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2021/11/19
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大人気、チケット完売のバンクシー展に対して、「古伊万里展」は少々寂しい感じで、駐車場もガラガラでした。
何を隠そう、私自身が、妻に誘われてきた、という状況です。
ただ、行ってみると、知らないことも多くて、とても勉強になり、目の保養にもなりました。
興味のある方は、ゆっくり見ることができるので、おすすめ。

最近の美術館は、限定的ながら「撮影OK」というところが増えてきて、いいですね。
SNSでの拡散狙い、といったところでしょうか。

さて、その「古伊万里」ですが、私も「なんでも鑑定団」で名前を知っている程度で、正直まったくの無知でした。
ただ、古伊万里のイメージということ、この写真のようなきらびやかな感じですね。


・伊万里焼は「磁器」で、陶器よりも固く、白く、装飾性に優れ、技術的に難しいことから、ヨーロッパでは作ることができず、産地としては中国の「景徳鎮」が有名。
・「磁器」の技術が日本に持ち込まれたのは、秀吉の朝鮮出兵(1592-1598)の際に、鍋島藩(現在の佐賀)の藩主が朝鮮から陶工を連れてきたことに始まる。
・1610年代に磁器に適した土が発見され、有田で「磁器」の製作が始まったとされる。
初期の作品も展示してありましたが、見た目にも素朴で、陶器の延長といった感じでした。

初期は結構地味な感じでしたが、そこからの技術の進歩が素晴らしいです。
これは日本人の職人的な探求心のなせる業かと思いますが、1640年代になると色彩も鮮やかになり、「輸出」も始まります。

「伊万里焼」というのは、有田周辺で焼かれた磁器が、伊万里港から積み出されたことで「伊万里焼」と呼ばれるようになったもの。
ヨーロッパには磁器を作る技術なかったことから、王侯貴族らはこぞって中国から磁器を輸入していました。
折しも、中国では、朱元璋の作った明が衰退し、満州から起こった清への移行期で混乱したため、磁器の生産も減少。
そこで、中国磁器の代替品とされたのが、「伊万里焼」だったというわけです。
当時日本でつくられた磁器が大量に海を渡りました。


その後、清朝が落ち着いてくると、中国からの輸出が増え、伊万里からの輸出は減ってきたようですが、その後も技術は洗練、進化していきました。

ドイツの有名な磁器であるマイセンは、伊万里焼の影響も受けつつ、18世紀初頭に磁器生産に成功し、その後は、ヨーロッパ自前の磁器の時代に入ってきます。

ということで、こちらは、広島県立美術館で、12月5日までの開催です。





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Last updated  2021/11/19 12:30:53 PM
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