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昨日まで6泊7日で中国の上海、杭州、寧波の3都市それぞれ2泊ずつの旅から戻りました。杭州で中国ファッション業界人向けセミナー、寧波で最大手企業の社員研修をさせてもらいました。中国は歴史長いし、人口は多い、領土は広いので毎回たくさんの学びがありますが、今回もいろんなことを勉強、驚いたことがたくさんありました。一番の驚きは中国における蒋介石の扱いです。第二次大戦後、毛沢東率いる中国共産党と蒋介石率いる国民党は激しい覇権争いを演じ、劣勢になった蒋介石とその支持者は中国のお宝をたくさん携えて台湾に移住(台北の故宮博物館と北京のそれとでは展示物の希少性で大きな開きがあり、台湾は素晴らしいお宝を多数展示しています)、以来中国と台湾の対立関係は続き、米国ニクソン大統領の電撃訪中で台湾は国連安保理国の権利を取り消され、世界の表舞台から消えました。中国共産党の方針として将来台湾を統合する計画だそうですが、台湾と中国政府の関係は年々微妙になり、いまにも台湾海峡を中国が進軍するのではないかとも噂され、緊張が高まっています。そんな中、私にはちょっと信じられない光景を寧波市郊外の観光地で目にしました。簡単に言えば蒋介石の復権です。蒋介石旧邸宅関連施設の案内図「蒋氏故居」は蒋介石が台湾に渡るまで暮らしたお屋敷旧邸宅エントランスの表示蒋介石一家の施設を示す道案内蒋氏経営の塩販売の店舗毛複梅夫人が日本の空爆で亡くなった場所毛福梅夫人を祀るお寺毛福梅夫人のお墓蒋介石は浙江省寧波市出身、彼の生家(塩問屋を営み、裕福な家庭だった)、居住していた屋敷、日本軍の空爆で亡くなった最初の夫人のお墓や菩提寺、貴重な文献や写真展示場などがあり、セミナー主催者が息抜きに連れて行ってくれました。最初蒋介石の旧邸宅一帯が観光名所と言われたとき、台湾と中国の昨今の情勢からピンときませんでした。炎天下でも多くの中国人がここを訪れていたのには驚きました。世界大戦後、毛沢東らに敗れ台湾に逃げた蒋介石の名が中国で普通に語られる、中国共産党もそれを許している、明らかに中国における復権と言ってもいいでしょう。文化大革命時代はこんなことは許されなかったようですが、現在は蒋介石の再評価が進み、現在の台湾と中国政府の緊張関係からは想像できない構図がここにはありました。両巨頭の歴史的ツーショット1939年、蒋介石の邸宅を狙って日本軍は空爆、毛福梅夫人は屋敷の外に逃げようとして倒れてきた壁の下敷きになって死亡した、と。日本人のひとりとしてなんとも複雑な思いでその解説を伺いました。のちに蒋介石は浙江財閥の大金持ち宋家三姉妹の三女宋美齢(次女は孫文の夫人、宋慶齢)と再婚、一族の資金的バックアップがあったと聞いています。そして蒋介石は中国進出する日本軍に抵抗、宿敵中国共産党の毛沢東と手を組むいわゆる「国共合作」で共産党と共に日本軍と戦いました。そのときの貴重な写真も古いギャラリーに掲示されていましたが、中国共産党の英雄毛沢東とライバル蒋介石のツーショットが中国出張で見ることができるとは全く想像できませんでした。こんな関係の時期もありました現在の台湾は蒋介石の流れを組む国民党がどちらかと言うと中国共産党寄りの政策、一方政権与党の民進党は中国と距離を置く政策を掲げています。このことと蒋介石一家の邸宅を公開して観光地にしていることとは少なからず関係があるのかもしれません。私たち日本人はついつい台湾が中国共産党政権と敵対しているように感じますが、どうやら両国の関係はそう単純ではなさそうです。歴史5千年の中国は奥が深い。
2024.07.26
