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今日、小崎兄がウズベキスタンに旅立った。(任務詳細は小崎兄壮行会参照) 午前11時、関西空港4階、出発ロビー。すでに本人と御両親、そして、国際飢餓対策機構の清家スタッフが到着しておられた。そして、小崎君を見送ろうと、教会員たちも次々と、集まってきた。 讃美歌405番を、皆で賛美。 ♪ 神ともに いまして 行く道を まもり 天(あめ)の み糧もて 力を 与えたまえ ※ おりかえし また会う日まで またある日まで 神のまもり 汝が身を 離れざれ 荒野を 行くときも あらし 吹くときも 行く手を 示して たえず 導きませ ※ おりかえし 御門(みかど)に 入る日まで いつくしみ ひろき み翼のかげに たえず 育みませ ※ おりかえし 牧師の祈りのあと、最後は御両親とハグハグして、お別れ。小崎兄を乗せた飛行機は、13時10分の定刻を数分遅れで、14番ゲートを離れ、一路ソウルに向かった。(ソウルで、タシケント行きの飛行機に乗り換え) 緊急事態がないかぎり、任務を終えて帰国するのは3年後。 神さまの守りがありますように……
2003年01月31日
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未明から強風 & 雪。朝起きたら、町はうっすら雪化粧。軒先にはつらら。10センチくらいの短いつらら。でも、何年ぶりに見るつららかな。 小学生のころ、よく、つらら取りをした。家の軒でも40センチくらいのつららが、ずらっとならぶ。根元は、直径5センチ以上になり、雪の球ではまったく歯が立たない。さてさて、どうやって、その大きなつららを落とすか。最初は、雪球で、先端付近の細いところをねらう。細いつららを回収し、それを雪球の核にして、もう少し太い部分をねらう。この作業を繰り返し、最後には、大きなつららを、しとめる。ゆっくりと、そして加速しながら、スローモーションのように落ちるつらら。ああ、おもしろかったなぁ。 問題は着地。地面には、積雪があるとはいえ、つららが、まっすぐ落ちることはまれだ。大きなつららも、ほとんどは、衝撃で、折れてしまう。たまに、うまく雪に突き刺さり、ほぼ原型が保たれていたら、それはそれは、うれしかった。かっこいい剣のごとく、手に持って自慢しあったっけ。 民家のかべには、雪球の白い跡が何十個となく。仕上げの方になると、投げる球の、雪よりつららの量が多くなり、壁に当たるとけっこうな音と衝撃が発生。ばんっ☆!よく、怒られたなぁ。住んでる人に。怒られたり、めぼしいつららが、一通りなくなったりしたら、一軒ずつ次の民家へ。学校帰りは、いつも、こうやって遅くなった。 スーパーや、工場の建物のつららは、格別。おそらく1メートル近いつらら。根元は、直径10センチ以上になってる。最後は、5センチくらいの氷片を投げ当てるのだが、結局、真ん中より下しか、折れなかった。でも、挑戦するのが、楽しかったなぁ。 おかげで、よくしもやけになった。足の指のしもやけが、ひどくなると、もう、かゆいを越えて痛くなる。最終手段は、足の指の根元を糸でしばり、針で刺す。淀んだ血を出して、かなり楽になった。 また、あの頃のように、遊びたいなぁ。楽しかったなあ。 話題転換 今日は、かぜが強く、職場に行く電車も止まって、バス代行。幸いにも、接続が順調で、時間ぎりぎりに職場に。(天候事情だから、遅れても、遅刻にならないけど。)休憩時間に、ネットでニュースを読んでいたら、例の脱北日本人妻が、お昼過ぎに帰国したとのこと。あらら。すぐそばを、通ったわけだな。かの地に、神さまの愛と義が示されますように。最も弱き立場の人々が、福音に触れられますように。 夜は、若干、仕事に余裕があったので、別の日の勤務時間と振り替えて、ダッシュで教会へ。といっても、21時過ぎの祈祷会が終わった時間。昨日から体調を崩し、お昼まで寝ていた妻と、寝付けなかった長女が、家から先に来ていた。妻と長女にとっては、あさってウズベキスタンに旅立つ小崎君とは、出発前、最後のあいさつ。昨日、買い求めた、ヘンリー・ナーウェンの「いま、ここに生きる」と「今日のパン、明日の糧」をプレゼント。(両方とも、地元系書店のラスト1冊だった。地元で購入予定だった皆さま、ごめんなさ~い!)
2003年01月29日
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次女 「うちなぁ、早く天国、いきたいなぁ♥」(うれしそうに) 長女 「でも、死ななきゃ行けないんだよぉ」 (ちょっとさとすように) 朝、年中さんの次女と、小一の長女が、服を着替えながら、会話しているのが、耳に入ってきた。 数日前、みんなでご飯食べてる時かな。天国の話題になった。 きっかけは、小一の姉の方が、突然こんな話をしだしたことから。 「○○(長女の名)が大きくなって、おばあちゃんになったら、お父さんもお母さんも死んじゃうの?」 「そうそう。いつか。死んじゃうの。でもね、みんな、いつか死ぬんだよ。 でも、イエスさまを信じていたら、天国行けるんだよ。 だから、誰かがが先に死んでも、天国でね、また会えるんだよ。」 続けて答える。 「天国ってね、とぉ~っても、楽しくて素敵なところなんだよ。 悪いことがね、何にもないの。うそとか、けんかとか、意地悪とか。 そして、今のみんなの体って、年とると、しわしわ、ぼろぼろになって、いつか死んじゃうでしょ。 でもね、天国の体はね、いつまでも、ぴかぴかで、そして、死ぬことがないんだよ。 そして、何よりも、大好きなイエス様と、ずぅ~っとずぅ~っと、いっしょにいられるんだよ! ああ、天国行きたいなぁ。イエスさまに会いたいなぁ! 死んだらね、天国行けるんだよぉ! 大好きなイエス様に会えるんだよぉ!」 けっこう、本人のひとりごとみたいになっちゃったが(本心だよ!)、子供たちは、ふ~ん、といった感じで聞いていた。 その後は、先にお父さんお母さんが天国に行っちゃったら、自分が天国に行くまで寂しいなぁ、とか、天国に動物いるの?なんていう会話をしながら、食事の時間を終えた。(天国にも動物いるよね。たしか、獅子が草を食べ、なんかの動物と仲良く暮らしているって聖書箇所あったよなぁ。) 幼児的な信仰とはいえ、自分の話が、こんなにストレートに子供たちの中に入り込んでいることに、畏れを感じさせられた。 決して、いい加減に語ったわけではない。うそや誇張を含めたわけではない。 でも、自分の中には、少しでも届けばいいなぁ、くらいの小さい信仰しかなかった。また、逆に、悪い考え方・風潮であっても、おそらく、何の抵抗もなく、同じように吸収していくだろうことと、そして、それらから、守られる必要があることを、真剣に思わされた。 なんだか、逆にとても考えさせられる、教えられるできごとだった。 ああ、神様。あなただけが、信仰を養い育てることができるお方です。 幼子の心に刻み込まれた、素直でそぼくな信仰を、どうか、あなたが導き、育ててください。 預けられた魂に、私たち親が、正しく働きかけられるよう、導いてください。 今の世の中の悪い考え方や、風潮から、子供たちをお守りください。 アーメン
2003年01月27日
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今日は日曜日。ところが、金曜日あたりから37℃台の微熱があった妻が、なんと38℃台の熱でダウン。朝食(ツナの卵とじ=好評好評!)を作り、食事をし、食器を洗い、洗濯物を干して、子ども3人を連れて教会へ。 ●礼拝メッセージ 「重荷を担う所に」 ~新約聖書ガラテヤ書6章から~ 「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。 人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、 御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」 (6:7~8) 人生の最後の刈り取り 気づいている、きづいていないに関わらず、必ず訪れる何かを刈り取ることのおそれ? しかし、キリスト者の刈り取りは、滅びでなく永遠のいのち 1 神のひとり子イエス・キリストを信じ、誇りとすること「誇り」とは 例 とてもすてきな女性 その友人の弁「きれいな人やろ、うちの友達やねん。」 すてきな人を知っているだけで、自分の実態に関わらず、その人にとっての誇り キリストはどんなお方? 