三春化け猫騒動(抄) 2005/7 歴史読本 0
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参 考 文 献一九一二 山野井村郷土史(二〇〇三年復刻版) 日和田町郷土史会 一九三二 磐梯熱海温泉 南朝秘橘輝政 文献協会一九六三 姓氏家系大辞典 太田亮 角川書店一九六九 福島県史 福島県 小浜印刷一九七六 日和田の歴史探訪 森合茂三郎 古山書店 三春町史 三春町 凸版印刷一六七九 日本歴史大事典 河出書房新社一九八〇 一遍と時宗集団 大橋俊雄 教育社 会津・仙道・海道地方諸城の研究 沼館愛三 伊吉書院一九八四 郡山の歴史 郡山市 不二印刷一九八六 郡山の伝説 郡山市教育委員会 石橋印刷 〃 三百藩藩主人名事典 藩主人名事典編纂委員会 新人物往来社二〇〇〇 執権北条時宗と蒙古襲来 谷口研語 成美堂出版二〇〇一 概論 日本歴史 吉川弘文簡 〃 あさかの神社誌 福島県神社庁郡山支部 不二印刷二〇〇二 中山・竹内 史跡のてびき 佐藤兵一 自家版 「街」こおりやま 不二印刷二〇〇四 郡山の歴史 郡山市 ル・プロジェ 〃 相楽半右衛門伝 相楽マサエ 羽賀製本所二〇〇五 郡山の地名 郡山市教育委員会 不二印刷 むらの歴史 佐藤兵一 シブヤ HP 東鑑 http://www.asahi-net.or.jp/~HD1T-SITU/azuma.html HP 古樹紀之房間 日本古代史一般 古代及び中世氏族の系譜関係 信濃の工藤姓とその一族 http://shushen.hp.infoseek.co.jp/kodaisi.htm HP 石崎のルーツ探索BBS http://www2.aaacafe.ne.jp/free/roots/main.bbs お世話になった方々 (敬称略・五〇音順) 郡山図書館 郡山歴史資料館 郡山市埋蔵文化財調査センター 二本松資料館 三春歴史民俗資料館 梁川町図書室 福聚寺 常居寺 保福寺 石田善男 大内次男 大河原司 相楽智志 佐久間宗一 佐藤兵一 鈴木八十吉 鈴木忠作 山口篤二 吉川喜代衛
2008.02.01
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ところで当時は、如何に側室を勝手に置ける時代であったとしても、祐時が男子のみ十一人(女子を含めればそれ以上?)にも恵まれたということ自体が驚きであるが、さらに遠くに離れていた領地を管理していた息子が複数いたようでこれも疑問である。これは常居寺に伝えられているように、これら管理者の中に祐長の子が含まれていたとも考えられる。いずれにしても、この伊東氏の多くの領地を考えたとき、いかに源氏と伊東氏の関係が深かったかが推測できる。なお『姓氏家系大辞典』に、次の記述がある。 祐經彌威勢重く成りて、大将殿より日本国中に所領宛と約 束にて、廿余ヶ国迄下し給わる。 そこまで調べてきて電話帳に気が付いた。開いてみると宮崎県に多くの郡山さんが居住しているのが分かった。これはどういうことなのであろうか? そしてこの佐土原町に住む郡山総一郎さんが、この安積伊東氏との関係者、また少なくとも郡山出身者であるということを肯定も否定する材料も、いまのところない。 次いで飫肥藩と遠祖を同じくする岡田藩一万石という記述から、岡山県吉備郡真備町岡田周辺の電話帳を当たってみたが、郡山さんはいなかった。そこでその周辺にまで範囲を広げてみたが、それでも安積さんが一人、郡山さんが二人しか居なかったのである。ところがなぜかあさか浅香姓、こおりやま香山姓が結構多いのである。香山については郡山のすぐ次に出ているのであるから、同じ『こおりやま』の読みで間違いはない。浅香についても、安積と読みが同じところにある。 この飫肥藩や岡田藩の歴史では二藩とも伊豆の工藤氏とのつながりを強調しているが、安積、浅香(あさか)、郡山、香山(こおりやま)などの姓の存在から、この二藩の祖とされている伊東祐朝が祐長の子の薩摩九郎左衛門尉祐朝であった、と考えることも可能なのではないだろうか? とすると、文献上不明とされている奥州鞭指莊が安積を示唆していることになるのではあるまいか。『巌鷺山縁記』によると、源頼朝は伊豆国の地頭の『工藤氏』を現在の青森県上北郡東北町に配したとされる。工藤氏はここに厨川城(くりやがわ)城』を築き、後に『厨川(栗谷川)氏』を名乗ったという。つまり奥州鞭指莊は、そちらの可能性もある、ということである。(2010/7/11、「Force Dragon 男の流儀」氏のご指摘により、東北町とあるのを盛岡市に訂正いたします。ミスにお詫びしながら、氏のご教示に感謝いたします) ところでこの所領の表が正しいとすると、祐時の直系男子が十一人もあったことになり、しかもそのすべての領地を直系のみに相続させたことになる。しかしこれでは、余りにも長男・祐時に都合が良すぎる。これらのことを考えれば、この郡山さんたちは郡山出身者である、ということは否定すべきことどころか肯定すべきことなのかも知れない。ちなみに郡山市には、安積さんは住んでいるが郡山さんはいない。 九州を旅行した友人の写真やパンフレットを見ていて、ちょっと気になることを見つけた。それは鹿児島県大口市の郡山という地名の場所に国指定文化財の郡山八幡神社が祀られ、伝統芸能の『郡山棒踊り』が奉納されているということが分かったのである。この神社は建久五年(一一九四)年に創建されたと伝えられているが、もとは奈良大仏殿にあった八幡神社が大和郡山に、それが大口市の郡山に移されたとも伝えられているというのである。 大口市は鹿児島県であるが、もともとは肥後人吉藩(熊本県人吉市)の領地内であった。しかし大口市の郡山八幡神社が直接大和郡山から勧請されたとものとしても、福島県郡山と無関係と断じきることもできないと思われる。というのは、その踊りを鑑賞していないから何とも言えないが、ここ福島県の郡山にも杵を使った餅つき行事の『千本杵』が伝承されているからである。私にはこの千本杵が、大口市の『郡山棒踊り』と何らかの関連があるのではないかと感じられるからである。ただ、このことが関連するかどうかは疑問であるが、遠祖をやはり伊豆とする人吉藩の藩主の相良氏は二万二千石を領有した名家であった。この相良の姓の由来は遠江榛原の相良とされ、源頼朝により肥後球磨郡人吉を領有したいわゆる『鎌倉以来』である。 そこでまた電話帳を繰ってみると、旧人吉藩領内と思われる地域に、浅香、郡山、香山姓の人が結構住んでいた。また浅香は、『古今著聞集』に『或内舎人大納言の娘を盗みて奥州浅香郡に逃ぐる事』(巻第五和歌第六)とあることから、福島県の安積を指しているとも言われている。これらのことから、もし大口市の郡山八幡神社が一〇〇%大和郡山から勧請されたとしたら、浅香、香山姓の多さは何を表しているのであろうか? ここから、人吉藩の相良氏と大槻町の相楽氏との関係も推測できるのではないだろうか。つまり直接の関係はないにしても、縁戚などで間接的な関係があったのではなかろうか? いずれにせよ、ここ福島県の郡山市が大和郡山市、そして大口市郡山との間の何らかの接点を暗示しているようにも思われる。付け加えれば、飫肥藩伊東氏も岡田藩伊東氏も、さらには人吉藩相良氏も、鎌倉時代の初頭にそれぞれ入封したとされている。郡山市から祐長の子が日向国へ行ったという伝説と、時期は合う。 なお前述したが、郡山市の地名の起こりの一例として、『陸奥の芳賀の芝原 春来れば 吹く風いとど かほる山里』の歌の『かおる山』から郡山に変化したという説を紹介した。しかし現存する『橘為仲朝臣集』にその歌がないという。ではこの歌はどこにあったものなのであろうか? そしてこの九州地方や岡山県にある香山(こおりやま)姓とこの芳山(かおるやま)との音の類似は、何を表しているのであろうか? もう一度この歌を探し出して、見直してみてもよいのではあるまいか。 ともかく、これら郡山に関連する姓の分布から考えられることは、やはり宮崎県や岡山県に住む郡山さんや安積さん、それに香山さんや浅香さんが郡山出身である可能性があり、伊東祐長の子どもたちがそれらの地に派遣されたことの可能性もまた高い、ということでなかろうか。 それにしても八百年も前の源頼朝の時代の郡山と、現代の郡山という長い歴史の間に、証明こそできなかったが、こんなにも知られざる関係があったらしいことは驚きであった。 (完) 参 考 文 献 一九一二 山野井村郷土史(二〇〇三年復刻版) 日和田郷土史会 一九三二 磐梯熱海温泉 南朝秘聞 橘輝 文献協会 一九六三 姓氏家系大辞典 太田亮 角川書店 一九六九 福島県史 福島県 小浜印刷 一九七六 日和田の歴史探訪 森合茂三郎 古山書店 三春町史 三春町 凸版印刷 一六七九 日本歴史大事典 河出書房新社 一九八〇 一遍と時宗集団 大橋俊雄 教育社 会津・仙道・海道地方諸城の研究 沼館愛三 伊吉書院 一九八四 郡山の歴史 郡山市 不二印刷 〃 三百藩藩主人名事典 藩主人名事典編纂委員会 新人物往来社 二〇〇〇 執権北条時宗と蒙古襲来 谷口研語 成美堂出版 二〇〇一 概論 日本歴史 吉川弘文簡 〃 あさかの神社誌 福島県神社庁郡山支部 不二印刷 二〇〇二 中山・竹内 史跡のてびき 佐藤兵一 自家版 「街」こおりやま 不二印刷 二〇〇四 郡山の歴史 郡山市 ル・プロジェ 〃 相楽半右衛門伝 相楽マサエ 自家版 二〇〇五 郡山の地名 郡山市教育委員会 不二印刷 むらの歴史 佐藤兵一 シブヤ HP 東鑑 http://www.asahi-net.or.jp/~HD1T-SITU/azuma.html HP 標葉工房電脳覚書 http://plaza.rakuten.co.jp/shimeha/ HP 古樹紀之房間 日本古代史一般 古代及び中世氏族の系譜関係 信 濃の工藤姓とその一族 http://shushen.hp.infoseek.co.jp/kodaisi.htm HP 石崎のルーツ探索BBS http://www2.aaacafe.ne.jp/free/roots/main.bbs お世話になった方々 (敬称略・五十音順) 郡山図書館 郡山歴史資料館 郡山市埋蔵文化財調査センター 二本松資料館 三春歴史民俗資料館 梁川町図書室 仙台図書館 福聚寺 常居寺 保福寺 大河原司 佐久間宗一 佐藤兵一 鈴木八十吉 鈴木忠作 故・田中正能 飛田立史 山口篤二
2007.11.01
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そ し て 現 代 二〇〇一年五月、私は新聞で工藤祐経逝去八百八年の記念として、片平町の常居寺に『工藤祐経の墓』が建立されたことを知った。前述したように工藤祐経は、鎌倉時代、源氏方の武将であったが富士の山麓で曾我兄弟の敵討ちにあって死んでいる。そしてその後、祐経の子・工藤祐長(のちの伊東祐長)が郡山に入植した。つまり祐経そのものは直接郡山に足跡がないにもかかわらず、墓が作られたというのである。私は常居寺を訪ねてみた。寺の住職は私の質問に対し次のように答えてくれた。「この墓碑は、伊東祐長の末裔であるという市内西田町(旧田村郡)に住んでいる方の発願により建立しましたが、建立に際して戒名は、『祐徳院殿智勝秀雅大居士』としましたが戒名が伊豆の現地に残っていないことを確認、そちらの市役所の了承を得て新たに付したものです。それから伊東祐長は、息子が少なかったとも思われる兄の祐時の頼みに応じて、わが子を日向国の国富に与えられていた飛び地に派遣したとの言い伝えが残されています」 そして二〇〇四年の四月、冒頭のあの『イラク人質事件』が発生した。このとき囚われた三人の人質のうちに、宮崎県宮崎郡佐土原町出身の郡山総一郎さんがいた。佐土原町はその昔、伊東祐長がその子の祐朝を送り出したと言われる日向国国富、いまの宮崎県東諸県郡国富町の隣町である。 日向国・宮崎県の歴史を調べてみた。そして幕末まで続いていた宮崎県日南市おび飫肥という所に飫肥藩 伊東修理大夫すけより祐帰 (五万二千石)があったのを見つけ、さらに調べてみたら伊豆の工藤氏が先祖だと記されていたのである。そしてそこには、岡山県吉備郡真備町岡田にあった岡田藩一万一千石が同じ先祖であるとも書いてあった。