今週は中国から来日したファッション業界人に向けたセミナー、連日の彼らとの食事会で深夜帰宅が続いて身体のケアが必要、久しぶりにリフレクソロジー(足裏マッサージ)店のお世話になりました。コロナ前までは週一度の頻度でよく通っていましたが、4年ぶりに施術してもらったら足は猛烈に痛かった。おかげで身体全体が軽くなり、あらためて足裏マッサージの効果を実感。再び病みつきになりそうです。中国業界人にセミナーをする前日の日曜日、故郷で桑名市立光風中学校の同窓会がありました。私が最後に参加したのはもう四半世紀前のこと、懐かしい同級生たちと楽しい時間を過ごしました。みんなじーさん、ばーさんになりましたが、面影は残っているのでほとんどの参加者は誰なのかすぐ判別できました。同窓会記念写真前日土曜日に桑名に入って桑名高校時代の友人とまず一献。たっぷり飲んで、ぐっすり寝て、翌朝一番に実家近くにあるお花屋さんへ。その作業場が私の実家のお隣なんですが、ここの娘さんはかつて文化服装学院流通専攻課程の教え子でした。故郷のお隣さんの娘さんを毎週東京の学校で教えるとはなんとも不思議なご縁でした。彼女は卒業後ヨーロッパに嫁いで桑名にはほとんど帰ってきません。我が家のお墓実家から目と鼻の先にあるうちの菩提寺。オヤジを2001年、オフクロを2022年に納骨したお墓に手を合わせ、なかなか墓参りできないことを詫び、元気に仕事していることを報告しました。オフクロが亡くなったのを機に兄弟相談して実家を処分しましたが、生まれ故郷に実家がないというのは正直ちょっと淋しいです。桑名市立益世小学校墓参りを済ませたら徒歩5分にある母校の桑名市立益世小学校を訪ねました。私たちの在学中は木造のオンボロ校舎、廊下の床板が抜けてところどころ穴がありましたが、その面影は全くありません。このグランドで友だちとドッジボールやハンドボール、野球、相撲をよくやりました。卒業時私は生徒会長でした。卒業式前日に卒業式運営責任の隣組担任M先生に確認したら、「おまえは何も用意しなくていい。卒業生の贈答品目録は校長先生に手渡すだけ、読まなくていいから」。ところが、司会者は「卒業生答辞」とアナウンス。私は誰かが在校生の送辞に応えるんだろうなと思っていたら、なんとM先生は私に「お前がやれ!」と目で合図するじゃありませんか。慌ててマイクの前に進んでアドリブで答辞らしきことを述べました。何の準備もしていないので何を喋ったか全く覚えていません。さらに、壇上の校長先生に卒業生贈答品目録を渡しにステージに上ったら、なんと校長先生は私にマイクを向ける想定外の行動を。M先生は目録を手渡すだけと言ってたのに話が違います。私は慌てて校長先生に手を振ってノーサインを出し、そそくさとステージを下りました。M先生は私が通っていた学習塾の先生でもあり、私をちょっと試したのかもしれません。謎のままです。次に小学校から徒歩10分の氏神さまにお詣り。大学受験直前にオヤジが倒れて大手術、毎夕氏神さまにお詣りしてオヤジの快復を祈念したことを思い出します。もしもオヤジがあのまま病死していたら私は東京の大学には行けず地元の南山大学しか選択肢はなかったし、その場合は全く違った人生を送っていたはず。桑名市立光風中学校氏神さまを抜けると母校桑名市立光風中学校。桑名市が決めた学区割りで益世小学校から光風中学校に進学した生徒はたった10%くらい、ほとんどの同級生はマラソンの瀬古利彦さんが卒業した市立明正中学校に進みました。なので光風中学校で私たちは完全な少数派、アウェー感覚は中学生活に微妙な影を落としました。もしも益世小学校出身者が多数派だったら私の中学生活は別のものだったでしょう。小学校のとき得意だったハンドボールの部活が光風中学にあったら良かったんですが、なかったので最初はバスケットボール部に入ったものの自分的にはつまらないのでサッカー部に転じ、以後高校終わるまでサッカー少年でした。また、試験管など揃え、薬局で塩酸、硫酸、硝酸など化学薬品を買い込んで化学実験したり火薬を作って悪戯していました。近所の薬局は面がわれるので遠くの薬局で過塩素酸カリを買うときその用途を質問され、まさか火薬作るとは言えないので「酸の摘出に」と訳わからないこと言いました。