「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方に お任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。 それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたが たは、いやされたのです。」 ペテロの手紙第一 2:22~24 「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいは いるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった ことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」 ローマ人への手紙5:6~8 キリストの十字架のみが、我らの誇り。それは一方的な賜物(プレゼント)。ただただ、受け取るだけ。 2 イエスさまを、行動の動機・基準にするユダヤ人キリスト者の割礼(6:12~14)の理由 = 他人の評価 = 自分のため自分の達成感、見返りを求めて行動していることはないか。 3 具体的にイエスさまに従い、労する(冒頭の聖句から) 蒔くことで、はじめて刈り取ることができる。蒔かなければ刈り取れない。従うこと、労することなしに、現状に嘆いていることはないか。 ●小崎敏志兄 ウズベキスタン派遣壮行会今週、教会員の小崎兄が、ウズベキスタンに旅立つため、愛餐会を兼ねての壮行会が持たれた。 国際飢餓対策機構 という団体のスタッフとして、現地で世界里親会の働きを立ち上げるため、3年間、派遣される予定。 世界里親会世界里親会は、日本国際飢餓対策機構の一部門で、貧困と飢えに苦しむ人々の中でも、一番弱い立場にある子どもたちに焦点を合わせた活動を志します。世界里親会では、貧しさゆえに教育を受けられない子どもたちに、学校教育や定期健康診断、また将来の自立を助けるための職業訓練など、子どもの全人的な成長を助けるための活動をしています。(国際飢餓機構HPより) 小崎兄は、阪神大震災で被災時、家族ともども、つぶれた家の下敷きになった経験を持つ。その時、家族のことより、自分が助かることだけしか考えられず、自分の愛の少なさに少なからぬショックを受けたという(結局、ご家族は全員、無事だったそうだが)。大学時代に、KGK(キリスト者学生会)を通じ、イエス・キリストと出会い、4年前に洗礼を受けた。単に、福音を宣べ伝えるだけでなく、実際のパンをも、貧しい人に届ける働きに携わりたいと願い、大学卒業後も、アルバイトをしながら、国際飢餓対策機構の働きのお手伝いをしていた。途中、エチオピアへの食糧緊急援助プロジェクトや、アメリカでの宣教訓練を受け、このたび、中央アジア、ウズベキスタンへの派遣が決まった。ウズベキスタン。日本の1.3倍の国土に2500万人が住む。その半数は、20歳未満の若い世代だという。1991年のソ連崩壊で、ソ連から独立。ソ連時代には、平等に受けられた教育も、共産主義の終焉と共に、貧富の差が拡大。教育を受けられない貧しい家庭も増えているという。政治的には、独裁体制。イスラム教にのっとった体制が敷かれている。不特定多数への宣教活動は、認められていない。相手が関心を持ち、教えてほしいと言った時に、聖書の話をすることは可能。 小崎敏志26歳。31日金曜日、関空からソウル経由、任地に向け旅発つ。主の守りがあらんことを祈りつつ。 家に帰れば、子供たちは、絶対、騒ぎ、妻が休めないだろうから、壮行会後、5時頃まで教会に残る。子供たちはクッキーを焼いたりしていた。その後、びっくり●ンキーに行って、少し早めの夕食をとり、6時半過ぎに帰宅。お風呂に入れ、パジャマ着せて、8時過ぎに寝かしつけていたら、いっしょに寝てしまった。(13時間寝てしまったぁ~!) (でも、夜、快方に向かいつつあった妻は、夜中に、1時間くらい、テレビに入った「グッドモーニング・ベトナム」を見てたそうな。あれれ???)
2003年01月26日
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23日の日記で、「誘惑」について触れた。 先週の教会学校でのテーマは、イエスさまが「サタンの試み」を受ける箇所。聖書箇所をちょっと引用。 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」 新約聖書 マタイの福音書 4:1~4 (この後、サタンの2つの試みが続くが、省略) 教会学校で教えるために、聖書を熟読し、思いをめぐらしていて、何かをぼんやり思わされた。そして、その後も、しばらく反芻していた。 イエスさまが、荒野に行ったのは、・悪魔の試みを受けるため・聖霊に導かれて そして、40日の断食が終わった時、試みる者=サタン、悪魔が近づいた。 イエスさまは、悪魔の試みを受けることを目的に、荒野に行き、断食し、40日が過ぎた。 あれ? サタンは40日間、何をしてたんだろ? また、イエスさまは、どんな思いだったのかな? 断食自体を、試みに思ったのかな?ちがうな。(これは、思索の中でのぶれ)きっと、断食しながら、祈り続けていたんだろうなぁ。サタンがの試みが、「いつ来るか、いつ来るか」と、身構えていたのかな?「あれれ、サタンが来る前に、断食期間が終わっちゃった」って肩すかし? もしかしたら…… サタンは、待っていた? イエスさまが、断食を終えるのを。 極限の空腹感。同時に、ひとつのわざが完結し、達成され、ほっとするその時。 サタンは、断食期間中にも、絶え間なく「ほ~ら、お腹空いたでしょ。食べてみない?」って、誘惑し続けることもできたであろう。でも、そんな誘惑に対しては、心の準備があり、臨戦態勢の緊張感があるから、かえって、耐えやすいかもしれない。 それを知っているサタンは、イエスさまに対して、40日間、何もせず、その一瞬の隙、間、気の緩みを、ひたすら、ねらっていたんじゃないか?(イエスさまに隙・気の緩みはないんだけど。)スナイパー(狙撃手)が、ターゲット(獲物)を待ち伏せし、待って待って、引きつけて引きつけて、最も効果的な一撃を放つかのように。 試練が明けた時。苦しみが過ぎ去った時。何か大きなひと仕事を終えた時。 それまでは、必死に、神さまに寄り頼み、祈り続ける。つらく苦しい中にありながら、でも、神さまに、最も近い瞬間かもしれない。 その期間が過ぎた時、安心して、祈りを忘れないか。信仰に隙ができないか。一度、通り過ぎてしまえば、楽勝だったなんて思わないか。時に、自分で乗り越えた、成し遂げたかのように、錯覚する者ではないか。 もしかしたら、道が開かれたり、祈りが聞かたりして、喜んでいる時かもしれない。神さまの大きな祝福に、感動している時かもしれない。充実感に満たされ、達成感に浮かれている時かもしれない。 試練ではなく、順風満帆、絶好調が続く時……。成功に酔いしれる時……。人の誉める言葉に、有頂天になる時……。 そんな時、神さまに祈る手を、緩めてしまう者ではないか。 サタンは、待ち受けている。虎視眈々と。祈りの手が弱まる時を。信仰者が、神さまに頼ることを、忘れる時を。 イエスさまでさえ、身をもって体験された「試み」「誘惑」。もっともっと深い、何か、大切なことを教えられるような気がする。 ♪ おどろくばかりの 恵みなりき この身の汚れを 知れる我に 恵みは 我が身の おそれを消し まかする心を 起こさせたり 危険をも わなをも 避け得たるは 恵みのみわざと いうほかなし 御国につく朝 いよよ高く 恵みの御神を たたえまつらん 聖歌229番 「おどろくばかりの」(=アメイジング・グレイス) ただただ、お守りください。主よ。 「危険をも、わなをも、避け得たるは、恵みのみわざというほかなし」 ただただ、お守りください。主よ。
2003年01月25日
