『福島の歴史物語」

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2007.10.26
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 前述の表に記したように、門前の地に構えた寺に、福聚寺と古福寺がある。この二ヶ寺があったとされる門前の南部は、戸ノ内と接している。そしてこの戸ノ内の北端に鹿島神社が祀られており、この神社の北麓に、本栖寺の由来にもある田村輝定の墓がある。以前ここには橋本正茂の墓もあったと伝えられている。ともかく門前と戸ノ内は、同一と言ってもおかしくない位置関係にある。
 伊東祐長の後の南北朝時代、後醍醐天皇の南朝側についた田村輝定は、北畠顕家の配下として伊達氏、(白河)結城氏らと畿内にまで遠征、楠木正成らとともに北朝側の足利尊氏を破った武将である。また橋本正茂は大和国橋本(和歌山県橋本市)の城主であったが、南朝側の敗北とともに田村輝定を頼って守山に入った武将であった。その後もこの二人は南朝に忠節を尽くしたが、やがて宇津峰山の星ヶ城で破れている。そしてこの二人の墓が、この鹿島神社の北麓に祀られた。ここで福聚寺の移転とともに、二人の建墓について次のような疑問が発生する。

  1 何故、田村輝定が、伊東領と思われていた聖坊から八
    丁目門前もしくは戸の内へ、さらには福原字古戸へ
    と、福聚寺の移転をすることができたのか?
  2 何故、伊東領と思われていた八丁目字戸の内の鹿島神
    社の北麓に、田村輝定と橋本正茂が葬られたのか?

 さらに時代が下がった永正元年、田村義顕は守山から田村大元神社を、そして二人の墓はそのままに福聚寺を古戸(古戸の笠松と言われた古い松の木があった)から三春に移して菩提寺とした。守山はもともと田村氏領であった。それであるから、ここから田村大元神社を移す分には何の支障もない。ところが門前、戸ノ内の地は伊東氏領と考えられていた地域である。しかしその移転についてもめ事あったという記録はない。何故なのであろうか? 
 これらの疑問に対して、暦応二(一三三九)年から永正元(一五〇四)年以降までのほぼ二百年、この郡山の一部の『福原』『八丁目』周辺は田村領であったという可能性が指摘される。つまり仙道田村荘史によると、戦国時代には阿武隈川の西岸にもかかわらず、この旧福原の地が田村領であったことが記載されていることから、以前よりこの旧福原の地が田村領であったのではあるまいかという推定である。
 その理由を補足するものとして、ここにあった大鏑館(別名・福原館)のそばに、『矢給(やきゅう、又は、やたま)の渡し』があった。そこに渡し船があったということは、川幅が狭い上、瀞にでもなっていたということなのであろうか? それはまた田村領内への交通の接合点としての要衝であったということになり、田村氏が橋頭堡的に確保していたとも考えられる。そう考えれば自己の領地内の福聚寺が平和裏に三春へ移されたのは理の当然、ということであったのかも知れない。
 ところで福原の集落が現在地に移転したのは、福原館の大部分が明治の阿武隈川の堤防工事の際に潰されていることからも、この川の氾濫がその理由であったと考えられる。そしてもう一つ、郡山市文化財調査センターおよび周辺住民の間に残る口伝によると、火災によるとも言われている。するとこの火災は、戦国時代の戦火によるものであったのかも知れない。いずれにしても単一の理由のみであったとは考えられないから、その他にも理由があったと考えるべきなのであろう。
 なお蛇足ではあるが、近年、福島県施設のビックパレットの建設に際して、郡山市の南部の安積町荒井字猫田および南千保地内に荒井猫田遺跡が発掘された。これは鎌倉時代の町の跡で、道路跡や井戸跡・建物跡などとともに、奥大道に沿って町の出入り口となる木戸も見つかっている。そして郡山の北部には、福原館や豊景神社、そして福聚寺を擁した旧福原集落があった。この旧福原集落が、荒井猫田から阿武隈川河畔を通って北へ行く道と、渡し舟を利用して東へ行く交通の要衝であったと考えられる。
 そしていま、阿武隈川の『矢給の渡し』があったとほとんど同じ場所に、国道二八八号線の架橋工事が行われている。この橋の建設に際し、郡山市文化財調査センターにより発掘調査が行われた。同センターによると、最古の遺物は十五世紀・室町時代の終り頃であり道路跡も発掘されているという。それらもことから確定はされてはいないが、安積町ビックパレットの所にあった荒井猫田の町並みの遺跡とつながっていたことが推定されるという。これが歴史の面白さかも知れないし、個人的には、この橋が大鏑橋と命名されたら歴史上の名を具体的に残せて楽しいし、『郡山に歴史がない』という伝説? を少しは払拭できるかと思っている。






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最終更新日  2007.11.15 17:29:51
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