2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
全12件 (12件中 1-12件目)
1
いろいろ忙しく、今年の主題聖句をアップするのをすっかり忘れていました。(仕事もまあ忙しいけれど、韓国ドラマ「天国の階段」1時間×20話分を視聴したり、送られてくるドクター・ルークのメッセージの文章を読んだり、ネットで聞けるメッセージを聞いたり などなど・・・) あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。 ヨハネの福音書 3:30今年のテーマはこれ!「あの方」とはキリストご自身。私の中に住まわれるキリストご自身。古い肉の自分は、主イエスと共に十字架上につけられ殺されたのだけれど、まだ痕跡として残って影響を及ぼす「私」の部分。けれど、自分を支配するのが、もはや自分でなく、わが内におられる主キリストご自身であることの確認。日々、「私」の痕跡が衰え「あの方」が形づくられることを、切に望みます。 私はキリストとともに十字架につけられました。 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。 ガラテヤ人への手紙 2:20 ちなみに、このメッセージ文章が、今年のテーマのきっかけとなった出所です。
2005年01月31日
コメント(3)

昨年末から、3冊のすばらしい本を読んでいる。一冊目は「境界線ー聖書が語る人間関係の大原則」、ところがこの本、中身は濃くてぶ厚く、3分の2ほどまで読んだところで一時休止状態。でもでも神さまからの深~い語りかけを、たっくさん受けている。二冊目は「真理はあなたを自由にする~「ファクターX」の再発見」。12月中旬に、ネットでお世話になっているのぶさんが、著者であるドクター・ルーク・カラサワ先生のメッセージを紹介してくださって、その内容というのが、この1年半か2年くらいの間に自分が経験させていただいたことが、ずばりずばり示されていて、ちょっと興奮しながら、年末に購入し、あっという間に読んでしまった。主に直接に取り扱っていただくことのすばらしさ、みことばを主ご自身の偉大さを、改めて思わされた。そして、年末に「真理は・・・」と同時に、衝動的に買ってしまったのが「天国の人」。ものすごい迫害下の中国で、ただ主の導きに従って福音を宣べ伝えたブラザー・ユンの自伝。時に、牢獄や労働改造所に入れられ、過酷な労働や拷問やいやがらせにさらされながら、必ず不思議な力と助けが与えられ、その場が宣教の場とされ、囚人や時に看守たちが一人また一人とイエスを信じ、弟子となっていく様子が印象的。そして、今日、会社に行く途中で読んでいたら・・・ 私は、警官たちを先導して、雪の中を東の村に向かった。警官たちは私を掴んで、命じた。 「早く、どの家か言え!中へ連れて入れ!」 私は、混乱した振りをして叫んだ。 「ああ、この村じゃない。間違えた!仲間は別の村にいる!」 警官は私を地面に投げ飛ばし、殴り、蹴りつけた。もう一度、電気ショックを与えるために棒が使われ た。主が守って下さらなければ、本当に死んでいただろう。 何人かの兄弟姉妹が、距離を置いてそっと後をつけていた。私が懲らしめられているのを見ると、みん な悲しみに襲われて祈り始めた。警官たちが、これに気づいた。 私は信仰者たちを危険にさらしたくなかったので、もう一度叫んだ。 「私は、天国の人。集会のことなんか知らない。後ろに付いて来ている人たちのことなんか、何も知ら ない。天国の人は、ユダのようにはならない!私が知っているのは、天におられる主だけだ」 兄弟姉妹たちは、私の警告に気づき、後ろを向いて逃げ出した。 警官らは、私の策略に気づいて激怒した。私と四人の同労者は、舞陽に移すために用意されていたトラ ククーの後ろに押し込められた。まるで屠殺場に向かう家畜のように、私たちは一本のロープで互いに縛 られていた。トラククーの後ろに立ちながら、私は大声で歌った。 最初に血、次に油注ぎが与えられる 最初に浄められ、次に主からの祝福を受け取る 最初にカルバリを経験しないと、ペンテコステはやってこない 十字架よ、十字架よ、永遠に私の栄光 主の血潮は、私の罪を洗い流した 主イエスの血潮だけを通して 私たち五人は、警察署内部の留置場に入れられた。気温は優に氷点下まで下がっていた。暖房器具はな い上に、コートははぎ取られて雪の中に投げ捨てられていた。私たちはがたがたと震え、四肢は青くなっ た。ほとんど意識を失いかけた。冷たい手錠が、膨れあがった手首に食い込み、ナイフで切られるよう だった。 私は手錠を使って、ドアや窓の鉄格子を叩いた。留置場の一角に、壊れた木の箱があるのが目に入った。 中は古いドラム缶だった。私は手錠でドラム缶を叩いて、大きな音を立てた。出来る限り大きな声で、詩篇 一五〇編を歌った。 ハレルヤ。神の聖所で、神をほめたたえよ。御力の大空で、神をほめたたえよ。 