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「鳥が、木の上を飛ぶことを防ぐことはできないが、木に巣をつくろうとすることは防ぐことができる。」 たしか、宗教改革者マルティン・ルターのことば(だったかな?)「鳥」とは、悪魔、サタンのことである。聖書は、一貫して、悪の力の存在を語っている。悪の力といっても、呪いとかたたりといったものではなく、もっと、ごくふつうの日常生活の奥深くに働いている力だ。 「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興」 新約聖書 ガラテヤ人への手紙5:19~21 うそや、けんか、意地悪など、悪事をそそのかす力。悪い習慣でがんじがらめにし、人生をダメにしてしまおうとする力。何より、人を神の愛から引き離をうとする力。これが、悪の力だ。 そして、すでに神を信じたクリスチャンでさえ、悪の力の影響から自由にされるどころか、この世で生涯を送る限り、その信仰を弱らせようと、躍起になっているに違いない悪の力のターゲットになっている。そして、あの手この手でやってくる。時に誤解の種を蒔き、時に性格的に弱いところをついてくる。そして、怒りや憎しみ、不一致や争いを起こさせようと、虎視眈々ねらっている。大きなトラブルや試練の時には「神などいないんじゃないか」「神はお前を見捨てたんじゃないか」という思いや、失敗の時には「ほら、もうだめだ」「ほら、また失敗した」なんていう思いを入れてくる。なんとなく、落ち込んでいる時には、「お前は価値のない、ダメな人間だ」との思いを入れてくる。時に、サタンは、明らかな悪の形ではなく、「心地よい」鳥を送ってくることがある。「誘惑」だ。ふわ~っとやってこられると、ついつい手を差し出し、手の上でころころしたり、餌を与えてしまいたくなったり。こちらも、嫌いなことじゃないから、よけいに追っ払うのがたいへんだ。 ♪ 讃美歌267番 「神はわがやぐら」 神は わがやぐら わが強き盾 苦しめるときの 近き助けぞ おのが力 おのが知恵を 頼みとせる 陰府(よみ=地獄)の長(おさ)も など恐るべき いかに強くとも いかでか頼まん やがては朽つべき 人の力を われと共に 戦いたもう イエス君(きみ)こそ 万軍の主なる あまつ大神 あくま世にみちて よしおどすとも かみの真理(まこと)こそ わがうちにあれ 陰府(よみ=地獄)の長(おさ)よ ほえ猛りて 迫り来とも 主のさばきは 汝がうえにあり 暗きのちからの よし防ぐとも 主のみことばこそ 進みにすすめ わが命も わがたからも とらばとりね 神のくには なお我にあり ♪こんなメロディ♪ (おっと、これも、マルティン・ルターだ(作詞)。偶然偶然。)しかし、神に寄り頼む者は安心だ。悪の力に対抗する手段、みことばと、神さまとへの祈りと、神さまとの交わりがあるのだから。 「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」 新約聖書 エペソ人への手紙 6:10~18 不思議な導きで、危険から守られていることも、逆に策略にまんまと引っかかり、ダメージを追うこともあるが、その都度その都度、神さまに立ち返り、神さまの力と知恵とみことばと養いを受けさせていただく必要がある。自分に、サタンに対抗する力はないが、やぐらであり、盾である神さまに逃げ込み、守っていただくだけ。そして、ただ一つ、私たちに与えられているのが、「みことば(=聖書のことば)の剣」だ。さあ、みことばのパンをたくさん食べ、養いを受け続けよう。 「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」 新約聖書 ペテロの手紙第一 5:8 年末の、頭ジラミ事件を思い出す。 こんな事件たった1匹のシラミからだったが、薬代と、手間ひま、時間をかけ、ものすごく苦労して駆除したっけ。それは、放っておくとどのような結末になるか、知識があるから。もう一度、自分を吟味して、悪の力が入り込んで、巣をつくっていないか、点検しよう。 あなたのみことばと、あなたへの祈りによって、すべての悪の力からお守りください。 たくさんの鳥が飛んできます。正しく追っ払えますように。 心地よい鳥も飛んできます。わたしの中に、すでに巣はないでしょうか。 ああ、間違っても、誘惑の鳥に、巣をつくらせることがありませんように。(追っ払え~!) わたしが、がんばりませんように。わたしには、その力がありませんから。 ただ、見分ける知恵と、あなたに寄り頼む勇気と、明け渡す決断を、お与えください。 神さま、いつも、暖かいあなたの翼の陰に隠してください。 アーメン
2003年01月23日
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ぽんの仕事は、物運び。飛行機でも、いろんな物を運ぶ。高速道路を走るトラックが運ぶような物は、たいがい運んでいる(と思う)。メインは、電気製品やその部品だろうか。パソコン関連や、デジカメ・ビデオカメラなんかも大量に運ぶし、某なんとかステーションというゲーム機も、3個で1つの梱包になっている段ボールを何千個単位で運んだりすることもある。変わったところでは、「しめじ」や「ばらん」(食べ物の仕切りに使う緑色のぎざぎざのプラスチック)、「CTスキャン」(超音波で体を輪切りにする医療機器)、「プリクラマシン」、はてまた「馬」なんかも運ぶ。レンブラントやフェルメールなんかの「絵画」も運んだな。バブルの頃は、スーパーカーがよく運ばれてきたなぁ。着く方は、「サーモン」「パプリカ」、そうそう時期になると「ボジョレー」なんかも大量に。 昨夜は、時価18億円というものが到着した。イギリスRR社製の飛行機のエンジン。日本の某社にあるエンジン噴射施設で、いろんな条件のもと、噴射試験を繰り返し、型式認定を取得するための輸送だという。次期エアバスのエンジンだそうだ。そのままの姿では、大きすぎて運べないので、ばらばらに分解されて運ばれる。それでも大きいものは、長さが7メートルあったり、高さが3メートルあったり。一番重い物は10トンを越えている。たった一つのエンジンの輸送だが、関わる会社、セクション、スタッフはかなり多い。まず、送り主、受け手の双方がお客さま。今回、ぽんが関わった部分だけでも、飛んできた飛行機の乗務員、機内での貨物を移動操作、飛行機から貨物ビルまで搬送、輸入通関、そしてトラックへの積み込み、トラック会社……、関わった会社も、9か10にのぼる。トレーラー3台と、10トントラック1台およびクレーン車が出迎えていた。巨大貨物ということで、通常の装置が空回りしたりして、動かなくなることもある。もともと、チームワークが必要な仕事だが、そんな時は、人海戦術になる。会社を越え、立場を越え、大の大人たちが、一丸となり、大きな声をかけあいながら、時に怒鳴り声になりながら、共通の目的に向かう。「前にいくぞ~!」「はい~、まえ~!」「スト~ップ!」こうして難関を越えた時の一体感は感動ものだ。そして、仕事が終わった時の達成感。こんなプロジェクトは滅多にないが、まさに男の仕事だ。 一度、ひやっとする局面や、つきものの小さな難関はあったものの、事故なく怪我なく、トラックへの積み込みまで終わった。トラックへの固定に時間がかかるというので、我々は一足先においとま。(もう、運送業者の担当。本当は、トラック積み込み前の引き渡し時点で、仕事はおしまい)この時点で午前1時をまわっていた。タクシーで帰宅したのは2時過ぎ。思えば、雨も降らず、風も弱く、エンジン日和だった。感謝感謝。
2003年01月18日
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教会の隣に居を構えるB家の政一おじいちゃん、やよひおばあちゃんが、この1月11日に結婚73周年を迎えた。教会自体、もともと、B家での教会学校、集会を母体に始められ、B家によって献げられた土地に会堂が建てられている。94歳の政一おじいちゃんは、ここ数年、何度かの、死線を越えつつ、命を支えられている。耳が弱くなりつつあるが、いまだに、毎日、聖書から教えられたことを、新鮮な気づきとして、いきいきと語って下さる。また、その日の聖書通読箇所の中から、ご自慢の筆で、聖句の書を書いてくださる。毎週の礼拝には、10枚ほどの聖句が、会衆を取り囲む。やよひおばあちゃんは、ぽん家が大阪に引っ越してきた4年弱前に、すでに痴呆で、会話が不自由だったため、一度も通常の会話をしたことがない。けれども、優しい目を見て話しかけると、雰囲気は分かるようで、何かを一生懸命表現される。何十年もの間、教会のオルガン奏楽を一手に引き受けられていたそうだ。天国に行ったら、いっぱいいっぱい、思う存分、お話してみたいなぁ。政一おじいちゃんは、昔はかなりの亭主関白だったそうだ。それが、おばあちゃんの様子に変化が現れ出してから、どんどん、仕える人に変えられていったという。病気をして体力を落とす前は、以前はできなかった料理を習得し、やよひおばあちゃんに作って食べさせてあげていた。何が、おじいちゃんを、あそこまで変えたのか、周囲が驚いたという。毎週の礼拝、水曜の祈祷会、そして、毎日の早天祈祷会に、2人そろって、仲睦まじく出席される様子を見ると、そのお2人がその場にいらっしゃるだけで、平安と励ましが与えられるから不思議だ。お2人の背中は、ただ、神さまにお従いしてきた歴史を物語る。神さまが確かに生きておられ、人生に介入し、個人的に交わり、その人を内側から新しくし、強くされ続ける、そのことの証人だ。