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「主の愛が あなたの中に 」 主の愛が あなたの中に 満ちあふれている時 主の用いて下さる手は すみやかに伸ばされる ♪ 主の愛の 汝がうちに 満ちあふれある時 主の用いたもう手は すみやかに伸ばされん (聖歌 578番 主の愛の汝がうちに) ファースト・ステップは、まず、主の愛にひたること。神さまの無限の愛のほんのすそにだけでも、触れさせていただくこと。 それから、主の用いたもう手が伸ばされ、我々は用いられる。 油なく、ともしびだけをともすことが、ありませんように。 ( ~1年前の黙想~ 2003/02/01(Sat) 13:04 ) 「奥義」 信仰は、個人が、自分の意志で告白する主体的(能動的)な面と、聖霊に促され、導かれ、正しい告白をさせられる受動的な面とがあると感じることがあった。自分で信ているんだけど、それは同時に、神の力に捕らえられ、信じさせられていると。 一致のような、調和のような。 祈りなんかもそんな風に、感じることがあった。主体的に祈ってるんだけど、祈らされるっていう感じ。 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。 エペソ5:31~32 ただの一致や調和っていうレベルじゃなくて、教会がキリストの花嫁として、キリストと一心同体になるぅ?でも、この聖書の箇所は、そういうこと言ってるんだよね。 (今まで、あんまり、後半のこと考えたことなかった。) 夫婦は、それぞれの人格を残しながらも、夫婦としての人格(夫婦格?)があるという。う~ん、神さまと一心同体かぁ。わたしの人格と、神格を残しつつ、ひとつの人格となるのかなぁ。 そうやって、一つのものとして、交わり、祈るのかなぁ。 一心同体、一心同体。神さまと一心同体……。 う~ん。ぼんやりだけど、何か隠されているような……う~ん。奥義だぁ。 でも、なんだか、すごいなぁ。 ( ~1年前の黙想~ 2003/02/01(Sat) 23:11 )
2004年01月31日
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「ひとつのこと」 キリストを信じること 神の霊を、心に迎え入れること 汚れた足を差し出し、洗ってもらうこと パンとぶどう酒を食すこと つばきをこねてつくった泥を、目に塗ってもらうこと 永遠のいのちをいただくこと 「私の目にあなたは高価で尊い」という愛の声を、そのまま受けること 自分を赦すこと ぜんぶ、おなじことで、ひとつのこと ( ~1年前の黙想から~ 2003/01/30(Thu) 23:08 )
2004年01月30日
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私はキリストとともに十字架につけられました。 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。 いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった 神の御子を信じる信仰によっているのです。 ガラテヤ人への手紙 2:20 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。 古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 コリント人への手紙第二 5:17 聖書の、すなわち神さまのおことば。それは、2000年前の、あの十字架に、私もつけられ、死んだということ。古い自分が死に、新しい自分=わが内に生きておられるキリストと共に生きること。 ああ、それなのに、それなのに・・・ 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。 「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。 十字架から降りて来い。」 マタイの福音書27:39~40「十字架から降りよ」 誘惑の声 「十字架から降りよ」すなわち・・・ 行動せよ、己の力と努力で。 罪から離れてみよ、己の力と努力で。 律法を守れ、己の力と努力で。 敵を赦せ、己の力と努力で。 平安であれ、己の力と努力で。 祈れ、己の力と努力で。 聖書を通読せよ、己の力と努力で。 伝道せよ、己の力と努力で。 奉仕せよ、己の力と努力で。 生きよ、己の力と努力で。 救いを完成せよ、己の力と努力で。 自分で自分を救ってみよ、己の力と努力で。 「十字架から降りよ。そして、古い自分で闘うがよい。お前は十字架で死ぬ必要などない。」あらゆる場面で、気づかずうちに忍び寄る、肉の世界に戻るようにささやく悪しき声。 十字架を降りること・・・それは、自分の力と努力とがんばりにしがみつくこと。 それは、主イエスの十字架を否定すること。それは、主イエスの力なしに生きていけると、知らず知らずのうちに錯覚してしまうこと。なまじっか達成できれば有頂天になり、失敗すれば劣等感に陥る、比較の道に逆戻りすること。 主よ、すでに2000年前の十字架で死んだ私が、主のもとを離れないよう、支えてください。主よ、私を、十字架にしっかりと釘付けにし続けてください。離れてしまったとしても、何度でも何度でも、繰り返し、自分に死ぬことを得させてください。あなたなしに、何もできないことを知ることができますように。もっともっと、あなたに依存しますように。 今朝、父の夢を見た・・・どこかの大きな畳部屋に、父はいた。2、3会話する。ふと、気づく。「あれ、元気になったの?」「元気なった」「よかったねぇ。びっくりびっくり・・・」なんて辺りで、目が覚めた。 しばらくは、気持ちよかった。半分、寝ぼけてて、現実との区別ができなかったようで、よかったなぁ、とだけ思っているうちに、しばらくして「夢」だったことに気づく。あの落差は、何ともいえない、後味の悪さと空しさ・・・ 神さま、あなたの平安を下さい。
2004年01月28日
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某メルマガの今日配信分です。ずばっと迫られたので、そのまま行きま~す。人にはできない事でも神にはできる――――――――――――――聖書の節(回復訳)――――――――――――ルカ18:20 ……「姦淫するな。殺すな。盗むな。偽証するな。あなたの父と母を敬え」。(21節)彼は言った、「それらの事はすべて、若い時から守ってきました」。(22節)これを聞いて、イエスは彼に言われた、「まだ一つの事が、あなたに欠けている。……(23節)彼はこれらの事を聞いて、非常に悲しんだ。……(27節)イエスは言われた、「人にはできない事でも、神にはできる」。 ―――――――――――――――務めの言葉―――――――――――――――ある役人が主イエスのもとに来て、「永遠の命、すなわち神の命を受け継ぐためには、何をすればよいのでしょうか?」と尋ねました。この永遠の命は、救いと共に勝利を得ることも含んでいます。主は非常に厳しい五つの条件を挙げられました。ところが、この若者は驚くようなことをイエスに言いました、「それらの事はすべて、若い時から守ってきました」。主イエスは彼にまだ一つの事が欠けている、一つの事がなければ得ることができないと言われました。主が語られた言葉の目的は、救いと勝利を得ることは人にはできないことを、彼に証明することでした。ところが、この若者はできると思いました。ですから、主は彼の前にもう一つの条件を置かれたのです。その若い役人は、主の条件を満たすことができないことを認識した時、悲しみながら去りました。 もしあなたが救われて勝利を得ようとするなら、神はしばしばあなたの前になお欠けている「一つの事」を置かれるでしょう。あなたは他の多くの罪に勝利することができるのに、一つの罪に勝利を得ることができないのは非常に不思議でしょう。あなたはこの問題で方法がありません。あなたにはできないことを、神はあなたに証明しておられます。最終的に、あなたはできないという結論を出さざるを得ません。主はあなたに何かできるようにされるかもしれませんが、主はあなたがまだ一つの事に欠けていることを示されます。主は、あなたがすることのできない事が少なくとも一つあることをあなたに見せなければなりません。神があなたに勝利をもたらされるために、まず神はあなたが不可能であることを見せなければなりません。勝利を得ることはキリストからの賜物です。あなたは自分自身で勝利することはできません。最終的に神は、わたしたちが勝利を得るのに不可能な事を一つか二つ残されます。神は、わたしたちには「まだ一つの事が欠けている」ことを示そうとしておられます。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― う~ん。先週からの自分の気持ちのぶれと、その解決の総括のような内容で、驚いています。あまりにもぴったりで。主のなさることは、いかに、すばらしきかな。 ハレルヤ~! さて、おなじみ(どこが)、今朝の長男くん。朝、目覚めてたと思ったら、むっくと起き上がり、たんす目がけて一目散に駆け寄り、一番下の引き出しを開けたとさ・・・ 長男くん 「あれ、おかぁしゃん(お母さん)、ぼくちんのお金は?」 母 「お金???」 長男くん 「うん。きんぴかのお金」 母 「き・きんぴかのお金???) 長男くん 「あのね、Hさんからもらったの。きんぴかの2こ。お財布に入れて、たんすにしまったの」どうやら、また、起きがけに夢を見ていたようです。Hさん御夫妻は、すぐ近所にお住いの教会員で、長男くんのお気に入りのお方です。妻に話を聞いたので、夕方、「きんぴかのお金もらったの?」と尋ねると、「うん。夢でもらったの」なんだ、夢って認識してるじゃん、と思ったら、「ねぇ、おかぁしゃん、財布の中に入ってるよね。」と妻に同意を求めている?! う~む、恐るべし、長男くん!!!
