全12件 (12件中 1-12件目)
1
マスターが企画・制作に協力したゲームソフト「エンパイア・オブ・シン」が発売されて約2カ月が過ぎました。マフィアが暗躍した米国の禁酒法時代(1920~33)。その中心地でもあったシカゴを舞台にした異色の戦略シミュレーション・ゲームです。そこで、発売時にマスターが制作スタッフ側から受けたインタビューを、改めてゲームソフトの宣伝ページから紹介してみたいと思います(以下、ゲームのWEB宣伝ページで紹介されたインタビューからの転載です。今回、このBar UK公式HP&Blogに掲載にあたって少し補筆しました)。 この『エンパイア・オブ・シン』では、敵から奪った金や施設をもとに密造酒を作り、「もぐり酒場」や「裏カジノ」などに卸すことで巨万の富を築き、暗黒街の支配者を目指していきます。お酒に関する事柄が、ゲームを進めていく上で重要な要素として盛り込まれているのです。1920年代の米国といえば、有名な「禁酒法」の時代。この時代だったからこそ、お酒は多くのマフィアの資金源となりました。果たして、「禁酒法」の実態とはどのようなものだったのでしょうか。 今回、この禁酒法を「お酒」のエピソードから紐解き、『エンパイア・オブ・シン』の時代設定をより深く楽しみ、理解するべく、カクテル史研究家にして大阪・北新地の「Bar UK」のオーナー・バーテンダーでもあるマスター(荒川英二氏)に取材を敢行しました。本記事が『エンパイア・オブ・シン』へ興味を持つための一助になれば幸いです。 *******************************************************――今日はよろしくお願いいたします。まず最初に、マスターのプロフィールをお聞きできればと思います。マスター 大学を卒業した1977年から長らく新聞社に勤めていたのですが、仕事の傍らバーへよく通っていました。その後、バーを通して様々な方たちと親交を深めていく中で、40歳くらいから、「定年後に自分でバーをやってみたいなぁ」という夢を漠然と思い抱くようになりました。 新聞社勤めからなぜ接客業に?とよく聞かれるのですが、新聞記者も取材相手と会って信頼を得ないと、いいネタがとれない=いい記事が書けないという仕事なので、ある意味接客業みたいなものなのです。だから今、カウンターの中に入っていろんなお客様と接することに、まったく抵抗はありませんでした。 記者や編集者の仕事をしながら開業資金を毎年少しずつ貯め、ウイスキーのボトルも少しずつ買い集める一方、お酒やカクテルの歴史も個人的に勉強・研究して、ブログなどで発信するようになりました。禁酒法時代のことも、そうした勉強・研究の中で学びました。 バーの切り絵で知られる故・成田一徹氏とは、私が20代後半の1982年に出会って以来、彼が亡くなる(2012年)までの30年間、ずっと親しい飲み友達でした。そして、成田氏に背中を押される形で、ちょうど60歳になった2014年に自分のバーを開きました。今年でちょうど8年目ですね。店は一人で営んでいます。当たり前ですが、バーテンダーとしての仕事からトイレ掃除まで、なんでもやっていますよ(笑)。――バーテンダーとしてのスキル的な部分も、お酒の勉強をする中で身につけていったのでしょうか。マスター そうですね。独学で学びながら、仲の良い神戸のバーのマスターに時々教えてもらって修業していきました。ちなみに、バーテンダーを「バーテン」と呼ぶ方も居るかとは思いますが、これはバーテンダーという職業を「一段低く見てきた時代の蔑称」なので、嫌がる同業者もいます。現在のバーテンダーはみんな、自分の仕事に誇りやプライドを持っています。「バーテンダー」と正しく呼んでもらえると嬉しいです。――なるほど、気をつけます。では早速『エンパイア・オブ・シン』の舞台となっている「禁酒法」の時代についてお話を伺えればと思います。マスター 「禁酒法」(The Prohibition law)という名前自体は有名ですが、その実態については知られていないことも多いようです。「禁酒法」というのは米国で1920年~1933年まで、約13年間も続いた法律ですが、その成立の背景には、1914年に勃発した第1次世界大戦の戦争準備があります。戦争に備えて法律で飲酒を禁止し、労働への意欲を高めなければならないという動きが1910年頃から起こってきました。 そして元々「酒を飲むことは罪悪」と考えていた敬虔なピューリタン(清教徒)の影響があったと言われています。米国は様々な国からの移民で出来たのですが、英国からの移民であるピューリタンが「反飲酒運動」で強い影響力を持っていたことも大きかったと言えます。 もう一つの背景には、当時米国の酒造業界で主流だったビールやバーボン、ライ・ウイスキー業を牛耳っていた人たちにドイツ系移民が多かったこともありました。どういうことかというと、第1次世界大戦では米国はドイツを敵国として戦うことになります。そこから、ドイツ系移民への反感が高まり、彼らが造る酒まで憎しということになったのです。実際、戦争は1918年まで4年間続きました。このような背景から、「禁酒法」が1919年に公布。約1年の猶予期間の後、翌1920年に施行となりました。――その実態はどのようなものだったのでしょうか。名前だけ見ると、飲酒や製造は一切禁止されてるようなイメージもありますが。マスター これは意外と知られていないのですが、実際は「アルコールの製造・販売・輸送・輸出入」が禁止されていただけであって、「家庭内での飲酒や医薬品としてのアルコール販売」までは禁止されてはいなかったんです。当時、医師はバーボンウイスキーなどを、「医療用」として処方することもでき、国民は医者の処方箋さえあれば、薬局でお酒を買うことができたのです。他にも、自身で消費するための自家製ワインやシードルも禁止されていませんでした。かなり抜け穴だらけの法律だったというわけです。――ですが、当然お店で飲むのはダメだった、と。マスター 「建前上は」ダメでしたね。しかし、『エンパイア・オブ・シン』のゲームにもあるように、「もぐり酒場(スピークイージー)」という酒場が多く誕生しました。この「もぐり酒場」は、最盛期は全米で20万軒ほどあったとされ、その程度もピンからキリまでありました。 富裕層が通うホテル付属のバーや高級クラブでは、禁酒法公布から実際に施行されるまでの1年の猶予期間に、たくさんのお酒を買いだめして隠し、施行後にそれらを秘密裏に提供しました。一方、こんな高級なクラブなどには通えない庶民たちは、もっと安い「もぐり酒場」へ出向いたり、粗悪な密造酒を手にして家で飲んでいたのです。――そこまでくると、法律としてはあってないようなものですね……。マスター だからこそ、ゲーム内でも資金稼ぎの要素として盛り込まれているように、マフィアたちの裏稼業の場として使われたのです。彼らはこの法律の裏をかいてお酒を密造し、そして他国から密輸入していました。この「禁酒法」は、あくまで米国内でのみ有効だったので、主に隣国のカナダから陸路でお酒を密輸入したり、南のカリブ海の島国からは、ラムを海路で密輸していました。 しかし、これらの密輸入されたお酒は比較的高級品で、一般庶民へは密造したジンやウイスキーや、実際はそこそこアルコール度数はあるのに、見かけは「合法なアルコール度数0.5%以下」をうたったビールが出回っていたようです。――『エンパイア・オブ・シン』のゲーム内でも、アルコールは大きな要素の一つとなっていますし、飲むと健康を害するようなお酒を作っていたというエピソードも見ることができます。色々お話を聞いていると、人間のお酒への欲望の強さがわかりますね。マスター お酒(アルコール)を飲みたいという人間の欲求を法律で禁止するなど、土台無理があったんでしょうね。後世の歴史家は、「人類史上のある種の壮大な実験だった」とも言っています。ただ、米国は、最近でもトランプ氏のようなおかしなキャラクターの人が大統領にまでなってしまうなど、何かのスイッチが入ると、国民が一方向へ一斉に走り出してしまう国民性があるので、「酒を禁止する」なんて、いまの時代ならあり得ない法律でもあれよあれよと成立してしまったんでしょうね。