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こんな気持ちが恋だった益田ミリ著川柳集だとは気づかないで読んでしまう。この軽さは川柳界の「サラダ記念日」のような印象を受けた。「俺にも書ける」とは今回は思わなかった。1988年のような言の葉が舞い降りてくる予感はないな・・・。
2010.05.31
〇〇殺人事件というようなタイトルの本を読んだのはこれがはじめてなんです。おもしろかった。あっという間に読み終えた。舞台が、有田や唐津、呼子、波戸岬などでぼくの地元が舞台なのでそれもあってかぐんぐんひきこまれていった。有田には祖母の友人がいて有田焼のお店を営んでいた。そこによく幼い頃、泊まりにいってたんだ・・・。
2010.05.31
Lover
2010.05.30
ブルー・マイナー
2010.05.30
午後になってしまったが午後聴いてもこれはいいぜ!朝日のようにさわやかに
2010.05.30
クール・ストラッティン
2010.05.30
遅すぎたラブソング
2010.05.29
奥入瀬川とんぼちゃんの数ある歌の中でこの「奥入瀬川」がいちばん好きな歌かもしれない・・・。ぼくを奥入瀬川までみちびいてくれたのもこの歌でした・・・。
2010.05.29
遠い悲しみ人に聞かれないようにこっそりひっそりこの歌をギター爪弾きながら歌っていた・・・
2010.05.29
白い夏の詩
2010.05.28
ひと足遅れの春
2010.05.28
雨の一日
2010.05.28
海が死んでもいいョって鳴いてる
2010.05.27
ぼくたちの失敗
2010.05.27
さよなら僕のともだち
2010.05.27
狼少年・ウルフボーイ
2010.05.27
友よ泣かないのか
2010.05.27
赤いダウンパーカーぼくのともだち
2010.05.27
孤立無援の唄
2010.05.27
愛情練習(ロシアンルーレット)
2010.05.27
まぶしい夏
2010.05.27
センチメンタル通り
2010.05.27
サナトリウム
2010.05.27
グリーン大佐答えてください
2010.05.27
小林一茶は宝暦15年5月5日、信濃の柏原村に生まれた。我ときて遊べや親のない雀この俳句のイメージが強くて一茶という人は枯れたような、悟ったような老人のイメージがあった。大きな間違いであった。先日、歯医者の週刊誌を読んでいたら一茶の日記に性生活が細かく記録されていることが書かれてたので読んだ。一茶は52歳のとき28歳の若い妻を迎える。週刊誌では一茶の54歳、妻30歳のときの記録が書かれてた。うろ覚えだが・・・〇月〇日、交3回〇月〇日、交5回〇月〇日、交4回ま、毎日、自分のせっくすの回数を記録してるそうなんだ。54歳で平均3~4回というのは同輩の諸君よ!君に今、その力が残っているか?で、おれは一茶が羨ましくてその後調べたんだが54代でのせっくすのしすぎが影響したかどうかわからないが・・・一茶を有頂天にさせた24歳年下の妻との間に二男一女をもうけるのだが、長男、長女、次男は次々に死に、三男に恵まれたものの妻にも先立たれた。そして、三男も、また、母のあとを追った。一茶の人生に春の陽がさしたのも束の間で、中風を病んでいた一茶が、ぽかんと取り残された。もともとの一人前ぞ雑煮膳翌年、一茶は後妻をめとったが、この後妻とは3ヶ月で別れた。(理由は何となく想像できる・・・)さらに一茶は3度目の妻を迎えるが、火事の災難にあい、焼け出されてしまう。なんとか焼け残った穀物蔵(上の写真)を修復して仮住まいをしたが、一茶はこの土蔵の中で中風の発作に見舞われて、1827年11月19日、65歳の生涯を閉じた。通し給へ蚊蠅の如き僧一人痩蛙まけるな一茶是ニ有うしろから寒が入る也壁の穴雀の子そこのけそこのけ御馬が通るやれ打つな蠅が手を摺る足をする蝶一ツ仲間ぬけしてすねるかよトンボウが焼どの薬ほしげ也
2010.05.26
