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オランダへの旅・番外編です。備忘録の意味も込めて、オランダのビール・ブランドについて、最後に改めて、可能な限りご紹介しておきたいと思います(基本は、旅の間に飲んだ銘柄ばかりです。願わくは、この記事を読んだ輸入代理店の皆さまがもっと、オランダのビールに興味を持って、日本に紹介・輸入してくださいますように!)。 (写真は、オランダの大型スーパーのお酒売り場の棚に並ぶビール。日本でまったく知られていない銘柄がたくさんありますが、よく見ると、棚には隣国ベルギーのビールも結構混じっています。オランダ・ビール、頑張れー!)。【ハイネケン(Heineken)】 1863年創業のオランダ最大のビールメーカー。ハイネケン・グループ全体では、ビール総生産量、総輸出量は世界1位。総売り上げ(販売量)では、「バドワイザー」ブランドなどで知られるベルギーの「アンハイザー・ブッシュ・インベブ」に次いで世界2位です。 世界170カ国以上で販売され、とくにヨーロッパや北米、およびアジアを中心に強力な支店網を持っています。日本では、キリンビールがオフィシャル輸入代理店となり、ライセンス生産も行っています。【グロールシュ (Grolsch)】 1615年設立の老舗。オランダのビールメーカーで最も古い歴史を持っています(オランダ語では「フロールシュ」と発音されます)。2016年より日本のアサヒビールの傘下になりました。約50カ国・地域で販売しています。 針金のような金具で蓋(ふた)を止めるスイングトップ・ボトルで知られ、オランダ国内では高級ビールとして認知されています。 米国で開催された世界のビールコンテスト (BTI chicago USA) では、1995年~1997年の3年連続で金賞を受賞しています。 【アムステル(Amstel)】 日本ではあまり知名度はありませんが、1870年に創立された、オランダを代表するビール銘柄の一つです。アムステルダムでも「Amstel Bier」の看板をよく目にします。国内では、ハイネケン、グロールシュ、バヴァリアに次ぐ4位 (主に欧州域内向けに販売されています)。 ブランド名は酵造所の近くを流れる「アムステル運河」に由来します。1968年にハイネケンに買収されハイネケン・グループの傘下となりましたが、現在も「アムステル」ブランドのまま販売されています。【ヴィクセ(Wieckse)】 リンブルフ州マースリヒトにあった「旧ドゥ・リデル醸造所(De Ridder)」が発売するビール。「ヴィクセ・ヴィッテ」は、オランダを代表するホワイトビールとして知られています。 醸造所は1857年の設立(「Ridder」とは「騎士」を意味するオランダ語)。家族経営で運営されてきましたが、1982年に後継者がいないため、ハイネケン社傘下となりました。なお、生産体制などの問題等からドゥ・リデル醸造所は2002年末をもって閉鎖となり、現在ではハイネケンの関連工場で造られています。【バヴァリア(Bavaria)】 1680年、北ブラバント州・リースハウトで創業したスウィンケルズ・ファミリーの主要ブランド。1930年代前半に誕生しました( ブランド名は独バイエルン州が由来で、「ドイツ風のビール」と言う意味です)。 オランダではハイネケンと並ぶ人気銘柄で、欧州はもちろん、北米やアジア、アフリカなど約120カ国で販売されています。世界で初めて、プルトップタイプのペットボトル・ビールを製品化したメーカーとしても知られています。【スウィンケルズ(Swinkels)】 「バヴァリア」で知られる「スウィンケルズ・ブリュワリー」が販売する、創業家ファミリーの名を冠した銘柄(1719年に初めて登場)。 スウィンケルズ・ファミリーは、1930年代に売り出した「バヴァリア」がヒットして急成長し、今ではオランダ第2のメーカーです。1999年にはトラピスト・ビールの人気銘柄「ラ・トラッペ」(以下に紹介)も買収するなど、事業を拡大しています。【ラ・トラッペ(La Trappe)】 オランダ北ブラバント州にある、コニングスホーヴェン修道院で醸造されるトラピスト・ビールの銘柄。1882年に設立され、1884年からビール醸造を開始しました。 厳格なカトリックの修道院ですが、醸造関連設備は大規模でかつ機械化されています。 1996年、高齢化と人手不足のため「バヴァリア」と提携し、その傘下に入りました。現在ではすべての製造過程に修道士が直接関わることはなくなりましたが、それでも(修道士が)毎日数時間、醸造工程をチェックしているそうです。 【アルファ(Alfa)】 ベルギーとドイツに挟まれた、オランダ最南部リンブルフ州スヒネンで、1870年にメーンス一家が創業。現在も家族経営を行っている会社です。オランダで唯一、温泉水100%で製造されているピルスナー・ビール。 1960年までは醸造所のあるリンブルフ州内のみで飲まれていましたが、それ以降、事業の拡大とともにオランダ全域で販売されるようになりました。【ヘルトグ・ヤン(Hertog Jan)】 1915年に旧「アルセンス醸造所」で製造がスタート。1995年にベルギーのビールメーカー「インベブ」のグループ会社になった後に、「ヘルトグ・ヤン醸造所」と名前が変わりました。 「ヘルトグ・ヤン」の名前とラベルの特徴的な王様の肖像は、現在の醸造所があるリンブルフ州にかつて存在した、中世ネーデルラントの「リンブルフ公・ジャン1世」に由来しています。【ブラウェライ・アイ(Brouwerij ‘t IJ)】 1985年創業の新興メーカー。「Drukwerk」というバンド・メンバーであり、ビール好きだったカスパー・ピーターソンが、ベルギースタイルのビールを目指して創業。アムステルダム市内の公営浴場跡の建物に蒸留所を造りました。 蒸留所のすぐ横にはオランダ最大の風車があり、併設のビア・パブは「風車のパブ」としてアムステルダムの人気スポットになっています。会社は現在、ピーターソンから別のパートナーに引き継がれましたが、独特のスタイルのビールを多品種生産し続けています。【御礼】番外編をもって、連載「オランダへの旅2018」は終了いたします。長い間のご愛読ありがとうございました。 うらんかんろ※過去の「旅報告」連載は、トップページ中ほどのリンク「旅は楽しい」からお読みになれます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/08/11
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オランダへの約1週間の旅は無事終わりました。旅日記を読んで頂いた皆さま、長い間、本当に有難うございました。最後にこれまでご紹介しきれなかった写真や話題をいくつか紹介して締めくくりたいと思います。 滞在期間中、一度も利用しませんでしたが、アムステルダムにはメトロ(地下鉄)もあります。駅間がわりと長いので、中心部の観光には不向きですが、郊外へ行くには便利かもしれません。共通交通カードも使えます(写真は、中央駅前のメトロ駅への降り口)。 アムステルダムの4~6階建ての古い建物は、上の階へに行くほど前に少しせり出して(見た目は、少し前に傾いたような状態)います。なぜだろう?と思っていましたが、地元の人が解説してくれました。 建物にはエレベーターはありません。なので家具など重い荷物を上の階へ運ぶのは大変です。そこで考え出されたのが、前部の最上階にフックを取り付け、そこにロープを掛けて、引き上げるというアイデアです。滞在期間中、最終日に実際、この方法で荷物を上げている光景に出くわしました。 これはオランダの郵便ポスト。横長です。 これはオランダのパトカー。工事業者の車みたいですね。 自転車大国のオランダには、いろんな自転車があります。この自転車の前のボックスでは子供を乗せたり、荷物を運んだりします。 花屋さんも個性的。店のアピールが上手です。 アムスにはこんな素敵なアーケードもあります(というか、欧州の街ではよく見かける風景かも)。 有名観光地のアムステルダムなのに、意外と見ないなぁと思ったら、一度だけ観光馬車を目撃しました。 オランダ在住の日本人の方がぼやいていました。「オランダ人は公共交通機関に乗る際のマナーが悪い。きちんと列に並ぶことができない」と。確かに、滞在中、電車とかトラム、バスに何度も乗りましたが、後から来ても横に並んで平気で割り込んできます(個人主義が大好きな国民とは言え、これはいただけませんね)。 アムスのフライドポテトの人気店とかでは客はきちんと行列していましたが、これはおそらくオランダ人以外の外国人が多く含まれているからでしょう。 最後に、アムスの日本語看板の店をいくつかご紹介(5枚目の写真、いったいどういうつもりで、こう書いたのやら?)。 スキポール空港ターミナル内で名物の「スシ・バー」。欧州へ行くたびに何度か見ていて、一度食べてみたいと思いつつ、まだ味わったことはありません(お味の方はどうなんでしょうか?)。 名残惜しいけれど、オランダともお別れ。本当に楽しい、充実した旅でした。お世話になったオランダの皆さま、本当に有難うございました。<番外編に続く>※過去の「旅報告」連載は、トップページ中ほどのリンク「旅は楽しい」からお読みになれます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/08/09
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さて、この旅日記もそろそろ終わりに近づいてきました。毎回「前振り」として、オランダ事情をあれこれ紹介してきましたが、まだ取り上げてなかった大事なテーマがありました。オランダ国内での語学教育についてです。 今回の訪問前、「オランダ人の95%はきれいな英語が話せる(逆に、オランダ語しか話せない割合は5%程度)」と聞いていました。実際、そうでした。年配の人(概ね70歳以上)以外は、英米人以上にきれいな発音で流暢に喋ります。 英語を母国語としない国民での「英語力ランキング」では、オランダは毎年、デンマーク、スウェーデンと並んでいつもベスト3に入っています。なので(オランダを)実際訪れた人からは「観光旅行だけなら、どこでも100%英語で通じるよ。オランダ語なんて覚える必要ないよ」とも言われていました。 それでも、僕はオランダに旅行に行く前、オランダ語を3カ月ほど独学で勉強しました。やはり現地では現地語でコミュニケーションがとれたら楽しいだろうし、相手との距離もうんと近くなると思ったからです。しかし結果的に、旅行中オランダ語を使った(喋った)のは、数えるほどでした。 毎日、比較的毎日よく使ったのは、Goodemorgen(フーイェモるヘン=おはようございます)、Goodemiddag(フーイェミダッハ=こんにちは。Halloも普通に使います)、Tot Ziens(トッツィーンズ=さようなら)、Dank u wel(ダンキューヴェル=ありがとうございます)、Pardon(パルドン=すみません! →仏語でも同じですね)、Het is lekker(ヘッティス レッカー=とても美味しいです)くらいです。 一度だけ使ったのが、お土産のコーヒー豆を買った店のお姉さんに「どこから来たの?」と聞かれて答えた Ik kom uit Japan.(イッコム・アウト・ヤパン=日本から来ました)。「観光でわずかの滞在なのに、なぜそんなにオランダ語が喋れるの?」と嬉しい誉め言葉を貰いましたが、まぁ、丸暗記していただけです(笑)。 しかし冒頭に書いたように、オランダ人はほぼ誰でもきれいな英語を話すので、結果的に、旅行中の会話は基本、ほぼ英語ということになりました(もう少し、僕がオランダ語が上手く話せたら、きっと相手もオランダ語で返してくれたでしょうが…)。(写真は、ダム広場そばのオープン・カフェ)。 余談ですが、オランダ人は英語だけでなくドイツ語やフランス語など他の言語も話せる人が目立ちます。EU代表部の調査によれば、EUの中でオランダ人の「マルチリンガル度」は第3位なのだそうです。具体的には、国民の約9割がバイリンガル。約8割が3カ国語以上話すマルチリンガルで、「母語+2言語以上」話す割合は77%、「母語+3言語以上」話す割合は37%もあるそうです(なかには12カ国語を話す人もいるそうです)。 それにしても、なぜオランダ人はこんなに英語が上手いのでしょうか? 元々、インド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派に属するオランダ語は、同じ語派の英語やドイツ語などと非常に近い言語で共通の言葉も多いので、習得しやすいという有利さはあります。さらに、オランダ人は好奇心旺盛で、知るための努力を決して惜しまない=語学を学ぶことにも意欲的という国民性もありました。 しかし、それでも欧州でも群を抜くオランダ人の語学力の高さには、いくつかの理由があると言われています。 以前にも一度書きましたが、人口1700万人で九州程度の国土しか持たず、たいした資源もない小国のオランダは、内需だけでは経済を維持できません。外国と交易するしか国を発展させる術(すべ)がなかったので、近隣国の英語やドイツ語を理解する(話せる)ことはビジネス上、必要不可欠で、とても重要でした。逆に、国際性ゼロのオランダ語が役に立たないことをよく心得ていました(写真は、アムスのフライドポテトの専門店前の行列。行列は好きじゃないオランダ人ですが、ここばかりはいつも長い列が)。 加えて、海洋国家として発展してきたオランダ人は元々、良い仕事を得るためには外国で働くこともいといませんでした。逆に、優秀な人材を外国から呼び込むためには、ビジネスの公用語を英語にする必要があったのです。実際、オランダ国内の官庁や民間企業では、英語が話せることを採用条件にしているところが多いそうです。なので、極端な言い方をすれば、英語ができなければオランダでは就職もできないのです。 一方、政府は(とくに戦後ですが)、幼少期からの徹底的な英語教育に力を入れてきました(英語教育は小学校の7、8歳頃からスタートします)。初等英語では、動詞の変化や定冠詞の用法など文法を教えることはせず、コミュニケーション能力に重点を置いているそうです(私立の中学校などは「在学中に3カ国語を習得させます」を宣伝文句にしているところもあるとか)。(写真=アムスのパブはいつも賑やか。パブの従業員も明らかにオランダ人と分かる場合以外は、基本、英語で話しかけてきます)。 また、オランダ国内で放送される英語のテレビ番組(映画、ドラマ、ニュースなどかなり数多くあります)には、必ずオランダ語の字幕を付けることが法律で義務付けられています。オランダ人の話によれば、字幕は意味を確認する程度にしか使わないので、結果的に、耳から自然と英語を覚えてしまうそうです。 言語学的にも有利なのに、”英語シャワー”的な環境が日常的にあるオランダ人は実に恵まれていますが、それでも日本人の英語教育のレベルアップにもいくつか参考になることがあるかと思います。とくに、外国映画や外国テレビ局のニュースを字幕付き画面で、耳から聞くこと(理解すること)はとても大事だと思います。 いずれにしても、日本各地に外国人がどんどん増えてくる昨今、ビジネス上のことを考えても、日本人はもっと英語能力をアップする必要があるでしょう。とくに僕自身も含めて痛感するのは、欧州人と比べた場合の、日本人の(英語の)ボキャブラリー不足です。これは自らの努力でカバーしていきたいものです。 さて、最終日も晩ご飯が近づいてきましたが、まだ少し時間があるので、アムステルダム中心部にある酒屋さんにお邪魔しました。 白州、山崎などジャパニーズ・ウイスキーも売っていますが、目玉が飛び出るほど高~い! 山崎ノンヴィンテージが€158(約2万円!)とは唖然。日本でも7千円~1万円くらいで売っている悪どい酒屋はあるけれど、さすがに2万円はないでしょう。 レジ向こうの棚はこんな感じ。量り売り用の樽(オランダ産モルトウイスキーやジュネヴァ)が5種類もあります。オランダ産のシングルモルトはお土産で1本購入しました。他にもスコッチのシングルモルトもあれこれ置いていましたが、値段もそれなりでした。まぁ、帰国日のアムスのDFS(Duty Free Shop)で何か探します。 アブサンも結構いろいろ置いています。 お酒を入れるためのガラスボトルもいろいろ売ってます。バック・バーにある樽出しの酒をこれに詰めてくれるのかな? ウインドウ・ディスプレーに結構力を入れてるお店でした。気になるボトルはあったのですが、個人で持ち帰るには限界はあるし、航空便で送ってもらうと馬鹿みたいに高い送料がかかるし…。結局、買ったのは1本だけ。 さて、買い物も終えて、オランダ最後の晩ご飯の時間です。実は、当初はオランダ料理の(初日の夜とは)別の店に行くつもりをしていました。しかし、夕方に近づいてもその店の中には人気(ひとけ)がありません。臨時休業みたいです(貼り紙くらいしておいてほしいなぁ…)。 という訳で、きょうは滞在中何度か前を通り、「わりといい感じの店だなぁ…」と気になっていた「Mr.CRAB」というシーフードの店にお邪魔することに。 店内に入ると、新鮮なシーフードのディスプレー・ケースが目に入ってきます。素材をできるだけ生かした料理を提供してくれるみたいです。 メニューを見ると、ハーグで食べて美味しかったニシンがありました!(Taditional Dutch Herring served with onions and pickles)。もう一度食べてみたいと思い、これは”ぜひもの”で注文。 さらに、きょうは魚で攻めようと思い、お腹のふくれる揚げ物料理も( Deep Fried Lekkerbek with sauce ravigotte/※「Lekkerbek(レッカーベック)」とはタラの一種の魚で、この揚げた一品はオランダの人気料理の一つなんだとか )。当たり前だけど、食べてみると、限りなく英国のパブ料理、フィッシュ&チップスのお魚みたいですが、まぁ普通に美味しかったです)。 この店、決してイタリアンをうたっている訳ではありませんが、なぜかパスタもメニューにあります。パスタも久しく食べていなかったので、追加でお願いしました(ロブスターがたっぷり入ったクリーム・ソース味。味付けは上手で、期待以上の旨さでした)。 さて晩ご飯も終えてホテルに帰ります。でも、やはり毎日のルーティーンは崩す訳にはいかないと、帰る途中にあったオープンカフェ&バーに立ち寄り、クールダウン。ウイスキー&ソーダで充実したアムステルダムの夜を締めくくりました。 そんなこんなでオランダ最後の夜もおしまい。明日はいよいよ帰国の途につきます。あっという間の1週間。アムステルダムの魅力は、まだまだたくさんあるはずですが、それを満喫するには日数が全然足りません。アムスは確実に、もう一度来てみたいと思える街の一つになりました。ダンキュー・ヴェル、アムスタダム(オランダ語ではこう聞こえます)! <15回目に続く>※過去の「旅報告」連載は、トップページ中ほどのリンク「旅は楽しい」からお読みになれます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/08/07
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オランダは欧州の国なので、基本、宗教はキリスト教です。そして、プロテスタントの宗教改革指導者、ジャン・カルヴァン(1509年~1564)=写真下は肖像画(画像引用元:Wikipedia)=の教え、すなわち「カルヴァン主義」が根本となって出来た国です(カルヴァンの名は世界史の授業で聞かれたことがあるかと思います)。 おそらく私と同様、皆さんも「キリスト教のことは難しくてよく分からないぞー」とおっしゃるでしょう。私にも理解不能の部分もありますが、少し歴史的背景も含めて、出来るだけわかりやすく説明してみたいと思います。 プロテスタントによる宗教改革はドイツのマルティン・ルターをもって始まると一般には言われ、カルヴァンは、第2世代の宗教改革者と位置づけられています。カルヴァンはジュネーブに住むフランス人亡命者でした。ルターの行った宗教改革活動の場は、主に領主の支配権が強い農村地帯でしたが、ジュネーブは商人の力が強く、自治独立を求めて、カトリックを信奉する神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)と争っていました。 カルヴァンは1536年、『キリスト教綱要』を出版。 徹底した聖書中心主義に基づき、伝統的なカトリック教会を批判して、「神の絶対的な権威を強調し、神による救済は予め定められている」という「予定説」を主張し、信者には「クリスチャン生活の実践」を求めました。 カルヴァンはまた、「人間の神への絶対的服従は、現世の天職に励むことでしか示すことはできない」と説きました。そして「職業は神から与えられたものである」とし、得られた富の蓄財を認めます。 このようなカルヴァンの教えは、西ヨーロッパの商工業者=中産階級に支持されて商業発展のよりどころにもなり、この結果、近代資本主義が生まれたとも言われています(写真は、アムステルダム中央駅の向かいにある「聖ニコラース教会」。1887年の建立。聖ニコラースは「船乗りたちの守護聖人」ですが、サンタクロースの元祖ともいわれています)。 カルヴァンは有力商人の支持を得て、宗教(教会)改革を実現させます。宗教と政治、教会と国家を機能区分し、質素で禁欲的な生活を推奨しました。オランダは「カルヴァン主義」に基づき、世界で初めて市民社会を実現した国とも言われています。 一方、商人たちは「神に救われる人間は、禁欲的に天命を務める人間のはず」と信じて、仕事に励みました。増えた収入も享楽目的には使わず、更なる仕事のために使いました。その結果、オランダは東インド会社による交易で世界的な海洋帝国を築きます。商業を通じ国際的に信者が拡散していきます。カルヴァン派はフランスでは「ユグノー」、イギリスでは「ピューリタン(清教徒)」などと呼ばれました。 ただし、プロテスタントのカルヴァン派(主義)が誕生させた国とも言えるオランダですが、オランダ人の現代の信仰観はちょっと変わった状況になっています。オランダ中央統計局の調査(2015年)によれば、キリスト教(カトリック24.4%,プロテスタント15.8%),イスラム教(4.9%),ヒンズー教(0.6%),仏教(0.5%),無宗教・その他(53.8%)です(昔はもっとプロテスタントの比率が多かったそうですが…)。 「あれ? カトリックの方が多いの?」と思われるかもしれませんが、これは1581年のネーデルラント連邦共和国独立まで、熱心なカトリックでもあったスペイン・ハプスブルグ家に長く支配された影響が今も色濃く残っている証でしょう。しかしそれよりも注目すべきは、統計の最後の「無宗教・その他」が過半数を占めていることです(写真は、アムステルダム中心部にある「新教会」。15世紀の建立。歴代オランダ王の戴冠式が行われる由緒正しき教会なんだとか)。 現地に住む日本人の方の話によれば、「現代のオランダ人でキリスト教に信心深い人は年々少なっている。カルヴァン主義はそもそも教会の権威を否定していたから、日曜に教会へ行く人なんて、ほとんどいない。若い世代の宗教離れは今もますます進んでいる」そうです。 しかし、それでもオランダは小国でありながら、昔から移民や迫害された難民を数多く受け入れてきた「博愛と寛容の国」です。募金や寄付にも極めて熱心です。「質素倹約につとめなさい。蓄財することは善である。そして、その蓄財を使って他人を助けることで人は救済される」というカルヴァンの教えは、宗教離れが進む現代でも、オランダ人の心に深くしみついていると言われています。 さて、オランダ滞在5日目。「風車のパブ」見学を終えた僕らは、再びアムステルダム中央駅まで戻ってきました。時間はお昼時。きょうは「欧州最古の中華街」と言われるアムスのチャイナタウンで美味しい中華を食べようということになりました。 アムスのチャイナタウンは、中央駅から南へ歩いてほんの6、7分くらいのエリアにあります(いわゆる「飾り窓地区」のすぐ東側辺りです。通りの表示は、この辺りは漢字併記なのが面白いですね)。 チャイナタウンの中には、こんな寺院のような建物も。 アムスのチャイナタウンはロンドンやニューヨークのチャイナタウンに比べると、かなり小規模でした(神戸の中華街よりも小さいです)。とは言っても、やはり雰囲気はチャイナタウンで、オランダにいることを一瞬忘れてしまいます。 で、僕らがお邪魔したのは、「新皇酒楼(New King)」という広東料理のお店。お昼時ということでほぼ満席状態でしたが、2人なのですぐにテーブル席に案内してくれました。 アムステルダムのチャイナタウンで飲む青島ビールの味わいも格別です。 とりあえず、麺が食べたい!コメの飯が食べたい!ということで、五目焼きそばと焼き飯。当たり前ですが、一皿の量が多い(日本なら2人分くらいの量!)。 店内の壁に、お箸を使う時のマナーというタペストリーが掛けてありました。でも、よく見ると、書かれている言葉は日本語。分かる人は少ないのに、なんで?という感じ。 食事の後は、そろそろ実質最終日ということで、お土産をあれこれ探しに行くことに。まずはムント広場のすぐそばにある、オランダ名産の高級陶磁器「デルフト焼」の店へ。 伝統的な絵柄が多い中、モザイクのようなモダンなデザインが施された「タパス皿セット」を購入。これで€50弱(2枚目の写真は、帰国後実際に盛り付けに使った時の様子)。 その足で、さらにお土産を物色しようと、近くにあった地元の大手スーパー「アルバート・ハイン」に転戦。 オランダ土産と言えば、やはりチーズは外せないということで、結構大量に購入(でも、スーパーだからお値段はめちゃリーズナブル!)。重いお土産は、とりあえずいったんホテルに帰って部屋に置き、再び街へ(街の中心部に位置するホテルを選ぶと、こういう時にほんとに助かります)。 さて、晩ご飯前の本日最後の目的地は「アンネ・フランクの家」。ホテルから西へ歩いて10数分の距離です。アンネ・フランク(Annelies Marie Frank、1929~1945)=写真(画像引用元Wikipedia)=は、言うまでもありませんが、有名な『アンネの日記』の著者として知られるユダヤ系ドイツ人の少女です。 僕自身、子供の頃、親から本を渡されましたが、涙なくしては読めなかった記憶があります。 「アンネ・フランクの家」は今回の旅では、時間に余裕があれば、当日のチケットででも買って行こうと思っていました(第二次大戦と陰惨なユダヤ人迫害の悲しい記憶が染みついた場所なので、観光という雰囲気にはなんとなくそぐわないというか、あまり積極的には足を踏み入れにくい場所というイメージでしたが…)。 来てみると、やはりアムステルダムの観光スポットでは一、ニの人気を争う、世界中から人が集まる場所で、基本、事前予約チケットがないと入場はかなり難しいことがわかりました。 という訳で今回は、時間もないので内部の訪問は断念し、外からだけ見学することにしました。ただし、せっかくの機会なので、アンネ・フランク一家のことを少しはおさらいしておきたいと思います(写真は、アンネ・フランクの家<博物館>の入り口に並ぶ人たち)。 フランク一家は元々ドイツのフランクフルトで暮らしていましたが、第二次大戦中のナチスのユダヤ人迫害が激しくなると、一家でオランダのアムステルダムへの亡命を決意します。 しかし、オランダがドイツ軍に降伏し占領されると、身の危険を感じてアムステルダム市内の、プリンセンフラハト通り263番地の隠れ家で潜伏生活を送るようになりました。それがこの建物です。 この建物の裏につながる「後ろ家」の3階と4階部分に、隠れ家はありました。3階の本棚の裏に「秘密の入口」があり、開けると右手に4階へ上がる階段があります。 食料はレジスタンス活動家であった食料品店から購入していましたが、戦況が厳しくなると、食料や野菜の確保が難しくなってきます。電力も制限されていき、暖房の使えなくなると、厚手のコートを重ね着したりして体を温めました(写真は、「隠れ家」に通じる階段を隠していた本棚 (C)Wikipedia)。 『アンネの日記』は、1944年8月1日の記述を最後にして終わっています。3日後の8月4日朝、フランク一家は、密告を受けて捜索に来たナチス親衛隊(SS)に発見され、一緒に隠れていた他の家族と共に全員が逮捕されます。 アンネは姉のマルゴットとともにベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送されましたが、同収容所の不衛生な環境に耐えぬくことはできず、チフスを罹患したため、1945年3月上旬頃、亡くなりました。まだわずか15歳でした。マルゴットもこの収容所で亡くなりました(写真は、アンネの部屋。(C)画像提供Tripadviser)。 隠れ家での生活は2年間に及び、その間、アンネは隠れ家での出来事や思いを日記に書き続けました。日記は一家が逮捕された後、父オットーの会社の社員で、隠れ家住人の生活を支援していたミープ・ヒースという人がこれを発見し、戦後まで保存していました(写真は、日記の原本(C)airfrance.com)。 家族の中でただ一人戦後まで生き延びたオットーは、ミープからこの日記を手渡されます。そして、娘アンネの「戦争と差別のない世界になってほしい」という思いを全世界に伝えるため、日記の出版を決意。1947年にオランダ語の初版が出版されました。今では60以上の言語に翻訳され、2500万部を超える世界的ベストセラーとなっているのはご承知の通りです(写真は、アンネ・フランクの家のそばの公園に立つ「アンネの像」)。 ヒトラーという狂信的な独裁者がユダヤ人迫害を生み出したと言われていますが、そのヒトラーを生んだのは、普通のドイツ国民でした。第一次大戦の敗戦で経済が疲弊する中、ドイツ国民は民主的な選挙でこの独裁者を当選させたのです。一時の国民的熱狂が、その後どんな悲惨な結果を生んだのかという教訓を私たちは忘れてはなりません。このことは今の日本にも当てはまるような、そんな危うさを感じるのは僕だけでしょうか。 いずれにしてもアンネのような人種的偏見に基づく悲劇(迫害)は、もう二度と繰り返してほしくない歴史です。我々は歴史を教訓、鏡として学ぶべきでしょう。 <14回目に続く>※過去の「旅報告」連載は、トップページ中ほどのリンク「旅は楽しい」からお読みになれます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/08/04
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聞いたことがある方も多いかもしれませんが、英語に「Let's go Dutch!(割り勘にしようよ)」という言い回しがあります。僕自身、なぜ「Dutch(オランダの、オランダ人)」なんだろう?とずっと疑問に思ってきました。調べてみると、この言い回し、「英国人がオランダ人がケチであることを皮肉って言い始めたこと」が由来といいます。 しかし、当のオランダ人はこの言い方を嫌うそうです。「私たちはケチではない。質素倹約なだけだ」と(なので、オランダ人の前では決して使ってはいけない言い回しなんだとか)。実際はどうなんでしょうか、旅で出会ったオランダ人の行動を見たり、現地在住の日本人に聞いてみたりすると、彼らの本当の姿が見えてきました(写真は、アムステルダム中心部の裏通り)。 オランダ人の「ケチ」については、いろんな逸話が伝わっています。「外食はしない」「ブランド物は買わない」「他人におごったりしない」(「ズボンは穴が空いてもパッチワークしてはき続ける」「靴下は穴が空いてもはき続ける」とも。後者はフランス人も同じらしいです)。これらはある意味本当なのですが、オランダ人にとっては、理由があっての行動様式なのです。 オランダ人は基本、食事で贅沢しません。フランス人は「食べるために生きる」と言われますが、オランダ人にとっては「生きるために食べる」のであって、食事は「空腹を満たすためのもの」なのだそうです。連載初めの方の回でも書きましたが、彼らは、晩ご飯を外のレストランで食べるなんてことは、必要がない限りしません(ランチは外食もしますが、まず高級な店には行きません)。「晩ご飯は家で家族と」が原則です。 ブランド物の服やバッグもあまり持ちません(実際、オランダ滞在中、ブランド物のバッグを持った地元の人はほとんど見かけませんでした。そういうバッグを持っているのは、我々のような観光でやって来た外国人ばかりです)。 ファッションは基本質素で、地味です。パリやローマの街角では、目を引くようなおしゃれな格好の女性がたくさん歩いていますが、アムステルダムではほとんど見かけません。基本、H&MやGAPのような店で買ったような服装で通勤しています。オランダは自転車通勤する人がとても多いので、そういうカジュアルな格好の方が動きやすくていいのでしょう(写真=アムステルダム市内の橋の欄干にはフラワー・ポットが飾られている光景をよく目にします)。 また、現地の人に聞くと、職場などの仲間と一緒に食事に行ったり、飲みに行っても、おごったり、おごられたりという習慣は、まずないそうです。上司や先輩、後輩の間でも、いわゆる完全「割り勘」にはしません。みんな、自分が食べた分だけを払います。これが彼らにとっての完全な「個人主義、平等主義」です。 なので、オランダ人は自分たちの金銭感覚が「ケチ」と言われることを嫌います。「自分たちはケチではなく、金銭にフェアで、実質的で、合理的なだけ」「”節約は美徳”を実践しているだけ」と思っています。そして、彼らは「自分たちは金を使うべきところにはちゃんと使っている」と反論します。 その実例としてよく示されますが、オランダ人は募金や寄付に熱心です。高齢の方が、長年ためたお金を全額寄付することはよくあるそうです。ギャラップ社の調査(2015年)によれば、世界寄付率ランキング(「見知らぬ人を寄付で助けた国民の割合」)で、オランダは世界第7位でした(日本はなんと102位。情けないなぁ…)。東日本大震災では、オランダからは約10億円もの寄付が届いたそうです。募金・寄付好きの国民性には宗教的背景(カルヴァン主義)もあるそうですが、この点については別の機会にまた触れたいと思います。 さて、オランダ滞在も5日目になりました。本日は観光としては実質最終日です。きょうはアムステルダムに来たら、やはりこれは外せないという「運河クルーズ」に朝イチで行きます。 「運河クルーズ」は何社かが運航していますが、僕らは中央駅前から出ている「ラバー・クルーズ」の1時間クルーズ(€16)に申し込みました(予約もできますが、キャパの大きい船が15分~30分おきくらいにたくさん出ているので、余程のことがない限り予約は不要です)。 船内はこんな感じ(2枚目の写真)です。乗客はイヤホンを渡されます。席のそばにはイヤホン・ジャックがあり、日本語も含む約15カ国語でオーディオ・ガイド放送も聞けますが、船に同行するガイドさんも道中、英語でしばしば説明するので両方の説明が聞こえてきて、ややこしいです。 船が出航するとすぐ右側に、丸みのある高層の建物が見えてきました。皆さん、これ何の建物だと思いますか? 聞いてびっくり!自転車置き場ビルなんです。ご承知のように、オランダは自転車通勤の人がめちゃくちゃ多いです。人口よりも自転車の数が多いとも言われているので、自転車置き場のスケールも半端じゃないですね。 船はしばらくすると、道路橋の下をくぐり、いったん中央駅北側にある汽水湖に出ます。 汽水湖をしばらく航行した後、再び橋の下をくぐり、中央駅よりも南側の運河に入ります。 ゴッホの絵にもよく描かれる「跳ね橋」です! これは17世紀に造られたという木製の跳ね橋で、「マヘレ橋(Magerebrug)」と言うそうです。実に、オランダらしい風景ですね。 大きな船が通る時は当然橋を跳ね上げます。今は電動ですが、昔は手動で開閉していたそうです。運河にかかる橋は現在、普通の石造りの橋がほとんどで、跳ね橋は数えるほどしかないそうです(ボートは天上が一部空いて見やすい構造。僕らは屋根のある船内に座っていますが、日焼けも苦にしない欧米系の外国人は、船尾のオープンデッキに集まっています)。 運河には、実際に居住している「ハウスボート」が数多く浮かんでいます。見られることを意識しているのか、花や花壇で飾ったボートも目立ちます(維持費に結構カネがかかるでしょうね)。観光客に有料で公開されているハウスボート・ミュージアムもあります。 運河沿いには、東インド会社を通じた貿易でしこたま儲けた豪商の館もたくさん残っているそうです(この写真に写っているのがそうかは未確認ですが…)。 これはオランダを代表する画家レンブラントが埋葬されているという西教会。でも、教会内での埋葬場所がよく分かっていないんだとか。 運河を往くツアー船を外から見たらこんな感じです(これは僕らが載った船そのものではありませんが、同じ会社の船)。 これはオランダ海洋博物館。そばに係留されているのは、18世紀に東インド会社が運航していた「アムステルダム号」を復元した船なんだそうです。 運河クルーズもそろそろ終盤。これは科学技術センター(NEMO)という建物。船の形をモチーフに造られたそうですが、どこか関西国際空港のターミナルビルに似たような雰囲気も。実は、設計者は同じレンゾ・ピアノ氏(イタリア人)なんだとか。なるほど!と納得。 まもなく帰港です。なぜか水上中華レストランがこんなところに。ここで船のガイドさんが「アムステルダムには欧州最古のチャイナタウンが、このレストランから南の方のエリアにあるんだよ」と説明しました。『地球の歩き方』には載っていなかった貴重な情報です。 ニューヨークやサンフランシスコ、ロンドンのチャイナ・タウンは有名で、いずれも行ったことがありますが、アムステルダムにもあるとは初めて知りました。「そうだ!まだきょうはお昼を何にするか決めてなかったから、チャイナタウンで中華にしようよ」と連れ合いと意見が一致。 さて、1時間クルーズを終えましたが、まだ10時すぎです。お昼ご飯にするには少し早いので、3日目のガイドさんに教えてもらった、アムス市内に近年オープンした「風車のあるビール醸造所(風車のパブ)」にお邪魔しようかということに。 醸造所のある場所へは路線バスで向かいます。アムスではトラムを乗り倒していますが、路線バスは初めてです(後で聞いたところでは、「10番」のトラムでも行けたそうです。ただしバスの方が所要時間は短いらしい)。 中央駅から「22番」のバスに乗って、10分ほど東へ走るともう目的地のOostenburgerstraatです(早い!)。本当にこんなところに風車があるのかな?と思って、停留所から歩くこと数分、見えてきました! 近く来て見上げると、さすがにでかいです。6~7階建てのビルくらいの高さです。聞けばアムス市内では一番高い風車なんだとか。 風車の裏側に回ってみるとこんな感じ。右側の建物が醸造所です。この「風車のある醸造所&パブ」、元々は使われていなかった市営の公衆浴場だった歴史的な建物=風車付き=でした。アムステルダム市当局がこの建物の保存活用を目指したビジネスプランを公募。その結果、1985年、若手起業家の提案が受け入れられて実現したものなんだとか。 その起業家とは、昨晩行ったビア・パブと同じ地ビール・メーカー「ブラウェライ・アイ(Brouwerij 't IJ)」の創業者でカスパー・ピーターソン(Kasper Peterson)。ピーターソンは「Drukwerk」という有名バンドのメンバーでしたが、とてもビール好きで、ベルギー・スタイルのビールをオランダでも造ることを目指して起業、その後も醸造実験と改良を重ねてきました。 現在では「ブラウェライ・アイ」は、アムステルダム市内有数のクラフト醸造所に成長。会社はピーターソンから別のパートナーに引き継がれましたが、独自のスタイルのビールを醸造し続けて、高い評価を得ています。 「風車のパブ」は近年、オランダ国内で「最も成功したベンチャー・ビジネス」にも選ばれました。現在では観光客だけでなく、アムステルダムの住民にとっても人気のスポットになっていて、連日多くのビール好きで賑わっているそうです(「ブラウェライ・アイ」は急成長したため今では、市内の別の場所により大規模な醸造所も持っているとか)。 醸造所のパブは、残念ながらオープンが午後2時からということで、まだ開いてませんでしたが、隣にある直営(?)のカフェ・レストランでも醸造所直送(と言ってもすぐ隣へ運ぶだけですが)の生ビールが飲めるということで、ホッとして早速注文! 頼んだのは「ij wit(アイ・ヴィット)」というタイプの生(メニュー中列の一番上)。原材料は小麦がメインで、コリアンダーと柑橘系果物のピールの香りが心地よい、フルーティなホワイトエール系のビールですが、これがめちゃ旨!(メニューの説明には「Delightfully fresh with hints of coriander and lemon and a rich aroma…」とありますが、まさにそんな感じの美味しさです)。 このビール、アムスのスーパーでも売っていたので買って帰れば良かったと、帰国後、一番後悔しています(涙)。どなたかこれからオランダに行く方、ぜひ僕らへのお土産にお願いします(笑)。 <13回目に続く>※過去の「旅報告」連載は、トップページ中ほどのリンク「旅は楽しい」からお読みになれます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/08/01