旧満州に出征し、シベリア抑留を経験された政一おじいちゃん。京城、今のソウルで生まれ育ったやよひおばあちゃん。いてくれてうれしいな。いつまでも、教会の宝として、その場にいてほしいな。 さて、そのご子息でいらっしゃるB先生ご夫妻は、昨年秋に結婚40周年を迎えられた。毎年、成人の日に、新年家庭集会を始められて、今年で35年目だそうだ。いまや、半ば、KGK(キリスト者学生会)の卒業生会の恒例行事の姿ながら、その実、誰でも参加できるという集会。もともとは、クリスチャン家庭を建て上げることや、子育てについて、先輩から話を聞こうというところから始まり、ご自分たちだけではもったいないと、解放したら、どんどん発展し、恒例行事のようになってしまったらしい。今年は、外部の講師をお呼びせず、B隆先生・絢子さんご夫妻が、「結婚生活40年の歩み」ということで、語って下さった。隆先生20歳過ぎから結婚について祈り始め、11年目に結婚。その前に、別の女性との婚約したものの、破棄に至った。父親から自立できていなかった自分。ちょうど思春期、青年期の時代が、政一おじいちゃんの、出征および抑留の9年間に当たったことの影響も? 結婚17年目に、ハンス・ビュルキ先生のセミナーで、大きな衝撃。男女の根本的な違いを思い知らされる。男性は、機械的論理的な部分がよく分かるが、感情的な部分が分かりにくく、通じない。男女が、まったく違う存在であることを認めあい、向き合う必要性。心の深いレベルにおける交わりのすばらしさ。みことばを読み、理解するだけから、みことばを通して、神さまと交わり、その御思いを教えていただくこと。神さまとの深いレベルでの交わり。神さまとの深い交わり、夫婦の深い交わり、自分自身との深い交わりは、ひとつのこと。お互いに相関関係。 絢子夫人結婚の原点 「それゆえ、人はその父と母を離れて、ふたりの者が一心同体になる」 マルコ10:7~8イエスさまとの出会いは、夫との出会いであり、同時に自分との出会い。18歳から23歳という反抗期、自立期に信仰を持つ。信仰を導かれた篠崎先生ご一家の姿を通し、家庭礼拝にあこがれと使命感。信仰を持ってから、秋田の実家に戻ってから、家族の激しい反対。「もうだめ。家を出て、東京に戻り、就職して働こう」と、職探し依頼の手紙を書こうと決心した日、「荒野の泉」のその日の箇所が「待て!」 神さまに打たれた感じ。40日後、隆さんとの結婚の話が舞い込む。結婚相手の両親と同居することに、絢子さんのお父さんが非常に心配。でも、絢子さんにとって、結婚によって、初めて家庭礼拝の夢をかなうことができた。ビュルキ先生の「愛の10箇条」 その中に一つ不思議なものが。長年のなぞかけのように。それは、「愛は透明な(透き通った)リアリティ」(Transparent Reality)山上の変貌(ルカ9:2~3) 父なる神との透き通った関係 透明な関係とは?「友と呼びすべてを教えました」 ヨハネ15:15「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、 主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働き」 第二コリント3:18夫婦関係においても、永続はしないが、瞬間、透明になる局面 From the momento of Glory 「私のたましいよ。おまえの全きいこいにもどれ。」 詩篇116:7「私のたましいは黙って、ただ主を待ち望む。」 詩篇62:5時に、「感動」が関係のじゃまに。喜びも悲しみもストレスを生み出すことも → お互いに静まる必要 耐えられないような出来事の数々。後から思えば、すべてに神さまのご計画が。・たぼちゃん(甥)の死 → 悲しみと悔い改め → 家庭集会 → 教会へ・問題を抱えた学生をあずかって面倒を見る → 担任だった先生がその後、信仰を持つ・ある留学生のお世話 → 世話していたつもりが、逆にプレッシャーをかけていたことに気づく → 悔い改め → この一連のことが、次女がアジアに関心をもつきっかけになり、のちにカンボジアへの宣教師に。 長くなっちゃった割りに、分かりにくいなぁ。(ごめんなさい)しかも、ディープな話題は、もっとまとめにくい。(もっとごめんなさい)そもそも、日記でまとめられるようなテーマじゃないなぁ。(単に要約能力がないだけ?)そのまま、録音テープ聞いていただいた方が、いいかもなぁ。 B家の人々。みんな、びっくりするくらい、神さまの前に柔らかい。そそっかしかったり、いろんな人間らしい部分、親しみやすい部分は多いけど、神さまに何かを示されたり、お取り扱いを受けた時の、フットワークというか、身の動きは迅速だ。信仰的、霊的なことがらにとどまらず、行動においても、示されたことに対し、忠実に、すぐに従い、実行に移される人々だ。 牧師先生も、このご家族を評して、忠実が一番の祝福の基礎と言わしめる、すばらしい家族だ。 神さま、近くに、このようなすばらしい信仰の先達を置いて下さり、実際に見せて下さり、ありがとうございます。ああ、私は今、なぜ、この場所に置かれているのでしょうか。主よ、学ぶべきを学ばせて下さい。神さま、夫婦関係のくもりを、取り去って下さい。透明になるプロセスを体験させて下さい。真の意味で向き合う勇気と体力とタイミングと決断を与えて下さい。神さま、家庭を祝して下さい。あなたに喜ばれる家庭につくりかえて下さい。家庭礼拝のヒントを与えて下さい。信仰の継承が、みこころのままになされますように。 ※※※ 新年家庭集会のレジュメ(B先生ご夫妻作成)、録音テープ、関連の資料などがあります。ご希望の方は、私書箱までご連絡下さ~い。 ※※※
2003年01月17日
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旧知の方から、ちょっと遅めの年賀状をいただいた。今まで、おそらく、手紙のやりとりはしたことのないはずの方。年賀状も出していないので、わたしが今年送ったものを、誰かから見せてもらい、書いて下さったようだ。(複数のルートあり。うちの両親の可能性も濃厚。) 2003年 明けましておめでとうございます。お子さんたちの愛らしいスナップとひとことずつのメッセージを、とくと拝見しました。子育て、まっ盛りの人生、最高の時ですね。難儀なことも沢山沢山あるに違いないですが、過ぎ去ってみると、宝物のような思い出が、親たちの胸に、深く残っています。主のみ恵みに支えられ、○○さん(両親の名前)たちの祈りをはじめとして、多くの人々の祈りの中にあることを、とても感謝しています。ご健勝で、おすごし下さい。 (長女)ちゃん、4月からは2年生になるのね。おうちでも学校でも、きっといいおねえさんでしょうね。また夏休みにあえたらいいね。 年長さんになる(次女)ちゃんは、きっとたのしいでしょうね。たくさんのお友だちと、いっぱいあそんでくださいね。 (長男)くん、いよいよ、ようちえん。いいな、いいな。きっとたのしいよ。おねえさんたちとなかよくしてね。 おとうさん、おかあさんといっしょに、また、山形や秋田にこれるといいね。イエスさまにおいのりしていると、きっとこれるとおもうよ。 (もともと、はがきに印刷されていた聖句)「主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。」 詩篇32:10 はがきを送って下さったのは、引退した牧師先生ご夫妻。思えば、直接、自分はその先生の教会に属したことはないな。教団つながりだったんだな。引退後も、事情があって牧師が不在になった別の教会で、奉仕をされているから、今も現役だ。両親とは、50年近いつきあいになるのかな。先生ご一家の、末のお子さんは、自分の1歳年上。今、どうしてるのかな。なつかしいな。住んでいた町自体、すごく離れていたので、会うのは年に数回だけ。小学生や中学生のキャンプなんかで、よくいっしょに、遊んでもらったっけ。 心にしみいる、思いがけないはがきをいただき、いろんな気持ちが入り混じる。両親の信仰の同志としてのご夫婦。信仰がもたらす友情と絆。何より、教会員の子弟の成長を喜んで下さっている姿。あの人たちに、信仰を継承されたのだという実感。祈られていた実感。 あの当時の両親、そして、このご夫妻が歩んだ子育て時代を、今、自分たちが踏み直している感慨。そして、当時、子どもだった私たちが歩んだ道を、今の子どもたちが歩んでいる不思議。自分は、何を子供たちに、また知り合いの子どもたちに、残してあげられるかな。きっと、自分が、体験したこと、実感として感じたことだけが、そのまま、伝わっていくんだろうな。 たった1枚のはがきが、空間を越え、時間を超え、そして、主にあるえもいえぬ安らぎをもたらしてくれた。ただ、感謝。 この牧師ご夫妻、両親、そして背後で支えてくれた、および今も支えてくれている多くの人々を覚えつつ。 ↓ ↓ ↓ ちなみに、これがぽん家の、今年の年賀状 ↓ ↓ ↓