松尾芭蕉が亡くなったのは1694年。元禄7年だった。その後、俳句は大衆化の時代を迎えた。芭蕉没後の低迷した状況の中に出てきたのが与謝蕪村だった。蕪村が生まれたのは1716年。大阪で生まれた。芭蕉没後22年の月日がたっている。蕪村は二十歳の頃、江戸へ出て俳句と絵の修行をする。27歳から約10年間の放浪生活をしるが、この10年間に俳人として、画家としての基礎を固め京都へ移り住む。蕪村36歳の冬であった。画家としても一家をなすとともに俳句のほうでも、中興京都俳壇の雄として揺るがぬ存在となる。芭蕉がいっそう深く入って心に考えを置き、その寂しさを詠おうとしたのに対して、蕪村は芭蕉が求めた人生の根にあるところのものは突き放して現実の生活に直接かかわりのない唯美の世界を追求し、離俗の世界に高踏的な美の俳諧を展開した。花守の身は弓矢なき案山子かな春風や堤長うして家遠し五月雨や大河を前に家二軒牡丹散て打重りぬ二三片なの花や月ハ東に日ハ西にみじか夜や枕にちかき銀屏風しら梅に明る夜ばかりとなりにけり(最期の俳句)蕪村、68歳の生涯であったそうな。
2010.05.26
自由律俳句というと荻原井泉水や中塚一碧楼の近代俳句がすぐ考えられる。しかし、そのルーツを突き詰めていくと、そこには芭蕉がある。芭蕉の時代に五七五調十七音の約束を考えず、奔放に自由に書いた俳句が存在した。枯枝に烏のとまりたるや秋の暮芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉猿を聞人捨子に秋の風いかに櫓の声波ヲうつて腸氷ル夜やなみだ髭風ヲ吹テ暮秋歎ズルハ誰ガ子ゾこのような自由な俳句が芭蕉にある。型よりも心を大切にする芭蕉にとって、五七五調十七音という取り決めごとは、一行の詩である俳句の前には、本質的な価値ではなかったということである。(by上田都史)上田都史(うえだ・とし)〔本名、馮介としすけ〕1906(明治39)・9・22-1992(平成4)・8・30・京都市生・個人誌「純粋」・句集『純粋』(1935・6)、『喪失』(1971・7)、『産婆術』(1975・5)、『上田都史三冊子』(1983・7)靴を磨かせ何処にふるさと在ることか心わびしブルースは土人の悲歌の踊にて躑躅さすコップは朝のうす曇り
2010.05.26
雨のクロール
2010.05.26
地平線
2010.05.26
船がくるぞ
2010.05.26
驟雨
2010.05.26
麗子像
2010.05.26
憂鬱デス
2010.05.26
ひとり遊び
2010.05.26
淋しい素描
2010.05.26
きれいに咲いた
2010.05.26
菜の花あかり
2010.05.26
春爛漫
2010.05.26
早春にて
2010.05.26
小林一茶は宝暦15年5月5日、信濃の柏原村に生まれた。我ときて遊べや親のない雀この俳句のイメージが強くて一茶という人は枯れたような、悟ったような老人のイメージがあった。大きな間違いであった。先日、歯医者の週刊誌を読んでいたら一茶の日記に性生活が細かく記録されていることが書かれてたので読んだ。一茶は52歳のとき28歳の若い妻を迎える。週刊誌では一茶の54歳、妻30歳のときの記録が書かれてた。うろ覚えだが・・・〇月〇日、交3回〇月〇日、交5回〇月〇日、交4回ま、毎日、自分のせっくすの回数を記録してるそうなんだ。54歳で平均3~4回というのは同輩の諸君よ!君に今、その力が残っているか?で、おれは一茶が羨ましくてその後調べたんだが54代でのせっくすのしすぎが影響したかどうかわからないが・・・一茶を有頂天にさせた24歳年下の妻との間に二男一女をもうけるのだが、長男、長女、次男は次々に死に、三男に恵まれたものの妻にも先立たれた。そして、三男も、また、母のあとを追った。一茶の人生に春の陽がさしたのも束の間で、中風を病んでいた一茶が、ぽかんと取り残された。もともとの一人前ぞ雑煮膳翌年、一茶は後妻をめとったが、この後妻とは3ヶ月で別れた。(理由は何となく想像できる・・・)さらに一茶は3度目の妻を迎えるが、火事の災難にあい、焼け出されてしまう。なんとか焼け残った穀物蔵(上の写真)を修復して仮住まいをしたが、一茶はこの土蔵の中で中風の発作に見舞われて、1827年11月19日、65歳の生涯を閉じた。通し給へ蚊蠅の如き僧一人痩蛙まけるな一茶是ニ有うしろから寒が入る也壁の穴雀の子そこのけそこのけ御馬が通るやれ打つな蠅が手を摺る足をする蝶一ツ仲間ぬけしてすねるかよトンボウが焼どの薬ほしげ也小林一茶の自由律俳句