2004年01月27日
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父のためのお祈りと励ましを感謝します。 先週、一時的に症状が悪化したため、頭にたまる水を腸に流れるよう、頭から腸まで、体内に管を埋め込む手術が行われました。5時間ほどかかったそうですが、無事、終わったそうです。 倒れてから、ゆっくりでしたが、ずぅっと回復と停滞だけが続き、今回、これが初めての後退だったため、1か月以上、意識のない状態で、待ちきれないような焦りを感じていたこともあって、ちょっと重くのしかかってきました。一度は、突然の究極の不安が、ほとんど取り去られる経験をさせられたものの、その後で不安になることを、自分で認めたくないような思いが自分の内に生まれていたようで、自分で平安であろうとするようなところがあったことと、自分が、神さまよりも、目に見える回復に希望と信頼を置いていたことを、鋭く探られました。 週末に、「恵みの雨」という月刊誌の2月号を読んでいたのですが、幼い娘さんを病気で亡くされた牧師先生の文章が載っていました。 神様のことばは、励ましを与えることもあれば、小さな疑念や憤りを生じさせることもあります。 先月お話しした、今は天国にいる長女の病気が分かった時、私たち夫婦はわらにもすがる思いで宣 教師の方々の祈り会に娘を連れていきました。治るものならどこにでも、という心境だったのです。 ところが、私たちの思惑は最初の祈りのことばで覆されてしまいました。当然、いやしを求める 祈りとなるはずが、何と、「この二人(私たち夫婦)が、まず娘を主にささげますように」という 祈りだったのです。思いがけないことばに、初めのうちは当惑していた私の中に、次第に「なぜな んだ?」という思いが沸き上がってきました。 「この人は何を言っているんだ。なんて失礼な人だ!」疑問はいつしか怒りに変わっていました。 その方以外は一生懸命いやしのために祈ってくださったのですが、帰途に就く車の中でも悶々とし た気持ちは晴れませんでした。 その夜、静思の時間に開いた聖書は、その日の通読個所に当たる創世記22章でした。「あなた の子、あなたの愛しているひとり子イサクを……全焼のいけにえとしてわたしにささげなさい。」 目の前の聖書のことばが、今朝聞いた祈りとシンクロしながら私の心に響いてきます。 正当な言い分や怒りだと思えていたものが、もろくも崩れていきました。神様は、この出来事を 通してわたしの基本姿勢を正そうとしておられたのです。第一子であった長女は、私にとって失い たくない、失ってはならないものでした。だからこそ、彼女のために奔走していたのです。 偶像とは、決して目に見える彫像のことではありません。自分の心(欲望)が作り出すもの、心 の中にあるものです。私の願っていた結果であり、将来の希望でもあった彼女は、知らず知らずに 私の心の大半を占めるようになっていたのです。彼女はどうしても手放せない存在になっていまし た。私は彼女を神にしていたのです。心をあらわにされた私は、自分の過ちを認めて祈りました。 「主よ。私の愛する娘をあなたにおささげします。」 それから10か月後、彼女は主のみもとに召されていきました。もしあの時、あの祈りを聞いて いなかったなら、主にささげる祈りをしていなかったら……。私はいまだに健康な子供を持つ家庭 をねたみ、愛する者を奪った神様を恨み続けていたかもしれません。私にとってあの祈りのことば は、聞かなければならないことばだったのです。決して耳障りの良いものではありませんでした。 かえって心を逆なでし、平安ではなく憤りや不安をかき立てるものでした 私たちは、本音に触れられると過敏に反応しやすいものです。平静を装ってはいても、心の奥底 では自分がかわいいのです。大切にしているものを捨てられないし、自分の立場を譲れないし、相 手に負けたくないのです。私たちをいらつかせることばを聞く時、私たちは人生の大切なレッスン を学ぶべき時を迎えているのかもしれません。 子供が問題を起こすと、「この子のせいだ。この子のおかげでこんなに苦労させられて……」と 思うのが普通でしょう。田中信生先生は「親とは、子供を産める人のことではありません。子供が 100パーセント悪くても、自分の配慮が足りなかった、至らなかったと言える人のことです」と 言っておられます。問題を指摘し、糾弾するだけなら、たといそれが正論であっても火に油です。 その時、いらいらして被害者意識を持つ自分こそ取り扱わなければならない存在だ、と思える人は 幸いです。自分自身の問題だと受け止める時、心に不思議な平安と感謝が生まれ、かたくなだった 相手の心にも変化が生まれてくるものです。 「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。」 詩篇84:6 連載「泉のわくとき」 『11 心の乱れる時こそ』 大角健一師 この文章を読みながら、「父の回復」と、「自分が不安でいないこと」に心を捕らわれ、今は、神さまに状況をお献げしていなかったな、お献げすること、お委ねすることを忘れてたな、としみじみ思わされていたら・・・そしたら、いつの間にか、父の状況の方に、心が向けられていました。たとえば、「表だった意識はないけれど、痛みはないのかな? 痛かったらたいへんだろうなぁ」「意識がない時って、ずぅっと、眠ったみたいな状況なのかな?」「そろそろ、おふろ入りたいだろうなぁ」「もしかしたら、全部分かっていて、でも、目も開けられず、退屈してるかもしれないなぁ」「聖書も読めないし、礼拝も出られないから、霊的な食物や養いがないなぁ。でも、だからこそ、 イエスさまとダイレクトに、不思議な交わりを、けっこうエンジョイしてるのかもしれないなぁ。」などなど・・・。 自分でも、全然、意図していなかったのに・・・。今、思えば、不思議ですね。^^ そして、今朝、母から電話。その後、目を開けている時間が長くなったとのこと。日曜日には、故郷の酒田の親戚や、仙台の教会の人など、10人くらいがお見舞いに来てくださり、そのたびに、目を開ける時間があったそうで、その方々へのプレゼントになったようです。そして、お医者さんの「舌動かしてみて」「『あ』の口してみて」という問いかけに、そのように口を動かしているように見える時があること。目を開けている時、看護師さんの「この人、誰か分かりますか?」との問いかけに、母の名前を言おうとしていたようだった、とのこと。ほんの少しずつですが、また、回復が始まったようです。 神さまは、「神さま、もうだめです。平安でいられません。」というところまで、時に、落とされるのでしょうか。そう。人には、信じることも、望むことも、平安であることも、自分では、できっこないんですよね。 例えば、平安でいたい、委ねたい、敵であっても愛したい・・・でも、自分には、逆立ちしても、そんなことできっこない、と分かり、認め、(観念し)、神さまに助けを求める時、助けが確実に来るんですね。逆を言えば、自分には、まだ、改善や努力の余地があると思っている間は、自分のがんばりに頼れるから、心底、祈る必要にも迫られず、ある意味、イエスさまにご遠慮いただいている形になっちゃうんですね。だから、荒れ狂う大波のような動揺の中、頼れるものが奪われ、力尽き、「もうだめです。ただ、助けて下さい」「愛など、わたしの内にありません」と、もう最後の、祈りにならない祈りとでもいうのでしょうか、悲鳴を上げざるを得ない状態まで追い込まれるのでしょうか。(でも、幸いな追い込まれですよね。)時に、涙ながらに「神さま、いつまでですか?」とか、「どないなってんねん、神さま!」などと、一見、不信仰みたいに見えるようであっても、形はどんなであれ、神さまにぶっつけていく時、神さまに目を向け、問題を神さまに手渡すその時、神さまの出番です。(まさに、げたを預ける、いや預けさせられる感じ?) その時、神さまが働かれるんですね。