その大能のみわざのゆえに、神をほめたたえよ。そのすぐれた偉大さのゆえに、神をほめたたえよ。 角笛を吹き鳴らして、神をほめたたえよ。十弦の琴と立琴をかなでて、神をほめたたえよ。 タンバリンと踊りをもって、神をほめたたえよ。緒琴と笛とで、神をほめたたえよ。 音の高いシンバルで、神をほめたたえよ。鳴り響くシンバルで、神をほめたたえよ。 息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。 歌えば歌うほど、喜びに満たされた。私は立ち上がって、主を賛美した。徐々にかじかんだ手も足も感 覚を失って、もう冷たいとは感じなくなった。四人の兄弟は床にひざまづいて、この国のために熱心に 祈った。外では肌を刺す風がひゅーひゅーと唸っていたが、留置場の中には、すすり泣きながらうめくよ うにとりなす祈りの声が聞こえていた。 警備官は、ドラム缶をたたく音と歌にひどく怒っていたが、暖かいベッドから出てまで私を止めようとは しなかった。私たち五人は、一晩中お互いを勇気づけ、励ましあった。私たちは、まるでシャデラク、メ シャク、アベデ・ネゴのように、主の霊があるところには自由があることを学んだ。凍えるような留置場 であろうと、燃えさかる炉であろうと。ハレルヤ!う~ん、今日の聖書日課、詩篇150篇。あまりのタイミングのよさに、びっくり!!!人間的には賛美しえないような状況で、朝、読んだばかりの箇所の内容同様、文字通り、あらゆる道具をもって賛美されている姿・・・神さまは、何を教えようとされているのかなぁ。
2005年01月25日
コメント(1)
それでは、どのような善に対しても全く無能で あらゆる悪に傾いているというほどに わたしたちは堕落しているのですか。 そうです。 わたしたちが神の御霊によって再生されない限りは。 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。 創世記 6:5 「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。」 創世記 8:21 だれが、きよい物を汚れた物から出せましょう。だれひとり、できません。 ヨブ記 14:4 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。 イザヤ書 53:6 イエスは答えられた。 「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。」 ヨハネの福音書 3:3~5またまた、礼拝で交読されているハイデルベルグ信仰問答から、びびっと来た箇所。「わたしたちが神の御霊によって再生されない限りは」「どのような善に対しても全く無能で、あらゆる悪に傾いているほどに、わたしたちは堕落している」思いっきり、逆からアプローチしてみます。ということは、御霊によって再生されれば、どのような善に対しても有能となり、あらゆる悪に傾かず、堕落しないということですよね。 わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。 人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。イエスを信じ、御霊によって新しく生まれた私たちキリスト者。主による、十字架・復活・昇天・聖霊降臨を通じて、再生された新しい命が与えられていることに感謝、ハレルヤ!
2005年01月23日
コメント(0)
「アーメン」という言葉は何を意味していますか。 「アーメン」とは、それが真実であり、確実である、ということです。 なぜなら、これらのことを神に願い求めていると、 わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、 わたしの祈りはこの方に聞かれているからです。 彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。 イザヤ書65:24 神の約束はことごとく、この方において「しかり。」となりました。 それで私たちは、この方によって「アーメン。」と言い、神に栄光を帰するのです。 コリント人への手紙第二 1:20 私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。 テモテへの手紙第二 2:13毎週、礼拝の中で交読されているハイデルベルグ信仰問答。一昨日のこの文脈が、心に突き刺さってきた。(これは決して大げさな表現にあらず!) 「アーメン」とは、それが真実であり、確実である、ということです。 なぜなら、これらのことを神に願い求めていると、 わたしが心の中で感じているよりもはるかに確実に、 わたしの祈りはこの方に聞かれているからです。まさに、このこと自体がアーメン! 真実なり! しかり! 内なるキリストの現れ出である祈りが与えられていることを感謝します!!!
