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2024/09/05
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今朝、出勤途中にラジオを聴いていたら、気になることを言っていた。 産婦人科医は時間も不定期で、さらに母子の死とも直結しているため、「医療ミス」として責められたりするケースもあり、誰もなりたがらない。 常駐する産婦人科医がいない地域も増えており、非常に問題だ。 という流れの中で 『最近の人たちは子どもが生まれても、お医者さんに「ありがとう」と言わない人が増えている』 と言っていた。 そこで「ありがとう」というのは、当たり前のようですが、それさえできない人が増えているようです。 とラジオの話は続いた。 夜通し面倒をみて、くたくたになって、なんとか無事出産。 「おめでとうございます。元気な男の子です」 その瞬間、もうお医者さんのことはそっちのけで、家族だけで盛り上がってしまうらしい。 その様子を見ながら、産婦人科医はどっと疲れてしまうらしい。 もちろん産婦人科医も感謝されるために頑張ったわけではない。 しかし、心の奥底で「報われていない」のである。 確かに産婦人科医も「報酬」を受け取って仕事をしている。 だから、無事出産させることは「当たり前」のことだ。 でも、本当に当たり前のことなのだろうか? これは産婦人科に限らず、現代の社会全体の問題のように思う。 世の中全体がサービス過剰の過保護であるために、自分が受ける「当たり前」のレベルが非常に高まってしまった。 一方で、自分が行なうべき「当たり前」のレベルはどんどん下がっていく。 通常私たちが受けるサービスは、私たち自らがそのサービスに対してコストを支払っている。 だからサービスを受けるのは当たり前なのか? 電車の中でお年寄りに席を譲るのは「当たり前」。 でも、そう思わない人が増えている。 理由は「自分も座りたいから」 社会全体が過剰なサービスを受け続けて、慢性的な「不感症」になっているに違いない。 自分の思い通りにならないと切れる。 そのくせ、人の気持ちには極めて鈍感で、困っている人がいても気づかない。 食べ物だって、濃い味の物ばかり食べ続ければ繊細な味わいが分からなくなる。 人間が生まれてきて、最初に覚えることばは 「まんま」 ではないだろうか? 「腹が減ったから食べるものをくれ!」 まずは自分の本能的な欲求を伝えるところから言葉は始まる。 次に「おかあさん」とかいった、自分も守ってくれる人を呼ぶことを覚える。 そして、どこかの時点で「ありがとう」を覚えるはずだが、ここが人間と動物との大きな分かれ目になっていると思う。 これを教えるのは「親」の仕事だ。 1の価値があるものを、やはり、1の価値があるものと交換するのが「等価交換」で、これが経済の基本である。 ただ、そこに感謝の気持ちが加わると、「1」の価値のものが「1.1」にも、「1.5」にも、場合によっては「2」にもなってくる。 それが人間の生きる知恵であったに違いない。 「1」の価値のものを等価交換しつつも豊かに生きていける。 それが誇りに繋がったり、生きがいになったりする。 私たちはそろそろ「当たり前」のものなんてない、ということに気づくべきだ。 食卓に食事が並んでいるのはなぜだろう? お母さんがつくったから。 でもどうしてお母さんが作るのが当たり前なのか? 実は、当たり前だと思っていることのほとんどは、当たり前のことではない。 そそて、無くして初めて気づく。 「親孝行したいときには親はなし」 という言葉があるが、これはいつの時代も変わらない人間の「業」でもあるかもしれない。 だからこそ、大切なものをなくす前に、「感謝」することが大事だ。 自分の吸っている空気も、飲んでいる水も、決して当たり前ではない。 自分の親が、駅まで送ってくれるのも当たり前ではない。 学校で勉強できることも当たり前ではない。 自分の寝る場所があり、自分の働く場所があることも当たり前ではない。 こんな自分に「ありがとう」と言ってくれる人がいること自体が当たり前ではない。 そう思うと、なんとなく優しくなれそうな気がするから不思議だ。 「環境問題」がクローズアップしてきているが、これこそまさに、「当たり前」のものが実は「当たり前」ではなかったということの証明でもある。 炭酸ガスの排出量を削減することも大事だが、傲慢になってしまった人間の生き方そのものを変えるべき時が来ているに違いない。 子どもが生まれたとき、私はお医者さんに感謝しただろうか? ふと不安になった。
2007/03/29
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昨日のNHKスペシャルは「中朝国境で何が起きているか ~鴨緑江800キロを行く~ 」であった。中朝国境といえば、脱北者のニュースなどでよく取り上げられるが、私のイメージとしてはかなり「閉鎖的」なものだと想像していた。しかし、実際には、橋の上でトラックが渋滞するほど物資の行き来があるようだ。中国からは小麦や生活物資が運ばれていくが、外貨のない北朝鮮では支払うお金がない。そのため、「物々交換」という方法が一般的らしい。北朝鮮が生活物資と引替えに何を輸出しているのかと言えば、木材資源と鉱物資源である。中国側から北朝鮮側の森林を移した映像があったが、きれいに木は伐採されており、ニュージーランドの牧草地帯のような様相になっていた。本来木は再生可能な資源であるので、伐採とセットで植林を行なえば「循環」による資源の永続的使用が可能になる。しかし、北朝鮮にはそんな余裕はない。木材資源も切っただけでは無くなるし、鉱物資源も掘った分だけは減っていく。自分の肉を切り売りしながら生きているようなものだ。そうして切り売りした国の貴重な財産と引替えに潤っているのは、ごく一部の富裕層だけ。一方で、餓死する人間を大量に出しつつ、潤う人間は確実に潤っているようである。「最近は北朝鮮にも金持ちが増えてきて、一部は中国人と変わらない購買力を持っています」と北朝鮮国内で合弁企業を経営する中国人が言っていた。彼が北朝鮮で経営する合弁企業が作っているものは「清涼飲料水」である。それが生産が間に合わないほど売れているらしい。作れば作るほど売れるのだが、残念なことに「停電」が多く、効率は極めて悪い。「早く、24時間体制で生産できるようになってほしいです」と、彼は言っていた。共産主義とは一体何であったのか?理念と現実がこれほど違うのも珍しいことだ。中国にしろ、既に実態は共産主義ではない。共産主義という旗を掲げることによって、「一党独裁」を正当化しているに過ぎない。これから北朝鮮はどうなっていくのだろう。贅沢に馴れた一部の富裕者層の大半は共産党幹部か、軍の幹部らしい。結局、金正日は、国家の財産を切り売りしつつ、彼らを餌付けしているのだろう。ただ、いったん餌付けした飼い犬でも、餌がもらえなければ噛み付いてくる。核を背景にした瀬戸際外交というのも、結局こういった国内事情を反映しているのかもしれない。民衆がどれだけ死のうとも、それが直接体制崩壊には繋がらないが、党や軍の幹部が反旗を翻すほうが恐いのだろう。北朝鮮から大量の木材が列車に積まれて中国に入ってくる映像を見ながら、早く金正日体制が崩壊することを願った。ゴルゴ13がいれば・・・・。
2007/03/26
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少し前の話になるが、工学部の志願者が10年で半減しているというニュースを見た。 何も考えずに文系に進学した私が言うのもおこがましいが、国家としては由々しき問題であると思う。 資源を持たない日本がここまでこれたのは、間違いなく「技術力」があればこそだ。 もともと、日本という国は「物を作る技術」に対して大きな敬意を払ってきたと思う。 大工の親方は尊敬の念をこめて「棟梁」と呼ばれた。 刀を作るもの、陶器を作るもの、船を作るもの、 それぞれが「誇り」を持って生きることのできる風土があったのだと思う。 種子島に鉄砲が伝来すると、程なく「国産」の鉄砲が生まれた。 明治維新によって、西欧の技術が入ってくると、あっという間にその技術を自分のものにし、さらにそれを凌駕する。 それは、物を作るということへの情熱と、探究心のなせる業でもあるが、すでに日本の風土の中に目の前のものを「分析」する力があったからに違いない。 戦後、敗戦によって日本人としての誇りは失ってしまったようだが、それでも国家のインフラとしての「基礎技術」は残っていたし、それが戦後復興の原動力になった。 これは日本同様「ものづくり」の国であったドイツにも言えると思う。 そこで、工学部の志望者半減の問題である。 日本において「技術」が軽んじられ始めた兆候のような気がしてならない。 技術は「お金」で買えるから、お金の方が優れている。 どうやら、そんな風潮が日本国内に広がっているようだ。 実際、株を動かすだけというきわめて「非生産的」な作業のほうが、「物を作る」という作業よりもよほど大きな利益を上げてしまう。 額に汗して働くなんて格好悪い、という風潮の延長線上に「工学部の人気凋落」があるのではないか。 まったく自慢にならないが、私は法学部を卒業し、いっぱしの「学士」であるわけだが、はっきり言って法学の知識はほとんどない。 これは私だけでなく、法律を職業としようとする一部の学生を除いて大差のない現象だと思う。 法学部に限らず、経済学部にしても大差はないだろう。 そして、採用する企業も法律の専門的知識をさほど必要としていない。 文系会社員の多くは「営業」に配属され、そのまた一部が「企画」を任され、そしてまた、「営業成績」を残したものは管理職となり、さらには役員となっていく。 その間、大学で勉強した「法律」や「経済」が役に立つことは稀だと思う。 それ以上に、「人間関係力」や、学業以外のいろんなことを経験することでの「広く浅い知識」が役に立つ。 だからというわけではないだろうが、文系の学生は勉強しない。 大学に入ればコンパをして、サークルで楽しんで、バイトして、旅行して、大学生活を満喫する。 「理系の大学生は勉強しないといけない」と私が大学生のころから言われていたが、それは彼らが「専門職」を目指すからだ。 採用する企業も、かれらの「専門的知識」を重要視する。 私が思う、工学部人気凋落の原因 ・「物を作る」ということの楽しさや重要性がわからない。(教育制度の問題?) ・大学に入っても一生懸命勉強しないといけないらしいから ・工学部に入っても儲かりそうにないから。(これはかなり大きいと思う) ・数学や理科ができないから、自動的に文系になった ・理系の学部は授業料が高い。(親としては非常に気になる) といったところだろうか? 「物」というのは確かに「お金」で買えるが、一度失った技術は簡単には取り戻せない。 「プロジェクト X」を、将来をになう学生達に見てもらいたいのだが、どうやら見ていたのは高度成長期にノスタルジーを感じる中年のおじさんばかりだったようだ。
2007/03/24
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松岡農水大臣の年間500万に及ぶ光熱費は誰がどう考えても納得のいくものではない。 アンケートでも9割以上の人が納得できないと答えたらしいが、当たり前の反応だ。 さらに、中身の説明も拒否。 「法律に基づいて適切に処理しているので、それ以上の説明はする必要がない」 ということらしいが、誰がどう考えても限りなく怪しい。 「お前、盗んだだろう!」 「盗んでないんなら手を開いてみろ!」 「いやだ」 「盗ってないんなら開けるだろう」 「開く義務はないし、開く気もない」 「盗ったから開けないんだろう」 「盗ってないけど、開くのはいやだ」 という程度の議論だ。 小学校のホームルームよりもレベルが低い。 支持率が低迷している安倍総理としても、ここはスパッと切ってしまったほうが支持率がアップするに違いない。 弁護するに値しない態度だし、あまりにみっともない。 大臣を辞めるとか言うレベルではなくて、人間としてどうなの? と思ってしまう。 あまりのレベルの低さにあきれてものが言えない。 私が彼の選挙区の人間なら絶対に投票しない。 問題発言で話題になった柳沢厚生大臣の場合とは少々事情が違う。 女性を「機械」に例えたり、ブルーカラーの労働者を「時間だけが売り物」と言ったりということで、確かに適切ではなかったかもしれないか、気持ちも分かる。 物事を分かりやすく説明しようとすると、比喩を使うことになるが、思わず使ったたとえが悪かった、 なんてことは誰でもありうる話だ。 政治家といえどもやっぱり人間だから。 政治家も人間、有権者も人間。 結局、最後に大事なのはやっぱり「気持ち」でしょう。 柳沢大臣は気持ち的に許せるけど、松岡大臣は許せない。 これが私の「気持ち」です。
2007/03/12
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前回のブログで「大豆」のことを書いた。 中国での大豆消費の増大がアマゾンの「農地化」を加速させている、という話だ。 とにかく中国はでかい。 人口は13億。 日本の10倍以上だ。 ここのところの金属の暴騰、それに伴って話題になっている「金属の盗難」。 なにしろどんな廃品であろうが、自国にもって帰って分解してリサイクルしてしまう。 手間はかかるが自国の安い人件費を利用して再生するのだから、人件費の安い中国にはかなわない。 こうして、資源のない日本の貴重な金属は「リサイクル」の名の下に中国へ流出していく。 木材の高騰の原因の多くが、やはり中国の近代化の影響らしい。 なにしろ使う量が違う。 戦前の日本人が使っていたエネルギーやその他の資源の量と、現在私たちが使っている量を比べればおそらく何十倍(あるいは何百倍)も増えているはずだ。 誰もが車を持ち、エアコンをつけ、家の中は電化製品で溢れ、粗大ゴミの日にはゴミ収集場は山積みになる。 中国ではこの劇的な変化が、今まさに進行中で、「怒涛の如く」という表現が相応しい。 なにしろ人口は人口だけに、その流れは際限なく続く。 しかも、高度成長期典型の「いけいけ」モードだから、公害を垂れ流そうが、炭酸ガスを撒き散らかそうが、エネルギー効率が悪かろうが、そんなことは二の次のようだ。 本来であれば日本のすべきことは、省エネ技術大国として、中国への「省エネ技術」の供与なのだと思う。 ある意味では、砂漠に木を植えること以上に即効性があり、環境にいい影響を与えるに違いない。 日本は資源を持たない国である。 あるのは技術力だけだ。 しかも省エネ技術については資源がないだけに、世界でもトップレベルであることは間違いない。 省エネ技術で世界に貢献する! 素晴らしいことだ。 ただ、そこで悩んでしまう。 中国が信用できる国なのか? ということだ。 技術は資源と違って、一度渡ってしまえば永久に奪い返せない。 ご存知の通り、日本の工場がどんどん中国に移転している。 それに伴い、生産設備に欠かせない下請けの部品工場も中国に工場を建てた。 中でも、部品を作るめの鋳物の技術というのは高度なレベルが要求されるらしいが、結局中国に技術が流出してしまっているらしい。 中国人は日本人から教わった技術で部品を作り始める。 その段階になると、日本の企業はお払い箱だ。 別に技術が中国に渡ってもそれはいいと思う。 中国が日本にとって、良きパートナーであるならば、それがお互いの信頼関係を強めることにもなり、アジアにとっても世界にとっても結構なことだ。 ただ、どうしても「中国」という国を信じきれない。 そう思うのは私だけだろうか?