――ゲームで描かれるのはそんなマフィアたちが蔓延(はびこ)り、もぐり酒場が軒を連ねた禁酒法の時代なのですが、逆にこの時代に発展し、今なお飲まれているお酒というのはあるのでしょうか。マスター 実はこの時代、米国内のバーボン業界、ワイン業界は壊滅的な打撃を受けましたが、カクテルは、意外かもしれませんが「もぐり酒場」を舞台にして発展していったんです。優秀なバーテンダーは禁酒法の施行に合わせてヨーロッパなどへ逃げ出していったのですが、そこまでできないバーテンダーは「もぐり酒場」で働くことになりました。 彼らは禁酒法の摘発逃れのために、「お酒に見えないようなお酒」、つまりカクテルの創造にチャレンジしたのです。「これはジュースである」とごまかせるようなカクテルや、生卵やはちみつを使ったカクテルが発展したのもこの時代ですね。――ゲーム内でも、酒を求める不審者(実際には覆面警官)に「サイダーならある」と言うシーンが有るように、お酒をお酒として見えないようにしていたと。マスター そうですね。また、この頃の一つの大きな変化として、カクテルの発展以外に、女性の酒場への進出というのも挙げられます。実は禁酒法が施行され、もぐり酒場が登場するまで、女性はあまりバーへ行くことがなかったのです。 ところが、1920年代に入っては女性が様々な場で力を持ち進出してきたということもあり、それに合わせて「もぐり酒場」へ行く女性も多くなりました。女性にも飲みやすく喜ばれるカクテルが進化した背景には、このような理由もありました。――なるほど。そういえばゲーム内にも女性のボスがプレイアブルなキャラクターとして何人か登場します。中には架空の人物もいますが、そうした背景も影響しているかもしれません。ちなみに、このとき生まれたカクテルにはどのような物があるのでしょうか。マスター 1920年代に生まれ、今でも残っているカクテルでいうと、例えば「オレンジブロッサム」などがあります。これは簡単に言えば、ジンのオレンジジュース割りのショートカクテル(【注】)です。スクリュードライバーの(ベースである)ウォッカをジンに変えたもの、というとイメージしやすいかもしれません。 他にも「アビエーション」や「クローバー・クラブ」「ブロンクス」「バカルディ・カクテル」「ロングアイランド・アイスティー」などがこの時代に生まれたと言われています。やはり時代背景もあり、ベースになっているのはジンやブランデー、ラム、ウイスキーが多くなっていますね。(【注】短い時間で飲むことを目的としたカクテル。通常は少量・氷なしで提供され、アルコール度数も高め。対になるロングカクテルは、ゆっくりと飲むことを目的としているため、量が多く氷も入り、度数も低めで提供されることが多い)――やはり当時のマフィアたちもカクテルを飲んでいたのでしょうか。マスター 飲んでいたかもしれませんね。史実ではアル・カポネが支配し、このゲームの舞台になっている「シカゴ」の名を冠するカクテルも当時からありましたから。ただ、財力のあるマフィアは、映画の「アンタッチャブル」でもそんなシーンがありましたが、より高級なお酒であるシャンパンやブランデーを飲むことの方が多かったのではないかと想像しています。――ゲームをプレイしながら、当時生まれたお酒を飲み、1920年代や禁酒法の時代に思いを馳せる、というのも良さそうですね。ちなみに、先程挙げていただいたカクテルの中で、飲みやすいものや、マッチするつまみなどはありますか?マスター 最初に挙げた「オレンジブロッサム」は比較的飲みやすく、シンプルなので家庭でも作りやすいと思います。アルコールに強くない方でも、ジンの量を調整してもらえれば弱めに作ることもできます。もちろん、氷を入れてロックスタイルで飲んでもいいと思います。シェイカーもあれば、ショートカクテルも作れるのでなお良しですね。 つまみにはチョコレートやドライフルーツ、ミックスナッツなどが合うと思います。おそらく当時も、そんなつまみを楽しみながら、カクテルを飲んでいたことでしょう。――自宅で当時生まれたお酒を楽しみながら、ゲームに浸る……。最高の楽しみ方だと思います。では最後に、マスターが考えるお酒の楽しみ方を教えていただければと思います。マスター 私自身がそうしてきたというのもありますが、ひとりでじっくり味わい、楽しむのがオススメですね。お酒そのものの香りや味などの個性、そしてお店の雰囲気を感じながら、マスターとの会話も楽しみながらじっくりと…。できれば、チェイサー(お水)を横に置いて、ストレートでゆっくり味わってみてください。こういうコロナ禍のご時世でもあるので ぜひ、バーのカウンターや、あるいは時には自宅でも、そういう楽しみ方も試してもらえればと思います。――『エンパイア・オブ・シン』もひとりでじっくりとプレイするゲームなので、マスターの考えるお酒の楽しみ方とマッチしそうですね。本日はありがとうございました。 「禁酒法」という法律は今日では悪法として有名ですが、その裏で動いていたマフィアたちや「禁酒法」という名前とは裏腹に、発展していったカクテルの動きなど、非常に興味深いエピソードの多い法律でもあります。『エンパイア・オブ・シン』は、その禁酒法の時代を舞台に、濃厚な戦略を体感できるゲームであり、同時に特殊な時代の面白さを味わえるゲームでもあります。 1920年代アメリカへ思いを馳せながら、暗黒街の頂点を目指してみるのも良いのではないでしょうか。もちろん、そのときは当時生まれたのお酒用意を忘れずに。▼Bar UKマスターが企画・制作に協力した異色のゲームソフト! 禁酒法時代(1920~33)にマフィアが暗躍した米国シカゴを舞台に繰り広げられる戦略シミュレーション・ゲーム(PS4版、SWITCH版の2つがあります)Empire of Sin エンパイア・オブ・シン PS4版価格:5600円(税込、送料無料) (2021/4/25時点)楽天で購入Empire of Sin エンパイア・オブ・シン Switch版価格:5600円(税込、送料無料) (2021/4/28時点)楽天で購入・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/04/28
コメント(0)
ひょんなことから、畑違い&場違いなマスターが(笑)、セガさんの米国「禁酒法時代(1920~33)」をテーマにしたゲーム・ソフト「エンパイア・オブ・シン」開発のお手伝い(コンセプトへの助言やPR協力など)をすることになりました。宣伝サイトには、マスターの長~いインタビューも掲載されています。完成した予告編を観ると結構面白そうなゲームなので、ご興味のある方は、ぜひご購入のうえ遊んでみてくださいませm(__)m と言っても、普段テレビゲームなどやらないマスターは「私には結構難しそうなゲームかもしれない。出来るかなぁ…」と不安顔です。商品にはSWITCH版、PS4版の両方(発売日は2月25日)があり、お値段は税別5,990円です。皆さま、宜しくお願い致します。▼Bar UKマスターが企画・制作に協力したゲームソフトです! 禁酒法時代(1920~33)にマフィアが暗躍した米国シカゴを舞台に繰り広げられる戦略シミュレーション・ゲーム(SWITCH版もあります)Empire of Sin エンパイア・オブ・シン PS4版価格:5600円(税込、送料無料) (2021/4/25時点)楽天で購入・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/03/04
コメント(0)