2005年01月11日
コメント(0)

今日の一日一章聖書日課は、詩篇135篇。 ハレルヤ。主の御名をほめたたえよ。ほめたたえよ。主のしもべたち。 主の家で仕え、私たちの神の家の大庭で仕える者よ。 ハレルヤ。主はまことにいつくしみ深い。主の御名にほめ歌を歌え。その御名はいかにも麗しい。 まことに、主はヤコブを選び、ご自分のものとされ、イスラエルを選んで、ご自分の宝とされた。 まことに、私は知る。主は大いなる方、私たちの主はすべての神々にまさっておられる。 主は望むところをことごとく行なわれる。天で、地で、海で、またすべての淵で。 主は地の果てから、雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。 主はエジプトの初子を人から獣に至るまで打たれた。 (1節~8節)まず、2節「主の家で仕え、私たちの神の家の大庭で仕える者よ。」に目が留まる。「主の家」「神の家の大庭」とは神殿。神殿とは、礼拝といけにえをお献げする場所。旧約時代には、そこに仕えることができるのはレビ人だけであった。しかし、新約時代の今、キリストが大祭司となられ、私たちも、聖霊によって、個人的に神と交わる手段を持つ、すなわち万人祭司とされた時代に生きている。なんという感謝!4節「まことに、主はヤコブを選び、ご自分のものとされ、イスラエルを選んで、ご自分の宝とされた。」「選び」 「ご自分のもの」 「選んで」 「ご自分の宝」 ・・・・・神さまの側の働きかけ、思いの凝縮をひしひしと感じる。神さまの側では、探し出し、選び出し、大事に大事に思って下さっている。誰のことを?そう、私のことを。聖書が語りかける、この自分自身の真のアイデンティティを、この詩篇の作者のようにリアリティをもって感じさせていただけるとは、なんという幸い!5節 「まことに、私は知る。主は大いなる方」「神さまを知る」ということの本質的な意味を、長い間、知らないでいた。ことばでは、分かるような気がしていたが、ただ単に神さまを認識する程度で終わっていたのかもしれない。でも、主の不思議なお取り扱いによって、主ご自身の御臨在の世界に目を開かれ始めてから、これほど麗しい、慕わしいことはないのだ。主を知ると、主の御臨在に包まれ、不思議な平安で囲まれ、もう言葉にできないそのすばらしさに、神さまを賛美せざるを得ない。「比べうるものなし」「キリストにはかえられません」、と代々の信仰者たちは証言してきたけれど、そう表現せざるを得ない心境がうなずけてくる。これまでの生涯で感じてきた、どんな幸福感とも、安心感とも、まったく次元の違うとしか言いようのない、まさしく比べることのできない圧倒的な喜びと感謝と平安、それは、主を知ることによって与えられる。主を知ること自体、神さまからのでっかいプレゼントなんだけど。神さまが、こんなに私たちを大事に思い、愛してくださっている。それが、神さまが、私たちに持ってほしいと願われているアイデンティティ(存在価値)。そして、その方との親しい交わりに入れていただけたなんて、なんて幸せなんだろう。神さま、感謝します。ただただ感謝し、あなたを知ることを喜びます! お昼は、家族で電車で和歌山に出かけ、バスで市内のラーメン屋さんへ。去年も来たこの店、ちょっと魚風味のだしでおいしい。ちょっと(というか、そのまんま)レトロっぽさも、またなつかしい感じ。
2005年01月10日
コメント(0)
今日の礼拝は、教会員唄野隆先生のメッセージ。一日一章聖書日課、詩篇134篇から「さあ、主をほめたたえよ。」 都上りの歌 さあ、主をほめたたえよ。主のすべてのしもべたち、夜ごとに主の家で仕える者たちよ。 聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ。 天地を造られた主がシオンからあなたを祝福されるように。134篇は、全部で15ある「都上りの歌」の最後の詩。イスラエル全土からやってきた巡礼団が、一週間ほどのエルサレム滞在を終え、家路につく時の歌とも考えられる。夜も明けきらぬ早朝、家路につくため、エルサレムを後にする人々。まだ薄暗い中で、彼らが目にしたのは、夜通し神殿に仕える祭司たちの姿。その目につかない地道な奉仕者たちへの祝福を祈った歌ということになる。1節で「さあ」との呼びかけ。この箇所、ある聖書では、「見よ」あるいは「視よ」という訳が当てはめられている。