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オランダは不思議な国です。その時代、時代の課題について、いつも世界の最先端を行く方針を打ち出す、少々変わった国です。例えば、売春、大麻、安楽死、同性婚。オランダではこの4つがすべて合法化されています。根底に流れているのは、徹底した個人主義。すなわち「すべては個人が自己責任で決めればいい、他人があまりとやかく言うべきでない」という思想・哲学が根底に流れています。 前段で挙げた4つすべてを合法化している国は、世界的にはまだ少数です。オランダではなぜ世界に先駆けて合法化に踏み切ったのでしょうか? 現地の人の話によれば、「売春と大麻については、禁止にするとかえって闇に埋もれて取り締まりが難しくなる。すべてのドラッグを制限したらより危険なドラッグに手を染める人が増えるだけ。ならば行政の管理下において犯罪組織の資金源になるのを防ごう」というのが政府(オランダ流)の根本理念なのです。この考え方は今や欧州の主要国でも主流となっていて、条件付きで合法化している国も少なくありません。 という訳でオランダでは、大麻のようなソフトドラッグについては1996年、売春については2000年にそれぞれ条件付きで合法化(非犯罪化)されました。現在オランダ人は、個人で少量の大麻たしなむ程度ならば罰せられることはありません(ただし、個人で無許可で商売すると違法になるそうです)。売春業で働く女性たちに対しては、税金も徴収され、定期的な健康診断も義務化されているそうです(写真は、アムステルダムのいわゆる「飾り窓」地区にある“大人の玩具”販売店)。 ちなみに、日本人がオランダで大麻を買って楽しむのは別次元の話です。(厳密に言えば)日本の法律を犯した国外犯(違法行為)となります。帰国しても逮捕されないのは、日本の捜査当局が、海外での日本人の違法行為をいちいち立件する人手も時間もないからに他なりません。なので、帰国直前に大麻を吸って臭いを付けて帰ったら、麻薬犬に吠えられて、身柄を拘束される可能性もありますので、くれぐれもご注意を(写真=アムステルダム中心部にある大麻製品の販売店)。 安楽死の合法化はスイスの方が先駆け(なんと1942年に施行。今では外国人向けの「安楽死ツアー」もあるとか。オランダは2001年に合法化)でしたが、同性婚を世界的で初めて合法化したのはオランダです(2000年に法施行)。オランダは、LGBTでも差別されることはほとんどない、暮らしやすい国だと言われています。アムステルダムで毎年8月に開催される「ゲイ・プライド(Gay Pride)」という運河パレードは、人気の観光行事になっていてガイドブックに載っているほどです。 かようにオランダ(オランダ人)というのは不思議で、興味深い国民性に溢れています。僕らは海外へ旅すると必ずその国の市場を訪れます。市場は「その国の国民性や、”庶民の素顔”が一番よくわかるの場所ではないか」と思うからです。「ハイネケン・エクスプレス」の見学を終えた後、晩ご飯まではまだ少し時間があるので、今回はハイネケンからも近い、アルバート・カウプ通りにある青空市場(写真下)にお邪魔しました。 ここは東西2kmほどの通り沿いにある屋外の市場です。肉、魚、チーズ、野菜・果物、花、日用品など様々なものが売られています。何か面白い保留出し物はないか探しながら、歩いて一往復しました。以下、お店をいくつかご紹介します。 ここは魚屋さん。日本では見たことのない魚種もあります。生ダコが売られているのに少し驚きます。 果物屋さん、農業先進国でもあり、扱っている種類はとても豊富です。 八百屋さんでは、日本の青ネギのような野菜も売られていました。 オリーブとソーセージ。輸入品が多いのでしょうが、オリーブの種類は豊富です。 花屋さんの店先。この店はなぜか白い花が目立ちます(何か理由があるのかも…)。 チーズ屋さん。お国柄(特産品)ということもあって、さすがに種類は多いですが、硬い系のチーズが目立ちます。 さて、市場見学も終えて、いよいよ今日の晩ご飯です。4日目は何にしようかとあれこれ考えた末、ハイネケンでは1杯しか飲めなかったこともあり、「ビア・パブでビールを楽しみながらビア・フードを食べよう」ということになりました。で、お邪魔したのは中央駅からも近い「ブラウェライ・デ・プレル(Brouwerij de Prael)」というお店。その名の通り「ブラウェライ」というビール醸造所の直営店です。 ここでは約15種類の様々なタイプの生ビールが味わえますが、僕らはとりあえず、€10とお得な4種飲み比べセットを注文(どれも実に旨いです!)。 フードは、ビールに合うものをと思い、やはりクロケット(コロッケ=メニューでの名前は「Beer Bitter Balls」)、それにエスニック風味のパテのようなものをパンに塗って食べる料理(同=「Beer Bread with home-made humus and grilled vegetables spread」)を注文。一皿が大きいので2人だとこれで十分な量です(味も期待以上に美味しかった!)。店には小さいながらも醸造所が併設されていて見学も可能なんだとか(要予約)。次回来るときはぜひ見学してみようっと。 そんなこんなでハードな4日目のスケジュールもほぼ終了。今のところ毎日変化があって、充実した旅を満喫できています。アムステルダム、大好きです。 <12回目に続く>※過去の「旅報告」連載は、トップページ中ほどのリンク「旅は楽しい」からお読みになれます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/07/28
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オランダで一番よく飲まれているお酒と言えば、やはりビールです。世界的には、隣国のベルギーやドイツがビール王国として君臨しているため、その陰に隠れがちですが、オランダは、地ビールメーカーがたくさんある隠れたビール大国です。とくにオランダ国民の約半数は国産ビールを飲んでいるというくらい、地元愛が強い国民です。 さて、せっかくなのでビール発展の歴史に、少しだけ触れておきましょう。ビールが誕生したのは紀元前4000年以上前のメソポタミアだと言われています。農耕生活を始めた頃、放置していた麦の粥(かゆ)に酵母が入り込んで、自然発酵したのが起源とされています。紀元前のメソポタミアの粘土板には、当時のビールのつくり方が描かれたものも見つかっています。 中世のヨーロッパでは「ビールは液体のパン」として、修道院でビールがさかんに作られるようになりました。当時、修道士は化学や発酵・醸造学の知識や、実験経験が豊富でした。彼らの作ったビールは品質的にも優れていたので評判を呼び、次第に一般の人にも幅広く普及するようになりました。 日本には鎖国時代の江戸時代末期、西欧文化の唯一の窓口だった長崎・出島にオランダからビールがもたらされ、蘭学者たちがビールの試飲や試作をしたといわれています、その後、江戸にもビールが伝わり、この飲物はオランダ語の「ビア(Bier)」から「ビール」と呼ばれるようになりました。 しかし残念ながら、現代の日本では、オランダのビールと言っても、ハイネケン(Heineken)=(C)Kirin HP=以外はほとんど知られていませんし、あまり見かけません(ハイネケンは、日本ではキリンとの合弁会社「ハイネケン・キリン株式会社」がライセンス生産しています)。 オランダの国産ビール事情については、日を改めて詳しく紹介してみたいと思いますが、とりあえず、ハイネケン以外どんな銘柄があるのかだけを少し知っていてくださいませ。主な銘柄名だけ以下に挙げておきます。 「グロールシュ (Grolsch)」「アムステル(Amstel)」「ババリア(Bavaria)」「ブランド(Brand)」「ラ・トラッペ(La Trappe)」「アルファ(Alfa)」「ヘルトグ・ヤン(Hertog Jan)」「ブラウェライ・アイ(Brouwerij ‘t I)」等々(他にもまだありますが…)。 さて、オランダ滞在4カ目。デン・ハーグから戻った僕らは午後から、アムステルダム中心部にある、オランダを代表する世界的大手ビールメーカー、ハイネケンの醸造所跡につくられた博物館のような見学施設「ハイネケン・エクスペリエンス(Heineken Experience)」(写真上)にお邪魔しました。 「ハイネケン・エクスペリエンス」は、ゴッホ美術館もあるミュージアム広場から東へ約1kmほど、歩いて15分くらいところにあります(写真は、ロビーのチケット売り場。従業員のお兄さんから「君たち、どこから?」と尋ねられ、「日本からです」と答えると、「僕は東京で働いていたことがあるんだよー」と。来日経験がある人がそれなりに多いのに驚きます)。 ハイネケンは1863年、ヘラルド・A・ハイネケンによって創業されました(写真に見えるファースト・ネームの綴りは「Gerard」となっていますが、オランダ語で「G」は「ハ」行の音なので、「ジェラルド」ではなく「ヘラルド」と発音します)。 ハイネケンは、現在では世界170か国以上で販売され、「バドワイザー」ブランドなどで知られる「アンハイザー・ブッシュ・インベブ=略称・ABインベブ」(ベルギー)、「ミラー」などで知られる「SABミラー」(英国)に次いで世界第3位のシェアを持つ世界的ビール・メーカーです、とここまで書いたところで、念のためにと思って改めてネットで確認すると、驚きの事実が分かりました。 第2位の「SABミラー」は、2016年に「ABインベブ」に買収されていました(世界のビール業界はまさに戦国時代!)。なのでハイネケンは第2位にランクアップしていましたが、世界のビール市場は事実上「ABインベブ1強時代」となったとも言えます。ちなみに日本は、キリンがようやく9位にランクインしています(写真は、ロビーに展示されていた創業当時のビール樽と荷車)。 ハイネケンと言えば、1873年に誕生した緑色のボトルがトレードマーク。ラガービールはさっぱりしてフルーティーで飲みやすい味わいで、今も世界中で愛飲されています(写真=館内には、歴代のいろんなボトルが展示されています)。 ハイネケンは、オランダも含めて世界100か国に醸造工場を持っているそうです(写真は、昔の醸造設備。現在は使っておらず、観光客向けのディスプレーとして残っています。実際のビールは国内の別の場所で造っています)。 説明するスタッフには女性の姿が目立ちます。下の写真は、出来立ての麦汁の試飲を勧めてくれるお姉さんたち。ほんのり甘くて、ウイスキーの麦汁にも通じる味わいです。 見学コースの中では、最新のハイテク映像を、天地左右・360度のディスプレー(すなわち閉鎖空間)で見せて、驚かせるような演出も目立ちます。今どきの若者受けを狙った工夫なんでしょうが、少々時間が長いなぁという印象。それよりも、色んなビールを試飲する時間をたくさんとってくれー。 醸造所跡内には、馬車置き場や馬屋(実際に馬も何頭かいます)、広い馬場も。昔は出来立てのビール樽を馬車で運んでいたのを再現しているようですが、観光客向けのパフォーマンスがあるのかは聞き忘れました。 最後に一緒に見学したグループが全員、ビールの注がれたグラスをもらって「Proost!」(オランダ語の「カンパーイ」)と叫んでフィナーレ(壁には世界中の言語で書かれた「乾杯」)。ただし試飲できるビールは1種類のみ。15€も入場料を取る割には、中身は少し薄めかなぁという印象でした。 という訳で、ハイネケンの「歴史体験」は終了。そろそろ夕方近くになってきたので、本日の晩ご飯の時間に近づいてきました。オランダ料理(1日目)→シーフード料理(2日目)→インドネシア料理(3日目)とこなしてきましたが、4日目については、事前には決めていませんでした。さて、どうしたものか? <11回目に続く>※過去の「旅報告」連載は、トップページ中ほどのリンク「旅は楽しい」からお読みになれます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/07/26
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オランダ滞在4日目となりました。さて、オランダの美術館巡りでは、ゴッホと並んでもう一人、熱い思いを抱き続けてきた画家がいます。映像のような写実的な手法と綿密な空間構成、そして光と影を生かした巧みな質感表現を得意とした天才的アーチスト。それがヨハネス・フェルメール(Johnaness Vermeer<1632~1675>です(ちなみに英語だと「ヴァーミア」、オランダ語では「フェアミア」と発音します)。 ハーグ郊外のデルフトという街に生まれたフェルメールは、父親が画商だったことからその影響を受けて絵を描き始めたとのことですが、若い頃の詳しいことはよく分かっていません。 1653年、21歳の時、カタリーナ・ボルネスという女性と結婚。結婚後してまもなく、フェルメールは妻の実家で、裕福な母親とともに暮らしを始めます(左は、フェルメール自作の絵の中で、自画像と考えられている人物。引用元:Wikipedia<元の絵自体はドレスデンのアルテ・マイスター絵画館所蔵のフェルメール作「取り持ち女」=1656年作>)。 フェルメールは、妻との間に15人もの子をもうけた(4人は夭折しましたが、それでも13人の大家族でした)子だくさんの家だったため、画業だけでは家族を養うことができませんでした。妻の実家に頼ったのは、主に経済的な理由だったと言われています。 その後フェルメールは、1657年頃から、デルフトの醸造業者で投資家でもあるピーテル・ファン・ライフェンという生涯最大のパトロン(支援者)と出会います。ライフェンはフェルメールを支え続け、彼の作品を20点も購入したと伝わっています。現存する作品はわずか36~37点というフェルメールですが、寡作でもなんとか暮らしていけた背景には、ライフェンの援助が大きかったことでしょう。 しかし1670年代になると、フェルメールにとって逆風の時代が始まります。第三次英蘭戦争の勃発でオランダの経済が低迷します。一方で、新しい画風の若手画家たちの台頭によって、フェルメールの人気も陰りを見せ始めます。この頃、パトロンのライフェンも亡くなり、戦争勃発以後、彼の作品は1点も売れなくなったといいます(写真は、フェルメールの故郷の街を描いた「デルフトの眺望」<1661年作>=マウリッツハウス美術館蔵)。 フェルメールは1675年、43歳の若さでデルフトで死去します。義母マーリアは、フェルメールが残した莫大な借金・負債から11人の孫たちを守ろうと、その遺産を直接孫たちに渡したため、妻カタリーナの生活は困窮を極め、結局破産しました。カタリーナは、彼の死後12年経った1687年、56歳で死去しました。 フェルメールは謎の多い人物ですが、その生涯の一部については、先般、映画化されています(2003年英国映画で、タイトルもそのまま「真珠の耳飾りの少女(Girl with a Pearl Earring)」)。コリン・ファースがフェルメール役を、スカーレット・ヨハンソンが絵のモデル「少女」役を演じて話題になりました。とても興味深い、いい映画なので、機会があればぜひご覧ください。 さて、オランダ4日目はフェルメールの名作に会うために、オランダの政治・行政上の首都であるデン・ハーグ(Den Haag)へ。ここには3点のフェルメールを所蔵するマウリッツハウス美術館があります。デン・ハーグは、アムステルダム中央駅から列車で1時間弱です(電車は10~15分おきくらいに、たくさん出ているのでとても便利です)。 なお、駅の切符自動販売機は、クレジットカードかコインでしか購入できません。なんとお札が使えないのです。デン・ハーグまでは往復で€23.4(約3050円)ですが、そんなにたくさん小銭(コイン)を持ち合わせているはずはありません。仕方なくカードで購入しましたが、JCBはダメでVISA、AMEXなど国際的に通用しやすい会社でないと買えません。 ちなみに、オランダはカード社会がかなり進んでいて、カード支払いでなければ精算できないという店やレジも目立ちます。そのうちお札やコインは姿を消すのかもしれません。 マウリッツハウス美術館は、「ビネンホフ(Binnenhof)」と呼ばれるオランダの立法・行政機関(国会議事堂、総理府など)の建物が集まる一角にあります(写真は、デン・ハーグ中央駅から美術館へ行く途中の光景。オープンカフェがたくさんあります)。 マウリッツハウス美術館(写真の右端)は、もともと17世紀にブラジル総督オラニエ家のヨーハン・マウリッツ伯爵の私邸として建てられました。 ルネサンス風の建物は2年間の改修工事を終えて、2014年に再オープンしました。内部も本来の色彩や装飾が復元されたそうです。 それではマウリッツハウスが世界に誇る名画の中から少しご紹介します(ここもフラッシュをたかなければ撮影OKなのが嬉しいです)。これは言わずと知れた、世界中のフェルメール・ファンを魅了する代表作「真珠の耳飾りの少女」(1665年作。「青いターバンを巻いた少女」という別のタイトルもあるそうですが)。オープン間もない時間だったので、展示室には僕ら以外に誰もいません。名画を独占できる幸せは言葉にできません。 ちなみに、フェルメールと言えば、この少女のターバンの色のような、「フェルメール・ブルー」とも呼ばれる独特の青色が特徴です。これは当時純金と同じくらい高価だったラピスラズリを原料とする「ウルトラマリン」です。この貴重な顔料を惜しみなく絵に使用できたのも、裕福な義母の援助のおかげとも言われています。 このフェルメールは初めて観ました。「ダイアナとニンフ」。初期(1655~56年頃)の作品です。 マウリッツハウスにもレンブラントの名作があります。彼の出世作となった「テュルプ博士の解剖学講義」(1632年作)。美術の教科書でもよく見かける代表作の一つです(少しピンボケですみません!)。 こちらは「ビネンホフ」エリアに入る門。そばにパトカーは停まっていましたが、欧州の他の国にように衛兵はいません。 ビネンホフの中の広場。現地の人に聞くと、「閣僚や国会議員も普通にうろうろ歩いています」とのこと。 毎年9月の国会の開会式には、この広場で王と衛兵のパレードがあるそうです。なお、皆さんもよくご存知かと思いますが、有名な国際機関の一つ、国際司法裁判所はこのデン・ハーグの「平和宮」という建物内にあります(場所はビネンホフから少し離れた場所に位置していますが)。 デン・ハーグには、オランダの名物料理「ニシンの塩漬け」の屋台があちこちにあります。そのまま手でつまんで食べたり、ホットドッグのようにパンにはさんで食べます。王室の人たちもお付きの人なしで買いに来るそうです(日本や英国と違って、基本、外出の際は警護<SP>なしで行動されるそうです。国民との垣根はほとんどなく、とてもオープンな王室なんだとか)。 僕らは、パンにはさんだのを注文。刻んだタマネギが一緒に入っています。ニシンはあっさりした味付けで、磯の香りもしてとても美味しいです。ちなみに、比較的海に近いデン・ハーグにはカモメがよく飛んでいます。僕らはこの「ニシン・ドッグ」を買う際、「外で食べたら、カモメにニシンを狙われるから屋台の中で食べた方がいいよ」と言われました。 なお、このニシンが水揚げされるのはデン・ハーグから北西へ5kmほど行ったところにあるスケベニンゲン(地元の日本人の方も「変な名前の町です」と言ってました(笑))という港町です。ニシン料理等のレストランもたくさんあって、夏の観光地としてオランダでは有名なんだとか。 さて、マウリッツハウス美術館での鑑賞を終えて、僕らはデン・ハーグを少し散策しました。これはビネンホフのすぐそばにあるショッピング・アーケード「パッサージュ」。凄く歴史があるような雰囲気です。 パッサージュを抜けた辺りにある、オランダ最大規模とかいう高級デパート「バイエンコルフ(De Bijenkorf)」にもお邪魔しましたが、やはりデパートの立派さ、品揃えの凄さでは日本の方が上かなという感じです。 さて、デン・ハーグでの日程も終えて、早めにアムステルダムへ戻ることにしました。再び中央駅から約1時間電車に乗りますが、「少し小腹がすいたね」ということで、中央駅にあったオランダ名物のコロッケの自販機で2個買って、帰りの車内で食べようかと。 味はよく分からなかったので、見かけの色で濃いものと薄いものをそれぞれ買いました。結論から言うと、想像してたよりもどちらも美味しかったですが、1個2€はちょっと高いかな。さてアムスに着いたら、また次の予定が待っています。 <10回目に続く>※過去の「旅報告」連載は、トップページ中ほどのリンク「旅は楽しい」からお読みになれます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/07/24
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オランダの街角、とくにアムステルダムを歩いていると、独特のイスラム的服装をしたインドネシア人やインドネシア料理店をあちこちで見かけます。中学や高校の歴史の授業で習ったので、ご存知の方も多いかもしれませんが、オランダはかつてインドネシアを約350年に渡り、海外植民地として支配してきました。なので、現在でもインドネシア(人)との繋がりは深く、オランダでの永住者、在留者が数多くいます。 それでは、オランダの植民地支配(政策)の歴史を簡単におさらいしておきましょう。英仏やスペイン、ポルトガルなど他の列強と同様、オランダも16世紀から、海外での領土・資源獲得を目指して、遠くアジアまでたびたび外洋船を派遣し、拠点を築いていきました。オランダ「東インド会社」が交易で求めたのは、砂糖やコーヒー豆、茶葉、タバコ、胡椒、陶磁器など様々なものでした(写真は、アムステルダム・ダム広場での光景)。 ちなみに「東インド会社」の「東インド」とは現在の「インド」でも「インドの東部地域」でもなく、大航海時代以前からヨーロッパ人が憧れた、アフリカ大陸東海岸やアジア全域のことを指しました。15世紀末にコロンブスが新大陸に到達した時、そこを「インド」の一部と勘違いし、西のインドと名付けました。カリブ海に浮かぶ島々が現在でも「西インド諸島」と呼ばれているのはその名残です。 オランダの海外進出範囲は、インドネシア、台湾、スリランカ、西アフリカ・ギニア、南アフリカ、カリブ海、北米やブラジルの一部…と世界中に及びました。現在はその多くを失っていますが、カリブ海のキュラソー島(ヤクルトのヴァレンティン選手はこの島の出身で、オランダ国籍ですね)などは、今もそのまま海外領土として維持しています。 なかでも、インドネシアは最も長く植民地支配を続けた地域で、その支配期間は、1598年から約350年間にも及びました。しかしこの間、領土獲得のために要した莫大な戦費が負担となり、オランダ「東インド会社」の経営も悪化しました。その後19世紀に入って、フランス革命以降のヨーロッパ政局の混乱で、オランダは海外領土の多くをイギリスに奪われることになります(写真は、ダム広場近くのトラムの停留所)。 一方、オランダが支配を維持したインドネシアでは、20世紀以降、植民地支配に利用することを目的に初等、中等学校、医師学校、官吏養成学校なども設けられ、オランダの大学に留学する者も増えてきました。こうした流れの中てインドネシアに知識層が生れ、民族自立の意識も生まれてきます。 1939年に第二次世界大戦が勃発。1940年5月にはドイツの侵攻をうけてオランダ本国は降伏し、大戦終結までドイツの占領下におかれます。一方、 オランダ領東インドには、1942年2月末に日本軍が侵攻。植民地軍は全面降伏し、オランダによる約350年の東インド支配は終焉することになりました。列強の植民地支配自体を肯定することは出来ませんが、良くも悪くもオランダとインドネシアは現在でも深い関係が続いています。 という訳で、3日目の夜の食事は、アムステルダムでインドネシア料理を食べようということになりました。お邪魔したのはアムスでも一番の老舗で、人気店の一つ「サマ・セボ」(写真。下の写真も同じく「サマ・セボ」)です。2日目に行った「シーフード・バー」からも、歩いてすぐの距離にあります。 インドネシア料理は、日本でも最近はそこそこ知られるようになりましたが、タイ料理やベトナム料理に比べるとまだまだ専門レストランは少なく、知名度はまだまだです。皆さんは、インドネシア料理と言われたら、何を連想されるでしょうか? ナシゴレン(インドネシア風焼き飯)? それともサテ(肉の串焼き)ですか? 僕らも正直言って、日本でインドネシア料理を味わった回数は数えるほどです。なので、ほとんど初心者みたいなもの。そこで、一皿で10種類くらいの代表的料理が味わえるという、お得なワンプレート・ディナーを選びました。 飲物はやはり、辛くてスパイシーな料理に一番合うビールも一緒に!(なぜかこの店、メニューにインドネシアのビールがなかったので、オランダのビールを頂きましたが)(ワンプレート料理の下にはナシゴレンがあるのですが、隠れて見えないので、拝借した画像で「ナシゴレン」をご紹介(C)https://bali.navi.com )。 せっかくなので、ついでにもう一皿、代表的な料理の「ミーゴレン」(インドネシア風焼きそば)の写真もご紹介(画像提供元は同じ、bali.navi.com)。インドネシア料理は、アジアの色んな国の料理の美味しいエッセンスが凝縮されたような印象です。 さて、晩ご飯の後は、恒例のバーでの呑み直し。きょうは日本のバーテンダー仲間から教えてもらったアムステルダムを代表するカクテル・バー「テイルズ&スピリッツ(Tales & Spirits)」へ。僕らの泊まっているホテルからも近い距離です。 明るくフレンドリーな若いバーテンダーがたくさんいます。店内は意外とカジュアル。メニューにはオリジナル・カクテルが豊富です。 バックバーはこんな感じ。日本のバーのボトルの品揃えとは少し違いますね。見たこともないリキュールのボトルもいっぱい。カクテルに使うスパイス類が入ったガラス瓶も並んでいます。 こちらが日本のバーテンダーとも親しいAirto Cramerさん。共通の友人がいることもあって、初対面なのにすぐ打ち解けられました。聞けば、「実は明後日から日本に行って、*****にも行くんだよー」と。このタイミングにも驚きでした。 せっかくなので、最初の写真のバーテンダー氏ともども、店のオリジナル・カクテルを3杯つくってもらいました。驚くのは、提供するまでの早さ。鼻歌をうたいながら、そして少しオーバーなパフォーマンスも見せながら、あっと言う間でした(以下の写真3枚。レシピは聞き忘れました(笑)。色から想像してくださ~い)。 彼らのバーテンディングを見ていて思う、「日本人バーテンダーのバーテンディングとの違い」は、使う道具はほとんどがステンレス2ピースのボストン・シェーカー、材料の分量を測り方は結構アバウト、そして、とにかく仕事が早いということです。日本人バーテンダーみたいに、ゆっくり丁寧につくりませんが、クオリティは遜色ありません。 何よりも、スタッフはみんな、とことんフレンドリーなのが嬉しいです。バー業界にとって、「フレンドリーであること」ってとても大事ですね(Airtoと僕の2ショット写真は、Instagramにアップしています)。という訳で、美味しいカクテルを堪能して、アムステルダム3日目の夜も更けていくのでした。 <9回目に続く>※過去の「旅報告」連載は、トップページ中ほどのリンク「旅は楽しい」からお読みになれます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/07/22
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今や世界的に幅広く飲まれているお酒に「ジン(Gin)」があります。皆さんにも、ジン・リッキーやジン・トニックという形で馴染みが深いと思います。ジンは、主に大麦、ライ麦、ジャガイモ、ジュニパー・ベリー(Juniper berry、西洋ネズの実)のほか様々なスパイスやハーブ類を原材料とする蒸留酒です。独特の香味はジュニパー・ベリー由来のものですが、それ以外の材料についてはとくに決まりがある訳ではなく、蒸留所、銘柄ごとに様々な材料が使われています。 しかし、「ジン発祥の国」がオランダであることは意外と知られていません(一般的には、「英国発祥」と思っている人が多数派ではないでしょうか? 末尾【注】ご参照)。オランダ語では「イェネーヴァ(jenever)」、英語では「ジュネヴァ(genever)」と呼ばれ、この言葉が、後に誕生した「ジン」の語源になったと言われています。 ジュネヴァは、1660年、オランダのライデン大学医学部教授、フランシスクス・シルヴィウスが解熱・利尿用薬用酒として開発したのがその起源と伝わっています。主に大麦、ライ麦などを主体に造られたジュネヴァは、「普通に飲んでも美味しい」という噂が広がり、またたく間に一般庶民に普及していきます。 そしてその後、ジュネヴァは英国に持ち込まれます。1689年、オランダの貴族であったオレンジ公ウイリアム(ウィリアム3世)がイングランド国王として迎えられます。この際、ウイリアム公が英国に持ち込んだジュネヴァが、後に改良され誕生したのが、英国ジンだというのが定説です。 19世紀半ばに連続式蒸留器が発明されると、より雑味が少ない、度数の高いスピリッツが蒸留できるようになり、ジンの製法も大きく様変わりしました。とくに英国ジンはジュニパー・ベリーをより多めに使い、独特の味わいを確立させていきます。これが現在、世界的に主流となっているドライ・ジン(ロンドン・ドライジン)と呼ばれるタイプのジンです(写真は、アムステルダムの酒場のバックバーに並ぶジュネヴァ=下の段の方。ほとんどが陶器瓶です)。 19世紀以降、オランダのジュネヴァは、英国ジンに主役の座を奪われますが、「ジンの原型」として現在でも欧州では一定の存在感を保っています。オランダでは、かつては「ジュネヴァは年寄りの酒」として若者には敬遠されていたのですが、昨今は、クラシック・カクテル再評価の動き(カクテルのベースとしてのジュネヴァに関心が高まっています!)や、ジュネヴァの伝統を見直す機運もあって、再び静かなブームの兆しが見られるそうです。 さて、前置きがやや長くなりましたが、クレラー・ミュラー美術館でゴッホの名作を堪能した僕らは、ガイドのWさんの提案で早めにアムステルダムに戻ることにしました。そして、Wさんの案内でアムス中心街にあるジュネヴァ酒場を巡ることに。 まず連れて来てもらったのは、中央駅から徒歩7~8分くらいのところの路地裏にある、「ワイナンド・フォッキンク(Wynand Fockink)」というお店(写真)。Wさんは、日本人向けの「アムス・ナイトツアー」のガイドもやっているので、店主とは顔なじみです。 お店はいかにも歴史ある、古~いという感じの造り・内装です。聞けば、なんと1679年の創業当時の蒸留所の建物を改造して酒場にしているんだとか。なので、店内は昔の趣きがそのまま残っています。しかも、この街のど真ん中の蒸留所は現在も稼働中とのことで驚きです(見学は要予約)。 ジュネヴァの飲み方には流儀があります。口の広がった細長い、小さなジュネヴァ専用グラス(45ccほど入ります)になみなみと注がれます。そしてまず一口ちょっと飲んでから、ようやく手で持って飲むことが許されます(写真のグラスは、すみません!僕が一口飲んでしまったので減っています。一つ前の写真では、3人の女性客がカウンター前で少しかがんでグラスに口を付け、最初の一口を飲んでいるところ)。 ジュネヴァと言うとクセがあって、キツいお酒というイメージを持たれるかもしれませんが、原材料は英国ジンとは違って、大麦などの穀類やジャガイモが主体(ジュニパー・ベリーは少なめです)なので、ほとんどクセはありません。そして、クセがないので意外とまろやかで飲みやすいのです(アルコール度数も英国ジンに比べて低めです)。 「ワイナンド・フォッキンク」は地元の有名酒場でガイドブックにもよく載っているので、観光客が昼間から次々と訪れ、賑わっていますが、実は蒸留所は、1954年に一度閉鎖されました。そして、閉鎖後に買収した大手のボルスが1993年、再び蒸留所として復活させ、この酒場もオープンさせたということす。こんな粋なことをするボルスという会社が、僕はますます好きになりました。 僕らはとりあえず、ジュネヴァ2杯を頂いて隣にある蒸留所のギフトショップへ。ここでは造ったばかりのジュネヴァ(陶器瓶入り)やオリジナルのリキュールをお土産として買うこともできます(さっそく定番のジュネヴァを小瓶で1本購入!)。 さて、Wさんは「まだ時間がありますから」ともう1軒、案内してくれました。最初の店から歩いてわずか数分。ダム広場の裏手にたたずむ「デ・ドリー・フレッシェス(De Drie Fleschjes)」(写真)という360年以上続く老舗酒場です(実は、この酒場はもともとアムス滞在中に行く予定をしていたので、ちょうど良かったのでした)。 ここは先ほど名前が出たボルスの直営店ですが、「ワイナンド・フォッキンク」に比べると、なぜかすいていました。もちろんWさんはこちらの店主とも顔なじみ(ちなみに、このようなジュネヴァ酒場は地元では「ブラウン・カフェ」とも呼ばれます。客のタバコの煙やヤニで壁が茶色くなったことに由来するとか。ただし現在、欧州のほとんどの国で酒場の店内は全面禁煙となっていますす)。 「デ・ドリー・フレッシェス」の公式HPによると、「1650年のオープニング・パーティーには、あの画家のレンブラントや哲学者のスピノザら、当時のオランダを代表する豪華な顔ぶれが集った」というから凄いです。 店内は、ワイナンド・フォッキンクに勝るとも劣らない風格ある雰囲気です。床に掃除用の白砂が撒かれているのもブラウンカフェ時代の名残りとのこと。よく見ると、壁一面に樽がぎっしり、3段に積まれています。そして樽には、なにやら会社名が書かれています。 聞けば、アムスにある会社が従業員の福利厚生用に樽をキープしているんだとか。従業員は仕事が終わった後、ここに立ち寄り自由に飲むことができます。なんと素晴らしい太っ腹な会社なんでしょうか!ほんと羨ましいですね。【注】Wikipediaは、「11世紀頃にイタリアの修道士がジュニパー・ベリーを主体としたスピリッツを作っていた記録があり、イタリア発祥説も近年有力になっている」と紹介しているが、現時点ではやはり、「オランダ発祥説」を支持する専門家の方が多い。 <8回目に続く>※過去の「旅報告」連載は、トップページ中ほどのリンク「旅は楽しい」からお読みになれます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/07/20