2007/03/11
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マイパソコンのハードディスクの空き容量を増やすため、録画したテレビ番組を古い順番に見ているのだが、昨日みたのは、昨年の5月19火放送分の「NHKスペシャル」だった。 「アマゾンの攻防-大豆争奪戦」というものだ。 大豆畑を作るためにアマゾンのジャングルが伐採されているということは知っていた。 アマゾンのジャングルにを守るために、国産大豆を使った豆腐を買おう!と思ってもいる。 衛星写真からアマゾンを見ると、道路沿いにジャングルが侵食されているのが一目瞭然で、まるで魚の骨のように見える、という話も聞いていた。 この番組は、なぜそうなったかということを、非常に分かりやすく教えてくれた。 最大の原因は「中国の近代化」だ。 中国が悪い、と言っているのではない。 中国も当然、先進諸国と同様に近代化される権利もあるし、ましてやすでに大きな利便性を手に入れた先進諸国にはそれを止める権利はない。 ただ、この遅れてきた巨人はとにかく大きすぎる。 すでに先進国と言われている国々の人口をすべて束にしても中国1国に追いつかないくらいだ。 そしてすでに一部の国々の「近代化」だけで、地球は悲鳴をあげ、温暖化だとか資源不足、食料不足だとか、いろいろな問題を引き起こしてしまっっている。 「お前ら、これ以上やると地球はおかしくなるからおとなしくしておけ!」 なんていわれても、中国としては当然納得できる話ではない。 なにしろ人口13億人だから、その影響がすごい。 その番組によれば、現在すでに ・全世界の大豆の輸入量の4割は中国である。 ・大豆の消費量の97パーセントを輸入に頼っている日本の、なんと6倍の量を中国は輸入している。 らしい。 「近代化」がどうして大豆の消費を拡大するのか? 大豆を言えば思い浮かぶのが「豆腐」や「枝豆」「納豆」。 どちらかといえば「日本的」なものが多いが、実はその8割は「食物油」の原料にされるという。 戦後の日本人の食生活の変化を考えてみると分かりやすい。 増えたのは「揚げ物」などの油を使う料理と、「肉料理」だ。 大豆は食料油となり、そして油をとった残りの「大豆カス」は鶏肉生産のために不可欠な飼料となる。 だからこそ近代化が大豆の消費を拡大してしまうらしい。 少なくとも、上海の日本料理ブームで、中国人が納豆を食べ始めたからではない。 直接人間の口に入るものであれば「人口増加」に比例して増える。 しかし、大豆の場合には「人口増加X近代化」に比例する、という、二次関数的な曲線で商品が増えてしまう。 農業大国アメリカの生産量もすでに限界だ。 そこで「穀物メジャー」とよばれるアメリカの巨大商社が目をつけたのが「アマゾン」でした。 アマゾンに道路を付ける。 一攫千金を目指すものがアマゾンの入植する。 穀物メジャーは農民に金を貸す。 森林は焼かれ、大豆畑に変貌する。 大豆の需要は伸び続けるが、世界中どこを探しても「アマゾン」以外に生産拡大をできる場所がない。 人々はさらにアマゾンに入植。 アメリカの穀物メジャーのみならず、日本の商社、中国の国営企業までブラジルに進出し資金を投下する。 すでにアマゾンの15パーセントが農地となったという。 あと10年もするとアマゾンのジャングル自体がなくなってしまうかもしれない。 アマゾンのジャングルは、ジャングルがあるがゆえに大陸の内陸部にもかかわらず大量の雨が降る。 でも、ジャングルがなくなってしまったらどうなるのだろう? ジャングルもなくなり、農地には雨が降らず、なんてことにならないのだろうか? 誰にも中国を止めることはできない。 そのためには先進諸国が「近代化」で手に入れたものの多くを放棄する覚悟が必要だ。 アマゾンを守るために日本がすべきことはなんだろう? 国産大豆を使った豆腐を買うことも確かに重要だが、解決にはならない。 日本は本気で食糧の自給を考える必要がありそうだ。 戦国時代の例でも分かるように、「兵糧攻め」が一番効く。 最大の防衛は「兵糧の心配をしなくてもいい」ということだ。 北朝鮮からテポドンが飛んでくることよりも、食料が入らなくなるほうがよほど影響が大きいのは間違いない。 防衛費の一部を国内農業の振興にまわし、農家を保護育成。 日本中の遊休農地は国が買い上げ、農家希望者に貸し出す、とか。 そしてまた、食生活そのものを変化させることも重要だ。 メタボリックというのはある意味、地球の叫びなのかもしれない。 環境破壊の呪いが、メタボリックとなって人間を蝕んでいくとしたら・・。 ああ恐ろしい! 昨年5月のテレビ番組からすでに10ヶ月。 世の中の状況はさらに悪化しているのだろう。 あれから、アマゾンの森林はどれだけ減ったのだろうか?
2007/03/03
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研修も終わり、翌日は四国観光です。 まずは昨年の大河ドラマの主人公にもなった山内一豊の「高知城」へ。 この写真はそこでの一こま。 山内一豊公の銅像の前で並ぶ二人。 背格好も似ていますが、良く見ると顔もそっくり。 特に各パーツを見比べてみると恐ろしいくらいに似ているのですが、実は赤の他人です。 右側のスーツ姿の彼は今回の旅行の世話をしていただいた添乗員さん。 サンコウトラベルの横山さん。 左側はわが社の若手社員で、入社2年目の長尾君。 横山さんは添乗員らしくにこやかに、長尾君はやや引きつった愛想笑い。 若干表情に違いはあるものの、似てます。 実は、彼らが似ているということが旅行会社選定の大きな決め手となりました。 話は半年以上前に遡ります。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 彼が最初にわが社を訪問したのはまさしく「飛び込み」。 「こんにちわ、サンコウトラベルです!旅行のお話はないですか?」 そんな調子で入ってきた。 タイミングよくそんな話もあるはずがなく、 「とりあえず間に合ってます」 という調子で、社長だったか、総務担当者だったかが丁寧にお断りしたのだと思う。 彼の去った後、 「なんか、長尾君に似てなかった?」 ということが話題になった。 「え、そうなの?」 と事務所では見逃した人間はなんだか損をしたような気分になった。 それから横山氏は足しげくわが社にやってきた。 きっと他に行くところがなかったのだろうが、くるたびに旅行の資料を置いて帰り、ほぼそのままゴミバコに捨てられるということが繰り返された。 しかし、彼が長尾君に似ているということは事務所内では有名になり、途中からは 「長尾君がきた」と言えば、サンコウトラトラベルの横山氏の来社を指すことになったほどだ。 そこで持ち上がった今回の「研修旅行」。 他にも旅行会社はあるし、以前使っていた業者もあるが、当然彼を無視するわけにはいかない。 なにせ彼は「長尾君」なのだ。 結局、ささやかな研修旅行ではありますが、彼にお願いすることになった次第。 もちろん、長尾君に似ていたということは業者選定のきっかけにはなりましたが、決め手は横山氏自身のまじめな性格と、熱意です。 今回、楽しい旅行をコーディネートして頂き、本当にありがとうございました。 また次回、機会がありましたらよろしくお願いいたします。 バスの中で聞いた、横山さんのいろいろな「薀蓄」話、面白かったです。 また聞かせてください。
2007/02/15
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パソコンのハードディスクがいっぱいになってしまい、新たな録画ができなくなったため、ここのところ昔録った番組を見ています。 録画はしても、見る時間がなく放置していたため、今見ている番組はほぼ1年前のもの。 録画している番組は主に3つ。 「NHKスペシャル」 「その時歴史は動いた」 「プロフェッショナル」 全部NHKです。 家のビデオに録画してもらえないのは、見るのが私だけだから・・・。 先日見たのが「その時歴史は動いた」の「廃藩置県」。 日本史の教科書ならたった一行で終わってしまう出来事なのですが、やはりその背景にはすごいドラマがあるんですね。 江戸時代の「藩」をやめて、「県」を置く、ということなんですが、明治維新の成功は「廃藩置県」なくして語れないようです。 大政奉還によって幕府は滅んで、幕府の直轄領は新政府の管理下におかれたものの、残る三分の二はそのまま「藩」が残っていました。 年貢を集める権利も、軍隊を管理する権利もそのまま「藩主」が握ったまま。 いかに新政府が欧米列強に対抗しようとしても、弱小国家がさらに割れていてはとても「富国強兵」などできないことは明らかな状況です。 長州出身の木戸孝允、薩摩出身の大久保利通をはじめとする新政府の首脳部はそれに気づいているものの、主君である自国の「殿様」にはなかなか逆らえない。 特に倒幕の主役となった藩の藩主は「幕府を倒したら、その分分け前が増えるはずだ!」というくらいに考えていても不思議ではありません。 殿様というのは「既得権」の塊のようなものです。 しかも「世襲」の「既得権」である。当然だれも手放したありません。 また、各藩には武士達がおり、殿様から「家禄」ももらっている。 明治維新とはいえ、実情は江戸時代とさほど変わらない有様でした。 結局新政府の首脳達は悩みに悩んだ挙句、抜き打ち的に「廃藩置県」を実行することを決めるわけです。 藩主の造反、士族の蜂起も必至という状況。抜き打ち的でなければ、各藩が地元で「反乱」の準備をしかねないため、方法はそれしかありませんでした。 明治四年、各藩の藩主(当時藩知事)が皇居に集められました。 天皇の前でひれ伏す藩主に向って、藩主達の予期せぬ天皇の詔が発せられました。 内容は、 「現在の日本の状況を見れば、中央集権的な強い国家の建設が不可欠であるため、藩主のもっていた全ての権限を中央政府に渡すものとする」 というもの。 天皇の前にひれ伏しながら、それを聞く各藩主の思いはいかほどであったでしょうか? 「殿様」として持っていた全ての権限を没収されるわけです。 薩摩藩主や、長州藩主にとっては、完全に裏切り行為にしか見えなかったでしょう。 さてここから、全国各地で反乱が・・・、とおもいきや、それはほとんどありませんでした。 各藩主とも心の底で、日本のためには不可欠であるということが分かっていたのでしょう。 その時の藩主の思い、そして藩主に引導を渡さざるを得なかった新政府の面々の気持ち。 そんなことを思っていると、不覚にも泣けました。 年を取ると、だんだん涙もろくなります。 涙腺が緩むという肉体的な老化もあるでしょうが、きっとそれだけではありません。 長く生きていれば、当然その分だけいろいろな経験もし、悩みもし、考えもする。 その分だけ、他人に共感しやすくなるのだと思います。 中学生の時にこの番組を見てもなんとも思わなかったでしょう。 現に、高校生の息子に話したら 「話が長い」と言われてしまいました。 廃藩置県から日本は一気に近代国家建設に向けて動き始めます。 小義を捨てて大義をなした、彼らの英断があればこそ、現在の日本があることは間違いありません。
2007/01/28
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最近、国会議員の事務所費の問題が取り上げられている。 事務所費は領収書も不要で、さらに内容を明らかにする必要もないらしい。 国民から見れば明らかな「抜け道」なのだが、これまで与党からも、この件についての「問題提起」はなかったように思う。 結局、与党野党を問わず、政治家全体においしい制度なので、政治家からは問題提起されなかったということなのだろう。 この法律ができたとき既に、この問題点は分かっていたに違いない。 あたかも、政治と金の問題がクリアーになるかのように見せかけて法律を作りながら、一方でちゃんと「抜け道」を用意しておくという、なんとも醜悪な話である。 問題が指摘され、説明を求められても、誰一人まともに説明する者はいない。 「法律に基づいて判断しているので、違法ではないし、問題ない」 というのが彼らの見解だ。 政治家自らが自らのために「ザル法」を作っておいて、「法律に違反していないから問題なし」とは呆れる。 教育基本法の改正だとか言っても、所詮このレベルの政治家達が考えることである。 大きな期待ができるわけがない。 民主党の小沢代表は4億円あまりの事務所費を計上し、それは秘書の寮の建設費用だという。 その資産の名義は一体誰なのか気になる。 それでも民主党の判断は「問題なし」。 もはや、最大野党の民主党にも自浄能力はないらしい。 一体どうなっているんだろう? 参院選挙も近いが、一体どこに投票していいのか分からない。 結局、「そのまんま東」のほうがまだましだ! ということになってしまうのだろう。 政治の素人である分だけでも、なにかやってくれそうな期待感がある。 最近の国会議員の様子をテレビで見ながら、とにかく腹が立って仕方がない。
2007/01/25
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インターネットが普及したことで、手に入れることのできる情報のソースは飛躍的に広がった。 情報の量もさることながら、ソースが広がることの価値が大きいと思う。 ソースというにはもちろん「発信源」のことである。 人間が得ることのできる情報を考えてみると、インターネット以前は ・テレビから得る情報 ・新聞・雑誌から得る情報 ・書籍から得る情報 ・学校で得る情報 ・クチコミ が主なものであった。 クチコミも実際に口から口へと広がるものなので「うわさ」レベルでしかなく、力も弱い。 とすると、結局、ごく限られた発信源の考えを、全体の考えのように押し付けられかねないという危険性を持っていることになる。 その中で圧倒的に影響力の大きいテレビについては、十指にも満たないキー局が一方的に情報を強引に押し付けてくる。 中立といっても、そこには必ず恣意的な判断が入る。 中立なんてものはありえないのだ。 事実をありのままにといっても、必ずそこには「選別」が入るわけなので、そこに何らかの意志が入り込む。 昔、日本人の活字離れはユダヤの陰謀だ、なんて話があった。 優秀な日本人を馬鹿にするために漫画を流行させた、らしい。 結果、日本のアニメが世界中を席巻し、世界的な文化となったというのはある意味皮肉だ。 ユダヤの陰謀が本当かどうかは別にして、今のテレビ局は日本人を馬鹿にしたいのではないかと思う面が多々ある。 たとえば、CMを挟んで同じ内容を繰り返す。 それを見ている視聴者の時間の無駄たるやすごい量だと思う。 ビデオで飛ばしながら見ると、半分の時間で見れる。 要するに、テレビの流している情報のうち、半分は無駄な情報なのである。 また、いちいちテロップをつけて、笑う場所も教えてくれる。 確かに馬鹿になるはずだ。 さて、話をインターネットに戻そう。 インターネットとマスメディアの違いは、ソースの数の違いである。 インターネットは誰でも情報発信者となれる。 テレビからの一方的な情報を受け入れるしかない状況よりもよっぽど民主的である。 ただし、注意しないといけないのは決して「中立」ではないということだ。 いろんな思想や意見が、角が取れていない状態で先鋭的に出てくる。 確かに危険でもある。 だから、「そういうものだ」という前提でしっかり見極めることが大事になってくる。 昨年、思うように読書ができなかった反省から 「今年はもっと本を読む!」ということを目標にしようと思ったのだが、その時気づいた。 これまで本を読んでいた時間が、インターネットで情報を探している時間にすりかわっているだけなのだ。 情報を入手する方法はたくさんある。 テレビ、ラジオ、雑誌、書籍、インターネットなどなど。 将来はさらにものすごい量の情報が氾濫するに違いない。 しかし、結局大事なのは、自分の中に物事を判断するしっかりとした基準を持つことだ。 それはどんなに時代であっても変わらない。
2007/01/16
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「奇跡のりんご」というのをご存知だろうか?農薬・肥料を一切使用せずに収穫されたりんごなのだが、これができるのは日本でただ一人しかいない。木村秋則という人である。放っておいても腐らずに、甘い芳香を放ったままドライフルーツになっていくという。テレビでは、ニュース21と、NHKの「プロフェッショナル」で取り上げられた。内容は、「プロフェッショナル」の司会者である茂木健一郎さんのブログに詳しく出ているので、番組を見ていない方は是非ご一読を。こんな人が世の中にいたんだ、と新鮮な感動を覚える話である。木村さんは、化学肥料も農薬も使わず、できるだけあるがままの状態を保ちつつ、自然の力を最大限に引き出すということを実現した。土の力以上に収穫しようとするから肥料が必要になる。土を作ることは大変だが、肥料を撒くことは簡単だ。それによってバランスが崩れて、病気が蔓延しやすくなる。それを抑えるために農薬を撒く。農薬を撒けば、土を活性化させる虫たちも住みにくくなる。化学肥料を撒く。農薬を入れる。まさに、永続不可能な「悪循環型農業」だ。「奇跡のりんご」が偉大なのは、際限のない、いたちごっこに終止符を打ったことにある。考えてみれば、軍事力の問題もそうだ。相手を凌駕するには、相手よりも強い軍事力が必要で、お互いにそれを繰り返した結果「使えばおしまい」の武器が生まれた。それでもなお、競争は終わらない。産業革命以降、人間は限りない上昇志向で競争を続けてきた。地中の資源を掘り返して、それをエネルギーに変えることで、それまでとは比較にならない程巨大な力を手に入れた。が、しかし、結果として、人類の存亡までも危ぶまれるほどの環境破壊が起こってしまった。人間の活動に、地球が耐えられなくなったのである。そろそろ根本的に考え方を変えたほうがいい。「奇跡のりんご」のすばらしいところは、無理をしないところにある。力で環境を支配しようとしない。害虫や病気はやはり発生するらしい。しかし、違うのはそれが致命傷になるほどには広がらないことだ。大自然にも自然治癒力というものが存在するらしい。あるがままに受け入れることから始まって、そこから生まれてくる収穫に対して、最大限の感謝をする。あくまでも人間は大いなる生態系の中から、おこぼれを頂戴しているに過ぎないのだ。力で相手を屈服させる時代はもう終わった。終わったというより、その果てには真の繁栄がないことに気づくべき時だ。木村さんはりんごを作る。農薬も化学肥料も使わないから経費がかからない。虫も付く。でも広がらない。それがきっと健康な農業のあり方に違いない。これまたテレビでやっていたのだが、ワクチンの効かない「薬剤耐性菌」というものが増えているらしい。菌を殺すワクチンを開発すると、そのワクチンが効かない菌が現れる。そこで、人間はさらにその菌を殺すためのワクチンを開発する。その繰り返しの、いたちごっこ。どこまでも際限がない。人間の社会も、結局「悪循環型」になっていないだろうか?医療の問題、教育の問題、少子高齢化問題、格差社会の問題。悪循環の連鎖を止めるには、対症療法的薬物投下ではなく、「奇跡のりんご」的発想の大転換が必要なのではないかと思うのだが。