また、「来い」と訳されている聖書もある。つまり、注意を喚起する呼びかけ。 > 讃美は漫然とささげたり、感情に流されて陶酔したりするのでなく、深い理解と感謝と畏れとをもってささげられるべきもの賛美するためには、賛美する相手がどのような方かを知る必要。相手がよく分からないままに、賛美することはできない。 > 人間の世界でも「あなたはすばらしい」と言われても、なぜそう誉められるのか全く分からない誉められ方をされると、 > うれしいよりも、気持ちが悪い。賛美をささげるに当たっては、相手がどのようなお方かを、はっきり思い起こし、しっかり認識する必要。続いて「ほめたたえよ」との命令。主は天地のつくり主であられ、万物を御支配したもうお方。被造物からの献げものや奉仕などを必要としない。しかし、主は、ご自身との交わりのために人をつくられた。 > 畏れをもって崇敬すること。愛をもって近づき、賛嘆の思いをもって喜ぶこと。それは、主ご自身を深く知り、 > 主を正しく評価することから来る。主がなさったことを礼賛するだけでなく、主を愛し主ご自身をお慕いする > ことから、主にふさわしい賛美が生まれる。 > 神が私たちをご自分のかたちに想像し、私たちが罪を犯した時一人子の血をもって購ってくださるほどに私た > ちを高く評価し大事に思ってくださっているのだと分かった時、私たちは主に感謝し主のみわざをほめたたえ > 主ご自身を喜び賛美されるようにされる。(この辺のくだりが、よくよく実感できた。神さまの愛の大きさ、すばらしさ、なして下さったみわざ、 そして主の内住と御臨在を、今ははっきりと感じられるようにされているから。だから神さまを思うこと自体、 臨在に下りていくことであり、即、賛美に直結する感じ。 主の臨在ということがぼんやりしていた頃は、実のところ、神さまに頼っていなかったし、信じられていなかった ったのだと思う。たとえば、賛美には、慰めや励まし、確信のことばがたくさんある。「恐れるものなにもなし」 「たましいを揺さぶるを得じ」「キリストにはかえられません」「主にすがる我に悩みはなし」・・・ 落ち込んでいるから、賛美のそういった歌詞で自分を引き上げ、励まそうとしたり、気休めにしてたのかな。 要は、現実になっていない分、賛美で背伸びしたり、言い聞かせようとしてた部分があったんじゃないかなって。 でも、臨在を知ってからは、それらの歌詞が「絵に描いた餅」じゃなくって、もう現実であり真実なんだ。 だから、賛美する前に、すでに、主と共にいることの安心感、うるわしさ、平安と確信に満たされていて、賛美の 内容が、「そうそう、その通り」「うわぁ、この作者も、実感と確信があったから、こんな歌詞で表現したんだ ろうな」と、妙に共感しちゃったりして、ますますうれしくなってきたり。 おっと、メッセージの続き続き・・・)1節後半「夜ごとに主の家で仕える者たちよ」帰途につく巡礼団が、神殿で夜通し働く祭司たちへの呼びかけ。昼も夜も、神さまの臨在のみもと、神殿で働く祭司たち。それは大きな恵み・祝福であり、特権ともいえる。しかし、一方でさまざまな誘惑。夜中の仕事では、居眠りしたり、退屈さゆえおしゃべりしたくなったり。毎日の奉仕であるからマンネリ・慣れから来る怠惰や無感動・形式化、また特権意識・優越感・・・。今日でいう聖職者らが、そのような危険から守られるよう、信徒の側の祈り支えの必要性。そして、祭司(聖職者)の重要な役割は、神礼拝のよき模範を示すこと。牧会者こそ、神さまとの親密な交わり・祈りを体験する必要がある。また、一般の信徒も、その聖職者たちがそうなるよう、背後で支え助ける必要。礼拝の最後の祝祷。牧師が信徒に対して祝福を祈る。そして背後では、信徒の側の聖職者を支えるための祈り。それが祝福しあい、共に賛美する共同体の姿。 > 主の民は「祝福された」たみであり、「祝福する」民である。今日の私たちも、主の祝福を受けて生かされ、主を > ほめたたえ、兄弟姉妹、互いに祝福しあう交わりの中で生き成長する。具体的には、礼拝に共に集い、心を一つに > して主を賛美し、互いに祝福のことばを交わし、最後に牧師の祝祷のことばを聞いて会堂を去り、それぞれの生活 > の場、証の場に遣わされていくのである。今日の恵み賛美のすばらしさ再確認。祝福し、祝福されあう交わりのすばらしら。神さま、感謝します! ハレルヤッ!