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欧米には、芸術作品コレクターの富豪(パトロン)が数多くいます。そして欧米の有名美術館には、そうしたコレクターからの寄贈で所蔵作品を充実させてきたところが少なくありません。ニューヨークのメトロポリタン美術館のコレクションなどその典型的なケースでしょう。 さてオランダには、ゴッホ美術館に次ぐゴッホ・コレクションを誇る美術館があります。それが「クレラー・ミュラー美術館(Kröller-Müller Museum) 」です。その名からも分かるように、ある富豪夫婦のコレクションが基になっています。 オランダ生まれのアントン・クレラー(Anton kröller 1862~1941)と、ドイツ出身の妻、ヘレン・ミュラー(Helene Müller 1869~1939)=写真下((C)https://www.hogeveluwe.nl)。クレラーは造船業で財をなし、ミュラー家は鉱業を営む富豪でした。美術館は2人のコレクションを基にして、1938年に開設されました。とくに、ゴッホが大好きだった妻のヘレンは生涯に油絵約90点、素描175点を購入しました。他にも夫妻が集めた19~20世紀の絵画や彫刻作品が多数、常設展示されています。 この美術館の特異性はその立地です。アムステルダムから東南東へ約100km、電車とバスを乗り継いで約2時間、森林におおわれた約6000ha(東京ディズニーランド100個分!)もの広さのデ・ホーヘ・フェルウェ(De Hoge Veluwe)国立公園の中にあるということです。しかも、驚くなかれ、この国立公園の敷地も元々クレラー・ミュラー夫妻の私有地だったのです。 1930年代前半、夫妻の会社は世界恐慌のあおりで経営難に陥ります。長年集めたコレクションの散逸をおそれた夫妻は1935年、全コレクションと私有地をオランダ政府に寄付します。そして政府はその3年後、美術館を開設したのです。 オランダ3日目の26日(火)、僕らは、ゴッホ・ファンのもう一つの聖地、クレラー・ミュラー美術館に向かいます。今回の旅は個人旅行で、原則、ガイド(添乗員)はありません。 しかし、事前にネットでこのクレラー・ミュラー美術館を訪れた人の体験記をいくつか読むと、その不便な立地が故、いずれも「交通機関(手段)がややこしくて、大変だった」「初めての場合、個人で行くのはかなり苦労します」というものでした(写真は、毎度お馴染みのアムステルダム中央駅。オランダ国内どこへ行くにも、この駅が起点になるみたいです)。 なので、海外の旅では時間は有効に使いたい。そのためには必要な費用は惜しまないことにしました。日本での申し込み時に、クレラー・ミューラー美術館への往復の行程だけ、ガイドさんをお願いしました(ガイド料は往復の交通費や入場券代も込みですが、とてもリーズナブルだと思いました)。 ガイドさんはアムス在住約20年のWさんという40代半ばくらいの日本人の男性で、この日は僕ら以外には客はなかったので、早速出発です(写真は、朝9時15分、ガイドさんとの待ち合わせ場所に指定された中央駅・駅前のツーリスト・オフィス)。 アムステルダムから行く場合には、列車でアペルドールン(Apeldoorn)またはエーデ・ワーゲニンゲン (Ede-Wageningen) まで行き、そこからバスに乗り換えます。僕らはアペルドールン経由のルートを選びました(写真は、アペルドールン駅のホーム)。 アぺルドールンの駅前になぜか風車がありました。近くで見るのはオランダに来てから初めてです(オランダ国内の風車も昔に比べるとだいぶ減ったそうです。しかし観光立国には欠かせない文化財なので、今は維持管理に補助金も出ているそうです)。 とりあえず駅前のバス停で、オッテルロー(Otterlo)方面行きの「108」番の路線バスを待ちます。アペルドールンの駅前は、のどかな田舎のような、のんびりした雰囲気です。バス停ではすでに何人かの乗客がいました。 美術館(国立公園)に行くには、まずはバスでロテンド(Rotendo)まで向かいます。乗客は最終的に、僕らも含め15人ほどでしょうか。 約20分ほど走って、ロテンドまで来ました。ここで一回り小さい、国立公園行きの「106」番のバス(後ろの緑色のバス)に乗り換えます。別方面からの乗客も含めて、人数はさらに増えてきました。 「106」番のバスは15分ほど走り、国立公園の入り口に到着。ここで降りて、公園の入場券を買います(美術館に行くだけでも、公園の入場券がいちおう必要。美術館のチケットはガイドさんが事前に用意してくれてますが、公園の入場券はここでしか売っていないそうです)。 この公園入り口には無料のレンタサイクルがあるので、自転車に乗れる人はここから美術館や公園内に自転車で行けます。しかし、バスでそのまま美術館へ行くには、公園入場券を買った後、再び同じバスに乗らなければなりません。バスの運転手は5~10分ほど待ってくれますが、最後の1人までは待ちません。入場券を買う列が長ければ、このバスには乗れません。次のバスはなんと1時間後です。 公園入口で降りた乗客の3分の2くらいは、再び乗ってきませんでした。みんな自転車を借りて美術館や公園内のサイクリングに向かったのでしょう。 ガイドさんは「この国立公園入口の関門がいつも綱渡りで、ヒヤヒヤなんですよ。ただ、公園入場券を買ったかどうかは美術館ではいちいちチェックしないので、最悪の場合、買わずに乗って(美術館に)行っても何とかなるんですが…」とも。 幸い、僕らは列の最初の方で入場券が買えたので、無事、同じバスで美術館まで行けました(写真は、美術館前バス停付近。ここから森の中を5分ほど歩いたら、美術館です)。 「バスの車内で公園の入場券も売ればいいのに」と僕が言うと、ガイドさんは「それはバス会社の仕事ではないということで、やってくれないんです」と。合理主義のオランダと言いながら、この非合理的なシステム。なんとかならないんでしょうかねぇ。せめてネットで販売してくれたら、事前に購入できるのに…。 そんな話をしながら5分ほど歩いて、気が付けば、美術館の門(入り口)に到着です。ここから展示している建物まではさらに数分歩きます。 美術館の周辺には、いろんな現代アートが数多く、屋外展示されています。所蔵作品には意外と彫刻が多いのです(夫妻が亡くなったあとの第二次大戦後に、コレクションとして購入された作品も結構あります)。もっとも、クレラー・ミュラー夫妻にとっては当時、ゴッホも「現代アート」だったのかもしれませんが…。 これが美術館の本体建物。シンプルで、モダンなデザインです。周囲は木々がいっぱいで、とても素晴らしい環境です。 美術館は平屋の建物ですが、中はきれいで、ゆったりとした空間です。ロビーのネオンサインが、意外と館内の雰囲気にマッチしています。 絵が展示されている部屋は、天井から磨りガラス越しに柔らかい自然光が差し込み、とても明るくて絵が見やすいです(前日に訪れた国立美術館やゴッホ美術館は電気の光がメインだったので、照明はやや暗い感じでしたが…)。 さて、いよいよ珠玉のゴッホ作品の鑑賞です。なかでも「夜のカフェテラス」(1888年)は、この一枚の絵のために僕はここに来たと言ってもいい、大好きな作品です。南仏アルル時代に描かれたゴッホの最高傑作の一つ。長年、本物が観たいと恋い焦がれ続けました。 館内はフラッシュをたかなければ撮影OKです。絵の具の厚塗りや筆のタッチも生々しく、情念がこもった絵です。僕は、細部の筆づかいももっと見たいと、絵の部分アップ=下の写真(絵の右下部分の拡大)=も何枚か撮りました。 せっかくなので、クレラー・ミュラー美術館が誇るゴッホ・コレクションの中から少し、誌上展覧会を開催いたしましょう。これは言わずと知れた名作「アルルの跳ね橋」(1888年)。 ゴッホは、「ひまわり」以外にも、花の絵の傑作をたくさん残しました。「草原の花とバラのある静物」(1886~1887年)と題されたこの絵は、公式ガイドブックに収録されていませんでしたが、結構好きです。 「ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット」(1886年)。パリのモンマルトルにある、「ギャレット(ガレット)の風車」の名を持つダンスホールを描いた一枚。ゴッホにしては珍しく、落ち着いた色合いです(セザンヌやモネの影響もあるような、ないような…)。 「星月夜と糸杉の道」(1890年)。ゴッホの苦悩がにじむ、亡くなる直前の作品。 「自画像」(1887年)。ゴッホは自画像をたくさん残していますが、僕はこのパリ時代の自画像が一番ゴッホらしくて、好きです。ちなみに、ガイドのWさんは、ゴッホ関連のことに実に造詣が深く、絵の解説も当を得たものでした。 クレラー・ミュラー美術館では約3時間の鑑賞時間を予定していましたが、意外と早く見終わってしまいました。とりあえずガイドさんと一緒に、外国人見学客がいっぱいの隣接の屋外レストランでお昼ご飯にすることにしました。団体バスツアーでやって来た日本人客の皆さんは、屋内レストランで集まって食事をしています。 バスでの団体ツアーは、この美術館のようにアクセスが悪い場合、とても便利ですが、鑑賞時間が制限されるうえに、個人行動はあまり出来ません。海外の個人旅行に付き物の「予定外のハプニング」もまず起こり得ず、現地の人たちとの触れ合う機会もほとんどありません。だから、僕らはやはり、個人(少人数)旅行の方が有意義に思います。 昼ご飯を終えた後、ガイドさんと今後の予定を話し合いました。ガイドさんからは「私の拘束時間は夕方5時までありますから、もしアムスで行きたい場所があるなら、早めに戻ってご案内しますよ」との提案がありました。 きょうは元々、アムスに帰ってから、ジュネヴァ(オランダ・ジン)酒場に行こうと思っていたので、願ったり叶ったりです。そういう訳で、食事の後、僕らは再びバスと電車でアムスへ引き返すことにしました(写真は、美術館の公式ガイドブック。英語版を買ったつもりが、帰国後に見ると、オランダ語版でした(笑)。絵はともかく、中の文章は皆目わかりませーん)。 <7回目に続く>※過去の「旅報告」連載は、トップページ中ほどのリンク「旅は楽しい」からお読みになれます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/07/18
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オランダと言えば、すぐに風車やチューリップを思い浮かべる人が多いと思います。しかし、前回も書いたように、オランダは今や、米国に次ぐ世界第二の農産物輸出国です(輸出額は約900億ドル=2015年FAO統計。ちなみにオランダより広い日本は、約32億ドルで60位なんだとか)。 オランダの面積は九州とほぼ同じですが、うち約45%がほぼ平坦な農用地。狭い国土を有効に活用し、花の栽培(チューリップなど)だけでなく、施設園芸による野菜生産等でも、小さな経営面積で高い収益性と生産性を実現しています。 栽培品目では、主にトマト、パプリカ、キュウリ、ニンジン、玉ネギ、ジャガイモ、トウモロコシなどを生産。とりわけIT技術を導入した大規模温室栽培、機械化農業が得意です。 大規模温室ではトマトなどの野菜が天井高くまで栽培され、温湿度や照度、水、肥料などがすべてコンピューターで制御・管理されています。今回の旅行中も、アムステルダム郊外で温室を時々目にしましたが、体育館くらいの高さ・広さのある巨大温室には驚くばかりでした。 欧州ではかつては、トマトと言えば、スペイン産やイタリア産が一番と言われていましたが、今ではオランダ産が最も高品質で高い評価を受けているそうです(写真は、以下の2枚も含め、いずれもアムスのあるスーパーの野菜売り場の光景)。 この世界一の温室栽培技術を学ぼうと、オランダには今、世界中から視察団がやって来るそうです。現地に20年ほど暮らし、フリーで日本人旅行客のガイドをしているWさんの話によれば、日本からも都道府県単位、農協単位で見学にくるツアーが多く、「大規模温室、農園視察の案内依頼が頻繁にあって、とても儲かってます(笑)」とのこと。 オランダの農産物輸出先は現在、約8割が対EUなので、日本に直接入ってくる一次農産物はごくわずかでしょうが、そのうち日本のスーパーにも、当たり前のようにオランダ産の野菜が並ぶ日が来るかもしれませんね。 さて、2日目の昼間の予定もほぼ終えた僕らは、晩ご飯の予約に向かいます。今夜は、ミュージアム広場のすぐ近くのシーフード料理の店を予定しています。写真は、その店が面した通りの夕方の光景ですが、アムステルダムでは朝夕、自転車やバイクで通勤・帰宅する人たちで溢れます(バイクのヘルメット着用義務がないのが驚きです!)。 ちなみに、以前の回でも少し触れましたが、オランダ人は質素倹約な国民性なので、基本、外食せず家で晩ご飯を食べます。「残業」なんて言葉は彼らの辞書にはありません。仕事(労働)よりも家族との時間を大事にし、人生を楽しむことを優先するのがオランダ人なのです。 今夜の店は「シーフード・バー(The Seafood Bar)」。その名の通り、新鮮な魚介類を生や半生の状態で堪能できる店です。日本で今回の旅行をアレンジしてくれた担当者がアムステルダムに詳しく、「私のイチオシの店です。アムスに行くたびに行ってます」とお勧めしてくれたのです。 午後5時頃、まず、店に立ち寄り、男性スタッフの方に「6時半頃に2名、予約できますか?」と尋ねました。そのスタッフはパソコンで予約状況を確認したうえで「大丈夫だよ」と。超人気店と聞いていたので、席が確保できてとりあえずひと安心。僕らは自分たちの名前(とスペルも)を告げて「それじゃぁ、後ほど!」と、いったん店を後にしました(スタッフは僕らの名前をパソコンに打ち込んでいました)。 6時半までの間、どうして時間を潰すかは事前に決めていました。そのレストランから目と鼻の先にあるベーセー・ホーフト通り(Pieter Cornelis Hooftsstraat)=写真=には、世界じゅうの高級ブランドショップが数多く、街路の両側に軒を連ねています。特別に何か買いたいというものがある訳ではありませんでしたが、「時間潰しの”ひやかし”に丁度いいね」と向かいました(ちょうど、バーゲン・セールをやっている店もいくつかありました)。 さて、ウインドウ・ショッピングも終えて再び、6時半少し前に「シーフード・バー」へ。するとさすが人気の店です。店内はほぼ満席で、7~8人の客が入り口に並んでいます。しかし、僕らはちゃんと予約を入れています。接客で動き回っているスタッフの一人を呼び止めて、「すみません! 6時半に予約しているアラカワです」と伝えましたが、聞こえているはずなのに無視です。 その時です。入り口に並んでいる白人の男性客が「俺たちは並んでいるんだ。お前も列の後ろに並べ」と僕らに言いました。僕は「私たちは6時半に予約している(だから並ぶ必要はない)」と言い返しました。後は、無視してやると、それ以上何も言わなくなりました。 僕らは再度、別のスタッフに大きな声で「パソコンの予約を確認してくれ!僕らの名前が6時半に登録されているはずだ(Check your computer! You have our reservation at 6:30)」と文句を言うと、ようやくテーブルに案内してくれました。人気店ですが、接客・サービスはまだ改善の余地ありです(写真は店内風景=少しピンボケご容赦を!)。 とりあえずビールを頼んで乾杯。レストランの料理は基本、一皿の量が多いので、2品くらいかな…と。まず、ロブスターの身がたっぷり入ったスープ(スープ皿の盛り付けは下手くそですが(笑)ですが、味はめちゃ旨かった!)、それから人気の定番メニュー「シーフードの盛り合わせ」を頼みました。例によってパンも付いてくるので、2人ならこれで十分な量です。 これが「シーフードの盛り合わせ」。生ガキ、ムール貝、ハマグリのような大きな貝、マテ貝、ロブスターの爪、エビ各種等々。大皿には10種類も盛り付けてありました。これらを4種類のお好みのソースで味わいます。もちろん、何もつけなくても素材だけで十分美味しいものもあります。これで€22.5とは、とてもリーズナブルだと思いました。 入店時の対応は不愉快でしたが、テーブルに付いた別の女性スタッフの対応はまぁ良かったし、味も文句なしだったので、許すことにいたしましょう(ちなみに、このシーフード・バー、アムス市内にはもう1店舗あります)。 さて、晩ご飯を無事終えました。しかし、まだ午後8時半です。前にも書いたようにこの季節、欧州の北の方の国は、夜10時半くらい空が明るいのです。ホテルに帰って寝るなんてとても出来ません。という訳で、ホテルの近くにあるバーで呑み直しです。 お邪魔したのは、アムスに詳しい同業者の友人に教えてもらった「The Flying Dutchman」という店。ホテルから数分の距離です。バーというよりパブという雰囲気の店でした。カウンターの中にはおばちゃんと若いお姉さんが仕切っていました(おばちゃんの声がでかいです(笑))。 テレビではW杯サッカーを放映していますが、オランダが今回出場していないのでオランダ人客はあまり元気がありません。隣国のベルギーが頑張っていますが、「オランダ人はベルギー人をバカにしているから、あまり応援していない。負けろーって思っている。日本がもしベルギーと対戦したら、オランダ人はきっと日本を応援するよ」とは現地の人の解説(この時点ではまだ決勝トーナメントでベルギーと対戦するとは決まっていませんでした)。 僕らは、スコッチ・ウイスキーのハイボールを頼みました。ただし「ハイボール」と言ってもまず通じません。「ウイスキー&ソーダ」と言わないとダメです(しかもウイスキーの銘柄を、その店にあるものから、きちんと指定する必要があります)。欧米のカクテルブックには、ハイボール(ウイスキー・ハイボール、スコッチ・ハイボール)と表記している本も確かにありますが、現代の欧米のバーでは、なぜか、ほとんど死語になっています。 加えて、今回旅の途中で何度も頂いた「ウイスキー&ソーダ」は、ほぼ例外なく、ウイスキーを45ml程度入れた氷入り(小さい氷が数個!)のタンブラーと、瓶入りソーダ(200ccくらいの瓶)が目の前に2つ、バンと置かれ、「あとはお好きにどうぞ!」という感じで提供されました。 バーテンダーがきちんとハイボールを美味しく作ってくれる日本のバーって、やはり素晴らしいなぁと思いますが、慣れるとこういう飲み方も合理的かなと思うようにもなりました。 <6回目に続く>※過去の「旅報告」連載は、トップページ中ほどのリンク「旅は楽しい」からお読みになれます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/07/16
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オランダは資源のない小さな国です。昔、そんな国が、英国やスペインのような大国と対抗するには、貿易・通商で優位性を持つしかありませんでした。オランダは1602年、「連合東インド会社」(末尾【注】ご参照)という世界初の株式会社を設立し、遠くアジア、アフリカとの交易を通じて一大海上帝国を築くまでになりました。 そして、皆さんもよくご存知のように、鎖国を続けた江戸時代。唯一、日本と国交を持っていたのがオランダです。長崎の出島にオランダ商館を置き、江戸幕府の世界への窓として西洋の最新情報や文化を伝えました。開国後の欧米諸国受け入れがスムーズにいった背景には、オランダとの長い交流が役立ったに違いないと僕は考えています。 オランダのこうした進取の精神は、小国が生きていくための知恵でした。東インド会社は今はありませんが、その精神は現在も受け継がれ、(後の回で取り上げますが)農業分野などでの世界的な先進性、優位性につながっています(小国オランダは驚くなかれ、現在米国に次ぎ、世界第二の農産物輸出国なのです)。 さて、国立ゴッホ美術館鑑賞を終えると、ちょうどお昼すぎになりました。そろそろお腹も空いてきましたが、2日目のお昼ご飯は、オランダ名物フードのパンケーキ(Pannenkoek=オランダ語では「パネクック」)に挑戦することに決めていました。 パンケーキと言うと、日本のおやつのホットケーキを想像しますが、オランダでは、クレープのような薄い生地のうえに様々な具をのせて焼き、お好みの味付けで頂く軽食のようなものです。僕らは、ゴッホ美術館からそう遠くない、そんな人気店の一つ「パンケークス・アムステルダム」を目指しました。 オランダ人はパンケーキが大好きです。ランチ代わりによく食べるそうです。なので、アムステルダムにもパンケーキの有名店、人気店がたくさんあり、行列ができるのは珍しくありません。案の定、「パンケークス・アムステルダム」でも先客が数名並んでいました。しかし、数名なのでここは待とうと思い、列に並びました(写真は、甘口系のパンケーキ。イチゴにヨーグルト、これにオリジナル・シロップをかけて頂きます)。 オランダのパンケーキには甘口系から非甘口系まで幅広い味付けがあります。大きさは直径25cmくらい。食べた印象では、う~ん、クレープとピザとお好み焼を足して3で割ったような雰囲気でしょうか? 結構ボリュームがあるので、最後の方になると少し味に飽きてきます(笑)。でも、美味しいので、皆さんもオランダに来られたらぜひ一度ご賞味を!(写真は、非甘口系のパンケーキ。ベーコン&チーズの塩味です)。 さて、昼ご飯の後は、再びミュージアム広場に戻って、今度は国立美術館(Rijks Museum)にお邪魔します。建物は1885年に完成。アムステルダム中央駅と雰囲気が似ているなぁと思ったら、設計者は同じ人物で、ペトルス・カイパースという方でした。 国立美術館の正面には「I amsterdam」という大きな「文字のオブジェ」があって、観光客の絶好の記念撮影スポットになっています。 ここが美術館の入り口。欧米の有名観光地に行けば必ず1人や2人はいる「動かないパフォーマンス芸人」がここにも! オランダらしく、自転車に乗っています。 国立美術館には、中世から20世紀まで様々な絵画や工芸品などが展示されていますが、一番有名な作品は、美術の教科書にもよく出て来るオランダが生んだ偉大な画家、レンブラント(1606~1669)の「夜警」です。本物の「夜警」は、6畳分のタタミくらいの巨大な絵であることに度肝を抜かれました。 大きな作品なので、細部までじっくり観ることができます(ゴッホ美術館とは違って、ここはフラッシュをたかなければ撮影OKなのが嬉しいです)。レンブラントは多作な作家として知られ、生涯に千点以上もの油絵、版画、素描などを残していますが、この美術館でも数多くのレンブラントを楽しむことができます。 この美術館のもう一つの”目玉作品”は、オランダが生んだ偉大な画家フェルメール(1632~1675 ※オランダ語での発音は「フェアミア(Vermeer)」)です。フェルメールは光と影の微妙な色合いや、自然光に照らされた人物の一瞬の表情を見事に表現した作品を残したことで知られています。 寡作だったフェルメールは、現存している作品がわずか36~37点しかありませんが、そのうち7点がオランダ国内にあり、うち4点がこの国立美術館が所蔵しているのです(他の3点は、デン・ハーグのマウリッツハウス美術館所蔵)。そんなフェルメールの傑作が、生で至近距離で観られるのは、なんと幸せなことかと思いました。 この美術館では、他にもフランス・ハルス、ヤン・ステーンの名作の数々や、19世紀の印象派画家の作品もたくさん楽しむことができます(写真は、お土産で買った公式ガイドブック<日本語版>。A5判という珍しい小さいサイズですが、実に面白い体裁の本です。製本するのが大変でしょうね)。 さて、国立美術館鑑賞を終えた僕らは、次にミュージアム広場のすぐそばにある「ハウス・オブ・ボルス(House Of Bols)」(写真中央の建物)にお邪魔しました。この建物はオランダを代表する世界的なリキュール&スピリッツメーカーのボルス(1575年創業)の体験型ミュージアム&研修施設です(本社機能もここにあるのかは聞き忘れました)。 ここが「ハウス・オブ・ボルス」の入り口。ボルスのジン(ジュネヴァ)やリキュールにはバーUKでもとてもお世話になっています。「ボルス」を訪問するのは、もちろん趣味と(バーUKでの)実益を兼ねてです。リキュール・メーカーはいろいろあるのですが、多彩なラインナップと安定した品質ということで言えば、やはりボルスは世界一でしょうね。「ハウス・オブ・ボルス」では、観光客向けの体験型ツアー「Cocktail& Genever Experience」(€16)もあります。、美味しいジュネヴァを味わい、自分でカクテルをつくって味わったりも出来るのですが、僕らは時間があまりないのと、晩ご飯でまた酒をたらふく飲むので、残念ながらツアーは断念して、ギフトショップでお土産を物色することに(写真は、エントランス・ロビー)。 これがギフト・ショップ。結構充実した品揃えですが、さすがにジュネヴァやリキュールは日本でも買えるのでやめて、ここでしか買えない記念品を探しました。 という訳で、最終的に買ったのは、ダブル・ステンレスカップのボストン・シェーカー、ジュネヴァ専用グラス、ペストル(フルーツやミントを潰す道具)、オリジナル・カクテルブック、オリジナル・ビターズ。ジュネヴァ・グラスは帰国後、早速バーUKで活躍しています。 <5回目に続く> 【注】オランダの連合東インド会社は1799年に解散するまで存続しました。ちなみに、東インド会社は他にも、イギリス、フランス、スウェーデン、デンマークの各国に設立されましたが、もちろん歴史上ではオランダの会社が一番有名です。※過去の「旅報告」連載は、トップページ中ほどのリンク「旅は楽しい」からお読みになれます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/07/14
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オランダは小国ですが、著名な画家を数多く生んだ国です。ゴッホ、レンブラント、フェルメール、ブリューゲル等々。とくに僕は小学校高学年の頃から、ゴッホ(Vincent van Gogh、1853~1890)が大好きでした。あの明るい色彩と厚塗りのタッチが好きで、中学校の図画の授業では、課題作品を描く際、ゴッホを真似て(ペインティング・ナイフを使ったりして)厚塗りの派手な色使いの作品を提出していました。 以来、ゴッホはそのドラマチックな生涯もあって、ずっと興味を失うことのない存在でした。画集も何冊か買い集め、彼の使った絵の具の種類など制作技法を解説した本も読み、日本でゴッホ展があると欠かさず足を運びました。それくらい、僕にとっては最高のアーチストの一人でした。 多作だったゴッホが遺した作品は現在、世界中の美術館で観られますが、代表作も含め最も数多く所蔵・展示しているのは、やはり彼の母国オランダの美術館です。ゴッホの作品の大半は、アムステルダムにある国立ゴッホ美術館、そして同じオランダのデ・ホーヘ・ヘルフェ国立公園内(アムスから電車とバスで約2時間の距離)にあるクレラー・ミュラー美術館が所蔵しています。オランダ滞在2日目はまず、アムステルダムにある国立ゴッホ美術館を訪ねます。 アムステルダムで迎える初めての朝です。部屋はホテルの5階。窓から見える景色はこんな感じです。建物の上部がオランダらしい雰囲気です。 ホテルの朝食はごく普通のバイキング・メニューです。ハム(5種類)、ベーコン、ソーセージ、チーズ(5~6種)、フライドポテト、スクランブルエッグ、茹で玉子、豆の煮込み、サラダ、フルーツ、パン(5~6種)、飲み物(各種)。いちおう「A」ランクのホテルなので、どれもクオリティは高かったです。 ただし日本のホテルなら連泊の客に配慮して、日替わりメニューも少し加えるでしょうが、そこは合理主義がモットーのオランダです。滞在期間中、5回の朝食内容はまったく同じでした(笑)。 きょうは初めてトラムに乗ります。昨日スキポール空港駅で買った交通カードの出番です。停留所には、写真にも見えるように、次のトラムがあと何分で到着するかの表示板(5つ後のトラムまであと何分が表示されます)があるのでとても便利です。 どのトラムに乗るかは、先頭車両の行き先表示番号で確認できます。乗車時には、乗降口のチェック機のセンサーにカードをピッと音が出るまで当てて、降りる時、またピッと当てます。 トラムの車内はこんな感じ。多国籍な雰囲気です。車内のアナウンスはや駅名表示はオランダ語だけですが、車内のモニターに停まる駅が3~4駅先くらいまで表示されるので、駅名の読み方(発音)が分からなくても、文字の綴り(アルファベットなので)で何とかわかります。 2両連結の車内中央には係員も乗車していて、切符の販売や乗客の問い合わせに対応しています。もちろん、無賃乗車する輩にも目を光らせています(見つかれば高額の罰金が待っているそうです)。 移動手段としてのトラムの利点は、街の景色もたっぷり楽しめ、街の地理も体感的に覚えられることです(地下鉄ではこれは出来ません)。ゴッホ美術館へ行く途中、トラムは何度か運河を渡ります。運河を見ると、「あぁ、アムステルダムにやって来たんだなぁ」という感激に浸れます。 ところで、欧州へ行くのは(前回のチェコ&オーストリア以来)3年ぶりですが、この3年で、主要な美術館はほとんどが、事前にネットで入場券が予約できるシステムを導入しました。「予約できる」と書きましたが、今や「予約しておかないと長時間並ばないと入れない」ような美術館がとても増えてきました。 この国立ゴッホ美術館も例外ではありません。当日チケット(15分ごとの時間指定入場券)の売り場は、ほぼいつも長蛇の列が出来るそうです。貴重な旅の時間を有効に使うためには、「事前に美術館のHPでこの時間指定チケットを買っていくのが賢明です」と旅行代理店の担当者に言われたので、もちろん僕らも事前にネットで申込み(カード決済です)、予約チケットをプリントアウトして持参しました。 トラムに乗って約15分ほどで「国立美術館前」駅に到着。国立ゴッホ美術館は、国立美術館(この写真の正面奥に見える建物)と向かい合っていて、両美術館の間は「ミュージアム広場」と呼ばれる広い空地になっています。余裕を持ってホテルを出たので、ゴッホ美術館の予約時間(午前10時半)まではまだ1時間近くあります。 という訳で、時間潰しに広場にあるハンバーガー屋兼アイスクリーム屋さんでソフトクリームを買って、ひと休み。広場に続々と集まってくる観光客を”人間観察”して、待つことにしました。 ミュージアム広場にはこんなユニークなオブジェも。ゴッホ愛用の椅子に乗った宇宙飛行士がヒマワリの入った花瓶を足で支えているという図。こういう発想はどこから出てくるのか? 国立ゴッホ美術館は1973年に開館した、写真のようなモダンな建物です。この美術館のゴッホ・コレクションは数、クオリティともに世界一でしょう。弟テオの遺族が管理していた油絵、素描などの作品が中心で、約700点もあるそうです(常時展示されているのはそのうち3分の1くらいでしょうか?)。 これが国立ゴッホ美術館の入り口。10時25分になったので、入り口に向かいました。入口の係員が予約チケットのバーコード部分をピッとチェックしたら、入館OKです。 館内に展示されているのは名作ぞろい。「ひまわり」「黄色い家」「アルルの寝室」などの代表作から遺作と言われる「カラスのいる麦畑」に至るまで。自画像だけでも10数点あります。他にもゴッホ本人が書いた手紙類もたくさん、実物を間近で見ることができます。残念ながら、館内の展示スペースは撮影禁止でした。 改めて驚くのは、わずか37年の生涯、そして画家としては実質10年弱しか活動しなかったのに、2千点以上の作品を残したその凄いエネルギーです。 展示のなかで油絵の名作の数々はもちろんですが、僕は、ゴッホが実際に使っていた木のパレットに魅せられました。そこには、彼が実際にチューブから出して、使い残された絵の具が(色はさすがに変色していますが)まだ生々しく残っていました(写真は、美術館のギフトショップ。オランダを代表するキャラクター「ミッフィー」とコラボした面白いグッズがたくさん売られていました)。 あれこれとギフトショップの商品を見ましたが、結局買ったのは公式ガイドブック1冊と、あとは大好きな「ひまわり」がプリントされた眼鏡拭きを何枚か(友人らへのお土産用に)。まぁ、ゴッホ・グッズは街なかでも、いっぱい売ってますから、また別の場所でいいお土産を探します。 <4回目に続く>※過去の「旅報告」連載は、トップページ中ほどのリンク「旅は楽しい」からお読みになれます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/07/12