2006/12/19
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10日の日曜日、徳山までコンサートを見に行ってきました!「是方博邦 ROCK UNIT featuring 杉山清貴」のコンサートツアーである。杉山清貴のファンであるので、彼のスケジュールをチェックして見つけたツアー。このツアー、杉山清貴のオリジナル曲は一切なし。70年代~80年代のロックの名曲を一流のミュージシャンが、独自のアレンジで演奏するというもの。非常に魅力的だ!まさしく学生時代にレンタルレコード屋で借りてきて、一所懸命聞いていた時代の曲なのである。一流のミュージシャンといいながら、申し訳ないが、私は杉山清貴しか知らなかった。そこで簡単にご紹介すると是方博邦・・・桑名正博がヒットした頃のバンドメンバーで、そこ後、高中正義のバンドにもいたギタリスト。ソロになってフュージョン系音楽を中心に活動。現在すでに50過ぎ。石川俊介・・・「聖飢魔II」のベーシストで、ゼノン石川なんて呼ばれていた、元悪魔。長谷川浩二・・・アルフィーのサポートドラマーを22年間続けてきたドラマーで、テクニックはカリスマ的だとか・・・。というメンバー。ライブハウスとかを中心に回るコンサートツアーなのだが、広島から一番近い会場は徳山だった。場所はなんと「徳応寺」というお寺。まさか売り切れということも無いだろうと、当日の朝、念のために会場のお寺に電話してみると「前売り券は売り切れで、当日券は10枚しかありませんが、発売は6時からです」とのこと。ヤバイ、と思いつつ、われわれ夫婦は昼過ぎに広島を出発。高速は利用せずに2時半頃徳山について寺を探した。寺、発見。古めかしい寺を想像していたが、鉄筋の近代的なお寺だった。なんと、既に10人以上の人が並んでいる。「おいおい、そんなに人気なの?」最後尾の聞けば、既にチケットは持っていて、前の席を取るために並んでいるのだという。当日券発売は6時からとは聞いていたが、とりあえず再確認をと思い、お寺のスタッフに聞いてみた。やっぱり、6時からで、既に立ち見。「券がなくても、来て頂ければ入れるようにいたしますが、座れませんよ。」といわれた。流石に、冷たく追い返したりしないところが、お寺の慈悲。結局ぶらぶらと徳山駅周辺の商店街で時間をつぶし、5時前に寺に戻ると、「当日券はこちら」という看板が立っており、既に一人の女性が並んでいた。我々夫婦はその後に並ぶ。時間まで僕は本を読んでいたが、うちの奥様は既に我々の前に並んでいた女性との会話を弾ませていた。どこから来たか、とか、誰のファンか、とか、情報を入手。これはうちの奥様の得意技だ。日も完全に暮れ、なぜかお寺の木にイルミネーションが点り、そして6時が来た。当日券売り場には十数人。入場を待つ人は100人を越えていた。当日券を入手し、入場待ちの列の最後尾へダッシュ!無事、入場を果たしたが、既に立ち見状態。かろうじて見つけた1.5人分のスペースに無理して座らせてもらい、やっと一安心。正面には黄金に光り輝く阿弥陀如来。その前にドラムセット。そして両脇にスピーカー。なんとも不思議な空間があった。さらに、よく見ると、観客の少なくとも3割は何があるかも分からずにチケットを買ってしまった檀家さんらしいお年寄り。ありがたいお説教でも聴きに来たという風情だ。しかし、お寺の本堂には、立ち見を含めて400人近い老若男女に埋め尽くされ、なんともいえない雰囲気をかもし出している。7時開演。バンドのメンバーが仏像の前に出てきて、突然演奏を始めた。その音がでかい。歌もなく、とりあえず、オープニングテーマ、という感じなのだが、かなりハード。お年寄りがびっくりして倒れなければいいが・・・・、と本気で心配になった。二曲目から杉山清貴も参加。来日中のビリージョエルの曲とか、ビートルズの曲とか、ジャーニーの曲とか、嬉しくなるような選曲。ただ、全体にアレンジの基本はハードロックだ。MCもとにかく面白い。演奏のハードさとは程遠い、軽妙な語り口で、笑いを誘う。個人的に一番受けたのは、やや小太りの元悪魔であるベースの石川俊介が、メンバー紹介の際に「ヘビメタ・・・ヘビーメタボリックです」と、ぼそっと言っていたところ。演奏時間は間に休憩15分を挟んで約3時間。黄金の阿弥陀旅来はその間、赤や青のライトに妖しく照らし出され、なんとも不思議な空間です。激しいドラムの音、内臓に響いてくるベース、耳を劈くギター、鳥肌が立つくらいに伸びのある力強いボーカル。平均年齢はおそらく47歳くらいだろう。年齢を一切感じさせいパワフルな演奏だ。とにかくカッコイイ。今時のおじさんたちは、どうしてこんなにかっこいいんだろう。ヘビーメタボリックの石川俊介さん以外は腹も出ていないし・・・。やっぱり、この人たちはプロなんだな、と実感しつつ堪能いたしました。最初は行儀よく座ってた客たちも後半からは立ち上がり、般若心経ならぬロックサウンドに盛り上がったわけ。仏像を前に、みんなが立ち上がり、拳を振り上げる様は、まさにカルト教団を思わせる風景だ。途中、80歳を越えていると思われる和服のおばあさんが抱えられるようにして会場を出て行ったのが気になりましたが・・・・。コンサート終了後、是方さんのCDを買って、サインしてもらって帰りました。残念ながら、杉山清貴は楽屋から出てこず。徳山を10時過ぎにでて、帰宅したら11時過ぎでした。ロックナイト IN 仏像前。すばらしかったですね。和尚さんありがとう!
2006/12/12
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さて、バスはだんだん京都に近づいて行きます。 三木S.A.で撮った写真を添え、「次回連絡は京都に着いてからします」とメールを送ったのが10時過ぎ。 「ぼちぼち、私も出ますが、プラプラしてますので、時間は気にしないでください」 という返事が即座に来た。 予想された渋滞はほとんどなく、バスは京都東インターを降りて、とりあえずトイレ休憩をかねて八つ橋に「井筒屋」に着いたのが11時半。 予定より30分早い。 そこで、Kさんに電話。 留守番電話に切り替わったので、「既に京都に着いたが、清水寺は13時くらい」という旨のメッセージを入れる。 そうそう、Kさんはバイクでやってくるので運転中は電話に出ることは不可能だ。 井筒屋でおみやげ物買い、トイレを済ましてまたまたバスにて移動。 いざ、清水へ! しかし、流石に紅葉シーズンの京都。 ここからは渋滞に巻き込まれて進まなくなった。 「ただいま渋滞中のため、到着時間が不明です」 「清水についても、門のところまではみんなと一緒に行かねばならないので・・・・」 などと、状況をメールと留守電で逐次報告。 Kさんは既について、駐車場そばのカフェで休憩中とのメールあり。 そうしているうちにバスは紅葉がかろうじて残る清水寺に到着。 狭い道路を観光客を避けるようにしてゆっくりと駐車場に。 「私が拝観券をお配りするまでは絶対についてきてください」 とバスガイドさん。 バスを降りて、ガイドさんが持つ読売旅行の旗について行きながらKさんに電話する。 留守電。「今、つきました」 朱塗りの仁王門が見えた頃、Kさんから電話がかかった。 「ちょっとゆっくりしすぎました。今から追いかけます。中で待ってください」 おそらくその時初めてKさんの声を聞いたと思う。 やさいい声である。 私と家内は拝観券を受け取り、後をちらちらと見ながら入口から中へ。 中に入ると、一気に視界が開けて、紅葉越しに京都の町が一望できる。 「まだまだきれいじゃない!」と感嘆の声を夫婦で上げながら人を書き分け欄干のほうに向った。 しばし、紅葉に見とれていると、携帯が鳴った。 「今、入口なんですが、どこにいらっしゃいますか?」とのこと。 「もう中に入って、景色を見てます!」 「じゃ、行きます」 「お父さん、タオルタオル!」と家内が言う。 「おっ、ほうじゃった」と言いながら、私はカープの赤いタオルを急いで首に巻きつける。 タオルの形が整う前に、10Mくらい向うで軽く手を上げる人影。 白黒のライダージャケットに身を包んだKさんだ。 「ああどうも」 お互いにそんな感じで近づき、熱い抱擁・・・。 ということはありませんでしたが、満面の笑顔で現れたKさんは50代に見えないスリムな体型。 ライダージャケットが実に良く似合うダンディな方でした。 メールで巧みに使われる「顔文字」のイメージとはややギャップが・・・・。 「お世話になります」とかいいつつ、お土産の「もみじまんじゅう」と「おたふくソースかっぱえびせん」を渡すと、 Kさんも持っていた紙袋を私の方に・・・。 なんと、画用紙と同じくらいに頑丈な紙袋に入った京都の漬物でした。(どう見ても、このほうが高そう・・・・) 「ありがとうございます」といいつつ、私は真っ赤なタオルを首から外し、その袋の中に・・・・。 そこから清水寺を3人で散策。 いや、紅葉の尻尾とはいえ、まだまだきれいでしたね。 Kさんには、愛用の一眼レフデジタルカメラをご持参いただいて、私達夫婦をバシバシ撮影していただいたわけです。 ただ、モノトーンのライダージャケットを着た、渋めの男性が、大きな一眼レフカメラを構えているとまるでプロカメラマンみたいで・・・。 カメラと私たちの間を通ろうとした観光客の群れも、あわてて迂回する始末。 「すみません」と頭をかきつつ、観光客とカメラマンのKさんに頭を下げつつ、カシャ。 清水から、「七味家」を経由して、高台寺の直前まで、風情のある通りを歩きながらいろいろな話をいたしました。 初めてお会いしたわけですが、ほんとに気さくでいい方でした。 なにしろ、時間制限いっぱいのバスツアー。 あっというまに制限時間が来てしまい、後髪を引かれながらバス駐車場へ。 「それでは、またよろしくお願いいたします。」といいつつ、熱い抱擁ではなく、堅い握手をして分かれた次第です。 「このバスですね、入口で見送りさせてもらいます」 Kさんは、そう言って、自らのバイクへ。 さらに続く・・・・。
2006/12/07
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最近、旅行会社の日帰り旅行をよく利用するようになった。理由その1 子どもがいるので、家をあけられない。理由その2 日帰りでマイカードライブだと、距離に限界もあり、非常に疲れる。理由その3 なんといっても安い。中でも、安さは魅力だ。去る12月2日。紅葉の尻尾を捕まえるべく京都に日帰りバスツアーに参加した。「まだ間に合う、広島発 京都清水寺と赤山禅院」というツアーだった。参加費用は一人3980円。夫婦二人で参加しても7960円だ。高速に乗ると、高速代のみで広島-福山を往復するだけで終わってしまう。新幹線だと、岡山くらいまでしかいけない。京都滞在時間は4-5時間しかないのだが、「下見」感覚でも安いと思う。実は、今回の日帰りツアーには、予期せぬオプションがついてきた。一人の男性と会うというオプションである。仮に、「Kさん」としますが、京都市から少し離れた京田辺市にお住まいの方。私が店長をしているネットショップでフェンスをお買い上げいただいたのがご縁。6月ころだったので、5ヶ月くらい前からの縁です。お取引は普通に完了したわけですが、なんとなく週に1回くらいのペースでメールをやり取り。季節のことや、庭のことや、教育のことや、趣味の話。ほとんど仕事とは関係のない内容でした。二歳のお子様がいる、バイクと四駆が好きで、自然を愛する男性、さらにたくみに絵文字を使う。ということから、私のイメージの中では、30代後半のちょっとワイルドな感じだけど、ガーデニング好きで結構マメなところもある、家庭的でさわやかな男性。というのが私のイメージ。あるとき「京都にこられる際には是非とも我が家に泊まってください」というありがたいお言葉までいただきましたが、残念ながら今回は日帰り旅行。「それなら私が会いに行きましょう」といっていただき、「それでは是非」という急展開。なにしろ自由のきかないバスツアー。待ち合わせ時間もなかなか定まりません。いろいろ話していると、なんと、30代後半というのは私の早合点で、実は50代であったことが発覚。正直、驚きました。それから、当日のスケジュールから、服装などを連絡しあい、清水寺の下の「七味家」の前でお会いしましょう、と決めた。当日も、「現在、福山です」とかメールを送りつつ、バスは京都に近づいて行きました。気分はほとんど、文通相手に初めて会う若人みたいなもんです。爆風スランプの歌でも確か「ペンフレンドの・・・・」とかいうのがありましたっけ。で、この写真は明石パーキングエリアで家内にとってもらった私の写真。「今日の私の格好です」とKさんに送った写真である。広島駅で急遽買ったカープのタオルを首にまき、目立つようにしてみました。いかがでしょう?かなり怪しい。続く・・・・。
2006/12/05
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最近は教育問題の議論が盛んになって、いいことです。みんながもっと教育に関心をもって、学校や家庭はもちろん、マスコミも企業も、みんなで考えていけば、その気持ちだけでも相当変わってくるという気がします。さて、本日は昨夜みた「オーラの泉」について。見たことのある人は当然ご存知だと思いますが、江原啓之と美輪明宏がゲストを呼んで話をする、ある意味トーク番組です。守護霊とか前世とか、オーラの色とか、怪しいといえばこの上なく怪しい話を、ごく普通の出来事のように話をするという不思議な番組。昨日は掘ちえみがゲスト。そこで、おもむろに「輪廻転生と自殺の関係」を二人に質問した。最近の自殺事件で、生まれ変わって云々という遺書があったりして、番組あてにも相当の意見が寄せられたのでしょう。そこから、ほぼ掘ちえみのことは一切関係なく、ほとんどが「教育問題」の話になった。怪しい話を信じるかどうかは別にして、なかなかいいことを言ってましたね。●江原 「恥を知れ!」という言葉が失われたことが問題です。確かに、自分の行動を決める要素として「恥」というものは重要でなくなってきましたね。「卑怯」という言葉も使わなくなった。いじめなんて、完全に「卑怯」なことです。「卑怯なことが一番恥ずかしい」という意識必要なのでしょう。●美輪 日本には昔からいい言葉がある「天知る、地知る、我知る」です。そうですね、この言葉は私も好きです。人の目は欺けても、自分の心は欺けない、ということですよね。天と地の間に自分があって、やっぱり正々堂々と生きてことしかできないんですね。それを人の目を欺ければ、犯罪も犯罪じゃなくなると思ってる。誰も見ていなくても、悪いことは悪いし、正しいことは正しい。そういうことなんですね。最近の子ども達はすぐに「損得」を考える。「そんなことして何の得になるの?」そうじゃない。得にならないのにいい事をするから「徳」になるんですよね。(なんだかお坊さんの説教みたいですが)ところで、自殺についての彼らの見解。「人間はテーマをもって生まれてきているので、自殺という方法でそれを途中放棄すると、生まれ変わっても同じ境遇をもう一度やり直すことになる。落第と同じで、2年生が終わるまでは何度でも2年生をしないといけないんです」とのこと。これは確かに恐ろしいことですね。目の前に起こる試練も、これを乗り越えないと、何度でもやってくる、ということでしょ。結局逃げてちゃ駄目ってこと。「オーラの泉」にしろ、細木数子の番組にしろ、怪しいといえば怪しいんですが、内容的にはしっかりしたことを言ってますよね。こういう番組が高い視聴率を得るということも現代の世相なんでしょう。
2006/11/30
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教育というのは確かに郵政民営化などとは比べ物にならない大きな問題だ。 今日の昼休み、NHKのニュースを見ていると、中川幹事長が、教育基本法改正案の採決に反対する野党を揶揄するような発言をしていた。 聞き流しつつ見ていたので正確には覚えていないが、 「教育基本法改正にむけ、なにをもたもたしているのだ!というのが世論だ」 「民主党は、駄々っ子政党なのか、大人の政党なのかを問われている」 たしかそんなことを言っていた。 国民の総意を勝手に代弁してしまった上、完全に自分が民主党よりも上の立場であるかのような人をなめた発言。 前から「悪人顔のスケベじじい」だとは思っていたが、発言を聞いていると、どうやら顔だけではないことが分かってきた。 結局、考えているのは、国民のことではなくて、政局運営のことだけなんだということが見え見え。 ちょっとうんざりだ。 タウンミーティングでのやらせ問題とか、国民としては「やっぱりね」なのだ。 担当者の気持ちはすごくよく分かる。 書いたシナリオどうりに事が運ばないと後で問題になるし、担当者の評価も下がるに違いない。 株主総会と同じだ。 特に混乱することなく、やっぱり国民の総意はそういうことなんですね、という結論を議事録に書ければよい。 教育基本法の改正案って、なにを変えようとしているのだろう? 話題になっている割には私も良く分かっていない。 大事な問題なのでちょっと調べてくることにした。 そもそも、どうして教育基本法を改正する必要があるのかも曖昧だ。 制定後60年以上経過して、時代に流れに合わなくなったということらしいが、どのように時代の流れにあわなくなったのだろう? いじめ問題とか、ニートの問題とか、確かに教育そのものに大きな問題があるということは分かる。 「国家の品格」ではないが、このままでは日本は恥知らずな国になってしまうのではないかという不安もある。 そこで、角度を変えて考えてみる。 教育基本法を改正したい、と考えたからには、なにか具体的な「やりたいこと」があるに違いない。 いつの間にか「やりたいこと」は、きれいな衣装と化粧で着飾られて出てくるのだ。 腹の中でなにを考えているかはよく分からないまま、きれいな衣装と化粧で着飾った姿に幻惑されたまま頷いてしまうと、がばーっと中から化け物が登場する、なんてことになりかねない。 「やりたいこと」は何なのか? そこのところをはっきりさせて欲しいものだ。 文部科学省のHPを見て見ると、改正のポイントは ・ 個人の自己実現と個性・能力,創造性の涵養 ・ 感性,自然や環境とのかかわりの重視 ・ 社会の形成に主体的に参画する「公共」の精神,道徳心,自律心の涵養 ・ 日本の伝統・文化の尊重,郷土や国を愛する心と国際社会の一員としての意識の涵養 ・ 生涯学習の理念 ・ 時代や社会の変化への対応 ・ 職業生活との関連の明確化 ・ 男女共同参画社会への寄与 らしい。
