全7件 (7件中 1-7件目)
1
★連載「歴史に残る偉大なバーテンダー」のうち、ハリー・マッケルホーンとハリー・クラドックについて、全面改訂版 をリリースしました(20130713)。ぜひ、ご覧下さい。
2013/07/13
コメント(0)
ハリー・マッケルホーン(Harry MacElhone 1890~1958)と言えば、1919年に世界初の体系的なカクテルブック「Harry’s ABC Of Mixing Cocktails」を出版した偉大なバーテンダーであり、世界で最も有名な街場のバー「Harry’s New York Bar」の創業者です。 私は先般、この日記上で、マッケルホーンやその子アンドリュー(Andrew)、孫のダンカン(Duncan)という三世代について、集められる限りの資料やデータを元に簡単な伝記を紹介しました。ところがその後の情報で、いくつか修正しなければならない事実が出てきました。 ネットの世界ではいったん発信してしまうと、それが一人歩きしてしまう危険性があり、間違いを見つけた場合はすみやかに訂正・更新する必要があります。そしてもちろん、新たな情報があった場合は、できる限り追記するのが親切だと思っています(写真左=Harry's New York Bar (C)Photo By H.K )。 今回は、訂正すべきことが2点と追記が1点です。1.「2011年現在、56歳で健在」と記した「Harry’s New York Bar」の三代目、ダンカン・マッケルホーンは、実は1998年3月、肝臓病のため44歳の若さで急逝していました。このため、この部分は全面的に書き換えました。 (※ダンカンの動静については、執筆当時可能な限りフォローしたつもりでしたが、Harry’s New York BarのHPにもそうした情報は記されておらず、健在だと信じ込んでいました。この重要な情報がどうしてWEB上で最近までほとんど公開されていなかったのか、不思議でなりません)。2.カクテル「サイドカー」誕生にまつわる記述の部分については、このほど手に入った「Harry’s ABC Of Mixing Cocktails」の“初版本”=写真右=でマッケルホーン自身が、「ロンドンのバックス・クラブ(The Buck’s Club)のバーテンダー、マクギャリー(Pat McGarry)が考案した」と記していることから、書き換えました。 (※「サイドカー」はもちろんHarry's New York Barの看板カクテルであり、国内外の多くのカクテルブックでは、「サイドカー」の考案者をマッケルホーンと紹介している本がほとんどなのですが、マッケルホーン自身が否定している以上、いい加減にこの辺りで、訂正した方がいいのではないかと思います。「マルガリータ=流れ弾起源説」のように、後世のつくり話が一人歩きして、間違ったまま"定説化"してしまうことになります) 3.Harry's New York Barはダンカンの急逝後、妻のイサベル(Isabelle)がオーナーとなりましたが、2011年のHarry's Bar100周年記念パーティーを機に、ダンカンの長男で23歳(当時)のフランツ・アーサー(Franz-Arthur)が、父の遺志を継ぎ、四代目としてバーテンダーの道に進むことを決めたという嬉しい発表がありました。従って、このニュースを追記しました。 この歴史と伝統ある酒場が、フランツ・アーサーという新しい世代へ受け継がれていくと聞いて、安堵の気持ちを抱いたのは僕だけではないと思います。「Harry’s New York Bar」のさらなる発展を、Barファンの一人として心から願うものです。 今後とも、間違いや新たな事実が判明した場合には、それを恥だとは思わず、すみやかに訂正したいと思います。それが、物書きの端くれとしての良心だと考えます。過去の連載については、近日中に全面改訂版をリリースする予定です。何卒よろしくお願いいたします。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2013/07/12
コメント(0)
ハリー・クラドック(Harry Craddock 1875~1963)=写真左下 (C) northcountrypublicradio.org =と言えば、あの「サヴォイ・カクテルブック(The Savoy Cocktail Book)」を著した偉大なバーテンダーです。サヴォイ・ホテルやドーチェスター・ホテルなどロンドンの名だたる一流ホテルのBarで長くチーフ・バーテンダーをつとめ、多くの後進を育てました。しかし、クラドックの伝記はこれまで書かれたことがなく、私生活についての情報(資料)もほとんど伝わっていなかったために、その素顔は謎に包まれたままでした。 私は先般、この日記上で、クラドックの生涯について、当時集められる限りの資料やデータを元に簡単な伝記を紹介しました。その際、自信を持って書ききれず、ずっと心残りに思っていたことがいくつかありました。 バー業界では、世界的な知名度と輝かしい業績を持つクラドックですが、基本的なデータで不明な点が多かったのです。 まず、彼は「米国生まれ、禁酒法で米国に見切りをつけ英国へ渡った」と言われてきたのですが、米国のどこで生まれたのかのはっきりとした情報がないこと。 そして、英国での最晩年の動静。具体的には、ドーチェスター・ホテルを1947年、72歳で退職したあと、亡くなるまでの間どう過ごしたのか、いつどこで亡くなり、どこに埋葬されたのか。こうした基本的情報(データ)が、英国内ですらよく分かっていなかったことです。 僕は「研究者の誰かが、彼の生涯を徹底的に調べて伝記を書いてくれないかなぁ」とずっと願い続けてきました。すると、今年に入って思わぬニュースと出合ったのです。