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オランダへの旅報告、2回目です。前回に引き続き、オランダについて、もう少し学んでおきましょう。 オランダの正式国名はネーデルランド王国(Koninkrijk der Nederlanden)。「八十年戦争」を経てスペイン(系ハプスブルグ家)の支配から独立し、ネーデルランド連邦共和国が成立したのは1648年と言われています。「ネーデルランド」とはオランダ語で「低地の国」を意味します。 国名は、オランダ語ではNederland(Nederlandenは海外領土も含めた複数表記です)、英語ではNetherlands(こちらは通常複数形)と表記されます。通称の「Holland(ホランド)」もよく使われますが、これは「八十年戦争」で重要な役割を果たしたホラント州(現在は南北2州に分かれる)の名に由来します。 形容詞および名詞形で「Dutch(ダッチ)」(「オランダ語、オランダ人」の意)という言葉もよく耳にします。専門サイトによれば、もともとは「Duitsch(ドイツ)」に由来する言葉だったが、ハプスブルグ家の支配から脱した17世紀半ば以降、現在の意味に変わっていったという説明でした。 さて、アムステルダム到着初日。チェックインを終えた僕らは早速、街へ繰り出しました。トラム(路面電車)の停留所は、なんとホテルから歩いて1分という便利なところにありました。しかし、晩ご飯に行く予定をしているレストランはトラムで2駅です。せっかくなので、街を散策しながら歩いて向かうことにしました。 ホテルから南へ歩いて数分、石造りの立派な建物が見えてきました。地図には「王宮」とあります。1665年に建てられたということですが、オランダ王室は現在、政治・行政上の首都、デン・ハーグ(アムステルダムから南西へ電車で約1時間ほどの距離)に住んでいるので、こちらの王宮は時たま迎賓館として使われている程度なんだとか(写真の下に写っている赤い車体は公共の路線バス。市中心部を走るバスはこのように2両連結のものが目立ちます。一方、トラムは原則2~3両連結で運行し、トラムとバスは中心部では停留所を共用しています)。 王宮のすぐそばは大きな広場になっています。これが「アムステルダムの心臓」とも言われるダム広場です。「ダム」という名の通り、アムステル川をせき止めてダムを造り、街の発展の出発点になった場所だそうです。広場では、沢山の人たちが行き交い、憩い、数は意外と少ないですが大道芸人がパフォーマンスをしています。 広場のそばには、こんなお城のような建物も。聞けば、昔の郵便局の建物を再利用した「マグナ・プラザ」という名のショッピング・センターでした。時間がないので中には入りませんでしたが、40店舗ほど入っているそうです。 ダム広場からさらに5分ほど歩いて、晩ご飯を予定している店「ハーシェ・クラース(Haesje Claes)」に着きました。ガイドブックでもよく紹介されるオランダ料理の老舗です。時間はまだ午後5時半すぎ。少し早いかなぁと思いましたが、人気のお店と聞いていたので、早めに店内へ。「ハロー(オランダ語でも「こんにちは」の意で、普通に使います)、2人ですが、いけますか?」と尋ねると、幸いすぐテーブルに案内されました。最初は、やはりビールですね。「ブラウェライ・アイ(Bouwerij't IJ)」という銘柄で2種類選んで、注文しました(ブラウェライとはオランダ語で醸造所の意=英語で言うところのBreweryです)。ビールも人気の飲物であるオランダには、ハイネケン以外にも地ビールの銘柄がたくさんあります。スーパーには15~20種類くらい、見たこともない銘柄が売られていました。 オランダ料理と言えば、あまりイメージがわかないかと思いますが、ジャガイモなどの野菜、そして肉、魚などの素材を生かしたシンプルな調理法のものが目立ちます。所謂、ママの家庭料理的なものが多いです。これはメインで頼んだ豚肉のロースト料理。 ジャガイモ大好きな国民性なので、料理には必ず付け合わせのフライドポテトが山ほど付いてきます。街なかにはフライドポテトだけの専門店もあります。 ちなみに、地元の人に聞くと、オランダ人は質素倹約の国民性なので、あまり外食しないそうです。とりわけ、家で食べられる家庭料理(オランダ料理)をわざわざ外で金を払って食べに行くオランダ人もほとんどいないとのこと。 なので、ハーシェ・クラースのような老舗に来る客は、ほとんどが僕らのような外国人です(店内には英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語など様々な言語が飛び交っています)。 これがこの日食べたものの中で一番美味しかった「エルテン・スープ」。オランダ料理を代表する一品ですが、エンドウ豆やジャガイモ、玉ネギ、ニンジンなどの野菜、ソーセージなどを半日ほど煮込んで作ります。やさしい塩味で野菜の旨味がしっかり詰まった濃厚な味わい。ボリュームもたっぷりで、昼食ならこのスープとパンだけで十分かもです。 オランダと言えば、もう一つ代表的な国民食がコロッケ(クロケット)です。オランダ人はコロッケが大好きで、ファーストフードとして食べます。街中や大きな駅にはコロッケの自販機があるほど(僕らもデン・ハーグからの帰り、駅の自販機で買って車内で食べました)。ただし形は日本と違い、写真のような、長細いものが多いです。 レストランのディナーでは、必ずパンが付きます。オランダ人は米飯や麺類(ヌードル)はあまり食べないので、炭水化物はパンとジャガイモで摂るようです。オランダのパンはフランスに比べてそう有名ではありませんが、意外と美味しいです。 <3回目に続く>※過去の「旅報告」連載は、トップページ中ほどのリンク「旅は楽しい」からお読みになれます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/07/10
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早めに夏休みを頂いて、オランダへ行ってきました。いつものように、往復の飛行機とホテルだけを予約しただけのフリー・プランの旅です。 なぜオランダだったのかは、(1)欧州で訪れてみたい国でまだ未踏の国だったこと(過去訪れた欧州の国は英国、フランス、イタリア、スペイン、ドイツ、オーストリア、チェコの7つ)(2)ゴッホやフェルメールが好きな僕らにとって、死ぬまでにぜひ訪れてみたい美術館が4つもあること(3)ジュネヴァ(オランダ・ジン)やリキュール、ビールなど独特の酒文化に触れてみたかったこと(主に僕の方の動機ですが)ーーが主な理由です。 それでは訪れた場所や美味しく食べた店、旅で感じたこと等を、思い出すまま綴っていこうと思います(前回のチェコ、オーストリアの旅報告と同様、写真は大きめに紹介していきます)。 まずは、オランダという国について、基礎的なデータを少し紹介しておきましょう。言わずもがなですが、ヨーロッパにある立憲君主国です。東はドイツ、南はベルギーおよびルクセンブルクと国境を接し、北と西は北海に面しています。ベルギー、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれることも多いです(オランダには、日本からアムステルダムへの直行便が毎日飛んでいます。関空・アムス間は約11時間です)。 面積は41,864平方キロメートルで、九州とほぼ同じ。人口は約1,720万人(2017年末現在)です。昔から移民受け入れに寛容な国ということもあって、人口に占める西側諸国以外からの移民の比率は、12.1%(オランダ統計局のデータ:2015年現在)となっています。このうち約5%がムスリム、主に旧植民地インドネシアからの移民です(往路の機内では早速、オランダを代表するビール「ハイネケン(Heineken)」で乾杯!)。 オランダの首都は、外務省のHPでもアムステルダムと記されていますが、これはオランダ国憲法上の(形式的な)首都で、政府機関や国会、各国大使館、王宮などがある事実上の首都はデン・ハーグです(国際司法裁判所があることでも知られていますよね)。 ちなみに経済規模ではやはり、アムステルダムがオランダ最大の都市で、人口も最多の約83万人。デン・ハーグの人口は約52万人です(機内の座席モニターでは、到着までの間、3Dグラフィックスで飛行機の現在位置がビジュアルに表示されるので、楽しいです。世界地理の勉強にもなります)。 共通言語はもちろんオランダ語ですが、国民の95%はきれいな英語が話せます(その理由はまた別稿で紹介します)。関西空港からの直行便は、現地時間の午後3時頃、無事アムステルダム・スキポール空港に到着。スキポールは欧州各地への乗り継ぎ拠点(ハブ)空港なので、アムステルダムで降りる日本人は意外と少ないです(写真は、スキポール空港駅構内のカフェ。皆さん、昼間からビールを飲んでます)。 入国手続きを終えた後、僕らがまずすべきことは、アムステルダムで乗り放題で使える観光客用の交通カードを買うことでした。この交通カードにはいろんな種類があって、少々ややこしいのですが、僕らは「Amsterdam Travel Ticket」(1日券~3日券があります)というカードの3日券(€26)=1€は旅行時約130円でした=を買いました。このカードは駅のキオスクなどで買えますが、トラム(路面電車)やバス、メトロの乗り放題に加えて、スキポール空港・アムステルダム中央駅間の国鉄往復乗車券も付いていて、とても便利です。 オランダ国鉄の駅には有人改札はありません。カードを自動改札の読み取り部分にピッと当てて、ホームへ行き、乗車します(郊外の駅では自動改札もなく、カード読み取り部が先端についた高さ1mほどのポールが、ホームに何カ所か立っているだけです)。 欧州への旅ではいつも、空港からホテルまでの送迎だけはオプションで頼んでいたのですが、今回の旅では日本の旅行代理店の担当者から「オランダの治安は比較的良いし、ホテルはアムステルダム中央駅から徒歩5分くらいですから、スキポール空港・アムス中央駅間は電車で15分くらいなので、大丈夫、ご自分で行けますよ」と言われました。なので、今回は初めて自力でホテルへ向かいました。 これがアムステルダム中央駅行きの電車、スキポール空港駅からは10分おきくらいに出ていてとても便利です。車体は綺麗でないものもありますが、車内は普通に綺麗で、清潔です。車内の行き先表示や車内アナウンスは、オランダ語と英語の両方なので、安心して乗れます(ただし、駅のホームにある「駅名表示板」は原則オランダ語だけでした)。 アムステルダム中央駅に着きました。改札口を出る際も自動改札機に交通カードをタッチします。ところが改札口を出て、駅の建物から外に出たらいきなり岸壁で、目の前には広い海のような水面が広がっています。「えーっ!地図で確認した駅前の感じと全然違うー?」と少し動揺しました。 ちょうど通りかかったお巡りさんに、地図を見せながら「僕らは今どこにいるのですか?」と尋ねると、「君たちはいま駅の北側にいるよ」と。目の前に広がってるのは、アイセル湖の南方にあるアイ湾という湖面。アイセル湖も元は海で、大きな堤防で仕切って湖にしたそうですが、海水と淡水とが混じり合った汽水域なので、今も海の魚が数多く生息しているとか。 という訳で、ホテルに行くには反対側・南側の出口に出ないといけないのですが、改札はすでに出てしまっています。でも、交通カードは使い放題なんだから、再度北改札から入って、そのまま南改札からも出られるに違いないと信じて再び改札内へ(幸い、改札間の通り抜けはOKでした。後日、駅構内を南北に通り抜けできる通路も存在することを知りました)。そして南改札を出ると、そこにはクラシックな内装の駅構内ロビーが広がっていました。 中央駅の南側広場に出ると、ようやく写真で見たアムステルダム旧市街の光景が広がり、「とうとうアムスに着いたぞー!」と思った瞬間でした。1889年に完成した中央駅はネオ・ゴシック様式とネオ・ルネサンス様式が融合した、とても素敵な建物です。駅構内にはいろんなお店も入っていてショッピングや食事も楽しめます。 中央駅南口から出て南側方向を見るとこんな感じです。クラシックな石造りの建物が数多く並んでいます。高さがほぼ揃っているのは、おそらくそういう建築規制があるからなんでしょうね。写真からも分かるように、行き交う人々には様々な人種が入り混じっています。まさに移民国家を象徴するような光景です。到着日は珍しく小雨も降って肌寒かったので、人々はみな厚着です(翌日からはずっと快晴!)。ちなみに、アムステルダムはロンドンとほぼ同じ緯度です。 中央駅のすぐ目の前には、トラムの駅やバス停があり、そのすぐ南側には観光船が発着する運河があります。運河を見ると、オランダにやって来たことを実感します。運河に架かる橋を渡って、さらに石畳の歩道を南西方向へ、トラムの路線沿いに歩きます。治安は一般的にはいいとは言うけれど、「中央駅周辺はスリもいるから注意を」と言われていたので、いちおう緊張感を忘れないように気をつけます。 そして、ゆっくり歩いて6~7分で、僕らがアムス滞在中お世話になる、目指すホテル「Hotel Intel Amsterdam Center」にたどり着きました。チェックインも難なく終え、部屋に荷物も置きました。さぁ、それではこれから街へ繰り出しましょう! <2回目へ続く>こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/07/08
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連載「欧州への旅2015」もとうとう最終回となりました。最後に“おさらい”の意味を込めて、オーストリア出身の著名人(またはオーストリアを基盤にして活躍した人=その後国籍を変えた方も含む)を紹介しておきましょう(分野別に順不同で)。 マリー・アントワネット=フランス国王ルイ16世の妻、マリア・テレジア=オーストリア帝国の女帝、エリーザベト・マリー・ペツネック=ハプスブルク家最後の大公女、アドルフ・ヒトラー=ナチス・ドイツ首相、グレゴール・ヨハン・メンデル=遺伝学者、ヨーゼフ・シュンペーター=経済学者、ピーター・ドラッカー=経営学者・社会学者、フリードリヒ・ハイエク=経済学者、ルドルフ・シュタイナー=教育思想家 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト=作曲家・演奏家、アントニオ・サリエリ=モーツアルトと同時代の音楽家(モーツアルト暗殺の疑いをかけられたことも)、ヨハン・シュトラウス1世&ヨハン・シュトラウス2世=作曲家、フランツ・シューベルト=作曲家、フランツ・ヨーゼフ・ハイドン=作曲家、ヨハネス・ブラームス=作曲家、アントン・ブルックナー=作曲家、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン=作曲家、 グスタフ・マーラー=指揮者・作曲家、ルートヴィヒ・フォン・ケッヘル=音楽研究家(ケッヘル番号)、ヘルベルト・フォン・カラヤン=指揮者、カルロス・クライバー=指揮者、カール・ベーム=指揮者、パウル・グルダ=ピアニスト、アンドラーシュ・シフ=ピアニスト、アルフレート・ブレンデル=ピアニスト、ファルコ=ロック歌手 グスタフ・クリムト=画家、エゴン・シーレ=画家、マリア・フォン・トラップ=サウンド・オブ・ミュージックの原作となった自伝の作者、ビリー・ワイルダー=映画監督、脚本家、プロデューサー、クリスティーネ・カウフマン=女優、アーノルド・シュワルツェネッガー=俳優&政治家、トニー・ザイラー=スキー選手(五輪金メダリスト)。 いかがですか? 皆さん知っている人はどれくらいいましたか? 芸術系の人が圧倒的に多いですね(なお、ヒトラーを生んだ国であることは、今でもオーストリア人にとってはあまり思い出したくないことらしいです)。 さて、ウイーン滞在も最終日。晩ご飯の時間が近づいてきました。オーストリアには酒蔵を併設した「ホイリゲ(Heurige)」と呼ばれるワイン酒場があります。新酒の時期には、欧州中から観光客が訪れるそうです。ホイリゲには滞在中、一度は行ってみたいと思っていました。 ただし、ホイリゲが数多く集まることで有名なグリンツィング(Grinzing)という街はウイーン郊外にあるので、ちょっと時間がありません。あきらめかけていたら、なんと中心部に1軒、ホイリゲがあるということを知りました。最終日はそこへ向かいます(写真は、ホイリゲへの行先を示す案内柱)。 角を曲がるとこんな路地です。見えてきました。「エスターハーズィー・ケラー(Esterhazy Keller)」の建物が。 これが店の入り口。17世紀の古いワイン蔵を改造して酒場にしているそうです。7~8月はお休みらしいので、ラッキーでした。 酒蔵&酒場は地下にあります。内部は石造りなので、空気もひんやりしています。 ワインはテーブルで注文できますが、フードはショーケースから好きなものを好きなだけ選んで注文し、ここで支払うシステムです。皿に盛ってくれるのを、自分でテーブルまで運びます(つまりセルフサービスです)。 で、選んだのがこんな感じのフード。味は?なので、見た目で選びましたが、なかなか良いお味で、ワインにとても合いましたよ。 奥には大きな樽も見えました。たぶん、新酒の立ち飲みのスペースなんでしょうね。 ウイーンでは人気レストランだと6時頃にはもう客で一杯という店も多いのですが、ここは穴場なのか、6時過ぎでも幸いまだ客はまばらでした。1時間ほどすれば、半分くらい席は埋まってきましたが…。 1枚前の写真を撮った位置から後ろを振り返ると、こんな感じです。まるで防空壕のような雰囲気。キャパは結構広く、100人は余裕で入れるかも。 御飯を食べてホテルへ帰ろうかと思ったら、すぐ近所にアイリッシュ・パブがありました。1杯飲んでから帰ろうと、早速寄り道。 看板には「ウイーン最古のアイリッシュ・パブ」とありました。 薄暗い店内は、本格的なパブの雰囲気です。ウイスキーのハイボールを頼みましたが、氷はやはり、ちょっとしか入っていませんでした(笑)。 ホテルへの帰り道に見かけた大きな酒屋さん。ちょっと覗いてみるだけのつもりが、結局、グラッパ「Romano Levi」を買ってしまうことに(笑)。 日本酒の棚のコーナーです。3合瓶くらいのサイズでこのお値段ですから、相当お高いですね。ヨーロッパでいま一番人気があるという、あの「獺祭(だっさい)」もやはり売っていました(値札の部分が画像から切れていますが、1本20ユーロ以上してたかと)。 元祖ギムレットには欠かせない、ローズ社の「ライム・コーディアル」を発見! 一瞬買おうかと思いましたが、2Lサイズで、しかもガラス瓶。重すぎるので断念。もっと小さい500ccくらいのサイズでポリ容器入りのものを商品化して、日本にも輸出してほしいなぁ。 という訳で、ウイーンともこれで本当にお別れ。しっとりとして趣のある、本当に素敵な街でした。明日は午前中に空港へ向かい、帰途につきます。 これは、翌日の写真。帰りは来るときとは逆ルート。ヘルシンキを経由して、そこから日本(関空)へ戻ります。こうして7泊9日の欧州の旅(プラハ、ザルツブルク、ウイーン)はおしまいです。旅行中、体調を崩すこともなく、ほぼ無事に過ごせて、行きた(見た)かったところはほぼ制覇できて、地元の方々との触れ合いも楽しめました。 旅は、様々な国の文化や歴史が学べて、人生を豊かにしてくれる貴重な機会(時間)を提供してくれます。いろんな国の人々との出会いを通じて、日本という国や日本人を、改めて客観的に見ることもできます。一度だけの人生。これからも機会があれば、僕は、知らない国へ出かけていきたいと思います。 連載「欧州の旅2015」は今回で終わります。長い間、ご愛読有難うございました。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2015/11/24
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「欧州への旅2015:ウイーン編」も終わりに近づいてきました。そこで今回は、これまであまり触れていなかったオーストリア関連データを少し紹介します(データは、外務省HPを参考にさせて頂きました)。 オーストリアにとって、日本はアジア有数の貿易相手国だそうです。主要貿易品目は、日本からオーストリアへの輸出が自動車、一般機械、化学製品等(2013年)、オーストリアから日本への輸入は、機械類及び輸送用機器、木材・木製品、化学製品(同年)となっています。しかし、総貿易額でみると、日本からの輸出が903億円(2013年)であるのに対して、輸入は1686億円(同)と(日本にとっては)大幅な輸入超過となっています。 日本とオーストリアは、音楽分野での交流がとくに活発です。ウイーン・フィルハーモニー、ウィーン少年合唱団、ウィーン国立歌劇場など有名な楽団、団体が毎年のように来日公演をおこなっています。また、ウィーンやザルツブルク等でクラシック音楽を学ぶために留学する日本人学生も数多く、プロになった後も、オーストリアを拠点として活動する日本人音楽家も少なくありません。 近年では日本食もブームで、寿司やラーメン、蕎麦は、若い世代を中心に人気フードになっています。最近では、日本のアニメ・ブームの影響もあって、日本語を学ぶ学生の数も少なくありません。オーストリアで唯一日本学科を有するウィーン大学東アジア研究所には、毎年200名程度の学生が入学しています。日本の伝統文化や武道等に関心を持つオーストリア人も多いそうです。東日本大震災の際には、オーストリアから総額100万ユーロ(約1億1,500万円)にのぼる義捐金が届けられました。 オーストリアの在留邦人数は2013年10月現在、2,839人です。在留邦人のうち35%が永住者で、残りは留学生・研究者・教師(23%)、駐在員(13%)等となっています。一方、在日のオーストリア人は約500人です(2013年12月現在、法務省調べ=短期滞在者は除く)。 シェーンブルン宮殿とベルヴェデーレ宮殿の見学を終えて、再びウイーン中心部に戻って参りました。この写真のグラーベン(Graben)通り付近は、海外の有名ブランドショップも多く並ぶにぎやかな通りです。道幅も広く、歩行者専用なので、歩きやすくて助かります。 同じグラーベン通りを歩いていると、こんな派手なモニュメントが立っていました。1679年、ヨーロッパ各地で猛威をふるったペストのため、ウイーンでも約10万人もの犠牲者が出ました。その恐ろしいペスト禍が終息したことを記念し、当時の皇帝レオポルド1世が「神の加護に感謝の意を込めて献じた」塔だそうです。 こんなビルも見つけました。あの作曲家フレデリック・ショパン(1810~1849)はウイーンにも滞在していました(1830~31年頃だという)。それがこの建物なんだとか。モーツアルトとショパンはヨーロッパのあちこちの街に足跡を残していますね。 ヨーロッパの都市に旅した際は、できるだけ地元の人が出入りするような市場を訪れることにしています。ウイーン最終日ですが、比較的町の中心部に市場があることを知って、お邪魔してきました。その名も「ナッシュマルクト(Naschmarkt)」。食料品が中心ですが、大衆的な食堂も併設されていて、見ているだけでも楽しい場所です。 オリーブの専門店。さすがに種類が多いですね。家の近くに、こんな店があるとめちゃ嬉しいなと思いました。 野菜や果物、肉を売る店ももちろんたくさんあるのですが、これはスパイス、ハーブの専門店。単品だけでなく、各種の料理用にミックスしたものも販売しています。何か一つ買おうかなと思っていながら、結局買うのを忘れてしまいました(笑)。 海のないオーストリアでは、海の魚やタコ、イカなどを目にすることは極めて少ない(レストランのメニューにも少ないです)のですが、初めて見ました! サーモンはスーパーで見たことがありましたが、タコやエビ、ホタテは初めてです。 市場の中には、こうした食堂ばかりが集まった通りもありました。午後4時頃という時間的な問題なのか、あまり賑わってはいませんでしたが(笑)。 アジアン・フードの店も。和食(寿司、天ぷら等)、中華、韓国&タイ料理など何でもありのレストランでした。 これは市場内ではありませんが、近くで通りかかった、お茶の専門店。日本茶も結構売っていましたが、その名前を見て笑ってしまいました。「JAPAN GEISHA」とか「TAMARYOKUCHA」っていったい何なの? 交差点を渡ろうと地下道へ潜ると、壁はこんなデザイン。円周率の数字に、ついつい見入ってしまいます。 再びホテルの近くまで戻ります。途中、再びオペラ座の前を通りますが、ここにはいつもモーツアルトの格好をした客引きが何人もいます。僕らを日本人とみるや、「今晩、コンサートいかがですかー?」とカタコトの日本語で声をかけてきます(なぜか、中国人、韓国人とは違うと分かるようです)。 値段に見合う中身かどうかは、値段も聞かなかったし、実際に行っていないので何とも言えません。でもいかにも、少しうさんくさそうな勧誘でした。もし、本当にちゃんとしたクラシックを楽しみたいなら、やはりホテルのコンシェルジュに頼んだ方がいいのでしょうね。 <ウイーン編(7)>へ続く。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2015/11/20
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以前にもこの連載で一度書いたことですが、オーストリアは欧州の中でも独自の存在感がある国です。EUやユーロには加盟・参加していますが、NATO(北大西洋条約機構)には加盟せず、1955年の主権回復時には「永世中立」を宣言し、国連に加盟しています。 従って、とくに外交分野では、国際間の問題(紛争等)の仲介役を果たしたり、2国間の秘密交渉の舞台を提供したりという役割を積極的に果たしています。国際法に基づく紛争解決や大量破壊兵器の不拡散、地雷・クラスター弾の禁止推進、文明間の対話、人権や少数民族の権利の保護は、オーストリアの重点政策となっています。 国連平和維持活動にも積極的に取り組み、現在、レバノンなど5つのPKOに約200人を派遣しているのをはじめ、コソボやボスニアにも数百人単位の支援要員を送っています。大規模災害での救助・支援活動に迅速に取り組むことでも知られ、阪神大震災や東日本大震災でも、日本へいち早く様々な形で支援の手を差しのべてくれました。また2012年には、宗教・異文化間の対話を促進するために、オーストリア、スペイン、サウジアラビアが設立国となり、「キング・アブドッラー国際宗教・文化間対話センター」がウィーンに設立されました(この項、外務省HPを参考にしました)。 首都ウイーンは、ニューヨーク、ジュネーブに次ぐ「第三の国連都市」として、国際原子力機関(IAEA)や国連工業開発機関(UNIDO)などの国連諸機関のほか、OPEC(石油輸出国機構)本部など数多くの重要な国際機関の本部も置かれています。冷戦期には、ケネディ・フルシチョフ会談(1961年)等、たびたび東西両陣営の交渉の舞台にもなりました。 日本はいま安保法制の整備にばかり前のめりになっていて、国民からは批判的な声も多く聞かれます。軍事的な同盟国支援だけで国際的な存在感が増せると思っている浅はかな政治家や官僚、学者らは、オーストリアの独自外交路線に見習うべきだと僕は思っています。 さて、ウイーン滞在も残りあと2日(実質的には1日)となりました。きょうは、ウイーンが誇る「世界遺産・シェーンブルン宮殿」と、さらにはハプスブルグ王家の離宮で、クリムトのコレクションでも有名な「ベルヴェデーレ宮殿」を訪れる計画です。 まずは、シェーンブルン宮殿へ。Uバーン(地下鉄)に乗って、シェーンブルン駅に向かいます。2線乗り換えで計7駅。乗り換える駅で行先を間違わないようにしないといけないので、少し緊張します。 地下鉄とは言っても、シェーンブルン駅は地上にありました。駅のホームからは空が見えます。ここから宮殿までは徒歩で約7、8分です。 朝早いので、まだ人も少ないですが、シェーンブルン駅で降りる人のほとんどは宮殿へ向かうので、まず道に迷うことはありません。 ようやく宮殿の正面玄関に到着。シェーンブルン宮殿は1693年、当時の皇帝レオポルト1世の別荘として建てられたのが起源だそうです。なんとなく、パリ郊外のベルサイユ宮殿に雰囲気が似ていますが、まぁ、この宮殿で15歳まで育ったマリー・アントワネットがブルボン王朝に嫁いだのですから、親戚のような関係ですし、それも納得。 宮殿の外壁はとてもよく手入れされて、綺麗すぎるくらいです。歳月と歴史の重みを今に伝えるためには、もう少し薄汚れた雰囲気を残した方がいいなぁと思うのは僕だけでしょうか。 これはほぼ正面から見た宮殿本館。1762年、まだ6歳のモーツアルトがマリア・テレジアの前で“御前演奏”したのがこの宮殿内です。本館の裏側には、世界最古の動物園(1752年創立でいまも現役)と言われるシェーンブルン動物園(パンダもいます!)があります。 一つ前の写真を撮った場所から180度後ろを振り返ったら、こんな光景です。石畳の広がりや雰囲気は北京の紫禁城を思い起こさせます。宮殿内部は撮影禁止だったのでアップできませんが、まぁ、部屋数の多さと室内装飾の凄さにただ驚くばかり。王家の人々は、(おそらくは)たくさんの召使やお付きの人たちに監視される日々だったことでしょう。このような空間で生活することが果たして快適で、幸せだったのかどうか、できることなら尋ねてみたいです。 シェーンブルン宮殿の見学を終えた僕らは、今度は、ベルヴェデーレ宮殿へ。地下鉄でいったんオペラ座駅まで戻って、今度は路面電車でベルヴェデーレ駅まで向かいます。 オペラ座駅からベルヴェデーレ駅までは10分弱。あっという間に着いてしまいます。駅から宮殿までは徒歩数分です。もう午前11時頃になっているので、観光客も結構集まってきています。 正門のゲートを入ると、絵葉書のような宮殿の姿が目に飛び込んできます。建物の前には大きな池があります。 17世紀後半に建てられた宮殿の建物は、シェーンブルン宮殿に比べると、まだ当時の雰囲気をよく残しています。この宮殿は、19~20世紀のヨーロッパ絵画のコレクションでも有名です。とくに甘美で妖艶な作風で知られる画家・グスタフ・クリムト(Gustav Klimt 1862~1918)のコレクションは世界有数で、彼の著名な作品はほとんどここで見ることができます。 最も有名な作品「接吻」(1908年)。クリムトはウィーン郊外で生まれ、地元の工芸学校で絵やデッサンを学んだ後、劇場装飾を中心とした仕事を手掛けて各方面から注目されるようになり、次第に高い評価を受けるようになります。 女性の裸体などを官能的なタッチで描く作品を数多く残したクリムトは、生涯独身を貫き、数多くの女性や絵のモデルらと関係を持つなど、奔放な人生を送りました。これはその代表作でもある「ユディット」(1901年)。 ベルヴェデーレ宮殿本館前の庭。とても美しく手入れされています。ここも、なんとなくベルサイユ宮殿の庭を思い起こさせる雰囲気です。 ベルヴェデーレ宮殿は、ウイーン中央駅のすぐそばです。建物はとても近代的です。ザルツブルクへ行く際、本来ならここから出発するはずだったのですが、予告なくウイーン西駅出発に変更されたのでした。 オーストリアは当然と言えば当然ですが、走っている車はドイツ車が圧倒的です。そんなウイーンで宮殿からの帰路、歩いていると、我が家とまったく同じ型・ボディカラーのトヨタ・プリウスに遭遇し、嬉しくなりました。我が家はもう10年くらい乗っていますが、いまも故障もなく快適に走っています(もっとも近場しか乗らないので、走行距離はまだ3万5千kmくらいです(笑))。 <ウイーン編(6)>へ続く。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2015/11/14
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オーストリアは、前回も書いたように人口(870万人)の実に12%が、第二次世界大戦が終わったあと移民としてやって来た人たちです。今回のシリア難民問題でも、数万人単位受け入れを表明していますが、難民たちの多くがドイツ定住を希望しているため、欧州全体では問題解決がより複雑になっています。 そのドイツは現在約8000万人もの人口がありますが、メルケル首相は今回、新たに65万人の難民受け入れを表明しています。人口のわずか約1%弱かもしれませんが、65万人といえば、一つの都市が移転してくるような規模です(最終的には100万人くらいは受け入れるそうです)。現状では、ドイツ国民から大きな反発の声は出ていませんが、今後シリア人たちが、定住先のドイツ人たちと仲良く暮らしていく努力をしなければ、トラブルも増えて大きな社会問題になるのは必至です。 ドイツには移民排斥を訴えるネオ・ナチ勢力が少なからずいますし、移民反対の極右政党も存在しています。今後、移民とドイツ人との軋轢が強まれば、そうした政党の議席が増えることも十分考えられます。実際、オーストリアでも先般、移民排斥を訴える政党が勢力を伸ばしました。以前にも書いたことですが、ナチスドイツのヒトラーも民主的な選挙で勝ち上がって政権を握って、独裁政治へ移行していったのです。 ひるがえって日本はどうでしょうか。現在5千人以上の外国人が永住を希望して難民申請しているそうですが、これまで認められたのはわずか十数人だと先般、新聞等で報じられました。中東の難民を大量に受け入れるのは難しいことかもしれませんが、数百人~2千人くらいの規模なら可能ではないでしょうか。少子高齢化による人口減少で、とくに第一次産業での人手不足が深刻な日本には、難民を受け入れるメリットもあると思うのですが、どうでしょうか。 現実問題としては、近い将来、北朝鮮で内乱が起こって、日本海側から大量の難民が船で押し寄せてくる事態も十分想定されます。日本政府や日本人は、いつまでも移民排斥の姿勢で済むはずがないことを、今から覚悟しておくべきだと思います。 さて、やっとのことでウイーンへ戻ってこれました。ホテルで荷物を置いた後、夕方なので、晩ご飯を食べるために再び街へ。このような建物を見たら、「あぁ、ウイーンへ帰ってきたんだなぁ」と思います。 晩ご飯を食べる予定の店へ行く途中、街の真ん中に赤い壁の教会がありました。カプツィーナ教会(別名「皇帝納骨所」)といい、ハプスブルグ家代々の柩が安置されているそうです。なお、ここに安置されているのは心臓と内臓を除く遺体のみで、心臓と内臓はハプスブルグ家の古い慣習でそれぞれ別の教会に納められているということです(宗教的な意味は、キリスト教徒でない僕にはよく分かりません)。 すぐそばのケルントナー通りにはこんな建物も。「マルタ騎士団教会」とありました。世界史の授業で聞いた記憶がある方もいるでしょうが、「マルタ騎士団」とは12世紀、十字軍時代のパレスチナで誕生したカトリックの騎士修道会(騎士団)ですが、かつてはロードス島やマルタ島に領土も持っていたそうです(現在は喪失)。 「主権実体」として承認し外交関係を持っている国が英国、ロシア、スペインなど104カ国もあり、在外公館も設置しているそうです(日本、米国などは未承認)。また国連にもオブザーバーとしても参加しています。団(修道会)の本部は現在イタリア・ローマのマルタ宮殿に置かれ、建物内はイタリア当局から治外法権が認められているとか。騎士団は医療などの慈善活動を行っていて、独自のコインや切手も発行しています(出典:Wikipedia日本語版)。こんな建物が街のど真ん中にあるなんて、さすがウイーンですね。 さて話は変わりますが、モーツアルトは25歳以降のほとんどをウイーンで過ごしました。その彼が3年間(1784~87年)暮らした家が今も残されて「モーツアルトハウス・ウイーン」として公開されています。有名なオペラ「フィガロの結婚」はこの家で誕生したそうです(先ほどのマルタ騎士団教会からは北へ徒歩5分ほどの距離です)。 「モーツアルトハウス・ウイーン」のすぐ前、細い路地のようなドムガッセ通り。「アマデウス」にもこんなシーンが出てきましたが、あれはプラハで撮影されたとのこと。 ここがきょうの晩ご飯の店「プラフッタ(Plachutta)」。JTBの担当者もおすすめという、「ターフェルシュピッツ(Tafelspitz)」(牛肉の煮込み料理)の名店です。 6時すぎに行ったのですが、店内はほぼ満席状態。一般的に、ヨーロッパは晩ご飯のスタートが遅い(基本、8時過ぎ)といいますが、プラハもウイーンも、人気の店は早い時間から賑わっていることが多いです。待たされないためには、早め早めが正解です。幸い、この日も1、2分待っただけですぐにテーブルへ案内されました。 これが「ターフェルシュピッツ」。柔らかく煮込まれた牛肉がたっぷりな量のスープの中に沈んでいます。これで1人前。凄いボリュームです。ちなみにお値段は23.4ユーロ。 最初に、牛肉のエキスが浸み込んだ美味しいスープを。にゅう麺のような細いヌードルを入れて、一緒に頂きます。 付け合わせ(ポテト&ベーコン)や、肉につけるペーストやソースが一緒に添えられています。 肉は、ほうれん草のペーストや西洋ワサビのすりおろし、サワー・クリーム系ソースなどをつけて頂きます。とても上品で、程よい味付け。絶妙なマッチングです。絶品のお味で、ビールやワインにもよく合います。 当たり前ですが、周りのテーブルでもほとんど、同じ「ターフェルシュピッツ」を頼んでいます。どのテーブルも話がはずんで、盛り上がっています。この「プラフッタ」、皆さんもウイーンへ行かれる機会がありましたら、ぜひどうぞ。僕も心から「おすすめ」できる店です。 プラハからウイーン、ザルツブルグ、そして再びウイーンと転々と旅していますが、今のところ、御飯を食べる場所で“ハズレ”の(不味かった)店はありません。過去の海外旅行では、旅行中1回くらいは「並み」の店にも遭遇したものですが、今回はいまのところ勝率10割です。これは自分でもなかなか嬉しいことです。 団体ツアーだとお仕着せの店に連れていかれて、料理も不味かったという話をよく聞きます。日本発行のガイドブックに載っていても、必ずしも美味しい店ばかりではありません。しかしガイドブックに載っていて美味しい店も、探せばたくさんあります。この夜の「プラフッタ」やウイーン初日に行った「フィグルミュラー」もともに、「地球の歩き方」にも紹介されています。そして、この2軒ともウイーン在住の方の「おすすめ店」でもありました。 海外旅行で美味しい御飯が食べられる店を、あまりハズレなく選ぶには、ガイドブックを参考にするのは大事ですが、実際に住んでいる日本人(あるいは実際に旅をした人)の方の口コミ(WEB)情報を事前にしっかり集め、現地の外国人の方の「おすすめ情報」も、到着後に尋ねてみることがとても大切に思います。そうすれば、失敗する確率はかなり低くなります。 ただ、不思議なことですが、長年海外旅行でこうしたことを繰り返していると、ガイドブックの写真や説明、そして現地で実際その店の外観や雰囲気を見ただけで、なんとなく美味い店かどうか、かなりの確率でわかるようになるのです。そうして培(つちか)った「勘」や第一印象も僕は大事にしています。 <ウイーン編(5)>へ続く。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2015/11/12