2006/11/14
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昨日会社でNHKのお昼のニュースを見ているとアナウンサーが言った。 「東京に木枯らし一号が吹きました」 たしかそんな内容だった。 木枯らしに一号と二号があるのか、という新鮮な驚きと、狩人の「あずさ二号」が頭の中を駆け巡った。 ただ、どうやら、春一番があっても春二番がないのと同様、木枯らし二号もないらしい。 また、木枯らし一号を発表するのも東京と大阪だけらしい。 木枯らしとは、木の葉が色づき、落葉するこの時期に吹く冷たい風のことだが、木枯らしとはよくいったものだ。 11月といえども、暖かい日は汗ばむくらい暖かいが、ひとたび木枯らしが吹くと思わず上着の襟を立て、背を丸めたくなる。 夏に緩んだ体を突き刺すように寒風が吹きぬけていく。 体の準備ができていないだけに冷たさも身にしみる。 人間に否応無く「冬の予感」と「夏の終わり」を実感させる風。 それが木枯らしなのである。 それゆえ、夏の恋が、クリスマスを迎えることなく終わりを告げてしまうと、心の中にも木枯らしが吹いてしまう。 木枯らしは「凩」とも書く。 風に木、といういかにも日本で作りました、という漢字だ。 秋ではなく、秋の終わり。真冬ではなく、冬の直前。 晩秋とも初冬とも言える実に微妙な季節に吹く冷たい風。 日本人には、あたかも木の葉を吹き飛ばすために吹いているように思えたのだろう。 既に初雪のニュースがちらほら入ってくる季節だが、葉が落ちきらないうちに雪が降ると、木の枝はその重みを支えきれずに折れてしまう。 冬が来る前に、木は葉を落としてしまわないといけないのだ。 木々は木枯しを待っている。 そこに冷たく強い風が吹く。 赤茶けて丸まった木の葉が、冷たい風に吹き飛ばされて空中を舞っていく。 最後に残されこの葉が飛ばされるときには、「あれー」という声まで聞こえてきそうだ。 日本人って、本当に季節の移ろいに敏感だったんだなあ、と思う。 ちなみに、和英辞典によれば 木枯し=a cold winter [wintry] wind ぜんぜん情緒なし。
2006/11/09
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酷道488号線を越えて島根県に入った話の続きです。広島県の北西の端にあたる「吉和村」は平成の大合併によって「廿日市市」となったものの、田舎であることに変わりはない。山口県、島根県と接するのどかな農村である。盆地の標高600M。人口1000人足らず。この村から島根県匹見に抜けるのが国道488号線である。盆地から川沿いに山に分け入るのだが、そこが「中津谷渓谷」。広島市を流れる太田川の最源流にあたる。道は狭いのだが、その分自然が手付かずのまま残っている地域でもある。渓流沿いの少し開けたところから撮影したのがこの写真。杉の植林地と自然林の間にはっきりと境目が見える。単調な色合いの植林地に比べ、自然林の美しさはやっぱり際立っている。人間の世界でも、大自然でも、多様性こそが豊かさの指標であることは間違いない。森は天然のダムである、というが、森の種類によって保水力は大きく違う。広葉樹の森は広くしっかり根をはり、さらに落とした葉が腐葉土の層を作っていくが、杉の植林地では様子が違うようだ。杉はあまり深く根をはらない。そのため台風などで倒れやすい。外から見ると美しい緑に見えるのだが、中に入ってみるとかなり暗く、緑なのは外側だけなのが分かる。入ってくる光の量が少ないので、そこに育つ植物も少ない。雨が降ると当然表土も流れやすくなる。この季節、常緑の針葉樹の植林地と、広葉樹を中心とした自然林との境目がはっきり分かる。実はまさしくこの地域には大規模林道を作る計画がある。「細見谷大規模林道」という計画なのだが、これが現在環境団体などを中心に大反対を受けている。このエリアが中国山地の自然の姿を手付かずに近い状態で残していることから、それを守ろうという運動だ。確かに、自然が自然なままの状態で残っていても経済効果はほとんどない。ただ、経済効果が無いから価値がないというものではないことも明らかだ。価値も多様化している。全てのものを経済、即ち「お金」で判断しようなんて人間のエゴそのものだ。それが現在の地球温暖化や環境破壊を招いてきた。確かに便利なほうがいい。国道488号ももう少し広いと嬉しい。ただ、経済だけで物事を決めていくのがいかに危険なことかも知る必要がある。壊した自然を元に戻すことは簡単ではない。
2006/11/07
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校長先生まで自殺した。 責任感が強かったのか、精神的に弱かったのか、それとももっとほかに悩みがあったのかは分からないが、はっきりいって教師のすることではない。 生徒の自殺が問題になっているときに、教師まで自殺ではなんともやりきれない。 自殺に関する報道も考えものだ。 自殺した子の遺書を画面いっぱいに映し出して、文章を読み上げる。 これ以上に効果的な報復があるだろうか? 自分の命と引替えに、自分を苦しめた者達に報復する。 これはもう「特攻隊」に近い。 報道のしかたもワンパターンでちょっとうんざりだ。 学校の隠蔽体質とか、教師の無責任とか、もちろん学校側の問題はいっぱいある。 が、自殺という事実の前では、どんな言い訳も許してもらえない。 校長がちょっと言葉を濁すと「隠蔽しようとした」ということで集中砲火を浴びる。 ほぼ無条件に「自殺」した生徒は絶対的な「善」になって、学校といじめた生徒は絶対的な「悪」になる。 そこに、マスコミの薄っぺらい正義感が見え隠れしてうんざりしてしまうのだ。 「自殺するときには、洗面器に顔を突っ込んでしろ。飛び降りとか、首吊りは、やめようと思ってもやめられないからしちゃだめだ」 と、うちの奥様がかつて教わった学校の先生は言っていたらしい。 洗面器に首を突っ込んで、苦しくても苦しくても死ぬまで首を突っ込んでいられるくらい死にたい人だけ死になさい、ということなのだろう。 きっとそれで死ねる人はまずいないだろう。 生徒の自殺報道にこんなに時間を使うのなら、 「死にたくなったら、その前にここに電話してください」とか 「死ななくても、こういう方法もありますよ」とか 「首を吊って自殺すると、糞尿垂れ流しになって、舌がべろーんと伸びて、とても人に見せられる状態ではない」とか 自殺をさせないということを意図したメッセージを送れないものだろうか? マスコミはこぞって教師を責め、学校を責め、いじめたものを責める。 これでは、自殺した生徒の思うツボだ。 世の自殺予備軍に対して、「自殺なんて無意味なんだよ」というメッセージを、こういう時期だからこそもっともっと発信する必要があると思うのだが。
2006/10/31
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遅ればせながらベストセラーとなった「国家の品格」を読みました。 古本屋に行くたびに探してみたのですが、意外に出てない。 (新品を買え!って感じですが・・) 最近やっと入手し読んでみました。 著者の藤原正彦氏は数学者であり、作家の新田次郎の次男です。 講演会の内容を文章化してまとめたものということで、やや内容の薄さは感じられましたが、「日本理解」の入門書としては非常にいいのではないかと思います。 書評なんか読むと、「数学者とは思えない論理性の欠如」「誰でも知っているような初歩的な内容」なんて酷評もありました。 そういう人はもっと高度な内容の本を読めばいいわけで、本の意図からすると、みんなに分かりやすくということで目的を達していると思いますけど。 著者の言わんとするところを私なりに考えると ・西洋かぶれをやめよ! ・日本人の本来持っている精神(代表が「武士道」)を取り戻せ! ということなのだろう。 なぜそれが必要かということを例を挙げながら分かりやすく説明した本なのである。 西洋の文明を象徴するのは「合理主義」「自由」「平等」。 これはあたかも不可侵の大前提としてすべての議論がなされ、それに異議を唱えることさえ許されない雰囲気が全世界を覆っている。 が、それ自体が間違っていると著者は言う。 人間は自由でも平等でもない。 生まれながらにして自由などなく、平等でもない。 ルックスの違い、貧富の差、体格の差、学力の差、その他もろもろ、すべて平等ではない。 が、日本にはそれを補う精神性の高さがある。 それが「惻隠の情」。 惻隠の情とは、「同情・あわれみ」で、孟子の言葉に由来しているらしい。 同情とかあわれみとかいうと、どうもイメージがよくないが、要は「相手の気持ちになる」ということだ。 もっと平たく言えば「思いやり」ということか。 「優しいという字は、人に憂えると書く。人の憂いが分かる人が優しく優れた人だ!」 なんて、金八先生も言っていたようだが、同じ意味なのだと思う。 そこから、弱者へのいたわり、敗者への敬意などといった「武士道」につながっていく。 思えば、運動会の徒競走で順番をつけないことが「平等」かということが問題になったことがある。 運動能力はみんな違う。 学習能力も違う。 表面上の問題回避よりも大切なのは、敗者を辱めない心や、結果ではなく努力に対する賞賛なのだと思う。 教育とはそういうことを教えていくことに違いない。 ネットで「惻隠の情」を検索してみるといろいろな意見があることも分かってくる。 「武士道」は強者の弱者に対する憐憫を形にしたもので、上に立つものの「道」である。 士農工商の「農工商」あっての「武士道」である。 それを「日本の心」だと押し付けられても違和感を感じる、 と書いている人もいた。 確かにそれも一理ある。 いろんな意見を聞きながら、もっとみんな「日本」に関心をもったほうがいいと思う。
2006/10/28
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安倍総理は教育改革に意欲的らしい。 確かに大事な事である。 多感でスポンジのように何でも吸収する時代に何を学んだかということが、個人の人格に与える影響も大きいし、その集合体である国家に与える影響も大きいに違いない。 戦前の教育が第二次世界大戦を容認する国民意識を作ったことも間違いない。 教育とは、ある意味で国家ぐるみの「洗脳」であるともいえる。 だからこそ教育の問題に神経質になるのも無理はない。 結果として、「学力」のみに重点を置いた教育にならざるをえない。 これは、骨を鍛えずに筋力のみ鍛えるに等しい。 手に入れた力を何に使ったらいいのか分からない。 なぜなら「価値」を判断するための「精神」が未熟だからだ。 見た目は強そうだが、少し無理をすると骨折してしまうという脆い日本人が大量生産された。 安倍総理は教育再生会議の冒頭で、「学力と規範意識」と言っていたが、規範意識というのはいったい何だろう? そう思って調べてみると、 社会の中で生きていくためのルールを遵守して、社会にとって望ましい行動を取ろうとする心の動きらしい。 集団生活を円滑に送るためのマナーを守ろうとする意識ということなのである。 「そうじはサボらない」 「カンニングをしない」 「ゴミはゴミ箱に捨てる」 「人をいじめない」 「遅刻をしない」などなど これらを守ろうとする意識が規範意識 思えば、小学時代に先生からよく注意されていたことではある。 ただ、お題目のように唱え続けても子どもの心が動かなければ意味がない。 大事なのは、ルールを守るということの背景にある「心」を教えることなのではないだろうか? ルールの基本は陳腐ではあるが、「思いやり」なのだと思う。 人の気持ちを考えること、人をごまかさないこと。 その心が根底にあれば自然とルールに従った行動になると思うのである。 テストでいい点を取った子ども以上に、人に優しくした人を評価する学級の雰囲気が大切だ。 人のために何かをすること、人の目をごまかさないこと、目標に向かって努力すること、 物を大事にすること。 それ自体を高く評価する風土を作っていくのが教師の役割なのだと思う。 いくら「掃除をサボるな」といっても駄目だ。 教育というのは、家庭と学校が車の両輪のようにうまく機能しないと前に進まない。 先生の言うことと親の言うことが違ったら、子どもは何を信じればいいのだろう? 物を大事にしよう、と先生が言っても、親は「買った方が安い」が口癖だ。 給食は残さず食べよう!といわれるが、親はご飯粒を茶碗にいっぱい残している。 掃除をサボるな、といわれても、親は町内会の掃除に参加していない。 数え上げればキリがないほど「家庭」が教育の足を引っ張っている。 教育再生というのは、家庭の再生でもあり、地域社会の再生でもあるようだ。
2006/10/19
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高校1年の次男坊の自転車が破裂した。まだ買って半年なのだが、乗り方が荒く、転倒したりぶつけたりで後輪は変形しており、かなりの痛みようだ。先週、パンクの修理は私が行なった。そのときの写真はこれ。しかし、車輪が変形しているため、空気を入れたチューブがいびつに膨らんでタイヤから若干はみ出しかけていた。ま、それでも本人が自転車を大事に扱わなかったからこうなったわけだし、それで修理完了としたのは、1週間前のこと。翌日、その自転車は登校途中に大音響とともに炸裂し、乗っていた本人のみならず、周囲の通行人まで驚かせたらしい。白昼の発砲事件さながらの出来事だ。高1の息子は恥ずかしさと、遅刻しそうという現実に半泣きになりながら自転車を押して家に帰ってきた。その日はやむなく母親が学校まで送って行ったらしい。当然のように家庭内の雰囲気は「自転車の買い替え」に傾いた。なにしろ車輪はゆがんでいる。高1の次男坊は自転車を大事に使わなかった責任を取り、三分の一を自己負担する交渉も成立。が、どうも私はもったいない気がした。息子の自己負担はともかく、半年で自転車を買い替え、捨てるということがである。自転車なんて確かに10000円もしないのだ。にも関わらず、自転車屋でタイヤを交換すると5000円くらいかかるし、車輪まで交換するなら当然買い換えたほうが安くなる。そこで、家の裏に打ち捨てられていた中学時代に息子は乗っていた自転車(これはギアのチェンジが壊れていた)のタイヤと交換することを思いついた。幸いタイヤのサイズも26インチで同じ。ただ、パンクの修理程度は「お父さんの仕事」として何度も行なってきたが、流石に車輪を交換したことはない。家族の誰もが失敗を確信していた。14日、日曜日の午前中、私は自転車を分解した。前輪は付属物が少ないので簡単だが、後輪にはいろいろなものがくっついていてなかなか複雑だ。工具を一部買い足し、ついてに工具を入れる箱を買ったりしていたら5000円かかってしまった。安い自転車なら、もう少しで買える価格である。さて、悪戦苦闘の末、車輪の取替え完了。所要時間は工具の買い足し時間も含めて3時間くらいかかった。それで私が工賃をもらえるわけではないのだが、新しい自転車を買わずにすみ、家計も助かったし、自転車の命も助かった。だが、本当にわかって欲しいのは、「モノを大事にする」という心だ。自転車を直したと告げると、息子は一言「サンキュー」自己負担を免れたことへの感謝か・・・・。どうやら、父の思いは伝わっていないようだ。修理するより買い換えたほうが安いという現実もおかしい。そういえば、北朝鮮の原爆実験にからみ、中古自転車の輸出業者が困っているというニュースがあったっけ。輸出の8割は北朝鮮だったとか。これからの時代は、いいものを大事に長く使う、という心が大切だ。大量消費型社会が現在の環境問題を生み出した。もったいない、という言葉が世界的に脚光を浴びたが、本来の日本人は世界中のどの民族よりも物を大事にする民族だったに違いない。ひとつの家、ひとつの家具、ひとつの道具、ひとつの服、食器・・・・。それぞれを大事に長く使う。21世紀は、そういう時代になっていかないといけないのだと思う。買うという行為は楽しい。でも、買うということは「捨てるものを作る」という行為でもある。心して買いたいものだ。
2006/10/15
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最近、子どもの自殺についての報道が多い。 原因の多くがいじめ。 小学生が遺書を書いて自殺したかと思うと、今度は中学二年生だ。 いじめのあった事実を認めるかどうかでまたまた物議をかもしたりする。 自殺した子もかわいそうなら、親もかわいそうで、慰める言葉さえない。 自分の子どもが自殺したら、と考えるだけで恐ろしい。 実は私が危惧してしまうのは、報道が子どもの自殺の連鎖反応をおこさせないかということだ。 自殺というのは「逃げる」ための行為であると同時に、究極の「抗議行動」でもある。 抗議行動に大きな効果があるということが分かると、自殺する動機に十分なりうると思うのだ。 私をいじめた同級生、えこひいきをした先生、私を怒った親、 私が死ねばきっと後悔するだろう。 だから私は死のう・・・・。 という単純な方向の思考を「逃げたい」という気持ちが後押しする。 あるいは「逃げたい」という気持ちを「あいつらを後悔させたい」という気持ちが後押しする。 だから、抗議行動として自殺の効果を裏づけするような報道は「18禁」にすべきだとも思うわけだ。 「食欲のある子は自殺しない」 と、私の子どもが昔お世話になったボーイスカウトの隊長が言っていた。 「おいしいものが明日も食べたい」と思う子どもは絶対自殺しないらしい。 確かにそうかもしれないと私は納得した。 ニュースで見る北朝鮮の子ども達は、なぜあの環境で生きようとするのだろう? 動物的な生への欲求があるに違いない。 私の子どもの頃にも当然「いじめ」はあった。 今考えると子どもというのは相当残酷だ。 「あいつを見たら目が腐る」とか 「それを防ぐためには太陽を直視しないといけない」とか フォークダンスなんてあると露骨に嫌な顔をする。 こころが未成熟なためか、相手の痛みが分からないゆえの残酷さである。 それが中学生くらいになってくるといじめは悪意に満ちたものになってくる。 上靴を隠すとか、給食に虫を入れる、金を要求する、暴力を振るう、異性の前で屈辱的な行動をさせる・・・。 こうなると注意したから直るようなものじゃない。 いじめる側もしたたかになる。簡単には尻尾をつかませない。 教師の側もいじめられたと訴えられたからといって、一方的にいじめた側を怒るわけには行かない。 いじめた現場を見たわけではないし、いじめる側は常に強者であるので、その他の学生も簡単には教師に真実を告げない。 「ちくる」と次のターゲットにされる恐れがあるからだ。 「先生は僕を信用してくれないのか?」 いじめている方はそういって開き直る。 絶対的な証拠がない限り、いじめた側をどうすることもできないのだ。 親にも言えず、友達もいない、教師も当てにならない。 逃げ場がなくなった子どもは短絡的にまず自殺を考える。 ただ、普通は死への恐怖や、将来への希望などのために思いとどまるのだが、自殺そのものが抗議行動として非常に有効だということになりと瀬戸際の判断も当然変わってくる。 それが怖い。 死んでしまえばお仕舞いだ。 つらくても死んではいけない。 死ぬくらいなら、死ぬ気で駆け込む場所を用意してほしい。 みんなで仲良く、なんて理想を掲げても、それは不可能だ。 逃げ場がなくなるから死んでしまうのなら、逃げ場を与えてあげればいい。 子ども達の駆け込み寺はいったいどこなのだろう? 安易な逃避は人生にとってマイナスであることは間違いないが、死んでしまっては遅いのだ。