アニスタティア・ミラー(Anistatia Miller)、ジャレッド・ブラウン(Jared Brown)という2人の研究者が2013年1月、クラドックともう1人、ハリー・ジョンソンという19世紀後半のバーテンダーについて、約7年の歳月をかけて調べ、書き上げた伝記「The Deans Of Drink」を出版したのです。 原書であるので、うらんかんろはまだ読んでいませんが、そのエッセンスを紹介した海外のブログはいくつか拝見しました。そして、なによりも嬉しかったのは、この2人の努力によって、謎だった部分の多くが判明したことです。 第一の謎であった「生誕地」については、驚きの事実がわかりました。クラドックは米国人ではなく、英国人だったのです。彼は1875年8月、イングランド西部、コッツウォルズ地方のバーレイ(Burleigh)という町で、仕立屋と織物職人の両親の間に生まれたのでした。実は、欧米でもこれまで、クラドックを「米国生まれのバーテンダーだが、禁酒法施行を機にニューヨークを離れて英国に渡り、サヴォイ・ホテルで有名になった人」と信じ込んでいた人が多かったそうです。 しかし、事実はまったく違いました。クラドックは成人するまでは英国で過ごし、22歳の時、新大陸アメリカへの移民ブームに乗って、初めて米国へ渡るのです。クリーブランド、シカゴでウェイター、バーテンダーとして働いた後、より大きな活躍の場を求めて、ニューヨークへ向います。そして、マンハッタンの有名なホテルや社交クラブのBarでバーテンダーとして働き始めます。再び英国へ戻ったのは、前述したように米国に禁酒法が施行された1920年です。 今回、もう一つの謎だった埋葬地や墓碑も、著者たちの努力で確認されました。クラドックはロンドン郊外西方のガナーズベリー(Gunnersbury)という町の共同墓地に眠っていました。 しかし、確認された墓碑(墓石)=写真右 (C)Savoystomp com=を見て、僕は唖然としました。まったく無関係と思われる他人2人との共同の墓碑だったのです。あの偉大なバーテンダーの墓碑としては、あまりにも寂しい最期の現実に言葉もありません。 最晩年のクラドックは、ドーチェスター・ホテルを退職した4年後、76歳にしてブラウンズ・ホテルというところから請われて、新たなBarの開業を手伝います。このホテルに何年勤めたのかは不明ですが、最終的には87歳で亡くなります。命日は1963年1月23日です。 最晩年、クラドックがあまり脚光を浴びず、その動静があまり伝えられずなかった理由はよくわかりません。あれほどバー業界に貢献し、不朽のカクテルブックを著した偉大なバーテンダーであるのに、「英国内のバー業界はなんて冷たいのか。なぜ偉大な先人にもっと敬意を払わないのか」と僕もずっと不満に思ってきました。 ところが奇しくも没後50年にあたる今年、さらに素晴らしいニュースが飛び込んできました。3月15日、クラドックが愛したプリマス・ジン(Plymouth Gin)社がスポンサーとなり、彼の埋葬された墓前で、没後50年の記念の集いが開かれたというのです。→ 英国でのWEB報道(A) & 英国でのWEB報道(B) サヴォイ・ホテル、ドーチェスター・ホテル等のBarの関係者をはじめ、「The Deans Of Drink」の著者ももちろん参加しました。そして、墓碑にカクテルを捧げ、偉大な先人バーテンダーを偲び、たたえました。没後50年にして、英国のバー業界がようやく、「カクテルの帝王」クラドックを再認識し、再び敬意を払う気持ちになってくれたことは喜ばしい限りです。 「先人の積み重ねがあって、今がある」とは、どの業界にも共通する真理です。世界中のバー業界が、ハリー・クラドックの偉大な功績を、名著「サヴォイ・カクテルブック」とともに、末永く語り継いでいってくれることを心から願わずにはいられません。 ※過去の連載については、近日中に全面改訂版をリリースする予定です。何卒よろしくお願いいたします。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2013/07/11
コメント(0)
◆ジェリー・トーマス:「派手」が大好き、行動するバーテンダー ハリー・マッケルホーン、ハリー・クラドックとカクテル史に残る偉大な2人のバーテンダーの生涯を紹介してきましたが、やはり、ここまでくれば、「カクテルの創始者」とも言われるジェリー・トーマス(Jerry Thomas、1830~1885)のことにきちんと触れておくことも、私の大事な責務だと思います。 マッケルホーン、クラドックともに伝記本が存在せず、その生涯をたどるのには凄く苦労したのですが、トーマスについても伝記本はなく、さらに古い時代の人とあって文献資料も極めて少ないため、インターネット上の情報(とくに英文のサイト)から断片的な情報をかき集めるしかありませんでした。しかしようやく一編を書くに足るデータを、なんとか得ることはできました。以下は、米国では「The Pioneer Of Modern Cocktails」「The Father Of American Mixology」と称されるトーマスの生涯です。 ☆10代で「トム&ジェリー」を考案☆ ジェリー・トーマスは、1830年、米ニューヨーク州北部のカナダ国境に近い、サケッツ・ハーバー(Sackets Harbor)という町で生まれました(月日は不明)。トーマスは10代後半(何歳の時かは不明=1940年代後半)に、お隣コネチカット州ニュー・ヘイブン【注1】のバーでバーテンダーとして働き始めます。1847年には、現代でもバーでよく飲まれている有名な「トム&ジェリー」【注2】というホット・カクテルを考案したと言われています(写真左=著書に絵で描かれたジェリー・トーマス。写真はほとんど伝わっていない)。 しかし1848年、米西部で金鉱が発見され、いわゆる「ゴールドラッシュ」【注3】が始まると、トーマスも、バーテンダーとしてより大きな活躍の舞台も求め、また一攫千金も狙って、カリフォルニアへ旅立ちます。