2003年01月16日
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昨日から、ちょっと調子悪い。今日は、頭が痛くて会社を早退。日記更新、レスは、しばしお待ちを。明後日は、大きなプロジェクトがある。明日はその準備。早く治さねば。もう寝ます。
2003年01月15日
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脳からの信号があっても 体がまったく動かないことが まひ脳からの信号がないのに 体が勝手に動いてしまうことが けいれん 神さまからの導きがあっても 従わなければ…… 神さまからの導きがないのに 動いてしまえば…… 「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」 新約聖書 コリント人への手紙第一 12:27 あなたの愛で 私を 取り囲んでください あなたの声だけに 聞きしたがう者と して下さい
2003年01月12日
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日課として読んでいる本に、とっても考えさせられる、とってもうれしくなる、そして、とっても探られる内容が載っていた。というか、何だか、ぼんやり教えられたり、感じていたことが、ずばり書かれてあって、驚きと、畏れをおぼえさせられた。 「傷を踏み越える」(1月9日) 時として、私たちは怒りや妬み、拒絶の感情を「乗り越え」て先に進まねばなりません。否定的な感情にどこまでも執着し、あたかも、そこに私たちのいるべきところであるかのように、その中に浸りがちです。そうなると、私たちは腹を立て、無視され、捨てられた人のようになってしまいます。私たちは、そのような否定的な感覚に捕らえられ、時にはそれにゆがんだ喜びを見出すことさえあります。このようなくらい感情を見つめ、それがどこから来るのかを見極めることはよいことです。けれどもある日、暗い感情を踏み越え、後にして、旅を続ける時がやって来ます。 「自分を受け入れられない自分をのり越える」(1月10日) 霊的な生活における大きな危険の一つに、自分を受け入れられないということがあります。「私のことを本当に知ったなら、人々は私を愛してくれないだろう」と言う時、私たちは闇に向かう道を選んでいるのです。しばしば自らを軽んずることは美徳であると信じこまされており、それは謙遜と呼ばれています。しかし実は、謙遜は自らを軽んずることとは反対のことなのです。それは、神の目には私たちは貴重であり、私たちの存在すべてが贈り物そのものであるということを感謝をもって認めることです。自分を受け入れられないという自分をのり越えて成長するためには、私たちを神の愛しい子どもであると呼びかける声に聞き従う勇気を持たなければなりません。そして私たちは、常にこの真理に従って生きるという決断に耳を傾ける勇気を持たねばなりません。 ヘンリ・J・M・ナウエン「今日のパン、明日の糧 (Bread for the Journey)」(聖公会出版)より -------------------- ああ、神さま、内にある否定的な感情を見つめる体力を下さい。わたしには、そう思えなくとも、「私(神さま)の目には、あなたは高価で尊い」とおっしゃる、あなたの愛のおことばに立つことによってだけ、それができます。神さま、愛を教えて下さい。愛を受ける力を与えてください。そして、あなたの時に、あなたの方法で、傷んでいる部分に気づかせ、直視し、そして、取り去って下さい。みこころのままに。 -------------------- 今、ちょっと、患部と手術みたいなイメージが思い浮かんで来ています。告知するのに時があり、治療するのにも時があり、信頼関係と状況が必要だということ。告知は、医者と患者・家族の信頼関係が必要で、時と準備が必要。そして、実際に手術するかは、患者が医者を信じるか、望むか。患者が、望んだところで、治療や手術に耐えうる体力があるか……。なければ、その体力がつくまで、待つ必要。完全な愛の癒し主である神さまに、身を委ねていきたいな。
2003年01月11日
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朝10時過ぎに、3歳半の長男を連れて、近くの公園を散歩。2時間近くかけて、3~4キロくらい歩いたかな。(最初は1つ先の駅の近くまで歩いて、電車で帰ってこようと思ったんだけど、なんか、なりゆきで往復というか、公園半周というか、歩いてしまった。長男もよく、あんなに歩いたな。でも、あんまり疲れてなかったぞ。)公園では、いろんな人が散歩していた。犬の散歩。ジョギング。子どもの散歩。でも、だだっ広い公園なので、5m以内に接近する人はほとんどいない。時折、すれ違う人くらい。で、ついつい、賛美を口ずさむこととなる。普通の声でも、屋外だと、声も案外、響かないものだ。 青空。ゆったりとした時間の流れ。 穏やかな日差し。松の木から差す木漏れ日。冬なのに新緑のように透明な芝生。長男の姿も、なんだか、妙にいとおしく見えてくる。なんだか、すてきで、幸せで、次から次へと、賛美があふれ出る。(近所に人がいないと、だんだん大きな声に) 「主はぶどうの木」(これは、長男もいっしょに歌った)「スピリット・ソング」「ああうれし我が身も」「鹿のように」「主にありてぞ」「I stand in awe」「All the praise belongs to you」「He is worthy (Come and see the beauty of the Lord)」「十字架のもとに泉湧きて」「主我を愛す」「いつも喜び 絶えず祈り」「みまえに集い」「あなたをたたえ」「聖霊の風の流れの中で」「Cares Chorus」…… そして、「君は愛されるため生まれた」…… 君は 愛されるため 生まれた君の生涯は 愛で満ちている君は 愛されるため 生まれた君の生涯は 愛で満ちている永遠の 神の愛は 我らの出会いの中で 実を結ぶ君の存在は わたしにとってどれほど 大きな喜びでしょう君は 愛されるために 生まれた今も その愛 受けている 君は 愛されるために 生まれた今も その愛 受けている 歌いながら、ふと、この歌の「きみ」の部分を、自分に置き換えてみようと思い立った! わたしは 愛されるため 生まれたわたしの生涯は 愛で満ちているわたしは 愛されるため 生まれたわたしの生涯は 愛で満ちている永遠の 神の愛は 我らの出会いの中で 実を結ぶわたしの存在は あなた(神さま)にとってどれほど 大きな喜びでしょうわたしは 愛されるために 生まれた今も その愛 受けている わたしは 愛されるために 生まれた今も その愛 受けている うわぉ!いやはや、これが、なんともいえない、いい感じではないか。ちょっと、うなじあたりが、こちょびたい感じもしたけど、自分で歌いながら、じ~んとしてしまった。いいでしょ、いいでしょ。これ。皆さんも、ぜひ、お試しあれ。 ↓ ↓ ↓ こんな感じの曲 ↓ ↓ ↓http://www.agape-tls.com/icbs/instr/oak_0205.ram オカリナのインストゥルメンタルがRealplayerのストリーミングで試聴可。ただし、お試し版のため1サイクルだけで、最後の数秒が途切れてる……。 というわけで、今日は、何がどうしたというわけじゃないんだけど、ものすごく、幸せに思えてきてね、なんだか、とってもすてきな日。 公園デボーション(勝手に名づけるな!)も、なかなか、いいかもしれないな。くせになったりして……。
2003年01月10日