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オーストリア共和国は、日本の北海道とほぼ同じくらいの面積で、人口は約870万人(2014年現在)です。しかし、1人当たりのGDPは年5万1300ドルで世界第13位(同)。芸術&音楽文化だけでなく、経済的にも豊かな国です。 主要産業は自動車産業、鉄鋼業ですが、ヨーロッパを代表する音響機器メーカーとして長い歴史を持つ「AKG(アー・カー・ゲー)」は有名です。AKGは高級マイクロフォンやヘッドフォンが有名で、世界各国の放送局やプロのミュージシャンに数多く使われているほか、一般のクラシック愛好者にも人気のブランドです。ただ、全体としては(経済的にも関係の深い)ドイツの大企業の「下請け的な役割」を果たす中小企業が多いとのことです(もちろん、ウィーンやザルツブルク、チロル地域では観光産業も盛んですが)。 なお、経済が比較的好調なオーストリアは、失業率が他の欧州諸国と比較して低く、昔から移民も数多く受け入れてきました(現在、人口の約12%が国外からの移民なのだそうです)。欧州の地理的中心にあることから、近年、日本企業の欧州拠点、工場なども増加しつつあり、オーストリアにとって日本はアジア有数の貿易相手国です。個人的には、今後、オーストリアのビールやワイン、食材が日本にもっと輸入されて、身近な存在になればいいなぁと願っています。 さて、ザルツブルクともお別れする時間が近づいてきました。もう一つ必ず訪れたかった場所が、世界的にも有名なザルツブルク音楽祭のメイン会場でもある「祝祭劇場(Festspielhäuser)」(写真)でした。 中には、かつてカラヤンやベーム、小沢征爾、アバドらが指揮した歴史的なホールがありますが、建物の外観は結構新しい感じだったので、近年に改築されたのでしょうね。残念ながら、見学コースで回るだけの時間はありませんでしたが、僕自身は外から眺めただけでも十分満足でした。 ザルツブルク旧市街は、車の乗り入れがほとんど禁止されていて、歩行者(観光客)優先になっています。でも、ウイーンと同様、観光用の馬車は例外で、あちこちで見かけました(乗ってみたいけれど、なんとなく恥ずかしい気分でしょうね)。 まだ昼ご飯まで少し時間もあるので、ぶらり歩きを続けていると、青空市場に出合いました。ヨーロッパはこんな市場が多いのがいいですね。 市場の花屋さん。実にたくさんの種類の花を売っていて、しかも安いです。 これはプレッツェルの専門店。美味しそうですが、いま食べると昼ご飯にたたるので、見るだけにしました。 市場と言えば、必ず何軒かあるハムやソーセージの専門店。日本へ持ち帰りたいなぁ。 ザルツブルクでの最後の食事は、旧市街の文化財指定の建物を利用した、伝統的なオーストリア料理の店「ヴァーグプラッツ(Waagplatz)」にしました。店は「K+K」というホテル内の2階とホテル玄関前のオープンテラスの2カ所に分かれていましたが、天気も良いのでテラス席に。 ここの名物は「ウイーン風チキンフライ(Wiener Backhuhn)」と聞いていたので、早速注文。結構大きめですが、あまり油っぽくもなく、意外とあっさりした味わいなので、1人でしっかり頂けました。まっ昼間ですが、もちろんチキンフライのお供には「Glas Bier, zwei, bitte(グラスビールを2つお願い!) 」。ビールも進みました。 メニューの一番上が「Wiener Backhuhn」です。お値段は15.9ユーロ。チェコに比べたら物価はやや高めですが、このボリュームで、サラダも付いているので、まぁ納得です(メニュー2行目の英語表記のなかで、「Lamb's lettus」とは子羊が好んで食べる野菜のことです)。 一緒に出てきたポテト&野菜のサラダ。オーストリアに来てからは、メインの肉のサイドメニューでは必ずポテト系の料理を頼んでいましたが、注文する手間が省けました(笑)。上にかかっているマスタード&サワー系のソースも上品な味わい。「Es hat sehr gut!(エス ハット ゼーア グート=とても美味しかったです!)」とウェイターに御礼を言って、店を後にしました。 食後には、最後にもう一度、旧市街のメインの通り「ゲトライデガッセ(Getreidegasse)」へ。この通りの素敵な雰囲気を目に焼き付けました。 少し時間もあったので通りに面したカフェへ。その名も「モーツアルト」というベタな名前の店でしたが、意外と古くからのカフェのようで、雰囲気はなかなか良かったです。 カフェのすぐそばには、立ち呑みのバールが。昼間から客で賑わっていました。入ってみたかったけれど、そろそろウイーンへ帰るためにザルツブルク中央駅へ戻らなければなりません。なお、駅まで戻るトロリーバスの車内では初めて、抜き打ち検札に遭遇しました(もちろんザルツブルク・カードを見せたらOK)。普段着の人だったので、最初は市交通局(あるいはバス会社?)の担当者とはわかりませんでした。 ホテルで預けていた荷物をピックアップして、余裕を持って駅へ向かいました。そして、乗車予定の特急「RJ67」(15時8分発 ウイーン経由ブダペスト行き)の運行状況を確認しようと、表示板を見たとたん、脳ミソが凍り付きそうになりました。そこには「Ausfall/Cancelled」の文字。どう見ても、これは間違いなく運行中止です。おそらくシリア難民騒動の影響で、ミュンヘンから戻ってくるべき列車が運行できなくなったのでしょう。 ウイーンではJTBの担当者から「帰りの列車もひょっとして突然運行中止になる可能性もありますから、その場合も別の列車の自由席なら乗れるので、なんとか自力で帰ってきてください。誰も助けてはくれません。ここは自己責任の国なので」と聞いていました。昨日、「帰りは運行中止になったりしてねー(笑)」と冗談で言ってたのが、まさか現実になろうとは! 嘆いていても仕方がありません。表示板の前には、僕らと同じように困った表情の日本人旅行者が2人(母親と娘さん)いました。お互い相談して、少し早い時間帯に出るウイーン行きに一緒に乗ろうと決めました。特急ではなく、停車駅も多いタイプの列車でしたが、幸い、自由席(6人掛けの個室でしたが)にも座れてホッとひと安心。事なきを得ました(東のウイーン方面行きなので、難民は乗ってきません)。 ウイーン西駅にも結果的に、元々乗る予定の特急より早く到着できて、まぁ、終わりよければすべてよしでした(写真は、ザルブルク駅のホーム上で列車を待つシリア難民たち。ホームに上がるエスカレーターや階段は警官が通行規制していて、ホーム下の駅構内にいる難民は少し殺気立っていました)。 「誰も助けてくれないと思って、とにかく自力で、自己責任で」。オーストリア旅行中何度も聞かされた言葉が、日本に帰った今も耳に残っています。僕らは、鉄道会社のスタッフはもちろんのこと、同行の乗客も概して親切な日本という国に慣れ切ってしまっています。しかし、たまにはこうしたハプニングに遭遇し、サバイバルのために自力で道を切り拓いていく訓練も必要だなぁと、改めて思ったのでした。 <ウイーン編(4)>へ続く。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2015/11/09
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ザルツブルクと言えば、岩塩が有名ですが、その採掘は紀元前の鉄器時代から始まっていたと言われています。ザルツブルクの周辺では紀元前10世紀頃のケルト人の墓地や埋蔵品が発見され、高度な文明が築かれていた事が分かっています(この辺りの話は、畏友で、ケルト文化に通じている武部好伸氏が詳しいです)。 ザルツブルクの歴史は、さまざまな国家や民族によって翻弄されてきた歴史でもあります。紀元前14年、ローマ軍がアルプスを越えて侵入し、ザルツブルクはローマ帝国の支配下におかれます。しかし、5世紀の後半、ローマ人は侵入したゲルマン系の東ゴート族に追われることになります。その後は長く神聖ローマ帝国内のオーストリア帝国、すなわちハプスブルク家の支配下に置かれます。こうした歴史や国民の心情は、(敗戦後の米軍占領下を除いて)異なる国家や民族から支配された経験がない日本人には、なかなか理解できない部分もあります。 さて、ザルツブルク2日目。きょうは街のシンボル「ホーエンザルツブルク城」を訪れます。城は1077年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世の間に起こった聖職任命権を巡る闘争のさなか、当地の大司教が皇帝派に対抗するために建てたそうです。 ホテルで朝ご飯を食べた後、早速、歩いて駅のバス停へ。朝のザルツブルク駅前はこんな感じです。駅構内に滞留しているシリア難民のために、赤十字の職員が忙しく動き回っていましたが、昨日よりは少し静かな雰囲気です。 トロリー・バスは、ザルツブルク駅から5系統もの路線が必ず旧市街を通ります。なので、5分間隔くらいで発車するのでとても便利です。2台連結で長~いバスは、とても運転しにくそうですが、運転手は交差点も上手に曲がります。 山の上にあるホーエンザルツブルク城へは、ケーブルカーで行くか、結構急な登山道を40分ほど歩いてゆくかのどちらかですが、もちろん僕らはケーブルカーにしました(笑)。ケーブルカーの駅は、写真の停まっている白いバンの左側の細い道を少し上ったところにあります。 この建物の中がケーブルカーの始発駅です。朝が早いので、人がまだ少ないです。僕らは、ザルツブルク・カードを持っているので無料です。 いつ出発するかわかりませんが、とりあえず、ホームにいたケーブルカーに乗ることに。 待つこと10分ほど、ようやく出発。車内はいつの間にか、僕らも含めた観光客でほぼ埋まりました。ちなみにこの地を訪れる外国人観光客で一番多いのは、ザルツブルクを舞台にしたミュージカル映画「サウンド・オブ・ミュージック」(1965年公開)が大好きな米国人だそうです。 山頂駅まで10分弱。あっという間です。途中、窓からはザルツブルクの市街がよく見えます。 山頂駅から降りて歩くこと数分。城の展望台から見たザルツブルクの街です。絵葉書のように美しい景色です。 同じ場所から90度西の方角を見たら、こんな緑あふれる景色です。遠くには小高い山も見えます。眺めていると、ほんと癒されます。 城内の修復工事中のフェンスには、16世紀中頃の城が描かれたシートがかけられていました。城の地下牢では、迫害された新教徒が数多く閉じ込められたという暗い歴史もあります。当時の大司教は、地下牢が満杯になって収容場所が無くなると、国外へ追放しました。1731年からの2年間に新教徒約2万1千人が追放され、そのうち約1万人が新大陸アメリカへ移住したそうです。 城の中は博物館になっていて、中世から第一次世界大戦時までの大砲や武器や生活道具等が数多く展示されています。 中世の兵士の鎧や武器。おもちゃの兵隊みたいな展示法がユニークです。 当時の台所や食堂。ケーブルカーもない時代、山頂まで食材等を運ぶのは大変だったでしょうね。 城塞の地下からは、古代ローマ時代のこんな遺跡が見つかっています。そんな昔の頃から、この山頂に人が暮らしていたとは驚きです。 城内の建物は何世紀にも渡って増改築を繰り返してきたらしく、複雑に組み合わさっています。サルツブルクは、ナポレオン戦争(1803~1815年)の結果、一時期バイエルン王国に編入されたこともありましたが、1816年にオーストリアに併合されます。しかし1938年にはナチス・ドイツによるオーストリア併合で、ザルツブルクも第二次世界大戦に巻き込まれます。大戦中、市内各所が連合軍の爆撃を受けましたが幸い軽微な被害で済んで、美しい「世界遺産」の街は無事に守られました。 <ザルツブルク編(5)>へ続く。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2015/11/08
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オーストリア第4の都市で、「世界遺産」の街・ザルツブルクは人口約15万人。前回も書いたようにドイツ国境までわずか6kmです。西へ約140kmにあるミュンヘンの方が、東へ約300kmの首都ウィーンよりも近いという位置関係や、19世紀以前は神聖ローマ帝国内のドイツ諸邦のひとつだったこともあって、今でも(ミュンヘンが州都の)独・バイエルン州と関係が深いそうです。 都市名のザルツは「塩」、ブルクは「砦」を意味します。市の南部地域は今も岩塩の産地です。かつては製塩されたあとヨーロッパ各地へ販売されてゆき、製塩業が街の経済を支えていました。中世、この地を支配していた大司教は、塩の積載量に応じた通行税を徴収し、教会の財源にもしていたそうです。しかし現在のザルツブルクはご想像の通り、観光業が最大の産業です。 なお、日本語ではしばしば「ザルツブルグ」と表記されますが、標準ドイツ語の発音では「ザルツブルク」なんだそうです(僕も長い間、間違っていました)。もっとも、ザルツブルク地方の方言では「サルツブルク」または「ソイツブルク」とも言うそうです。ちなみにプロサッカー(オーストリア・ブンデスリーガ)・「ザルツブルク」のチームでは現在、セレッソ大阪から移籍した南野拓実選手が在籍し、活躍しています。 ザルツブルクの街のシンボルの一つ、「大聖堂」。774年に創建。現在の建物は17世紀に改築されたバロック様式のものです。モーツアルトもこの教会で洗礼を受け、オルガン奏者も務めました。 晩ご飯の前に少し時間があったので、お土産を探しました。ザルツブルク土産の一番人気は言うまでもなく、名産の塩です。その塩の専門店に行きましたが、手ごろな大きさ&値段のものがあったので、ついつい沢山買ってしまいました。 さて、そろそろ今日の晩飯の店へ向かいます。途中、通りかかったサンクト・セバスチャン教会(写真)には、モーツアルトの妻コンスタンツェの墓があります(モーツアルトの墓はウイーンにありますが、正確な埋葬地はよく分かっていません)。コンスタンツェはここでモーツアルトの父レオポルド、姉のナンネル、そして再婚した夫ニッセンとともに眠っています。 今日の晩ご飯は「アルター・フックス(Alter Fuchs)」という店です。ザルツブルクの伝統料理を伝える店と聞いていたので、ここを選びました(「フックス」とはドイツ語で「キツネ」の意味です)。 まぁ、とりあえずビール(Bier, bitte!)です。「WIENINGER」という銘柄のピルスナー・タイプのビール。チェコのビールも旨かったですが、オーストリアのビールも、これまで飲んだ限りではほとんど外れがなく、美味しいです! ソーセージの盛り合わせ。1本がでかいし、量もめちゃ多い! 食べきれるかなぁ…。2人で取り分けたいので、「Wir möchten teilen, noch einen teller, bitte(シェアして食べたいので、皿をもう一枚ください)」とお願いしました。 店内はこんな感じです。客はオーストリア以外から訪れた観光客らしき人たちも目立ちましたが、地元の人らしい客も結構来ていました。 ローストしたカモ肉の料理があったので、頼んでみました。想像通りの味で美味しかったですが、こちらも量が半端なく多いです。 よせばいいのに、「お米が食べたいなぁ」ということで、リゾットを頼んでしまいました。2人でメイン3品はやはり多すぎました。さすがに食べきれず、少し残してしまいました。 晩ご飯の後、またトロリー・バスでザルツブルク駅を経由して、ホテルへの帰途につきました。大量のシリア難民で駅はその後どうなっているんだろうと気になって、少し駅を覗いてみました。駅前にはテレビの中継車が2台停まっていました。 大きな混乱はないようでしたが、昼間より難民の人数は増えたようで、駅構内はかなりの人だかりでした。テレビ局のリポーターが中継カメラの前で、何やら一生懸命しゃべっていました。 ホテルに帰ってテレビをつけたら、先ほど駅にいたリポーターが出ていました。ドイツ語なので詳しいことはよく分かりませんが、大変な状況はなんとなく伝わってきました。明日はもう一日、午後3時ごろまでザルツブルクに滞在します。事態が少しは好転することを祈るばかりです。 <ザルツブルク編(4)>へ続く。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2015/11/06
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首都ウイーンが「音楽の都」と言われるオーストリアからは、素晴らしい作曲家・演奏家がたくさん輩出しています。なかでも一番有名なのは、ウォルフガング・アマデウス・モーツアルト(1756~1791)でしょう。モーツアルト以外でも、ワルツの父・ヨハン・シュトラウス2世や、シューベルト、マーラー、ブルックナーもオーストリア出身です。ドイツ出身のベートーヴェンやブラームスも、主な活躍の舞台はウィーンでした(ただし18世紀半ばまでは、欧州ではイタリアが音楽先進国だったそうです。このためモーツアルトも、作曲したオペラの大半は台詞がイタリア語で書かれています)。 今回、ザルツブルクにも足を延ばしたのは、(モーツアルト好きの)僕のわがままです。クラシック音楽はそんなに大好きという訳ではなかったのですが、モーツアルトとショパンだけは例外で、30代後半くらいからよく聴いていました。とりわけモーツアルトは僕にとって別格の存在でした。彼の生きざまにとても興味を持ち、岩波文庫で上下2巻で出ている「モーツアルトの手紙」は昔から愛読書の一つでした。 下手くそピアニストの僕ですが、ショパンは難しくて無理でも、モーツアルトなら(曲の一部分であれば)弾ける旋律がいくつかありました。モーツアルトの生涯を描いた映画「アマデウス」も、何回も繰り返し観ました。作曲家モーツアルトももちろん好きですが、それよりも(妻コンスタンツェへの手紙に下ネタを連発するような)その天真爛漫なところ、人間くささに、僕は惚れ込みました。だから、モーツアルトはあこがれの偉人の一人で、彼が生まれ育ったザルツブルグを訪れることは一生の夢でした。 「世界遺産」ザルツブルク旧市街への入り口は、最寄りのトロリー・バスの停留所「ラートハウス(Rathhaus)」で下車すればすぐです(関係ないけど、横断歩道の青信号の時間がどこも短い。10秒もないので、渡り切れない人が続出です!)。 古い建物の下のアーチ状の入り口をくぐると、もうそこは中世の街です。ただし、街中はあちこちで道路工事中で、資材がごろごろ。少し小雨も降ってきました。 街の入り口辺りは、細い路地が入りくんでいます。観光地化された現在では、両側の建物から商店の看板がせり出していますが、昔はどうだったのでしょうか? 数分も歩けば、有名なモーツアルトの生家の建物です。6階建てのこの家の4階でモーツアルトは生まれ、17歳まで暮らしました(もっとも3歳の頃から、父に連れられてパリ、ロンドン、ミラノ、ミュンヘン、プラハ等々ヨーロッパじゅうを旅していたモーツアルトなので、実際はこの家に腰を落ち着ける時間はあまりなかったのかもしれませんが)。 生家の入り口は、建物1階内部から階段を上がって2階にあります。モーツアルトはここで両親と姉の4人で暮らしました。 6階まであって部屋数も多く、結構広い家です。狭いけれど中庭もあって、吹き抜けになっています。 吹き抜け部分に面した廊下。天井は意外に低いです。ただし、モーツアルトは当時の平均的オーストリア人から比べると身長はかなり低く、163cmくらいだったと言われています。 モーツアルトが使っていたピアノ。現代のピアノと比べると小ぶりで鍵盤の数も少なく、当時はフォルテピアノと呼ばれていました(18世紀後半、現代のような88鍵のピアノはまだ誕生していませんでした)。モーツアルトが作曲した「ピアノ協奏曲」は27曲ありますが、モーツアルト自身は「クラヴィーア(鍵盤楽器)のための協奏曲」として書いたものが、現代ではピアノで演奏されているに過ぎません。彼の生きていた時代、コンサートでは、演奏家がフォルテピアノ、チェンバロ(ハープシコード)、クラヴィコードなどの鍵盤楽器から自分の好みで選んで演奏していたそうです(この項の出展:Wikipedia日本語版)。 モーツアルトは生涯に約900曲を作曲しました。生家内では、モーツアルトに関する数々の資料(実際に使ったバイオリンや遺髪、旅行で携帯していた財布など)が展示してありますが、直筆の楽譜や手紙類はほとんどが複製(コピー)だったのは少々興ざめでした。 生家見学のあと、モーツアルト一家が1773年に引っ越した家(こちらも記念館として公開)を訪れました。この家は荒れ果てていたのを世界中のモーツアルトファンのほか、日本の生命保険会社などの多額の寄付で、当時の姿に再建したそうです。 モーツアルトは妻コンスタンツェとの間に4男2女をもうけましたが、成人したのはカール・トーマス、フランツ・クサーヴァーという2人の男子だけ。ただし、2人とも子どもを残さなかったので、現在直系の子孫はいません。コンスタンツェは、モーツアルトの死後、1809年にデンマークの外交官ニッセンと再婚し、1842年、80歳で亡くなるまでザルツブルクで暮らしました。 モーツアルトゆかりの2つの家を見た後、僕らは旧市街の中心へ。その名も「モーツアルト広場」には銅像がありました。 ザルツブルク旧市街には、このような広場がたくさんあります。広場が点在しているので、街のどこを歩いていても空が広く見えて、圧迫感がありません。 川べりからは、ザルツブルクのシンボルでもある「ホーエンザルツブルグ城」が望めます。明日は、ケーブルカーで登って、山上の城まで行くつもりです。 <ザルツブルク編(3)>へ続く。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2015/11/04
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ここでちょっと、オーストリアについてのミニ雑学講座です。オーストリアへ行く前、うらんかんろは、オーストリアはドイツ語でもオーストリアに近い発音なんだろうなと思っていました。しかし、改めて調べてみるとまったく違って、「オーストリア」はカタカナ表記では、「エースタライヒ(またはエースターライヒ)」(Österreich)でした。 従って例えば旅行中、会話でよく使った表現、「オーストリア(に来るの)は初めてです」は、「Das ist mein erster Besuch in Österreich(ダス・イスト・エアスター・ベズーフ・イン・エースタライヒ)」でした。なお、「エースタライヒ」と表記されることが多いのですが、実際、現地のネイティブが話しているのを聞くと、僕の耳には「ウースタライヒ」に近い音で聞こえました(まぁ、「エ」と「ウ」の間くらいなんでしょうね)。 オーストリアは、日本人にはしばしばオーストラリア(Australia)と間違われます。でも、両国名の混同は日本人だけではなく、英語圏の人にもよく見られるそうです。2006年10月、駐日オーストリア大使館商務部は、オーストラリアとの混同を防ぐため、国名の日本語表記を「オーストリア」から「オーストリー」に変更すると発表しました。大使館の看板プレートは現在では「駐日オーストリー大使館」となっているそうです。 しかし一方で、同国の大使は「国名表記を決定する裁量は日本国にあり、日本国外務省への変更要請はしていない」とも付け加えています。その後も、日本政府や官公庁、マスメディアなどに「オーストリー」を使う動きは見られません。朝日新聞は現在でも紙面では「オーストリア」と表記しています(第3&4段落の出典:Wikipedia日本語版)。日本では近い将来も、当分の間は「オーストリア」は「オーストリア」なんでしょうね。 さて、ウイーン滞在2日目。きょうは列車でザルツブルク(Salzburg)へ向かいます。まず、ホテル最寄りの地下鉄(Uバーン)・シュテファン広場駅(Stephansplatz)から、まずウイーン西駅(Westbahnhof)へ向かいます。シュテファン広場駅まではホテルから徒歩数分と、とても便利です(やはりホテルのロケーションは重要ですね)。 シュテファン広場から乗って約10分弱。4つ目の駅がウイーン西駅です。ここからオーストリア国鉄(ÖBB)のウイーン西駅まで、青い案内表示に従って歩きます。駅構内は結構近代的な雰囲気です。 昨日会ったJTBの担当者からは、「西駅にはシリア難民が数多く殺到しているはず。列車の運行にも影響が出る可能性は大きい。早めに行って確認して、もし乗る列車が運行中止になっても、別の列車の自由席なら乗れるので、なんとか自力でザルツブルクまでたどり着いてください。ヨーロッパは基本、自己責任なので」と口すっぱく言われていました。案内表示を見る限り、僕らの乗るミュンヘン行きの特急(RJ60)はちゃんと運行されるみたいです。 これは駅のホーム。難民らしきグループ(人たち)は構内やホームにポツポツと見えますが、それほど大量という感じではありません。 駅構内には、警備の警官の姿も見かけましたが、混乱しているような様子はどこにもありません。少し拍子抜けしたような気持です。 これが僕らの乗る特急列車。リンツ、ザルツブルク、インスブルックを経由してミュンヘンまで行く国際列車です。ザルツブルグまでは約3時間ほどの旅です。僕らは指定券を持って、自分たちの席に座りました。指定席車両の乗車率は最初は、6割程度でした。ところが、発車の10分前くらいなって、どこから来たのがたくさんのシリア難民たちが続々と乗り込んできました。「ダイヤ通りに運行されないのが当たり前」と言われるヨーロッパの鉄道ですが、RJ60は無事、定刻(10時40分)通りに発車しました。 難民たちは、手には自分たちのお金で買った乗車券は持っていますが、座席指定券はありません。しかし、指定席車両であってもお構いなしに、どんどん座ってしまいました。オーストリア国鉄の担当者も、もう収拾がつかないので、何も注意はしません(カメラを向けるのもはばかられたので、車内ではこの程度の隠し撮りくらいしか出来ませんでした)。驚いたことに、ほとんどの難民は身なりもそれなりに綺麗で、スマホも持っています。「最初に逃げ出してきた難民は、高学歴で比較的裕福な人たちが多い」と聞いていましたが、やはりそのようです。 ザルツブルクまでの約3時間、難民たちは比較的お行儀よくしていました。途中、リンツで指定券を持って乗ってきた乗客には、ちゃんと席を譲っていました(ただし、スマホで大声で通話したり、アラブ音楽を鳴らしたりするマナーの悪い連中も一部にはいました)。 しかし、ザルツブルクに無事に着いたので安心して降りようとしたら、ホームにはものすごい数の難民たちが列をなしています。そして僕らが降りるのを待たず、我先に乗り込もうとします。「これは普通にやってたら降りられない」と思った僕は、とっさに「どいてくれー! 降りるんだから!」と日本語で大声で怒鳴って、難民たちを押しのけて、ようやくホームへ。 やっとのことで、ホームからザルツブルク駅の構内へ。予想はしていましたが、ドイツ国境まであと6kmというザルツブルグには、大量の難民が滞留していました(その数は千人以上とも)。ホームや駅構内はもちろん、駅前広場にも溢れんばかりの状態です。難民たちはほぼ例外なく、ドイツのミュンヘンへ向かおうとしています。しかし、この頃(この日は9月14日)からドイツも入国審査を厳しくし始めたこともあり、待たざるを得なくなっています。 ザルツブルク駅には、ウイーン西駅と比べると、警官の数も10倍くらい。ほかにも軍の兵士、赤十字の関係者、ボランティア団体の人たちが数多く見られました。 これは駅前広場に設置された赤十字の大型テント。医療関係者も詰めていました。難民には小さな子供を複数連れている家族もいます。シリアからこのザルツブルクにたどり着くにも1週間以上もかかったことでしょう。もとより、国が平和であれば、好き好んで国を捨てることはなかったはずです。その国生まれた運命に翻弄される人たちには、心から同情せざるを得ません。一日も早く彼らに安住の場所が得られるように、願わずにはおれません。 ザルツブルク駅の建物。駅のまん前にはテレビ局の中継車が何台も止まっていて、レポーターが生中継もしていました。 僕らはとりあえずホテルまで向かいました。JTBに手配を任せたホテルは、国際会議もできる会場を併設した、近代的な建物ですが、プラハやウイーンのホテルと比べると、味もそっけもない感じ。まぁ1泊だけだし、駅からも徒歩数分というロケーションだから文句は言うまい。 ザルツブルク観光の中心地である旧市街は、駅からはトロリーバス「Obus(オーブス)」で10分弱。本数はたくさん出ています。ホテルで荷物を置いた僕らは、さっそく観光に便利な「ザルツブルクカード」(主要博物館の無料入場や公共交通機関の24~72時間乗り放題。僕らは24時間タイプ=26ユーロ=を購入)を買って、バスで旧市街へ。 <ザルツブルク編(2)>へ続く。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2015/11/02
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※パソコンのトラブルのため、約2週間ほどお休みを頂きましたが、「欧州への旅2015」報告を再開いたします。 オーストリアで話される言語は、基本ドイツ語です(厳密に言うと、ドイツで話されるドイツ語とは若干違うようです。例えば、「こんにちは(グーテン・ターク(Guten Tag))」は、オーストリアのドイツ語では「グリュエス・ゴット(Gruess Gott)」となりますが、もちろん「グーテン・ターク」も普通に使われています。ただ有名な観光地を回ることのみが目的の旅ならば、英語で十分です。大都市や有名観光地ならば、商店もレストランもまず英語で事足ります(もっとも団体ツアーならば英語すら必要ないかもしれませんが)。 うらんかんろは、ドイツ語は大学の第三外国語(1年間必修科目でした)として学んだだけです。だから、ごく基本的な会話と文法の基礎しかやっていません。でも、オーストリア滞在中は(英語はあくまで補助手段と考えて)基本、ドイツ語で通したいと決めました。という訳で時間は数カ月しかありませんが、あらためて集中的に勉強しました。 とった手段は3つ。旅行会話本から実際に必要になりそうなフレーズ(とくに食事、買い物、移動時などを中心に)をピックアップし、ジャケットの胸の内ポケットに入るサイズの手帳にメモって、覚えるようにしました。次にドイツ語会話のCDをウォークマンに録音し、通勤の行き帰り等にヒマさえあれば聞いて、耳からも慣れるように努力しました。また、実際に現地に住む日本の方が書いているブログを読んで、役に立ちそうな表現も集めました。 結果ですが、大学時代に少しだけかじったこともあって、再び学んでいるうちに文法や発音のルール等を思い出してきて、旅行中は、なんとかなったかと思います。何よりも、ドイツ語で現地の人とコミュニケーションをとれる喜びは、なにものにも代えられないものでした(ドイツ語は見た目は難しそうですが、綴りと発音のルールさえ覚えれば、発音自体は初心者の僕でも結構通じるなぁと思いました。実際、移民の多いオーストリアやドイツでは結構間違った発音と文法でしゃべっている国民も多いとか)。 さて、ウイーンでの初日。美術史博物館、旧王宮などを見学し、そろそろ晩ご飯の時間となりました。オーストリアでもやはり滞在中はずっと、地元のレストランで食べようと決めています。僕らにとっては、その土地の食文化を楽しむことも旅の大切な目的です。間違っても、ウイーンの日本料理店に入るつもりは毛頭ありません。 初日はウイーン名物「シュニッツエル」(豚肉のカツレツ)の人気店「フィグルミュラー(Figlmüller)」。人気店だから必ず美味しいとは限らないことも多いのですが、駅に迎えに来てくれたJTBの担当者も「あそこはおすすめです」と言っていたので、安心して向かいました。6時すぎでもう少し客が並んでいましたが、「für zwei personen, frei?(フュア ツヴァイ ペルゾーネン、フライ=2人ですが、席空いてますか?)」と尋ねて待つこと10分弱で、幸いテーブルに着けました。 シュニッツエルは普通サイズだと皿からはみ出る大きさで、2人分くらいあります。でもこの店はハーフサイズで注文できると聞いていたし、「Halb portion, bitte(ハルプ ポルツオーン、ビッテ)」と注文。ただしハーフでも、長い方で25cmくらいの大きさです(1人で食べるなら十分なボリュームです)。シュニッツエルはイタリアだと「ミラノ風カツレツ」になるとか(ただしイタリアでは仔牛肉だそうですが)。欧州は国が変わっても同じような調理法の料理が多いですね(写真を撮る前に二等分してしまったので、切れ目が入っています。すみません!)。 他の料理も味わいたいと、一緒に頼んだのは肉といろんな野菜、マッシュルームが入ったスープ。とても上品な味わいで、美味しかったです。 野菜ももう少しほしいなと思い、ポテトサラダも頼みました。サワー・クリーム風味のソースもいける味でした。 名前はよくわからないですが、中心部のケルントナー通りのそばにはこんな風格ある、昔のままの建物があちこちにあります。さすがウイーンです。 ウイーンはカフェの街。街じゅうにカフェがあります。ショーケースのケーキもいっぱい種類があって、選ぶのに迷いそうです。 ショーケースのケーキに刺激を受けたわけではないのですが、有名な「ザッハートルテ」発祥の場所として知られる「ホテル・ザッハー」のカフェにお邪魔しました(泊まっているホテルからもすぐそば!)。 これが「元祖ザッハートルテ」。晩ご飯でお腹はいっぱいでしたが、デザートは別腹です(笑)。ケーキの上にチョコレートが乗っていて、ホイップクリームが添えられています。 街なかには、両替ショップがあちこちにあります(漢字もちゃんと看板に)。旅行中、一度だけ両替しましたが、やはり、日本よりレートは悪かった。探せばレートの良い両替ショップもあるのでしょうが、探す時間ももったいないし、やはり余裕を持って日本の銀行で両替していった方がいいと思いました。 ホテルへの帰り道、オペラ座の前が賑わっていました。何かと思えば、劇場で上演されたオペラを、超大型スクリーンで放映中。前にはちゃんと椅子も並べてありました。ただし、公演中の舞台をリアルタイムで外でも観られるという訳ではなく録画した過去の演目のようですが、画質も音響も結構良く、オペラファンを増やす良いアイデアだと思いました。さぁ明日は、いよいよザルツブルクへの移動です。 <ザルツブルク編(1)>へ続く こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2015/10/31