(もちろん、背後で、常にいろいろ働いておられますけれど・・・) 讃美歌の355番だったでしょうか、「主をあおぎ見れば」という歌の中に「主をあおぎ見れば、古き我は、移し世のごとく、消え去り行き、我ならぬ我の、現れ出て」(だったかな?)という歌詞がありますが、イエスさまを見上げる時、古い自分が去り、新しい自分=内に住んでいらっしゃるイエスさまが働き、ご支配して下さることが、歌われています。イエスさまと自分と調和しながら、新しい自分が現れ出るんですって。何と幸いなことでしょう。 自分の内にあるはずのない、「望み得ない時における希望」、「困難に直面しながらの平安」、「赦したいという気持ち」や「敵を愛したいという思い」、などが、上から与えられ、自分からあふれ出るのですから。だから、自分でつくり出そうとする努力はむだだし、必要ないんですよね。 あ、これが、自分に死ぬことでもあるのかな? 自分が小さくなればなるほど、消えれば消えるほど、神さまに頼れば頼るほど、自分の中のイエスさまが大きく働くことができるようになっていく・・・。 やっぱり、神さまのなさることは、すばらしくって、考えていると、うれしくなってきます。心から感謝しつつ、祈りつつ・・・。
2004年01月26日
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月曜日からかぜで、火曜日は一日、床に伏す羽目に。ようやく、回復基調です。 父の件、皆さんのお祈りと励まし、本当に本当にありがとうございます。父は、依然、表だった意識のないままですが、今週はじめから、脳を活性化する薬を混ぜた流動食の投与が始まったそうです。が、昨日、母から連絡があり、頭に水がたまっているため、結局、年始に容体が一時的に改善したがゆえに、せずに済んだ手術を、今日のお昼からすることになったそうです。頭から腸まで体内にずぅっと管を通し、発生した水を腸に流すようにする手術だそうです。容体的には、一歩か二歩後退というような印象で、落ち込みそうになりますが、いつしか、容体が回復することに、望みを置いてしまっていたことにも、気づかされました。支えておられるのは神さま。すべてをご存じで、よきに計らっておられるのですから。 続けて祈りに覚えていただければ幸いです。何より、表だった意識のない父ですが、その中で、信仰と、主との交わりと、霊的健康が守られますように。みこころにそった回復と結果が与えられますように。母が、疲れてきています。主からの直接の信仰と祈りが与えられ、主からの平安と慰めと励ましがありますように。 すべてを働かせて、益として下さるお方をほめたたえつつ。 ちょっと重い話になりましたが、今朝の話をひとつ・・・ 妻と長男くんとの会話です。 妻 「長男くん、朝だよ」 長男 (ねむねむねむ・・・) 妻 「起きなさ~い!」 長男 「おがぁしゃん(お母さん) 青いあめちゃんどこ?」 妻 「あめちゃん?」 長男 「うん おねえしゃんからもらったあめちゃん・・・」 妻 「長男くん 夢見てたの?」 長男 「うん」 妻 「それで お姉さんからもらったあめちゃん 食べたの?」 長男 「ううん まだ食べてない・・・」 こんなわけで、長男くんが夢の中であめちゃんを食べてから、起こさなかったことを、微妙に後悔(?)していた奥さまでした。^^ ※注 「あめちゃん」 飴のことです。関西では幼児語として、飴にちゃんをつけるんです。 今日は、西日本にも寒波が襲来。最高気温も2度位までしか上がらず、しかも、かなりの冷たい強い風が吹き荒れる一日となる模様。関西でも、地域的には、吹雪になりそう。 そんな中、幼稚園では、近くの公園に行き、たこあげ大会だそう・・・。大丈夫かな? 悲喜こもごもですが、どれも、今のぽん#にとっては、日常の現実です・・・。 主に生かされていることを感謝しつつ。
2004年01月22日
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サウルは言った。 「私は罪を犯した。わが子ダビデ。帰って来なさい。私はもう、おまえに害を加えない。 きょう、私のいのちがおまえによって助けられたからだ。 ほんとうに私は愚かなことをして、たいへんなまちがいを犯した。」 ダビデは答えて言った。 「さあ、ここに王の槍があります。これを取りに、若者のひとりをよこしてください。 主は、おのおの、その人の正しさと真実に報いてくださいます。 主はきょう、あなたを私の手に渡されましたが、私は、主に油そそがれた方に、 この手を下したくはありませんでした。 きょう、私があなたのいのちをたいせつにしたように、主は私のいのちをたいせつにして、 すべての苦しみから私を救い出してくださいます。」 サウルはダビデに言った。 「わが子ダビデ。おまえに祝福があるように。おまえは多くのことをするだろうが、 それはきっと成功しよう。」 こうしてダビデは自分の旅を続け、サウルは自分の家へ帰って行った。 ダビデは心の中で言った。 「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。 ペリシテ人の地にのがれるよりほかに道はない。 そうすれば、サウルは、私をイスラエルの領土内で、くまなく捜すのをあきらめるであろう。 こうして私は彼の手からのがれよう。」 そこでダビデは、いっしょにいた六百人の者を連れて、ガテの王マオクの子アキシュのところへ 渡って行った。 ダビデとその部下たちは、それぞれ自分の家族とともに、ガテでアキシュのもとに住みついた。 ダビデも、そのふたりの妻、イズレエル人アヒノアムと、ナバルの妻であったカルメル人アビガイル といっしょであった。 ダビデがガテへ逃げたことが、サウルに知らされると、サウルは二度とダビデを追おうとはしなかった。 サムエル記第一 26:21~27:4 前略 ダビデ様 先ほどまで、あれほど主に従い、主に求めていたように見えていた、あなたの信仰は、どこに行ってしまったのですか。どうして、あなたは、自らを悔い改め、あなたを祝福さえした主君サウルについて帰らず、自分の旅を続けてしまったのですか。その結果、部下を率いて、敵であるペリシテ人の王のもとに逃亡、服従し、そこに安住してしまいました。600人の部下を養うためでしょうか、ペリシテの王の信頼を得るためでしょうか。今のあなたは、ただの盗賊団の首領に成り下がってしまいました。ああ、あなたがいつも携えていた琴は、今、どこに行ってしまったのですか。今や、あなたの手には、剣が握られています。 あなたを慕ってついてきた部下の思いはどんなでしょう。ただ、黙って、あなたの言われるままに、人を襲っているのでしょうか。あなたの家族は、どんな思いで、あなたの様子を眺めているのでしょう。最初の妥協によって、罪なき血を流し続けることになり、ペリシテの王に従うふりをしながら、影では、あざむき続けていかなければならないあなたの姿が、何とも、わびしく、影うすく感じられます。 サウルという外の敵には強かったあなたも、つかの間の安住という内側の敵には、抗しがたかったのでしょうか。それとも、あなたは、それほどまでに、追いつめられていたのでしょうか。少人数ならば、潜伏も、まだ、たやすかったでしょう。600人にふくれあがった部下を従えて、3000人の王直属の精鋭に終われ、逃げ続けるプレッシャー。部下と家族を守りたいという責任感も働いたのでしょうか。サウルをしとめられる機会にも、手を下さなかったという、試練の克服ともいえる出来事。読者である私たちは、信仰的美談のように思える出来事の、聖書に書かれている表の部分しか分かりませんが、でも、あなたにとっては、もう、ぎりぎりの状況だったのかもしれませんね。もしかしたら、背伸びさえしていたのでしょうか。 もしかしたら、サウルの槍を、直接、返しに行かず、サウルの部下に取りに来させたことは、あなたが、根本的に、サウルを信頼できなかったことを暗示していたのかもしれませんね。