読者の皆様、先頃連載した「禁酒法時代(1920~1933)の米国--酒と酒場と庶民のストーリー」で一部訂正があります。 第3回の項で、アル・カポネが当時、闇ビジネスで稼いだ金額(年収)について紹介しましたが、その際、「もぐり酒場の経営などで、1927年の1年間だけで約1万5千ドル(当時の平均的米国民の年収約6倍)を稼いだ」と記しました。 しかし、その後さらに幾つかの資料にあたってみると、カポネは実際には、1927年当時、すでに年間約2000万ドルの稼ぎがあったことが分かりましたので、つつしんで訂正させて頂きます。大変大きな数字の違いで申し訳ございません。本ブログ上の本文は、すでに以下のように修正いたしております。 「カポネ自身はシカゴで約160カ所のもぐり酒場も経営し、もぐり酒場のほか、とばく場や売春宿の経営等も含めて、1925~30年頃、少なくとも年間約2000万ドル(貨幣価値が現在とは違いますが、当時平均的米国民の年収の約7700倍)の稼ぎを得ていたと言われています。」 連載を小冊子にしてお送りした皆さんには、大変申し訳ありませんが、このページか修正済みの本文の該当箇所をプリントアウトして正誤表としてお使いください。 なお1920年当時の2000万ドルは、日本円でどれくらいの価値があったかですが、日銀のHPなどによれば、1920年当時の対ドルの円レートは、1ドル=約2.5円でしたので、2000万ドルは単純には5億円となります。 しかし一方、当時の日本の公務員の平均月収は約20円だったそうですから、そう考えるとこれは当時の5億円は、今の貨幣価値だと4兆円くらいにも相当することになります。いかにカポネの稼ぎが凄かったのかを感じさせる数字です。 以上、宜しくお願いいたします。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/12/23
コメント(0)
◆禁酒法時代の米国内で生まれたと伝えられるカクテル アヴィエ―ション(Aviation)、バカルディ・カクテル(Bacardi Cocktail)、バーバリー・コースト(Barbary Coast)、ベネット(Bennett)、ブラッディー・サム(Bloody Sam)【注1】、ブロンクス(Bronx)、シカゴ(Chicago)、クローバー・クラブ(Clover Club)、コロニー(Colony)、 デュボネ・カクテル(Dubonnet Cocktail)、フロリダ(Florida)、ロング・アイランド・アイスティー(Long Island Iced Tea)【注2】、オレンジ・ブロッサム(Orange Blossom)、アンクル・サム・スペシャル(Uncle Sam Special) 【注1】ブラッディー・サムのベースであるジンをウオッカに替えたブラッディー・メアリー(Bloody Mary)も「もぐり酒場」で人気があったと伝えられていますが、ブラッディー・メアリー自体は米国生まれではなく、1910年代後半に欧州で誕生したという説もあります。【注2】禁酒法時代、テネシー州のロングアイランドという地域で誕生したという説が伝わっていますが、「もっと後世に考案された」との異論もあるようです。 ◆米国の禁酒法時代に、欧州またはカリブ諸国内で生まれたと言われるカクテル ルイージ(Luigi)、メアリー・ピックフォード(Mary Pickford)、モンキー・グランド(Monkey Gland)、サイドカー(Sidecar)、ホワイト・レディ(White Lady) ◆禁酒法施行以前に誕生していたと言われる主なカクテル アドニス(Adonis)、アラスカ(Alaska)、アレクザンダー(Alexander)、アメリカーノ(Americano)、バンブー(Bamboo)、ビジュー・カクテル(Bijou Cocktail)、ブラック・ヴェルヴェット(Black Velvet)、ブルー・ムーン(Blue Moon)、ブルックリン(Brooklyn)、カルーソー(Caruso)、シャンパン・カクテル(Champagne Cocktail)、チャーリー・チャプリン(Charlie Chaplin)、ダイキリ(Daiquiri)、エッグ・ノッグ(Egg Nog)、 フレンチ75(French 75)、ギブソン(Gibson)、ギムレット(Gimlet)、ジン・フィズ(Gin Fizz)、ジン・リッキー(Gin Rickey)、ジン・トニック(Gin Tonic)、グラスホッパー(Grasshopper)、ホーセズ・ネック(Horse’s Neck)、ホット・バタード・ラム(Hot Buttered Rum)、ジャック・ローズ(Jack Rose)、マンハッタン(Manhattan)、マルチネス・カクテル(Martinez Cocktail)、マティーニ(Martini)、 ミント・ジュレップ(Mint Julep)、モヒート(Mojito)、ニューオーリンズ・ジン・フィズ(New Orleans Gin Fizz)、オールド・ファッションド(Old Fashioned)、オールド・パル(Old Pal)、オリンピック(Olympic)、パリジャン(Parisian)、ピンク・レディ(Pink Lady)、プランターズ・パンチ(Planter’s Punch)、 サゼラック(Sazerac)、シャンディ・ガフ(Shandy Gaff)、シンガポール・スリング(Singapore Sling)、スノーボール(Snowball)、スティンガー(Stinger)、トム&ジェリー(Tom & Jerry)、トム・コリンズ(Tom Collins)、XYZ (※ただし、ブラック・ヴェルヴェット、ブルー・ムーン、チャーリー・チャプリンについては禁酒法以後の誕生とする説もあります)。 ◆追記(おまけ) サボイ・カクテルブック(The Savoy Cocktail Book 1930年刊)には、その名も「Prohibition(禁酒法)」というカクテル=写真=が紹介されていますが、著者ハリー・クラドックのオリジナルかどうかは不明です。 レシピは、プリマス・ジン30ml、リレ・ブラン(「ホワイトワイン」「キナ・ワイン」と表記する文献も)30ml、アプリコット・ブランデー0.5tsp、オレンジ・ジュース1tsp。シェイクしてカクテル・グラスに注ぎ、レモンピールします(日本のカクテルブックでは、佐藤紅霞著「世界コクテール飲物辞典」=1954年刊=で初めて紹介されています)。 ◆禁酒法時代について書かれた日本語の参考文献 ※ほとんどの本が絶版になっていますが、一部の本はアマゾンなど中古本市場では入手可能です。本稿では前書きでも書いたように、主に1、2、3を参考にしました。しかし、いずれの本もバー(もぐり酒場)については少し紹介しているものの、そこで働く数多くのバーテンダーたちや、飲まれていた酒やカクテルについては残念ながらほとんど触れていません。1.「禁酒法――『酒のない社会』の実験」:岡本勝著(講談社新書、1996年刊) →絶版(アマゾンなど中古本市場では入手可能)「高貴な理想」とは裏腹に、もぐり酒場の隆盛、密輸・密造業者の暗躍をもたらした禁酒法とは。華やかな「ジャズ・エイジ」を背景に問う内容。禁酒法時代の米国について日本人学者が著した最も一般的な本。2.「禁酒法のアメリカ――アル・カポネを英雄にしたアメリカン・ドリーム」:小田基著(PHP新書、1984年刊) →絶版(中古本市場では入手可能)。シカゴ・ギャングやアル・カポネについて比較的詳しく触れた一般向けの禁酒法解説本。3.「酒場の時代――1920年代のアメリカ風俗」:常盤新平(サントリー博物館文庫、1981年刊) →絶版(中古市場では入手可能か)。禁酒法時代のアメリカ国内の酒場や風俗、文化、そして国民の倫理感がどう変わっていったかを綴る。4.「禁酒法と民主主義――道徳と政治と社会」:板倉聖宣著(仮説社、1983年刊) →絶版(中古本市場では入手可能)。内容の詳細不明だが、やや学術的、専門的な内容か。5.「アメリカ禁酒運動の軌跡――植民地時代から全国禁酒法まで」:岡本勝著(ミネルウ゛ァ書房、1994年刊) →絶版(中古本市場では入手可能)。内容は「なぜアメリカ人は、憲法を修正してまで『禁酒』にこだわったのか、『禁酒法』とは、彼らにとっていかなる意味をもっていたのか…植民地時代から1920年代までを、禁酒運動を通じて解説する、アメリカ社会史」とのこと。学術的な研究書。6.「アメリカ黄金時代――禁酒法とジャズ・エイジ」:常磐新平(新書館、1972年刊) →絶版(中古本市場では入手可能)。内容はまだ見ていないが、著者が作家・エッセスト、翻訳家として有名な常磐氏であることから、一般向けに書かれた本か。7.「狂乱の1920年代――禁酒法とジャズ・エイジ」:大原寿人著(早川書房刊、1964年刊) →絶版(中古本市場では入手可能)。内容の詳細不明。 ◆禁酒法時代について書かれた主な英米の参考文献(英米では当然ながら、下記以外にもたくさんの「禁酒法」関連書物が出版されています→Wikipedia「禁酒法」の解説末尾の注をご参照)1.Alcohol Consumption During Prohibition/ Jeffrey A. Miron & Jeffrey Zwiebel(1991)2.Law, Alcohol and Order:Perspectives on National Prohibition/ David E. Kyvig(1985)3. The History of Alcohol and Drugs Use in the United States,1800-2000/ Sarah W. Tracy & Caroline Jean Acker(2004)4. Profits, Power and Prohibition:Alcohol Reform and the Industrializing of America,1800-1930/ John J. Rumbarger(1989)5. Prohibition:Thirteen Years That Changed America/ Edward Behr(1996)6. The Spirits of America:A Social History of Alcohol/ Eric Burns(2003)7. The Speakeasies of 1932/ Gordon Kahn & Al Hirschfeld(2003)8. Dry Manhattan:Prohibition in New York City/ Micheal A. Lerner(2007)9.Domesticating Drink:Women, Men and Alcohol in America, 1870-1940/ Catherine G. Murdoch(1998)10. The Rise And Fall Of Prohibition/ John Kobler(1993) ◆禁酒法前後のカクテルを紹介した主な英米のカクテルブック ※1、3、4、7、8はおすすめ!(本稿作成にあたっても参考にしました)。5(絶版か?)以外はいずれもアマゾン等で入手可能です。1.Vintage Spirits and Forgotten Cocktails:100 Rediscovered Recipes and the Stories behind them / Ted Haigh (2009年)2.173 Prohibition Cocktails/ Tom Bullock & D.J. Frienz (2001年)3.Classic Cocktails of Prohibition Era: 100 Classic Cocktail Recipes/ Philip Collins(1997年) 4.Speakeasy :the Employee Only Guide To Classic Cocktail Reimagined/Jason Kosmos & Dushan Zanic(2010年)5.151 Classic Cocktails:Prohibition Era 19th Century Drinks/ 著者不明(2005年)=絶版か6.The Classic 1000 Cocktails/ Robert Cross(2003年)7.173 Pre-Prohibition Cocktails/ Tom Bullock(原著1917年 復刻版2001年)8.Vintage Cocktails/ Susan Waggoner & Robert Markel(1999年) 「禁酒法時代の米国--酒と酒場と庶民のストーリー」は今回でもって終了します。ご愛読有難うございました。ご感想、ご意見、ご情報等をお待ちしております。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/11/23
コメント(0)
◆(7)禁酒法時代に生まれたスラング(俗語) 禁酒法時代に流行したスラングには、「スピーク・イージー(Speakeasy=もぐり酒場)」のほかにも、今もなおよく、バーの店名などに使われる言葉があります。例えば、「ムーン・シャイン(Moon Shine=密造酒)」。これは当局の摘発から逃れるために月夜の晩に酒を密造していたことが由来です(※ただしこの言葉は、独立戦争後の18世紀後半、ウイスキーに重税を課した政府に対抗し、山間部で月光の下で酒を密造したことが由来とする説もある)。 ちなみに密造業者のことは「Moonshiner」と言われていました。「密造酒」を意味するスラングは他にも多く、White Lightning、Skull Cracker、Mule Kick、Panther’s Breath、Happy Sallyなど数多く伝わっています。 また、今日では「禁制品」や「(レコードやCDなどの)海賊盤」を意味する「ブートレグ(Bootleg)」(「Bootlegger」だと「密輸する人」の意)という言葉も、禁酒法時代に生まれました。禁酒法に反発する国民は、密造酒を国外から持ち帰る際に、だぶだぶのズボンをはいてブーツに隠して持ち帰りました。その有様を表現した言葉といいます。 ちなみに、今日でも流通している「内側にややカーブした平たい形」のウイスキーのポケット瓶が生まれたのはこの禁酒法がきっかけです。密輸する際、ブーツの内側に隠しやすいようにとあの形が考案されたのです。 さらに、日本ではあまりメジャーな言葉ではありませんが、「86(Eighty-six)」と言えば、「売り切れ」「品切れ」「お断り」「泥酔客」(動詞として使えば「隠す」「殺す」「消す」、過去形はeighty-sixed)を意味する禁酒法時代に生まれた隠語です。 語源は諸説ありますが、手入れを避けるために表玄関からは入れないようにしたニューヨーク・ウェストビレッジのもぐり酒場「チャムリーズ(Chumley’s)」【注】=写真( ( C )Observer Com. )=の住所(Bedford St. 86番地)にちなむという説が一般的です。 なお、「スマグラー(Smuggler)」というスラングも日本でよく知られていますが(スコッチ・ウイスキーの銘柄名にも)、この言葉は禁酒法時代の米国でなく、17世紀のスコットランドで生まれたものです。イングランド王による様々な酒造規制や重い課税に抵抗するスコットランドの零細酒造業者は、密造した酒を流通させました。 彼らはいつしか、密輸出入するという意味の動詞「スマッグル(Smuggle)」から転じて、「スマグラー=密造人、密造酒運搬人」と呼ばれるようになり、これが今も伝わっているのです(なお語源は不詳です。ご情報お持ちのの方はご教示ください)。【注】「Chumley's」は1926年に開業。作家や文化人にも愛され、フォークナー、オニール、スタインベックらも常連だったという。禁酒法廃止後も最近まで営業を続け、禁酒法時代の面影を残す数少ないバーとしてニューヨークの観光名所にもなっていたが、2007年4月、店舗内の暖炉につながる煙突が崩れ落ちたため、閉鎖された。Web情報では、建物を改修した後、再開させる計画も進んでいるとあるが、ことし8月時点の情報では、まだ再開のめどは立っていないという。 【禁酒法時代の米国に続く】こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/11/20
コメント(0)