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オーストリアは、13世紀初め以来、ハプスブルグ家による王政が長く続いてきました。帝国が解体され、オーストリア共和国が成立したのは1918年で、共和制の歴史はまだ100年も経っていないことになります。1938年から45年まではナチスドイツに併合され、第二次大戦後は連合国(英米仏ソ)に10年間占領されるなど、厳しい時期を経験します。主権を回復し、国連に加盟したのは1955年です。 人口は2014年現在で約870万人。面積は北海道よりもやや大きい程度です。EUやユーロには加盟しており、いちおう西側陣営とみなされていますが、永世中立国でもあるためNATOには加盟していません(軍事同盟に加盟していない代わりに徴兵制があり、18歳以上の男子は半年間の兵役義務があるそうです)。永世中立国という立場を使ってオーストリアは、様々な国際紛争の仲介役を果たすことも多く、小国ながら存在感の大きい国です。米ソ冷戦下にはケネディ米大統領、フルシチョフソ連首相の二人が、初めて会談した舞台もウイーンでした。 さて、ウイーンでの初日、美術史博物館を見終えた僕らは、博物館の隣にある旧「王宮」を訪れました。ハプスブルグ家が600年以上も住まいとし、政務を執った場所です。この宮殿では歴代皇帝のほか、女帝と言われたマリア・テレジア、そして悲劇の皇妃と称されたエリザベートが暮らしました(写真は、王宮に入る「ブルク門」)。 王宮は18棟の建物から成り、2500以上もの部屋があります。現在そのほとんどが一般公開されていますが、全部見るととんでもない時間がかかるので、僕らはエリザベートの住まいでもあった「シシィ(エリザベートの愛称)博物館」や皇帝の部屋、銀器のコレクションルームという人気の場所だけを重点的に見ることにしました。 これが皇妃エリザベート(1837~1898)の肖像画((C)Photobusiness/Artothek )。若い頃の写真は残されているのですが、30歳以降はほとんど写真を撮らせなかったといいます。独バイエルンの貴族の娘として生まれ、16歳でオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの元に嫁ぎ、3人の子をもうけましたが、夫婦仲は悪く、晩年は一人で国外へ旅行ばかりしていたそうです。61歳の時、滞在先のジュネーブでイタリアの無政府主義者に暗殺されるという悲劇の生涯は、宝塚歌劇でもしばしば上演されていますね。 王宮すぐそばのブルク公園には、ウイーンのモーツアルト像がありました。ウイーンは言うまでもなく、モーツアルトが後半生を暮らし、音楽家として大きく成長した重要な場所です。 モーツアルト像のすぐそばには、あの文豪ゲーテの銅像もありました。「えっ? ゲーテってドイツ人でウイーンとゆかりはあったの?」のお思いの方、貴方は正しいです。ゲーテはウイーンとは直接ゆかりはないのですが、シューベルトほか数多くの作曲家の歌曲をはじめ、多くの曲に詩を提供したことで、評価されて銅像になったとのことです。 美術館と王宮という2カ所の見学を終えて、ちょっとカフェで休憩。ウイーンはカフェの街。街なかにはカフェが至る所にあります。カプチーノやウインナ・コーヒーとかを頼むと、必ずこんな感じで水が付いて出てきます。 カフェの後、僕らは旧市街中心部のシュテファン広場を目指しました。広場には、ウイーンのランドマークでもある「シュテファン寺院」があります。12世紀半ばの創建で、現在の建物は14~16世紀に改築された、高さ137mのゴシック様式の大寺院です。モーツアルトが妻コンスタンツェ・ヴェーヴァーと結婚式を挙げた寺院としても有名です。 寺院前の、その名も「シュテファン広場」はウイーン観光のスタート拠点なので、当たり前ですが、世界中からの観光客であふれていました。寺院の地下には、ハプスブルグ家の人たちの内臓を入れた壺が安置されています。 同じ場所から180度反対側を見たら、こんな感じ。広場は結構広いです。しかも車は(馬車以外)乗り入れ禁止なので、安心して歩けます。 予想はしていましたが、広場でもやっていました! シリア難民を支援しようという募金活動。通行人はあまり関心を示していないようでしたが、オーストリアには支援団体も多いという話です。 シリア難民支援の募金活動のそばを、まったく関係ないキリスト教関連のグループが淡々と行進していました(何らかの宗教的行事みたいでしたが…)。このコントラストが、なんとも不思議な感じがしました。 <ウイーン編(3)>へ続く。
2015/10/18
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チェコ・プラハでの3日間の滞在を終えた後、今度はオーストリアの首都ウイーンへ移動です。ヨーロッパは鉄道網が発達しているので旅に重宝します。僕らは車窓の景色が楽しめる鉄道の旅が好きなので、ウイーンへはもちろん鉄道利用です。早朝(と言っても8時すぎですが)、僕らはプラハ中央駅へ向かいました。泊っていたホテルからはめちゃ近く、車で10分弱でした。 ウイーンまでは約4時間の旅。プラハ中央駅は、いかにも古いヨーロッパの駅という風格ある外観ですが、中に入ってみると結構近代的な雰囲気です。ここも他のヨーロッパの駅と同様、改札口はなく、直接ホームまで行く方式です。あるのは車内検札のみ。 何番ホームから発車するかは、15分~30分くらい前にならないと表示されないので、それまでは案内板のそばで待つしかありません(スペインでの列車の旅でもそうでした)。しかも発車時刻もしばしば、予告なく遅れるそうです。これがヨーロッパです。 これが僕らの乗るグラーツ(Graz=オーストリア第二の都市です)行きの特急列車「RailJet(RJ)73」の車両編成案内図。食堂車も連結されているみたいですが、荷物もあるので、昼ご飯は座席で何か食べようと、駅でバゲットのサンドイッチを買いました。 いよいよプラハともお別れです。列車は珍しく(?)定刻通りに発車しました。しかし、発車のベルもアナウンスもなく、静かな発車です。国境をまたぐ国際列車なので、乗客にはやはり観光客らしい人が目立ちます。 ひと眠りしていたら、もう国境を越えてオーストリアです。車窓の景色はチェコとそう大きな違いはないのですが、唯一、オーストリア国内に入ると驚くのが、風力発電の風車が多さです。車窓からあちらこちらに沢山見えてきます。自然エネルギー利用での先進国とは聞いていましたが、さすがエコを大事にする国です。 昼ご飯を食べてしばらくしたら、もうウイーンに到着です。観光客は通常、ウイーン中央駅で降りるのですが、僕らは、JTBの担当者が待つ、その一つ向こうのウイーン・マイドリング駅で下車です(写真は、マイドリング駅のホーム。最近改築されたようで、愛想のない近代的な駅でした)。 駅のホームでJTBの担当者と落ち合いました。ウイーンの担当者は在住の日本人の方でした。駅からホテルまでは20分程度の距離。その間、いろいろと注意事項を聞きましたが、やはり、一番の気がかりは、この数日欧州全域で大きな社会問題となっているシリア難民のこと。僕らはオーストリア滞在の2日目に、ウイーンからザルツブルグへ移動する予定ですが、そのウイーン→ザルツブルグ→ミュンヘンという列車のルートに今、難民が殺到しているというのです。 これがウイーン滞在中に泊る「ホテル・アストリア」(明日はザルツブルグで1泊ですが)。市内の目抜き通りのすぐそば。観光にも最高のロケーションです。JTBの担当者からは「明日の(乗る予定の)列車も、運行キャンセルという事態が十分予想されますが、その場合も別の列車の自由席ならチケットは使えるので、ザルツブルグまで頑張ってたどり着いてください。ここはとにかく、すべてが自己責任の国。誰も助けてはくれないと思って、自力で何とか乗り越えてください」との説明。 念のためチケットを確認してもらうと、驚くべきことが! JTBの担当者曰く「中央駅発となっていますが、ウイーン西駅に発駅が変更されているはず。後ほど確認してみます」(確認してもらうと、やはり予告なく変更されていました)。「間違って中央駅に行った人がどうするんでしょう?」と言うと、「中央駅に行って初めて(発駅が)変更されたことを知って、仕方なく西駅へ自力で移動することになるだけです。文句を言う人はほとんどいません。欧州はそういう所なんです」との答え。いたれり尽くせりの日本がなんと有り難いことでしょうか。 さて、時間はまだ午後2時すぎ。ホテルに荷物を置いて、早速、街へ出かけました。ホテルのすぐそばには、「アルベルティーナ美術館」(写真)というのがありました。マリア・テレジアの夫の美術コレクションを展示しているそうですが、とりあえず僕らが目指すのはオーストリア最大のコレクションを誇る美術史博物館なので、ここは通り過ぎます。 こちらも途中、通りかかった国立オペラ座。夜には、壁面にスクリーンが設置され、劇場内で上演されたオペラが上映されるとか。スクリーンの前には座席も置かれて、只で観られるなんて!凄いです。 これが美術史博物館。とても立派なんで表側かと思ったら、裏側なんだそうで、さらにぐるっと回って正面側まで歩かせられました。 ようやく玄関にたどり着き、入場です。料金は14ユーロ。でも凄いコレクションがいっぱいなので、これでも十分安いと思います。 美術館の1階ロビーから2階へ上がる正面階段から見上げると、こんな感じです。天井の壁画と壁面の手の込んだ装飾に圧倒されます。 これがその階段。床や壁、天井に大理石をいっぱい使った、頑丈かつ豪華な造りです。上がった2階にはカフェもあります。 正面上がったところの壁面にある壁画は、なんとあのグスタフ・クリムトの作なんだとか。ぜひ、じっくり鑑賞してください。クリムト壁画の細かい部分を鑑賞するための双眼鏡(三脚付き)も、2階に置いてありました。 美術史博物館には、ブリューゲル、デューラー、ラファエロ、ベラスケス、レンブラント、フェルメールなど沢山のコレクションがありますが、なかでもブリューゲルはたくさん所蔵されていて、名作ばかり。教科書に出てきた作品にも出合えます(これは有名な「農民の婚礼」という絵)。 この美術館のもう一つの目玉所蔵絵画に、フェルメールの「絵画芸術」と題された作品(写真)がありますが、な、なんと展示している部屋が改装工事中とのことで、公開されていなかったのです。せっかく遠い日本から来ているのに! 別の部屋に移して展示するとか臨機応変の対応がとれないところがヨーロッパらしいですが、実に残念で、腹立たしかったです。 <ウイーン編(2)>へ続く。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2015/10/16
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チェコと言うと、皆さんは誰を思い浮かべるでしょうか? 作家のカフカや、画家のムハ(ミュシャ)は有名ですが、僕はやはりドヴォルザーク(1841~1904 ※チェコ語ではドヴォジャークと言うそうです)やスメタナ(1824~1884)という2人の偉大な作曲家をイメージします。スメタナは交響詩「モルダウ」で有名ですが、僕自身はドヴォルザークの「新世界」交響曲が大好きです(とくに第四楽章が)。小学校時代、下校時に校舎に流された曲はいつも、「家路」という題名でも知られる「新世界」第二楽章のメロディーでした。 プラハ近郊に生まれたドヴォルザークは、最初はビオラ奏者として活動していましたが、オーストリア政府の奨学金を得て作曲の道に専念することになりました。1878年に発表した「スラブ舞曲」が欧米で高い評価を得て、1892年には、ニューヨークのナショナル音楽院に招かれて、院長に就任します。滞米中に作曲したのが有名な「新世界」です。初めて知ったのですが、ドボルザークはビオラ奏者をしていた頃、スメタナに指導を受けていた時期もあったとのことです。 という訳で、プラハ滞在最終日の最後の見学スポットは、ドヴォルザーク博物館でした。美しい石造りの二階建ての建物は、実はドヴォルザークと直接ゆかりはないそうですが、ドヴォルザークが暮らした家がこの建物のすぐそばにあったことから、国立博物館(ドヴォルザーク博物館を管理)が買い取って博物館として活用しているとのことです。 内部にはドヴォルザークが使ったピアノやビオラ、仕事机、実際に着ていたガウン、直筆の楽譜など貴重な品々が展示されています。2階はサロンになっていて、コンサートも時々開かれるそうです。 これはドヴォルザークが使っていた眼鏡。お土産には、直筆楽譜が印刷されたハンカチを買いました。博物館の女性は、「イセムス ヤポンスカ(日本から来ました)」と言うと、日本語の解説カードを探してきて渡してくれたり、とても親切に対応してくれました。「ジェクイ・ヴァーム! ナ・スフレダノウ(どうも有難う! そして、さようなら)」。 さて最後の観光を終え、晩ご飯を食べるために再び、街の中心部へ戻ります。ドヴォルザーク博物館は、街の少し外れにあるので、最寄りの駅から、プラハの来て初めて地下鉄に乗ることにしました(と言っても2駅だけですが)。 最後の夜も、やはりホスポダ(ビール居酒屋)です。お目当ては「ウ・ズラテーホ・ティグラ」という店。その昔、ハベル大統領がクリントン米大統領を招待した店とのことで、地元でも結構有名な人気店だそうです(店は、通りには看板もなく、建物の入り口壁の上にトラ(店名の「ティグラ」はチェコ語の「トラ」)の彫り物があるだけ。入口はこの奥です。めちゃ分かりにくい店で、最初は通り過ぎてしまいました)。 しかし、なんとか座れたものの、まだ早い時間なのに店内は超満員です。僕らは10人掛けくらいの大きなテーブルで、他の客との相席。しかしテーブルはそう大きくはなく、上にはビールのジョッキを置くくらいのスペースしかありません。フードを食べている人はほとんど見かけず、客は皆、ひたすらビールを飲んでいます。 相席の隣で飲んでいたのは、ハンガリーから来たというカップル。「車で3時間ほどだから、プラハはよく来るんだよ。この店も3度目。この後、オペラに行くんだ」と(近くてすぐに来れるのが、あぁ、羨ましい!)。「この混みようでは、フードはちょっと頼めないなぁ」ということで、ジョッキで1杯だけ飲んで「別の店へ行こう」と決めました。店内の壁に飾ってある額の写真が、ハベル&クリントン両氏が訪れた際に撮られたものです。 ということで、5分ほど歩いて“転戦”したのが、ここ「ウ・メドヴィードクー」というホスポダ。すでに賑わっていましたが、大バコなので、すぐにテーブルに案内されました。 とりあえずビール。ここでは地元の有名な銘柄「ブドヴァル」の生が飲めます。ブドヴァルは後に、その名前にあやかって「バドワイザー」の名でビールを販売し始めた米国の会社と訴訟沙汰になったことでも有名です(裁判はチェコ側が勝訴、だから欧州では「バド(Bud)」という3文字の銘柄名でしか販売できません)。 きょうのメインは、初日からあちこちで食べられていたのを見て、「滞在中に一度は口にしたい」と思っていたチェコの代表的な名物料理「豚ひざ肉のロースト」。ナイフが刺さったままの豪快なスタイルで出てきます。ジューシーで、とても美味しいのですが、いかんせん量が多い。2人でも食べきれないくらい。 一緒に頼んだもう一品。パンに生ニンニクをこすり付け、バター風味のパテを塗って頂きまーす(チェコ風ガーリック・トーストといった感じ)。素朴な味わいが口に合います。 大バコなので団体の観光客が多いですが、欧米系の方がほとんどです。次から次へと、10~20人のグループがやって来ます。聞けば、年中無休だとか。儲かって笑いが止まらないでしょうね。 ビールは一杯では足りず、「イェシェチェ・イェドノウ、プロスィーム(おかわり、くださ~い!)」。ただし銘柄は、今度は店のオリジナルビール「オルドゴット(Oldgott)」にしました。ダークなラガーと言った感じのビールですが、これもまた旨いです! こうしてプラハ3日目の夜も更けていきます。美しい街並みと美味しいビールと料理を堪能しました。明日は、いよいよウイーンへ列車で移動です(写真は、夜のプラハの路地。治安は良くて、街灯も多いので比較的明るく、夜でも安心して歩けます)。 最後に、チェコへ旅するなら、「これだけは、絶対に覚えていってほしい」便利な7つのチェコ語(表現)をまとめておきます。これだけ喋れたら、旅行中はなんとかなりますし、地元の人たちも笑顔で歓待してくれること間違いなしです(いちおう、チェコ語のアルファベットで打ちましたが、お使いのパソコンで文字化けしたら、ご容赦を!) (1)ドブリー・デン(Dobrý den)=こんにちは、(2)ドブリー・ヴェッチェル(Dobrý večer)=こんばんは、(3)ドブレ・ラーノ(Dobré ráno)=おはようございます、(4)ジェクイ・ヴァーム(Děkuji vám)=ありがとうございます、(5)ナ・スフレダノウ(Na shledanou)=さようなら、(6)プロスィーム(Prosím)=「どうぞ」「すみませ~ん(呼びかける時)」「お願いします」など使い道は多彩、(7)プラチット・プロスィーム(Platit prosím)=お勘定お願いします <プラハ編>はこれで終わります。次回からは<ウイーン&ザルツブルグ編>がスタートです。
2015/10/14
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チェコ人は国家や民族間の勢力争いに長く翻弄されてきました。19世紀初めまでハプスブルグ家が支配する神聖ローマ帝国(962~1806)、それに続くオーストリア・ハンガリー帝国の支配下(領域内)でした。従って、チェコは良くも悪くもドイツ文化の影響を色濃く受けています。法律や行政、学問等の言葉は長くドイツ語が使われ、チェコ語はもっぱら家庭内で話す言葉として受け継がれてきました。チェコ語が公用語になったのは、第一次大戦後、チェコスロバキアが独立宣言をした1918年のことです(第二次大戦中は再び、一時ナチスの占領下に置かれます)。 そして戦後、ソビエトの影響下で共産主義国家になると、今度はロシア語が義務教育化されました。従って、中高年以上のチェコ人には今もドイツ語やロシア語を理解できる人が多いとも聞きました。1989年の「無血革命」後に学校教育を受けた若い世代は、かなり流暢に英語を話します。1990年代以降、チェコは西側陣営の一員として急速に発展し、変化を続けています。 他民族・他国の支配下に置かれるという経験を、日本人は(戦後の米軍占領下以外)ほとんど知りません。チェコ人たちを見ていて感じるのは、国家や民族の思惑に翻弄されながらも、自分たちの文化とアイデンティティを守りながら、したたかに生き抜こうという力と意志です。EUやNATOには入っても、あえてユーロ圏には入らず、コルナという独自通貨を維持するのもそうした反骨心・愛国心の現れにも見えます。独立国でありながら、事実上米国の支配下に置かれている日本の現状を見ると、チェコ人のしたたかさに学ぶことも多いような気がしました。 さてプラハ滞在も3日目となり、最終日です。この日はまず、プラハ城のそばにある観光名所の「ロレッタ教会」へ。1626年創建のこの教会は、パレスチナにある聖母マリアの家が「天使によってイタリアのロレッタ村に運ばれた」という伝説に基づいて建てられたものです。同じような教会は欧州各地にあるそうですが、なかでもこの教会は最も古く、美しいと言われています。ただし、訪れてみるとあいにく修復工事中でした。 工事中でしたが、内部には入れました。二階建ての回廊に囲まれた中庭に、聖母マリアの家「サンタ・カーサ」があります。早い時間なのでまだ観光客もまばらでした。 「サンタ・カーサ」の内部。壁や天井の装飾や壁画が、他の西欧の名立たる教会もそうですが、ここも手が込んでいてとても立派です(宗教的な意味合いは、僕にはよく分かりませんが…)。 回廊の2階に「財宝展示室」という部屋がありました。ここで最も有名なのが、6222個のダイヤモンドを埋め込んだ聖体顕示台です(カトリックの権威を示すためには、ここまで贅沢な物が必要だったのでしょうか)。 ロレッタ教会を後にして、午前中、まだ時間もあるのでムハ(ミュシャ)美術館へ行こうということに。途中、道に迷って知らない大通りに出ました。ここはどこ? チケット売り場のおねえさんに「ムルヴィーテ アングリチュチナ?(英語が話せますか?)」と聞くと、「イエス!」との答えだったので、地図を見せて現在位置を尋ねました(写真の奥に見ええるのは国立博物館だそうです)。 これがたどり着いたムハ美術館。アルフォンス・ムハ(1860~1939)=日本では「ミュシャ」の名の方が通りがいいですが=は言うまでもなくアールヌーヴォーを代表する画家です。チェコのモラヴィア地方に生まれ、パリやウイーンのほか、米国でも活躍しました。 ムハってどんな絵を描いた人だったか、思い出せない方のために、ムハらしい代表的な1枚アップしておきます。ムハ美術館には生涯に手がけた、ポスター原画、スケッチ(デッサン)、油絵、版画、水彩画など約100点のほか、ムハの机や創作ノートなど貴重な品も数多く展示されています。 再び「旧市街広場」へ。何やら結婚式後の写真撮影をやっていました。毎日、何人かのこうした結婚式カップルを広場で見かけましたので、そういうビジネスがあるのかもしれません。 街角の広告ポストです。あの懐かしのSimply Red(今も解散はしていないみたいです)がプラハで近々コンサートをするという宣伝ポスターが貼ってありました。 午後からは、ヴルダヴァ川からプラハの街並みを眺めてみようと思い、約1時間半のクルーズに申し込みました(ガイドブックに書いてあった業者よりも、旧市街広場そばのチケットボックスの方が切符の値段が安かったのはラッキーでした)。 クルーズには僕らも含めて30人ほどの観光客が(国籍は実に様々みたいです)。船長兼ガイドさんが、同じ説明を4カ国語(英語、ドイツ語、イタリア語、ロシア語)で順番に話していたのには、正直驚きました。 天気は快晴。船から眺めるカレル橋も素敵です。橋の上は歩行者天国になっているので、きょうも賑わっています。 プラハ城は何度見ても飽きません。まるで絵葉書のようです。ただし、両岸の景色や雰囲気はパリのセーヌ川クルーズの方に軍配が上がるかなぁ。 クルーズ・ツアーを終えて、今度はドヴォルザーク博物館に向かいます。今度は少し距離を歩きます。途中、デモ隊に遭遇しました。周囲には自動小銃を持った警官まで。プラカードに書いてある言葉を見ると、(シリア)難民受け入れ反対とあります。チェコには今のところ難民はさほど来ていませんが、やはり、欧州は地続きなので懸念は持っているようです。 <プラハ編(7)>へ続く。
2015/10/13
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「チェコの人って、お酒は何を飲むんですか?」。旅から帰ってきてよく聞かれた質問です。 チェコは言わずもがなですが、ビール大国です。世界最大のホップ生産国で、チェコ国民一人当たりの年間ビール消費量は約130リットル(3日でほぼ1リットルも!飲んでる計算)で、世界一なんだそうです。従って、最初の質問の答は「圧倒的にビール」です(ワインも少しは飲まれるようですが…)。 チェコ国内には大小様々なビールメーカーがあり、現在ではビールの主流になっているピルスナータイプ(下面発酵)のラガー・ビールは、チェコで誕生したと言われています。プラハなど大都市の街中にはたくさんのビアホール(チェコ語では「ホスポダ(Hospoda)」と言い、ビール居酒屋のような雰囲気)があり、店内に醸造設備を持ち、自家製のビールを提供している処も少なくありません。 チェコ国民に言わせれば、ビールは酒ではなく「液状のパン」なのだとか(笑)。お値段も中ジョッキ1杯(500mlくらい)で30~40コルナ(150~200円)くらいと、信じられないほどリーズナブルです。今回はたくさんの種類のビールを飲みましたが、どの銘柄も飲みやすくて、美味しかったのは意外な驚きでした(写真は、ライトアップされた夜の旧市庁舎。プラハは日が暮れてからも美しい街です)。 残念ながら、チェコのビールの知名度は(ドイツやベルギーのビールに比べると)日本ではいまいちです。チェコ三大有名メーカーの銘柄「ウルクェル」「ブドヴァル」「スタロプラメン」(写真=昼間のカフェで)は、ネット通販なら日本でも購入できますが、大手の量販店ではほとんど見かけません。日本人の口にもきっと合うと思うので、チェコのビールをもっとPRしてほしいと思うのは僕だけでないでしょう。 ちなみに、「ブドヴァル」を販売する国営会社の銘柄「ブドヴァイゼル(Budweiser)」にちなんで、米国のアンハイザー・ブッシュ社(現在はベルギー資本が買収)が製造・販売し始めた「バドワイザー」は訴訟沙汰となり、現在でも欧州では「バドワイザー」名で販売できないとか。 さて、2日目の晩ご飯は初日の夜に「貸し切りで満席」とふられた、市民会館地下のホスポダ「プルゼニュスカー・レスタウラツェ」へ。ところが時間が少し遅かったせいか「あいにく、40分待ちです。待たれますか?」。ここまで来たからには「はい、待ちます」。でも、隣のウェイティング・バーで飲んでいると幸い、20分ほどで呼ばれました。 店は大バコですが、今夜も満員の盛況です。欧米人の団体客が目立ち、初日の店とは違って、アジア系の客はほとんど見かけません。 店の内装はアールヌーヴォー様式で、ミュシャの絵のような趣のある壁画には歴史の重みが漂い、木製の椅子やテーブルもとても年代を感じます。 灯りや窓など、細部にまでこだわったインテリアが素敵です。市民会館自体は1911年の完成なのでもう100年以上。このホスポダもおそらく相当長い歴史がある老舗なのでしょう。 とりあえず、ビール。メニューの一番上の一般的なものを頼んだのですが、少し濃いタイプです。でも旨いです。「ナ・ズドラヴィー(乾杯!)」。 サワー・クリーム系のソースを焼いた牛肉にかけた「スヴィーチェコヴァ・ナ・スメタニェ」という料理。ビールにとてもよく合います。周囲にはマッシュポテト。 「グラーシュ」という地元の代表的な料理。パプリカをたっぷり使い、刻んだ牛肉とジャガイモが入ったシチューという感じ(パンと一緒に食べます)。聞けば、「グラーシュ」はハンガリーやオーストリアなどの隣国でもポピュラーな料理なんだとか。 店内では時折、アコーディオンとベース&歌のバンドが入ります。客も一緒に歌いやすいように、演奏されるのは欧米でも有名な曲が多いみたいです。歌が入るとさらに賑やかになり、広い店内は一体感に包まれます。2日目の夜もしっかりお腹がいっぱいとなりました。それでは、「プラチット、プロスィーム(お勘定お願いします!)」。 最後の写真は、すみません、食事とはまったく無関係な1枚です。泊っていたホテルの近くにろう人形館がありました。毎日、何度も何度もその前を通りましたが、その際、ロビーに座っているジョン・レノンが嫌でも目に入ってきました。 レノンとチェコと、どういう関係があるんだろう?と思い、少し調べてみました。すると、民主化実現の「無血革命」(1989年)の原動力となった若い世代を後押ししたのは、レノンの「愛と平和の思想」だったという分析もあることを知りました。レノンが凶弾に倒れたのは、革命9年前の1980年。悲報はチェコの若者にも届き、レノンを弔う一人の若者がカレル橋のそばで描き始めたのをきっかけに、多くの若者がその壁に思い思いのメッセージを絵や言葉で残しました。名曲「イマジン」は今もチェコの若い世代の愛唱歌で、「レノンの壁」は現在、プラハの名所の一つにもなっています(壁画を見たい方は、こちらのページへ)。 <プラハ編(6)>へ続く。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2015/10/11
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チェコはご承知の通り、かつてはチェコスロバキアという国で、第二次大戦後、東欧の共産主義国家の一つでした。しかし1989年、「ベルリンの壁」崩壊に伴う民主化の波でチェコスロバキア国内にも反政府デモが広がり、ついには「無血革命」によって当時のフサク・独裁政権が倒れました。そして同年、ヴァーツラフ・ハベルを初代大統領とする民主国家に生まれ変わりました。 その後、1993年にはチェコスロバキアは解体され、チェコとスロバキアという2つの共和国が誕生しますが、それぞれ元々違う言語(と言っても方言のようなものらしいですが)を持つ地域だったので、分割もうまく行ったようです。チェコの首都は言うまでもなくプラハですが、スロバキアの首都はプラチスラヴァという聞いたこともないような名前。観光・集客という面でも圧倒的にチェコの方が人気で、スロバキアは分割して割を食った感じでしょうか。 なお、チェコは1999年にNATOに、2004年からEUにそれぞれ加盟し、今では完全に西側陣営ですが、なぜかユーロには加盟せず、コルナ(1コルナは約5円)という独自通貨を使っています(このあたりの理由はよく分かりません)。ちなみにお隣のスロバキアはユーロ、NATO、EUのすべてに加盟しています(写真は、旧市街広場。観光用の馬車の出発地点もここです)。 さて、プラハ城観光を終えて、僕らは再び街の中心部まで戻ってきました。きょうの昼御飯は、カレル橋からもほど近い、「ウ・パルラメントゥ」というレストラン(写真)。ガイドブックにはあまり出ていない店ですが、口コミ情報では「地元チェコの人たちに人気の店」ということだったので、ここにしました。 店は混んでいましたが、「ドブリー・デン、イエ ナース ドヴァ(こんにちは、2人なんですが…)」と言えば、幸いすぐに席に案内されました。まず頼んだのは、ローストした豚肉をクリーム系ソースで煮込ん料理。柔らかいスポンジケーキのようなパンが添えられています。上品なお味で、素直に美味しいです。 お米が食べたくなったのでリゾットを頼みました。リゾットというとイタリアというイメージですが、チェコの人もよく食べるようです。キノコの風味もしっかり浸みこんでいて、旨いです(ただし、コメは少々柔らかかったかな。リゾットだから少しくらい芯があるような感じのコメの方が美味しいのにね)。 食事を終えて、再び街へ。プラハでは観光用に「セグウェイ」が席巻しています。街を歩いていると2~3人のグループがセグウェイに乗って観光している姿をあちこちで見かけます。車も馬車も通れないような細い道が多いので、ちょうどいいのかもしれませんが、歩行者とぶつかる事故はあまり起きないのかな? ふとショップのガラス窓を見たら、観光客らしい女性が二人。水槽に足を突っ込んでいて、びっくり。エステ&マッサージの店で、脚のアカを小魚に食べさせて綺麗にするという施術だとか。この二人、みんなの見世物になっていて恥ずかしそうでした。 付近を歩いていて、ふとビルの壁を見ると、かのポーランドが生んだ偉大な音楽家、フレデリック・ショパンの顔が。このプラハの建物で一時期暮らしていたそうです(モーツアルトがプラハにも滞在したことは知っていましたが、恥ずかしながら、ショパンも居たとは知りませんでした)。 音楽家ネタで言えば、街を歩いていると、こんな建物(改修工事中でしたが)にも出合いました。建物前にいたツアー客のガイドさんの説明を盗み聞きしたところによれば、かのモーツアルトが1787年、オペラ「ドン・ジョバンニ」を初演した劇場なんだそうです(「スタヴォフスケー劇場」という名だとか)。 通りではこんなイベントも。レンガに絵を描けば(有料ですが)、それが慈善団体への寄付になるとか。描かれたレンガが積み上げられていました。 旧市街はぶらぶらと歩いているだけで思わぬ発見があり、楽しいです。突然、青空市場に出くわしました。僕らは海外旅行では、必ず現地の市場を覗くことにしているので、これは丁度いいタイミングでした。 チェコと言えば、人形芝居が有名です。市場でもマリオネット(操り人形)を売る店があちこちにありました。 意外かもしれませんが、チェコはフルーツも種類が多く、充実しています。とくにベリー系の種類の多さには驚きます。このてんこ盛りのベリーが、日本円で250円ほど。その安さにびっくり! 果物屋さんで売っていた小ぶりのリンゴのような謎の果物。「Nektarinxy」というチェコ語が最初よく分からなかったのですが、よくよく考えてみると、これは見た目からしてもネクタリンですね(日本ではあまり見かけませんが)。市場は、そこに住む人々の暮らしが一番よく分かる場所です。見ていて、ほんとに飽きない大好きな場所です。 <プラハ編(5)>へ続く。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2015/10/10
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海外旅行をする際は、出発前にいつも、そこで話されている現地の言葉を集中的に勉強していきます。今回は、チェコ語とドイツ語でした(ドイツ語は大学の第3外国語で1年だけ習いましたが、今回、実用的な会話を中心にやり直しました)。 出発前、「プラハもウイーンも、ホテルはもちろんのこと、観光地でも外国人客の多いレストランやショップではまず英語は通じるし、若い人はほとんどが英語がそこそこ喋れるので大丈夫だよ」と現地事情に詳しい知人から教えてもらっていましたが、そこはやはり、「現地の言葉で少しでもコミュニケーションがとれた方が、より親しみを持ってもらえるだろうし、旅も楽しいはずだ」というのが僕の信条なので、今回も本やDVD等で数カ月前から勉強しました。 チェコ語はスラブ語族の言葉でロシア語、ポーランド語なども同じ仲間ですが、普段僕らにはまったく馴染みがありません。チェコ語に取り組むのは、もちろん初めて。主に旅行者向けの会話本で勉強し、発音はインターネットの翻訳サイト(グーグル等)でネイティブの発音を聞いて、覚えました。チェコ語は幸い、(訳のわからない文字を使うロシア語とは違って)基本、通常のアルファベットの文字を使うので、ロシア語よりもまだとっつきやすい感じがしました。 結果、カタカナ発音でも、イントネーションさえしっかり覚えれば(真似すれば)、何とか通じるもんです。ホテルや街中、レストラン、買い物等で、そこそこコミュニケーションもとれて、僕がチェコ語を話した時の相手の反応(笑顔)を見るのが、また面白かったです(写真は、カレル橋を渡った辺り。日本大使館もこの近くにあるとか)。 「世界遺産」プラハ城へは、この電停からトラムに乗ります。切符は、旅行者用の「1日券」(トラム、地下鉄、バス共通です)を事前にホテル近くの地下鉄駅の窓口で買いました。1日券は110コルナとお手頃です(1コルナは約5円なので、550円くらい)。1回券だと24~32コルナしますので、4回乗れば元がとれます。 プラハ城は、街を見下ろす小高い山の丘の上にあり、旧市街のどこからでも見える街のシンボルです。歴代王の居城ではあるのですが、見た感じは城というよりも、教会や宮殿など様々な建物の複合体といった印象。戦いのための拠点というより、王の権威を示す場所だったのかもしれません(なお、城の一部は現在、大統領府として使われています)。 トラムに乗った電停から、10分ほどで「プラハ城」前(Prazsky hrad)に到着です。アナウンスはチェコ語と英語だし、他にも観光客がいっぱい乗っていて、みんな同じ電停で降りるので間違うことはありません。 お城の入り口の門をくぐると、見学スタート地点の広場があり、やはり早朝からたくさんの人が集まって来ています。チケットは3つコース(主に見学できる場所の数の違い)で値段が違います。僕らは時間もあまりないので、最小限の人気のポイントだけを見る250コルナのコースを選択。早速、まず、城内でひときわ目立つ高さ96mの建物「聖ヴィート大聖堂」へ。 これが「聖ヴィート大聖堂」。西暦930年に建てられ、現在の建物は14世紀のものがベースとなっていますが、その後何度も改築を繰り返し、最終的に完成したのは20世紀になってからとか。地下には歴代王の墓があります。 大聖堂の内部は、他のヨーロッパの大聖堂とそう大差はありませんが、ステンドグラスは必見の価値があります。中には、日本でも知られる画家ミュシャ(現地ではムハという)が手がけた作品もありました=写真。 城内のもう一つの見どころは「聖イジー教会」=写真=です(城内にいったい教会をいくつ造ったら気が済むのかという気もしますが)。華やかな赤い色をした初期バロック様式の教会で、920年の完成。現存する建物は火事の後、1142年に再建されたものとのこと。 聖イジー教会の横には、色とりどりの小さな家が並んだ通りがあります。「黄金小路」と呼ばれ、城に仕える錬金術師らが住んでいたといいますが、各家の中は驚くほど狭く、天上も低いです。この並びの一軒、「22番」の家は、あの作家フランツ・カフカが一時期、仕事場として使っていたとのことです。 プラハ城から眺めたプラハ旧市街。赤い屋根でほぼ統一された家並みが息をのむほど綺麗です。古い時代の建物を大事に守っていこうという人々の心意気が伝わってきます。 同じ場所から、街並みを違う方向を眺めるとこんな風景。さすが「世界遺産」プラハです。どこを切り取っても絵になる街で、ずっと眺めていても飽きません。 城内の広場にはオープン・カフェもあり、結構賑わっていましたが、我々は時間もないので、横目で見て通り過ぎました。 城門を出て、プラハ城にお別れ。門の両側に衛兵がいましたが、服装のセンスはいまいち。バッキンガム宮殿の衛兵の方が少しおしゃれかな? さて、旧市街広場、カレル橋、プラハ城という三大観光名所を見た僕ら。再びトラムで市内中心部まで戻り、そろそろ昼御飯の時間です。プラハで初めてのランチは、『地球の歩き方』の口コミ情報で「美味しくて地元の人にも人気」と書かれていた「ウ・パルラメントゥ」というレストランを目指します。 <プラハ編(4)>へ続く。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2015/10/08