そこで岡田藩を調べてみると、幕末最後の藩主の名が、伊東若狭守長□(ながとし・『とし』の字は、卆の左下に百、右下に千を書く)とあった。このどちらの藩主も、工藤ではなく伊東氏を名乗っていた。 そしてこの二つの藩主の名をよくよく比べてみると、飫肥藩伊東氏は『祐』の文字を、また岡田藩伊東氏は『長』の文字を通字として歴代使用してきていたのである。そこでこの二藩の藩主の通字を合わせてみたら、なんと『祐長』の綴りになった。私はこれには本当に驚いた。このことは出来過ぎの感無きにしもあらずではあったが、郡山の伊東祐長の子孫が九州や岡山に移ったという伝説の傍証になるのではないだろうかと思った。郡山が、ついに岡山県や宮崎県にまで繋がってしまったのである。その上伊東氏の所領は多く、祐長の兄・祐時の子の代には次のものがあったとされている。ただしここには、弟・祐長の名と奥州安積の記述はない。しかしこの中に奥州鞭指莊というものがある。奥州にあるということから安積を示唆しているのではないだろうかと考えたいところである。しかしどう考えてみても、鞭指は安積とは読めないのが残念であるが・・・。 長門国三隅 山口県(大津郡三隅町)祐時の長男・祐朝 安芸国奴田 広島県 〃 〃・ 〃 奥州鞭指莊 不 明 〃 〃・ 〃 石見国 島根県 〃 次男・祐盛 備前国三石 岡山県(備前市三石) 〃 三男・祐綱 伊勢国富田 三重県(四日市市富田) 〃 四男・祐明 日向国田嶋 宮崎県 〃 〃・ 〃 日向国富田 宮崎県(児湯郡新富町富田)〃 〃・ 〃 播磨国長倉 兵庫県 〃 五男・祐氏 播磨国吉田 兵庫県(神戸市兵庫区吉田町または洲本市 五色町鮎原吉田)〃 〃・ 〃 鎌倉(宗家)神奈川県(鎌倉市) 〃 六男・祐光 日向国門川 宮崎県(東臼杵郡門川町)〃 七男・祐景 日向国諸県郡木脇 宮崎県(諸県郡国富町大字木脇) 〃 八男・祐頼 日向国八代 宮崎県(諸県郡国富町八代)〃 〃・ 〃 石見国稲村 島根県 〃 九男・祐忠 石見国伏見 島根県 〃 〃・ 〃 石見国長岡 島根県 〃 〃・ 〃 石見国御対 島根県 〃 〃・ 〃 甲斐国横手 山梨県(北杜市白州町横手)〃 〃・ 〃 肥後国松山鷺町 熊本県 〃十男・鷺町主 紀伊国一の莊平領 和歌山県 〃十一男・伊東院主 なお県名は、旧国名と対比させた。カッコ内の地名は、現在の地名に当てはめてみたもので、必ずしも一致しないこともある。 県名は、旧国名と対比させた。カッコ内の地名は、現在の地名に当てはめてみたもので、必ずしも一致しないこともある。なおこの本の出版後、標葉石介氏より次のご想定があった。興味深く思えるので、要旨を掲載する。 伊東氏は頼朝から本当に東北に庄を貰ったのかという疑問が残るがその上で、1 鞭指荘は、奥州合戦のおり藤原泰衛が布陣した(仙台市)榴ヶ岡(鞭楯) 付近ではなかろうか。2 鞭楯あるいは鞭館が鞭指之庄に変化、その鞭がツツジの枝であったのでは なかろうか。3 工藤祐経が曾我兄弟に討たれたので、子息の祐時と祐長は、従来の所領に 居づらくなったのではないか、そこで仙台の鞭指荘を担保に、国替えのよ うな方法で祐長は安積に入植したのではないだろうか。4 それ故にあったとされる鞭指庄が行方不明になったという推定ではどうか。そこでさらに仙台付近を調査してその是非を比定したいと考えている。 http://plaza.rakuten.co.jp/shimeha/ (標葉工房電脳覚書)
2007.10.31
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6 伊豆島館 この館は亀井館とも呼ばれていたが、これも『会津・仙道・海道地方諸城の研究』より転載する。 郡山市熱海町上伊豆島にある平山型のものである。日和田 西方約八粁にあり、当館の由来は明らかではないが、伊東 氏の族類伊豆島氏代々の居館である。相生集に「上伊豆島 の舘主伊藤弥平左衛門」仙道記には「平左衛門」とあり弥 の字を脱したのであろう。 舘地は上伊豆島集落の西側で、比高約六十米の丘陵の末端 で、南北東の三方は低地に臨み、殊に南北の二面は谷地深 く入り込み、且南側には藤田川の小流があり、河岸断崖で 渡河容易でない。伊豆島防衛のためには重要なる地物であ る。 7 河内屋敷館 昔、この館があったと伝えられているが、現在どこにあったかは不明である。 8 紀伊宮館 これも片平町の木宮にあり、またの名を花館と言ったと伝えられているが、やはりはっきりしていない。紀伊宮という名については、小田原市に紀伊宮神社があり木宮神社とも称されていたことから、熱海市来宮との関連が想像される。 9 本郷館 この館の名は、直接、伊豆との関係はないと思われるが、伊豆の神社と地名の9で説明をした鎌倉権五郎との関連が『会津・仙道・海道地方諸城の研究』に記載されている。 多田野大炊頭景連同主水忠保居之とあり、景連は鎌倉権五 郎景政十代の孫四本松にて伊達政宗と戦い討死にし、忠保 は政宗の大軍を防ぐこと能わずして天正七年没せり。 この郡山に残されている伊豆関連の地名や館名、そして伊豆から勧請された神社仏閣などから考えられることは、祐長がこの地に思いを深くし、そしてこの地に骨を埋める積もりであった証拠ではなかろうか。そしてその覚悟は、曾我兄弟の敵討ちを受けた父にあったのかも知れない。そう思われる理由として、この地に曾我兄弟の事件が実際には遊行巫女や瞽女によって知らされてはいたが、祐長本人は黙ってさえいれば地元の人に知られることもなく済ますことができる、と考えたためではなかったろうか。 ところで戦国時代を最後に消えてしまった伊東氏は、その後どうなったのであろうか? またこれと関連するが、兄の祐時の依頼で、祐長の長男を日向国の国富に与えられていた伊豆の工藤家の飛び地に派遣したという話が片平町寺下の常居寺に伝えられている。そしてそれを証明するかのように、次の記載が『HP 石崎のルーツ探索 BBS 03/05/26』にある。ここにその関係する文を転載する。 (吾妻鏡) 伊東氏苗字動向 No: 287 投稿者: ISIZAKI 英次 一二六〇(正元二)年四月十三日改元。文応元年一月一 日、薩摩七郎左衛門尉祐能=安積伊東氏開祖たる祐長の 長男。 薩摩十郎=祐廣、同祐長の四男。 (解説) 薩摩七郎左衛門尉祐能=日向国石崎氏苗字との関連が着目 される人物だが、日向記の記録「木脇(祐頼)の庶子 石 崎殿」と言う事実関係は未調査(鋭意調査中)。祐能は安 積伊東氏開祖=祐長の惣領・長男であるので、日向国との 関連性も疑わしく、又、日向伊東氏開祖=祐時の八男と言 われる「木脇」苗字伊東氏=刑部左衛門祐頼(東諸県郡国 富本郷・地頭)との庶子関係は、身分的にも不自然か?
2007.10.30
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3 郡山城 この城跡は、もともとは郡山での古い地名である『茶臼館』にあったものであるが、現在は桜木一丁目という地名に変わっている。古くは館名も地名と同じ『茶臼館』であったのであるが、福島県教育委員会発行の『福島県の主要中世城館跡』には郡山城として記載されているので、それに準拠した。 この『郡山城』の近くの『西の内』には三島神社が祀られている。これらが本拠とされた市西部から大分離れた今の郡山市の市街地にあるということは、祐長が来てある程度の時期が過ぎてから、つまりこの地に城を建設するだけの財政力がついてから構築されたからではあるまいか。この郡山城の北には逢瀬川が流れ、城の東を夜討川が、そして水無川が城の西から流れ込んでいる。小河川と言いども三方を川に囲まれていることになり、その面積から見て相当大きくて堅固な城であったことが分かる。ということは『郡山城』とは今見られるような単なる小さな丘ではなかったということであり、今の富田町の大島辺りから並木、西の内、若葉町にまたがる大きな城であったということになる。そう考えてみると、郡山城は今の姿からは想像できないほど大きな規模であったと思われる。 また規模に関連して考えられるのは、『郡山城』や『西の内』に隣接して『幕の内』や『幕の外』という地名があったことであり、さらに大島という地名に続いていたということである。つまり三島神社は、『郡山城』の敷地内を意味する『~の内』の中の『西の内』に伊東氏の守り神として勧請されたということであろうし、それもあって時代が下がってからの伊東氏の主要な城であったことが推察される。なお『幕の内』という地名は無くなってしまったが、この近くの逢瀬川に、『幕の内橋』が架かっている。 また以前には、今の大町二丁目から若葉町辺りを『幣導内』と言った。意味としては御幣を導く所であるから神社の境内、もしくは神社への通路と考えられる。郡山市史では赤木神社関連の地と説明しているから、それはそれで正しいのであろうが、『西の内』にある三島神社の賜田であったとも考えられる。いずれにしても、『茶臼館』という名は、伊豆の茶をイメージしたものであったとも推定できる。なお現在では夜討川、水無川ともに市街地になってしまったこともあってか暗渠となり、もともとの川筋が分かりにくくなっている。 伊東氏は戦国時代にこの城に拠って伊達政宗と戦っているが、『会津・仙道・海道地方諸城の研究』によると、この城は稲荷館と呼ばれた時期もあった。ここでの戦いは、郡山合戦、久保田合戦、または夜討川合戦と言われているものである。 ところで、『街こおりやま・二〇〇九年九月号・郡山城を行く』に、『平成9年と10年に、当時の郡山市埋蔵文化財発掘調査事業団によって行われた試掘調査によっても、城に関すると思われる遺構などは発見されなかった』とあった。そこで同事業団の柳田和久氏を訪ねてお訊きしたところ、「旧地名の茶臼館は、相生集に源義家がここに駐したと記述されていることから付けられたもので、あそこには遺構などなく、もし城館の類であれば何らかの生活の痕跡があるはず。あそこに城館はなかった」と言われた。私は歴史家ではないので反問は避けたが、後でこの文を詳細に読んだところ、同じ稿の中に『道路拡張時に土塁が発見された』という記述もあった。 このように同一の寄稿文の中で、事業団の言う『遺構などは発見されなかった』というコメントと、寄稿者の郡山地方史研究会の広長秀典氏の言う『道路拡張時に土塁が発見された』という矛盾した記述はどうしたものであろうか? 左は広長秀典氏の『郡山城を行く』からの抜粋である。 (前略)地誌に明記されていたにもかかわらず、西ノ内の台地 上を郡山城に比定してしまった原因は、昭和56年の道路拡張時 に土塁が発見されたこと。(後略) 私はこの城の周辺での戦い名の一つに『夜討川合戦』と言われたことも気になる。この前にある川・『逢瀬川合戦』ではなく、いまはその名も忘れられた堀のように小さな夜討川なのである。ということは、この城の内堀のような性格の夜討川を挟んだ戦いがあったのではないかということと、前述した周辺の城に関連する地名から、何らかの防御施設があったと推定している、 4 茶臼館 これ以降は、茶臼館という名についてのみ見てみる。まずこの『茶臼館』という名については、前述した郡山城を含めて次の三ヶ所があった。 郡山市若葉町(通称・郡山城) 郡山市三穂田町山口字芦の口 なおこの館は伊豆出身の相良氏が経営していたこと から、この名をつけたものと推察できる。 郡山市湖南町舘字宮の前 この館名を伊豆関連の館に含めた理由は、この地方で茶は栽培されないということにある。茶がないのに茶臼(碾茶をひいて抹茶にするためのひき臼)ということになれば、茶の名産地である伊豆にその起源を求めざるを得ない。 5 安子島館 安子ヶ島の地名との関係もあって、伊豆関連の館名に含めた。 郡山市熱海町安子島字南町にある平館である。当館の起源は明らかでない。応永十一 年連署に安子ヶ島藤沢祐義と見えている。安積伊藤の一門である。(中略)又相生集 に依れば「阿子ヶ島治部大輔祐高は工藤祐経が嫡子伊藤大和守(片平城主)祐時が後 胤。(中略)舘地は阿子ヶ島集落の平館で、比高約二十米の丘阜で四面今は水田で、 南方に丘陵を負い、北方に五百川を帯び要害の地である。(後略) 『会津・仙道・海道地方諸城の研究』
2007.10.29