◆(6)禁酒法の終焉 禁酒法は都市部を中心に全米各地で違法な密売、「もぐり酒場」の営業などの横行を生んだうえ、ギャングによる抗争など犯罪は増えて、治安は悪化するばかりでした。また、取り締まり基準が地域(州)ごとに違ったことや、取り締まる捜査官(警官)、判事らの汚職・腐敗もあり、都市部住民からの反発が年々高まってきました。 折しも1929年10月、ウォール街での株の大暴落をきっかけに大恐慌が始まり、米経済は不況のどん底に陥りました。政財界や労働組合からは、禁酒法を廃止し、酒造業再開による雇用増や酒税徴収による予算での不況対策を求める声が日増しに大きくなってきます。 禁酒法施行中、本来得られるはずだった毎年5億ドルものアルコール課税収入分が不足し、政府の財政にも悪影響を与えたと言われています(WK)。そして迎えた1932年の大統領選では、失業対策と農民救済が叫ばれる中、禁酒法の改正を訴えたフランクリン・ルーズベルトが勝利するのです。 ルーズベルト大統領は、翌1933年3月、「ボルステッド法」(禁酒法施行の具体的内容を定めた法律)のカレン・ハリソン修正案に署名し、「容積にして4%のアルコールを含むビールと軽いワインの製造」は合法化されることになりました。 さらに憲法修正18条自体も、修正21条の成立により12月5日に廃止され、「ボルステッド法」はその役目を終えることになったのです(写真左=禁酒法廃止を伝える新聞)。 しかし、禁酒法廃止は全米一律ではありませんでした。連邦政府がこうだと決めても各州ではなかなかその通りには従わないのが、アメリカ合衆国という国の不思議なところです。ミシシッピ州が廃止したのは33年後の1966年、カンザス州に至っては、なんと、1987年まで屋内施設で酒類を提供すること(いわゆるバー営業)が許可されませんでした(WK)。 映画「アンタッチャブル」を観た方はよくご存知でしょうが、シカゴの暗黒街のボスだったアル・カポネは、エリオット・ネスのチームによる捜査の結果、1931年10月、22件の脱税の罪などで連邦大陪審に起訴されました。カポネは陪審員を買収しようと試みましたが失敗し、検察側が申請した側近の会計責任者の有力証言もあって、同年10月17日、懲役11年の有罪判決が下されました。 カポネは上訴したが退けられ、同年10月24日、郡刑務所に収監されました。刑務所から最後の望みをかけて出した再審請求も最高裁から却下され、翌1932年5月、カポネはアトランタ刑務所へ移送されます(さらに8月には、あの悪名高いサンフランシスコ湾内の孤島「アルカトラス刑務所」へ再移送されました)。 服役中のカポネは、刑務所内の靴工場の作業や風呂場の掃除係までこなしたということですが、そのうち神経梅毒の症状が悪化します。加えて、囚人たちから暴行や嫌がらせを受けたこともあって精神にも異常をきたすようになりました。 そして1939年11月16日、カポネは刑期満了前に釈放されました。釈放された時、「(カポネは)かつての暗黒街のボスという面影はなく、まったく別人のようだった」と当時の証言は伝えています(WK)(写真右=カポネが事務所兼常宿としていたシカゴのレキシントン・ホテル【注】 1994年夏、筆者写す)。 カポネはその後ボルチモアやフロリダの病院などで療養を続けました。当時最新の梅毒治療薬であった「ペニシリン」も試みましたが、病気が進行し過ぎていたため症状はあまり改善せず、1947年1月25日、48歳の若さで亡くなりました。かつて君臨したシカゴへは終生戻ることはなかったといいます(WK)。 カポネは「極悪非道の犯罪者」というイメージで見られがちですが、晩年の姿を知ると、同情を誘います。イタリア系移民の息子で、「アメリカン・ドリーム」の体現者でもあったアルフォンス・カポネは、シカゴ西方のヒルサイドという小さな町の墓地に埋葬され、現在は父母や弟たちとともに永遠の眠りについています(B)。 米国史上、「高貴な実験」と称された禁酒法は結果として、様々な矛盾や犠牲を生んで、失敗に終わりました。禁酒法が我々に残した教訓は、「酒に対する人間の基本的欲求を、宗教的・道徳的な規範で縛ることなど決してできない」「酒への欲求を法で縛れば、その抜け穴を狙った犯罪が増えるだけ」ということでしょう。。 第一次大戦での国家的危機感がゆえに、宗教的・道徳的規範が人間本来の欲求に優先すると信じた当時の米国の政治・宗教指導者たちは、今思えば愚かな人たちに見えます。国家が合法的に大衆を抑圧するのは、有権者の一時的な熱狂・妄信を後ろ盾にすればそう難しくないのです。それは、あのヒトラーが証明しています。 しかし、ワン・フレーズのスローガンに煽られて、大衆がみんな同じ方向へ一斉に走り出してしまう社会ほど怖いものはありません。かつてナチス政権登場時のドイツや、太平洋戦争に突き進んだ日本を思えば、私たちは、あの時代の米国の指導者や米国人をどれほど笑えるでしょうか。【注】カポネはこの「レキシントン・ホテル(The Lexington Hotel)」の1フロアほぼすべてを使い、様々な闇ビジネスの拠点とし、自らの住居にも使った。ホテルはその後「ニュー・ミシガン・ホテル」と名前を変え営業を続けたが、1986年に廃業した。廃墟となった建物はしばらくの間、シカゴの人気観光スポットにもなっていたが、老朽化とこの地域の再開発のため、1995年に取り壊された。現在、跡地には高層マンションが立っているという。 【禁酒法時代の米国に続く】【主な参考資料・文献】「WK」→「Wikipedia(ウィキペディア)」(Internet上の百科事典):アメリカ合衆国における禁酒法「A」 →「禁酒法――『酒のない社会』の実験」:岡本勝著(講談社新書、1996年刊)「B」 →「禁酒法のアメリカ――アル・カポネを英雄にしたアメリカン・ドリーム」:小田基著(PHP新書 1984年刊)「C」 →「酒場の時代―1920年代のアメリカ風俗」:常盤新平著(サントリー博物館文庫 1981年刊)こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/11/17
コメント(0)
◆(5)禁酒法施行が酒造業や周辺国へもたらした影響 禁酒法施行前に営業していた全米のビール醸造所(約720カ所)は、法施行後、半分以下(約330カ所)に減ってしまい(A、B、WK)、なかには食品会社に転向するところも出てきました。ただし大部分の醸造所は、アルコール分0.5%未満の「ニア・ビール(Near Beer)」という商品を売り出しました。 「ニア・ビール」と言っても、普通のビール製造工程で出来るビールのアルコール分を抜いてできる製品です。そこで、マフィアの注文に従って「ニア・ビール」というラベルを張った普通のアルコール度数のビールを製造し、闇で出荷するところも少なくなかったと言われています(A)。 バーボン・ウイスキーの蒸留所は、「医薬用」として処方されるウイスキーを細々と製造し続けましたが、それだけでは経営を維持するのは難しいため、果実栽培や炭坑事業などにも手を広げるなどしたところもありました。 なお、禁酒法時代、バーボン・ウイスキーが国外へ輸出されていたかどうかを示す史料にはまだ出合っていませんが、1920年代の欧州や日本のカクテルブックにも、材料としてバーボンが登場することから、一定量は何らかの形で国外へ輸出されていたと思われます(写真左=禁酒法時代のバーボン・ウイスキー@Rogin's Tavern )。 一方、禁酒法は米国内で発展しつつあったワイン醸造業に大きな打撃を与えました。醸造業者の多くが他国へ移住し、その後の国内ワイン産業の成長は大幅に遅れました(WK)。数少なくなったワイン業者は、自然発酵してアルコールに変化する可能性がある「固形の濃縮ぶどうジュース」の販売や、教会の宗教儀式のための合法的なワインの製造で、この冬の時代を生き延びました。 「固形濃縮ぶどうジュース」の商品には、ご親切にも、「ワインになる前にお飲みください。さもないと違法になります」「イースト菌と砂糖を入れるとアルコール発酵が進みます。お気をつけください」等の注意書が添付されていました。このジュースを購入した客の多くがそんな注意書を守るはずがなかったのは当然でしたが…(A)。一般庶民は、発酵した後の“アルコール・ジュース”を家で密かに楽しんだのです。 カナダやメキシコ、カリブ海諸国など周辺国ではアルコール飲料は違法ではなかったため、訪れる米国人の飲酒で、現地の飲食店や蒸留所・醸造所は栄えました(WK)。(写真右=密造酒の輸送中、取り締まりの警察官に摘発された車。1922年 ( C )Wikipedia 英語版 )。 とくにウイスキーを製造していて、米国と地続きだったカナダ経済はこの時代、米国への密輸出の激増で繁栄を極め、カナダ政府も輸出の際に徴収する酒税(物品税)収入の増加(1ガロン当たり9ドル)で潤ったといいます(A)。 