そこにも、神さまの導きがあったのでしょうか。それとも、あの時、サウルに従うべきだったのでしょうか。 最初から、あなたを立派な信仰者、尊敬すべきヒーローとして見てしまうと、ついつい、きびしい見方をしてしまうのかもしれません。あなたに、理想を求めてしまうのでしょうか。自分でさえ、できないことを、いや、自分ができないことだからこそ、あなたに求めてしまうのかもしれませんね。あなたとて、ひとりの人に過ぎないのに。 ああ、あなたのこの隠しておきたいような、暗黒とも汚点ともいえるような出来事。このことを通して、主は、あなたに何を語りかけられるのでしょう。主は、あなたが、立ち返るのを、そして、自分の限界に自分で気づくまで、辛抱強く、待ち続けておられたのでしょうか。 ああ、あなたの姿は、まさに私なのかもしれませんね。でも、主に目を向けます。神様に選ばれた者にとっては、たとえ、失敗しても、離れても、裏切っても、立ち返ることが赦されていることと、その汚点とも言えることさえ、主はお用い下さることができることを、主は、あなたの生き様を通して教えてくださっているのですね。 あなたの今の状況には、心を痛めますが、あなたが、主に立ち返る日を、静かに待ちながら、筆を置くことにします。 親愛なるダビデ様へ 一読者より
2004年01月16日
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親父がくも膜下出血で倒れて、今日でちょうど1か月。山形の母親と電話で会話。依然、父親の表だった意識は回復していない。時々、目を開けたり、周囲の語りかけに応じて、右手をかすかに動かせるだけ。術後の、目に見えて大きな回復は、あまりないまま。でも、母の話によると、今日の3時頃、看護士さんの「奥さん、横にいるよ。分かりますか?」っいう問いかけに、たった1回だけ、ほんの少しだけど、うなずいたんだって。もしかしたら、会話のタイミングに、せきか何かの動作が重なって、うなずいたように見えただけかもしれないが、それでも、この「うなずき」を、母親にとって、ものすごい励みになっているみたい。きっと、神さまが、希望の一端を見せてくれたのかな。お医者さんの話では、たんの量さえ減れば、流動食の投与を開始したいという意向らしい。飲み下しができれば、そのまま、だめならば、のどからパイプを通じて。そして、「点滴では、体力がつかない。いずれリハビリするためには、流動食で体力をつけておく必要がある。」のだそうだ。まだまだ、ず~っと遠い目標かもしれないが、確実に治療の延長線上に、「リハビリ」があることを実感。まず、意識の回復、そしてリハビリに入るまで、どれだけかかるか分からないし、リハビリに入ったとして、どこまで回復するかも分からない。だけど、ほんの1回うなずいたことと、先生の口から「リハビリ」のことばが出てきたことが、とてもうれしかった。神さまが、与えてくれた、霧の中の道しるべのように思えて。 今回のこと、不思議なくらい、神さまがよしと思われてなさっていることなんだと、感じる。信仰を与えられ、よかったと思う時。だって、本当の平安と希望が与えられるんだもの。目の前のことは、確かにたいへんと思える局面はあるかもしれないけど、心配がないわけじゃないけど、私たちを愛してやまない神さまが共にいてくださり、直接に、慰めと励まし導きと、平安と希望を与えて下さる。 だから感謝。小さい1回のうなずきも、リハビリの話もうれしいけれど、どんなことがあっても、絶望がないこと、死さえ希望であることが、それらを上回る、今の静かな喜び・・・。 おおぅっ! ものすごいきれいな等圧線。 冬型強まる、か。明日の山形、降雪予想量50~70センチ、予想最低気温-4℃、予想最高気温-2℃。うわぁ、最高気温でも氷点下! だって。
2004年01月13日
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今日の一日一章聖書日課は、サムエル記第一20章。18章では、まだ突発的、発作的だったサウル王の「恐れ」「殺意」が、19章では、恒常的・能動的なものへと変質していく様子が描かれていた。それに伴い、ダビデは命からがら逃亡するが、王子ヨナタンが父サウルにダビデを殺さぬよう説得、ダビデはサウル王のもとに、いったんは戻ることができたものの、それもつかの間、サウルの殺意は再び燃え上がり、ダビデは、また、サウルのもとを離れざるを得なくなった。罪を処理しないで、放置しておくことにより、いかに人間関係を損ね、またその人自身を破滅に導くことか。 そして今日の20章。 ダビデはラマのナヨテから逃げて、ヨナタンのもとに来て言った。 「私がどんなことをし、私にどんな咎があり、私があなたの父上に対してどんな罪を 犯したというので、父上は私のいのちを求めておられるのでしょうか。」 ヨナタンは彼に言った。 「絶対にそんなことはありません。あなたが殺されるはずはありません。 そうです。私の父は、事の大小を問わず、私の耳に入れないでするようなことはありません。 どうして父が、このことを私に隠さなければならないでしょう。そんなことはありません。」 (1~2節) まず、疑問・・・。そもそも、なぜ、ダビデはわざわざ、危険を冒してまで、ヨナタンのもとを訪れたのだろうか???ただ、親友に、別れのあいさつをしに戻ったのかな?とか考える。ヨナタンは、サウル王の息子。立場的には、ダビデの存在は、サウルにとっても、サウルの後継者としてのヨナタンにとっても脅威であり、敵対するものであった。立場より、友情を信じ、危険を冒して、親友に別れを告げに来たとなると、それはそれで美談だなぁ。もちろん、普通の友情と、信仰を介した友情は、次元の違う深さを伴うものだけれど。 結局、10分ちょっとの時間では、前後関係のつながりしか、読み込めず、とんちんかんなシミュレーションしか出てこない。分かち合いと解説を聞きながら、聖書の舞台に思いを馳せる。 少しだけ、浮き彫りとなってきたのは、まず、ダビデは、上記1節にあるように、なぜ、命を狙われるのか、自分に落ち度がなかったかを、親友の目から見てほしかったのではなかろうか。自分で気づかずに、相手を刺激していることはなかったか、客観的に吟味したかったのでは。そして、言いづらいことでも、はっきり言ってくれるのは、親友だけ。同時に、息子であるヨナタンであれば、父サウルの性格や様子から、ダビデに対するサウルの本心を伺い知れるかもしれないと考えたのではないだろうか。 一方、ヨナタンの側から、ダビデが自分のところに来たことによる影響。それは、ヨナタンが、父サウルに対する思いを変えざるを得なかったこと。 サウルはヨナタンの言うことを聞き入れた。サウルは誓った。 「主は生きておられる。あれは殺されることはない。」(19:6) ヨナタンは、この19章での、父サウルからとりつけた約束を信じていた。もしかしたら、信じたいと思っていただけかもしれなかった。それが、2節と9節の「絶対にそんなことはありません。」という発言からも見て取れるのでは。結局、ヨナタンは、父の翻心を見せつけられる結果となる。ある意味、父子の信頼関係にも関わる出来事。しかし、ヨナタンは最後まで父よりダビデを選び続けた。友情? そこに神さまが介在する友情だったから? 主が私の父とともにおられたように、あなたとともにおられますように。 もし、私が生きながらえておれば、主の恵みを私に施してください。 たとい、私が死ぬようなことがあっても、あなたの恵みをとこしえに私の家から断たない でください。主がダビデの敵を地の面からひとり残らず断ち滅ぼすときも。」(13~15節) この箇所では、勝手にうっすらだけど、ヨナタンが、ダビデをあたかも自らの主君として、仕えるような発言をしているように思えてきて。そして、ヨナタンは、自らの死をも予見しているかのようにさえ・・・。ほんと、勝手な想像だけなんだけど。ダビデも命がけだったけど、ヨナタンにとっても命がけで、父よりもダビデに仕え、ダビデを守ろうとしたんだなぁ。 20章のことがあったことで明らかにされたこと・起こったこと ・ダビデの潔白 ・サウルの異常なまでの保身と決定的な殺意を、ダビデもヨナタンも認識 ・ヨナタンは、サウルよりダビデを選び、愛し、仕え、守ろうとした ・ダビデとヨナタンの契約 「あなたは行きなさい。主があなたを去らせるのです。では、安心して行きなさい。」(22&42節) 聖書の中で、最も麗しい友情。実話でありながら、劇的な別れに、しばし涙腺を熱くする。