2005年01月09日
コメント(0)
詩篇133篇 都上りの歌。ダビデによる 見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。 それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。 それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。1節の「兄弟」ということばに目が留まる。なぜか、横のつながりではなく、「兄弟」を「兄弟」たらしめる縦のつながりを思わされた。その直後、○親等という概念が思い出された。親と子は一親等、兄弟のつながりは二親等・・・つまり、兄弟のつながりは、親が「要(かなめ)」になっているということ。横のつながりの前に、たてのしっかりしたつながりがあるということ。ちょうど、さくらんぼの2つぶが、房を通して、上でつながり、交わっているように。そして、キリスト者は、父なる神さまの子とされ、連なる兄弟姉妹。世でいうところの「人類みな兄弟」のような単なる理想ではない。一人一人が、キリストと固く深く結ばれれば結ばれるほど、横のつながりも祝される。イエス・キリストの血によって買い取られた一人一人の集まり・・・ そしてその集まりと交わりの楽しさ・・・後半の「頭の上に注がれた油」「ヘルモンの露」にも思いを寄せる。頭に注がれた祝福が、頭だけでなく、祭司職のひげに流れ落ち、衣のえりにまでしたたり落ちる。ヘルモンを潤し尽くした雪や雨が、流れに沿って気化した水分が、エルサレムにて結露する。よいものが、あふれあふれ、満ち満ち、本来、注がれた場所を潤すのみならず、すみずみまで行き渡る様子が示されているように思えて。特に「シオンの山々におりるヘルモンの露」という表現には、空気中に吸収しきれないほどの水分が、いわゆる飽和に達し、露となって現れ出るような、麗しい表現だなぁって。キリスト者の交わりの中に、さらに主のすばらしい祝福が注ぎ続けられ、すみずみまで潤す。なんとすばらしいことだろう。 今日は、朝から、教会隣接の唄野家にて、毎年恒例の新年家庭集会。今回のゲスト講師は、「生活の中の霊性セミナー」でいつもお世話になっている太田和功一先生。霊性セミナーの要領で、午前中はこの1年を振り返ったあと、気づかされたことを隣の人と分かち合い。隣には・・・? 今回、太田和先生関連の集まりには初登場の奥さま!奥さまは、自分の内面、心の声をを探るという作業が初めてだったことと、やっぱり夫婦で内面をさらすことに慣れていないことで、最初はぎこちない分かち合いだったけれど、ちょっとずつ、お互いの理解を深めることができた。感謝感謝感謝!午後は、余命が半年だったらという課題。ちょうど、自分の父が召されて直後だったので、天国がとても身近に感じられつつ、限られた時間内での優先順位に思いを馳せる。夫婦で、命について考える貴重な機会。奥さまは、「ゆっくり、今までのことを振り返ったり、考えたりする時間が与えられてよかった。」とたいそう喜んでいた。子育て真っ最中の主婦にとっては、それはそれは貴重でぜいたくな時間だったよう。う~ん、何だか、神さまの回復のわざと、今回のタイミングが絶妙にリンクしているように思えて。それから、夫婦の関係も、まさに今日の朝の聖句のとおり、それぞれが神さまと固く深く結ばれることで、ごく自然に(夫婦であっても)主にある兄弟としての、すばらしい交わりに入れられるんだなって。(今日は、一日中、頭の中は、さくらんぼが飛び回っていたよ。主にあるさくらんぼ!)新年家庭集会のようすは、リトル・ドンキーさんの日記でも詳しく紹介されています。ご参照あれ。
2005年01月08日
コメント(1)
詩篇131篇 都上りの歌。ダビデによる 主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。 まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、 私のたましいは乳離れした子のように御前におります。 イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て。「及びもつかない大きなこと」「くすしいこと」っていう表現から、なぜか将棋の駒を思い起こした。(ワレナガラヘンナヤツ!)自分が何の駒で、どんな効力を持つのかさえ知らない将棋の駒。でも、棋士の手によって、自在に操られる。時に、王を助けるために、捨て石とされたり、(駒にとっては)知らぬ間に置かれた場所で、実は王手飛車取りとなっていたり・・・駒自身が、そこに行くと死ぬからいやだよぉと言おうが、こっちに行きたい、そこはいやだ、と言おうが、すべては棋士の手によって動かされる。