実際、カリフォルニア(のどこかは地名不明)で彼は、バーテンダーだけでなく、ある時は金鉱脈探しの開拓者として、ある時は旅芸人のショー(歌や踊り)の経営者として働きました(どれくらい儲けたのかは不明ですが…)。 1851年、トーマスはニューヨークへ戻り、「バーナム・アメリカン・ミュージアム」【注4】内に初めて自らが経営するサロン・バーを開きます(トーマスは生涯に4店のバーを開いたということです)が、残念ながら、このバーがどんな店だったのか、営業状態はどうだったのかについての資料にはまだ出合っていません。 ☆「火の弧」で魅せる「ブルー・ブレイザー」☆ トーマスはその数年後、全米各地のさまざまなホテルやサロン・バーで、チーフ・バーテンダーとして働きます。セントルイス、シカゴ、サンフランシスコ、チャールストン、ニュー・オーリンズなど当時の大都市で彼は、その稀有な才能を発揮し、自分の技術を後輩に伝えていきます。 1850年代、トーマスは、彼の名を永久不滅なものにしたカクテル「ブルー・ブレイザー(Blue Blazer)」【注5】=写真右=を考案します。このカクテルは、要はホット・ウイスキーなので、カクテルというには少し違和感があるかもしれません。しかし、そのつくる際の派手なパフォーマンスが故に、今日でもバーテンダーが誰しも一目置く存在となっています。 そのつくり方とは――。二つの金属製マグを使い、一方のマグに入れた温めたウイスキーを入れて火を付け、火が付いた状態のままのウイスキーを、熱湯の入ったもう一方のマグまで空中を飛ばして、二つのマグ間で2往復半ほど行き来させるというものです。火が弧を描くように流れ、見た目でも楽しめます。その派手で華麗な作り方は、全米各地で見る人の度肝を抜きました。 ☆米国初のカクテルブックを出版☆ 1862年以前のある時期(時期は不明です)に、トーマスは、バー・ツールが詰まったかばんを携えて、欧州にも渡りました。彼がどこの国を訪れたのかについての資料は手元にありませんが、行く先々の国で、そのカクテル・テクニック(時にはボトル・ジャグリングまで!)を披露し、喝采を浴びたとは伝わっています。また、彼が携えていったシェーカーは金製、銀製のものや、宝石がちりばめられたものもあり、欧州のバーテンダーたちはその豪華さに目を見張ったということです。 ちなみに、欧州からの帰国後(いつ帰国したのかは不明)、サンフランシスコの「オクシデンタル・ホテル」のバーで働いていたトーマスの給料は週給100ドルで、当時の米副大統領より多かったといいます。まだ30歳前半の彼の、バーテンダーとしての評価がいかに高かったかを表す事実です。この頃になるとトーマスは、周囲から敬意をこめて、“Professor(教授)”と呼ばれるようになったと伝わっています。 1862年、32歳のトーマスは全米初の体系的なカクテルブック「How To Mix Drinks or The Bon-Vivant’s Companion」=写真左=を出版します。「How To Mix…」には約240のレシピが収録されていますが、その中には、それまで口伝だけでつくられてきた「***デイジー」(***はベースとなる酒)「***スマッシュ」「***コブラー」「***サンガリー」などという初期のカクテル(ミクスド・ドリンク)のレシピを数多く収録するとともに、トーマス自身のオリジナルも何点か収録しています(1876年の再版本では、英国生まれの有名なカクテル「トム・コリンズ」のレシピを米国で初めて紹介しています)。 ☆経営不振の後、55歳の若さで急逝☆ 1866年、36歳になったトーマスはニューヨークに戻り、「メトロポリタン・ホテル」のチーフ・バーテンダーとなります。そして、まもなくマンハッタン・ブロードウェイのそばのビルの地下に、自身のサロン・バーを開きます。トーマスは、そのサロン・バーを人気の風刺画を展示するギャラリーとしても活用するなど、ニューヨークっ子の話題を集め、マスコミでもたびたび取り上げられたそうです。 しかし、順調だったバー・ビジネスに不運が襲います。晩年、トーマスはウォール街での株投資に失敗し、多額の負債を抱えてしまいます。その結果、自分の店や買い集めた美術コレクションを売却せざるを得なくなります。しばらくして店の再開にこぎつけますが、かつての賑わいは戻らなかったといいます。 1885年12月15日、トーマスは脳卒中のためニューヨーク市で亡くなります。まだ55歳の若さでした。彼は中年になるまでに結婚し、娘を二人もうけたといいますが、子孫のその後は不詳です。彼の訃報を伝えたニュー・ヨーク・タイムズは、「彼はあらゆる階級、階層の人たちに愛されたバーテンダーだった」とその死を悼みました。【注6】 ☆マティーニの発展に貢献☆ 彼の死から2年後の1887年に再版されたカクテルブックには、現代のマティーニの原型とも言える「マルチネス・カクテル」【注7】が、彼自身の「遺作」であるかのように初めて紹介されています。だから、トーマスのことを「マティーニの創始者」と言う人もいます。 「マルチネス」のレシピは現代のマティーニと似た部分もありますが、異なる部分も多いため、彼が創始者かどうかについては、今日でもなお論議があるところです。しかしこのカクテルをきっかけとして、現在のマティーニまで発展してきたことは疑う余地はありません。 彼の残したカクテルブックは、現在もなお版を重ねて、世界中のバーテンダーに読み継がれています。生涯をカクテルの発展と普及に捧げたジェリー・トーマスの功績を否定する人はいないでしょう。現代に生きるバー業界の後継者たちが、彼の生涯にもっとスポットライトをあててくれることを願ってやみません。【追記1】ジェリー・トーマスについては、彼の人柄をほうふつとさせる一風変わったエピソードがいくつか伝わっています(出典:ウィキペディア英語版)。いくつか紹介してみましょう。 (1)子供用手袋をはめるのが好きだった(2)金ピカの腕時計をいつもしていた(3)ベア・ナックル・ファイト=懸賞付の素手ボクシング試合=の愛好家であった(4)美術コレクターであった(ニューヨークの彼のバーにも収集したたくさんの絵が飾ってあったそうです)(5)「肥満者協会」(Fat Men’s Association)のメンバーだった(ちなみに彼の体重は205パウンド=約93kgだったとか)(6)1870年代からはひょうたん栽培に興味を持ち、「ひょうたんクラブ」(The Gourd Club)の会長にまでなり、品種改良して大型品種を生み出すまでになった。【追記2】本稿を書くにあたっては、「ウィキペディア」英語版の「Jerry Thomas」の記述など数多くの英文サイトのお世話になりました。この場をかりて感謝いたします。【注1】ニューヘイブン(New Haven)は、米東海岸のコネチカット州南部にある都市。名門イェール(Yale)大学があることで有名。【注2】現代の標準的なレシピは、ダークラム30ml、ブランデー15ml、全卵1個、熱湯(または牛乳)60~70ml、砂糖2tsp、ナツメグ少々【注3】1848年1月、米カリフォルニア地方の川で砂金が見つかったのをきっかけに広がった金鉱脈探しブーム。一攫千金を狙う開拓者が米東部や欧州からカリフォルニアへ続々と押し寄せた。(トーマスがおそらく訪れたであろう)サンフランシスコはそれまで人口1000人ほどの小さい村だったが、金鉱脈探しの拠点の一つとして大都市へと発展。1年後の人口は2万5千人まで急増した。カリフォルニアは翌1850年の9月、州に昇格した。【注4】「バーナム・アメリカン・ミュージアム」は1841年、PT・バーナムという興行師がニュー・ヨーク・マンハッタン島南部に設立した。「ミュージアム」とは名ばかりで、実態は「偽人魚」「珍動物」「小人」などを見せる見世物小屋だった。しかし24年後の1865年、ニューヨークの大火で焼失した。【注5】標準的なレシピは、温めたウイスキー60ml、熱湯60ml、粉糖2tsp、レモンスライス【注6】“Thomas was at one time better known to club men and men about town than any other bartender in this city, and he was very popular among all classes”(New York Times, Dec 16 1885)【注7】トーマスのオリジナル・レシピは、オールドトム・ジン30ml、スイート・ベルモット60ml、アロマチック・ビターズ1dsh、マラスキーノ2dsh、シュガー・シロップ2dshこちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/12/09
コメント(0)
【2013年7月13日、内容を全面改訂し、更新しました】 ◆現代カクテルへの扉を開いた「カクテルの帝王(The King Of Cocktail)」 ハリー・マッケルホーンの生涯をまとめた後、もう一人忘れてはならないバーテンダーがいると強く思いました。その人の名は、ハリー・クラドック(Harry Craddock)=写真左。その名前は知らなくとも、ロンドンの名門「サヴォイ・ホテル(Savoy Hotel)」の名や、「サヴォイ・カクテルブック」という本のことは、聞いたことがある方が多いと思います。 クラドックは、1920~30年代、サヴォイ・ホテルの「アメリカン・バー」でチーフ・バーテンダーをつとめた人ですが、今日もなお彼の名を不朽のものにしているのは、この歴史的名著「サヴォイ・カクテルブック」(1930年刊)を著したことです。 ☆世界中のバーテンダーの「教科書」に 世界最古のカクテルブック「How To Mix Drinks」(1862年刊)を著した米国人、ジェリー・トーマス(Jerry Thomas 1830~1885)が「カクテルの祖」であるとすれば、少し遅れて世に出て、「ハリーズ・ニューヨーク・バー」(パリ)を開き、世界初の体系的実用カクテルブック「Harry's ABC Of Mixing Cocktails」(1919年刊)を出版したハリー・マッケルホーン(Harry MacElhone 1890~1958)は「近代カクテルの父」と言っていいでしょう。 そして、「サヴォイ・カクテルブック」を著し、現代カクテルへの扉を開いたハリー・クラドックは、今なお「カクテルの帝王(キング・オブ・カクテル)」と讃えられています。二人のハリーが生んだカクテルブックは、現在でも世界中のバーテンダーの教科書的存在であり続け、持っていないバーテンダーはほとんどないはずです。 今日伝わっている数多くのスタンダード・カクテルは、マッケルホーンやクラドックがその基礎をつくったと言っても過言ではないのです。しかし、ハリー・クラドックの素顔については、マッケルホーン以上にデータは少ないのです。うらんかんろがが、文献やインターネット上であれこれ調べて得られた、数少ない情報をもとに彼の生涯をたどってみると――。 ☆禁酒法施行で仕事場を失い… クラドックは1875年、英イングランド、コッツウォルズ地方のバーレイ(Burleigh)【注1】という町で生まれました。父親は仕立屋で、母親は織物職人でした。当初は地元の商店で店員として働いていましたが、新大陸アメリカへの移民ブームに刺激され、渡米を考えるようになります。 そして1897年、22歳の時、米国へ渡ります。最初はオハイオ州クリーブランドでウェイターとして働いていましたが、まもなくバーテンダーの職を得ます。その後、シカゴの「パルマー・ハウス」という社交クラブのバーに移った後、さらなる大きな活躍の場を求めて1900年頃、バーの本場・ニューヨークへ向かいます。 