2004年01月09日
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今朝のはじまりは、聖歌295番から。 成したまえ 汝が旨(むね) 陶つくり(すえつくり=陶器師) わが主よ 我はただ 汝が手の 内にある土くれ 降る雪のごとくに わが内を白くし 汝が旨のまにまに 練りたまえ わが主よ 天くだる火をもて わが内を清くし 成したまえ 汝が手の 器なるわが身と 汝が旨のなる時 他の人は見るべし わがうちに ますきみ キリストの姿を大好きな聖歌の一つ。これまでも、歌詞もメロディもすてきだって思っていたけど、もう一度、歌詞をじっくり味わったら、涙が出てくるくらいすてきだった。主が陶器師で、自分は、ただの土の固まり。主ご自身の御手によって、白くされ、コネコネと練られ、聖霊の火を通され、清められていく。そして4節。自分の内に形づくられていくのは、キリストの姿・・・。なんて、すばらしい約束、いや、実際に今、工事中の事実だろう。あなたご自身が、内に住んで下さり、形づくられて下さるんですね。神さま、ただあなたを畏れつつ、感謝します。 今日の一日一章聖書日課はサムエル記第一18章。 ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。 ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。(1節) 宿敵ペリシテ人の巨人ゴリアテを倒し、その首をとり、サウル王に報告するダビデの姿を見て、王子ヨナタンの心は、ダビデにひかれた。 「さあ、あの割礼を受けていない者どもの先陣のところへ渡って行こう。 たぶん、主がわれわれに味方してくださるであろう。大人数によるのであっても、 小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」 (14章6節)このように、ヨナタンもまた、神さまと共に歩んだ人物であった。だから、ダビデの言動を見て、大いに共感するものを覚えたに違いない。聖書の中には、これ以前に、ダビデとヨナタンが遭遇する場面が描かれていない(はず)。実際に、彼らが初対面であったかは分からないけど、ヨナタンはダビデのうちに、自分が信じているのと同じ神と、同じ信仰とを見て取った。初対面なのに、相手のうちに、生きるキリストの姿を感じる時、それは、この世のものとは、比べられない不思議な一致を感じ、親しさを生み出す。時に、外国の人であっても、同じように、言葉を超えて、同じ神さまをほめたたえられる不思議。 相手のうちに神さまを感じる時・・・自らも神さまと共に親しく歩む者は、人知を超えた親近感を覚える。しかし、神さまから離れていく者が感じるのは、恐れ・不安・脅威・敵意。まず、この鮮やかな対比を思わされた。 ダビデがあのペリシテ人を打って帰って来たとき、みなが戻ったが、女たちは イスラエルのすべての町々から出て来て、タンバリン、喜びの歌、三弦の琴を もって、歌い、喜び踊りながら、サウル王を迎えた。 女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。 「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」 サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。 「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。」 その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった。(6~9節) 油注がれ、神の守りと導きのあった者でありながら、肝心なところで、自分の力でどうにかしようとする、どうにかできると考えた王サウル。ある程度までは、信仰者っぽい振る舞いをしているが、目の前の状況、特に人心を恐れ、神さまに従うことをせず、妥協すること数回・・・。それゆえ、神さまに、王位を退けると宣告されたにも関わらず、王位にしがみつく生活が始まった。その結果、神の霊はサウルから離れ・・・ その翌日、神からの悪い霊がサウルに激しく下り、彼は家の中で狂いわめいた。 ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいたが、サウルの手には槍があった。(10節) 神なしに、王位に就き続けるサウルは、いつ、どのように取り去られるか、または、どうすれば、王位に就き続けられるか、つねに恐れと不安の中にあった。 ダビデは、いつものように、琴を手にしてひいた つねに神さまと共に歩むダビデの手には、つねに「琴」があった。「琴」の音は、周りにも流れ出て、自らをも、聞く者の心をも平安で潤す。 サウルの手には槍があった。 つねに恐れと不安のうちにあるサウルの手に握られていたのは「槍」。そして、サウルの恐れと不安が絶頂に達した時・・・ サウルはその槍を投げつけた。ダビデを壁に突き刺してやろう、と思った (11節) 同じように、神さまが油注がれた2人。方や「琴」を、方や「槍」を手にしていた。方や「勝利」と「平安」をもたらし、方や「嫉妬」と「殺意」を露わにした。 今朝は、この10節の「琴」と「槍」ということばが、だんだん浮き出て見えてきた。これが、2つ目の対比。人間関係で、守りに入る、防衛的になることがある。責められていると感じる時や、取り去られると感じてしまう時、心の中の、とげとげした「槍」に手を出すことのなんと多いものだろう。時に、「自分が傷ついた」という「ことばの槍」で相手に向け投げつけ、責めることさえ・・・。 ああ、神さま。あなたに、全く寄り従うことで、わたしの手に、つねに「琴」があり続けるよう、お導き下さい。そして、不必要な「槍」を手にすることがありませんように。 このサウルの槍を、ダビデが避けた直後の箇所、12節からの、ある人の分かち合い。 サウルはダビデを恐れた。 主はダビデとともにおられ、サウルのところから去られたからである。(12節) 槍を投げたのはサウル、槍で命を狙われたのはダビデ。普通なら「ダビデはサウルをおそれた」と記述されてしかるべき。しかし、「サウルはダビデをおそれた」神の霊が去ったサウルの「おそれ」が、いかに大きかったかを示しているのでは・・・。なるほど、なるほど~。ダビデの恐れより、サウルの恐れの方が大きかったんだ。 別の人の分かち合いは、サウルが、「他人越し」に聞いた情報によってダビデを判断(7~9節)したり、「他人」を介して、ダビデに指示を出すようになっていった(25節)との指摘。直接、真偽を確かめたり、ことばを交わさないことで、ダビデに対する不信感が増幅していった面もあるのでは。う~ん、確かに伝聞情報って、ただでさえ、間違いや誤解が潜むこともあり得るのだから、決して、うそや間違いではないにせよ、ニュアンスや強調点が変わってしまうことは、さらによくありがち。本当にそうだなぁ。以前、ある人が、「伝聞情報は、一切信じない、必要があるなら当事者に直接、確かめる」って言ってたっけ。そういうことって、大事な時ってあるんだよね。もう一度、肝に銘じよっと。 神さま、今日もすばらしい、命のことば、霊の糧をありがとうございます!