まあ、人間の棋士の場合、ミスることはあるかもしれないけれど、キリスト者が身を委ねるお方は、神さまご自身。その神さまの御手によって、自由に操られる。(本人が望んでいれば)そして、その道は完全。失敗も遅延もない確実なお方。御手にお委ねしていれば、たとえ我が身が痛い思いをしても、どこかで誰かの何かの役に立っているということ。無駄はない。導きに柔らかくお従いしているだけで、知らない間に、知らない場所にさえ、よい影響を及ぼす。本人が気づかないところで、王手飛車のようにものの見事に用いられる。そう、本人が、そんな影響を及ぼしているという意識さえないとしても、従っているだけで。すべては、最高かつ最善なるお方の采配!ダビデも、いろんな局面を通過しながら練られ、古い自分に死に、主のすばらしさを、その采配の絶妙さを満喫していったに違いない。だから、主のなさることに「深入りしません」って告白しているように思えて。そして、「深入りしません」というニュアンスには、客観的な、傍観的なニュアンスさえ感じられて。別のことばで言うと、他人事とまで言うと言い過ぎかな。試練や、主のくすしいみわざなど、本人が直面しているんだけど、何だか、ちょっと距離感があるっていう感じ。自分なんだけど、自分じゃないっていうような微妙な感じ・・・そんな感覚が、「深入りしません」という表現や、後の「乳離れした子」が「御前にいます」という表現からも感じられて。神さま、あなたの完全な采配に期待する者として下さい。この者にも、「乳離れした子が御前におります」と言わせしめる信仰の醍醐味を教えて下さい。神さま、感謝します・・・
2005年01月06日
コメント(0)
詩篇130篇 都上りの歌 主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。 主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。 主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。 しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。 私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。 私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。 イスラエルよ。主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。 主は、すべての不義からイスラエルを贖い出される。深い淵(1節)って何だろう。底知れぬように思える試練の真っただ中? それとも罪のどん底?あ、「私の不義」(3節)、「赦してくださるからこそ」(4節)ってあるから、罪の苦悩のことみたい。私は主を待ち望みます・・・(5節)ここ2,3年、霊性セミナーや、ヘンリー・ナウエンの著作から教えられ続けていること。それは、「待つこと」の大切さと積極さ。(ナウエンの薄い本で「待ち望むこと」っていう著作があったけど、そこでも意味深いことが述べられていたなぁ。)行動して成果をあげることが美徳と半ば洗脳されている現代社会においては、「待つこと」は消極的な響きさえしてしまう。しかし、「待ち望む」こと。それは、積極的な選択の結果として、手放すこと。時に中断すること。決して消極でも怠惰でもない。主よ、あなたを知ることで、あなた自身ををもっともっと待ち望む者として下さい。今、この場所にあなたがいらっしゃり、御臨在下さることを知ることと望む者として下さい。今度は、裁き主としていらっしゃるあなたの再臨を待ち望む者として下さい。マラナサ、主よ、とく来たりませ・・・今日のメモメモ「私は主を待ち望みます」(5節)の部分の「私は」は、ある英語の聖書だと、「whole being」=「全存在」と訳されているそう。つまり、「私の全存在で主を待ち望みます」という表現になるんだって。まさに、全身全霊、神さまとさしで相対しているんだなぁ、ダビデは。
2005年01月05日
コメント(0)

今日はお正月休み最終日。家族で、貝塚市にある韓国料理店「オモニの家」にお昼を食べに行く。車で30分弱。旧26号沿いの店に到着。ここは、本場、韓国のスタッフ経営で、本物そのままの韓国料理が食べられる。 今日のお品書き キムチチゲ(キムチ鍋) トルソトゥ・ビビンバ(石焼きビビンバ) チャプチェ(韓国風春雨) キムパプ(韓国風のり巻き) マンドゥクク(水餃子)(本当は、ブデチゲ(部隊鍋)もあって注文しようとしたのだけれど、2人前からということで断念。)新年早々、満腹満腹! ああ、韓国行きた~いっ! もっと韓国料理食べ~いっ!