有能だったクラドックは、マンハッタンの「オールド・ホランド・ハウス」「ホフマン・ハウス」「ニッカーボッカー・ホテル」など、当時の有名な社交クラブやホテルのバーで職を得ます。終生、米国でバーテンダーとして生きていこうと思った彼は、1917年には米国籍も申請し、認められます(英国籍は残したままの、いわゆる「二重国籍」者となったようですが、欧米では珍しいことではありませんでした)。 しかしその頃から、米国内では不穏な空気が漂ってきました。禁酒法(1920~1933)施行の動きが強まり、お酒を提供するバーやレストランの営業規制が現実のものとなってきたのです。一流クラブのバーで働くことは、クラドックにとって大きな誇りであり、生きがいでした。そのプライドや矜持もあって、禁酒法下の「もぐり酒場」でまで働くつもりはなく、米国を離れる決心をします。住み慣れたニューヨークを、45歳で離れることは大きな決断だったと思います。 1920年、禁酒法施行から間もなく、クラドックは英国行きの船に乗り、ロンドンに戻ります。帰英直後はどこで働いたのかは不明ですが、翌年の21年には、サヴォイ・ホテルの「アメリカン・バー」(1898年開業)にバーテンダーとして迎えられます。そして4年後の1925年にはチーフに抜擢されます。そして仕事のかたわら、ホワイト・レディ、パラダイス、コープス・リバイバーなど後に「スタンダード」となるカクテルを数多く考案していきます。 米国のバー文化やバーテンダーのレベルは、禁酒法施行以前は、欧州に一歩先んじていました。クラドックもそうした優秀なバーテンダーの一人でした。彼が持ち込んだ新しいカクテルの技術や知識は当然、サヴォイで働く英国人バーテンダーにも浸透し、アメリカン・バーの名声はどんどん上がっていきました。 ☆現代版シンガポール・スリングの父 サヴォイでの彼は、ドライ・マティーニのスタイルを完成させ、ラッフルズ・ホテルで生まれた「シンガポール・スリング」のレシピをより近代的なものに改良しました。今日私たちが楽しんでいる一般的なシンガポール・スリングは、ラッフルズのオリジナル・レシピではなく、クラドックが考案したレシピがベースになっています。 彼が生涯に生み出したオリジナル・カクテルは250以上にもなると言われています。そして50代半ばになったクラドックはサヴォイでの仕事の集大成として、カクテルブックを編むことを思い立ちます。これがカクテル史上、最も名著の誉れ高い「サヴォイ・カクテルブック」(1930年刊)です(写真左=The Savoy Hotel)。 このカクテルブックには約880ものレシピが収録され、美しい挿絵も有名です。全世界でベストセラーとなり、今なお版を重ね、バーテンダーのバイブル的存在となっています。日本でも、この本を教科書にして学び始めるプロも多いと聞きます(2002年には初版を下敷きにした日本語版も発売されましたが、残念ながら、初版本の追補部分にあった9種類の最新カクテルが収録されていません)。 1933年、58歳になったクラドックはサヴォイ・ホテルを退職し、同じロンドンの「ドーチェスター・ホテル(Dorchester Hotel)」のバーに迎えられます【注2】。そこで、さらにバーテンダーの仕事を続けますが、1947年、72歳で退職します(当時の新聞が彼の引退を短く報じた記事があります【注3】)。 しかし、有能なクラドックを業界がほおっておく訳がありません。その4年後、「ブラウンズ・ホテル(Brown's Hotel)」の新しいバーの開業を手伝ってほしいと懇願され、1951年、76歳にして再び現役復帰します(最終的に1955年、80歳まで勤めました)。クラドックは1930年に「(禁酒法下の)米国の現状視察」という目的で一度だけ短期間帰米しましたが、その後は終生、英国に留まりました。 ☆寂しい晩年、墓碑も近年まで不明 歴史に名を残した最高のバーテンダー、ハリー・クラドックですが、晩年はあまり脚光を浴びず、ひっそりと表舞台から去りました。そのため、彼がいつ亡くなったのかや、どこの墓地に埋葬され、墓石はどこにあるのかなどは、英国内の関係者でもよく分からなかったようです。 ところが奇しくも没後50年後の2013年、素晴らしいニュースが飛び込んできました。研究者【注4】らの調査によって、彼の埋葬された墓地が確認されたのです! それはロンドン郊外の、ガナーズベリー(Gunnersbury)という場所にありましたが、墓は、無関係な他人2人と一緒の共同墓でした(写真右 (C)Savoystomp.com )。 あまり脚光を浴びることがなかった最晩年を映すかのようで、歴史に残る偉大なバーテンダーとしては、あまりにも寂しい墓碑でした。墓碑にはフルネームの「Harry Lawson Craddock」と没した日付(1963年1月23日)、享年(87歳)だけが記されていました。 2013年3月15日、プリマス・ジン(Plymouth Gin)社【注5】がスポンサーとなり、サヴォイ・ホテル、ドーチェスター・ホテル等の関係者が墓前に集まり、墓碑にカクテルを捧げ、偉大な先人バーテンダーを偲び、たたえました。「英国のバー業界はクラドックに冷たい」と嘆いていた僕ですが、近年になって、クラドックを再認識し、再び敬意を示してくれたことを知り、とても嬉しい気持ちになりました。 「先人の積み重ねがあって、今がある」とは、どの業界にも共通する真理です。世界中のバー業界が、ハリー・クラドックの偉大な功績を、名著「サヴォイ・カクテルブック」とともに、末永く語り継いでいってくれることを心から願わずにはいられません。【注1】ロンドンから西へ200kmほど、コッツウォルズ(Cotswold)地方にある。かつては羊毛産業が栄えたが、現在では「イギリスの原風景が残る美しい田舎」として人気があり、観光客を集めている。【注2】ドーチェスター・ホテルのHPによれば、クラドックを迎え入れた1939年、その記念としてホテルのBARの壁の中に、彼のカクテル3種(マティーニ、マンハッタン、ホワイトレディ)を小瓶に密封して埋め込んだ。