2004年01月07日
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今日の1日1章聖書日課 の箇所は、サムエル記第一17章。ペリシテ人ゴリヤテとダビデの対決シーン。今日は、まず、サウルの心の動きを想像。(ちょっと厳し過ぎかな?) 「ひとりを選んで、おれのところによこせ。 おれと勝負して勝ち、おれを打ち殺すなら、おれたちはおまえらの奴隷となる。 もし、おれが勝って、そいつを殺せば、おまえらがおれたちの奴隷となり、おれたちに仕えるのだ。」 (8~9節) 例のペリシテ人は、四十日間、朝早くと夕暮れに出て来て姿を現わした。(17節) 身長3メートル近くあろうかという敵の代表戦士の出現に、王サウルは、40日間、なすすべなく、右往左往していた。もしかしたら、自分が代表対決の戦士として出ていくべきかもしれないと、うっすら思いつつ、(怖くて)ためらわれていたのかもしれない。(想像想像・・・) イスラエルの人はみな、この男を見たとき、その前を逃げて、非常に恐れた。 イスラエルの人たちは言った。 「あの上って来た男を見たか。イスラエルをなぶるために上って来たのだ。あれを殺す者が いれば、王はその者を大いに富ませ、その者に自分の娘を与え、その父の家にイスラエル では何も義務を負わせないそうだ。」 ダビデは、そばに立っている人たちに、こう言った。 「このペリシテ人を打って、イスラエルのそしりをすすぐ者には、どうされるのですか。 この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。」 (24~27節)戦場に出ているお兄さんたちに、お弁当を届けにやってきた少年ダビデだったが、イスラエルを冒涜するゴリヤテを見て、自らが戦おうと考える。ダビデの言葉を聞きつけた人々が、サウルにこういう者がいると告げたため、サウルはダビデを呼び寄せる。 「あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。 あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。」(33節)しかし、ダビデのあまりの若さに、サウルはびっくり。一瞬、希望の光を見出したかのように思えたのもつかの間、「こりゃだめだ。幼すぎる・・・。」それに対し、ダビデは・・・ 「このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、 これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」 ついで、ダビデは言った。 「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」 サウルはダビデに言った。 「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」 サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着させた。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいを着けさせた。 (36~38節) ダビデの説得に、サウルは、ようやくダビデが闘いに出ることを了承するが、(ここから、読み過ぎかな?)、サウルは、結局のところ、ダビデを、また、神さまを信頼できていなかったのでなかろうか。ダビデに着せた「よろい」「かぶと」は、ダビデが少しでも致命傷を負わないように心配して講じた手段、最後のあがきだったのではなかろうか。サウルが、最後まで信頼を寄せたのは、神ではなく、人間的な防衛手段であり、「よろい」「かぶと」はその象徴・・・。(辛口すぎるかな・・・?) 一方、ダビデ。羊飼いという日常生活において、神さまの守りと救いを意識していた。獣との闘いにおいても。ゴリアテとの闘いは、その延長に過ぎなかった。大きなことは、毎日の小事に忠実に生きていく延長にあるんだなぁ。たとえ小さなことでも、おろそかにせず、神さまの導きと守りを覚え、感謝していく時、その延長として、神さまは用いて下さる。しかも、ダビデは、最初から闘いに出るつもりだったのではない。お弁当を届けるという形で、父に、背後では神さまに、戦場に押し出された。突然の、意図も計画もしていなかった大きなことだけど、ダビデにとっては、自然に、日常生活の延長として、とらえられたんだなぁ。 神さま、日常の小さなことを通して、何らかの訓練を与えていて下さることを感謝します。その延長に、結果として、大きなことがあるかもしれません。ただ、日々の信仰の延長としての大きな信仰を踏み出すことを教えて下さい。一見、頼りたくなってしまう「よろい」「かぶと」でなく、あなたを信頼させて下さい。 ただ、あなたのみわざと、あなたからいただく信仰を待ち望みつつ・・・ --- --- --- --- 子供たちの冬休みは、今日が最終日。というわけでもないけれど、尼崎にあるコストコ(costco)というメンバー制大型ショッピングセンターへ。とにかく、でかい。安い。今日の戦利品・・・コーン・ブレッド なんと1400グラムの量り売り 598円!! 輪っか型のプリッツ 6ポンド(13キロ?) これも598円!! はんぱじゃなかったよ。おそるべしコスコ。
2004年01月06日
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久々の早天祈祷会。まず聖歌437番を賛美。 わがため イェスきみ 傷をば 負いたまいぬ かくて われは癒えたり 罪は われを去りたり わがため イェスきみ 十字架に 死にたまいぬ かくて われは 解けたり 強き罪のわなより わがため イェスきみ みはかに 入りたまいぬ かくて われは 生きたり よみ(黄泉)のかども なにかは わがため イェスきみ 死に 打ち勝ちたまいぬ かくて われも 勝つをえん 罪に よみに 悪魔に 特に、3番目の歌詞に、心が引き寄せられた。イエスさまが、墓に葬られたのは、十字架でイエスさまと共に死んだわたしが、共に葬られ、共に生きるため・・・。 今日の聖書箇所は、サムエル記第一16章。前半はダビデの油そそぎ、後半はサウルの心を癒す琴弾きとしてダビデが登用される場面。まず、神さまが、サムエルに語りかけられた。 「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から 退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。 わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。」(1節) ・サウルを退け、新たな王を選ぶ ・ベツレヘム ・エッサイの息子の一人手がかりはそれだけ。でも、サムエルは、自らが危険にさらされるリスクを負いつつ、神さまに従い、ベツレヘムに向かう。神さまの語りかけと導きは不思議。だって、最初から、「エッサイの子ダビデに油注ぎなさい」っては示されない。サムエルがベツレヘムに行き、エッサイを招き、7人のお兄さんが退けられ、羊飼いのさなか、呼び戻された末っ子のダビデがサムエルの前に出た時、ようやく「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。」(12節)とおっしゃる。初めは、答えは分からなくとも、神さまに従って、一歩を進み出すことで、次の道が示されるんだなぁ。オリエンテーリングみたい。小さいけれど、まず一歩。それにしても、ダビデにしてみれば、有無を言わさず、祭司サムエルに油注がれ、どんな気持ちだったんだろう? 「神さまが、あなたを王に任命すると告げられたから油を注ぐ」というように、サムエルは、神さまのことばを、ダビデに伝えたのかなぁ? 少なくとも、聖書にそういう記述はないから、もしかしたら、サムエルはダビデに、理由を告げず、ただ油を注いだだけだったのかもしれない。