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年末年始で、水金土の夜の仕事が、今日までなかったので、仕事が終わって、20時からの教会の祈り会に直行。来週からは、また、しばらく、祈り会には出られないなぁ。 今日のメッセージは、使徒の働き18章から。異邦人に対する伝道旅行をしていたパウロは、この使徒18章で、コリントの町に到着する。どのようないきさつで、このコリントの町までたどりついたか。 それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテ ヤの地方を通った。 ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、 私たちを助けてください。」と懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはただち にマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信 したからである。 使徒の働き 16:6、9~10 パウロたちは、A地点から、B地点に行こうと計画していたが、聖霊によってとどめられ、C地点、すなわちマケドニアに向かった。マケドニア地方では、まず、ピリピという町で投獄され、むち打たれるという迫害に会い(16章)、次の町テサロニケやベレヤでも、宣教に対する大きな妨害や迫害があり、追われるように向かったアテネでは、町中に偶像が満ちあふれ、神のことばに真剣に耳を傾ける者は少なかった(17章)。 そんなこんなで、コリントに着いたパウロの様子は、どんなだったか? あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと 私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われ でした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるた めでした。 コリント人への手紙第一 2:3~5パウロも、そんな時があったんだなぁ。自分の計画をとどめられ、神に従って歩みながらも、ぼろぼろの状態で、コリントにたどり着いた様子。疲労困憊、流れ流れて、という表現が適切かも。人間的には、ものごとを続けられる理由の第一は「自分で決めたことだから」。しかし、パウロは、自分の計画を翻し、神さまに従い続けたら、迫害と困難に遭遇し続けた。体力的にも、精神的にも、信仰的にも限界であったであろうか。だからこそ、神の力のみに支えられたと、パウロは述べているのだろう。そんなパウロに神さまの声が。 ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。 わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、 わたしの民がたくさんいるから。」と言われた。そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼ら の間で神のことばを教え続けた。 使徒 18:9~11この結果、コリントの町に、しっかりとした教会の礎が建て上げられることになる。しかし、この後、大ピンチが!パウロは、反感を持った地元のユダヤ人に捕らえられ、地方総督ガリオの法廷のもとに連行された。当時のローマ帝国のしくみは、今の日本のしくみと似ている部分があり、責任者は、任期中、どんな功労・貢献があったかは、そんなに重要視されず、不祥事がなければ、自動的に出世できる部分があった。ある意味、ピラトがイエスさまをユダヤ人に引き渡した理由は、そうしないことで、暴動が起き、自分の経歴に傷がつくのを恐れてのことであった。だから、地方総督が、同様の恐れを持ち、パウロをユダヤ人に引き渡すことは、十分に考えられる選択であった。まさに、首の皮1枚の絶体絶命のピンチ。しかし、この総督ガリオは、今の言葉でいうところの「政教分離」「民事不介入」を守り、つまりは、ユダヤ人たちの訴えを退けた。(歴史書によると、総督ガリオは、潔癖な政治家として、その名を知られていたらしい。) 総督ガリオが、ユダヤ人の訴えを棄却したことは、一つの判例のような効果をもたらし、広い範囲に、「パウロたちの伝えているキリスト教は非合法ではない」という印象を与えた。「あのガリオが、そう判断したのだから」という、彼が持たれていた良い評判も用いられたかも知れない。それは、それから10数年間、迫害のない時代が続くこととなったことからも伺い知ることができる。 さて、パウロがここまで、なしてきたことは何か。ただ、神さまの計画に従い、旅を続け、福音を伝え、迫害を受け続けただけ。ただ、神さまの約束を信じただけ。ただ忠実に。不本意な場所、納得のいかない仕打ち……。しかし、神さまの約束を信じ、従い続ける時、思いがけない結果が、神さまから与えられる。 これからも、神さまに従うことで、自分にとって、不本意なこと、納得のいかない状況に導かれるかも知れない。(導かれないかも知れないけど。)でも、ただ、忠実に、神さまの導きに従っていきたいな。神さまの約束を信じて。その背後に、はかりしれない神さまのご計画があるんだから。 祈り会のあと、牧師先生と会話。(分かれて祈るグループがいっしょだったので。)ぽん 「会社に残りなさいと言われたら残って、辞めなさいと言われたら辞めればいいんですね。 でも、時に、葛藤もあるでしょうね。でも、神さまに従っていけばいいんですよね。」牧師 「そうそう」ぽん 「大阪にいなさいと言われたら残って、出なさいと言われたら出て。いつまで大阪にいるのかな?」牧師 「大阪、ええとこやん。骨埋めたらええやん。」ぽん 「みこころなら。たとえ、不本意でも……」牧師 (ばきっ☆ と、ぽんの肩をたたきながら、笑いくずれていた)と、まあ、こんな会話を楽しんでいる今日この頃。
2003年01月08日
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今日の、教会での礼拝は、不思議な感じ。礼拝が始まると、間もなく、何だか、神さまの視線を感じたような気がした。私たち一人一人に命が与えられていること(神さま側からすれば、私たちに命を与えて下さったたこと)自体を喜び、微笑んでおられるようなイエスさまの目。礼拝を献げる、賛美を献げる、祈りを献げるなどの私たちの行為以前に、存在自体を喜んで下さるイエスさまの目。ほんわかほんわか。なんだか、とってもうれしくなってきた。メッセージの後の聖餐式では、北朝鮮の、とある話が思い出された。かの国は、10年近く前から、食糧不足が深刻になり、何10万人、一説では100万人単位の餓死者が出たとされる。自分の村の食料が尽き、ある家族が、中国を目指して、自分の村を脱出した。途中、病気だったお母さんが倒れ、お父さんと子どもに向かって、「自分はもうダメだ。死んだら、自分の体を食べて、生き延びておくれ。」と言って、言絶えた。その後、ようやく、国境地帯までたどり着いたものの、お父さんも力尽きた。そして「自分ももうダメだ。死んだら、自分の体を食べて、生き延びておくれ。」と言って、父親も息絶えた。兄弟は、半分、凍りかけた父親の体を食べ、ようやく最後の力を得、命からがら、中国に逃れたという。どこまで、真実か、デマか、確認はとれていない話だが、聖餐のパンがまわる間、そしてパンを食す時、この話が思い出されてならなかった。そう、私たちに「いのち得よ」「何としてでも救われてほしい」「赦しを受け取ってほしい」と、実際に、いのちを投げ出されたイエスさま。パンの一噛み一噛み、ぶどう酒の一飲み一飲みが、「おそれ多い、申し訳ない」という気持ち=罪の大きさと、「それらをすべて知っているから、喜んで十字架についたのだよ。」というイエスさまの気持ちとが入り交じった。イエスさまが弟子たちに仕え、彼らの足を洗って下さった、いわゆる洗足*、「わたしの目に、あなたは高価で尊い」とおっしゃる神さまの声。私たち、特に日本人は、ただただ、おそれ多く、申し訳なく思ってしまいがちかもしれないけど、それを乗り越えて、ただ受け取ってほしい、という主の熱心を思わせられる。十字架の犠牲でさえ、「さあ、わたしにつばきをかけて。さあ、わたしの手に釘を打ち付けて。そして、救われていのちを得てほしい。それが、わたしの大いなる喜びなのだから。」という声が聞こえてくるような気がした。 *洗足の記事 ヨハネの福音書13:3~10 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、 上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる 手ぬぐいで、ふき始められた。こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。 ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」 イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」 シモン・ペテロは言った。「主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください。」 