1927年にカナダから米国に密輸されたアルコールの総量は、少なくとも約100万英ガロン=約450万リットルに相当=あったとも言われています(B)。ちなみに、消毒薬のような強烈なスモーキーな香りで有名な英アイラ島のシングルモルト・ウイスキー(ラフロイグなど)は、万一取り締まりで見つかっても、「これは消毒薬にもなり、医薬用である」と称してすり抜けたとも伝えられています。 また、17世紀(1664年)にオランダで創業したボルス社のリキュールは、米禁酒法時代に販売量を大幅に増やし、知名度が飛躍的にアップしました。その背景には、米国内に闇で流通する粗悪な酒に混ぜるためにリキュールが欠かせなかったことがあります。ボルスのリキュールは、隣国カナダから大量に密輸されたそうです。 【禁酒法時代の米国に続く】【主な参考資料・文献】「WK」→「Wikipedia(ウィキペディア)」(Internet上の百科事典):アメリカ合衆国における禁酒法「A」 →「禁酒法――『酒のない社会』の実験」:岡本勝著(講談社新書、1996年刊)「B」 →「禁酒法のアメリカ――アル・カポネを英雄にしたアメリカン・ドリーム」:小田基著(PHP新書 1984年刊)「C」 →「酒場の時代―1920年代のアメリカ風俗」:常盤新平著(サントリー博物館文庫 1981年刊)こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/11/14
コメント(0)
◆(4)禁酒法施行の前と後 ―― バー業界は、カクテル文化はどうなったか 禁酒法施行前の1890年~1920年の頃、米国のカクテル文化は急速に発展し、当時世界の最先端を行っていました。その背景には、この時期欧州各国から多数の移民が米国へ渡り、欧州各国特産のリキュールやハーブ、スパイスを持ち込み、各国の多様な文化を伝えたことも大きかったといいます。 しかし、禁酒法施行とともにホテルのバーや街場のサルーン・バー、クラブの多くは閉店を余儀なくさせられました。なかには、表向きは酒を出さないレストランに宗旨替えしたところや、裏通りに移転し、「もぐり酒場」に転向するところもありました(A、B、C)。 ニューヨーク・マンハッタンの高級レストラン・クラブだった「21Club」(今も現存)は、表向きは酒を出さない高級レストランとして営業しながら、常連客にはこっそりと酒を提供し続けました(写真左=禁酒法施行下の「もぐり酒場」の様子。女性がバーで飲む機会が増えたのも、実はこの時代だったという)。 「21Club」では店の玄関にドアマン(監視員)を常駐させ、客を装った取締官らしき人間が来たら店内に合図を送らせました。また、同じくニューヨークにあった会員制高級社交クラブ「The Yale Club(イエール・クラブ)」では、法施行前の猶予期間中に10年以上のストックをため込んだと伝わっています(A、B)。 これまで書いてきたように、法施行後、大都市ではマフィアやギャングが経営する非合法の「もぐり酒場」が急増しました。「1軒のバーが潰れると、2軒の『もぐり酒場』が生まれる」とも言われました(A、C)。(写真右=禁酒法時代には、酒のポケット瓶を足に隠して持ち歩くのが流行した。( C )Culver Pictures INC.)。 有名ホテルや街場のクラブ、バーで働いていたバーテンダーらは職を失い、別の職種に転向した者もいましたが、バーテンダーとしての働き続けるために、やむを得ず「もぐり酒場」へ移った者も少なくありませんでした(ニューヨークだけでも数万人いたとか)。 一方、当時ニューヨークで働いていたハリー・クラドック(後年の名著「サヴォイ・カクテルブック」の著者)に代表されるような志の高いバーテンダーの多くは、船で欧州やキューバなどのカリブ海諸国へ渡りました。彼らは渡航先のホテル・バーなどで働く場を得て、最新の技術・知識を持っていた米国のバーテンダーは、欧州などで高く評価され、歓迎されたといいます。 どのくらいの数のバーテンダーが米国外へ出たのかについては、現時点では正確な資料に出合っていませんが、その数は数百人とも千人以上とも言われています。結果として、当時最先端だった米国のカクテル文化が欧州に広まり、さらに発展することにつながったのは歴史の皮肉と言っていいでしょう。 意外なことですが、禁酒法時代は、カクテル文化がある種の発展を遂げた時代とも言われています。警察の目からアルコールであることをごまかすために、あるいは質の悪いアルコールの味をごまかすために、皮肉にも、フルーツ・ジュースやシロップ、リキュールを混ぜる工夫・技術が進んだのです。その結果、今も伝わるような有名なカクテルも誕生しました(例えば、「オレンジ・ブロッサム」=写真左、( C )WEBサイト「100%カクテル」から画像拝借。多謝です!=のような)。 輸入禁止となったスコッチ・ウイスキーや、医薬用以外では製造禁止となった国産のバーボン・ウイスキーに代わり、この時期、カナダ産のライ・ウイスキーやメキシコ産のテキーラ、カリブ海諸国産のラムなどが密輸入され(A、B)、「もぐり酒場」では多様なカクテルが発展していったのです。 【禁酒法時代の米国に続く】【主な参考資料・文献】「WK」→「Wikipedia(ウィキペディア)」(Internet上の百科事典):アメリカ合衆国における禁酒法「A」 →「禁酒法――『酒のない社会』の実験」:岡本勝著(講談社新書、1996年刊)「B」 →「禁酒法のアメリカ――アル・カポネを英雄にしたアメリカン・ドリーム」:小田基著(PHP新書 1984年刊)「C」 →「酒場の時代―1920年代のアメリカ風俗」:常盤新平著(サントリー博物館文庫 1981年刊)こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/11/11
コメント(0)
◆(3)禁酒法がもたらした暗黒面 禁酒法の施行後には、当然予想されたことですが、非合法なアルコール製造・販売が横行し、都市部ではギャングの経営する「もぐり酒場(Speakeasy)」【注】が急増しました。都市部の治安は悪化し、ギャング同士の勢力争いに伴う抗争・殺人事件も相次ぎました。 禁酒法時代末期のニューヨーク市では、法施行前に正規営業していたバーの数(約1万5千軒)の約2倍以上、約3万2千軒ものもぐり酒場が存在(1929年時のデータ)し、禁酒法廃止前年の1932年には、全米でのもぐり酒場の総数は約21万9千軒に達していました(A、B、C)。 とくにシカゴは、禁酒法をごまかすための「避難所(Shelter)」として有名で(WK)、アル・カポネ(Alphonse Capone)=写真左=に代表されるようなマフィア、ギャングは、違法な酒類の取引(密造・密輸入)やもぐり酒場経営で巨万の利益を得ていました。 カポネ自身はシカゴで約160カ所のもぐり酒場も経営し、もぐり酒場のほか、とばく場や売春宿の経営等も含めて、1925~30年頃、少なくとも年間約2000万ドル(貨幣価値が現在とは違いますが、当時平均的米国民の年収の約7700倍)の稼ぎを得ていたと言われています(( C )Spartacus schoolnet )。 なお、映画「アンタッチャブル」(1987年)では、ロバート・デ・ニーロがカポネを演じ、中年のような雰囲気でしたが、実際のカポネは、1925年にシカゴの犯罪組織のボスに登りつめた時はなんと、まだ26歳(!)=1899年生まれ=の若さでした。イタリア系移民の子だったカポネは、年齢や人種に関係なく、ある意味、才覚だけで暗黒街のトップにのし上がり、彼の「アメリカン・ドリーム」をつかんだとも言えます。 ちなみに、カポネを脱税で追いつめ、訴追した財務省禁酒局特別捜査チームのリーダー、エリオット・ネス(Eliot Ness)=写真右=も、映画ではケビン・コスナーが演じて、30代半ばという感じの設定でしたが、驚くべきことに、1927年の捜査チーム・リーダー就任時は、なんと24歳(!)=1903年生まれ=でした。 20代半ばにして、大きな犯罪組織のボスとなったカポネ、政府の期待を一身に背負った捜査当局の責任者となったネス。