2010.05.25
みどりの写真
2010.05.25
朝陽のあたる家
2010.05.25
四月十日の詩
2010.05.25
松尾芭蕉が亡くなったのは1694年。元禄7年だった。その後、俳句は大衆化の時代を迎えた。芭蕉没後の低迷した状況の中に出てきたのが与謝蕪村だった。蕪村が生まれたのは1716年。大阪で生まれた。芭蕉没後22年の月日がたっている。蕪村は二十歳の頃、江戸へ出て俳句と絵の修行をする。27歳から約10年間の放浪生活をしるが、この10年間に俳人として、画家としての基礎を固め京都へ移り住む。蕪村36歳の冬であった。画家としても一家をなすとともに俳句のほうでも、中興京都俳壇の雄として揺るがぬ存在となる。芭蕉がいっそう深く入って心に考えを置き、その寂しさを詠おうとしたのに対して、蕪村は芭蕉が求めた人生の根にあるところのものは突き放して現実の生活に直接かかわりのない唯美の世界を追求し、離俗の世界に高踏的な美の俳諧を展開した。花守の身は弓矢なき案山子かな春風や堤長うして家遠し五月雨や大河を前に家二軒牡丹散て打重りぬ二三片なの花や月ハ東に日ハ西にみじか夜や枕にちかき銀屏風しら梅に明る夜ばかりとなりにけり(最期の俳句)蕪村、68歳の生涯であったそうな。与謝蕪村と俳句
2010.05.24
湖上湖上ポッカリ月が出ましたら、舟を浮べて出掛けませう。波はヒタヒタ打つでせう、風も少しはあるでせう。沖に出たらば暗いでせう、櫂から滴垂る水の音は昵懇しいものに聞こえませう、――あなたの言葉の杜切れ間を。月は聴き耳立てるでせう、すこしは降りても来るでせう、われら接唇する時に月は頭上にあるでせう。あなたはなほも、語るでせう、よしないことや拗言や、洩らさず私は聴くでせう、――けれど漕ぐ手はやめないで。ポッカリ月が出ましたら、舟を浮べて出掛けませう、波はヒタヒタ打つでせう、風も少しはあるでせう。
2010.05.24
サーカスサーカス幾時代かがありまして茶色い戦争がありました幾時代かがありまして冬は疾風吹きました幾時代かがありまして今夜此処でのひと盛り今夜此処でのひと盛りサーカス小屋は高い梁そこに一つのブランコだ見えるともないブランコだ頭倒(さか)さに手を垂れて汚れた木綿の屋根のもとゆあーん ゆよーん ゆやゆよんそれの近くの白い灯が安値(やす)いリボンと息を吐き観客様はみな鰯咽喉(のんど)が鳴ります牡蠣殻(かきがら)とゆあーん ゆよーん ゆやゆよん屋外(やがい)は真ッ暗 暗(くら)の暗(くら)夜は劫々(こうこう)と更けまする落下傘奴(らっかがさめ)のノスタルジアとゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
2010.05.24
生きてるって言ってみろ
2010.05.24
死にぞこないの唄
2010.05.24
自由律俳句というと荻原井泉水や中塚一碧楼の近代俳句がすぐ考えられる。しかし、そのルーツを突き詰めていくと、そこには芭蕉がある。芭蕉の時代に五七五調十七音の約束を考えず、奔放に自由に書いた俳句が存在した。枯枝に烏のとまりたるや秋の暮芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉猿を聞人捨子に秋の風いかに櫓の声波ヲうつて腸氷ル夜やなみだ髭風ヲ吹テ暮秋歎ズルハ誰ガ子ゾこのような自由な俳句が芭蕉にある。型よりも心を大切にする芭蕉にとって、五七五調十七音という取り決めごとは、一行の詩である俳句の前には、本質的な価値ではなかったということである。(by上田都史)上田都史(うえだ・とし)〔本名、馮介としすけ〕1906(明治39)・9・22-1992(平成4)・8・30・京都市生・個人誌「純粋」・句集『純粋』(1935・6)、『喪失』(1971・7)、『産婆術』(1975・5)、『上田都史三冊子』(1983・7)靴を磨かせ何処にふるさと在ることか心わびしブルースは土人の悲歌の踊にて躑躅さすコップは朝のうす曇り松尾芭蕉の自由律俳句
2010.05.23
こんな静かな夜
2010.05.23
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