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、 みながそうではありません。」 ● 今日の礼拝メッセージ 「何の益となる」 コリント第一14章 (今日は簡単に)「自分の傷を癒す最良の薬は、他者の傷に包帯を巻いてあげること」・自分の中に、本当の愛などないことを認める人の「愛」は、「相手を喜ばせた」という自己満足が伴うことがいかに多いか。そんな意味で、愛された人は、愛する人に利用されたとしか言えない場合も少なくない。聖書のいう愛の一形態。それは「人がその友のためにいのちを捨てる」こと。(ヨハネ15:13) そして、それは、もともと備わっている愛ではない。・愛がないことを認めて、そして求める「愛を追い求めなさい。」(1節) 今日の箇所の冒頭のことば。原語では、「求め続けなさい」の意。同僚が、先に昇進した時、あるクリスチャンは、トイレに駆け込み、「わだかまりなく接することができるように。」と祈り、(ちょっと長い時間こもっていたようだが)、トイレから出た後、不思議に、落ち着いて会話できた。「求めよ。さらば与えられん。」まずは、求め続けること。時に劇的に、時に徐々に、しかし確実に、それは与えられる。・「本当の愛」を追い求めるコリントの教会は、人の徳を建てるはずの賜物の現れが多く見られたようであるが、最初の愛を失ってしまった。例えば、「霊的な賜物が与えられた」ということが、その人の評価につながったりする危険性。曽野綾子が著書の中で、親が、愛情という名のもと、子供のためによかれとして行うことの多くが、実は、親自身が到達できなかった、あるいは挫折した夢であり、また、自分が恥ずかしいと思われないため。 本当の愛は、与えるもの。与えるだけのもの。 礼拝の中で歌った讃美歌391番「ナルドの壺ならねど」。しんみり、心に響いてきた。去年の2月に大阪ケズィックで聞いたメッセージが、鮮やかに思い出される。油が流されるためには、壺は、割られなければならない。一度、割られたら、元通りにはならない。しかし、壺が割られ、砕かれることにより、油が注がれ、流され、その麗しい香りを放つ。まさに、父なる神は、イエス・キリストを壺として献げて下さり、割り、うち砕くことで、栄光が現され、私たちの罪が赦されたのだ。 ● 昼食を食べながらの交わり会今日は最初はたんたんと、徐々に熱くなっていた。最も心に残ったのは、「異言」と「預言」について。文字通りには、異言は、話したことのない外国語のようなものと言われるが、ある意味、愛がなく、相手に伝わらない、響かない言葉を、私たちが発する時、それは、比喩的に「異言」になってしまうのでは、ということ。ある意味、神さまから出たことでないことを話す時、それが異言になってしまうのかもしれないな。イエスさまのことをお話ししても、議論や説得みたいになってしまうことはないかな。探られる。
2003年01月05日
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年末に急に思い立って、会社の健保の提携施設に予約を入れた。初めての手続きだったのだが、予約を入れた日がちょうど、宿泊の1週間前で、ぎりぎり宿泊利用券を発行してもらえた。あぶないあぶない。南紀白浜は、初めて。家族5人での温泉旅行も初めて。 ● 1月3日 ● 10時半過ぎに、出発。途中、ガソリンを補給し、高速に乗り、一路、和歌山へ。雨足が、だんだん、強くなってくる。40分ちょっとで和歌山。昼食を取るため、和歌山インターで、いったん降りる。ネットで調べたラーメン屋が、インター近くにあり、年始なので、休みじゃないか不安だったが、とりあえず行ってみると、営業していた。しかも、12時開店のはずなのに、15分前には、すでに営業していた。しかも、空いている!650円のラーメンなのに、10センチ四方くらいで、厚さ7ミリくらいの焼き豚が3~4枚も入っている!ねぎがたっぷりで、太麺がいかしてる!子供たちも大喜び。 12時半過ぎ、再び和歌山インターから高速に乗る。途中、みかん畑の景色が続く。御坊から先は、まだ高速道路が建設中、一般国道を走る。正月休みということで、車の列は延々と続く。基本的に田舎なので、だらだら流れるが、時々、市中に入ると、信号があるため渋滞する。何となく、房総半島のような感じ。田辺では、地元スーパーで、おやつなどを買い込みがてら休憩し、残り20キロの先を急ぐ。距離的に一番短いルートは、大渋滞している様子だったので、白浜駅経由で迂回。この頃には大雨。結局、ホテル着は3時半過ぎ。ホテルは、施設も部屋も新しく、とってもきれい。子供用の浴衣があったので、3人に聞いてみると、着てみたいというので、変身!11階に大浴場と家族風呂があって、妻&子供たちは各1回ずつ入る。上の2人にとっては、久々の温泉だったが、今回は、もう聞き分けはつくし、いろんなことが分かるようになってきたため、すっかり、温泉びいきに。下の長男も、お風呂がおもしろいらしく、なかなか浴室を出ようとせず、また、部屋に戻っても、「お風呂、お風呂」とすっかりはまった様子。夕食後は1時間だけ、ホテル内でカラオケ。 夜は、早めに休むが、室温は最適なのに、温泉効果で体が火照っているのか、布団が高級すぎて熱がこもるのか、布団に入ると寝苦しい。子供たちは、寝てからも、寝返り打ちっ放しだった。わたしは、みんなが寝てから12時過ぎまで、静かに読書。 ● 1月4日 ● 6時半過ぎ起床。妻と子供たちは、朝風呂に。朝食はバイキングスタイル。9時過ぎ、わたしと長男のみ、最後のお風呂へ。温泉デビューの長男が、結局、最多入浴回数4回を記録。昨日の雨も上がり、曇りがちだが、ところどころ青空ものぞくような微妙な天気。10時にチェックアウト。地図を見ながら、裏道コースで帰路につく。1時間半ほどで御坊へ。スーパーで寿司とフライドチキンを買い込み、日ノ岬へでお昼。寒かったけど、この時間だけ、風が多少、収まり、すてきな景色を堪能。四国が目前に見え、徳島の街並みや、遠くには、かすかに鳴戸大橋まで見えた。(初めて初めて)高速に乗り、1箇所だけ渋滞があったが、他はスムーズ。和歌山を過ぎてから、たびたび横風にあおられる。帰りは、阪神高速湾岸線経由で帰宅。夕食の準備もなかったため、寿司の出前を頼む。夜、ぐっと冷え込み、いつの間にか雪もちらほら。寒い寒い。 ---------------- フィリップ・ヤンシーの「だれも知らなかった恵み」を読み続ける。今のところ、大きな2つの気づきというか、とっかかりを与えられている。・当たり前といえば当たり前だが、手紙が、手紙を書いた人の意志を表しているのと同様、聖書が、神の視点による神の意志が書かれている書物であることを、念頭に置く必要。神は人を愛し、恵みを与えたいし、赦したくて赦したくて、仕方がない。・「赦し」の奥深さ。「赦し」は、傷を受けた側の主体的な行為。だから、赦す側が赦しても、赦された側に何の変化もないかもしれないし、加害が続くこともあり得る。「赦し」とは、傷を与えた側の態度に依存しない一方的なもの。神は、人を赦して下さった。そのひとり子を滅ぼすことを選ぶほどに。
2003年01月04日
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さて、昨日は「今年の抱負」を書き損ねてしまったので、それから……。 昨日の元旦礼拝のあとは、そのまま、お汁粉をいただきながら愛餐会(昼食会)。(で、毎年恒例ってことは、忘れていたが)、今年の抱負の分かち合いがあった。前の年に洗礼を受けた人が、最初に抱負を語り、次からは、誰かを指名する形で、愛餐会は和気あいあいと、進んでいた。が、途中で、突然、「かっこいい ぽんさん!」と指名され、抱負を語る羽目に。あまり、ちゃんと考えていなかったので、昨年暮れから教えられていることを、お話しさせていただいた。 信仰生活を送っていると、「神さまの助けによって」「聖霊の助けによって」というメッセージをよく聞く。もちろん、その通りなのだが、いつの間にか、単なる「助け」にしてしまっていたことに、気づかされている。最近、ちょっと流行の「サプリメント」(健康管理や美容などの目的のため、栄養・ビタミンを補給するカプセル・錠剤・飲料など。いわば補助栄養剤とでもいおうか)。いつの間にか、「神さま」を、サプリメントみたいに、ちょっとだけ「助けてもらう」「補助的な」位置に置いてしまっていたことに、気がつかせられた。うわぉっ!「サプリメント」以前に、神さまが、自分に命を与えてくださった。強いか美しいかは別として、体も健康も、ただ神さまから与えられた贈り物。