2006/10/14
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10月7日。広島映像文化ライブラリーに「ヒロシマ-爆心地の記録」という作品を見に行ってきた。 この作品は、原爆ドームに隣接した、原爆の投下とともに跡形もなく消え去った町を、可能な限り忠実に、CGで再現しようという試みを映像にしたものである。 再現するためには、かつてこの町で暮らしていた人たちの記憶だけが頼りになる。 当然のことながら、この町とともに消え去った人は当然すでにいない。 原爆投下の瞬間に、なにかの偶然でその場に居合わせなかった人たちが中心になって作り上げたものだ。 当然家族のほとんどを原爆でなくしている。 その映像の中には、悲惨さがほとんどない。 ただひたすら、そこにあった町を忠実に再現する。 店、民家、病院、郵便局・・・・。 普通の人たちの普通の暮らしがあるだけだ。 原爆投下後の広島の惨状は平和公園にある「原爆資料館」に行けばある程度は実感できる。 一瞬にして二十数万人の人の命が失われた。 あまりの数の多さに、その数に目が言ってしまうが、大事なのは数の多寡ではなく、一人一人に家族と暮らしがあったということだ。 一人だから殺されても良くて、20万人だからいけないというものではない。 たった一つの原爆。 たった一つの決断。 アメリカは今もってその決断が間違っていたことを認めない。 それがアメリカの正義だ。 どんなことがあってもアメリカは正しい。 イラクでもそうだ。 現実に起こっていることは悲劇であっても、アメリカの決断は常に正しいとされる。 戦争はどんどんゲーム化している。 ボタンひとつで敵を殺すことができる。 相手の死に様を目にする必要もない。 それが「人生」そのもののを奪う行為であり、残されたものにどれだけの悲しみや苦痛を与えるものであっても、心を痛める必要がない。 逆に、兵士が自分のしていることに心を痛めるとすれば、絶対戦争には勝てないだろう。 地球は狭くなった。 今、この時代に、戦争に勝つということ自体、どれだけの価値があるだろう? 戦争だって、狭い部屋の中で刀を振り回すのと同じようなものだ。 逃げ場もない。 有史以来、人類は戦争を続けてきた。 力こそが全てを決する最大の要素だった。 そして出来上がったのが、支配と被支配の関係である。 人類の歴史は「支配と被支配」の歴史であると言える。 でも、その時代は終わった。 力ではなにも解決できない。 支配と被支配の関係は永続しない。被支配の中から、必ず支配者を打ち倒すものが出てくるのだ。 今大事なもの。 それが結局「一人一人の暮らし」なのだと思う。 イラクの人たちの一人一人の暮らし。 世界中の人たちの一人一人の暮らし。 私自身が喜び、怒り、悲しみ、楽しく思うように、北朝鮮の人たちにもその権利はあるはずだ。 私が自分の子ども達の将来を思うように、世界中の全ての親たちが自分の子どもの将来を思っている。 お金持ちだけが子どもの将来を考える権利があるわけではない。 原爆で失われたものは、広島の町ではない。 そこで暮らしてきた一人一人の人たちと、そこに繋がる暮らしや思いや希望や、愛情やいろんな思いそのものだ。 9.11のテロの際、トレードセンタービルで2000人近い人が死んだ。 アメリカ全土が慟哭し、激怒した。 あの日死んだ人たちには、それぞれ愛する人もいたし、これからの人生もあった。 そして、あの日、広島に住んでいた人たちにも同じように愛する人がいて、人生があった。 それだけは間違いない。
2006/10/07
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なにやら、亀田大毅の試合で観客同士の乱闘騒ぎがあったらしい。 兄、興毅の試合に続いての微妙な判定勝ち。 心無いな野次に対して、亀田ファンが怒って乱闘に発展。 直接的には戦った亀田大毅にも、父親にも責任は全くないが、種を蒔いてきたのは事実である。 野次の内容は確かに「心ない」のだが、心ない挑発を対戦相手に対して繰り返してきたのも彼ら自身だ。 タイトルマッチでもないのに脅威の視聴率を獲得。 対戦相手に対する礼儀や敬意など微塵もないビッグマウスと、ビッグマウスを裏付ける勝ちっぷりで人気を得てきた。 日本人チャンピオンは沢山いても、名前さえよく分からないのに、亀田三兄弟のことは誰もが知っている。 明らかに、テレビの力だ。 チャンピオンでもないのに大金を稼ぎ出し、 試合の後には歌まで歌い、 あるいは、大物ロッカーにリングで名前をコールさせ、 リングサイドには著名人が数多く観戦。 試合前には対戦相手に対して過剰な挑発パフォーマンス。 なんなんだ、こいつら? 正直なところ私もそう思った。 亀田一家にもそう思ったが、そこに群がる著名人を見て、「ほんとに大丈夫?」という気がしたものだ。 今考えれば、著名人を試合に集めたこともテレビ局の演出の一環だったのだろう。 時の大臣まで最前列でご観戦とくれば、日本中こぞって亀田の応援団という印象になる。 おいおい勘弁してよ。 日本はこのままで大丈夫? 必要以上に対戦相手を挑発する行為は決して美しくはないが、テレビ的には面白い。 父である史郎氏とテレビ局との思惑が一致し、先のタイトルマッチまでは確かに「蜜月」時代が続いていた。 しかし、ビッグマウスに相応しい勝ちっぷりを見せられなくなったとき、今のようなバッシングが起こることはテレビ局には良く分かっていたに違いない。 亀田一家は乗せられて木にのぼり、はしごを外されそうになっている。 高く上ってしまった分だけ、無様な姿も見せねばならないし、風当たりも強くなる。 父親の史郎氏は、当然のことながら息子達を守ろうとするが、息子達を世間に晒してお金と名声を得てきたことも事実である。 マスコミを利用し始めたときから、まだ十代の兄弟が世間の逆風に晒されるリスクが十分過ぎるくらいあったのである。 今さら子どもだからとか言っても遅い。 前回のブログには高校生のフォークダンスの話を書いた。 まさにその同世代なのだ。 亀田兄弟のビッグマウスを聞くたびに、最近はなにやら切ない気持ちになり始めた。 彼らには引くことが許されないのだ。 弱音も許されない。 とにかく吠え続け、自らを鼓舞し、奮い立たせ、ただ自分の強さだけを信じて大見得を切らなければならない。 その陰には、いやらしい大人の思惑も見え隠れする。 勝ち続けることが、亀田兄弟にとって本当にいいことなのか、ちょっと疑問に思っている今日この頃なのである。
2006/09/27
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昨日はうちの息子の体育祭であった。 高校3年生と1年生で、二人とも広島県立H高等学校に通っている。 なにを隠そう、私も同じ高校の卒業生だ。 校舎もグラウンドもあの頃とほとんど変わっていない。 昔の高校の運動会といえば生徒だけだったと記憶しているが、今では父兄もたくさん見に来ていて、まるで小学校の運動会のようだ。 生徒達も思いのほか一生懸命で、応援にも力が入っているし、体育祭だけ見れば「無気力」には縁遠い。 写真は体育祭の中のフォークダンスの一こま。 触れている部分なんてごく僅かで、面積にすると、10センチ角にも満たないだろう。 それでも十分どきどきしたり、嬉しかったりする。 好きな子の手前で曲が終わってがっかりしたり、 踊っている間の僅かな会話で相手の気持ちを推し量ってみたり・・・。 おじさんやおばさんだって、あの頃はみんなそうだったはずだ。 「メトロに乗って」という浅田次郎の小説がある。 映画化されてこの秋公開らしいが、メトロに乗ったら、タイムスリップして、地下鉄ができたばかりの時代にきてしまう。 そこで、その時代を精一杯生きている、若き日の父親とか母親とかに会うわけ。 時代背景はもちろん違うにしろ、18の頃は誰にでもあった。 でも、二度と取り戻すことのできない時代でもある。 (実はどの時代も取り戻すことができないのだが・・・) うちの親父はもう70過ぎだが、やっぱり18の頃はあった。 実はうちの親父は、同じ高校の定時制に通っていた。 三代にわたって同じ高校に通ったことになる。 もし、私がその時代にタイムスリップして親父を見たら、なんと感じるのだろう。 親父は親父で、あの時代を精一杯生きていたに違いない。 誰もが年を取る。 年齢は否応無く心にも体にも「時間」を刻み付けていく。 若いだけで輝けた時代から、若さと引替えに何を得てきたかが問われる年齢になってしまった。 飛んで、はねて、笑って。 若いエネルギーを感じつつ、 おじさんはまぶしいばかりの青い空を見上げたのであった。
2006/09/25
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9.11 私が説明するまでもなく、世界貿易センタービルに旅客機が突っ込んで3000人あまりの犠牲者が出た日である。 4機の旅客機が同時にテロリストにハイジャックされるという前代未聞の事件である。 正義とは一体何なのだろう? アルカイダの正義とアメリカの正義が違うからこういう問題になってくる。 そう考えると、正義を振りかざすことくらい恐ろしいことはないように思える。 ウルトラマンは正義の味方だ。 ウルトラマンに退治される怪獣たちは「悪」ということになる。 でも、ほんとうにそうなのだろうか? 怪獣には怪獣の「正義」があるに違いない。 イスラエルを巡って中東で紛争が絶えない。 旧約聖書以来世界をさまよったユダヤ人が、やっと手に入れた国である。 しかし、それまでそこにはパレスチナ人が住んでいた。 イスラエルの正義と、パレスチナの正義は当然争いに発展する。 「勝てば官軍」という言葉がある。 これは即ち、力こそが正義だということだ。 明治維新で勝った官軍は「正義」であって、負けた幕府軍は反逆者になった。 しかし、不思議なことに最後まで抵抗した幕府軍の主要人物の多くが明治政府の要職についている。 日本というのは不思議な国だ。 おおらかというか、こだわりがないというか・・・・。 日本は多神教の国である。 しかも、山にも草にも、岩にも、木にも、さらには「言葉」にも魂があり、神が宿ると考える民族である。 そこらじゅうが神様でいっぱいだ。 明治までは、神様と仏様が一緒に祭ってあったりするくらいにおおらかだった。 思えば、世界中の紛争の多くは「宗教」が絡んでいる。 しかも、紛争の原因となるのは「一神教」だ。 自分の拝む神様以外に神様はいないわけだから、当然争いにもなる。 「うちの神様が本物だ!その他の神は、神の名をかたる悪魔に違いない」 そう考えるのだから、丸く納まるはずがない。 正義と正義の戦いなのに、どうしてこんなに醜悪なのだろう? それはきっと、本当の「正義」ではないからだ。
2006/09/11
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秋篠宮様に男子誕生。 おめでとうございます! ということで、本日は天皇について考えて見ます。 でも、難しい話は分からないので、一国民として素直な気持ちだとご理解ください。 誕生当日のニュースはどこもこればかりだが、そんなに重大なニュースなのかどうかということさえ分からない人が多いと思う。 おそらく、国民の半分は関心がない。 そして国民の7割は、「男の子が生まれた」という結果が分かれば十分だと思っているに違いない。 そして、私もその一人だ。 「今日、カープ勝った?」 「負けた」 「あそう」という感じだ。(広島県人なもので・・・) さて、天皇とは何か? 憲法では日本国および、日本国民統合の象徴ということだが、抽象的すぎてよく分からない。 天皇の話になると、いろいろな思惑の人がいて、なにかと問題のあるテーマだ。 天皇について書くことは、ある意味タブーでもある。 まさか、家が焼かれることは無いとは思うのだが・・・・・。 一体天皇はどこが偉いのか? うーん、よく分からない。 子どもに訊かれたら何と答えようか。 実際、答えようがない。 うちの奥様と話をしていると、「君が代」の話になった。 なんでも、彼女が小学生のこと、担任の教師が1時間に渡って、この国家を批判したらしい。 「こんな歌は、天皇の家がずーっと続くように願った歌だから、皆さんは歌ってはいけません」 ということなのだろう。 彼女は今まで、そういうものだと思い続けている。 いなくても誰も困らないような気がする。 でも、実際いなくなったらどうなるのか、誰にも分からない。 なぜなら、日本には2000年も前から天皇が存在し続けているからだ。 なんと、この国に統一した王朝ができて依頼、「天皇」がいる。 南北に分かれた時期はあったが、いない時期というのはない。 よく言われることだが、世界中どこを探しても、こんなに続いている「王」はいない。 中国で言えば、秦の始皇帝の一家が今なお中国で「王」として存在し続けているというのと同じだ。 私は、ここにこそ、天皇が日本国民の象徴である理由があると思う。 歴史はなぜ天皇家を滅ぼさなかったのか? 単なる偶然というには長すぎる時間だ。 日本という国は島国で閉鎖的で特殊な国である。 城には堀があり、石垣があるが、街を城壁で囲って守るという発想はない。 どんなに戦争が起ころうとも、変わっていくのは支配者の名前だけで、国民の大多数の生活はさほど変わらない。 丁度同じ中身なのに、レッテルだけを貼りなおしているようなものだ。 そして不思議なことに、レッテルは何度も貼りなおされたが、一番最初に張られた「天皇家」のレッテルだけは決して外されなかった。 確かに第二次世界大戦などもあったが、基本的に天皇という存在は国民に対して「圧迫」を加える存在ではなかったということなのだろう。 京都御所にしても、天皇の墓にしても、豪華絢爛からは程遠い。 想像するに、やはり天皇という存在は 日本人の「和を尊ぶ」人間性とか 質素質実を美徳とする精神性とか 仏教も神道も、洋食も和食も一緒くたに楽しんでしまう融通無碍な部分とか そういうものを象徴する存在に違いない。 ある意味、日本人の代表者であり続けたともいえる。 そう考えると、「君が代」は天皇の世だなんて狭小な意見を述べること自体が日本人的でない。 天皇をいう存在をずっと守り続けてきた国民性、日本人の精神性こそ「君が代」だという気がしてならない。 これはきっと、全世界に誇ることができるものだ。 天皇が偉い、というよりも、天皇に代表される日本の国民性が偉いと思う。 「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」 (日本国憲法 第一章 第一条) 確かにその通りだと思う。
2006/09/06
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9月2日の「sma STATION」で環境問題を取り上げていた。 香取慎吾の番組で、若者向きにいろんな問題を取り上げていて、最近の番組の中では好感の持てる番組だ。 で、2日は環境問題。 二酸化炭素の排出量の問題を分かりやすく解説しており、非常に興味深い内容だったのだが、中でも気になったのは日本の取り組みの遅れである。 京都議定書から脱退したアメリカは論外だが、ヨーロッパ諸国は総じて10パーセント以上の削減を成し遂げているにも関わらず、日本は逆に増えている。 京都会議のホスト国であるにも関わらずこのような不細工な状態で、各国のヒンシュクを買っているらしい。 そりゃヒンシュクも買うはずだ。 日本には、二酸化炭素を削減するだけの技術力もあれば、教育レベルもあり、情報を伝達するための情報網も充実している。 できない理由は「やらなかった」という以外には考えられない。 考えてみても、京都会議からすでに8年にもなるのだが、なにか国民の意識は変わっただろうか? 学校ではどのような環境教育を始めたのだろう? はっきり言って何も変わっていない。 環境問題は待ったなしの問題だ。今からすぐ始める必要がある。 国民一人一人の意識はもちろん大事だが、国民の意識の変化なんかを待っていたら、地球が壊れてしまう。 一人一人はみんな自分勝手なものだ。 「自分ひとりでも頑張ろう!」 と思う人は、ごく一握りの、ある意味特殊な人たち。 「自分ひとりが頑張っても仕方ない」 と思ってこれまでの生活態度を変えようとしないのが大半だ。 私だって、ついつい近所のスーパーに車で・・。 さらには 「みんながしてくれるんなら、自分くらいはしなくても大丈夫だ」 なんて、信じられないような発想のできる人間までいる。 どちらでもいい、となると、楽なほうを選びたいのが人間である。 だから、国家は大きなビジョンを示して、やるときはやらないと駄目だ。 ・レジ袋は来月から50円にする。 ・食堂などの割り箸も50円にする。 ・リサイクルできない容器には、300%くらいの税金をかける。 ・また容器のリサイクル度によって税金をかける。 ・小売店にはリサイクル容器の回収を義務付け、販売量から回収量を引いて、その差額はペナルティとして罰金を払う。 ・アイドリングを禁止する ・渋滞地域に車を乗り入れると、渋滞税を徴収する。 などなど・・・。 すでに諸外国では同様のことが実施されているらしい。 なぜ日本ではできないのか? 業界の反対、国民の反対・・・・。 レジ袋の会社にとっては死活問題だ。 確かに分かる。 みんなが納得するまで時間を掛けて調整するのは日本のいいところではあるが、そんなんじゃ間に合わない。 強引に靖国神社に参拝するくらいなら、環境にいいいことをを強引にやって欲しかった。 日本の技術力と、日本人の知的レベルと、日本人のモラルの高さを全世界に示すいいチャンスなのだと思う。 二十一世紀的国家を目指すなら、国家プロジェクトとして「地球環境」への貢献を行なって欲しいものだ。 少なくとも私は協力する用意がある。 なんて、ちょっと偉そうだけど、そう思ってる人って実は結構多いんじゃないかと思う。 自分じゃできないけど、旗を振ってくれたら、ちょっと嫌そうな顔をしつつもついて行く、というのも日本人というものだ。 きっとレジ袋が来月から100円になっても、日本人の90パーセントは怒らない。 「やっぱりそうだよね」 みんなが100円で買うのなら納得してしまう。 そう思いませんか?