いい悪いは別にして、歴史に名を残す人物は、やはり若くして大きな仕事をするのかもしれません。 ギャングは、主にカナダ経由で密輸した正規品だけでなく、メチル・アルコール等の混ぜ物をした質の悪い酒も市場に流通させました。ギャングだけでなく、一部の市民の間では、パスタブを使ってこっそり粗悪なジンを醸造するのが流行(はや)りました。そうしたジンは市場にも出回り、「バスタブ・ジン」とも呼ばれました(A、B)。 しかし「バスタブ・ジン」は当然、味もおいしくないどころか、なかには健康に害を及ぼす製品も多かったのです。一般市民の間では健康被害(最悪、失明に至るなど)が相次ぎ、一説には、禁酒法が廃止されるまでの13年間に、全米で1万人以上の死者が出たと言われています(A、C)。 非合法のアルコール製造や密輸や販売、もぐり酒場の取り締まりに当たる米財務省禁酒局の捜査官は全米で1500人足らず(当時の米国の人口と比べれば7万人に1人という割合)で、全米でくまなく取り締まることなどとても不可能でした(A、B)。 また、州警察・検察当局や各市警では積極的な取り締まりを行わないどころか、「袖の下(賄賂)」を取って違法営業を見逃す検事や警官の数も目に余る程だったと伝わっています。なかには、自ら「もぐり酒場」の経営に参加したりする悪徳警官もいました(A)。 【注】「Speak easy」とは元来は「小声でささやく」「こっそり注文する」の意。禁酒法時代の「もぐり酒場」は原則、顔なじみの人間か、誰かの紹介がなければ入店できませんでした。店の扉(ドア)には小窓があり、店側はその小窓を開けて客を名前(顔)や会員証で確認します。その際、客は自分の名前や合言葉をささやくように伝えたといいます。そして同様に、店内で酒を注文する際も小声でささやきました。いつしか、こういう「もぐり酒場」のことは「Speakeasy」と呼ばれるようになりました。 【禁酒法時代の米国に続く】【主な参考資料・文献】「WK」→「Wikipedia(ウィキペディア)」(Internet上の百科事典):アメリカ合衆国における禁酒法「A」 →「禁酒法――『酒のない社会』の実験」:岡本勝著(講談社新書、1996年刊)「B」 →「禁酒法のアメリカ――アル・カポネを英雄にしたアメリカン・ドリーム」:小田基著(PHP新書 1984年刊)「C」 →「酒場の時代―1920年代のアメリカ風俗」:常盤新平著(サントリー博物館文庫 1981年刊)こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/11/08
コメント(0)
◆(2)禁酒法施行下、実際の社会、暮らしはどうなったか 禁酒法を具体化した「ボルステッド法」が禁止の対象としたのは、飲用目的での0.5%以上のアルコール分を含む酒の製造、販売(供給)、交換、運搬・配達、輸出入、所有(自宅以外の場所で他人が飲む目的での)でした。 禁酒法反対派への妥協策として、家庭内で個人が飲むためのアルコールの消費(飲酒)までは禁止されませんでした。おまけに、法成立から実際の施行までは約1年の猶予期間が設けられました。 そこで、経済的に余裕のある富裕層の多くは、施行前に酒を大量に買い占めて自宅に保管したのです。一般家庭でも可能な範囲で買いだめに走りました。高級なレストラン・クラブ、バーでは、違法と知りつつも向こう5年や10年は十分提供できるくらいの酒を大量にストックするところもありました(A、B)。 また、飲用アルコールがすべて製造禁止になった訳ではありません。例外として、医師が医療用に処方するアルコールは認められました(「食欲促進・消化促進の効用」や「利尿作用」が認められていたビール等)(写真左=摘発されて路上で廃棄される密造酒。場所や撮影年月日は不明) ドラッグストアが、「医薬品(For Medicinal Purposes Only)」としてウイスキー、ビールなどの酒類を販売することも許可されました。すなわち一般市民は、医師の処方箋代(約2ドル)を払えば、薬局で堂々と酒を購入することができたわけです。 さらに、聖職者が儀式で使うアルコール(ワインやブランデー)や、煙草製造の過程で使うアルコール(ラム等)の製造も認められ、農家などが自家消費のためのワインやリンゴ酒(シードル)を造り、飲用することも禁止されませんでした(年750リットルまで許可)(WK)。つまり、禁酒法と言っても、実態は抜け穴だらけの「ザル法」だったのです。 これまで紹介してきたように、家庭内で個人が飲むための所有は合法でしたが、その酒のボトルは、あくまで「禁酒法施行前に製造・販売されたもの」でなければなりませんでした。 法施行後に製造されたものは、例外規定の酒以外すべて「禁制品」でした。家庭内であっても、見つかれば没収・処罰の対象となりました(しかし実際、取締官が一般家庭にまで踏み込んで摘発したという話はほとんど伝わっていません)。 それでも人間というものは、法律で規制されれば、あらゆる知恵を絞ってその「抜け穴」を探すものです。密造・密輸されたウイスキーなどには、「1910年製造」などという「偽シール」が貼られたものが多かったといいます(B)。富裕層の間では、禁酒法施行後、自宅内を改造してホーム・バーを造るのがブームになりました。 酒のボトルを収納・陳列する応接間用の専用キャビネット(家具)が相次いで考案され、販売されたのもこの時期です。自家製蒸留器・醸造器までも考案・販売されました(A、B)。 一方、正規の酒屋(リカーストア)は、当然ながら廃業に追い込まれるところが相次ぎました(A)。ドラッグストアや雑貨屋に宗旨替えするところもあったそうです(写真右=密輸途中に見つかり、沿岸警備隊から攻撃を受けて炎上する船。密輸船は「ラム・ランナー」とも呼ばれた)。 富裕層の人たちは、カナダから密輸された正規品のライ・ウイスキー(一瓶12ドル)やシャンパン(同20ドル)が買えたわけですが、裕福でない労働者階級の人達にとっては、正規品を手に入れる経済的余裕もなく、禁酒法は辛く厳しいものでした。 この時代、米国の全世帯の平均年収は約2600ドルでしたが、国民の3分の2を占める労働者階級の半数は、年収1000ドル以下でした。法施行とともに、密輸酒・密造酒は2~6倍に高騰(1クォート=約0.95リットル=の価格がビールで約80セント、ジンで約6ドル、コーン・ウイスキーが約4ドルも)し、一般庶民には簡単に手が届くものではなくなり、毎日酒を楽しむことなど夢のような話になりました(A、B)。 禁酒法時代の米国民のアルコール消費量について、現代の私たちは、「政府による規制への反発もあって法施行後は、法施行前と比べかえって消費量は多くなった」という説をこれまで聞いていました(この説を裏付けるデータは何だったのかはわかりません)。 しかし、最近の専門家の研究によれば、事実は必ずしもそうではなかったようです。酒類の入手の難しさや、闇市場での価格高騰もあって、米国民全体のアルコール消費量は、1920~30年の年平均でみても、禁酒施行前の半分に減ったといいます。アルコール消費量が増えたのは、経済的に余裕のあった上・中流階級の人たちに限った話だったというのです(B)。 【禁酒法時代の米国に続く】【主な参考資料・文献】「WK」→「Wikipedia(ウィキペディア)」(Internet上の百科事典):アメリカ合衆国における禁酒法「A」 →「禁酒法――『酒のない社会』の実験」:岡本勝著(講談社新書、1996年刊)「B」 →「禁酒法のアメリカ――アル・カポネを英雄にしたアメリカン・ドリーム」:小田基著(PHP新書 1984年刊)「C」 →「酒場の時代―1920年代のアメリカ風俗」:常盤新平著(サントリー博物館文庫 1981年刊)こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/11/05
コメント(0)