もとから与えられているものには、あまり目を留めず、それどころか、自分のものと錯覚し、枝葉みたいな部分のみを、サプリメントで維持したり、ちょっと改善したりしようとすることは、結果的に、神さまに対して失礼だったなぁ。ごめんなさい。飛行機やロケットに例えれば、「メインエンジン」を自分の主導権のもとに置いていたのかな。ふだんは、自分の力で飛び、行く方向さえ、自分の思いで、自分が考えて決める。困った時のため、緊急用、もしくは、ちょっとした軌道修正用だけに「神さま」もしくは「信仰」という名の「補助エンジン」を搭載していたようなもの。自分が飛ぶ必要はない。ただ、神さまの指示に従って、神さまが必要とされる時に、メインエンジンを点火し、神さまの管制に従って、神さまの目的に向かって飛んでいきたいな。 神さま、行くべきところに導き、行くべきでないところに、行かないようにして下さい。 語るべきを語り、語るべきでなきを語らず、なすべきをなし、なすべからずをなさず、 わたしの思い、力、努力ではなく、ただ、あなたのわざにより、みこころだけをなして下さい。 そんな意味で、「神さまの助け」を求める対象を、自分の全生活にしたいと思う。そう、信仰自体、神さまから与えられた、尊い贈り物なのだから。自分の力では、知り得なかった尊い知恵なのだから。その時点で、いや、それ以前に、「神さまの助け」があったのだから。というわけで、今年の抱負は、名付けて「脱サプリメント」&「聖霊100%主導型生活」ちょっとかっこよすぎるかな? 年末に、教会員のNさんから、お借りしたフィリップ・ヤンシーの「だれも知らなかった恵み」を、ようやく読み始めた。まだ、100ページ弱しか読んでないが、おもしろい。おもしろいというか、「恵み」について、じっくり、時にぎくっと、考えさせられる。ぐいぐい、引き込まれる。自分の本だったら、線引きまくりだ。 恵みとは……「絶対にそれを得られないはずの人々、それを受け取る視覚をほとんど持っていない人々に惜しみなく振る舞われ」るもの(22頁)。「自力で得たわけでない贈り物や予想外の喜び」「ひょっこりやってくるもの(アメリカでは、車のバンパーに貼るステッカーに、そういうのがあるらしい」(38頁)。 しかし、現実に、福音的な教会が、この世にもたれているイメージは…… 昔の具体的な罪を犯し、後悔している人が、教会に、真に切に求めているのは、恵みなのだが、「恥や懲罰という脅し、あるいは裁かれていると感覚に出会うことがある」(26頁)。政治的に持たれているイメージ「中絶反対を声高に叫ぶ人々、ゲイの権利に反対する人々、インターネットを検閲しようとする提案……」(27頁)。「喜びがなく堅苦しい」(27頁)。 「恵みに非ざるもの」が、なぜか、いつの間にか、教会に入り込んでいる。自分の中にも、根深く入り込んでいる。それは、「道徳主義」であったり、「律法主義」であったり。 自分自身を、深く省みさせられるだろうことになるだろうが、神さまに力をもらって、その自分の弱ささえ、直視し、読んでいきたいな。神さま、理解すべきを、教えて下さい。 さあ、明日から、南紀白浜へ、1泊家族旅行だぁ。
2003年01月02日
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明けましておめでとうございます。 皆さんの上に、神さまの豊かな祝福がありますように。 この1年も、どうぞ、よろしくお願いします。 さて、今朝は11時から、元旦礼拝。家族で教会へ。●元旦礼拝 新約聖書 コリント人への手紙第一 10章から 冒頭のたとえ話5歳の子どもを自転車に乗せて、近くの体育館に、お兄ちゃんとお姉ちゃんを迎えに行く。途中、林のようなところを通らなければならない。冬場は、日が落ちるのが早く、そんな季節には、人気のない、しかも明かりのない闇の中を、しばらく通らなければならない。しかし、5歳のその子は、いやがるでなし、不安や不満を感じるわけでなし、ただ、自転車に乗せられているだけ。それは、父親である自分(牧師)を、信頼しているから。一時的に、怖いかもしれないけど、行くと言ったところにちゃんと連れて行ってくれることと、何かあった時には、必ず助けてくれると、単純に信じているから。神さまに対する信仰も同様。 ポイント1 神さまとの生きた関係・交わりモーセによる出エジプトの際、紅海の水面が分かれ、その間を通過したこと(1節)は「洗礼」を、「同じ御霊の食べ物・飲み物」(3~4節)は「聖餐」を暗示していないか。そのようなすばらしい経験した民のほとんどは、しかし、罪を犯し、滅ぼされ、約束の地を踏むことができなかった。(5節)どんな奇跡的なできごとを体験しようと、外面的に立派な信仰生活を送っていようと、そのような「実績」「形式」は、魂の救いとは、何ら関連もないし、関係を及ぼさず、何の役にも立たない。 ポイント2 どんなことも、神さまに信頼し抜く 「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、 あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、 耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」 コリント第一 10:13 改めて解説する必要のないほど、単純で励まされる、そして有名なみことば。一つだけ、注目すべきは、パウロは、「試練」の存在を前提に、この手紙をしたためていること。「試練」=「思い通りにならないこと」が満ちあふれた私たちの人生。しかし、自分の思い通りに行かない立場にあっても、神の摂理と計画の確かさを思う時、必ず、平安が与えられ、また、脱出の道が備えられていることを感じることができる。 ポイント3 神さまを愛し、神さまの愛することを望み 喜ぶ 「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わす ためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにし なさい。私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなこ とでも、みなの人を喜ばせているのですから。」 (同10:31~33)10章の最後の部分は、パウロが、どれほどまでに福音宣教に燃えていたか、どんなに、ユダヤ人に、そして異邦人に福音を伝えたかったかが、熱くつづられている。そして、このパウロの願い、すなわち、一人でも多くの人が、イエス・キリストを受け入れ、救われることは、そっくりそのまま、神さまのご意志の反映であった。パウロは、まさに、神の意志を、自分のものとして、その使命に生き続けた 教会(クリスチャン)に対して、イエス・キリストはおっしゃられている。 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」 ヨハネの福音書 15:12また、使徒ヨハネも、手紙の中でこう記す。 「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者は みな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だか らです。」 ヨハネの手紙第一 4:7~8人の弱さ。それは、私たちが愛する対象は、相手がすてきな人物であったり、自分にとって利用価値がある人物である場合がほとんど。しかし、イエス・キリストは、弱い人、自分にとって利用価値のない人を、実際に愛し抜くことで、手本を見せて下さった。その上で、「互いに愛し合うこと」で、キリストの体である教会を建て上げなさいと言われる。(12章以降、具体例に入る) キリストの愛を実践し、一致し、互いに喜び、笑い、苦しみ、泣き、いたわり合う、そんな教会を建て上げよう。それが、神さまが喜んで下さること。 神さま、あなたの大きな愛と恵みと憐れみと御力によって、あなたと生きた交わりを保ち、どんなことも、あなたに信頼し、あなたの喜びをわたしの喜びとさせて下さい。わたしに、その力はありませんから、ただ、あなたにより頼みます。わたしが、自分の力や努力により頼むことがありませんように。ただ、その時々に、守りと知恵と悟りを与えて下さり、どんな場合も適切に処理していけますように。また、教会が、愛に満たされ、あなたのみこころのままに、その体が建て上げられますように。 ●今年の抱負(メッセージは要約しようと思ってたけど、内容を反芻していたら、あらためて感動しちゃって、 長くなっちゃったので、「今年の抱負」は、また明日!)
2003年01月01日
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