(米時間17日現在)の犠牲者を出した銃撃事件が報じられたが、凶行に及び、現場で自殺した犯人は、韓国人で同大学の寮に住むチョ・スンフィ容疑者(23)であった。まさに、悲惨な両事件は、朝鮮系による「日米同時銃撃事件」であった。「やはり」と思われる方もおられるに違いない。無防備、無抵抗な者を銃撃する。後ろからフイ撃ちする。身体の中でもっとも無防備な顔面を狙う。これらは、朝鮮人の犯罪の特徴である。要注意のご参考まで!日本の尊厳と名誉を守り、国民の手で日本を取り戻しましょう!〔コメント欄より〕来訪者の問い ↓「さきほど、NHKのニュース9を視聴しながら、長崎の銃撃テロの犯人が在日との情報があるが調べているのか?と、コールセンターに問いあわせをしてみました。担当の男性に応対が引き継がれましたが、現在までそのような情報は知らないとのことでした。はっきりした場合、正確な情報を元にした報道をお願いしたい、と伝えました。ブログ主の返答 ↓「一般人相手のコールセンターのレベルでは、視聴者の声を受ける、聞くレベルです。また、個人情報保護法の問題もあり、情報が開示されない場合もあります。深いところは教えてくれないでしょう。当該情報は取材者レベルによるものですが、あくまでも情報開示の責任は通信社ではなく(故に、通信社名はここに記さず)、筆者に置いての情報として上記に開示しました。以上が、あらましです。」●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○☆城尾哲彌の本名は白正哲なのか、長崎県警に電凸してみたよ(解決不能)http://d.hatena.ne.jp/hagakurekakugo/20070419/p2http://tinyurl.com/ysxg5q全く信用出来ないので、長崎県警に電凸しました。(略)最初は女性の方が出られました。女性:はい、県警です。hagakure:すいません、長崎県警の方でしょうか?女性:はいhagakure:えーと長崎市長が撃たれた件についての報道で、お聞きしたいことがあるのですがよろしいでしょうか?女性:なんでしょうか?hagakure:報道では犯人の名前が山口組系水心会の「城尾哲彌」となっているんですが、一部インターネット上では犯人は実は在日朝鮮人の方で本名が「白正哲」というそうなんですが、これは事実なんでしょうか?女性:少々お待ち下さい。hagakure:はい。ここで、年配の男性に代わる。男性:もしもし?hagakure:はい。男性:お電話代わりましたけど。hagakure:あ、はい。長崎市長を銃撃した犯人の名前なんですけど、報道では「城尾哲彌」となってますが、インターネットでは実は犯人は在日朝鮮人の方で、本名が「白正哲」という情報が流れているんですが、これは本当でしょうか?男性:えっと、犯人の名前?hagakure:はい。男性:ウチは哲彌っち聞いとるけどね。hagakure:え?哲彌ということは本名は「城尾哲彌」で間違い無いと言う事ですか?男性:そうやね。hagakure:では国籍も日本人ということですよね。男性:そういう風に聞いてるよ。hagakure:分かりました。ありがとうございます。お忙しい所、お手間を取らせて申し訳ありませんでした。失礼します。男性:はーい、どうも。と言う事で、長崎市長を銃撃した城尾哲彌の本名が白正哲というのは完全なガセである事が判明しました。-- はなゆー 転載元:Peace_Communityーはなゆ さんより
2007.04.19
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何故に「韓国・朝鮮人」を卑しめたいのか? 「土井たか子氏は在日朝鮮人である」と示唆した出版社が提訴された。この次の記事、そして、この記事、以前揚げたhttp://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/41178367.html といい、100年前と何ら変わらない日本社会。その典型といえる石原都知事の言動。何故に事ある毎に、「朝鮮人=悪者」とレッテルを貼りたがる世論醸成に「マスコミ」までもが口を閉ざしてしまう今日この頃です。2年前の韓国映画「シルミド」で、韓国大統領暗殺を企てた北からの武装軍団の実態はk「韓国軍であった。」と解明され、韓国でも歴史の洗い直しが完了したにもかかわらず、4月に入って日本のTVで「シルミドのあった地区が観光スポットとして脚光を浴びるようになった。」と言うニュースでは相変わらず「大統領の暗殺を企てた北の武装軍団」と言うように二十数件前の反共宣伝のニュースと同じ「無知」なニュースが垂れ流されています。「又、意図的な北パッシング?。嫌韓報道?」と首を傾げたくなります。netでの捏造、悪口雑言はレベル以下の人々だと理解はしています。しかし、この社会がいつの間にか、この蔑視、、偏見を見過ごしてる事に恐怖を覚えます。以下は peace_community はなゆうさんjからの記事転載土井 たか子氏は在日朝鮮人である」と示唆した出版社が提訴された。月刊誌「WiLL」http://web-will.jp/ が社民党元党首の土井たか子氏http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BA%95%E3%81%9F%E3%81%8B%E5%AD%90が朝鮮半島出身であるかのような記事を掲載したことに対し、土井氏は、事実に反し、信用や名誉などを毀損(きそん)されたとして、発行元と代表者らを相手取り、全国紙への謝罪広告の掲載と損害金1万円を求める訴えを起こした。☆「朝鮮半島出身は捏造」 土井たか子氏、出版社側提訴 (朝日新聞)http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200704180057.htmlhttp://www.asyura2.com/07/hihyo5/msg/343.html訴状によると、同誌は06年5月号に掲載した論文「拉致実行犯辛光洙(シン・グァンス)釈放を嘆願した"社民党名誉党首"」の中で、「土井氏は知る人ぞ知ることではあるが、本名『李高順』、半島出身とされる」などと言及した。∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞★なお、ネット上では社民党の福島みずほ党首http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%91%9E%E7%A9%82についても「在日朝鮮人であり、その本名は"趙春花"である」との情報が、独り歩きして、いつのまにか定着している。日本屈指の人気ブログであり、きわめて強い影響力を誇る「博士の独り言」はhttp://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-entry-221.htmlhttp://tinyurl.com/2fuvr3「筆者記: なりすまし(注:生粋の日本人に成りすました在日朝鮮人という意味であろう)のメディア人、文化人、政治家の言動にはおぞましいものがある。上記の他に、朴三寿(筑紫哲也)、社民党の李高順(土井たかこ)、趙春花(福島瑞穂)等々。実に紛らわしい。反日活動においては、通名ではなく、本名を名乗るべきである。」と明言している。その他にも、たとえば以下のブログ群はそう信じきって記述をしている。 ↓http://tinyurl.com/32eusvこれに乗っかり、TVで工作する朴三寿(通名=筑紫哲也)と、国会で工作する趙春花(通名=福島みずほ)に、我々日本人は決して二度と騙されてはいけない。http://tinyurl.com/2f4h6w土井たか子→李高順(帰化前の本名)北朝鮮に親族多数福島瑞穂(→趙 春花、帰化前の本名:中核派)辻元清美(帰化人、赤軍派)http://tinyurl.com/25h6th土井たか子こと李高順が帰化したのは、1958年10月26日福島瑞穂こと趙春花が帰化したのは、1986年2月15日
2007.04.18
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