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消 え た 城 館 郡山地方には、戦国時代で言うところの城とまでは言えないが、予想外に多くの館跡がある。これらの館は盗賊などとの少々の戦いにも使われたかも知れないが、むしろ灌漑用水を確保し、その見張りをすることで水争いを防ぎ、農民の人心掌握と農業の安定的発展に利用したものと思われる。総領家の手放せない権利として、水利権があったからである。福島県教育委員会発行の『福島県の主要中世城館跡』によると、市内には城と称されたものが十一ヶ所あった。そのうち伊東氏に関連すると思われる三城と、伊豆につながると思われる名の六館を次に説明する。 1 片平城 工藤氏が最初に郡山に入ったのは、ここではなかったかと私は推定している。その理由として第一に、伊豆関連の地名・神社が、この辺りに集中していることにある。これについては『郡山の地名』に『(前略)片平が鎌倉時代から戦国時代にかけて支配していた安積伊東氏の直轄地であり(後略)』とあることから、また片平町に城塞関係の地名として残されているものに、上館、中館、下館、西戸城、東戸城、そして門口に館堀、外堀、新堀、的場、馬場下、それと寺町を示唆する寺下(ここには今でも三ヶ寺、常居寺、岩蔵寺、広修寺が集中している)などが残されているからである。 第二には、片平城の規模が大きいということである。そして『会津・仙道・海道地方諸城の研究』には、次の記述がある。なおこの中では、伊東と伊藤が混在しているが、その理由は不明である。姓はそのままにして引用したもので、間違いではない。 郡山市片平と字舘西との中間丘陵上にある平舘であ る。郡山西北約十粁に当る当館は伊東家本宗累代の居 館である。伊東氏は何時の頃より当地に居住したかは 明らかでない。寛永書上館基考等に依れば「片平は伊 藤祐長の嫡流大和守之れに居る。而も所領追々一族に 分配し其の身小身となり、(中略)片平は安積郡中の 著村にて伊東氏代々の鎮守伊豆箱根三島の三社を勧請 し、厳然として今に存す。 片平氏は安積伊東の一族である。仙道記に「片平城主 伊東大和守と申は工藤左衛門祐経、文治五年泰衡退治 の節比類なき働仕安積郡一国安達の内宛行われ、其の 身は伊豆国に住し次男伊藤六郎左衛門ママ助長、安積 郡に入部し片平の城に住す。依て安積六郎祐長と改 む」(後略) 2 大槻城 ここは工藤氏と一緒に移って来た相良氏の城であったと思われるが、その起源は明確でない。ここの地名にも、次のようなものがある。城の内、中柵、殿町、衛門田、北寺、寺西、そして御花畑、これはおそらく薬草を植えていた所ではなかったのではあるまいか。 郡山市大槻にある平館である。郡山西方約六粁に当る当城 は安積伊藤氏の城館で其の起源は明確でない。伊東系図に は「伊東祐清永仁三年八月五日賜安積安達塩松移安積菱形 莊新構新城」とあるも詳かでない。(中略)地形概して低 卑で川を堰き止むれば付近一帯は潴溜の地となるので、平 城ではあるが相当の抵抗力があったと思われる。 交通路は東西南北に通じ安積地方の中心地である。されば 伊東氏は此の地を以て安積の根城としたのも当然である。 『会津・仙道・海道地方諸城の研究』
2007.10.28
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6 曾我仏 曾我仏という石塔が、香久池二丁目の法久寺境内に保存されている。その石塔には、左のような文字が彫り込まれている。 右当考一十 弘安九年丙庚六月四日 敬白 三年忌辰為成仏 この左の列を見ると三年忌と読めるが、右側の列から読み下すと十三年忌を意味する。 (鈴木八十吉氏談) 建立された弘安九(一二八六)年の十三年前は、文永十一(一二七四)年にあたる。そのためこの石塔は、祐長の孫の祐家が建てたものと考えたい。その理由として、祐能の没年は不明であるが祐長の没年が建長六(一二五四)年とされていることと、吾妻鏡に祐能が文永三(一二六六)年二月十日の項に次のように記載されていることから、それから八年後の文永十一年に死去したと推定することも可能であるからである。 将軍家鞠の御坪に於いて御馬御覧。薩摩七郎左衛門尉祐 能・伊東刑部左衛門尉祐頼・波多野兵衛次郎定康等これ に騎る。土御門大納言・八條三位公卿の座に候す。一條 中将能清・中御門少将公仲等の朝臣・左近大夫将監義政 ・弾正少弼業時已下北の広廂に候す。 それでは何故、曾我仏と言われたのであろうか? まず考えられることは、当然ながら曾我兄弟との関係である。丁度一〇〇回忌にでもなるかと思って調べてみたが、曾我兄弟の死は一一九三年、この供養塔は一二八六年の建立でこの間は九三年となるから、その線は崩れる。 次いで考えられるのは、この祐長~祐能~祐家の時代に何かよくないこと、例えば不作とか洪水、風水害などが数多く起こったため曾我兄弟の祟りと考えた。そのため、表面的には祐能の十三忌の供養にかこつけ、実質的には年忌とは関係なく曾我兄弟の供養塔を建立したのではあるまいかということである。つまり、一種の御霊信仰であったとも考えられる。 しかし民衆は騙されなかった。次のようなことから知っていたと考えられるからである。 まず事件後まもなく箱根権現や伊豆権現の僧侶たちによって曾我兄弟の話が仏教の唱導に用いられていたということ。 次いで弘安三(一二八〇)年、賦算と踊り念仏を布教の媒介としながら白河の関を越えた時宗の一遍上人と、その集団である時衆たちが話していた中にもこの話があったということ。なかでも特に箱根権現や伊豆権現とつながりの深かった郡山では、早い時期から『曾我語り』として流布されていたものと思われ、またゆぎょうみこ遊行巫女やごぜ瞽女らによって曾我兄弟の生涯やその顛末が浪漫的に語られていたということである。そのことからも、曾我兄弟の敵討ち話の伝達経路は何本もあったと考えられ、曾我仏と呼ぶようになったのではあるまいか。しかし、この曾我仏と呼ばれてきたことに対しての歴史的確認は、されていない。 ところでこの供養塔は、もともと日和田と冨久山の境の字西仲鹿島後か字白石田にあったものを、昭和二十九年ころ法久寺境内に移したと言われている。そしてこの曾我仏には、次のような郡山市教育委員会の案内文が付されている。 『曾我仏 日和田町、富久山町の境、高場山中俗称恵日 台より移す』 そしてここにある恵日台という地名から、恵日山に似た山号のあるこれらの寺々との間に強い関係が感じられる。ただし現在、高場山、恵日台の地名は残されていないが、門前、戸ノ内を指すとも伝えられている。 7 豊景神社 前述した寺々の移動に関連して移転したと思われる神社に、『伊豆につながる神社と 地名』の13に記述した豊景神社がある。この神社は、福原字古戸にあったが、いまは福原字福原の本栖寺近くに移されている。本栖寺の移転と一緒に移されたものであろうか? この豊景神社、福聚寺、本栖寺、そして福原館のあったこの地域は、その周辺にあった旧福原の集落とともに、中心地の一つであったと考えられる。昭和七年に建立された石塔の碑文を左に転記する。 村社旧跡(豊景神社跡) 豊景神社ハ元御霊宮ト称シ天養元甲子(一一四四)年勸請 シテヨリ元和ニ(一六一六)年迄四百七十餘年間此ノ所二 鎮座ス 天正年間(一五七三頃)大鏑舘ニ福原蔵人當地ヲ 領シ田村清顕ニ属セシ頃迄ハ福原ノ人家ハ此ノ地ニ在リシ モ慶長ノ末(一六一五頃)奥州街道完成シ元和ノ初年ニ至 リ人家悉ク道筋ニ移ルニ伴ヒ鎮守御霊宮モ今ノ地ニ遷宮セ リ 是ヨリ東一丁餘大鏑舘内南ニ箭給ノ渡アリ水神ヲ祭祀 ス勸請年代詳ナラザルモ之箭給ノ渡ノ水神ニシテ共ニ由緒 深ク渡ハ寛治三(一〇八九)年鎮守府将軍源義家公東征ノ 砌リ将軍ヨリ箭ヲ給フニ依リ箭給ノ渡ノ名アリ 往古ハ田 村ノ荘二通ズル唯一ノ渡舟場タリ 爰ニ河川工事ニヨリ之 等ノ由緒アル旧跡皆其面影ヲ失フニ當リ昭和七年四月水神 ノ宮ヲ村社旧跡ノ地ニ奉遷シ碑ヲ建テ事蹟ヲ略記シ後世ニ 傳フ 昭和七年十八日建之 (注) カッコ内の西暦年数は、筆者が記入。 8 何故、移されたのか? この今までに見てきた範囲で一館、一社、四寺、一仏が移されている。しかも本栖寺が二度、古福寺が三度、福聚寺に至っては四度も移転している。しかし何故そのようなことが頻繁に行われたか? それについてはまったく不明である。
2007.10.27
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5 門前、戸ノ内 前述の表に記したように、門前の地に構えた寺に、福聚寺と古福寺がある。この二ヶ寺があったとされる門前の南部は、戸ノ内と接している。そしてこの戸ノ内の北端に鹿島神社が祀られており、この神社の北麓に、本栖寺の由来にもある田村輝定の墓がある。以前ここには橋本正茂の墓もあったと伝えられている。ともかく門前と戸ノ内は、同一と言ってもおかしくない位置関係にある。 伊東祐長の後の南北朝時代、後醍醐天皇の南朝側についた田村輝定は、北畠顕家の配下として伊達氏、(白河)結城氏らと畿内にまで遠征、楠木正成らとともに北朝側の足利尊氏を破った武将である。また橋本正茂は大和国橋本(和歌山県橋本市)の城主であったが、南朝側の敗北とともに田村輝定を頼って守山に入った武将であった。その後もこの二人は南朝に忠節を尽くしたが、やがて宇津峰山の星ヶ城で破れている。そしてこの二人の墓が、この鹿島神社の北麓に祀られた。ここで福聚寺の移転とともに、二人の建墓について次のような疑問が発生する。 1 何故、田村輝定が、伊東領と思われていた聖坊から八 丁目門前もしくは戸の内へ、さらには福原字古戸へ と、福聚寺の移転をすることができたのか? 2 何故、伊東領と思われていた八丁目字戸の内の鹿島神 社の北麓に、田村輝定と橋本正茂が葬られたのか? さらに時代が下がった永正元年、田村義顕は守山から田村大元神社を、そして二人の墓はそのままに福聚寺を古戸(古戸の笠松と言われた古い松の木があった)から三春に移して菩提寺とした。守山はもともと田村氏領であった。それであるから、ここから田村大元神社を移す分には何の支障もない。ところが門前、戸ノ内の地は伊東氏領と考えられていた地域である。しかしその移転についてもめ事あったという記録はない。何故なのであろうか? これらの疑問に対して、暦応二(一三三九)年から永正元(一五〇四)年以降までのほぼ二百年、この郡山の一部の『福原』『八丁目』周辺は田村領であったという可能性が指摘される。つまり仙道田村荘史によると、戦国時代には阿武隈川の西岸にもかかわらず、この旧福原の地が田村領であったことが記載されていることから、以前よりこの旧福原の地が田村領であったのではあるまいかという推定である。 その理由を補足するものとして、ここにあった大鏑館(別名・福原館)のそばに、『矢給(やきゅう、又は、やたま)の渡し』があった。そこに渡し船があったということは、川幅が狭い上、瀞にでもなっていたということなのであろうか? それはまた田村領内への交通の接合点としての要衝であったということになり、田村氏が橋頭堡的に確保していたとも考えられる。そう考えれば自己の領地内の福聚寺が平和裏に三春へ移されたのは理の当然、ということであったのかも知れない。 ところで福原の集落が現在地に移転したのは、福原館の大部分が明治の阿武隈川の堤防工事の際に潰されていることからも、この川の氾濫がその理由であったと考えられる。そしてもう一つ、郡山市文化財調査センターおよび周辺住民の間に残る口伝によると、火災によるとも言われている。するとこの火災は、戦国時代の戦火によるものであったのかも知れない。いずれにしても単一の理由のみであったとは考えられないから、その他にも理由があったと考えるべきなのであろう。 なお蛇足ではあるが、近年、福島県施設のビックパレットの建設に際して、郡山市の南部の安積町荒井字猫田および南千保地内に荒井猫田遺跡が発掘された。これは鎌倉時代の町の跡で、道路跡や井戸跡・建物跡などとともに、奥大道に沿って町の出入り口となる木戸も見つかっている。そして郡山の北部には、福原館や豊景神社、そして福聚寺を擁した旧福原集落があった。この旧福原集落が、荒井猫田から阿武隈川河畔を通って北へ行く道と、渡し舟を利用して東へ行く交通の要衝であったと考えられる。 そしていま、阿武隈川の『矢給の渡し』があったとほとんど同じ場所に、国道二八八号線の架橋工事が行われている。この橋の建設に際し、郡山市文化財調査センターにより発掘調査が行われた。同センターによると、最古の遺物は十五世紀・室町時代の終り頃であり道路跡も発掘されているという。それらもことから確定はされてはいないが、安積町ビックパレットの所にあった荒井猫田の町並みの遺跡とつながっていたことが推定されるという。これが歴史の面白さかも知れないし、個人的には、この橋が大鏑橋と命名されたら歴史上の名を具体的に残せて楽しいし、『郡山に歴史がない』という伝説? を少しは払拭できるかと思っている。