そして、40年後の1979年、BARの改装を機に、同ホテルはその小瓶を取り出して調べたところ、品質劣化がほとんどなかったという。【注3】"Harry Craddock, 74-year-old bartender who claims to have invented 250 cocktails, including the "White Lady" and "Paradise" has retired from the bar of the Dorchester hotel in London." ("The Lethbridge Herald" Alberta, Canada (1947))【注4】お酒の歴史についての研究者であるアニスタシア・ミラー(Anistatia Miller)とジャレッド・ブラウン(Jared Brown)。Harry Johnson、Harry Craddockという二人のバーテンダーの知られざる生涯を7年間かけて調べた成果は、2013年1月、共著「The Deans Of Drink」に結実した。【注5】クラドックが自らのマティーニには通常、プリマス・ジンを指定していた。そうした縁もあって、今回の没後50年記念の集いのスポンサーになったという。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/12/03
コメント(0)
【2013年7月13日、内容を全面改訂し、更新しました】 ◆バーテンダー三代、バー文化とカクテルの発展に尽くして【から続く】 ☆ナチスから逃れて、ロンドンへ☆ 1930年代に入ってドイツではナチスが政権をとり、欧州の政情は再び不安定さを増してきました。1938年、ハリー・マッケルホーンも仏陸軍に動員されたりします。そうした中で翌1939年、16歳となった息子のアンドリューは、49歳の父と一緒に「ハリーズ・ニューヨーク・バー」【注9】で働き始めます。 そしてとうとう、戦争が現実のものとなってしまいました。1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発。「ニューヨーク・バー」はしばらく営業を続けますが、ナチス・ドイツによるパリ侵攻が迫るにつれて、身の危険を感じたハリー一家は店を閉じて1940年、ロンドンへ移ります(ハリーはこの時、店の酒のストックを場所は不明ですが、「洞窟に隠した」と話しています)。 ☆パリ陥落、店はドイツ人が占拠☆ 1940年6月、パリは陥落し、ドイツ軍の手に落ちます。ハリーとアンドリューは、ロンドンの社交クラブ「カフェ・ド・パリ」で職を得て、バーテンダーの仕事を続けます。ハリーはこの頃、「ハリケーン(Hurricane)」【注10】という後にスタンダードとなるカクテルも生んでいます(写真左=Harry's New York BarのHPに描かれている店の正面)。 しかし、「カフェ・ド・パリ」はドイツ軍のロンドン空襲で破壊され、壊滅します。客や従業員ら約80人が犠牲となりますが、ハリーとアンドリューは奇跡的に無事でした。仕事場を失ったハリーは、リッツ・ホテルに雇われ、1階に「リヴォーリ・バー(Rivoli Bar)」というバーを開きます。 一方、ハリーの長男ヘンリーは自由フランス軍に参加、アンドリューもバーテンダーの仕事を離れて軍役に就き、英陸軍情報士官としてアフリカやドイツ国内で諜報活動に従事することになります。末娘のパトリシアは米国赤十字社で働き始めました。 ヘンリーは従軍中、運悪くドイツ軍の捕虜となりますが、後に捕虜収容所から脱出し、「ニューヨーク・バー」の店舗や、貴重な酒類が無事であることを父に知らせます。ハリーは安堵して、大戦終結後の再開を夢見て、ロンドンで仕事を続けるのです(写真右=ハリーが著したもう1冊のカクテルブック「Barflies and Cocktails 300 recipes」(1927年刊))。 ☆昔の仲間とともに「ニューヨーク・バー」再開☆ 1945年、第二次大戦が終結。パリ占領中、ニューヨーク・バーを占拠していてドイツ人も去りました。パリ解放の直後、赤十字社から派遣されたパトリシアは、かつてハリーの店で一緒に働いていたフランス人バーテンダーら従業員全員と連絡をとることに成功します。2年後の1947年、ハリーはアンドリューとともにパリに戻り、「ハリーズ・ニューヨーク・バー」をかつての仲間とともに再開します。 1954年にはアンドリュー(31歳)に長男、ダンカン(Duncan)が誕生。この頃からアンドリューは父に代わって実質、「ニューヨーク・バー」を仕切るようになります。そして、その4年後の1958年、ハリーは68年の激動の生涯を閉じます。店の経営権はアンドリューに受け継がれました。 アンドリューはその後、「ニューヨーク・バー」のオーナーとして父が残した店をさらに発展させ、ミュンヘンに支店を出すなど経営者としての手腕を発揮しました【注11】。一方、50年代後半から70年代にかけて、「ブルー・ラグーン」【注12】など数多くのオリジナル・カクテルを生み出します。 ☆ハリー&アンドリューの「志」、三代目ダンカンへ☆ 一方、アンドリューの息子・ダンカンは最初は投資関係の仕事に就き、バー経営やバーテンダーの仕事とは距離を保っていました。しかし、理由はよくわかりませんが1984年、30歳の時、それまでの投資の仕事を辞めて、「ニューヨーク・バー」で働き始めます(アンドリューら家族の説得もあったようです)。そして、その4年後の1988年、アンドリューが65歳で引退すると同時に、34歳のダンカンが経営権を引き継ぎます。 アンドリューはその後、店にはタッチしながらも悠々自適の日々を送ったということですが、1996年9月20日、心不全のため亡くなりました。73歳でした。