2005年01月04日
コメント(0)

今日の一日一章聖書日課は詩篇128篇。 都上りの歌 幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。 あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。 あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。 あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。 見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。 主はシオンからあなたを祝福される。 あなたは、いのちの日の限り、エルサレムの繁栄を見よ。 あなたの子らの子たちを見よ。イスラエルの上に平和があるように。5節、エルサレムに目が留まる。エルサレム・・・詩篇を通読してきて、思わされていることは、心の中に「やぐら」「とりで」「避けどころ」「隠れ場」なるところがあって、そこが「心のエルサレム」なんじゃないかなっていうこと。エルサレム・・・ そこは都。城壁によって遮断され、外部からのいかなる危険も、影響をも、まったく受けることのない部分。完全な平安が保たれる場所。エルサレム・・・ そこは神殿のあるところ。生けにえと礼拝の場所。そこは、神さまとの交流の窓口。 主はシオンからあなたを祝福される。 あなたは、いのちの日の限り、エルサレムの繁栄を見よ。 あなたの子らの子たちを見よ。イスラエルの上に平和があるように。最初に、エルサレム、すなわち都が確立され、保たれる時、そこが窓口、受け皿となって祝福を受け、繁栄する。そして、都に注がれる祝福・繁栄は、末端で働く一人一人にまでおよび、自らの勤労の実を食し、祝福された家族生活を送るようにされる・・・。昨日の礼拝の余韻もあるけれど、まず都が祝福されるところから始まり、ごくありふれた日常生活に浸透するように、流れ、潤すように感じられ。神さま、どうぞ、「心のエルサレム」を確立して下さい。そここそ、あなたに守られ、あなたと接する場所だからです。そのチャネルを通して、あなたと親しく、深く、御臨在の中で交わらせて下さい。某兄弟の分かち合い。(余談)3節に出てくる奥さんは、「家の奥にいて」ってあるけれど、うちの奥さんは、奥にひっそりといるというイメージじゃないなぁ。子どもたちも、なんやら年寄りくさいこと言うようなってきたし、「オリーブの木を囲む若木」とも言えないなぁ。一同、大笑い。午後は、長男くんとチンチン電車に乗ってお出かけ。難波に行って、買い物して帰ってきました。終点の恵美須町は、ふだんは1番線しか使ってないけれど、初詣で増発しているらしく2番線も使用。難波では、キャベツ焼きを食べました。これで100円!しかもおいしい!
2005年01月03日
コメント(1)
新年最初の礼拝。聖書日課の詩篇127篇からのメッセージ。主が○○するのでなければ、○○する者の働きはむなしい、というフレーズが続く。 家を建てること 町を守ること 早く起きること おそく休むこと 辛苦の糧を食べること次いで、主の賜物として胎の実、つまり子どもたちに囲まれる祝福が描かれる。すなわち、ごくありふれた日常生活の中に、大きな神さまの祝福がある(隠されている)ということ。けして、特別な大きなイベント的な祝福なのではない。かえって、地道とも思える、何気ない日常生活の繰り返しの中の祝福。詩篇が編纂された時代は、バビロン補囚から解放され、まず生活の基盤を築くことが必要だった時代。あえて、荒廃した祖国に帰還したユダヤ人たちにとって、異邦人の攻撃、荒れた土地の手入れなど、平穏な日常生活自体が大きな祝福であった。今日は、ユダヤの格言がいくつか登場。メモメモ。 労働を愛しなさい。それが自分の息子を盗みから守る。 恋はジャムのように甘いが、パンがなければ意味がない。 効率よく間違った方向へ行くならば、進まない方がまだまし。 お金とは、幸せ以外の全てを与えてくれるもの。 ユダヤ人が安息日を守ったのではない。安息日がユダヤ人を守ってきた。 お昼は、おしるこを食べながら、今年一年の分かち合い。今年も、どんなすばらしい一年になるのかな。
2005年01月02日
コメント(1)
全12件 (12件中 1-12件目)
1
![]()