2006/09/03
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人の苦労よりも自分の苦労のほうが多いと思う。 人よりも自分の方が不運だと思う。 人のことを分かる以上に、自分のことをわかって欲しい。 幸運は自分の努力の結果で、不運は人のせいだと思う。 自分は正当な評価を受けていないと思う。 長所は自分の努力、欠点は親のせいだと思う。 人からもらったものは小さく、自分の与えたものは大きく評価する。 それが人間というものだ。 人間は常に自分に都合のいいように解釈する。 自分の努力、自分の能力、自分の不運は過大に評価し、 人の努力、人の能力、人の不運は過小に評価したがる。 そんな人間どうしが集まっていきていくのだからストレスが溜まるわけである。 みんなが不満をいっぱい抱えながら生きているのだ。 でも、人間はそれではいけないことを知っている。 だから悩む。 人間の思いが逆だったら、ぜんぜん違う世の中になっているだろう。 自分の苦労よりも人の苦労の方が多い。 人よりも自分は幸運だ。 自分のことを分かってもらう以上に、人のことを分かりたい。 幸運は周囲のおかげで、不運は自分のせい。 自分は能力以上に評価されている。 長所は親のおかげ、短所は自分が克服すべき。 人からもらったものは大きく、自分の与えたものは小さく評価する。 とみんながそうだったら人間関係のストレスはたまらないんだろうね。 でも、人間関係のストレスは無くても、自分に厳しすぎてノイローゼになってしまうかもしれない。 こななとき、「にんげんだもの」という言葉が有効だ。 苦しいとき、つらいとき、挫折したとき。 人のせいにすれば、それはそれで楽なのかもしれないけど、それができない人のためのことば。 苦しさとか挫折感とか、無力感とか、そういったものを一旦自分の中に受け入れるための言葉が 「にんげんだもの」だ。 そこから、また頑張れるのも人間というものだ。 「にんげんだもの」はレベルが高い。 だから、人に迷惑を掛けても何も思わないような人間が「にんげんだもの」と言ってはいかん。 やたら「無理」「ありえない」のハードルが低い人たちも「にんげんだもの」と言ってはいかん。 使い方を間違っている。 そういう人は 「どうぶつだもの」 というべきだ。 人間は自分が一番可愛い。 これは動物でも一緒だから、このレベルは「どうぶつだもの」だ。 ここから、いろいろ悩みはじめる。 自分のエゴで人を傷つけてしまった、とか。 なぜあそこで、彼を助けられなかったのか、とか。 これこそが、人間の悩みなのだ。 自分が一番可愛いけれども、人の役にも立ちたい、喜んでほしい・・・・。 そこで、人間の悩みが始まる。 自分の持っているパンを、目の前の飢えた人に与えるべきか・・・。 答えなんてないけど、きっと悩む。 それが人間の悩みなのだと思う。 「にんげんだもの」と「どうぶつだもの」 これを混同してはいけない。 ※「にんげんだもの」は、相田みつをさんの、超有名な詩集のタイトル。
2006/08/23
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時代の流れが早くなった。 科学技術はドンドンと進歩し、それにともなって私たちの暮らしも加速度的に変化してきた。 日進月歩。 日々の暮らしは快適になり、居ながらにして世界中の情報が手に入る。 人間は一度手に入れた快適を簡単には手放そうとしない。 快適さは麻薬と同じだ。 手放そうとしないというより、手放せなくなるのである。 エアコンのある暮らしに慣れれば、エアコンのない暮らしは「不幸」になる。 しかし、エアコンのない時代に生まれた人は、エアコンが無いという理由で不幸になることは絶対になかった。 人間の暮らしが快適になり、物質的に豊になっていくということは、見方を変えれば、不幸になる種を蓄えているということでもある。 子どものころから金持ちの家庭に育ち、何不自由なく成長し、欲しいものはなんでも与えられてきたとする。 両親は子ども達を幸せにしたと思っているかもしれない。 でも、本当は違う。 失うものをいっぱい持たされた不幸な人間を作っただけではないだろうか?。 しかも自分で手に入れたものではない。 彼は、自分の持たされたものを失うたびに「不幸」を感じていく。 若いころからたくさんのものを持っているということは、失う危険性が高いわけで、完全は不幸予備軍である。 「3丁目の夕日」が希望に溢れているのは「持っていないから」であり、「手に入れる喜び」「目標」があったからだ。 が、結局物質的な豊かさと引替えに、日本人は不幸の種を手に入れてしまった。 大事なのはやっぱり「足るを知る」という心の問題なのだ。 しあわせ は いつも じぶんの こころ がきめる 相田みつをさんの有名な言葉だが、結局そういうことだ。 なにに幸せを感じ、なにに不幸を感じるか、それは自分自身の問題なのである。 自分の心が、自分に心に試されている。 そんな気がする。
2006/07/31
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昨日の夜、12時頃だと思うが、一通りニュース番組が終わったあと始まる番組の中身の無さにはちょっとうんざり。 そして昨日はNHKに辿り着いた。 深夜なのできっと再放送だったのだと思うが、タイトルは NHKスペシャル「ワーキングプア 働いても働いても豊かになれない」 ワーキングプアとは、働いているにも関わらず、生活保護の基準さえ下回る収入しか得られない貧困層のことらしい。 ・30歳を越えて田舎から上京。ホームレスをしつつ仕事を探す若者。 ・僻地の集落で、4世代10人が農業で生計をたてる大家族。米の価格の下落などで経費を引くと農業は赤字になってしまう。 ・経済が荒廃した街で仕立て屋を営む70歳の男性。年金は妻の入院費に消えてしまうが、仕事はほとんどない。収入は年間20数万円。 ・リストラのため職を失い、アルバイトで稼ぐ中年男性。年収600万から200万に減少。子ども達はまだ小さいが、塾に通わせる金も当然ない。 ・両親の離婚、貧乏、母の家出のため、まともな勉強もできず、その日暮らしを余儀なくされた30代の男性。 これらのケースを検証しながら、番組は社会の歪を浮き彫りにしていく。 もちろん番組なのだから、ある程度意図的に構成されたものには違いない。 が、それぞれのケースが日本の抱える大きな問題を提起していることは間違いない。 番組を見ながら、政治の責任とは何なのだろう?と考えさせられた。 政治を大きな役割に「富の再分配」がある。 税金をいう形で集めた富をどういう風に分配するかを決め、実行することだ。 これによって国家の方向性は大きく変わってくる。 この番組の中でクローズアップした問題点。 ・親の貧困が、子どもの教育機会を奪うことになり、格差が階級に変わり、固定化する。 ・兼業する仕事の少ない農村が放棄され、日本の食料自給力はどんどん低下している。 ・頑張って生きてきたにも関わらず、安心した老後が手に入らない。 日本人の働く意欲を最大限に引き出し、安心して暮らせる社会にしていくためには、どのような富の分配がふさわしいのだろうか? 社会保障費をどんどん増やせばいいという単純なものでないことは明らかだ。 一方、ハリーポッターの翻訳者が30数億円の脱税。 税率の高い日本からスイスに居を移し、税金を逃れていたという報道。 日本で稼ぎながら、日本には税金を払いたくないという身勝手さに腹がたって仕方がない。 夢と希望を子ども達に与えるべき物語の翻訳者にしてこのザマである。 社会を変えるには、必ず抵抗勢力があるし、抜け道を考える人間も出る。 口で言うほど簡単なことでないことだけは間違いない。
2006/07/26
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誕生日には祝ってもらうものだと誰もが思っている。 子ども達も、誕生日にはなにかプレゼントをもらうのを当たり前だと思っている。 でも本当にそれは正しいことなのだろうか? 「あんたらね、誕生日いうのは、生んでくれたおかあさんに感謝するもんなんじゃけえね。知っとるん?」 (あなたたち、誕生日というのは、生んでくれたおかあさんに感謝するものなのよ、わかってるの?) と、昔私の子どもがお世話になった、「ビーバースカウト(ボーイスカウトの年少版)」の隊長さんが言っていた。 それをきいた瞬間、私は思わず手を打った。 ぽん。 ----------------------------------------------------------------------------- そうだよね。 自分が生まれてきたときに苦労したのは、自分じゃなくて母親なんだよね。 自分が生まれて、一番喜んだのはお母さんなんだよ。 一歳になったとき、一番喜んだのもお母さん。 それから一年一年、年を重ねて、成長していくけど、その間一番苦労したのもやっぱりお母さん。 だから、誕生日というのは、間違いなく、お母さんに感謝すべき日なんだ。 頑張って生んでくれて、それから自分を育ててくれた。 だからお母さんにプレゼントをしないと・・・。 でも、お母さんはプレゼントなんて望んでいない。 なぜなら、プレゼントをもらうために育ててきたんじゃないから。 恩返しの方法は一つだけ。 ちゃんとした大人になること。 そのとき初めてお母さんは 「生んでよかった」と思うんだ。 誕生日というのは、自分が生まれた日じゃなくて、お母さんが自分を生んでくれた日だから、 間違いなく、この日の主役はお母さんなのだ。
2006/07/21
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「そんなに自分の思うようにしたいんなら、無人島で暮らしんさい(暮らしなさいの広島弁)。」 と、私の子どもがお世話になったボーイスカウトの隊長は、子ども達によく言っていた。 ボーイスカウトといっても、小学校の低学年で、「ビーバースカウト」というクラスた。 子どもは言う事をきかない。 そこで、隊長はそう言うのだが、実際にはそれで言う事をきく程、子どもたちも甘くはない。 「言う事をきかないと、弁当を食べさせない。」 このほうが直接的で確かに即効性がある。 ただ、自分の思うようにしたいのなら無人島に行け、という言葉が僕の心の中にずっと残った。 この言葉は物事の本質を見事に捕らえていると思ったからだ。 無人島なら自分の好きなようにすればいい。 誰にも文句は言われない。 ただし、食料も寝る場所も自分が見つけなければならない。 すべて自分の責任だ。 守ってくれる人もいない。 傷つけることもなければ、傷つくこともない。 そこにもう一人登場したらどうだろう? 家を作るにしろ、狩をするにしろ、二人のほうが効率がよいことは多い。 そしてなにより、コミュニケーションというものが生まれる。 一人では決して得られないものがそこにはある。 相手が喜んだということが嬉しいと感じる。 出かけたまま帰ってこなければ心配になる。 喜び、怒り、悲しみ、楽しみ。 これはきっと、自分以外の人がいるからこそ生まれるものなのだと思う。 動物的な意味での喜怒哀楽はもちろん無人島にもあるだろうが、人間らしい喜怒哀楽は一人では生まれない。 「自分のしたいようにする」ということそのものが、一人では意味がないのである。 わがままを通すにも、通す相手があってこそ意味がある。 人間は人間の中でこそ人間なのである。 だから、えらそうなことを言ってはいかん! 自分がどんなにお金持ちでも、 自分がどんなに頭がよくても、 自分がどんなに美貌に恵まれていても、 それに意味があるのは、自分以外の人がいるからなのですから。 そういうことを鼻にかけた人は無人島で暮らしなさい。
2006/07/19
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少子化問題は国家の根幹に関わる問題であることは間違いない。 先日見たテレビでは、 女性が求める結婚相手の年収は? という街頭インタビューがされていた。 結論からいうと、ほとんどの女性が600万以上という希望らしい。 が、20代で年収600万を越える男性はやはりかなり恵まれた少数の人間に限られる。 親に甘やかされて育った女性達は、独身時代にゼイタク度をエスカレートさせ、その流れのまま結婚に突入しようという魂胆らしい。 が、現実はそんなに甘くない。 結婚して、旦那の給料だけで無理なくやっていける年収、となると600万以上ということになるのだろう。 女性達は一生懸命相手を探すが、なかなか好条件の相手も見つからない。 となると、独身のまま年を取る。 さらに条件は厳しくなる。600万は700万、800万と希望がどんどん大きくなる。 男は男で自信をなくしている。 結婚しても彼女の今の生活レベルを維持させることができない。 かといって、「5年後には楽にしてやる!」なんてガッツもない。 特に若い間は男女間の給与格差もないので、しばしば彼女の方が高給取りなんてことになる。 「二人で力を合わせて頑張ろう!」という美しいカップルも少ないようだ。 そして、世の中には未婚の男女溢れてしまうのである。 今の若者達にははっきりと未来像が見えている。 結婚で生活レベルが第一次低下。 その後出産とともに段階的に生活レベルさらに低下。 耐えられない! そんなことになるのなら独身のほうがましだ。 そう思ってしまうのだ。 それなら、「結婚したほうがましだ!」と思わせればいいのだはないか? たとえば、独身者には4割くらい課税する。 アルバイト賃にも一律3割を税金で控除する。 結婚すると税率は少し減るが、それでもまだ高くする。 そこから、子どもが増えるたびにダイナミックに税率が下がり、3人目になると逆に手当てががっぽり。 4人目になると奥様は働く必要もない。 このくらいしないと効果はない。 児童手当をちょこっと上げたり、延長したりしてもぜんぜん意味がない。 もらう人は嬉しいに違いないが、それで子どもを増やそうという人は絶対いない。 もっとダイナミックに、もっと抜本的な改革が必要だ。 どこから税金をとって、どこに配分するのか。 毎年大きくなる「おみこし」を、年々少なくなる担ぎ手が担ぐという状況なのである。 担ぎ手が増えない場合は、一人一人の筋肉増強で対応せざるを得ない。 このままでは担ぎ手がおみこしに押しつぶされてしまう日は近い! 無茶苦茶なようだが、我ながら結構筋の通った説得力のある話だと思うのだが・・・。
2006/06/29
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どうも気になることがある。 瓶のことである。 ジャムの入っていた瓶。 岩ノリの入っていた瓶。 プリンの入っていた瓶。 いろいろ瓶があるのだが、どれもそのままの形でリサイクルされるものは少ないようだ。 一応分別の対象になっているので、溶かしなおしてもう一度瓶になっているのかもしれないが、どう考えても無駄である。 洗えば使えるはずなのだ。 瓶に限ったことではないが、規格を統一するということは再利用の近道だ。 リサイクルといえば、溶かして再生、とか、なにかしら別にエネルギーを掛けて素材を再利用するケースが多いが、規格化されたものであれば、そのままの形で再利用が可能になるケースも増えてくる。 「容器」については、ガラスに限らず、根本的な見直しが必要だ。 大切なのは中身の方で、中身がなくなれば入らなくなるのが「容器」である。 お菓子の包装袋も広い意味では「容器」に違いない。 昔、たこ焼きを買うと、古新聞で包んでくれる店があった。 たこ焼きに限らず、新聞紙をいうのは「包装紙」として再利用されてきた。 新聞紙というものから、「包装紙」に再生するためのコストはほとんどゼロに近い。 リサイクルというと文句なしにいいものだと思い込んでしまうが、リサイクルにも自然への「負荷」はかかる。 古新聞を溶かして、再度紙にするよりも、たこ焼きを包んでしまうほうがより地球に優しい。 再生紙は確かに原料こそリサイクルだが、生産するための電力などはすべて同じように必要だ。 ひょっとすると、選別だとかの手間がかかる分、かえってコストが発生している場合も多かったりする。 仮にリサイクル率が100%になれば、自然への負荷が全くかからないかというと大間違いである。 再生するためには、やはりそこにエネルギーが必要になるので、電力も消費すれば排水も流されることになる。 環境問題の3R(スリーアール)といえば ・リデュース 廃棄物の発生の抑制 ・リユース 再利用 ・リサイクル 再資源化 である。 各官庁もそれぞれPRはしているのだろうが、どう考えても本気とは思えない。 結局、ゴミの問題は「地方」の問題だからだろうか? 本気であれば、それなりの法整備や税金のかけかたに知恵が必要だ。 ゴミ問題はどうも地方自治体まかせで、国の真剣味が足らないように思う。 ゴミ問題は、消費者の問題以上にメーカーの問題が大きい。 消費者は否応なく「ゴミ」を含めて買わざるを得ない。 いっそのこと、「ゴミ」予備軍たる「包装・容器」には税金をかけてしまえばいいと思う。 そうすれば過剰な包装も減り、消費者の意識も変わってくるはずだ。 こういうことは地方自治体ではできない。 大きな方向性を示し、その方向性に向かって国民を導くのは政治の役目である。 先見性、実行力、使命感。 政治家に必要なのはこれだ。 日本がこんなことになってしまったのは、政治家の「先見性」がなかったからである。 国民なんて結局目先のことしか見えてない。 いや、見えている人は確かにいるのだが、常に少数派だ。 環境問題についての対応を見てみると分かる。 確かに環境問題に多少の関心はあっても、とりあえず暑いからクーラーをつける。 とりあえずしんどいからコンビニに車で行く。 それが私も含めて、一般人というものだ。 一般大衆が本気で気付くときには、たいていの場合「手遅れ」になっている。 ノアの方舟と一緒である。 割り箸が100円なら使わない。 レジ袋が50円ならもらわない。 30センチ以上の長さの粗大ゴミに課金されるとなれば、一所懸命のこぎりで切る。 それが一般大衆というものだ。 結局、目先の損得が人間を動かすのである。 悲しいことではあるが・・・・。