英米の新聞各紙は、アンドリューの死を悼む記事を相次いで掲載しました(写真左=Harry's New York Barの店内風景)。 アンドリューや三代目のダンカンも、ハリーを見習い、数多くのオリジナル・カクテルを考案しました。今も刊行が続くハリーのカクテルブックの改訂版には、アンドリューやダンカンのオリジナルも数多く収録されています。しかし残念ながら、ハリーの残した有名なカクテルに比べると、残念ながら知名度はさほど高くありません。偉大すぎる創業者を持った息子や孫の苦労を思います。 ダンカンのその後、1990年代半ばまでは、オリジナル・カクテルを発表するなど精力的に活動しましたが、残念なことに98年、肝臓病のために44歳の若さで急逝。妻のイサベル(Isabelle)が急きょオーナーとなり、「ハリーズ・ニューヨーク・バー」を現在まで守り続けています。 そして、13年後の2011年、嬉しいニュースがありました。11月に「ハリーズ・バー100周年記念パーティー」が開催されたのを機に、亡きダンカンの長男フランツ・アーサー(Franz-Arthur、当時23歳)が、父の遺志を継ぎ、バーテンダーの道に進むことを決めたのです(→ このニュースを伝える英紙の報道)。この歴史と伝統のある酒場が末永く続いてくれることを、BARファンの一人として願わずにはいられません。 <完>【注9】イタリア・ベネチアには1931年創業の「ハリーズ・バー」という有名な老舗レストランバーが存在する。こちらの創業者はジュゼッペ・チプリアーニ(Giuseppe Cipriani)で、店名は、バーを任されていた共同経営者のハリー・ピッカーリング(Harry Pikering)の名にちなんだという。こちらのバーもヘミングウェイら米国人に愛されたことで知られている。 この店はハリー・マッケルホーンの「ハリーズ・ニューヨーク・バー」とは直接の関係もないが、マッケルホーンのカクテルブックの前書きによれば、「ハリーズ・バー」という名前を使うことは了承しているという。なお、本稿では紛らわしいため、マッケルホーンの店の略称は「ハリーズ・バー」とはせず、「ニューヨーク・バー」としている。【注10】標準的なレシピ(ステア): ジン3分の2、シェリー3分の1、レモン・ピール【注11】「ハリーズ・ニューヨーク・バー」の支店は、店のHPによれば現在、ドイツのベルリン、フランクフルト、ハノーバー、ケルンと、スイスのモントルーの計5カ所にある。かつてミュンヘンにあった支店はいまは存在していないようだ。 なお、「ハリーズ・バー」を名乗るバーは、【注9】で紹介したベネチアの老舗バー以外にも、ローマ、フレンツェ、ロンドン(3店)、アムステルダム、サンフランシスコ、シンガポール(なんと7店も!)、パース(西オーストラリア)、日本にも存在するが、マッケルホーンのカクテルブックによれば、このうち名前の使用について「ハリーズ・ニューヨーク・バー」の了承をもらっているのはフィレンツェの店だけという。【注12】標準的なレシピ(シェイク): ウオッカ、ブルー・キュラソー、レモン・ジュース各3分の1ずつ(クラッシュド・アイスを入れたグラスへ)、レモン&オレンジ・スライス、マラスキーノ・チェリーを飾る。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/11/30
コメント(0)
【2013年7月13日、内容を全面改訂し、更新しました】 ◆バーテンダー三代、バー文化とカクテルの発展に尽くして ハリー・マッケルホーン(Harry MacElhone、1890~1958)=写真右下=と言えば、カクテルの歴史を語るうえで欠かせない人です。バーテンダーの先駆者であり、「サイド・カー(Side Car)」「ホワイト・レディ(White Lady)」【注1】など、今日でも不動の人気を誇るスタンダード・カクテルを数多く考案した人、また1919年、初めて実用的かつ大衆向けのカクテルブックを著した人としても知られています。【注2】 しかし、ハリー・マッケルホーンが実際はどんな人物だったのかは、伝記本もないのであまり知られていませんし、うらんかんろ自身もよくわかりません。そこで、彼の名を不朽のものにした「ハリーズ・ニューヨーク・バー」のHPや彼のカクテルブックの前書きに記されたデータ、さらに海外のインターネット上の情報などから可能な限りの情報を集めて、マッケルホーンの実像に迫ってみたいと思います。 ☆夢は「大きくなったらバーマンに」☆ ハリー・マッケルホーンは1890年、英スコットランド南東部のダンディー(Dundee)【注3】で生まれました。ダンディーは19世紀、ジュート(黄麻)産業により発展し、ハリーの父もジュート織物工場のオーナーで、ジュート・ビジネスで財をなしていました。ハリーも将来は工場を継ぐものと期待されていました。しかし、ハリーは(そのきっかけは不明ですが)子どもの頃から、「大きくなったら、バーマンになる」と夢を語っていたそうです【注4】。 10代のハリーが英国でどのような青春期を過ごしたかはよくわかりませんが、ハリーは、夢を実現させようと10代後半で家を出て、フランスへ渡ります。当初は、地中海沿岸の町(French Rivieraというだけで、町の名は不明)で働いたようですが、1910年、20歳の時に、フランス南東部にある有名な温泉保養地・エクス・レ・バン(Aix-les Bains)にある「Casino Bar」という店でバーテンダーとして働き始めています。 ハリーズ・ニューヨーク・バーのHPによれば、この頃すでに、ハリーの存在は地中海沿岸のバーテンダーの間で評判になっていたといいます。後年発刊された彼のカクテルブック(1919年刊)には、この1910年に考案した初めて(?)のオリジナル・カクテル「ハリーズ・カクテル(Harry’s Cocktail)」【注5】が登場しています。 ☆パリで「ニューヨーク・バー」と出合う☆ そして翌1911年、より大きな活躍の場を求めてパリに出た21歳のハリーは、「ニューヨーク・バー(New York Bar)」という街場のバー=写真左=と出合います。オーナーはトッド・スローン( Tod Sloan )という当時有名な米国人の元騎手でした。スローンは禁酒法施行の動きが強まっていた米国に見切りつけ、パリでの新たなビジネスを考えました。そして、ニューヨーク・マンハッタンで自らが営んでいたバーの内装部材をすべて解体し、パリまで運んだのです。「ニューヨーク・バー」という名前の由来はこの徹底ぶりを象徴するものでした。 スローンに採用されたハリーは「ニューヨーク・バー」で働き始め、バーの顧客に気に入られます。しかしハリーはより大きな世界を見たいと思い、パリを離れる決意をしました。そして翌1912年、米国へ渡り、マンハッタンのプラザホテルのバーで働き始めます。しかし運の悪いことに、国際政治は不安定さを増し、2年後の1914年、ハリー24歳の時、第一次大戦が勃発してしまいます。ハリーは英空軍に志願したため、バーテンダーとしてのキャリアは一時中断することになります。 大戦は欧州に混乱を巻き起こし、数多くの悲劇や荒廃を生みましたが、一方で戦時需要に伴う好景気をもたらし、ハリーがいなくとも「ニューヨーク・バー」はパリっ子の人気に支えられて、順調に発展していきました。1918年11月、大戦は終結します。しかしハリーは(理由はよく分かりませんが)パリには戻らず、ロンドンの「シローズ・クラブ(Ciro’s Club)」【注6】という著名な社交クラブでバーテンダーの仕事を得て働き始めます。 ☆最初のカクテルブックを出版☆ ハリーは翌1919年、28歳の時、最初のカクテルブック(Harry’s ABC of Mixing Cocktails)=写真右=を出版。この本は、カクテルの普及、プロ・バーテンダーのレベル向上という点で大きな功績を残しました。また、この年歴史に残るカクテル「ホワイト・レディ」を、「シローズ・クラブ」で考案しています。 このハリーのカクテルブックは現在まで追補・改訂を重ねるロング・セラーとなっており、洋書を扱う書店で手に入れることができます。そして、少し遅れて1930年に世に出た「サヴォイ・カクテルブック」(ハリー・クラドック著)とともに、今なお、世界中の数多くのバーテンダーにとってはバイブルのような存在となっています。 「シローズ・クラブ」でもオーナーから高い評価を得たハリーは、同クラブがフランス・ノルマンディー地方の観光地ドゥーヴィル(Deauville)に出した支店の責任者を任されます。しかしハリーの夢はやはり、「自分自身のバーを持つこと」でした。そんな頃、ハリーは、スローンが「ニューヨーク・バー」を売りに出しているという話を耳にします。そしてすぐに決断して、自ら経営権を買い取ったのです。 ☆念願かなって、バー・オーナーに☆ 1923年2月、32歳のハリーは念願叶って、「ニューヨーク・バー」のオーナーとなり、店名も「ハリーズ・ニューヨーク・バー」【注7】と変更します(今日では「世界で最も有名なバー」という評価を得ています)。そしてこの年、後に店を引き継ぐことになる次男アンドリュー(Andrew)が誕生し、「ハリーズ・ニューヨーク・バー」もさらに順調に発展し続けます。1925年には、後にスタンダードとして人気を集めるカクテル「フレンチ75」【注8】を考案・発表します。 なお、ハリーは今日でもなお高い人気を保ち続けるカクテル「サイド・カー(Sidecar)」の考案者と紹介されることが多いのですが、「Harry's ABC Of Mixing Cocktails」の初版本の「サイドカー」の項で、「ロンドンのバックス・クラブ(The Buck's Club)の人気バーテンダー、マクギャリー(Pat MacGarry)が考案したもの」と記し、自分が考案者であることを否定しています。しかし、「サイドカー」の名を広めて発展させ、その人気を不動のものにしたのは、やはり、ハリー・マッケルホーンであることを疑う人は、現代では皆無でしょう。 【へ続く】【注1】標準的なレシピは、サイド・カー: ブランデー30ml、コアントロー15ml、レモンまたはライム・ジュース15ml、 ホワイト・レディ: ジン30ml、ホワイト・キュラソー15ml、レモン・ジュース15ml ※ホワイト・レディは、当初マッケルホーンが1919年に考案した際はミント・リキュールがベースだったが、10年後、マッケルホーンはジン・ベースに変えている。一方、サヴォイ・ホテルの名バーテンダー、ハリー・クラドックが1920年に考案したという説もあるが、現在では両者とも考案者とみる見方が主流だ。【注2】世界初のカクテルブックは米国のジェリー・トーマスが1862年に著した「How To Mix Drinks」と言われているが、その内容は決して実用的・大衆向けとは言えなかった。バーテンダーの間で一番信頼を勝ち得たのは、やはりマッケルホーンの本や「サヴォイ・カクテルブック」だった。【注3】エジンバラの北北東約80kmに位置するスコットランド第4の都市。現在の人口は約15万人。【注4】“When I get older, I will be a barman”, so was Harry MacElhone’s dream.(From HP of Harry’s New York Bar)【注5】レシピ: ジン60ml、スイート・ベルモット30ml、アブサン2dash、ミント3本(2本はすり潰し、残りの1本は飾り用に)。ロング・スタイルで味わう。【注6】「シローズ・クラブ(Ciro's Club)」は、ハリーのカクテルブックの現在販売されている本(追補・改訂版)では一部、「Cairo’s Club」と表記されてところがあるが、誤植であろう。
2010/11/29
コメント(0)
全7件 (7件中 1-7件目)
1