2007.10.26
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4 本栖寺 本栖寺は、福聚寺が移転した字古戸から三春に再移転した際その跡地に建立され、その名も元の福聚寺が以前に栖んでいた寺という意味で本栖寺と名付けられたという。そして福原集落が移転する際、普賢坂(八山田字牛ヶ池)に仮堂を建設、その後の延宝四(一六七六)年、福原字福原の現在地に移転したと伝えられている。ここで本栖寺の門の前にある由来の碑文を書き出してみる。 今を去る六百五十年前の元弘元(一三三二)年田村莊司田 村輝定(輝顕)公が臨済宗の高僧大光禅師復庵宗己大和尚を 迎え八丁目恵日台に恵實山福聚寺を開山創建せり。 その後永正元(一五〇四)年田村義顕公に至り三春大志多 山に舞鶴城を築城し移住するに当り福聚寺もともに移ること となり本来の福聚寺跡に建つ寺として其のまま恵實山として 寺号を本栖寺として残された。 其の後慶長九(一六〇四)年奥州街道の開発とともに阿武 隈川西辺東仙道沿いの福原集落が現在地に移転するに及び元 和初(一六一五頃)年本栖寺も普賢坂に移転仮堂を建設する も延宝四(一六七六)年寺域を現在地に定め本堂建立を決定 以来昭和五十一(一九七六)年を以て三百年の星霜を算す。 本栖寺五代住職叟玄肖和尚本堂建立完成後に於て元禄四 (一六九一)年守山の住人吉成権左衛門氏より本尊仏として 釈迦如来像の寄進を受け当時の檀信徒一同奉迎礼拝今日に至 る。 昭和五十七年十二月吉辰 本栖寺二十二代現住徳樹撰書 さてこれらを参考に寺ごとに移転した順序に並べてみると、次のようになる。 宗派 山号 寺院名 所 在 地 (移 転 年) (曹洞宗・ 海光山福聚寺 伊豆大島岡田字榎戸)?1 臨済宗・(不明)福聚寺 日和田町八丁目字聖坊2 〃 ・( 〃) 〃 富久山町八丁目字門前 元弘二(一三三二)年3 〃 ・( 〃) 〃 富久山町福原字古戸 歴応二(一三三九)年4 〃 ・慧日山 〃 田村郡三春町御免町 永正元(一五〇四)年A 〃 (山号不明)古福寺 日和田町八丁目字聖坊B 〃 ( 〃 ) 〃 富久山町八丁目字門前C 曹洞宗・恵日山保福寺 日和田町八丁目字仲頃イ (不 明 本柳寺 日和田町八丁目字聖坊)?a 臨済宗・恵實山本栖寺 富久山町福原字古戸b 〃 ・ 〃 〃 富久山町八山田字牛ヶ池(普賢坂) 元和初(一六一五)年頃c 〃 ・ 〃 〃 富久山町福原字福原 宝暦四(二六七六)年 なお最初に記載した大島の福聚寺はその後の寺とは無関係と思われるが、参考のためここへ書き入れてみた。 そしてこれらの寺の間には、不思議な一致が見られる。 第一はその宗派が曹洞宗の保福寺を除いて、全てが臨済宗であることである。しかしこの臨済宗と曹洞宗に対して中国の禅僧・蘭渓道隆が、「さいとう済洞(臨済宗と曹洞宗)を論ずる勿れ」と諭しているように、ある意味非常に近い関係にある。そうすると、この寺々のすべてが臨済宗である、と考えてもよいのではあるまいか。 第二にはこれとは直接関係がないかも知れない伊豆大島の福聚寺の山号を除いて、全てが同じ語感の山号であるということである。これについては、大同二(八〇七)年に恵日寺を建立した徳一大師三世の弟子の金耀上人によって福聚寺が開かれたという説(鈴木八十吉氏談)を採れば、それぞれが恵日山、慧日山、そして恵實山になったことの意味が理解できる。この山号の類似から、伊豆大島の福聚寺を外して、これらの寺々の間には、やはり何らかの繋がりがあるのではないかと考えられる。
2007.10.25
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2 古福寺と保福寺 次いでこの聖坊の福聚寺が転出した跡地に、新しい寺が建立された。そのため古い福聚寺、つまり古福寺と名付けられたがこの寺もまた、何故か福聚寺が最初に移されたとされる八丁目字門前に移されたという。そしてこの古福寺が、八丁目字中頃に保福寺と名を変えて移されたという。山野井村郷土誌に次の記述がある。 古福寺 今、田村郡三春町ニ移リ福田寺トナルハ之レナリ トイフ、何時ノ開基ナリヤ、何時ノ頃三春町ニ移リシ ヤ、未詳ナリト雖モ、今、八丁目ニ字門前ナル所アリ之 レ古福寺ノ門前ナリト云ヘ門前ニアリタルコト疑ナシ。 相生集曰く「八丁目古福寺ハ三春八幡町に移る。今門前 と云う地は此寺の門前に當りし故なり」と見エタリ。 保福寺 一 大字八丁目字中頃ニアリ。文化年間ノ改築ニ テ平屋建茅葺ナリ。 二 宗派本山 曹洞宗二本松大隣寺ノ末寺。 三 本尊縁記 本尊延命地蔵春日ノ作。 四 檀家戸数 五十九戸。 五 (空欄) 六 所有財産 大字所有ノ畑地二ママ段五畝歩ノ 収入。 七 特別保護建築物 ナシ 八 維持法 大字所有二段五畝歩ノ収入ノ外ニナ シ。修繕其他ハ其収入及檀家ヨリ之 ヲ償フ。 安達安積大概録ニ曰ク「八丁目保福寺(曹洞)天正ノ頃 ハ濟家也。恵日山と云ふ。玉龍和尚開基本尊地蔵春日作二 本松大隣寺の末云々」トアリ。境内観世音ノ堂アリ。 なお福聚寺の玄侑宗久氏によると、「僧の代替わりとともに寺の名を変えることもままあったと言われるから、古福寺が臨済宗から曹洞宗に変わったときに保福寺と名も変えたとも考えられる」と言われた。 私はこの古福寺と保福寺という名の関係もさることながら、この中頃という場所が、もともと福聚寺があったとされる聖坊と、移転先の門前との丁度中間点にあるというのも、不思議な話であると思っている。また相生集に、古福寺は三春の八幡町に移されて福田寺になったとあるが、三春にその名の寺があったことの証明はされていない。 3 本柳寺 『会津・仙道・海道地方諸城の研究』に次の記載がある。 或説に田村氏福原を領すること年久しと見ゆ村内本柳寺と いう寺あり。開山は大光禅師(復庵和尚)にて中峰国師の 法を伝へ此処に一寺を創建し恵日山福聚寺と号せり。然る に田村氏帰依大方ならずして寺を三春に移して牌所とせら る。因って茲に福原にては寺号を更めたり。今以両寺とも 恵日山と号して、同じく大光禅師を以て開山とすと。又邑 里に田村郡の例を用ゆること数多ありとぞ。然れば福原内 匠介景延も田村の属士なるべきか。 ここで本柳寺という名が出て来るが、現在、郡山および田村地区に、この名の寺は見当たらない。するとこの文の流れから見て、本柳寺は福聚寺の通称とも思われる。ただし本柳寺とは次に出てくる本栖寺の古称ででもあるのであろうか? 確認はできなかった。ただいづれにしても時期を変えて、福聚寺、古福寺、そして本柳寺の三寺が、ともに聖坊に創建されたとも考えられる。そしてこのことこそが、地名・聖坊の『聖』の由来であるのかも知れない。 ただしこの『聖坊』について、日和田町在住の歴史家の石田善男氏は、次の説を立てられている。「聖坊の地名は亡くなった和尚が葬られたことから付けられたもので、ここに寺はありませんでした。福聚寺が最初に造営されたのは、門前の地域でしょう」 なお門前については、『5 門前、戸ノ内』の項を参照にして頂きたい。
2007.10.24
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さ す ら う 寺 1 福聚寺 田村郡三春町に、臨済宗の福聚寺という寺がある。この寺の副住職・玄侑宗久氏によると、「工藤祐長が郡山に入り最初に宿泊した所が福聚寺であった」という。「何故、郡山に来た祐長が田村に?」という疑問は、往古、福聚寺が日和田にあったということから、すぐに氷解した。そのとき聞いた住職・橋本宗明氏の話によると、最初に建立された場所は、三春から行って旧『小和滝橋』を渡って南へ曲がる道の右側の高台であると言う。帰りがけに場所を確認し、住宅地図を開いて驚いた。その小字名が『聖坊(ひじりぼう)』であったからである。 辞書を開いてみた。 『聖』(ひじり)。高徳の僧、高僧。 『坊』僧侶の居所。 とあった。 ──なるほど、昔ここには、寺があったという意味か。 ところで臨済宗が日本に伝わったのは鎌倉時代のはじめ頃、栄西禅師(一一四一~一二一五)によってである。はじめのうちは新しい宗教ということで京都では布教できず、鎌倉で源頼朝など武家を中心に広まっていった。このような時代に臨済宗の福聚寺が日和田に勧請されたとすると、伊東氏との関連を強調してもよいのではあるまいか。この福聚寺に残されている伝説と冨久山郷土史研究会長の鈴木八十吉氏の調査を並べると、次のようになる。 当初、臨済宗福聚寺は現在の郡山市日和田町八丁目字聖 坊にあったとされるが、誰の勧請によるものであるかは不 明である。そして永正元(一五〇四)年、福聚寺は戦国時 代の大名・田村義顕によって三春に移され、田村氏の菩提 寺となった。(寺伝) 元弘二(一三三二)年、福聚寺は同じ日和田八丁目地内 の字門前に移転したが、それ以前に約百年が経過してい る。元弘二年から七年後の暦応二(一三三九)年、福聚寺 は田村輝定によって富久山町福原字古戸地内に移された。 (鈴木八十吉氏談) ただこれらを考える上で、いくつかの疑問点がある。 第一は、福聚寺が最初に建立されたされる所が。聖坊という地名であるということである。この地名の『聖』という文字について、識者は臨済宗ではなく真言宗との関連性を指摘されるのであるが、仮に臨済宗と『聖』がどのような関係にあったとしても、聖坊という土地の名に、聖地というような何らかの宗教的意味の関連があったには違いないと思われる。 第二に三春の福聚寺は、大光禅師復庵宗己(一二七九~一三五八)によって開かれたという説(三春町史 1 六二五頁)と徳一大師三世の弟子の金耀上人によって開かれたという説(三春町史 2 七九〇頁)の二説が同じ町史に出ている。金耀上人の生没年については不明であるが、徳一大師が七四〇年頃生まれ、天長元(八二四)年に亡くなっていることを考えれば、八〇〇年代には創建されていたということになろう。なお金耀上人について郡山市三穂田町富岡字西屋敷の護国寺の由来には、「大同二(八〇七)年会津恵日寺三世 金耀上人が、古義真言宗の安積布教の本拠とした」とある。 そしてこの福聚寺を調べていて、同名の福聚寺が伊豆大島にあるのを見つけた。そこから推測するに、工藤氏の代官が郡山に入った時点で、工藤氏の守護仏として伊豆大島から字聖坊に福聚寺を勧請していた、と考えるのはどうであろうか? もしそれが許されれば、祐長が郡山に着いたとき最初に宿泊したのが字聖坊の福聚寺であるという説に無理が感じられないし、この寺自体が伊豆と関連があることになるからである。 そこで伊豆大島の福聚寺に電話で問い合わせをしたところ、そこの住職に丁寧なご回答が頂けた。ただ分かったことは「当寺は戦国時代の開山であり、曹洞宗であることから、あなたの考えるようなことにはなっていないのではないか」ということであった。しかしこの寺が曹洞宗であることは、その昔、臨済宗の寺であったことを示唆するものとも考えられる。とは言っても、三春の福聚寺との関連性は棚上げとせざるを得ないのかも知れない。 ところで福聚寺は、永正元(一五〇四)年、田村義顕により新たに築城された三春城下に田村町守山の田村大元神社とともに三春に移された。では何故、それが永正元年であったのか? それは当時起きた『応仁の乱』に対応するため、幕府は田村氏をはじめとする多くの国人たちに軍勢の発向を命じたことに関連すると考えられる。と言うのはこれと同時期、より身近で起きた『関東の大乱』がそれら国人たちに出兵を躊躇させ、自衛のための準備を急がせることとなったと思われるからである。つまり田村氏は、今後に起こるかも知れないという大戦乱の予兆に恐れ、平地のため防御力の弱い守山から山間の三春へ城を移したのではなかろうか。田村氏は氏神であり自己の領地にあった田村大元神社を勧請したように、福原の田村氏の菩提寺の福聚寺を勧請したと考えられる。このことはまた、起きるかも知れない大きな戦乱に備えて守山と福原から撤収し、阿武隈川と大滝根川を大防御線と考える戦略であったのかも知れない。