2006/06/20
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7日夜、杉山清貴の「アコースティクソロコンサート」に行ってきた。 例によりまして、奥様と二人で出かけたのだが、はっきりいってかなりよかった。 是非皆様にお勧めしたい。 なにしろ、一人で、ギター1本の弾き語り。 これぞ、究極のローコストツアー。 ギター1本、体一つで日本中を回る。 半年前くらいに行った浜田省吾のコンサートは、7000人くらい入る会場が3日間満員になり、機材は大型トラック10数台という途方もない規模であったが、それと比べるとなんとも身軽だ。 20年前には、杉山清貴とオメガトライブで一世を風靡し、ヒット曲を連発。 相当な勢いであったが、正直なところ、「今は昔」という感じがして残念ではある。 会場は広島パルコ内にある「クラブクアトロ」 普段は椅子なんかなしで、総立ちのライブハウスらしいが、なにしろ客の年齢層と客数の兼ね合いもあり、椅子席。 観客数は約150くらい。 客層は30代後半から40代。 女性が7割以上。 浜田省吾のコンサートよりは平均年齢は5歳くらい若いような感じだ。 浜省は53歳で、杉山清貴が47歳であるから、ほぼその年齢の違いなのだろう。 私が杉山清貴の大ファンかというとそうでもない。 このコンサートも、うちの奥様から 「杉山清貴(我が家では「清ちゃん」と呼ぶが)のコンサートがあるらしいんじゃけど、行く?」 と言われ、 「ほんじゃ、行ってみるか」 ということで、特別な積極的理由はなく、かといって断る理由もなかったから行くことにした程度だ。 ただ、オメガトライブを解散したあとも、あの透明感のある歌声とさわやかな雰囲気が好きで、レンタルDCを借りてたまに聞いてはいた。 特に夏にはぴったりだ。 しかし、いつアルバムを出して、いつシングルを出したか、 今聞いているアルバムが一体いつリリースされたものかさえ知らない。 その程度のファンである。 コンサートに行くことを決めたので、予習をしなければとレンタルレコード屋に行くと、ワゴンの中で杉山清貴のアルバムを発見。 なんと、1枚100円。 おそらく「コーナー」がなくなって処分されたものなのだろう。 ちょっと悲しい気分にもなったが、掘り出し物だ。 思わず、5枚買った。 かつては夏といえば、チューブという声もあったが、どうも私には暑苦しい。 チューブのファンの方には申し訳ないが、「日本の夏」という感じで、汗ばんでねっとりとした印象だ。 その点、杉山清貴の曲はさわやかで、「ハワイ」な感じ。 ま、これは私の個人的な意見だからあまり気にしないでほしい。 アロハシャツに短パン。サンダル履きにサングラスで登場するものだと思っていた私の想像は見事に裏切られた。 なにしろ、動く杉山清貴を見るのは20年ぶりである。 私の印象はスリムで若々しい20代の彼なのだが、目の前に登場したのは47歳のおじさんであった。 サングラスはしていない。 ジーンズにスポーツシューズ。 普通のシャツで特に海をイメージできる恰好でもない。 顔も少し丸くなり、シャープな印象はない。 ま、おじさんという感じだ。 でも、それが私にとっては好感が持てた。 不要な気負いとかプライドとかをいい意味で脱ぎ捨てた自然体。 語り口にも気どりがなく、楽しい。 それでいて声の透明感と力強さは昔のままだ。 アコースティックということもあり、総立ちで大騒ぎといった盛り上がりはないが、曲と話をじっくりきけてとても充実した時間だった。 いやー、ほんとによかった。 本来、それほどのファンではなかったのだが、もっともっと応援したい気持ちになったコンサートである。
2006/06/08
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日曜日、何気なくテレビを見ていると、突然「環境宣言」とかいって、環境についての特集番組が始まった。 日曜の午後というのは見る人も少ないのか、スポーツ系の番組ばかりになる。 競馬、ゴルフ、野球中継・・・。 買い物から帰ってなにげなくテレビをつけると、突然の「地球温暖化」問題。 当然番組表には載っていたはずだが、ノーマークであった。 パーソナリティーは青木さやかと雅楽の東儀秀樹の二人。 人選の意図は不明だが、内容的には非常に興味深く、分かりやすいものだった。 その中で、特に印象に残ったのは、スェーデン人環境コンサルタントの言葉。 「地球には【地上地下のルール】というのがあります。」 細部はうろ覚えだが、話の内容は 地上で生まれたものは、自然の循環の中にあるので、生態系を乱さず、環境の永続性の妨げにはならないが、地下のものを掘り出して地上に持ってくると循環が崩れ自然が破壊される というものだ。 これは非常に分かりやすい定義の仕方である。 地下のもの、即ち、石炭、石油、天然ガスなどの燃料、さらに、そこから作られる樹脂類。 大きな意味では、鉄やアルミなどの金属も「地下」のものだ。 地下から掘り出されたものを使わないようにする、という「選択の基準」を持つことが大切だと彼は訴える。 買い物をするときには、包装の少ないものを選ぶ。 さらに、産地の近いものを選ぶ。 産地が近いほど、輸送のためのエネルギーを使っていない、ということらしい。 目の前に並ぶ商品だけでなく、その背景までしっかりと考慮に入れた選択の基準は説得力がある。 私はネット販売で屋外用木製品を販売するネットショップの店長もやっているので、少々耳が痛い。 木は確かに自然素材であり、地上のモノであるが、それを運ぶ際には「地下」から掘り出したエネルギーを使わざるを得ない。 カナダからレッドシダーを運ぶのにもエネルギーが必要だ。 意識するかしないかの違いだけで、人間は「地下」のお世話になっている。 ただ、意識しなければ変えようもないが、意識すれば変える事ができる。 自分の身の回りにあるもの、自分の生活を見つめなおして見ることから「環境」の問題は始まる。 「意識」することが大切だ。 一人一人が少しずつ環境を意識して暮らせば、それが大きな力になるのだろう。 目の前のあるもの、一度分類してみるといい。 意識して身の回りのものを見てみる。 地上のものか、地下のものか。 ポリエステルのシャツは地下。 綿の下着は地上。 今叩いてるキーボードはプラスチックだから地下。 パソコンの画面もそう。 画面がのっている机は木なので地上だが、それを支える脚は鉄なので地下。 書類を置いているトレーも樹脂。 コピー用紙は地上。 ゴミ箱、コピー機、引き出し、バインダー すべて樹脂。 壁はビニールクロス。 窓際にはブラインドがあるが、これも「地上」ではない。 こうしてみると、人類は「地下」から掘り出したものに囲まれて暮らしているのがわかる。 この便利な生活から「地下」のものをどうやって減らしていくのか。 とりあえず、「意識」して暮らし始めることから始めるしかないようだ。
2006/06/05
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写真の切り株は、私が森の中で携帯カメラでとったものです。 杉の木で、年輪の数を数えたら40くらいありますので、樹齢40年。 中心が右側に寄っていますので、左側が南向きで日当たりのいい方向、右側は北だと予測できます。 直径は30センチよりも少し小さいくらいだったと思います。(測らなかったのですみません) さて、本題です。 中心よりの部分と外側の部分で明らかに色が変わる部分があるのが分かると思います。 中心よりの部分は一般的に赤いので、「心材部」「赤味・赤身(アカミ)」と呼びます。 一方、外側よりの白っぽい部分は「辺材部」「白太(シラタ)」と呼びます。 これは基本的にすべての木にあるものですが、木の種類によって境目にはっきりしたものと不明瞭なものとがるので、区別のつきにくい場合もありますが・・・。 実は、この部分、色の違い以上に決定的な違いがあります。 やや、なんだか専門的な話になりそう・・・・、と思っても、ここでやめないでください。 日常的に使う木の話ですから、知っていても損はしませんし、知らないと損をする可能性もあります。 白太は現在成長中の、いわば若々しい部分です。 水分や栄養がガンガン移動して木を成長させます。 一方赤味部分は、「仮死状態」の部分で、すでに活動もせず、ご隠居状態。 ご隠居と仮死を一緒にしちゃ、まずかったですか? 確かにまずいですね。 でも、実は木の価値は、このご隠居の方にあるのです! 実は、木を腐りにくくさせる成分とか、虫に強くなる成分、殺菌作用とかいったものは、この赤味にしか存在しません。 活動をやめて、現役をリタイヤしたときに初めて得られるものなのです。 シラタなんぞ、「まだまだ若い!」と一喝できるくらい違います。 なので、いくら「桧」が水に強いといっても、シラタの部分では意味がないのです。 さて、この写真。 芯に近い黒っぽい部分にはカビが全く生えていないのに、周辺の白い部分には緑のカビが生えています。 カビかコケかは分かりませんが、このくらい違います。 このまま行くと、周囲の白い部分は様々な菌類の攻撃を受けて、ほどなく腐るでしょうが、中心の赤い部分はそれよりも相当長く残るものと思われます。 特に木を屋外に使用する場合には、木の種類とともに、この「シラタ」「アカミ」にも注意しましょう。
2006/05/24
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GWの終盤、6日に近所の山に登ってきた。「野貝原山」という700Mあまりの山である。実はこの山、かつては「のう●高原」というリゾート施設が山頂にあり、「の●が高原ピラミッド」として巨石群がテレビでも取り上げられたことがある知る人ぞ知る山である。現在はというと、リゾート施設は倒産し、山頂へ上がるアスファルトの道は閉鎖。ふもとからは廃墟となった山頂のホテルが見えるだけだ。その廃墟となったホテルには「大展望岩風呂」があり、宮島を含む瀬戸内海を一望できた。湯船につかりつつ、瀬戸内海の絶景を見下ろすというなんともド迫力な風呂だ。が、残念なことに、そういう風呂に入りたい年頃になった時にはすでに倒産していたので、私自身は入ったことはない。この山はもともと町の所有であったものを、リゾート開発を条件に「開発会社」に売り渡したものらしい。町民がどんどん利用できて、なおかつ観光で町が潤う、という皮算用だったのだろう。結果として開発会社は倒産し、町には山を買い戻す力もなく、うわさによれば宗教団体に買い取られて「墓地」になりかけたところを住民の反対運動によって阻止し、閉鎖されたままの廃墟が残った。町民(現在は市民)の財産にはバリケードが張られたままである。私が卒業した宮内小学校の校歌にもこの山の名が出てくる。しかも、歌い出しがこの山の名前だ。雪積もる野貝高原いにしえは、いかにかありしふるさとの山の命よ春を待つ こころの如く・・・・。という校歌で、きっと今でも歌われているの違いない。いにしえの様子はともかく、今は廃墟の山になってしまった。私が小学生だったころに開校100年を迎えたので、校歌も相当昔に作られたのだと思う。そのとき、誰が現在の状態を想像しただろうか。悲しいことである。確かに「山」には所有者があり、個人のものかもしれない。しかし、その山を見つつ育った人間にとっては、その風景そのものが「財産」なのである。この山は山陽道を通るときに簡単に見ることができる。高速道路を広島から西に向かって最初のパーキングである、「宮島サービスエリア」から、山側を見ると山頂に廃墟となったホテルを見ることができる。宮島サービスエリアは少し高い位置にあり、瀬戸内海が見渡せるため、誰もが海の方にばかり気をとられてほとんど廃墟の山には気付かない。で、その山に登ってきた。所有者のいる山であるから、厳密には不法侵入になるのだろうか・・・。山に線が引っ張ってあるわけではないし、万が一見つかったら迷った振りをしよう、ということで、明石という地区から昔の登山道を登ることにした。同行者なし。うちの奥様がついてこようとしたが、何しろ「不法侵入」くさい、閉鎖中の山であるので、「もし、わしに万が一のことがあったら大変だからお前は残れ」と悲壮な決意でもって奥様に告げた。続く。
2006/05/11
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「愛国」 なんだか、右翼の街宣カーの看板を思わせることばだ。 確かに「戦争」へのイメージと直結しており、アレルギー反応を起こす人も多いに違いない。 教育基本法では「愛国心」という言葉をめぐっていろいろ議論されたらしいが、結局 「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」 という表現になる方向らしい。 「愛」という言葉はなんとも美しい言葉ではあるが、その中に「自己犠牲」が見え隠れする言葉でもある。 逆に、自己犠牲を伴うから美しいともいえる。 「愛してる」といえば、その裏返しに「そのために僕はこれだけのことができる!」という部分が必要になる。 どれだけ自分を犠牲にできるかで「測られてしまう」のが「愛」なのである。 だからこそ「自発的」でなければならないのだ。 「愛」は軽々しく扱うものではないし、ましてや人にどうこう言われるべきものではない。 愛社精神、といえば結局「会社のために」ということだし、愛国心というのも「国のために」ということになる。 「きさまには愛国心がないのか!」 戦争映画で上官が兵隊を殴りつつこう叫ぶ。 「愛国心」という美しいことばで、「自己犠牲」の無理強いをしているだけだ。 愛というものは本来、各自の心の中に自発的に芽生えるべきものであって、他人が強要するものではない。 私の個人的な意見としては、「愛国心」を教育基本法にうたうこと自体はいかがなものかと思う。 ただ、一人一人の心の中にある「愛国心」を否定するつもりはぜんぜんないし、逆に「愛国心」が持てるということばすばらしいと思う。 大事なのはそれが強要されたり、洗脳の結果でないことだ。 私は「自発的」意志を尊重したいのである。 「国」という言葉も曖昧なことばだ。 日本という国は単なる「行政単位」に過ぎない。 その意味では、「広島県」でも「東京都」でも同じだ。 オリンピックで日本を応援して熱狂した人が、「甲子園」では出身県の代表の活躍に興奮する。 どこが違うのだろう? 大学時代の専攻は、「国際関係論」だった。 ゼミの先生は「ソ連」の専門で、外書講読のテーマが「エスニック」。 国家をいう行政の枠組みと、エスニックという「民族」あるいは「血」という内在的帰属意識との対立を解説した内容だったと思う。 本来人間は、国家という人間がつくった枠組みではなく、過去からずっと繋がってきた「血」とか「ルーツ」というもののほうが大切なのではないだろうか。 自分が今生きているということは、過去からずっと繋がってきた血の流れがあるはずである。 父母がいて、祖父母が4人。さらにその祖父母にも父母がいて・・・・・。 果てしなく過去に繋がっている。 逆に言えば、過去から果てしなく積みあがってできているのが「現在」であり、今生きている「私たち」ということになる。 そう考えると、「国」という行政単位とは違う、自ずからそうなるべくしてできた「日本」「日本人」というものの意味もみえてくる。 日本という国、そして日本人というものは私たちが作り上げたものではなく、過去からずっと積み上げられてできたものなのである。 年表に出てくるものだけが歴史ではない。 名もなき多くの人々がいて今の「日本」がある。 過去に対する敬意、未来に対する責任。 過去と未来の間にいるものとして一体なにができるのだろうか? 愛国心というのは結局そういう気持ちなのではないかと思う。 それは戦闘機で敵艦に突っ込むことを強制されることではなく、一人一人が自分の立場で自分にできることを考えることだ。 過去と未来の間。 両親と子ども達との間。 過去への敬意。未来への責任。 今の日本人が失っているものの本質はこれなのだと思う。