だとすれば、ダビデは、この油注ぎを、どう思い巡らしていたんだろう。いつ、この油注ぎが、自分への王位のしるしって思ったのかな? サムエル記を、読み続けるうちにヒントがあるかな? 後半で、サウルから神の霊が去り、悪い霊が彼に臨んだ時、ダビデが、一人の若い家来に、じょうずな琴の弾き手として推薦され、サウルの気に入るところとなり、ダビデは王宮に召し抱えられた。2つの記事が並列で書かれているけど、この2つは、出来事としては、まったく別のこと。しかし、油注ぎも、サウルとの遭遇も、神さまのシナリオの中では必然。こうして、お膳立ては、一つずつ整えられていくんだなぁ。 ある人のコメント。のんびり羊飼いをして生涯を送るはずが、油注ぎを受けてしまったばっかりに、政治と戦争という大人の世界に引きずり込まれてしまったのでは・・・。なるほど! 中谷牧師の解説では、この章に繰り返し登場する「見る」という言葉に注目。まず1節で「見つけた」、また7節では、この1つの節の中に5回使用され、特に人の見るところと、神さまの見るところの違いをねんごろに、教えて下さっている。 彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。 人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(7節) 呉の小宮山先生の解説(ファックス)では、サウルは民、すなわち人が選んだ王で、ダビデは神ご自身の必要のために選んだ王という切り口。う~ん、聖書は、深くておもしろいなぁ。
2004年01月05日
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山形滞在3日目。最終日。今日は朝から雨。ときおり雨足が強まる。10時に、昨夕、帰りに車を出して下さった近所の方が迎えに来て下さった。今朝は、妻と子供たちがのせてもらう。(昨日の朝の方の車は軽四) 自分は一人でバスで病院へ。残り3時間、じっくりと父と過ごす。お昼前には、執刀医の先生が病室をのぞいて行かれ、頭の水について、説明して下さった。曰く、昨日から、突然、水の出る量が減ってきた=体自身で処理できるようになってきた ので、このままの状況が続けば、手術せずに、管だけ抜けるという。もちろん、即断はできないので、安定するか、ウォッチは必要とのこと。思い起こせば、当初は、濁っていた頭からの水だったのが、だんだん重たいけれど澄んだ褐色に、そしてうす~い黄色に変わっていき、そして、管を抜けるかどうかというところまで到達したんだなぁ。(追記 結局、5日に、管を抜くことができました。) 8階の病室から眺める、自分が8歳から10年間住んだ町。低く立ちこめる黒い雲は風に流れ、ところどころの合間から日の光が差し込む不思議な天気。光は、遠くの西の山を照らしていたかと思っていたら、知らない間に、雲の動きに合わせて移動し、近くの街並みに静かに照らし、また、しばらくすると、東の蔵王の山々を照らす。時おり、病室をも照らし出す日の光。 ゆったりとした時の流れ。そう。たとえ闇であっても、光は必ず、差す時がくる。そう。闇は光に打ち勝たなかった。薄明るい雲からではなく、分厚い雲の切れ間からのぞく光に、静かに、ゆっくり、心癒される。神さまに感謝。 妻が、病院の隣のデバ地下(デパート地下食品街)から、お弁当を買ってきたので、病院の食堂で、母と、家族5人でお昼を食べる。食堂は病室と反対側、北側に面していて、実家方面、5年生まで通った小学校、卒業まで通った小学校、昨日行ったジャスコなどが見渡せる。 ほどなく、大阪に発たなければならない時間が近づく。そろそろ、帰り支度という頃、仙台から両親の旧知の親しいMさんご夫妻が病院に駆けつけて下さり、お会いすることができた。先に実家に立ち寄られ、留守だったので、そのまま、病院に来て下さったとのこと。自分も、最後に会ったのが、結婚の年のお正月以来だから、ちょうど10年ぶり、15分ほどの、あっという間の再会。 両親とは、名残を惜しみつつ、山形をあとに。山形から仙台空港直行のバスもあるが、時間の関係で、2時39分の電車で仙台に向かう。山形から1時間ちょっと。快速なのに、県境を超える作並までは各駅に停車。途中、宮崎アニメ「おもひでぽろぽろ」の舞台となった高瀬駅にも停車。ここが、そうだよ、と家族に教えてあげる。次の山寺は、芭蕉の奥の細道、立石寺で有名。 閑かさや 岩にしみいる 蝉の声(ちなみに「おもひでぽろぽろ」の最後のシーン、主人公タエ子さんが列車に乗って東京に帰ろうとしたが、途中で考えを変え、引き返すために降りたのがこの山寺駅。) 仙台では、2分の待ち合わせで東北線に乗り継いで10分強、空港最寄り駅館腰からバスで10分、仙台空港には4時15分頃到着。ところが、5時5分の飛行機は、満席になっていて空席待ちで、結局、空いたのは4席。自分一人残ることも考えたが、4人の席はばらばら。次の6時30分の便は80席空いていて、まとまった席を取れるということで、結局、全員、6時30分の便にする。ちょっと早い夕食に、牛タンでも食べようかということになったが、あいにく、アメリカのBSEの影響で牛肉は自粛されていた。残念。8時前に伊丹着、家には9時ころ到着。 父が病に倒れて3週間で、3度の帰省&見舞い。特に今回は、家族全員での帰省。父には、伝わったかな? 少しでも、励みになればいいな。さあ、新しい年、父のことでも、家族のことでも、神さまはどんなことをして下さるのだろうか。期待しつつ、委ねつつ、祈りつつ・・・。
2004年01月03日
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さて、1月1日、2004年元旦礼拝は11時から。今年も、心をこめて、神さまを礼拝する。メッセージは「悔い改めとは」というタイトルで、教会の聖書日課 第一サムエル記12章から。それまで指導者として民を導いてきたサムエルが年をとり、息子たちにその地位を譲るも、その治め方はひどいもので、民の中から王を求める声が上がってきた。(8章) が、それは、サムエルにとって自分と自分の息子に対する不信任を意味するきわめて不本意なこと。しかし、神さまは、民のいうことを受け入れ、王を任命するように命じ、サムエルはそれに従った。そして・・・今日は、悔い改めの重要性について。悔い改めなしに、神さまのすばらしさは知り得ない。 1 何よりも自分の罪にきづくこと 主はその日、雷と雨とを下された。民はみな、主とサムエルを非常に恐れた。 民はみな、サムエルに言った。 「あなたのしもべどものために、あなたの神、主に祈り、私たちが死なないようにしてください。 私たちのあらゆる罪の上に、王を求めるという悪を加えたからです。」(18~19節)それまで、イスラエルの民は、神さまとの人格的関係を知らなかった。罪は、人格的な関係を踏みにじるもの。民は、神さまからの雷と雨を見ることで、ようやく自分たちの本来の姿と罪を知るに至った。人格的関係とは、相手の存在そのものを喜び合うこと。相手に対する愛を喜ぶ時、客観的には犠牲を払っていたとしても、それはまったく犠牲とは思わない。逆に、自分はこれだけ、相手のために尽くしているのに、という思いが湧き上がる時、健全な状態ではない。 2 神さまは、立ち返る者を喜んで迎えてくださることを信じること(8章)であったように、民が王(=目に見える安心)を求めたことで、一番、傷つけられたのは、サムエル自身。しかし、悔い改める民に、彼は語った。 まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。 主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ。 私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。 私はあなたがたに、よい正しい道を教えよう。(21~22節)戻ってきた民を受け入れるサムエルの姿は、まさに神さまの姿。いや、サムエルは、その神さまの御思いを知っていた。