2007.10.23
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17 御霊櫃峠 ところで、これまでの話が御霊櫃伝説を形作った基礎になったようにも思われる。そこで私は、次の事柄を繋いでみたのであるが、皆さんはどう思われるであろうか。 郡山市内を出て、地名11の大槻町春日神社を通り14の鎌倉権五郎景政に記載した蝦夷原(現在地名の蝦夷担か?)、そして地名10の鎌倉池を過ぎ、さらに同じ10の多田野本神社を過ぎ、鬼穴のある所を登って御霊櫃峠に入って行く。この道順から鎌倉権五郎景政に関しての御霊信仰が考えられ、御霊櫃峠の名の由来になったとも思われる。そしてこの御霊櫃峠は、『古今集』の『序』に『あさか山 影さへ見ゆる山の井の あさくは人を 思ふものかは』(釆女)と詠われ、陸奥きっての歌枕になった安積山(別名・額取山)の尾根に連なる峠である。 なおこの他の神社についても、『郡山市史』に『郡山市の熱海町高玉、同町上伊豆島、逢瀬町夏出、同町多田野、三穂田町川田、同町駒屋、喜久田町前田沢の七ケ所の神社が勧請』と記載されているが、現在それら七ケ所の神社名や所在地、それに勧請されたという元の神社名が明確ではない。そこで郡山図書館に調査を依頼したが、「執筆者がすでに故人となっており、不明である」との回答を得た。残念ながら確認することはできなかった。 現在の郡山市内に、久留米という町名がある。これは明治初期、旧久留米藩の氏族が移住してきて開拓した場所である。このような形で地名が生まれることは古い時代からあることで、決して珍しいことではない。するとここに書き出した伊豆関連の地名は、祐長に連れられてきたそれぞれの出身地の地名を付けた可能性高いのではないだろうか。 これらの地名や神社から考えられる結論として、地名7の大島と三島神社を除いたこれらの神社と地名のすべてが郡山市の西部、つまり奥羽山脈の脚部に集中していることから、私は伊東氏の最初の入植地がこの方面であったと考えている。水の便が必ずしもよくなかった安積野の開拓は、熱海町、片平町、逢瀬町、三穂田町にまたがる市街地の西部のこれら山裾を流れる小河川の流域から、棚田による開発がはじめられたのであろう。 なおまたこれらの地名は、市内の久留米という地名に見られるように、農家の次三男対策として移住させられた人々が、出身地の地名を持ってきたとも想像できる。
2007.10.22
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15 鬼穴 逢瀬町多田野に、『鬼ヶ城』『西鬼ヶ城』『東鬼ヶ城』『鬼ヶ坂』『鬼兜』などと言う鬼の付く地名の所がある。あるとき、鬼穴と称するものがこの鬼の名の付く地区にあるのを知った。私の頭の中では、御霊櫃峠伝説に言う『悪人』と『鬼』と呼ばれる人がつながった。それはどんな穴なのか? 人の住んだ形跡が残されてはいないか? 『郡山の地名』を見てみると、多田野大概帳に『昔この山に鬼神が籠もったとされる岩穴がある。ここは人も寄りつかず岸壁が厳としてそびえ、穴は高い岩の中程にあって二間四面ほどの大きさである』と記されている。なお多田野本神社社伝に、浄土松に住んでいたという盗賊と大蛇を退治したとある。 葉が落ちて探しやすくなると思われた晩秋の某日、逢瀬町史談会の鈴木忠作氏のご案内を得て、小雨降る中、幾度も谷川を越えながら、沢登りのような逢瀬川源流の谷の道を登った。雨は降るし足元も悪い。私は半分音を上げ、半分迷惑をかけたくないと思って二度ほど諦めようとしたが、それでも歩くこと小一時間。前を塞ぐ小さな滝に行く道を失い、見上げた右の崖・高さ約二十メートルほどの所に、多田野大概帳に記載されているように二間四方ほどの穴の入り口が見えた。もちろんその高さから中を覗き込むことはできない。なんとそのとき鈴木氏がこう言った。「以前にも探しに来たことはありましたが、分からなくて途中で引き返しました。それで見たのは今日がはじめてです。そのため橋本さんに『もう戻ろう』と言われたけれど、あと少し、あと少しで遂に念願が叶いました。地元でもこれを見た人はほとんどいないので見られてよかったと思います。ご苦労さんでした」「私も、もし一人で来たら駄目だったでしょう。ありがとうございました。しかし来てはみるものですね。複数の洞窟だと思ったものが一つだったし、人の手にかからない自然のものだということも分かったのですから」 彼は周辺に転がっている水晶を含んでいる石片に目をやりながらこう言った。「私は『昔の人がここにある水晶を他人に採られないように鬼が住んでいるから行くな』と言って人を遠ざけたものと思っていました」「なるほど、しかしそれでは、この穴に住んでいた鬼が、里の人に悪さをしたといういうような伝説はありませんでしたか?」 彼は即座に返事をした。「それはありません」 私はそれを聞きながら考えていた。 ──なぜ黒い岩の鬼穴とその周辺には見られない、水晶を含んだ白い石片がこの辺りに散らばっているのか? もしかして、この行き止まりの滝の上に水晶の鉱脈があり、大雨のときにでも流れてきたのであろうか? 16 櫃石 鬼穴から戻る途中の車の中で、鈴木忠作氏が言った。「来たついでに、櫃石に寄りましょう」「えっ、これからですか?」 晩秋のこの時間、すでに辺りは薄暗くなりはじめていた。峠の頂上に目をやると、薄く掃いたような雪もみえる。「いや、近いですから」 躊躇している私にそう言うと間もなく、車は峠の道に入った。つづら折りの山道の八合目辺りか、車を降りて十メートルも入ったところに畳で四畳ほどの大きな櫃石があった。「これは……、櫃石というより櫃岩ですね。それに私は、これは峠の頂上周辺にあるものとばかり思っていました」「そうですか、ただこの大きな岩が、なぜ一個だけここにポーンとあるのか、不思議だと思っています。もっともそれだからこそ、櫃石というように特別に名が付けられたのかも知れません」「そうですね。私の素人目で見ると、この岩は溶岩のようにも思えるのですが、この辺りに火山はなかったですよね」「ええ、ありません。あえて言えば磐梯山がありますが、猪苗代湖の向こう側ですからね。ここまで飛んで来る訳がないです」 私は、鉱石の専門家に見てもらえば何らかの発見があるのではあるまいか、などと考えていた。
2007.10.21
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10 鎌倉池 大槻町の瀬戸地内にこの池がある。鎌倉は伊豆半島ではないが、鎌倉幕府の、つまり源頼朝の本拠地であった。そう考えれば鎌倉池も、伊豆(伊東氏)関連の名と考えてもいいのかも知れない。 11 春日 春日という地名は、大槻町春日、三穂田町富岡字春日、三穂田町富岡字春日舘、三穂田町字春日原などという形で残されている。この春日という地名は、伊豆にはないようであるが、春日神社が伊豆の工藤氏の守り神であったということから、これも伊豆(伊東氏)関連の名と考えても、いいのかも知れない。 この春日神社は大槻町春日の春日神社、宇名己呂和気神社、湖南町中野字二番猿畑の春日神社にも祀られている。 12 工藤台 三穂田町野田に工藤台がある。工藤は伊東氏の元の姓であることから、これも伊豆(伊東氏)関連の地名と考えてもよいのではあるまいか。 13 御霊の宮 御霊(ごりょう・みたま)とは霊魂を畏敬した表現で、政権争いなどから非運にして命を絶たれた皇族・豪族の霊魂や怨霊が個人や社会に祟ると考え、それらを御霊神として祀ることによって災厄を避けようとした。これが御霊信仰の始まりと考えられているが、鎌倉時代以降、武士が活躍する時代になると非運な最期を遂げた武将たちも御霊神として祀られるようになった。大町二丁目の阿邪訶根神社(通称・うぶすなさま)には、平忠通が、また富久山町福原字福原の豊景神社、多田野町字宮南の多田野本神社には、鎌倉権五郎景政とその一族が祀られ、『御霊の宮』と呼ばれていたという。阿邪訶根神社に祀られた平忠通は、平将門の娘を嫁に貰った平忠常の弟である。若いとき源頼光配下の四天王、渡辺綱、坂田金時(またの名、足柄山の金太郎)、卜部季武の一人であった。大江山の酒呑童子を退治したとして名高い。 14 鎌倉権五郎景政 豊景神社、多田野本神社に祀られた鎌倉権五郎景政もまた、前九年・後三年の役に出征した武者である。鎌倉権五郎景政の武勇を伝える逸話として、次のようなものがある。 後三年の役において、敵兵の放った矢が権五郎の右眼(左眼という説もあり)に深々と突き刺さった。権五郎は刺さった矢を抜くことなく、彼を射た敵兵をいころ射殺した。そのまま陣中に帰って来た権五郎は仰向けに倒れこみ、朋輩(部下という説もあり)の三浦為次に矢を抜くよう頼んだ。あまりに深く突き刺さっているため困った為次は、権五郎の顔に足をかけて矢を抜こうとしたところ、突然権五郎は仰向けのまま抜刀し、為次を刺そうとした。驚いて飛びすさった為次は怒り心頭、理由を尋ねたところ、「弓矢で死するは武者の望むところ、生きたまま顔に土足をかけられるは我慢がならぬ。されば、いま汝を仇として討ち我も死なんとした」と言ったため為次は舌を巻き、かがめた膝で顔をおさえて矢を抜いたという。 郡山の地名(安積名称考)によると、『多々野村城主鎌倉権五郎阿倍貞任征伐ノ後、是ノ多々野ノ地ヲ権五郎ニ賜ハル。(中略)又大槻ノ北ニ蝦夷原ト云フ處アリ、永承康平(一〇四六~一〇六五)ノ頃モ尚此地ニ蝦夷人ノ長タル者住居セン處ナリ。故ニ蝦夷原ト云』とある。権五郎は寛治三(一〇八九)年に死去したとされるが、奥州での戦いの功により石川郡鎌田の城主となり、六十八才で没したという伝えもある。これらのことから鎌倉権五郎景政もまた伊豆関連の神と考えてもいいと思われる。 いずれにしても、現在、鎌倉市坂ノ下に御霊神社、(別名・権五郎神社)がある。これらに関連するものとして、郡山に伝わる御霊櫃峠伝説を左に紹介する。 前九年の役において八幡太郎義家が東征した際、総奉行の 鎌倉権五郎景政が、里人の願いにより当地方の賊徒を征伐 した。その後賊の亡霊が祟って冷害凶作にあい農民を苦し めた。そこで里人が計らって亡霊を峠の『櫃石(ひつい し)』に供養したところ、郷土が五穀豊穣となったためこ の御石を御霊櫃と崇めた。その後この峠を御霊櫃峠と呼ぶ ようになった。 (御霊櫃峠伝説)
2007.10.20