2006/04/21
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遅ればせながら、「ALWAYS 三丁目の夕日」を見てきました。 先週の日曜日、私の奥様と二人で見に行ったわけですが、やはり50代くらいの人が多かったですね。 ノスタルジーでしょうか。 リバイバルの短期上映ですが、賞を総なめした映画ということで、結構お客さん入ってました。 ------------------------------------------- 時代は昭和33年。 私が36年生まれなので、私が生まれる前の話だ。 おそらく泣いてしまうんだろうな、と思って行ったが、やっぱり泣けた。 確かにいい映画なのである。 そして、あの時代の空気がいい。 戦争が終わって13年。 日本人は焼け跡の中から確かに立ち上がった。 この上ない挫折と、失意のどん底から這い上がってきた時代だ。 やはり、日本人というのは強く、偉い民族だとつくづく思う。 果たして今、同じ敗戦時と同じ状況になったら、日本は立ち上がることができるだろうか? はなはだ疑問である。 さて、今は苦しくとも、自分の未来には必ず幸せがあると実感できた時代なのだろう。 焼け跡に安普請の住居が立ち並んで行き、ビルが建ち、車が走り、そして最大の象徴が「東京タワー」の建設だ。 「ここまできたぞ」 誰もが深い感慨を持って見ていたに違いない。 映画に登場する子ども達がまさしく「団塊の世代」の方々ということになる。 夢と希望に満ち溢れた、古きよき時代。 誰もが感受性豊かに喜怒哀楽をストレートに表現できた時代。 テレビが来たといっては大騒ぎ。 どんなものでも素直に受け入れて喜ぶことのできた時代なのだ。 一つのシュークリームでも幸せになれる。 そういう素直な人たちの話を見ていると、泣けてしまうのだ。 うちの親父が時々話す。 もう50年近くも前の結婚したころの話だ。 それはまさしく「三丁目の夕日」の時代である。 4畳半一間、共同台所に共同トイレというアパートで暮らし始めて、何もない部屋。 みかん箱がテーブル代わりだったらしい。 そこから一つずつものが増えていった。 テレビが来た、冷蔵庫が来た、洗濯機がきた。 車が買えた、家が買えた・・・・。 そしていつの間にか、 「なのも持っていなかったから、何でも喜べた」時代から 「手に入れてしまったから、何にも喜べない」時代になってしまった。 日本は確かに豊かになった。 でも、豊かさを測る物差しが「物」だけになってしまったのも事実である。 それは結局底なし沼だ。 物は所詮「物」であって、それ自体が人を幸せにするわけではない。 ましてや、金額の大きさで幸せの量が決まるものでもないはずだ。 人より高い服を着て、大きな家に住んで、目の玉が飛び出るような値段の宝石を身に着けても、それだけで幸せになれるわけがない。 「いい服ですね」「大きな家ですね」「きれいな宝石ですね」 周囲はそう評価してくれるから「幸せ」な気分になったような気がするだけだ。 結局、お金や物は相対的な幸せしか生まない。 人よりたくさん、人よりいいものを持っていることが幸せの基準になってしまう。 結局、幸せは自分のこころの中にあって、人と比べるものでもない。 フォアグラを食べる幸せと、お茶漬けを食べる幸せ。 どちらがより幸せなのか? それは結局本人が決めること。 お金はあっても誇りがない。 そんな時代になってしまったようだ。 あの頃はよかった。 おそらく、映画を見に来たほとんどの人がそう思ってみていたのだろう。 空っぽの貯金箱をいっぱいにするという夢があった。 でも、いつしか貯金箱はいっぱいになり、守るものだけが増えた。 映画のラストシーン。 真っ赤な夕焼けに東京タワー。 あの時代の家族が夕日を見ながら語りあう。 「きれいだね、明日もきれいかな」 「50年後だってきれいだよ」 確かに夕日の美しさはあの頃のままだ。 でもきっと、夕日を見る人の心は変わってしまった。 「あの頃はよかった。」 といっても、もう誰もあの頃には戻れない。
2006/04/05
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川崎市の、小学生転落事件の容疑者として、41歳の男性が逮捕された。 その人物像が分かってくるにつれ、なんともやりきれない気持ちになってきた。 被害者の小学生や、そのご家族にとってはこの上ない悲しい出来事であるのは間違いない。 が、その一方で、加害者にも家族がある。 ごく普通の家族で、子どもが3人いるという。 加害者の男はどんな過酷な裁きを受けても仕方ないが、その家族の行く末を思うと辛すぎる。 41歳。 元カーテン屋の店長。 仕事熱心で、腰が低く、人当たりもよい。 という犯人の人物像を朝日新聞の記事で読んだとき、これはまさしく「私」であってもおかしくないという気がした。 私であってもおかしくないし、会社の同僚でも、隣の人でもおかしくない。 そんなごく普通の人。 容疑者の家族は、警察の家宅捜索まで知らなかったという。 犯人の家族も寝耳に水、というよりも、寝ている間に火の中に放り込まれた以上の衝撃を受けたに違いない。 一生背負わないといけない苦悩や、周囲の偏見。それはまさしく生き地獄だ。 突然子どもを失った親の悲しみも耐えがたいに違いないが、犯人の家族の苦悩とは明らかに質が違う。 決して前向きな気持ちで解決できる類の苦しみではない。 加害者の家族は明らかに「被害者」なのである。 なぜこの男は、家族を地獄のどん底に突き落とすようなことをしてしまったのか? ニュースによれば、昨年の2月から急に勤務態度が悪くなり、無断欠勤を切り返した上、依願退職。 あるいはリストラ。 41歳である。 この男におかしな部分があったのだとすれば、もっと早い段階で表面化していてもいいような気がするが、今のところそういう事実は出てきていないようだ。 妻と3人の子どもがいる普通の家族をもった普通の男。 高校を卒業してから、職業がいくつか変わったにしろ、まじめに生きてきた男。 「人が死ぬところが見てみたかった」 というなんとも異常な動機。 考えるととても陰鬱な気分になる。 塾の講師が生徒を殺し、母親が引率中の幼稚園児を殺し、姑が嫁をナタで切りつけ、怒られた小学生は自殺をし・・・。 いつ、どこで、誰が何をしてもおかしくない時代になってしまったようだ。 普通の人が、普通の顔をして、ある日突然異常な事件を起こす。 まるで食あたりでも起こしたかのようにいとも簡単に。 「あれ、なにか悪いもの食ったかな?」そんな感じだ。 そして、毎日のようにどこかで人が傷つけられる。 ニュースを見ながら、「またか」と思う自分もまた、「異常」に対する感度がどんどん鈍ってしまっているようだ。
2006/04/03
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コンビニのおにぎりを見ながら思ったことがある。 コンビニのおにぎりは衛生上の問題などから包装されている。 なおかつ、ご飯で海苔がしなっとならないように、間に1層入れて隔離してある。 おにぎりの販売にあたって、この厳重な包装を、いかに早く、いかに簡単に取り去るかということが大きなテーマであることは間違いない。 おにぎりの包装にも初期の頃にはいろいろなバリエーションがあった。 一度ビニールを開いてから包み直すものや、先端部を切り取って中のシートを取り去ってから外のシートをはがすものなど・・・。 開き方を間違えると収拾が付かなくなることもあり、いちいち手順を確認しながら開けたものだ。 時間とともにだんだんと練られてきて、最近はほぼ1種類になってきたような気がする。 まず縦方向に入った紐状のビニールを引っ張る。 すると、ビニールは左右に分離される。 そこから左右に引っ張って内側と外側のシートを一度に取り去ってしまう。 すると、なんとしたことか、海苔にくるまれたおにぎりが登場する。 手順としては3段階。 中央、右、左。 実に簡単なものだが、ここに至るまで、包装担当者はかなり悩んだのだろう。 引っ張るときに力が必要だとおにぎりが変形してしまう。 半透明の内側の素材の選定も、実は相当考えられたものであるのだろう。 担当者に話を聞くことができれば、今はなき「プロジェクトX」並みの秘話があるに違いない。 そこで気になったのは、「左右に引っ張る」のだが、さて、どちらが「2」で、どちらが「3」なのかということだ。 おにぎりにはちゃんと、「2」「3」と書いてある。 おそらくどちらでもいいはずだ。 すでに包装紙は左右に分断されているわけだから、どちらが先でも影響はない。 現に、「2」と「3」の手順を間違ったから収拾が付かなくなり、中に入っていた鮭が転がり出てきた、なんて経験もない。 ではなぜ、「2」「3」と番号が付いているのか? 左右両方に「2」としておけばいいのではないか、という意見もあるだろう。 しかし、そうすると、同時に引っ張らないといけないと思う人がいるかもしれない。 実は現にそうしようとした人がいて、両手で左右に引っ張ってしまったために、中のおにぎりが路上に転がり出ることになった、という事件があったかもしれない。 それなら、これはどうだろう。 「2」または「3」(左右のどちらが先でも問題はありません) どちらかの手でおにぎりをしっかりと持って、残る片方の手で左右のどちらかの包装紙だけをを引っ張ってください。 万が一、両方でおにぎりをしっかり持って左右に引っ張った場合には、中の昆布が出てしまうことがあります。 また、両方の手で包装紙だけを持って左右に引っ張った場合には、昆布のみならずおにぎり自体が飛び出す危険性があります。 確かに親切なような気もするが長い。 包装紙全体が説明文になってしまう。 担当者は悩んだに違いない。 どちらからでもいいのに、番号をつけてしまうと、神経質な人は必ずその番号に従おうとするかもしれない。 すでに右手でおにぎりを持っていたにも関わらず、その手を左手に持ち替えてから手順に従おうとするとしたら無駄なことをさせていることになる。 それなら、「1」の紐を引く手を左右のどちらかに特定すれば、自然と「2」で使う手が決まってくるはずだ・・・・・。 喧々諤々。 口角泡を飛ばして激しい議論。 結局、練りに練った結果が現在の包装なのだろう。 一度じっくりみて見ると、そこに男達の苦闘の跡が見えるかもしれない。 ま、どうでもいいことなんですが・・・・。
2006/03/24
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新年明けましておめでとうございます。 一年の計は元旦にあり といいますので、今日は頑張って初日の出を拝みに行って参りました。 とはいっても、家の近所です。 2006年の初日は、広島湾に浮かぶ江田島から登ってきました。 島影がぼんやりと浮かぶ霞の中から真っ赤な太陽が静かに姿を現したとき、正直かなり荘厳な気持ちになります。 写真のテクニックが今ひとつで、朝日の赤さが出ていませんが、肉眼ではかなりの赤さでした。 今年が去年よりもいい年でありますように。 私も精一杯頑張ります。 それでは、本年も宜しくお願いいたします。
2006/01/01
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20日の話なので、そのつもりで。さて、紅葉の紅葉谷を後にして山に分け入った中年夫婦。中年といえば奥様が嫌がるかもしれないが、高校生の子どもがいて、若夫婦ともいい難い。日ごろの運動不足もたたって、山で調達した杖を支えに四苦八苦しならが山道を登る。登っている本人は非常にきついのだが、登山道はよく整備され登りやすい。我々が登ったのは丁度お昼ころだったが、すでに下山中の人も多く、中でもお年寄りが多いのに驚いた。「こんにちわー」「こんにちわー」すれ違う際に気持ちよく挨拶するのは「山」ならでは。時に外人さんとすれ違うのだが、そうするとなぜか黙ってしまう。やっぱり、僕も日本人だ。途中、8割程度登ったところで、ロープーウエーから登山する道に合流。急激に人が増えるが、不思議なもので挨拶はなくなる。そこからさらに登って弥山(みせん)と呼ばれる山頂に近づくと、山はにわかに岩だらけになってくる。我々、疲れきった中年夫婦の前を岩にひとつひとつ触っていく家族がいた。「この岩に間違いない。さわりなさい」とかいう父親の声が聞こえる。娘が岩に触れ、しばらく何かを感じ取るようにじっとしている。岩のパワーでも感じているのだろう。なんか、怪しい、と思いつつ、その家族が見ていないところで岩に触れてみる。が、何も感じなかった。このあたりも日本人らしい。実は、常に宮島が見えるところに住んでいながら、「弥山」登山は初めてだ。山の頂上に大きな岩が鎮座する光景は想像以上に異様なもである。いったいどうやってこんなところに・・・・。パワーがあっても不思議ではない。さてさて、疲れ果てた中年夫婦は地を這うようにして山頂へ。天気は快晴。秋のさわやかな風、澄んだ空気。眼下に紺碧の海と瀬戸内海の島々を見下ろしつつ、近所のスーパーで調達したおにぎりをほうばる。実に気持ちがいいのである。これも巨岩パワーのなせる業か・・・・。帰りにはロープウエー乗り場にも行ってみた。我々が昔、初々しい恋人同士であったころに行った思い出の地である。猿が一匹、青い空を見つめていた。余談だが、やまだ屋の「クリームチーズ入りもみじまんしゅう」はうまい。人気blogランキングへ
2005/11/25
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10月31日、本格稼動を目標に現在試行錯誤中です。せっかくご訪問いただいた方、申し訳ありません。ちなみに私は、木製品の製造販売のお店WOODPROの店長してます。そんでもって、店長の部屋です。よろしく。
2005/10/13
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それでは自己紹介をさせていただきます。小学時代・・・なぜか強くもないのによく喧嘩をしてました。おそらく根暗で、勉強のほうも目立たず、今10個くらいパッとしない男の子でした。将来の夢は「漫画家」でした。中学時代の前半の夢は「漫画家」漫画好きの仲間と集まって「少年●●」といった雑誌風の本を作ったりしていた。今でいう「同人誌」。成績は全体にあまりよろしくなかったが、美術だけは極端によかった。高校時代になると自分の漫画の才能に限界を感じ、夢が小説家に転向。SF作家を目指す。この頃の自選代表作は「火星のバイキング」人類初の火星探査機バイキングは火星表面に着陸し、赤茶けた火星の映像を初めて地球に送ってきた、という時代だ。ということで、ブログテスト期間中ですので、簡単に略歴をかいてみました。もちろん、漫画家にも小説家にもなれず。話変わって、この写真は尾道にある、映画「男たちの大和」の実物大撮影セットです。平和な時代に生まれてよかったですね。 感謝。
2005/10/13
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おはようございます。新しい朝がきました。というわけで、とりあえずこれはテストですので、あしからず。この絵は「ベニス」をイメージしたものです。
2005/10/13
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