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街そのものが「世界遺産」に指定されているプラハは、10世紀から20世紀までの様々な建築物が非常によく保存されていることから、「建築博物館」とも称されます。最もよく残っているのが、12~18世紀に誕生したゴシック、ルネサンス、バロック様式の建物です。旧市街の街を歩いていると、中世にタイムスリップしたかのような気分になれます(モーツアルトの生涯を描いた映画「アマデウス」も、「現在のウイーンでは、モーツアルト時代の街並みの映像が満足いくようには撮れない」とのことで、プラハで撮影されたと聞きました)。 プラハ2日目の朝は7時に目覚めました。きょうはさっさと朝食をとって、街歩き&観光に繰り出す予定です(写真は、ホテルの部屋の窓から見たすぐ向かいの建物。何の建物かは分かりませんが、見るからに歴史のありそうな雰囲気です。こんな建物が街のあちこちに一杯あるのです)。 朝食会場のホテルの従業員の方に、「ドブレー・ラーノ(おはようございます)」とチェコ語で挨拶。バイキング・メニューは結構豪華で、ハムやソーセージ、パンの種類も多く、選びごたえがあります。なんとシャンパンまで! 米国人らしい外国人客の中には、朝から飲んでる人もいました。 朝食の会場は、ホテルの中央部分で、駅のコンコースのような吹き抜けの、とても素敵な空間です。元々が歴史的な建物なので、重厚な雰囲気が漂っています。 朝食を終えてホテルを出て、6~7分歩けば、プラハ観光の中心「旧市街広場」に着きます。広場のシンボルの一つ、旧市庁舎が見えて来ました。早朝なので、まだ歩いている人はまばらです。空気もひんやりして、9月中旬なのに、結構肌寒いです。 写真や映像で見た旧市街広場が目の前に! 360度、どこを見ても素晴らしい建物だらけ。プラハにやって来たんだとしっかりと実感できます。広場の中心には、チェコ宗教改革の中心人物だったヤン・フス(1370?~1415)の銅像が。 旧市街広場の周囲の建物の1Fには、カフェや土産物店も並んでいます。プラハの街歩きも基本ここがスタート地点です。観光客もそろそろ集まり始めています。 広場の東側にあり、2本の高い塔が目立つのがティーン教会。1135年に建てられ、現在のゴシック様式の姿は1365年の改築されたものだそうです。 旧市街広場の名物、旧市庁舎の天文時計です。15世紀頃に造られたとか。毎正時ごとに仕掛けが動き出し、建物の前は見物客であふれます。 さて、午前中にプラハ観光の見所、カレル橋、プラハ城も回っておきたいので、旧市街広場を後にして、北西方向へ再び歩き始めます。プラハの道は基本、石畳なので、歩きやすい靴でないとNGです。ハイヒールを履いている女性などはまずいません。 細く曲がりくねった道を5分ほど歩くと、有名なカレル橋の東端に着きます。橋の入り口の建物が見えてきました。 カレル橋は全長約500m、幅10mもある大きな石橋です。14世紀後半から15世紀初めにかけて建造されました。橋が架かるヴルタヴァ川は、日本では「モルダウ川」という呼び名の方が有名ですが、最終的にドイツ国内へ流れ、有名なドナウ川となるそうです。 カレル橋の名前は橋が造られた当時の王で、神聖ローマ皇帝でもあったカレル4世の名にちなみます。橋の入り口の側に立つ、この銅像の方がカレル4世(1316~1378)。ボエミア生まれの文人皇帝として知られ、チェコ語のほか仏語、独語、イタリア語、ラテン語の5カ国語を自由に操ったとか(ちなみに、カレルとは英語名だとチャールズ、仏語だとシャルルです)。 カレル橋の両側の欄干には、30体の聖人像が立てられていますが、キリスト教に詳しくない僕らには、誰が誰かはほとんど分かりません(^_^;)。後でガイドブックを見たら、30体の中には、日本人にもとても馴染みがある聖フランシスコ・ザビエルの像もあると書いてありましたが、見逃してしまいました(笑)。 橋の上には、似顔絵描きや、手作りの土産物を売る人たちがたくさんいて、賑やかです。橋からは遠くプラハ城もよく見えます。橋を渡った後、僕らはそのプラハ城見物に向かうために、近くの電停から路面電車に乗る予定です。 <プラハ編(3)>へ続く。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2015/10/06
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ヘルシンキ空港を立って2時間、予定通り、9月10日の夕刻、プラハのヴァーツラフ・ハベル国際空港に到着しました。空港にはJTBの現地担当員の方が迎えに来てくれていました。 僕らの海外への旅は、いつも航空機等の交通機関とホテル(オプションで空港・ホテル間の送迎)だけをアレンジしてもらい、毎日の予定はまったくのフリープランのツアーです。自由行動なので、自分たちで計画して、好きな時間に行きたいところへ行けるのが魅力です。一度このフリープランで旅すると、添乗員付きの団体ツアーなど行く気がしません(もっとも、僕は過去一度も団体ツアーの経験はありませんが)。 空港に迎えに来てくれて、ホテルまで連れて行ってくれるJTBの担当者は、現地に住む日本人の方であることが多いのですが、今回のプラハではチェコ人の女性でした。僕はいちおう覚えたてのチェコ語で「ドブリー・ヴェッチェル(こんばんは)」とご挨拶。でも、相手は日本語はほぼペラペラ、聞けばだんなさんが日本人で、日本にも行ったことがあるんだとか(写真は、プラハ空港内の案内板。英語、チェコ語、ロシア語、そしてなぜか中国語はなくてハングル)。 ホテルまでの道中の車内で、担当者の方からプラハ滞在中の一般的な注意等を聞いたりしていると、30分ほどでホテル着。ホテルはいつもできる限り、中心部に位置していて、足場のいい所でお願いしてします。その方が動き回るのには何かと楽だから。最初から足場の良いホテルがセットになっているケースもありますが、そうでないこともあり、今回、ウイーンでは追加料金を払ってホテルを指定しました(写真は、プラハで僕らが泊った「K+K セントラル」。元々何かの歴史的建造物をリノベーションしたらしい)。 ホテル内のエレベーターも、昔の洋画に出て来そうな、超クラシックなタイプ。自分をドアを開け閉めします。 ホテルはプラハの街のランドマークの一つである「火薬塔」(写真)のすぐ近く。ゴシック様式の火薬塔は高さが65m。1475年に建てられ、旧市街を守る城壁の門の一つといいます。ホテルは、プラハ観光の中心でもある旧市街広場へ徒歩で6、7分という好ロケーションです。 とりあえず、荷物は部屋に置いて、晩ご飯を食べに街に繰り出すことにしました。お目当てはホテル近くの市民会館(写真)地下にある「プルゼニュスカー」という名のチェコ料理のレストラン。現地時間では午後8時すぎだが、家を出てから21時間くらい起きている計算で、体内時計は午前3時すぎ(チェコと日本は時差7時間)。とにかく眠いです。早く飯を食べて、ビールを飲んで眠りた~い。ところが店に着くと、「きょうは貸し切りで満席。明日なら大丈夫だよ」といきなりの“カウンターパンチ”です。 仕方なく、2日目か3日目に行く予定をしていた別のレストラン「コルコフナ」に変更しました(こちらも混んでいましたがなんとか座れたし、結果的に、ホテルにもより近かったのはラッキーでした)。 伝統的なチェコ料理のレストランと言っても、こちらはまったく詳しくないので、店の英語のメニューを見ながら、注文する料理をあれこれと検討します。チェコは海のない国なので、料理はやはり牛、豚、鶏、羊など肉が中心。魚系は川魚が少しある程度。こうした素材を焼く、煮込む、揚げる(蒸し料理は見なかった)等で調理し、味付けやソースで個性を出しています。 まぁ、チェコと言えば、やはりビール(ホップの生産量は世界一。一人当たりのビール消費量も世界一なんだとか)。とりあえずメニューの一番上にあったビール、「ピルスナー・ウルクェル」(チェコの二大メーカーの一つ)を注文しました。写真を撮る前に少し飲んじゃいました(笑)。 伝統料理らしいのかどうか分からけれど、鶏の手羽肉を甘辛く焼いたような料理です。シンプルな味付けですが、口に合って旨いです。付け合わせに、タコスのようなものが添えられているのが不思議でした。 こちらは、地元産のハムやソーセージの盛り合わせといった感じ。ビールとの相性も抜群で、まぁ、普通に美味しかったです。 店内には、ビールの醸造施設もあるんだとか。ご多分に漏れず、ここプラハにも中国人観光客が目立ちます。団体ツアーの人たちはとくに声がでかいのです。このあたりのマナーをもう少し勉強してほしいんですけどね。 予想はしていたけれど、ここチェコでも料理の1人前の量は半端なく多いです。日本人なら2~3人前くらいの分量です。だから2品頼むともう十分。お腹もしっかり一杯になって、帰る途中、部屋で飲むミネラル・ウォーターを近くのスーパー(11時くらいまで開いてます)で買って戻りました。さぁ、きょうはしっかり寝て時差ぼけも解消して、明日早朝からのプラハ観光に備えようっと。 <プラハ編(2)>へ続く。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2015/10/04
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チェコとオーストリアの旅から帰ってきて2週間余。のびのびになっていた旅の報告にようやく着手します。いちおう20~30回程度の予定で、訪れた場所、美味しく食べた店、旅で感じたこと等を思い出すまま綴っていこうと思います(過去の旅報告とは趣を変えて、写真は大きめに紹介していきたいと考えています)。 今回の旅では、まだ訪れたことのないプラハ、ウイーン、ザルツブルクの三都市を巡ることが最大の目的でした。いずれの街にも「世界遺産」が数多くあり、プラハやザルツブルクの旧市街は街全体が「世界遺産」となっています。とくにプラハは、欧州の中でも中世の街並みが最も良く保存されていることで知られ、映画「アマデウス」もウイーンではなく、プラハをウイーンに見立てて撮影したくらいです。 関空からの欧州路線は、現在、JAL、ANAのほか、KLM(アムステルダム経由)、ルフトハンザ(フランクフルト)経由、カタール航空(ドーハ経由)のほか、フィンランド航空くらい。今回はフィンランド航空なので、まずはヘルシンキへ向かいました。飛行機は意外と小ぶり。ジャンボ機がほとんど姿を消したので、その小ささが目立ちます。写真は機内で飲んだフィンランドのビール(日本のビールの方に軍配!)。 飛行時間は約9時間。まもなくヘルシンキに着陸です。搭乗時間はエコノミークラスだと、8~9時間が限界だと個人的には思います。10時間以上かけての直行便よりも、一度乗り換える方が、身体も楽だし、気分転換になります。窓から見るヘルシンキ空港周辺は森や田畑が目立ち、人家はほとんどありません。 ヘルシンキに無事到着。フィンランドもEU加盟国なので、EUへの入国手続きはここヘルシンキで出来ます。難なく入国審査を終え、プラハ便までは3時間余ほどあるので、早速DUTY FREEのショップを冷やかしに回りました。 おとぎの国・フィンランドと言えば、ムーミン。当たり前ですが、空港内のムーミン・ショップは人気でした(そういう僕は、好きでも嫌いでもないキャラですが)。 ショップで缶詰を売ってましたが、お国ぶりを映して、なんとトナカイの肉の缶詰。1個買ってみようかと思いましたが、往路の経由地で荷物を増やすのもどうかと思い、やめました。 ショップを巡ってもまだ時間も余ったので、たまたま見つけたアイリッシュ・パブへ。生のキルケニーがあったので、注文。往路の経由地で飲むビールは、旅の期待もあって、格別に旨いのです(ただし、前回スペインの経由地のドーハはアルコールNGだったのでガッカリでした。だからもうカタール航空には二度と乗りません)。 さて、そうこうしている内にプラハ便の出発時刻も近付いてきました。プラハまではここからあと2時間。もうあとまずかで最終目的地ですが、飛行機内では熟睡もできず、時差もあって、眠いです。 <プラハ編(1)>へ続く。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2015/10/03
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今回訪れた北京ではたくさんの写真を撮りましたが、その中でもうらんかんろが「マイ・ベスト・ショット」と思う計5枚を、最後に“おまけ”として大きい写真で紹介します(なかにはこの旅行記ですでに小さめの写真で掲載したものもありますが、何卒ご容赦を)。 【故宮(紫禁城)】観光客には、有料で当時の皇帝、皇后の衣装のレプリカを貸してくれる。子どもがそんな貸衣装を着てたわむれていた。目撃した僕は一瞬、清朝にタイムスリップしたような気分になった。 【長城】長城に階下があるとは意外だった。この光景は、あまりガイドブックには出ておらず、行った人間しか分からない。時間がなくて、僕らは階下に降りなかった。それを今となっては、とても後悔している。 【近代化】経済成長が続く中国。北京でも今なお建設ラッシュが続く。しかしその建築工事途中の姿を見ると、覆いのない高層ビル建設現場とか、竹で組み上げた足場とか日本では考えられない光景に出合う。事故は起きないのだろうかと心配になる。 【美食】北京の美食の頂点は、やはり「北京ダック」。数ある専門店のなかでも、僕らが訪れた店のパフォーマンスは、ただ一言、アーティスティックだった! ソース一つとっても、客に見(魅)せることにとてもこだわっていた。これは僕らも見習うべきだと思った。 【中南海】中国政府の要人トップらが住む「中南海」。毛沢東や周恩来も、ここに暮らした。車での通りすがりに、一瞬垣間見た歴史の現場。習近平主席は、21世紀の世界市民に中国が負っている責任を、どの程度自覚しているのだろうか?
2013/12/09
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北京の旅、最後は番外編。旅を通じて感じたことをあれこれ記します。 ◆世界最悪の交通渋滞と守られない交通ルール 一昨年訪問した上海もそうだったが、北京も交通ルール、運転マナーは滅茶苦茶である。車はすれすれ、ぎりぎりまで突っ込んでくるし、割り込みは当たり前。 横断歩道の信号もあってないようなもの。歩行者は青であっても、左右から突っ込んでくる車を常に注意しながら渡らなければならない。 長期滞在者も、慣れるまでは車の運転は命がけだろう。車がなくても過ごせなくはないが、地下鉄は駅の間隔が長く、そう便利でない。料金の安いバスは市民で常にぎゅうぎゅう詰めで、外国人が割り込むのは至難の業である。 乗車時の整列乗車のマナーも昔に比べてましになったようだが、バスの停留所ごとに制服を着た整列マナー指導員が立っている現状からみると、やはりまだマナーはそうは良くはないのだろう。 加えてひどいのは中心部の交通渋滞で、世界最悪とも言われる。幹線道路は結構広く、車線も多いのだが、常に車がひしめき合っている。 15~20分で行ける場所に常に1時間もかかる。今回の観光ではほとんど車で移動したが、時間が読めないので、常に早め早めに行動した。 もちろん政府も手をこまねいているわけではない。市郊外に環状に高速道路をどんどん建設し、渋滞の緩和につとめている。中心部に乗り入れる車も、ナンバーで規制している。 しかし、それでもこれだけ渋滞が続くというのは、マイカーの急増に対策が追い付いていないことの表れだろう(写真左=景山公園の山頂から見た北京の空はかすんでいた)。 地下鉄等の公共交通機関をもっと整備して、利用を促進しない限り、北京はいつまで経っても、国際的な近代都市とは呼べないのではないか(写真右=天壇公園の一角で麻雀に興じる市民)。 ◆見た目はそうひどくなかった大気汚染 訪れていた四日間、北京の空気は見た目はそうひどくはなかった。ひどいと言われていたので、覚悟はしていたが、マスクをする必要はなかった。 毎日短時間だが青空も見えたし、市民でもマスクをしている人は、驚くほど少なくなった。ただ、わずかの滞在だったので、僕らには北京の大気汚染は改善されているのかは、よく分からない。 北京市当局は毎日PM2.5の値を発表しているが、市民はそんな数字を信じていない。「在北京の米国大使館が発表する値の方(当局発表よりいつも1ポイント高いという)が実態に合っている」という市民もいる。 今後、本格的な冬を迎えると、工場や市内外の一般家庭は、ほとんど石炭などの化石燃料を暖房に使うので、汚染は悪化することはあっても改善することはないと言われている。 GNPは日本を抜き、世界第2の経済大国になった中国だが、前段で書いた交通対策、環境対策は、他の先進国に大きく遅れている(写真左=市場の干物店では、干し松茸が売られていた)。 ご承知のように共産党の一党独裁国家である。政府が号令をかければ、対策は一気に進むはずだが、そこはさまざまな利権が絡んで、対策を足踏みさせているのだろう。 しかし、大気汚染は一般市民も政府(共産党)幹部も平等に被害を及ぼす。いずれ中央政府も対策に本腰を入れざるを得ない時期が来るに違いない。 ◆長期滞在者と反日ムード 北京には現在、長期滞在の外国人は5万人とも10万人とも言われ、このうち日本人は約1万2千人という。北京の友人は普通の賃貸マンションや借家ではなく、ホテルに併設された長期滞在者用のマンションに住んでいた。 部屋の掃除もしてくれるし、ホテルを通じて日本情報や北京市内の情報などが手軽に得られるし、なによりも安全という。 買い物や移動も比較的便利なので、民間企業だけでなく、外交官でも今ではこういうマンションに住む人が多いという(写真右=三里屯のショッピングセンター。偽ブランド品も含めあらゆるものを売っている)。 友人は日本の現地合弁メーカーに勤めている。中国では、外国人資本だけでの会社設立は認められておらず、必ず現地の中国人のビジネス・パートナーが必要となる。 この法的ルールは大きな会社から小さな飲食店まですべてに適用される。反日ムードが漂う中国で、ビジネスをするのは苦労も多い(写真左=日系スーパーで売っていた見たこともない魚)。 尖閣国有化問題が起きた時は、北京でも反日デモが繰り広げられた。デモ参加者の多くは地方出身者と聞くが、北京市民でも共感する人は少なくないという。 反日デモが激しかった頃は、さすがに友人や家族も外出を控えたという。彼の会社にも当然、現地採用の中国人社員がいる。秋には社内運動会を開いたりして家族的な会社づくりに努めている。 日本が嫌いだからと言って、退職するような現地社員は皆無だ。友人は「本音ではどう思っているのかは分からないが」とも言う。現地社員たちも「そこは仕事だ、雇用が大切だ」と割り切っているという。 中国各地で日系スーパーや日系企業が略奪や焼き討ちに遭っていた頃、友人の妻は、いつも行く市場の馴染みである店でも、いっさい口を聞いてもらえなかったこともあった。 しかし、「どんなに日本バッシングがひどい時でも、いつも通り温かく接してくれた店主もいた」とも話す(写真右=三里屯のユニクロ)。 政治が、国家がどんなにいがみ合って対立しても、最後はやはり、個人対個人で理解し合えるはずだ。草の根の信頼関係をこつこつと築きあげていくことが、何よりも大切だと僕も信じている。 ◆芸術やスポーツ、科学は一流だが 政治体制は決して一流とは言えないが、ご存じのように、中国は昔から偉大で、天才的な芸術家、スポーツ選手、科学者は数多く輩出している。 ただし芸術や科学の分野では、中国国内の“息苦しさ”を嫌って、欧米の国に帰化したり、市民権を取ったりして活躍する人が多い(写真左=日系スーパーでは日本のおでんも売っていた)。 今回の旅でも、中国のすぐれた作品に数多く出合った。アート作品ではないが、今なお開発が続く北京市内には、風変りで、独創的な建築が数多く建てられ、日本ではあまり考えられないような、フォルムの建物が目立つ。 例えば、中国中央電視台(CCTV)=中国のNHKみたいな放送局=の新ビル(写真右)は、なぜこの形にする必要があったのか、よくわからない。 「“つなぎ”の部分で働いている人はどう感じているのか」という奇妙な建物。耐震性や使い勝手はよく分からないが、確かに斬新で、個性的ではある。 芸術作品も数多く見たが、僕は現代アート作品にも、中華民族の多様な可能性を感じた。とくに印象的だったのが、「Spin」という上海発の陶芸家集団。 直売ショップを北京市内にも展開(写真下左)しているが、「現代の景徳鎮」を目指し、とてもモダンでおしゃれな器ばかり。ひと目見て気に入ったので、Bar・UKで水差しに使えそうな器を衝動買いした。 13億人を超す人口を抱える中国には、潜在的な才能が溢れている。しかしそれが政治の分野で育たないのは、実に残念というしかない。経済は、もう完全に自由主義経済に組み込まれており、グローバル枠組みからは孤立して生きてはいけない。 次は、政治が近代化する番であろう。やがては人治ではなく法治の国にならざるを得ないし、一党独裁が未来永劫続くとは、とても思えない。それは中国の長い歴史が教えてくれている。 ◆お土産に何を買ったか 家族や友人、そして自分たちへのお土産に何を買おうか、あれこれ考えた。結果、僕らが購入したのは、以下のようなもの。いわゆる有名観光地(故宮や万里の長城など)では結局、絵葉書1枚も買わなかった。 ・シルク製品(小物入れ、シューズ入れ、ボトルカバー、ランチョン・マット等々=いずれも驚くほど安く買える)(写真右=シルク製品を買った店)。 ・中国茶(そこらの土産物の店は残留農薬が不安だったので、まだましかと思って日本人が経営するお茶専門店で買った)/月餅(季節柄、いちおう定番だったし)/干し貝柱(日本でも中華街で買えるけれど) ・ニンニク風味の緑豆(友人が「これは安くて旨い酒のアテ」と教えてくれたもの。やみつきになる味!)/バイオゴールド・パール・ジェル(真珠の粉を丸めたものがジェルの中に入ったもの。知人からの依頼。効果の程は?) ・貴石や真珠を使ったネックレス。好きな石を選べば、その場で30分程度でつくってくれる店がある(これが信じられないくらい安い。連れ合いはまとめ買いした)/中国伝統切り絵(小さな額に入れて飾る、伝統的な花をモチーフにしたものを買った) ・スコッチモルト・ウイスキー(老酒はあまり好みではないので、結局免税店で「グレンリベットの18年」を購入(笑))
2013/11/26
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北京の旅も終りに近づいてきた。今回の旅の主な目的は3つあった。まずは北京在住の友人を訪ね、旧交を温めること。それから4000年の歴史都市・北京の世界遺産をこの目で見ること。そして、最後に北京でBarを開くオーナー・バーテンダーを訪ねることだった。 ようやく3日目の夜に、最後の目的を果たせる機会が巡ってきた。北京市内中心部の東のエリア、あのSMAPも公演したという工人体育館のそばに、目的のBarはあった。 「Glen Classic」。ホテル(複合ビル?)の中庭を通り抜けた奥という、謎めいたロケーション。ドアを開けると意外に広い空間が広がり、雰囲気はまるで日本のオーセンティックBarそのもの(写真左=Glen Classicへ向かう道の最初のゲート)。 ネットでの紹介記事には「北京に誕生した初めてのオーセンティックBar」とあった(それまで北京には、カラオケBarかカジュアルなCafe Bar、あるいはClubのようなBarしか存在しなかったらしい)。 オーナーのKさん=写真右=は、まだ30代半ば。銀座の名だたるバー2軒で、8年半ほど修業した。そして国際派の二人の師匠(Kさん、Uさん)の背中を追って、独立と同時にアジアへ飛び出した。「日本人が今さらヨーロッパやアメリカへ行くより、アジアで活躍の場を探したい」と。 縁あって、北京の物件で誘いがあり、中国人の共同オーナー(中国では外国人単独ではビジネスができないという法的ルールがある)と一緒に、Bar「Glen」を開いた。 Kさんが数年前からバーを営んでいることは、大阪のとあるBarのマスターからも聞いて知っていた。そして、いつか機会があれば訪ねてみたいと願ってきた。 ちなみに、僕はKさんとはまったく面識がないものとばかり、ずっと思っていた。だが、今回改めて話をしているうちに、意外な接点がいくつか分かった。 10年ほど前、NBA(日本バーテンダー協会)の全国バーテンダー・コンクールが神戸で開催された際、Kさんは出場していた。僕もその大会を見に行っていた。 また、Kさんがかつて勤めていた銀座のSというバーには、成田一徹さんと二度ほどお邪魔したことがあるが、ちょうどその頃、Kさんはそのバーで働いていたという。すなわち、僕はそこで出会っていたのだ(もちろん、その時は挨拶はできなかったが)。 さらに驚いたことが一つ。僕が8年ほど前にブログで知り合って、先般のスペイン旅行の際も現地のとっておき情報をいろいろと教えてもらうなど、ずっと交友があるHさんという女性がいる。 そのHさんとKさんは、なんと知り合いでスペイン・アンダルシア地方のシェリーのボデガ(醸造所)を一緒に見学したことがあるというのだ(Hさんは当時現地に短期留学中だった。Kさんは現地でシェリーの専門資格、ベネンシアドールを取得したという)。 Hさんはスペイン好きが高じて会社を辞め、現在は、スペイン・ワインやシェリーのインポーターをしている。先般は難関のベネンシアドール資格試験にも合格したバイタリティあふれる女性だ。 僕のBar・UK計画も後押ししてくれているHさんとKさんが知り合いだったとは! 世の中は狭いというが、北京で共通の知人が見つかるとはまさか思っていなかった。 さて、店(Glen Classic)の話に戻る。北京の友人夫婦が事前に下見を兼ねて訪れてくれ、この夜の僕の訪問を伝えておいてくれたおがげで、Kさんは笑顔でもって、僕らを歓待してくれた。 北京最後の夜に何を飲むか、しばし迷ったが、やはり、ベネンシアドールでもあるKさんに敬意を表して、ショート・カクテルのバンブーを頼んだ。すると、Kさんは、ボトルを3本用意した=写真上から3枚目。 通常、バンブーはドライ・シェリーとドライ・ベルモットだけを使う。しかしこの日、Kさんはシェリーをフィノと長期熟成のオロロソという違うタイプの2種を用い、オロロソは隠し味的に使った。なんと心憎いパフォーマンス!(写真左=Kさんとの2ショット)。 Kさんは現在、北京でもう1店、お店を営む(そちらは中国人店長に任せている)。そして、なんと近々、シンガポールにも3店目を出す計画という。「4年後くらいにはロンドンにも店を出したいという夢があるんです」と語るKさん。夢もグローバルで、スケールが大きい。 日本人バーテンダーは昨今、その技術や丁寧な仕事ぶりで、国際的にも高い評価を受けている。日本人バーテンダーは、Kさんのように、もっと世界へ目を向ける時なのかもしれない。 この夜は僕らは4人で訪れ、他にもフルーツ・カクテルも何種類か頂いた。僕にはさらにKさんからのサービスで、台湾のウイスキー蒸留所が造ったという珍しいモルト=写真右=もいただいた(味わいやクオリティの高さは、日本やスコットランドにも引けを取らないと感じた)。 楽しい時間はあっという間に過ぎた。心地よく、しっかりと酔いしれた。でも、もうお別れしなければならない時間だ。まだまだ何度もここに来られる友人夫婦が羨ましい。 僕は最後に、Kさんと店の前で一緒に記念写真を撮り、再会を約束した。ちなみにKさんは神戸出身なので、日本に帰れば神戸にもよく立ち寄るという。今度は神戸で会えれば嬉しいと思う。Kさん、心温まるおもてなしを本当に有難う! 今度は僕がBar・UKでおもてなしする番ですね(笑)。ぜひお越しくださいませ! <次回10回目は番外編>こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2013/11/13
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今回は北京3日目の昼、夜の食事について書く。旅行中の食事はずっと中華だが、不思議と飽きることはない。 昼は、北京に来て初めて飲茶の店を選んだ(正確に言えば、北京在住の友人夫婦が選んでくれた店というのが本当だが)。その名は「衡山小館」という=写真左。 元々は上海発祥の店らしいが、北京市内でも2軒の支店がある。ランチタイムにはいつも満席になり、行列ができる人気店だという。結論から言えば、僕がこれまでの人生で食べた飲茶の店でも、間違いなく五指に入る美味しい店だった。 文章であれこれと説明するよりは、食べた飲茶の数々を見てもらうのが一番いいと思う。写真の1枚目(左上)は、「赤カブの酢漬のキュウリ巻き」。きゅうりの皮を薄くむいたもので巻いた、この店の名物とのことだが、酸味がさわやかでビールにとても合った。 さて、北京最後の夜は、やはり、これを食べずして北京を去れないということで、北京ダックの専門店へ。当たり前だが、北京には北京ダック専門の料理店がたくさんある。 清の時代から続く老舗があると思えば、スタイリッシュな雰囲気の人気店も次々と生まれているという。その中で、友人夫婦が選んだのは、比較的最近にできた新しい、おしゃれな店。友人自身も、「噂には聞いて一度行ってみようと思っていた」が、まだ未訪問という店。 店名も「Duck De Chine 1949 The Hidden City 三里屯」=写真左=という長い、風変わりな名。店の外観も、入り口に兵馬庸が立っていたりして何やらミステリアス。内装も目茶おしゃれで、客層はほとんどが北京在住?の外国人。いやでも期待が高まる。 ここでも説明するより食べた料理を写真で紹介しようと思うが、最初の1枚(左上)は、従業員が目の前でつくって用意してくれた北京ダック用のタレ。何とアーティスティックなタレ! 小皿に2色(種類)のタレを入れ、その皿をテーブルの上で回す。すると、こんな文様に。このパフォーマンスを見るだけでも、この店に来た甲斐があったと思った(なんてちょっとオーバー?)。 <次回へ続く>こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2013/11/11
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北京3日目の観光は、映画「ラスト・エンペラー」にも登場した皇帝の祭祀の場、「天壇」と、皇帝の庭園兼離宮、「頤和園(いわえん)」へ行く予定だった。 ともに世界遺産に認定されている北京を代表する観光スポット。しかし、この日はあいにく朝から雨、加えて、北京名物の交通渋滞がとくにひどい。頤和園は市内中心部から車でスムースに行っても1時間ほどかかる。 この渋滞では「往復の移動だけで4時間はかかりそうだ」と運転手さん。日本の家族や友人へのお土産も買いに回る時間も見ておかなければならない(写真左=天壇公園への入り口)。 北京の友人夫婦とも相談した結果、大変残念だけれども、今回は頤和園は次回の楽しみにとっておいて、手頃なロケーションにある天壇へ向かうことにする。 天壇のある天壇公園は、天安門広場から南へ約2km。英語では「Temple Of Heaven」と表記されることからも分かるように、皇帝が天に対して祭祀を行った宗教的な場所である。 1420年、明の永楽帝が建立したとされ、明とそれに続く清王朝でも、皇帝はここで天を祭り、五穀豊穣を祈る儀式を行ってきた(写真右=天に向かって大きく開けた「圓丘檀」。最上段の中央に立つと、霊気を感じるような気持になる)。 北京の有名な観光名所は、どこもそのスケールの大きさ、広さで度肝を抜かれるが、この天壇公園も例外ではない。面積は約273万平方mというから、甲子園球場(約3万8500平方m)72個分の広さである。 入場門である南門から出口である北東の門まで、普通に歩いても、たっぷり1時間はかかる。広い公園のほとんどは緑地で、その中に伽藍のように建物が配置されている。 南のエリアに「圓丘檀」、「圓丘檀」の北側の、中央のエリアには「皇穹宇」という建物、最も北のエリアには、最も有名な建物「祈年殿」という象徴的な施設(建物)がある。 「圓丘檀」は豪華な大理石をふんだんに使って造られ、欄干や階段の数はすべて皇帝を表す「九」の倍数となっているという。 南北2つのエリアは石の広い通路で南北に一直線に結ばれ、周囲には建物もあり、大阪の四天王寺の伽藍配置に似ているような気もする(写真左=左側の建物が「皇穹宇」。祭祀の時、皇帝の位牌が置かれたという)。 広い街路の中央だけ特別な石が使われている。聞けばここは昔は、皇帝の馬車や籠しか通れなかった専用の通路という=写真右。 さて、「祈年殿」は映画「ラスト・エンペラー」にも登場したので、覚えておられる方も多いだろうが、高さ38mの円形の祭壇(建物)である=写真下左。 青色の瑠璃瓦がとても美しい特徴的な建物。そして、言うまでもなく天安門、紫禁城と並ぶ古い北京のシンボル的な建造物だ。 天壇か今の形に整備されたのは、清の乾隆年間(1736~1850)というが、王朝や民族が変わっても、先の王朝の建物を壊さず、大事に使い続けたことは特筆に値する。 そして、義和団事件(1900年)や日中戦争(1937~45年)、文化大革命(1966~77年)など数々の戦乱・動乱で破壊されなかったことを、我々は今、素直に喜びたい。 さて、天壇を後にした僕らは、古い歴史的な北京だけでなく新しい北京も見たいと思い、昼食の後、若者が多く集まる代表的なエリアである「三里屯(サンリートン)」へ移動した。 三里屯は東京で言えば、六本木、神宮前、青山と言った雰囲気の街であり、モダンなビルやブランド・ショップが並んでいる。 そして、そういうおしゃれな最新の流行が漂う街という一面だけなく、観光客向けのカジュアルな衣料品、ドラッグストア、土産物店が密集する雑居ビルもある。 そんな場所も訪れたが、シルク製品などはおそろしく安い。お土産にちょうどいい巾着袋や靴袋、ティー・マット、ワインのボトルカバーなどを購入したが、安くても品質は良い。 加えて、この雑居ビルには偽ブランド品を半ば公然と売る店もある。ここには商標権保護などという概念は存在しない。プラダやグッチ、ルイヴィトン等ありとあらゆるブランドの偽物が存在する。 「最近は当局の取り締まりも厳しくなり、公安による抜き打ち検査もある」と友人は言うが、現実には偽ブランド品がおおっぴらに販売され、繁盛している(偽物と言ってもとても丁寧な造りで、品質は遜色ない)。 値段は本物の3分の1~5分の1程度。取り締まっても、取り締まっても、買う人間がいる以上、抜け穴を探して商売をする人間も出てくる(写真右=三里屯周辺には近代的でモダンな建物が目立つ)。 中国人は、商標権や著作権等の保護を求める西欧諸国や日本による少々の圧力には屈しない。この世に欲しいと人がいる限り、彼らは「限りなく本物に近い偽物」を作り続ける。この不屈のエネルギーは、ある意味凄い。 この日最後にお邪魔したのは、僕らが旅行に行けば必ず訪れる市場。「三源里菜市場」と言い、場所は故宮から北東へ4kmほど行った辺り=写真左。 日本人も含めて在住の外国人もよく利用しているというが、観光客などが立ち寄るような場所ではないという。 ここでは肉、魚、野菜、果物、干物、お惣菜などありとあらゆる物を売っている。種類も多いし、値段も安い。友人もよくここで買い物をするという。 品質はよく分からない。新鮮なのは間違いないが、最近の中国の生産現場での現状をあれこれ聞いているだけに、安全性には若干の不安がぬぐいきれない。 友人はそんなことをいちいち気にしていたら、北京では生きてゆけないという。ただそんな友人もコメだけは日本のものが旨いと言い、一時帰国のたびに持ち帰るという。 残念ながら、食に関しては日本の方がはるかに安全で、信頼度も高い(最近のメニュー偽装の数々は論外だが…)。 だが、日本さえ良ければという考えに立つのは偏狭だ。中国の人たちにもぜひ安全な食品が食べられるように、日本人としてできることはないのかと思う(写真右=三源里菜市場内の様子)。 日本人の食が、今さら中国からの輸入品なしで成り立つとも思えない。中国各地の生産現場、飲食の現場に安全・衛生思想と技術を広め、環境対策などで技術的に支援できることはできる限り手助けしてあげることが必要不可欠だろう。我々は引っ越しできない隣人同士なのだから。 <次回へ続く> ※10回で終了の予定です。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2013/11/10