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6 安子ヶ島 熱海町に安子ヶ島という字名がある。この『島』の付く地名に伊豆との関連を感じていたが分からず、郡山市立安子島小学校の学童たちが『安子ケ島』の地名について地元の伝承を調べていたことを知った。問い合わせしてみたところ、そこでは姉が島が安子ヶ島になったとの説も紹介されていた。しかし姉が島は硫黄島に近い母島列島にあり、伊豆からは余りにも遠すぎる。工藤氏の領地であったとは考えにくい。その他にも伊豆との関連を指摘する声は多かったのであるが、具体的な関連を示唆するものはなかった。その後三宅島に『阿古』という字名があるのを知り、これから安子ケ島の地名になったと考えてみた。なお安子ヶ島字竹ノ内には木の宮神社が祀られ、この地名もまた伊豆との強い関係を示唆している。 7 大島 富田町に大島、大島前という字名がある。また市内の町名表示が変更になる以前は、現在のおおよそ並木一丁目 並木四丁目 桑野五丁目の範囲に大島、大島向、大島東、大島前、大島上、大島下という地名があった。これは伊豆大島から名付けられたと考えてもいいのではあるまいか。この大島に隣接した若葉町に郡山城が、西ノ内には三島神社があるからである。 この神は、源頼朝が平治の乱に敗れたとき伊予国大三島の大山祇神社に参詣して源氏再興を祈願し、その加護により旗揚げが成功したため、治承四(一一八〇)年、根拠地の鎌倉に近い景勝の地に大山祇神社から三島大明神の分霊を勧請し、社殿を造営したのが起こりと言われている。頼朝の信仰もあって、中世以降は武家、庶民の信仰を集めた。三島大明神は、王宮伊豆神社、宇名己呂和気神社にも合祀されている。 なお地名としては失われてしまったが、この地域には大島小学校、大島公民館、大島東公園、大島中央公園、大島西公園など、旧大島の字名を冠した施設がある。せめてこれらの公共施設の中に、大島の地名を残しておいてほしいと思う。 8 河内(こうず) 逢瀬町に河内という字名がある。普通この字は『かわうち』とか『かわち』または『こうち』とは読むが、『こうず』とは読まれない。ところで本来工藤氏の本家であるべきであった工藤祐泰が、いまの静岡県賀茂郡河津町に住み『河津』九郎祐泰に姓が変わっている。いま、この河津は『かわつ』と読まれる。しかし当時は『こうづ』と呼ばれていたのではあるまいか。それは父の仇の姓である故に、『津』の字を『内』の字に変えたとも考えられる。また、こうず河内はこうづしま神津島からとったとも考えられないだろうか。 9 富士壇と藤坦 熱海町高玉字富士壇は、市立熱海中学校そばの高台の地名である。周辺に富士に似た山があるかも知れないと期待して見に行ってみたが、それはなかった。そこで農作業をしていた人に「この近所で、○○富士という名の山がありませんか?」と訊いてみたが、首をひねっているだけであった。しかししばらくすると「あぁ、あるわ。ずー、と向こうに三春富士(いまは田村富士ともいう)がある」と言って示して教えてくれた。澄んだ冬空の遙か東に、富士に似た形の片曽根山(田村市船引町)が意外に近く見えていた。また日和田町高倉と三穂田町大谷、さらに今の喜久田町原三丁目地内にも字藤坦があった。現地に行ってみると、壇や坦が示すように丘となっており、これらからも片曽根山がよく見えていた。それらのことから、いつの時代にか富士が藤になったのではあるまいか。 これに似た例として、東京などに富士見坂とか富士見町などがある。これなども富士山がよく見えることから付けられたという。今だからこそ、絵や写真で多くの人が富士山の形を知っているが、この地名を付けたと思われる八百年も前のことであれば、ここの地名は伊豆から来た人たちが付けたとしか考えようがない。この古い時代に郡山の人たちが富士の山容を知って名付けたとは、到底あり得ないと思われるからである。
2007.10.19
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3 熱海 これについては伊東氏、つまり伊東市との関連もあって、静岡県熱海市以外に考えようがない。現在郡山市熱海四丁目には温泉神社が祀られているが、元々は伊豆熱海温泉の湯の神で、豊かに湧く湯に感謝して発展を願うために建てられたという神社である。またこの神は、三穂田町山口字芦ノ口の温泉神社、富久山町久保田字山王舘の日吉神社にも祀られている。そして現在は地名としては消えてしまったが、三穂田町山口に、字温泉、字西温泉、温泉山という地名があった。これらの地名は、字・芦ノ口に包含されてしまったのであろうか。またこの温泉神社のある周辺でも、温泉が出ていたのであろうか? もともと、いまの熱海を含む五百川以北は安達郡であった。しかし二本松にあった安達郡役所に行くのに安積郡役所のある郡山で汽車に乗り換えるという不便もあって安積郡に編入され、その後郡山市に吸収されたものである。 ともかく、この熱海という地名こそが、郡山と伊豆との関連を示す決定的かつ象徴的なものであろう。 4 木宮 片平町に木宮、木宮東、木宮南、木宮道東、木宮道西という小字が、また熱海町に木ノ宮という小字がある。 静岡県熱海市にある来宮神社は江戸末期まで『木宮明神』と称され、現在の『来宮』ではなく、『木宮』の字で古文書等に記されている。この来宮大明神は、明治維新後、阿豆佐和気神社と称し、福の神・縁起の神として古くから信仰されていた。この来宮大明神は、木宮神社の名で木宮南、中村神社として木宮の地に、また熱海町中山の熊野神社には、『木宮』の祠が祀られている。この地方に木宮という名で残ったということは、それ以前、つまり祐長の時代の命名であったことの傍証となるのではなかろうか。 5 上伊豆島、下伊豆島 熱海町に、上伊豆島・下伊豆島という字名がある。私は当初、これについては伊豆地方、もしくは伊豆半島から命名されたものと考えていたが、東京都三宅島の中に『伊豆』という字名を見つけるに及んで、これから採ったものだと考えるようになった。その理由の一つに、三宅島村伊豆にある大久保海岸は通称、いずしも伊豆下海岸と呼ばれているのが分かったからである。このいずしも伊豆下といずしま伊豆島、ここに微妙な接点が感じられるが、静岡県熱海市内にも伊豆山という地名のあることを付け加えておく。 ところで、この伊豆の名を直接冠した伊豆権現は、名前を見ただけで伊豆関連の神社であることが分かる。いざなぎ伊邪那岐命、いざなみ伊邪那美命を祀り、走り湯権現などとも称されていた。源頼朝以来、鎌倉、江戸幕府の崇敬もあつく、関東の総鎮守といわれた神社である。伊豆権現は、片平町字王宮の王宮伊豆神社、三穂田町八幡字上ノ台の宇名己呂和気神社に祀られており、箱根権現もまた、王宮伊豆神社、宇名己呂和気神社に祀られている。 箱根権現は伊豆権現とともに二所権現と呼ばれ、将軍家の恒例行事が鎌倉幕府初代の源頼朝からここで続けられた。以後関東武将の崇敬篤く、北条早雲、氏綱、徳川家康などの寄進がみられる。
2007.10.18
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伊 豆 か ら 来 た 神 と 地 名 伊東祐長が郡山に着任する際に出生地である伊豆から神を伴ったり、姓や地名を変更したについては、望郷の念や工藤一族を守護してくれる神と考えたからに違いない。しかし新たな支配者として郡山在来の人々を治める手段のためそれらを持ち込んだと考えれば、政治的な意図が強かったと思わざるを得ない。特に前からここにいた人々とその組織が、外部から来た新しい支配者・工藤氏に、争うこともなく平穏のうちに引き継がれたのは、宗教の力を利用したからとも推測される。 1 伊東氏 前述したように、これについては郡山へ来る以前に使われていた形跡もあり、必ずしもここへ来てから使ったとは断定できない。しかし伊東氏は、静岡県の伊東市との関連から固定化していったと考えても不思議ではあるまい。 なお姓氏家系大辞典に、次の記述がある。 (伊東氏は)伊豆国田方郡伊東庄より起こる。(中略)藤 原南家の族常陸介維幾の子為憲・木工助たるに拠りて工藤 と称す。その裔伊豆国押領使となりて伊豆の地を領す。こ れ伊東氏の起原なり。(中略)此の伊東と称せし理由とし て日向記は、「伊藤の藤の字に書換しは、祐經の家居、御 所の東に有ければ、東殿と頼朝公仰有けるを以て、伊東と は書来たれりとなり。 また伊東氏に関連する姓の説明の中に、安積、片平、大槻、富田、中地、横沢、日和田、郡山、名倉、早水、小原田、前田沢、川田、麻野、窪田がある。現在これらのうち、中地、麻野の地名はないが、江戸時代の村名には中地、安佐野(あざの)の地名があった。その上、窪田は久保田であり、早水については今の小原田に早水弾正の早水館があったとの記録から、これらの姓のすべてが郡山の地名と合致することになる。 2 郡山 郡山の地名については、工藤氏の始祖が大和郡山を領していたので、安積に来てから郡山という地名にしたという説がある。工藤氏はその祖を藤原鎌足としているが、その系図によるとこの話に出てくる工藤家次祐隆は十六代目となるから、その間は約四百年ということになる。この長い間に工藤氏が大和郡山に住んでいた時期のあったことは、大和前司の職名からも十分に考えられることである。なお次の文は、相生集からの抜粋である。 (略)永享年中(一四二九年頃)、保土主伊東氏横塚ヨリ ココニウツリテ郡山トアラタム其證ハ今横塚ニ芳賀池トイ フアル是成。舊事記ニ伊東氏ノ始大和國郡山ヲ領ス。 文治五(一一八九)年藤原泰衡亡ビテ伊東氏ニ安積郡ヲ給 ハリシ故本國ノ郷名ヲトリテ郡山ヲ號ストイフ。按ズルニ 工藤祐経ノ子犬房丸後に大和守祐時と名ノル。又太平記ニ 安積伊東ハ大和守ノ前司トアリ實ニ伊藤氏始大和ノ郡山ヲ モ領シシナラン。然ラバ伊藤祐長稲荷館ニ移りてより此の 地を郡山ト称シ氏ニモ称セシナラン。 (郡山の地名・郡山市教育委員会より) なおこの他にも、郡山命名に二説ある。 その一は、郡衙説である。『郡山の歴史(一九八四年および二〇〇四年)』によると、市内清水台に残る遺跡は当初廃寺跡とされていたが、後に安積郡衙跡と考えられるようになった。その理由として、「全国的に古代郡衙のあったところの地名に『こおり』もしくは『こおりやま』という地名が多い」というのがその説明である。 その二は、橘為仲が詠んだという歌にある。『郡山の歴史(一九八四年)』に、彼が詠んだという『陸奥の芳賀の芝原 春来れば 吹く風いとど かほる山里』の歌の『かおる山』から芳山の字を当て郡山に変化したと記述しながらも、現存する『橘為仲朝臣集』にその歌がないことで疑問視している。 これらは勿論どの説が正しいと断言できないが、三つの説のあることを併記しておきたい。しかし現在、郡山の地名が市名として使われている以外、小字としても残されていない。では最初に郡山が付されたのはどこであろうか? それとも最初から広い地域に対して郡山という地名を付したのであろうか? 疑問が残る。しかも郡山の小学校のうち芳賀小学校、芳山小学校、薫小学校そして橘小学校の名は、この歌からとったものとも言われている。
2007.10.17
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この祐長の名の出てきた最後の建長六年の記述には、『将軍家御行始めの儀有り。申の一刻相州の御亭に入御す。御引出物例の如し。中務権の大輔家氏御劔を持参す。砂金、羽、御馬』とあり、多くの供奉人(布衣、下括り)の一人として参加していることが分かる。しかしこの表のように頻繁に出仕している状況から、祐長が郡山に永住していたとは考えにくい。ただし祐長の生年は承元二(一一八三)年と推定されており、それを踏まえて前出の年表を整理してみると、 一二一三年~一二一九年 六年間 一二一九年~一二二七年 八年間 一二二七年~一二三六年 九年間という長期の三回の空白がある。するとこの期間と、祐長が三十歳頃と推定される一二一三年までの何年かの間には、郡山に住んでいたと考えても良いのではあるまいか。なお日和田町朝日坦地内に、安積左衛門夫妻の墓と伝えられるものが残されている。これが祐長夫妻のものであるかどうかは、疑問とされる。(日和田郷土史会・石田善男氏談) さらにこの表を見てみると、伊東、工藤、伊藤、安積の姓が錯綜して使われているし、その何代か前には、狩野姓も使用されている。このため、祐長が郡山に入ってから伊東姓に変えたという説には、いささか疑問が感じられる。なお薩摩については『HP 古樹紀之房間 日本古代史一般 古代及び中世氏族の系譜関係 信濃の工藤姓とその一族』より転載する。 工藤一族のうち「薩摩」を冠した名乗りをする系統は、祐 経の子で伊東左衛門尉祐時(犬房丸。後出)の弟・安積六 郎左衛門尉祐長の子孫であり、祐長は陸奥の安積郡に所領 をもち薩摩守に補されて、『東鑑』には安積薩摩前司など と見えます。 祐長の諸子は、薩摩七郎左衛門尉(祐能)、薩摩八郎左衛 門尉(祐氏)、薩摩九郎左衛門尉(祐朝)、薩摩十郎左衛 門尉(祐廣)として同書に見えて、これらの子孫も「薩 摩」を冠した名乗りで『東鑑』に見えています。祐長の子 孫には陸奥の安積伊東氏一族、伊勢の長野工藤氏一族など が出ますが、信濃の坂木にも工藤氏を残しました。 室町時代・画家狩野派の祖、狩野景信は伊豆の人。伊東マ ンショ(戦国時代九州からローマへ派遣された少年使節団 長)は伊豆伊東の一族。 ところで祐長は、たった一人で安積庄に移住して来た筈はなく、家臣団を供にして連れてきたと思われる。その一人が、恐らく、いまの静岡県牧之原市相良がその出身地の相良氏であろう。姓氏家系大辞典には、(相良氏は)『藤原南家伊東氏流。遠江国榛原郡に相良郷を載せ、又古く延暦廿年多度津資財帳に「遠江国相良荘」と載せ平田寺文書に「遠江国相良荘平田寺の事云々」と』と記述されている。 また相良氏については、次のような説もある。 岩瀬郡須賀川の領主は二階堂氏である。二階堂氏はこの地の他にも相模国大井庄、甲斐国逸見庄、遠江国相良庄、讃岐国藤原庄を領していた。