さんざん自由の限りを尽くし、万策尽きて(仕方なく)戻ること。世の中では「何を今さら」と言われて当然。しかし、どんなに罪を犯してしまったとしても、どんなにぼろぼろでも、悔い改めて、立ち返る者を、心から喜んで下さる神さま。そのことを信じることも信仰。もうだめだ、受け入れられるはずがないと思うことは、決して真の謙遜ではない。 3 全てを神さまにお任せすること ただ、主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。 主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。(24節) 20節以降、「心を尽くして、主に仕えよ」「誠意をもって主に仕えよ」と繰り返し語られる。 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。 しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。 そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 (マタイの福音書6:31~33)悔い改めていく時、操縦桿を神さまに握っていただくように、変えられていく。 --- --- --- --- 午後は、山形に帰るため、速攻でいったん、家に戻る。荷造りをして、3時過ぎに家族5人で家を出る。なんばからバスで伊丹に向かっている途中、バスの上をポケモンジェットが横切り、着陸していった。機材はB767、乗る予定の飛行機と同機種・・・。今の着陸時間が、乗る飛行機の出発予定50分前・・・。期待は高まる。そして、チェックインして、搭乗口に向かうと、おおぅっ、もしやもしやのポケモンジェット!ちょっと暗くなりがちな旅行に、ちょっとしたサプライズ。子供たちも大喜び! ポケモンジェットは4時40分発、一路、北東へ向かい、1時間少しで、すっかり闇に包まれた仙台空港に到着。子どもたちにとって、初めての冬の東北。2週間ほど前には、大分冷え込み、雪も積もったようだが、今日は、そんなに寒くなく一安心。タクシーで最寄りのJR駅に行き、仙台で乗り換え、山形着は7時40分過ぎ。途中、山越えもあったが、積雪も溶けて、ほとんどない。元旦は、市内のバスが全運休!なので、タクシーで実家へ。簡単な夕食を食べ、今日はおしまい。布団がうすいので、夜は気温以上に寒く感じる・・・。 --- --- --- --- 2日。朝から曇り時々雨。朝は、山形の教会員の方が、母を病院に連れて行くため、迎えに来てくれることになっていた。ぽん家5人が帰省することは想定外、全員は定員オーバーで乗れないので、子どもたちだけ車に乗せてもらい、自分と妻の二人はバスで病院に向かう。病院に着くと、父は頭の消毒の処置をしていたため、病室には入れず。30分くらい経って、ようやく、病室に入ることができた。9日ぶりの再会。だいぶ、やつれたようにも見える。心のどこかで、目に見える回復を期待していたのか、「ああ、何も変わっていない」と、ちょっと弱気になったり・・・。子どもたちも、病室を訪れた。点滴や、酸素マスクや、いろんな医療計測機器をつながれ、横たわる姿は、小さなショックだったみたい。声をかけても、反応がない。意識がもどらないということが、まだ理解できず、「おじいちゃん、起きないの? 死んじゃうの?」 そんな心配もしてしまったみたい。執刀医の先生が、自分がやってきたことを知り、経過の説明をして下さった。 ・脳内の腫れは、徐々にひいているが、まだ腫れている。 ・頭からの水を抜くため、管をさしているが、長期間させば、細菌が入り込むリスクがそれだけ増える。 かといって、早く抜いてしまうと、頭に水がたまる水頭症の危険性。現状では、来週、手術の可能性も。 水の量が減らない場合、頭から腸まで、体内に管を通すという手術を施す方法もあり得る。 ・たんの出る量が多く、体力を消耗する。改善傾向にある肺炎も、そのあたりが影響している可能性も。 ・回復は、人それぞれまちまち。症状の度合い、年齢、気力、リハビリによって変わる。 などなど。 子どもたちにとって、病院は決して楽しい所ではないので、お昼は、郊外のジャスコに行くことに。病院は、市街地のど真ん中にあるんだけど、病院から歩いて5分くらいのところから、ジャスコ行きの無料シャトルバスが出ている。それに乗り、10分ちょっとで、ジャスコへ。ものすごい人手で、昼食を食べただけで、ジャスコを後にする。2時過ぎには、また病院へ。今度は、子供たちも、環境に慣れてきたのか、病室に入ると、さっきまで言えなかった「おじいちゃん、来たよ」など、話しかけられるようになってきた。その語りかけに応じて、時たま、右手を動かす父。たまにだけど、握り返してきた時、「早く早く」と、子供たちに父の手を握らせ、子供たちも手を握り返してもらえることも。子どもたちは、控え室・食堂を拠点に、時々、病室をのぞきに来てくれた。その時々に流しているテープの歌に合わせて、Lyreの歌や、「そのままの姿で」などを、子どもたちといっしょに賛美する。^^聞こえているのかな。聞こえていれば、さぞかし、うれしかっただろうなぁ。 東の、しかも北国の夕暮れは早い。大阪より、体感的に30分は早い感じかな。5時頃には、すっかり暗い感じ。曇り時々雨の天気のせいもあるかも。 近所の人が、母親を迎えに来てくれたので、朝同様、子どもたちを車に乗せ、妻と自分は、バスで帰宅。夕食を食べた後は、家から持ってきた何本かの家族のビデオ上映会。川遊びや、墓前礼拝&納骨式などのビデオを楽しむ。 夜は、また、冷た~い布団にくるまり、おやすみなさい・・・。
2004年01月02日
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気持ちよくおふろに入ってる間に、2004年になってました。旧年中は、皆さまのご愛読とお祈りと励ましを、ありがとうございました。 2003年は、自分にとって濃密な年でした。何よりも、最も近くにいて下さる神さまと、いつも、ともにいることの恵みとすばらしさを経験することの恵みを、知り始めた1年でした。それでも、神様のすばらしさを垣間見させられたに過ぎないのだろうなぁ、としみじみ感じています。新しい1年が始まりましたが、昨年に劣らず、信仰の距離も、思いも神様に近づけられ、引き上げられていく歩みでありたいと願っています。皆さまにおかれましても、つくり主であり、救い主であり、慰め主であるイエス・キリストさまの、はかりしれない愛と恵みと祝福が豊かに注がれる1年でありますように。 2004年、新たな年も、どうぞ、よろしくお願いします。 --- --- --- --- 今日は元旦礼拝出席の後、夕方、家族5人で山形に飛ぶ予定。父の具合は、いまだ意識のないまま、病院で新年を迎えました。かといって、まったく回復のきざしがないわけでもなく、膠着状態というか、ちょっと我慢のしどころのような感じです。もしかしたら、長期戦になるかもしれません。 状況だけを見れば、決してよいと思えることではないのですが、そんな中、真実な神さまは、どんなことをお考えで、どんなことをご計画されているかという視点を与えられていることは感謝なことです。そう、いくつかのきざしを、ぼんやり、見せていただいているんです。この状況が与えられたことで、自分自身、そして、妻や母の内面が、それぞれ、神様に取り扱われていることが分かります。和解・絆の回復・神さまに(投げやりでなく)お委ねすること・・・。父の病気自体は、決してうれしいものではありませんが、でも、このことを通して与えられたものを考える時、神様のなさることには、本当に必要不可欠で、むだがないと、静かなうなずきと納得を与えられています。(自分でも、不思議なくらい穏やかでいられ、また、そのように思えるから不思議です。) すばらしい神さまをほめたたえつつ!
2004年01月01日
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