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2日目の食事については、昼、夜2軒の店のことを書きたい。まず昼食。長城に向かう前、軽く腹ごしらえをしようとお邪魔したのは、故宮から北へ約3kmほどの場所にあるレストラン。 レストランと言っても街中の繁華街ではない。その店は古い胡同(ふーとん)が建ち並ぶエリアの中、中国風の豪華な邸宅を使ったホテルの中にあった。 聞けば、ここはもと清朝末期の女帝、西太后の側近だった(「愛人だった」という説も)郵政大臣・盛宣環の邸宅だったという。それが今は、そのままホテルになり、異彩を放っている。 その名は「北京竹園賓館」(英語名では「バンブー・ガーデン・ホテル」)=写真左。その名の通り、竹を数多く配した庭園が自慢のホテルで、中国の伝統的な、中庭を囲む「四合院」という建築様式だ。 友人の勧めで、我々はこのホテルの1Fにあるレストランに入った。お昼時なのに、なぜか客は誰もいない。店員もめちゃヒマそうである。 店内は、富豪の邸宅のダイニングルームといった落ち着いた雰囲気。街の喧騒もここまではほとんど聞こえてこない。 壁には、西太后と一緒に写った盛宣環らしき人物も写真も。建物は、盛亡き後も大事に守られてきたようで、手入れもよく行き届いている。 我々は名物というジャージャー麺(写真左)、それに盛り沢山な野菜炒め(写真右上)、水餃子、シュウマイ、汁そばの五品を頼み、もちろんビール(燕京)も! 旅先で昼間から飲む酒の、なんと旨いこと! どの料理もレベルは高く、旨かった。ジャージャー麺のゴマダレはやや辛かったが、北京の人たちにとっては、これくらい味付けが普通なのだろう。 ホテルの各部屋は、中国の伝統的な邸宅をイメージした内装になっており、海外からの観光客にも人気だとか。次回、北京に来るときはここに泊るのも悪くないなと思う。 ただしこのホテル、幹線道路から正面玄関へ通じる道がおそろしく狭いのに舗装されておらず、しかも相互通行! 運転手さんもすれ違うのにひと苦労だった。 さて、夜の食事の話に移る。長城見学を終えた僕らは、2日目の夜は、伝統的かつ庶民的な北京料理の店を選んだ。 場所は、我々のホテルのある建国門エリアからも近い日壇公園の中。店が公園の中にあるのがなんとも不思議である。その名は「北京小王府」という=写真右(市内には他に系列店が3軒あるとか)。 店は北京人の家庭料理をウリにしており、肉や魚、野菜などの素材を生かした一皿が自慢というが、実際、味わってみてその通りだと思った。 我々が頼んだのは、蒸し鶏の香味ソース(写真左)、クラゲの酢のもの、エビとナッツ類の炒め物、青菜炒め2種(空心菜、ケール)、香味ビーフンの6品。 とくに野菜の種類、メニューが豊富で、20種類もの野菜をお勧めの様々な調理法(炒める、茹でる、煮る、蒸す、焼く等々)で食べさせてくれるサービスが嬉しい。 香辛料がやや強めなので、日本人にも食べやすい味かどうかは好みが分かれるところだろうが、僕には十分合格点の味わだった。 改めて思うのは、素材をうまく生かす中華料理の奥深さ。多彩な香辛料と調理法など、現地に来て初めて実感、経験できることがある(写真右=クラゲの酢のもの。クラゲは日本のものとは違って、大ぶりで歯ごたえがある)。 さて、青島ビールをひとしきり飲んだ後は、この店は紹興酒を置いているというので、ボトルで頼んだ(初日の店にはなかったので、ぜひ飲みたかった)。 友人が「ロックで飲みたいので、グラスと氷を」と伝えたが、従業員が持ってきたのは、普通のビールグラスとお椀に入った小さな数個の氷だけ。 元々、北京ではあまり飲まれていないという紹興酒だが、聞けば、普通はそのまま飲むか燗して味わうのが一般的で、ロックではまず飲まないという(写真左=空心菜の炒め物。ニンニク風味が効いて旨い)。 しかし、我々はくじけず「グラスは低めの口の広いグラスで、氷をもっとたくさん」と重ねて頼む。従業員はようやく理解したのか、その通り用意してくれた。 しかし従業員は、紹興酒に氷を入れて飲む日本人の所作を、興味深げに、不思議そうに見ている。おそらくは初めて見る光景なのだろう。 ちなみに、北京で飲食の店で働く若者は、ほとんどが広い中国各地からやって来た人たちである。従って、言葉もいちおう標準語(普通話)を話すのだが、その地方、地方の方言、なまりを色濃く反映する(写真右=エビとナッツ類の炒め物)。 中国で1年以上暮らす友人は、かなり中国語も話せるのだが、友人のきれいな標準語は地方出身者には時として通じないうえに、「(地方出身者の)なまりのきつい標準語は聞きとれない」とも言う。 まぁ北京語と広東語、上海語、福建語、四川語などを比べると、日本の標準語と東北や九州の方言の違いをはるかに超え、ほとんど外国語同士のようなものという。 だからこそ、中国政府はこの半世紀、北京で話される言葉を標準語(共通語)として全国民に普及させることに必死で努力してきたのだろう(写真左=香味ビーフン)。 その成果は確かに出て、公教育は普及し、経済は発展した。次なる国家的な目標は、言うまでもなく、貧富の格差是正、公共マナーの浸透だろう。中国がより魅力的な国となり、世界中から観光客を集めるには、それは避けては通れない大事な課題と思う。 <次回へ続く>こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2013/10/29
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2日目の午前中、故宮(紫禁城)と景山公園を見学した僕らは、午後から、いよいよもう一つの世界遺産、万里の長城へ向かった。 中国大陸の北部を東西に貫く長城を観光するには、別に北京からでなくともいいのだが、やはり北京郊外の長城が一番保存状態がよく、アクセスもいいので観光スポットとして人気だ。 もちろん、近いとは言っても一番有名な「八達嶺(パーダーリン)長城」まででも、車で高速道路を飛ばして1時間半ほどかかる(鉄道でも行けるが、時間は同じくらいかかるという)。 北京郊外にはもう一つ、観光用として「慕田峪長城」という名所もあるが、我々は初めての訪問なので、やはり一番有名な「八達嶺」を選んだ(写真左=「八達嶺」長城に登るにはまずこの門をくぐる)。 「八達嶺」へ向かう高速道路で、目に付いたのはモンゴルへ向かうトラック。そのどれもが、過積載間違いないというほどいっぱいに建築資材等を積んでいる。おまけにスピードが遅いので、高速なのに渋滞に拍車をかける。運転手さんの話だと、モンゴルは今建築ブームなんだとか。かつてはこのルートを騎馬の兵士が行き交ったのだろうか。 長城の起源は春秋戦国時代(紀元前770~)にさかのぼるという。北方の匈奴の侵入を阻止するために造られた。そして、最初に本格的な長城を築いたのが秦の始皇帝と言われる。 この長城建築プロジェクトは、漢代にも引き継がれたが、宋や元などもともと北方民族である王朝では、その必要性が乏しく整備されなかった(写真右=視野に見える長城はごく一部。山の向こうまで延々と続く)。 現在残る長城は、元を滅ぼし巨大な帝国をつくった明代に主に築かれたものである。長さは約2万kmにもおよび、日本列島の長さ(約3000km)をはるかに凌駕する。「宇宙から肉眼で見える地球上の唯一の構築物」とも言われる。宇宙からではないが、実際、僕も欧州帰りの航空機の窓から山の尾根に連なる長城を見たことがある。 ようやく「八達嶺」の駐車場に着く。平日でも中国各地や海外からの観光客が数多く訪れるので、いつも凄い混雑ぶりだと聞いていたが、我々が訪れた日はなぜか比較的すいていた。 入場門に向う坂道の途中、毛沢東の筆になる石碑があった。「不到長城非好漢(長城に到らざれば好漢に非ず)」の文字=写真左。凄い達筆。詩の一節らしいが、どういう意図でこれを書いたのかは聞きそびれた。 入場門でチケットを買って、いよいよ長城を登り始める。チケット代は大人45元(約680円)。入場口からは2つのコースがある、右へ行けばやや傾斜のゆるい「女坂」、左へ行けば「男坂」。我々は当然傾斜の緩い方を選んだ(笑)。 だが、緩いとは言っても、路面は石が敷き詰められた坂道。ところどころが階段となっており、延々と歩くと足にくる。途中200~300mくらいおきに砦があり、そこでは日差しから逃れて小休止も可能だが、そう広くない砦の中で、長く留まることはできない。 さらに尾根の長城を上へ、上へと登る。当たり前だが、北京市中心部から北西へ約50kmも離れ、標高も高いこの辺りは気温も5~10度ほど低く、風も強い。帽子は飛ばされそうになるので被れない(写真右=長城観光には寒さと風への対策が必要)。 長城に登って、遥か向こうの山々にまでつながる長城を眺めていると、改めて、そのスケールの大きさに圧倒される。よくもまぁ、皇帝はこんな馬鹿げた建築物をこんな場所に造ったものだと。 そして、長城が初めて築かれた戦乱の時代のことを思う。広い国土に群雄が割拠し、争いを繰り返し、この長城を挟んでどれほどの血が流されたのだろうかと。 現在残る長城は、ほぼ明代に築かれたものである。石造りの城壁は、高さは7~8mはあろうか。砦も部分さらに数m高い。それが尾根に延々と、何百キロという長さで築かれている(写真左=長城にはこのような砦があちこちに。ここから迫り来る北方の騎馬隊を眺めたのだろうか)。 600年も昔に、この壮大な長城を築くために、おそらくは、名もなき庶民が数多く動員され、重い石を山の尾根まで運ばされ、積み上げる作業に従事させられたのである。その建設の辛苦を思うと言葉もない。 ピラミッドも、アルハンブラも、ベルサイユなど、世界遺産として現在観光名所になっている多くの建造物は、結局のところ、名もなき職人と庶民の血と汗の労苦の結晶である。そのことを僕らはいつも忘れないようにしたい。 さて、言うまでもないことだが、この長城見物。どこまでも歩いていけるから、終点がないというか、行っても行ってもきりがない。しかし、帰りはまだ入場口まで戻らなければならない。 1時間歩けば、帰りは同じだけ時間がかかる。帰りは下り坂だが、下りは下りでまた結構きつい。きりがないので、我々は砦3つほど行った辺りで引き返すことにする(写真右=路面のところどころにこのような地下の部屋に下りる階段もある)。 長城でもやはり、日本人にはまったく出会わなかった。中国各地からのおのぼりさんか西洋人ばかりだった。日中関係の悪化は、確実に観光に影を落としている。こういう時こそ、市民レベルの交流が必要だと僕は思う。 政治や外交を絡めて、交流に障壁をつくることは決して、長い目でみて両国民の利益にならない。経済的には今や、日中(日韓も同様だが)間の相互依存は壊しようがない。政治がギスギスしている時こそ、日本人はもっと中国各地を訪れるべきだと思う。 再び北京への帰路につく。車からは再び、山の頂きに連なる長城が見えた。情報過多の現代、観光地に行って、心から感動することは、最近は少なくなったが、万里の長城は間違いなく、その壮大さがゆえ心底の感動をもたらす場所だった。 <次回へ続く>こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2013/10/22
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北京観光で誰もが必ず訪れるのが、故宮と万里の長城である。滞在2日目は、今回の旅のメーンイベントとも言える、この二大名所を訪れる。 ホテルで朝食を済ませた我々は、早速故宮へ。友人からの「見学ポイントを効率良く、無駄なく見て回るために、故宮だけはガイドを雇おう」という勧めもあり、我々は日本語に堪能な中国人ガイドさんを頼んだ。 故宮の周辺には、中国政府の中枢機関が集まっていることもあって、警備が厳重だ。いたるところ公安(警察)だらけ。制服もいるが、明らかに私服の公安もうじゃうじゃいる。 天安門から1km近く南へ離れた交差点で車を降り、そこから天安門の入り口まではだだっ広い広場をひたすら北へ向かって歩く(写真左=天安門前は中国人にとっても人気No1観光スポット)。 広場の後方には、今も遺体が保存・公開されているという毛沢東主席記念堂。左を見れば、中国の国会にあたる、有名な人民大会堂。右には中国国家博物館(写真右=あの溥儀も通った?「端門」下の通路)。 天安門前の広場は無駄に広いという気もするが、あの文化大革命で紅衛兵の若者が100万人集まったというのだから、やはり広さは必要が生んだものなのかもしれない。いずれにしてもここは数々の歴史の舞台である。 天安門の前は、長安街という広い幹線道路(10車線!くらいある)横切る。そこには横断歩道などはなく、地下道を渡って天安門の入り口ゲートまで行く。 さて、ここが第一の関門。金属探知機やX線検査機による手荷物検査がある。「荷物を持ち歩くといろいろ面倒だよ」という友人の勧めで、僕らはカメラなど最低限の持ち物だけを持ち、残りは車に預けた(友人の車には運転手も居る)。 金属探知機は問題なくクリアしたのだが、そこで警官に呼び止められた。ガイドが「観光でやって来た日本人だ」と説明しても、「パスポートを見せろ」と言う。 北京では観光客だけでなく、ビジネス等で在住している日本人でも普段、路上や駅などで公安警官から突然、パスポート提示を求められることがあるという。 持っていなければ、別の所へ連行されてややこしいことになるので、「外出の時は手放せない」と友人は言った(写真左=故宮入口の案内板。反日の空気が漂う中で、日本語での説明もあったのはやや意外だった)。 僕らは当然「あやしい人間」でもないので、パスポートはすぐに返され、「行ってよし」と目で合図された。ただし、「すみません」の一言はなし。 まぁ、付近を歩く他の西洋人とかは一切調べられていないので、日本人への嫌がらせも半分はあるのかもしれない。でも、そんなことを気にしていては観光はしてられないので、前へ進む。 毛沢東や周恩来も立った天安門の上を見上げながら、僕らは門の下をくぐる。しばらくまっすぐ歩くとまた門があり、さらに歩くとまた門のような建物がある。これが午門(写真右=故宮の中心は世界最大の木造建築・太和殿。映画「ラストエンペラー」の皇帝の即位式シーンもここで撮影された)。 「ラスト・エンペラー」での有名なシーン、紫禁城から追放される溥儀が門を出ていく場面は、この「午門」で撮影されたのであろうか。そこをくぐると、ようやく故宮への入場券売り場がある。 そして、そこでまた手荷物検査と金属探知機。テロ警戒だというが、いささか過剰な気もする。ちなみに、友人の話だと、北京市内のすべての地下鉄の駅の改札口でも、乗る際に手荷物検査があるという。移動するにも、実に煩わしい国である。 さてようやく、本来の故宮への入り口を越えた。広大な故宮は、丹念に見ていたら3時間も4時間もかかる。我々には2時間くらいしか余裕がない(写真左=故宮内の大きな建物の内部には、必ずこのような皇帝用の玉座がある)。 ここでガイドさんがこう言った。「故宮の宝物が見たいのか、それとも建物や歴代皇帝や皇后の暮らしぶりが見たいのか、どちらかに重点を置いた方がいいと思います。宝物は実際、台北の故宮博物院の方が良いものを所蔵している」と。 我々は「台北の故宮博物院へは以前行ったある」とを告げ、建物や暮らしぶりを重点にガイドしてもらっていいと言った。ガイドは「分かりました。じゃぁ、そうしましょう」と言って、ツアーはスタートした。 故宮にある現在の紫禁城は、明代に建てられ、幾度も増改築を繰り返してきた。漢民族の明から、次に王朝を奪い取ったのは満州民族の清だった。 清朝の時代は、ここで十二代の皇帝が暮らした。現在の紫禁城は、おおむね清の時代の姿をとどめているが、明代の名残もあちこちに見られる。 面白かったのは、城内の小さな建物や門の看板に、しばしば漢字と満州文字が併記されていたこと=写真右。多民族、多言語の中国だが、王朝が変わるたびに政権の公用語も変わったのであろうから、宦官や一般の役人たちも大変だったに違いない。 さて、紫禁城と言えば、やはり西太后(せいたいごう)である。清朝末期、幼い傀儡(かいらい)の皇帝を皇位に付けて、裏で政権を牛耳っていた事実上の女帝。 我々を案内したガイドさんも、日本人にも馴染み深い西太后の居住エリアを詳しく説明してくれたが、土間にじゅうたんが敷かれただけの、意外に小さく質素な建物が多い。冬が厳しい北京でこれでは、室内も相当寒かったのではと思う。 洋風のベッドもシルクを使っているが、めちゃくちゃゴージャスという風ではない。かつて見たベルサイユ宮殿のマリーアントワネットの部屋の方がはるかに豪華だ。 紫禁城の、いわゆる皇帝のプライベート・エリアは建物がやたら多くて、広い。小さな建物が幾棟も連なり、道は軍事上の理由からか、迷路のようになっている(写真左=西太后のプライベート・エリアは意外と質素だった)。 唐の時代から、「後宮の佳麗三千人」としばしば言われる。一般庶民から選ばれ、あるいは指名されて宮廷に上がり、そしてここに住まわされて、皇帝の子供を生み、短い命を終えた女性も多いだろう。部屋の数だけ様々な人間ドラマがあったはずだ。自分の人生はまがりなりにも自分で決められる現代に生きる我々は、幸せに違いない。 さて、駆け足の故宮見物を終えた我々は、故宮のすぐ北側にある人口の山、「景山公園」へ。高さ43mの山(海抜は約100m)がまるまる公園になっていて、あちこちに東屋(あずまや)が建てられている。 この公園は、故宮・紫禁城を上から見下ろして眺めたいという皇帝の命で造られた。皇帝に倣って山の頂上から紫禁城を見る。黄金の甍(いらか)が限りなく美しい。洋画家・梅原龍三郎が描いた「北京秋天」という名作があるが、それがまさしくこの光景である。 我々が登ったのは正午すぎ。残念ながら逆光であった。夕陽を浴びた紫禁城の方がより綺麗に違いない(写真右=景山公園から見た故宮。逆光だったのでこの美しさは伝えきれないが、甍は黄色に輝く)。頂上へ行きつくには少々時間はかかるが、景山公園から眺める価値は、十分すぎるほどある。言いすぎかもしれないが、「ここ(景山)から紫禁城を見ずして北京を語るなかれ」と言いたい。 <次回へ続く>
2013/10/15
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北京市内は広い(東京23区内とどちらが広いだろうか?)。到着初日に歩き回っていたら、お腹もすいてきた。滞在中はすべて中華で貫徹するつもりだが、中華料理と言っても、広い国土もあって実に幅広く、奥が深い。初日の晩御飯は雲南料理の店となった(というか、今回は3回の晩飯は、すべて友人夫妻にチョイスをお願いしている)。 雲南料理と言えば、もちろん雲南省(地方)の料理なのだが、僕ら日本人は、場所もよく分からず、昆明という名の省都の街の名前くらいしか知識がない。 地理的には中国中央部の最南部、ベトナム、ラオス、ミャンマーと国境を接する広大な省で、漢族が多いが、様々な少数民族も住むバラエティ豊かな地域である。 この店、名前が「Lost Heaven」(写真右)と変わっている(名前の由来は聞き損ねた)。場所は天安門からすぐそば、かつての米国大使館の建物&敷地を利用した一見、高級そうなお店(敷地内の他の建物もフレンチなどのレストランに変身んしている)。 道路から入る玄関は元・大使館らしい門構え。いちおう門番によるチェックがある。お店の雰囲気も素晴らしく、おしゃれなので、初めて食べる雲南料理への期待はいやでも膨らむ。 雲南料理はすぐ北に四川省という地理的な影響もあって、四川料理と同様に唐辛子を多用するものが多いとのことだが、山が多いことからキノコ類の種類が豊富なのも特徴という。 我々が頼んだのは、前菜キノコがいろいろ入った春雨サラダ、雲南風のチヂミ、宣威火腿(雲南ハム)、汽鍋鶏という鶏のあっさりしたスープ、それに雲南風の焼き飯&焼きそば(ただし、この二皿はそれほど個性的な味ではなかった)。 そしてお酒は、ビール(ここでは青島=チンタオ)とワイン。北京ではこの後もそうだったが、なぜか、中国産ビールはほぼ「青島」か「燕京」の2種しか置いていないところが目立った。これだけ広い国だから、もう少し種類があってもよさそうと思ったが。 そして意外な発見は、雲南料理には白、赤のワインがとても合うこと! 僕らはボトルで頼んで、4人で2本開けた(それはそうとこの店、なぜか紹興酒は置いていなかった。友人の話では、紹興酒は北京で置いていない店も結構多いとか)。 気が付けば、テラス席も含めて店内はほぼ満席状態でにぎやかだ。客はやはり西洋人のグループが目立つ=写真右。ここが中国国内であることを一瞬忘れそうになるが、一方で身なりの良い中国人の若いグループやカップルも見えるので、これが2013年の現実なのかもしれない。 ちなみに、北京の飲食の店では地方出身の若者が働いていることが多いため、英語だけでなく中国の標準語(北京普通話)も通じないことがあるという。実際この日も、地元に住む友人の中国語がよく通じないスタッフがいた。国が広いというのは面白い。 地元では人気のレストランなのだろうが、日本で言えば、東京の永田町、霞が関のど真ん中に、こんなおしゃれなレストランがあるのがなんとなく不思議だ。 しかし、場所柄とは関係なくお値段は意外とリーズナブル(飲んで食べて5000円もあれば十分か)。北京に行かれたらぜひ、この店はお勧めしたいと思える店だった。 食事を終えた我々は、このレストランからすぐそばのビルの最上階(と言っても3階建だが)にあるバーへ移動。「Capital M」という名のこのバーも実に素晴らしい。 この店もやはり、客層は西洋人か、セレブっぽい中国人が多い。スタッフにも白人が目立つ。今は、一般庶民には無縁の場所なのだろうが、20年後の北京は果たしてどうなっているのか、興味がわく。 僕らは最上階のテラス席を選んだ。席からは、昼間見た「正陽門」がライトアップされて、最高の眺めだ(写真右)。他にも多くの歴史的建造物が、夜はライトアップされている。 歴史的な建物だけでなく、幹線道路交差点の分離帯等もライトアップするような、観光客へのサービス精神は少し過剰かとも思うが、北京市当局の努力は大いに評価したい。 帰り際、お店の名刺をもらって分かったが、このバーは、数年前上海の旧租界(外灘)でお邪魔したバーと同じ系列。道理で内装などのセンスの良さも納得した。お値段もリーズナブルだし、ここもぜひ北京観光の夜の締めくくりにお勧めしたいと思う。 <次回へ続く>こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2013/10/07
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さて、建国門駅近くのホテルにチェックインした僕らは、早速友人らの案内で、北京市内観光へ。とりあえず向かったのは、北京の北西に広がる、市民の憩いの場「前海」「后海」というエリア。 「海」という名だが、ここは中国の王朝が人工的に造った池である。今では、市民がそこでボート乗りを楽しむ。池の周辺には、古い胡同(フートン)【注1】を生かして再開発したショッピングエリアもある。 付近には、明の時代の鐘楼=写真左、元の時代の鼓楼という歴史的建造物も残り、観光名所にもなっている。日曜日ということもあって、家族連れやカップルなど人出が凄い。西洋人の外国人観光客も目立つ。 しかし、なぜか日本人らしき観光客はほとんど見かけない。上海や香港には日本人はそこそこ訪れているが、首都の北京には今なお少ない。 友人の話によれば、昨年端を発した尖閣問題、靖国参拝問題での政府間対立以来、日本からの観光旅行が激減しているのだという(写真右=ボート遊びが好きなのは世界中どこでも同じ)。 表面的には友好的だった北京市民だが、確かにひと頃は、買い物の際、日本人というだけで白い目で見られたり、無視されたりということもあったという。 現在は、反日デモもほとんど見られず、いちおう平穏な日常を取り戻している。ショッピングエリアをそぞろ歩く我々が、白い目で見られることは皆無で、居心地の悪さを感じることはまったくない。 現地の人々は、「(僕らを)明らかに中国人ではない。たぶん日本人か韓国人だろう」という程度の認識だろうが、買い物をしても、普通の観光客として接してくれる。 いったん広がった風評はなかなか消えない。日本で「現地は安全だ、観光もOKだ」とPRしても、なかなか客足は戻らない。 北京は首都であり、今や国際的な近代都市だ。インフラ(都市機能)はまだまだ不十分だが、決して危ない戦場でもない(写真左=「前海」「后海」エリアのそばにある「胡同」は賑やかなショッピング・ストリートに)。 大気汚染もあるけれど、ずっとここに住むわけではない。旅行で短期間滞在する健康的リスクなど、ヘビー・スモーカーが肺がんになる愚に比べればどうってことはない。 僕はむしろ、どこの国であれ、行ってみたいと思うなら、現地にやって来て自分の足と目で確かめることが今は必要ではないかとも思う。 国家や政治家は何かと問題を起こして、対立することもある。過去の歴史は、もちろん正しく認識しないといけない。加害も被害も忘れてはいかない。 しかし、よく言われることだが飛行機に乗って、空から見る地球には国境線などない。領土をめぐり国家同士が武力で争うことなど、実にバカバカしいことに思えてくる。 僕には中国人の友達も多い。いつも信じているのは、国同士がどうこうというより、一個人同士の友好とか、友情とか、信頼とかいうものの方がはるかに大事だということだ。国の方針とか価値観と個人が同じである必要はない。 国家がいがみ合っても、人間同士がケンカする必要はないと思っている。逆に、国家がケンカしている時ほど、僕はかえって仲良くしたいと思う。さて、「前海」「后海」エリアを後にした僕らは、今度は天安門広場から真南へ1kmの辺りへ移動する=写真右上。 ここには、北京・故宮の最も南にある「前門(正式名称は「正陽門」)」という歴史的建造物がある。北京城の遺構でも、十五世紀の明代の城門は北京市内でもあまり残っていないが、この城門は貴重な建造物である。 そして、その「前門」の南側に広がるエリア「前門大街」が、ここも見事なテーマパークなような、おしゃれな繁華街に生まれ変わっている。ここも家族連れやカップルであふれんばかりの人だ(写真左=「前門大街」の街並み)。 二階、三階建ての石造りのレトロなビルが目立つが、おそらくは1920年代前後に造られた建物を再利用したものだろう。おしゃれなエリアを創るにしても、いちおう歴史と伝統は大切にする姿勢は評価したい。 SWATCH、ユニクロ、ハーゲンダッツなどのお店もそうしたレトロま面構えで迎えてくれる。中には、老舗の北京ダックの専門店やシルクの専門店も。 シルクの老舗は、「1949年、中国人民共和国建国宣言時の五星紅旗(国旗)はうちの店で作ったもの」とPRして、レプリカを店頭に展示している=写真右。他にも、西大后が愛したというカモ肉料理の店とか由緒ある店も。 この「前門大街」に代表されるように、古い時代の北京の街並みは、急速に姿を変えてゆく。それが良いことかどうかは、部外者が言うべきことではない。しかし、昔の面影を残す北京もまだまだ数多く残る。月並みな言葉だが、古さと新しさが同居しているのが、今の北京だろう。 <次回へ続く>【注1】胡同:北京市の旧城内を中心に点在する伝統的家屋が集まるエリア。細い路地に面して、「四合院」という名の共有の中庭を持つ四軒長屋が一つの単位となった家屋が多い。古き良き時代の中国の面影をしのばせているが、近代化に伴う開発で次々と姿を消しつつある。現在では観光名所として保存されている地区もある。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2013/10/04
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日本にとっては、近くて遠い存在。そして、隣国だけれど、近年の過去の歴史もあって、複雑な感情を抱く。それが、今や世界第二のGDPを誇る大国・中国という国だろう。 かつては遣唐使も向かった、日本が教えを乞う国であった。漢字を生み出し、仏教も日本に伝えた。麻雀というゲームは大衆の娯楽として定着し、21世紀の今なお、中華料理は我々の食生活の一部となっている。 どんなに嫌いでも、お互い、地理的には引っ越しはできない隣国。仲良くしていくしかない。話し合って、理解し合って、解決していくしかない(写真左=北京首都国際空港。大阪(関空)からは空路でわずか3時間。時間的距離はまさに「近くて近い国」だ)。 万一、難しい問題が起きて、一触即発の事態になっても、軍事力という力でぶつかり合う愚は、1945年でもって終わりにすべきだろう。そうでなければ、人類は成長・進歩したことにはならない。 2013年秋。僕は連れ合いとともに三泊四日で、友人夫妻が暮らす中国・北京を訪れた。中国語文化圏は、台湾も含めると5度目(上海、香港など)であるが、首都・北京は初めてである(写真右=建国門そばのホテルの部屋から見た北京市内)。 北京は何よりも四千年の歴史の都。名所旧跡には事欠かない。中国全土から集まる食の楽しみもある。好奇心と期待をいっぱいに抱いて、僕らは首都国際空港へ降り立った。 首都国際空港から北京市内中心部までは、車で1時間弱。近代国家と変貌した中国では、高速道路網が急ピッチで整備されている。2008年の北京五輪が終わった後も、開発はなお続いている。 地下鉄網は20路線も整備され、高層ビル、マンションも建設ラッシュ。中国全土から仕事を求めて、多くの人々が流入し、人口も2000万人を超えたという(写真左=習近平・国家主席ら政府要人が居住するエリア「中南海」の入り口。警備は厳重なので、隠し撮りで1枚)。 しかし、経済発展と人口膨張に伴って、マイカーがこれほど急増するとは、政府や北京市当局も予想外だっただろう。かつての自転車、バイクに代わって、今や北京も道路はマイカーで埋め尽くされている。 増えすぎたマイカーに道路網の整備が追い付かず、地下鉄網が整備されても、世界で最も深刻な都市と言われる交通渋滞はなかなか改善されない。交通マナーも国際的な基準には追い付かない。 さらに、近年国際的にも大きな問題となっている大気汚染。周辺工場の排煙対策の不十分さに加えて、多くの家庭がいまだに化石燃料を使っていることや、急増したマイカーによる排気ガス(写真右=天安門広場そばの路上に残るこの黒い部分。1949年、中華人民共和国建国記念式典で集まった数十万の人民のためのトイレの跡=穴だったところに蓋をした=という)。 北京で青空が見える日は、今や「4日に1日あればいい方」とも聞く。急速な発展にインフラ整備や環境対策が追い付かないというのは、まさに40年前の日本の姿に他ならない。日本は深刻な公害被害から学び、数多くの犠牲は伴ったが、なんとか克服した。 日本が、中国へ漢字や仏教など様々な文化伝来への恩返しをする機会や能力はたくさんあるはずだが、今や大国となった中国には、日本の力を借りるなどは、そのプライドが許さない。かくして中国は、いびつで急速な発展の中で、もがき苦しみ続けている。 さて、長い前置きはともかく、僕らはそんな中国の現実をしっかりと見つめながら、友人夫妻との旧交を温め、市井の人びととも友好を深め、世界屈指の文化遺産の数々を、自分たちの目で見るという貴重な時間を楽しむことにする。 <次回へ続く>こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2013/10/02
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久々に、大阪の庶民の街・新世界を探訪しました。通天閣、串カツ、スマートボール、釣鐘まんじゅう、通天閣歌謡劇場、大西ユカリ、フグのづぼらや、澤野工房、Bar・BABY、大衆演劇…。 いろんな顔を持つ新世界。貴方にとっては、どんなイメージですか? 確実に言えることは、昔に比べて治安は格段に良くなって、夜、女性だけでも安心して歩ける街になったということです。これはいいことです。 近代化とか進化とかとは対極にある街。変わらないこと、昔のままであり続けることに意味を感じる街。もっと多くの人に訪れてほしいです。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2013/04/20
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「ひと目千本」。日本一の桜とも言われる吉野に生まれて初めて行ってきました(4月12日)。関西に住んでいながら、恥ずかしながら、この歳になるまで、ほんとに初めてでした。 例年なら吉野は満開の時期ということですが、残念ながら、今年は下千本、中千本は落花盛ん状態。でもまぁ、それなりに日本一の桜を堪能できました。それにしても凄い人出でした。メインの通りはラッシュアワーの地下鉄並み。外国人観光客が多いのにも驚きました。 なお、下千本~中千本のエリアはマイカー通行禁止にしているのは当たり前ですが、結構人通りが多い中千本~奥千本のエリアにはマイカーの通行を認めているのは、めちゃくちゃ腹立たしかったです。 地元の住んでる人ならともかく、明らかに観光で来ている他府県ナンバーの車が狭い通りを傍若無人に走りまわるのは不愉快千万です。地元住民の許可車以外は、一切通行禁止にすべきだと思います。 写真は遠くに眺めた吉野の山(これが奥千本なのかな?)です。全山満開の時期にまた来てみたいです。
2013/04/13
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関西に住んでいて、今頃?と笑われそうですが、先日、生まれて初めて、連れ合いと一緒に嵯峨野のトロッコ列車に乗って亀岡へ行き、帰り(亀岡→嵐山)に保津川下りを楽しんできました。 大阪からだと、まずJRで京都へそこで山陰線に乗り換えて、嵯峨嵐山という駅まで向かいます。各停でも約20分弱です。嵯峨嵐山駅のすぐそばにトロッコ列車の嵯峨駅があります(写真左)。 平日なので指定券の切符はすぐ買えましたが、紅葉シーズンだと予約しないと乗れないそうです。早めに行ったので、一番いい窓のない最後尾の列車に乗れました。ちなみに、保津川下りの切符もトロッコ嵯峨駅で買えます。 トロッコ嵯峨駅から終点のトロッコ亀岡駅までは約30分。窓がないので心地よい風が吹き込んできます。眼下の川には保津川下りの船も見えます(写真右)。 列車は時速40km?くらいのゆっくりしたスピードで進み、途中、撮影ポイントの鉄橋ではわざわざ列車を停止してくれるサービスも。嬉しいですね! そうこうしているうちに亀岡駅に到着。ここでバスに乗り換え、15分ほど走るとそこが保津川下りの船着き場(出発場)です。 救命胴衣の入ったベルトを着けさせられて、いざ乗船。船の乗客定員は27名です。一艘の船は3人(漕ぎ手、舵手、サオ担当)で操船します。 嵐山までの乗船時間は川の水かさによって変わるそうです。水かさが多いと1時間弱。水かさが少ないと2時間とのこと。この日は「1時間40分くらいでしょう」と言われました。 保津川下りはただし、同じく観光川下りで有名な天竜川や木曽川、熊野川のような急流ではありません(行かれた方からも事前に聞いていました)。行程の半分くらいは穏やかな流れです。 スリルのある箇所も途中10数カ所はあって、水しぶきが飛び込んでくることもありますが、怖さを感じるというほどの落差、速さではありません(写真左)。 川では、ゴムボートでラフティングを楽しんでいる若者グループもちらほら(気持ち良さそうです)。漕ぎ手の方は途中、出合う鳥たちの名前や、変わった岩などをいろいろと丁寧に教えてくれます。両岸では、運が良ければシカと出合うこともあるそうです。岸辺にはシカの足あともはっきり見えました。 ちなみに、下った船は今はトラックに積んで出発地点まで戻しているそうですが、昭和20年代までは、人力で川岸から引っ張って戻したんだとか。昔の方の苦労を思います。 外国人観光客も結構多かったのには驚きました(写真右)。とくに中国人の団体客はどこへ行っても目立ちました。もちろん、尖閣問題があったとしても、そこは大人の対応です。スタッフも他の日本人乗客も普通に温かく接します。 嵐山にもうすぐ着くという直前に、売店船が横付けされます。ビールやおでんやイカ焼き、みたらしダンゴなどを販売しています(写真左)。僕らは晩御飯は大阪・天満で寿司屋を予約しているので、ここは我慢。 船は予定通り、1時間40分で嵐山に到着。晩御飯までにはまだ時間があるので、あえて京福電鉄で四条大宮まで出て、そこから四条河原町までとことこ歩きました。途中、4時半頃、馴染みのBar・Rocking Chairがもう開いてるはずだと立ち寄りましたが、「開店は5時で、まだ30分もある! 4時じゃなかったのかぁ…」と思わず叫ぶ。あぁー残念! 大阪への移動時間を考えると、5時までは待てないので、仕方がなく近くのカフェでビールを一杯だけ飲んで、河原町から阪急で梅田へ。途中、淡路で地下鉄・堺筋線に乗り換え、天神橋筋六丁目で下車しました。いやはや、1日で相当な移動距離だなぁ…。 晩飯は、以前から行ってみたかった天満(てんま)の評判の寿司屋さん「かい原」。天満市場からも近く、大将が1人でやっててカウンター9席。いつも繁盛しているから、営業中にかかってきた電話もとれないほど忙しいという(写真左=メネギのにぎり、美味!)。 この夜はおまかせコース(3800円=10貫+前菜2品、小鉢1品)にさらに3~4品ほど追加して、酒を3杯ずつ計6杯飲んで、2人で13000円。キンメの焙りとかネタも凝ってて、コスト・パフォーマンスも最高。こういう店はあまり教えたくないなぁ、ほんまに。 という訳で、めちゃ充実した1日でした。天満は久しぶりに歩いたが、しばらく来ないうちに、そそられそうな美味しそうな店がいっぱい増えている。また近いうちに食べ歩きしたい!【かい原】大阪市北区池田町5-4 電話06-6351-7080(大将1人でやってるので、営業時間中はすぐ電話に出られないことが多いとのこと) 午後5時~10時 水曜定休こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/09/16
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