そしてここに出てくる遠江国相良庄は、現在の静岡県榛原郡相良町である。これらのこともあって相良氏は二階堂氏に被官し、須賀川に入部した。これが須賀川相良氏であろう。そして時代が下がって戦国時代、大槻落城の際して大槻の相良氏が須賀川相良氏を頼って移ったとされるが、この関係によるものであろうか。 また、この相良(楽)一族は郡山市大槻町周辺に多く居住している。そしていまでも高齢の人は相楽さんとは呼ばずに、相楽様と呼ぶ土地柄である。もっとも、この地で古くから庄屋などの役職についていたというから、その所為とも考えられるが、むしろ伊東氏との関係から様を付けて呼ばれたとも推定できよう。 なお現在の相楽氏に尋ねたところ、「戦国時代に(茨城県)結城から移り住んだと伝えられている」 とのことであった。しかし大槻町長泉寺の墓所を見せて頂いたところ、鎌倉時代のものと思われる墓碑が数基祀られていることから、その頃、大槻に移住した相良氏のいたことが証明できる。またその墓所には、相良から相楽と変えた形跡が残されている。 (注)二〇〇七年十月、大槻町の相楽モトさんより天保十 三年に記述された『萬書覚扣帳』のコピーを頂い た。 それによると『鎌足胤伊豆伊東より十四代之末葉 一、城主伊東氏祐頭永正年中大槻駒屋八幡山口大谷 右五ヶ村領ス』とあり、また『帯刀より相楽ト 改号云々』とあった。 それから狩野氏がある、 狩野氏は前述したように工藤氏の先祖とも考えられるし、姓氏家系大辞典によると、『藤原南家伊東氏流。伊豆狩野庄より起る。此の地は(吾妻鏡の)文治四年六月四日条に「蓮花王院領伊豆国狩野庄」と見ゆ。此地を領せしなり。伊豆の大族にして、伊東、工藤と同族たり』と記述されている。 伊東氏は、狩野氏から工藤氏へ、そして伊東氏へと続いていったとも想像される。静岡県田方郡天城湯ケ島町には、治承四(一一八〇)年に築城された狩野城(別名・柿ノ木城)跡が残されている。狩野城は狩野氏歴代の居城であったが、その後、北条早雲によって伊豆全土が制圧されたとき、狩野城も北条氏の傘下に組み込まれている。なお狩野という名は、地名の他に狩野川など川の名前にも残されている。いずれにしても現在郡山市熱海町とその周辺に残る狩野氏は、工藤祐長とともにこの地に移住した狩野氏一族の末裔と考えても良いのではないだろうか。相良と狩野の氏族は、祐長の留守中、代官を務めていたとも考えられる。 この二氏についてもう一つ考えられることは、主筋の伊東氏が片平に住んだと仮定すれば、その南の大槻に相良氏を、そして北の熱海、伊豆方面に狩野氏を置いて守りを固めたのかも知れない。いずれにしても相良氏も狩野氏も、工藤祐長とともに伊豆から郡山に移住し落ちついたものと思われる。
2007.10.16
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この建保元(一二一三)年五月二日酉の刻、北条氏に挑発された和田一族はついに武装蜂起をした。吾妻鏡の翌三日の項に、『和田四郎左衛門尉義直、伊具馬太郎盛重が為に討ち取らる』とあり、『義盛以下の首を取り聚む』とある。和田の乱(和田合戦)は、わずか二日で終わったことになるのであるが、問題は祐長がその身柄を預かったはずの和田四郎左衛門尉義直が、この日の戦いで戦死していることである。祐長は、和田四郎左衛門尉義直に逃げられたのであろうか? もしそれが事実とすれば、当時祐長は郡山に住んでいなかったことになる。この矛盾点をどう考えたらよいのであろうか? また前出『郡山の歴史』にある『和田合戦の功により伊東祐長が安積郡を賜ったとする伝え』とはどういう功であったのであろうか? たった二日間での戦闘の功とすれば、大きすぎる賞ではあるまいか? 疑問点の一つである。 老人物語にも、『工藤右衛門祐経、初めて奥州安積を始め、田村の内、鬼生田村などを領す。嫡家伊東大和守祐時、嫡流たるにより伊豆に住す。これ日向伊東の先祖なり、次男 祐長、安積伊東の祖なり』とあるという。 (注)傍点筆者 ところで吾妻鏡における祐長の父の祐経の初出は、『工藤一臈祐経』として寿永三(一一八四)年四月二十日の項にある。一臈とは武者所の上級職の名である。ある源氏の儀式において『工藤一臈祐経鼓を打ち今様を歌う』とあり、源氏との強い関係を示唆している。では工藤祐長は、いつ郡山へ来たのであろうか。そして工藤は、何時の時点で伊東に姓を変えたのであろうか。それについても具体的な文献はない。 ここで吾妻鏡の中から、祐長と彼の名と推測できる名、およびその記述された年月日を抽出してみる。 建保元(一二一三)年 二月 十六日 伊東六郎祐長 承久元(一二一九)年 七月 十九日 伊東左衛門尉? 安貞元(一二二七)年 六月 十五日 伊藤左衛門尉? 嘉禎二(一二三六)年 八月 四日 安積六郎 左衛門尉 嘉禎三(一二三七)年 四月二十二日 安積六郎 左衛門尉 歴仁元(一二三八)年 二月 十七日 安積左衛門尉 二月二十二日 安積六郎 左衛門尉祐長 二月二十八日 安積六郎 左衛門尉祐長 仁治二(一二四一)年 八月二十五日 安積六郎 左衛門尉 寛元元(一二四三)年 二月二十六日 安積六郎 左衛門尉 寛元二(一二四四)年 八月 十五日 安積六郎 左衛門尉祐長 宝治元(一二四七)年 五月 十四日 安積新左衛門尉 六月 六日 薩摩前司祐長 宝治二(一二四八)年 一月 三日 大和前司 十二月 十日 薩摩前司祐長 閏十二月 十日 薩摩前司祐長 建長二(一二五〇)年 一月 十六日 薩摩前司祐長 三月 一日 安積薩摩前司 建長三(一二五一)年 一月 一日 薩摩前司祐長 なお建長四(一二五二)年六月十七日 の項に、『大和 守従五位上藤原 朝臣祐時卒す』 とあり、以後吾 妻鏡にこの名は 出てこない。こ れは祐長の兄と 推測される。 建長五(一二五三)年 一月 三日 薩摩前司祐長 一月 十六日 薩摩前司祐長 建長六(一二五四)年 一月 一日 薩摩前司祐長 (注)*この年、伊東祐長死去。ただしこれについ て、吾妻鏡に記載はない。 *伊東、伊藤とあるが、吾妻鏡の記載に従っ たもので、間違いではない。
2007.10.15
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工 藤 祐 長、 郡 山 を 拝 領 す 建保元(一二一三)年、工藤祐長三十歳の頃、源頼朝の挙兵の当時から従い、鎌倉幕府の成立に貢献して幕府の侍所初代別当 (長官)となっていた和田左衛門義盛は、北条氏と対立していた。 二月十五日の北條九代記に、次の記述がある。 謀反の輩有り。和田の平太・同四郎・渋谷の六郎(畠山 弟)・上野園田の七郎・渋河 の六郎等なり。中将殿並びに 義時を討ち、金吾将軍の次男(字千壽)を立てんと欲す。 彼の廻文を信濃の国の僧阿念房これを持ち廻る時、千葉の 介が被官粟飯原次郎件の僧を搦め取りをはんぬ。陰謀露顕 の輩、罪科を蒙る衆の中、和田の四郎義直・同平太胤長 (義盛弟)有り。彼の両人は左衛門の尉義盛が一族なり。 これに依って義盛同意の 疑い有り。 (注)傍点筆者 翌十六日、僧阿念房の自白により、各地で和田の関係者が捕らえられた。そして吾妻鏡のこの日の項に、伊東六郎祐長として初出する。その理由は、捕らえられた和田一族のうちの、和田四郎左衛門尉義直を預かったことについてである。 (前略) 和田四郎左衛門尉義直(伊東六郎祐長これを預かる) 和田六郎兵衛尉義重 (伊東八郎祐廣これを預かる) (後略) ところでここに出てくる伊東八郎祐廣は、工藤祐長の次男か四男(末子)ではあるまいか。系図等を参考にすると、祐長の次男が薩摩八郎左衛門祐氏とあり、四男が薩摩十郎左衛門尉祐廣とあるからである。さらにこのとき、渋河刑部六郎兼守が安達右衛門尉景盛に預けられている。(重複・抹消)ところでここに出てくる伊東八郎祐廣も、工藤祐長の一族ではあるまいか。さらにこのとき、渋河刑部六郎兼守が安達右衛門尉景盛に預けられている。 吾妻鏡の三月十七日の項には、『和田平太胤長陸奥の国岩瀬郡に配流せらると』と一行のみ記載されている。そしてその五月九日の項に、『和田平太胤長、配所陸奥の国岩瀬郡鏡沼南の辺に於いて誅せらる』とあることから考えると、祐長が和田四郎左衛門尉義直の身柄を安積の地で預かったということを示唆しているのかも知れない。そしてそう考えると、この頃、祐長自身が郡山に来ていたと考えても、無理はないことになる。 ところで『郡山の歴史』には、次のようにある。 一般的に、安積郡は奥州合戦の功により工藤祐経(祐長の 父)が賜ったとされている。 (中略)しかし吾妻鏡には工藤祐経が安積郡を賜ったとす る記載はない。(中略)また、和田合戦の功により伊東祐 長が安積郡を賜ったとする伝えもある。
2007.10.14
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文治二(一一八六)年、源氏の氏神である鶴岡八幡宮落慶と平氏撃滅の戦勝を記念した祭りで静が頼朝に呼びつけられ、舞を演じさせられた。そのときの舞は、『吉野山 峰の白雪ふみわけて いりにし人の あとぞ恋しき』と『しずやしず しずのをだまき 繰り返し むかしを今に なすよしもがな』と、いうものであった。勿論この前段の歌は、静が吉野山で義経との別れを悲しんだものであるが、後段は、『静よ静よと くりかえし私の名前をよんでくだされた昔のように なつかしいお方のときめく世の中に いまいちどしたいものよ』という意味を歌ったものである。もっとはっきり言えば、『頼朝様、昔あなたは罪人でした。今でこそ偉い方ですが、出来れば昔の罪人に戻してしまいたいものです』という静の痛烈な皮肉を表していたことになる。これは静の義経に対する恋歌であり、頼朝に対する強烈な恨み節でもあった。そのとき祐経は鼓を奏した。工藤祐経は武人ではあったが、文人としての素養も深かったと思われる。 『吾妻鏡』四月八日の項より、次の文を抜粋する。 二品並びに御台所鶴岡宮に御参り。次いでを以て静女を廻廊に召し出さる。これ舞曲 を施せしむべきに依ってなり。(中略)左衛門尉祐経鼓たり。(中略) 静先ず歌を吟じ出して云く、 よしの山 みねのしら雪 ふみ分て いりにし人の あとそ恋しき 次いで別物曲を歌うの後、また和歌を吟じて云く、 しつやしつ しつのをたまき くり返し むかしをいまに なすよしもかな 誠にこれ社壇の壮観、梁塵殆ど動くべし。上下皆興感を催す。二品仰せて云く、八幡 宮の宝前に於いて芸を施すの時、尤も関東万歳を祝うべきの処、聞こし食す所を憚ら ず、反逆の義経を慕い、別曲を歌うこと奇怪と。(後略) (注)傍点筆者。 これに怒った頼朝は、重臣列座の中でこう言った。「今ここで静の腹を裂いて赤子を取り出し、殺してしまえ! 」 たしかに残酷な言葉ではあったが、頼朝自身若い時流人の身であり、恋人であった河津祐親の娘の八重との間に生まれていた千鶴丸を殺されていたことから、同じ要求をしたものと思われる。さすがに「今ここで」というのは無理があるという事になったが、後に出産した時に男子であれば即殺す、という事に決定してしまったのである。ちなみに静の子は男の子であったため、生まれると同時に川に投げ込まれた。それはまた、千鶴丸が殺されたのと同じ方法であった。 義経は平泉へ逃れた。そして文治五(一一八九)年七月十九日、頼朝軍は義経を追って鎌倉を出立し、七月二十九日、白河関の関明神で戦勝を祈願して奥州に入った。八月七日、頼朝軍は阿津賀志山(伊達郡国見町)で平泉勢を破り、九月には平泉の攻撃をはじめた。このとき付き従った者の中に、工藤祐経の外にその一族の者と思われる次の人たちの名が『吾妻鏡』に記載されている。 土肥次郎實平 土肥彌太郎遠平 工藤庄司景光 工藤小次郎行光 工藤三郎助光 狩野五郎親光 曾我太郎祐信 宇佐美三郎祐茂 工藤左衛門尉祐綱 工藤三郎祐光 九月八日、頼朝は平泉戦勝の知らせを持たせた安達新三郎清経を、使者として上洛させた。ちなみにこの安達新三郎は、以前に母の磯禅師とともに静を預かっている。九月十六日、頼朝は静に暇を出した。 いずれにしても、工藤祐経は頼朝とは強い絆で結ばれることになり、頼朝=祐経体制と評させるまでになった。ところがその体制を打ち壊すことが本当の目的であったと言われた事件が、建久四(一一九三)年に発生した。曾我兄弟の敵討ちである。 そのとき源頼朝はその武力を見せつけるため工藤祐経を総奉行として富士の裾野で大巻狩を催していた。巻狩とは狩りのことであるが、むしろ軍事訓練の意味合いが強かった。その最後の狩場として、頼朝は白糸の滝付近に陣を構え、祐経の陣は音止の滝の東方に構えていた。その夜の寝静まったところを襲ったのが曾我十郎・五郎の兄弟である。間違えて殺された河津祐泰の妻の満江が曾我太郎と再婚したために河津から曾我に姓が変わっていた兄弟は闇に紛れて襲い、ついに敵討ちを成し遂げたのである。兄弟は駆けつけた祐経の部下たちと渡り合ったが兄の十郎は朝比奈四郎に斬り殺され、弟の五郎は事情釈明のため頼朝の御前目指して走り寄ろうとしたが大友能直に制せられ、小舎人五郎丸に捕らえられたのである。 翌日、五郎は斬首されたが、そのとき首切り役人はわざと刃を潰した刀を使ったため、五郎の首を斬るのではなく引きちぎる結果となった。その塗炭の苦しみは、目をそむけんばかりの異常なものであったと言われている。そのためにか、後に首切り役人は、五郎の亡霊に大いに悩まされることとなったとも伝えられている。