◆(1)禁酒法(Prohibition in the United States)の成立まで 清教徒(ピューリタン)の影響が強かった米国では、独立(1776年)以前の英植民地時代から「飲酒(アルコール)は人間を堕落させて労働意欲を失わせ、家庭を破壊するもの」という強い批判がありました。 禁酒法が施行される1920年以前、全米すべてで飲酒は合法だったと思われがちですが、実は17世紀半ば、すでにマサチューセッツ州では「種類にかかわらず、度数の高い酒(※アルコール度数が何度かは不明)は違法」(1658年州裁判所判決)とされていました(WK)。 そして1851年には全米の州単位では初めて、メイン州において禁酒法が可決され、1881年にはカンザス州が州憲法によりアルコール飲料を非合法とした最初の州となりました(WK)(写真左=禁酒法の制定を訴える1910年代のポスター)。 1910年までに、すでに18州(当時の米国は46州)で、(内容は千差万別ですが)何らかの形で禁酒法が施行されていたことは意外と知られていません。 1910年代に入ると、ピューリタリズム(清教徒主義)による禁酒・家庭回帰運動が高まってきました。とくに婦人団体による禁酒法制定運動は大きなうねりとなっていました。 背景には、まもなく始まろうとしている第一次世界大戦(1914~18)がありました。戦時の国内の穀物不足に備えるとともに、労働意欲(産業力)の低下を予防しようと、やがて、全米での禁酒法の制定・施行を求める声が大きくなってきました。 もう一つ忘れてはならないのは、人種的問題です。当時、米国で一番飲まれていた酒はビールで、酒造業界を牛耳っていたのはドイツ系移民でした。そして、第一次大戦で米国、英国などの「連合国」が戦っている相手である「同盟国」は、ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国が中心でした。 敵国「ドイツ憎し」が「ビール憎し」になり、最終的には、非ドイツ系白人によるドイツ系移民への反感が、ビール(酒造)業界への反発に発展してゆきます。 禁酒法制定の裏側に人種問題があったことは、現在では多くの研究者が認めるところです(A、B、C)。(写真右=取締官に摘発・押収された密造酒。場所や年月日は不明)。 1917年12月18日、まず、米議会上院が飲料用アルコールの製造・販売・輸送・輸出入を禁止する合衆国憲法修正第18条を提出。1919年1月16日までに4分の3の州(当時の48州中36州)での批准が完了し、修正条項が成立しました。 その後、憲法の修正条項を具体化した「ボルステッド法」が成立したことにより、翌年1920年1月17日午前零時をもって禁酒法は発効し、米国内でのアルコール製造、販売、輸送は、ついに全面的に禁止となりました。 違反者には1000ドル以下の罰金、6カ月以下の禁固刑が科せられると規定されました(1929年にはそれぞれ1万ドル以下の罰金、5年以下の禁固刑へ引き上げ)(A)。こうして米国史上、「高貴な実験(The Noble Experiment)」と称される「禁酒法時代(The Prohibition Era)」がスタートしたのです。 【禁酒法時代の米国に続く】 【主な参考資料・文献】「WK」→「Wikipedia(ウィキペディア)」(Internet上の百科事典):アメリカ合衆国における禁酒法「A」 →「禁酒法――『酒のない社会』の実験」:岡本勝著(講談社新書、1996年刊)「B」 →「禁酒法のアメリカ――アル・カポネを英雄にしたアメリカン・ドリーム」:小田基著(PHP新書 1984年刊)「C」 →「酒場の時代―1920年代のアメリカ風俗」:常盤新平著(サントリー博物館文庫 1981年刊)こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/11/02
コメント(0)
◆禁酒法時代(1920~1933)の米国 ―― 酒と酒場と庶民のストーリー ことし(2011年)春のある日、懇意なBARのマスターから突然、次のような相談を受けました。「(米国の)禁酒法時代にちなむカクテルをつくろうと思っているんですが、当時の米国民のアルコールとの付き合い方、そして街場のバー(もぐり酒場)やバーテンダー、カクテルは実際にはどうだったのかなどがよく分からなくて弱ってるんです。**さん、何か参考文献か情報、データはお持ちではないですか?」と。 実は、僕も以前から、米国の禁酒法時代(1920.1.17.~1933.12.5.)については、とても興味を抱いていました。遙(はる)か昔の古代から存在する人間のアルコールに対する欲求を、宗教的・倫理的決意だけで断ち切ることなど本当に出来たのか、法施行とともにバーやバーテンダー、カクテルなどの酒はどうなったのか、一般庶民は法の目をかいくぐってお酒とどう向き合っていたのか――等々、興味津々のテーマでした。 一度調べてみたいと思いつつ、時間がなくてそのままにしていたのですが、丁度いいきっかけを頂きました。自分の出来る範囲で、できるだけ調べてみようと思い立ち、2カ月ほどかけて資料やデータの収集につとめました。 そしてようやくまとめたのが、これから紹介する「禁酒法時代の米国――酒と酒場と庶民のストーリー」です(写真左=禁酒法時代のシカゴを舞台にした映画「アンタッチャブル」(1987年)( C )Paramount Pictures)。 なお、最初にお断りしておきますが、本稿の作成においては、インターネット上の百科事典として一定の評価を得ている「Wikipedia(ウィキペディア)」(日本語版&英語版 本文中の引用明示の際は「WK」と略す)のほか、ネット上の国内外のお酒関連サイト、さらに日本で出版された禁酒法関連図書の記述を適宜参考にさせて頂きました。 とりわけ、「禁酒法――『酒のない社会』の実験」:岡本勝著(講談社新書、1996年刊 本文中の引用明示は「A」)、「禁酒法のアメリカ――アル・カポネを英雄にしたアメリカン・ドリーム」:小田基著(PHP新書、1984年刊 同「B」)、「酒場の時代――1920年代のアメリカ風俗」:常盤新平著(サントリー博物館文庫、1981年刊 同「C」)の3冊には、ひとかたならぬお世話になりました。 この3冊はいずれも、禁酒法時代のアメリカ社会を描いた基本的かつ一般的な日本語の文献ですが、残念なことに現在ではすべて絶版となっています。しかし現代の我々の知らない、貴重なデータを数多く含んでいるため、今回の連載でも、著作権法に抵触しない範囲で引用・紹介させていただくつもりです(データの引用元については、A、B、C、WKで明記させていただきました)。 この御三方の労作なくしては、本連載を完成させることはできませんでした。この場をかりて、著者の皆様方に改めて、心から厚く御礼を申し上げます(写真右=禁酒法施行前夜、酒場で最後の“合法的な”酒を楽しむ人たち。1920年1月16日、ニューヨーク?)。 なお、本文で紹介する内容については、可能な限り複数のサイト・文献でダブルチェック(確認)を試み、ほぼ間違いないと信じる事実(データ)についてのみ記すつもりですが、それでも100%正確という確信・確証を持っている訳ではありません。その点を念頭に置いてお読みいただければ幸いです。 禁酒法時代の実態については、今後も、新たな資料やデータに出合った場合にはその都度、ブログ上で紹介できればと願っています。読者の皆様で、もし何か貴重な資料・データをお持ちまたはご存知の方がいらっしゃいましたら、うらんかんろまでご教示いただければ幸いです。また、誤字脱字、事実関係の間違い等何かお気付きの点がございましたら、遠慮無くご指摘いただければ嬉しく思います。何卒よろしくお願いいたします。 【禁酒法時代の米国(1)へ続く】【おことわり】本文中で紹介する写真は、可能な限り出典を明示するつもりです。ただし、歴史的写真で、現在では著作権が消滅(著作権者の死後または作品公表後70年)しているものや著作権者が不明なものについてはそのまま紹介しています。 もとより、著作権法32条において、論評・研究・報道目的の利用・引用については、著作者の許諾はなくとも「適正な範囲内での利用」が認められております(万一、正当な著作権継承者の方からクレームが来た場合は、違法性があるかどうかを検討したうえで、問題がある場合は当該写真を削除いたします。以上、何卒ご了承ください)。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/10/30
コメント(0)
全12件 (12件中 1-12件目)
1