2007.10.13
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ところで蛭ケ小島に流されていた源頼朝は、河津祐親の娘・万劫の姉の八重と恋に落ちて男の子の千鶴丸を授かった。しかし平氏の威勢を恐れた祐親は、『源氏の血を引く』との理由でわが孫である千鶴丸を殺し、その上で流刑人であった源頼朝をも殺そうとしたが、北条時政の屋敷に逃げ込まれてしまい、それは失敗した。この北条氏の屋敷があった願成就院は、蛭ケ小島とは十町(一キロメートル)とは離れていなかった。この屋敷に逃げ込んだ頼朝は、やがて北条政子と結ばれたのである。 この事件の起きている間に、工藤祐経に息子の祐泰を殺された河津祐親は、祐経から引き離した万劫を、平氏方の武将であった土肥次郎実平と娶せ、その一方で殺された祐泰の妻の満江を曾我太郎祐信と再婚をさせた。そのため連れ子となった五歳の祐成と三歳の時致は、曾我の姓を名乗ることとなった。のちの曾我十郎と五郎の兄弟である。 治承四(一一八〇)年八月、源頼朝は北条時政の後ろ盾を得て源氏の再興を謀って石橋山に挙兵したが、前面に平氏方の大庭景親の軍勢三千、背後からも同じ平氏方で八重の父である河津祐親の軍勢三百名に攻め込まれて敗北、土肥実平らわずかの兵とともに相模湾の真鶴岬より小船で安房(千葉県)に逃れた。この娘婿である土肥実平の源氏方への翻意は、祐親の平氏への忠誠心を疑わせるものとなってしまった。祐親にとっては不本意の極みであったのであろう、これを機に伊東一族が源平に分かれて相争うことになる。このような中で、奥州平泉の藤原氏のもとに預けられていた頼朝の弟の義経が馳せ参じて来た。 寿永元(一一八二)年二月十四日、劣勢となった河津祐親は京都へ逃げようとして、鯉名(静岡県賀茂郡南伊豆町小稲)に船を準備しているところを源氏方の天野藤内遠に見つけられて生け捕りにされてしまった。翌十五日、祐親は自殺した。それは勿論、祐親が平氏方であったためでもあったが、他にも祐経が平氏方から離れて源氏方に加担していたこと、祐親は祐経と領地をめぐって敵対関係にあったこと、あえて祐経から引き戻してまで再婚をさせた娘の万劫の夫の土肥実平までが源氏方に付いたこと、などがあったと思われる。そしてこれらのことが、祐経に対する曾我十郎と五郎兄弟の敵愾心を強めることになったのであろう。 その後、源氏方は義経を中心にして勝ち進み、文治元(一一八五)年、壇ノ浦の戦いで平氏を完全に滅亡に追い込み実権を握ることとなった。この間祐経は義経に付き従い、これらの平氏追討戦に積極的に参加し、源氏の恩寵を受けるようになっていた。それもあって祐経は、日向国国富(宮崎県東諸県郡国富町)、豊前国規矩(福岡県北九州市小倉区、門司区あたり)、長門国三隅(山口県大津郡三隅町)など西国各地に領地を与えられ、さらに駿河(静岡県)・相模(神奈川県)の国守に任ぜられて関東にも強い関わりを持つようになった。しかしこの源平戦での勝利の後に、源頼朝・義経兄弟は不仲になっていった。 その年の十月、義経は頼朝追討の院宣を受け、西国で兵を募ろうとして大物浦(兵庫県尼崎市)を船出したが大風に遭遇して難破、それでも一命を取り留めた義経は吉野山に逃れた。しかし頼朝の探索の手が伸びたためやむを得ず妻の静を去らせたが、静は不運にも途中で囚われて京都へ送られた。そして翌年三月一日、静は母の磯禅師とともに鎌倉の安達新三郎清経に預けられたが、そこで静の懐妊が発覚した。ところでこの安達新三郎清経は、安達郡と関係のある人なのであろうか。その昔、坂上田村麻呂の曾孫が、安達五郎と称して安達郡の北部に住んだとされているからである。
2007.10.12
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曾 我 兄 弟 の 敵 討 ち 伊豆に住んでいた源氏方の武将・工藤祐隆(祐長の曾祖父)は、後に平氏方に変わる。はじめ祐隆は狩野四郎大夫を名乗り、従五位下、在庁官人を兼ねながら後白河院の院領であった狩野荘(静岡県)を領した。その後は伊豆国の在庁官人をも兼ね、久須美荘(伊東郷・宇佐美郷・河津郷)に居を移した。やがて伊豆国最大の豪族となったこの工藤家次祐隆が、工藤氏の名前に共通な通字『祐』の元祖となった。 ところでこの工藤祐隆は正室との間に長男の祐家がいたのであるが、ある若い後家を子連れのまま側室とした。ところが何を血迷ったか祐隆は、この側室の連れてきた娘に手をつけ息子が出来てしまったのである。祐長の祖父にあたる祐継である。それでも祐隆が、長男で正室の子である祐家に家を継がせれば問題は少なかったのであろうが、若い娘のような女の産んだ祐継の方を可愛がって、早々に家督を祐継に譲ってしまい、本来の跡継ぎである祐家には少しばかりの領地を伊豆の河津(静岡県賀茂郡河津町・久須美庄の一部)に分けて家から追い出してしまった。祐家にしてみれば、面白くない状況に立ち至ったことになる。父・祐隆の命令で、やむを得ず河津に移った祐家は父の姓である工藤を捨て、地名でもある『河津』氏に姓を変えた。つまり『河津祐家』となったのである。 河津祐家の子の河津祐親は、工藤の本家を継いでいる工藤祐継を恨みに思っていた。そこで祐親は、箱根権現に呪い殺しの願をかけたのである。たしかにこの時代には白衣を着、五徳の足に蝋燭を灯して頭に乗せ鏡を胸に下げて、呪う相手を象った藁人形を鳥居や神木に打ち付けて恨みを晴らすなどということが広く行われていたから、それはそれで不思議な話ではない。ところがなんと、その願の効果があったものか、祐継は間もなく死の床についてしまったのである。そこでまだ幼いわが子・祐経の先行きを心配した祐継は、祐親の抱いている恨みも知らず、祐経の後見人に指名すると間もなく死んでしまったのである。しかし恨まれていることを知らぬ祐経は、従兄である祐親に対して大きな信頼を寄せていくことになる。やがて祐経は、京の大宮御所で平重盛を烏帽子親として元服し、それ以後二十年以上も朝廷にあって皇室の武者所の守護に付くことになったのである。 源平の争いに貴族の争いがからまって起きた『平治の乱』の翌年、平氏方に追われた源義朝は尾張に逃れたが捕らえられて殺され、その子・頼朝は十四歳で狩野川の中州の蛭ケ小島(静岡県田方郡韮山町)に流された。この狩野の地は、工藤氏が一時は狩野四郎大夫を名乗ったという地名である。ここで平氏方であった祐経は、源頼朝の監視人となっていた。 工藤祐経の信頼を得ていた河津祐親は、自分の末娘のまんごう万劫を祐経に嫁がせた。祐経は万劫を連れて上京、皇室の武者所守護の役を続けていたが、その留守中に祐親は工藤家の所領の半分を奪い取ってしまったのである。そして領地を手に入れて用が済んだとみた祐親は、祐経の妻であり祐時と祐長の二人の子の母となっていた万劫を無理矢理自分の家に引き戻してしまったのである。所領の半分と妻を奪われた祐経は大いに怒ったが、わが身は京都にある訳であるからどうしようもなく、家来に命じて奥野の狩の帰り道の河津祐親を襲わせた。しかしそのとき狙われていた祐親は負傷したのみで逃げ切り、一緒に居合わせた祐親の息子の河津祐泰が間違えて殺されてしまったのである。
2007.10.11
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源 頼 朝 に 郡 山 を 貰 っ た 男 2007年6月刊行 福島民報社 売切れ 中 世 と 現 代 の 接 点 この話の表題でもある福島県郡山市について、若干の説明をしておきたい。 明治のはじめ、安積郡の中の一村であった郡山村は明治二十二年に郡山町となり、大正十三年には小原田村を合併して郡山市となった。昭和二十九年に安積郡が安達郡熱海町を吸収し、昭和四十年の大合併ではその安積郡の全部と田村郡の一部も吸収して安積郡を消滅させてしまった。そのためもあって、現在、地名としての安積と郡山の関係は微妙に変化し、その比重は郡山に重きを置きつつあるということである。 二〇〇四年四月八日午後四時、カタールの衛星テレビ『アルジャジーラ』から流された誘拐犯からのビデオは、全国の人心を恐怖の淵に佇ませた。その映像は、自動小銃、ナイフ、対戦車ロケット砲を構え、顔をマスクで隠した男らが後ろに立った薄暗い部屋で日本人三人が目隠しをされ、腕を縛られ、ひざまずいた姿で監禁されている様子や、パスポート、身分証明書類の拡大映像と声明文が放映されていたからである。われわれ日本人の度肝を抜いたこのイラク邦人誘拐事件の発生を知ったのは、このテレビのニュースからであった。そして翌日からのテレビニュースや新聞記事が、世論を沸騰させていた。 四月九日 犯人側との接触に全力 首相、政府挙げ人質救出 四月十日 十一日夜、自衛隊撤退の期限 政府、部族への働き掛け模索 四月十一日 過ぎる時間、重苦しさも郡山さん実家 新たな情報ないまま 米、特殊部隊使った救出検討日本政府の要請受け 四月十二日 未だ三人の解放確認されず政府 早期解放実現に全力 四月十三日 一刻も早く解放を 陛下、米副大統領会見 四月十四日 小泉発言で解放に遅れ 聖職者協会のクバイシ師日本人人質 は「反日的分子」自民・柏村議員が問題発言 四月十五日 日本人人質三人を解放 バグダッドで無事確認 テレビの速報で知った 郡山さん家族一問一答 四月十六日 犯人グループ、自衛隊の撤退求める 解放三人に声明託す 四月十七日 解放の三人ドバイ到着 休息が必要」と診断 四月十八日 涙ぐみ、表情硬く終始無言 関空に到着した三人 四月十九日 人質ら批判 直ちにやめよ 京都精華大教員有志がアピール 四月二十日 「怒れなかった」と母 郡山さんが実家に到着 四月二十一日 三人に強いストレス障害 イラク人質事件の高遠さんら 四月二十二日 政府の自己責任論は筋違い 人質事件でNGOが会見 四月二十三日 バッシングは残念で遺憾 人質事件で逢沢副大臣 四月二十四日 自己責任論に「不気味さ」「報道と読者」委員会 「不可解」な日本? 人質への非難に驚く米社会 四月二十六日 「自己責任論」が日本に台頭米紙 人質を「犯罪者」と批判的 四月二十七日 「なぜバッシング」と疑問 拘束の三人に外国メディア 四月二十八日 「反日分子」発言で抗議文 地元・広島の団体見識疑う暴言 当時の緊迫した状況が生々しく伝わってくる新聞の見出しである。ただ私がこれらの見出しを延々と書き出したのには理由があった。この人質になった一人に、宮崎県宮崎郡佐土原町出身の『郡山総一郎さん』という名があったからである。勿論私は、彼との面識はない。あるのは私が住んでいる町・郡山と同じ苗字であるということから、解放後はむしろ「宮崎県と郡山市との間に何らかの関係があるのではないか?」ということが気になっていた。 その気になっていた理由とは、八百年以上も昔、工藤祐長という人物がはるばる伊豆国から郡山へやってきたという歴史上の事実と、その祐長の子が日向国に派遣されたという言い伝えが郡山市片平町の常居寺に残されていたからである。 その日向国とは、正にいまの宮崎県であったからである。
2007.10.10
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