自家製黒色火薬とティッシュペーパーで長い導線を作り、空き缶を吹っ飛ばそうと何度も試みたのですが、いつも空き缶は花火状態で燃えるだけ、吹っ飛ばすことができません。これじゃつまらないので友人たちに火薬を全部進呈したら、一人は家業の中華料理店かまどに火薬を大量投入して眉毛やまつ毛の一部を焼失、もう一人は実家が火事になったのでまずいと思いましたが、火災原因は私の火薬ではなかったので安心した思い出があります。3年生最初の試験は6クラス約240人中15番の成績、勉強しないで化学実験と読書だけしていた割にはまずまずの成績でした。ところが卒業寸前の試験では97番、同級生は受験勉強しているのにいつも本ばかり読んでいたので取り残されました。年明けから短期間猛勉強、どうにか希望の県立桑名高校に入学することができました。成績急落には忘れられない思い出があります。担任のO先生は父兄面談のときオヤジの前で「成績がこんなに落ちたのは何か原因がある。太田、おまえ女いるのか?」と。帰宅してオヤジに「どこの女の子や?」と厳しく追及されました。言葉遣いの荒い三重県ですが、中学教師が父兄面談の場で生徒に「女いるのか?」はないでしょう。O先生とは卒業から亡くなるまでずっと年賀状のやりとりはありましたが、あの発言は納得いきません。母校の小学校と中学校を訪ねていろんなことを回想しながらのんびり同窓会場に向かいました。同級生とは「いまだから話せる秘話」などを披露し合いながら旧交を温め、翌日朝早くから中国業界人にセミナーがあるので二次会を早めに退出、お酒はほとんど口をつけず新幹線に飛び乗って帰りました。本当はもっといたかったのですが。久しぶりに故郷の学校や神社を巡り、同窓会に参加して同級生たちと懐かしい話をすると、自分の長い人生にはいろんなターニングポイントがあったんだと再認識、あのとき別の選択をしていたら自分はどんな人生を送っていたんだろうと思いました。オフクロは東京、ニューヨークに行ってしまった私に「桑名にいてくれたらなあ」とよく言っていましたから、もっと親孝行できたでしょうね。横浜から同窓会に参加したKくんは桑名で買った名物アサリのしぐれ煮や安永餅のことを同窓会LINEにコメントアップしていましたが、桑名の子はいつまでもどこで暮らしても桑名の味を忘れないんだなあと嬉しくなりました。実家を処分したので気持ち的には故郷は遠い存在になってしまいましたが、私もKくん同様いつまでも「桑名の子」、そのことをあらためて実感できた帰省でした。故郷があるって本当に素晴らしいな。
2024.04.20
今日はファッション流通業に関することではなく、ガキの頃に私を導いてくれたありがたい恩師のことを書きます。私は三重県桑名市で生まれ、育ちました。桑名市立益世小学校で4人、桑名市立光風小学校で2人、県立桑名高等学校で2人の担任の先生にお世話になり、それぞれ卒業時の担任の3人の先生とは長らく年賀状のやり取りが続いています。残念ながら数年前光風中学3年生の担任だった小黒哲郎先生はお亡くなりになりました。桑名市立益世小学校益世小学校に入学して最初の2年間は女性の饗庭渚(あいば・なぎさ)先生が担任でした。先生には私と同年齢の娘さんがいて、のちに彼女とは高校で同じクラスになり、同時期に上京し、私がニューヨークに住んでいた頃は航空会社CAさん、ニューヨーク便業務の際はわが愛煙ショートホープを買ってきてもらう仲でした。わが人生で後にも先にも一番素晴らしい成績表をもらったのが小学2年生3学期。2年間お世話になった饗庭先生から成績表を手渡されたとき「太田くん、放課後残ってください」と言われました。成績評価に大満足だったのに、教室にただ一人残されて先生からしばしお説教。「将来あなたはこの学校のリーダーにならなきゃいけない子なのに、自覚が足りず悪戯ばかりしている。3年生になったら行動を改めなさい」、と。確かに私は悪戯をしては叱られ、教室の後方に何度も立たされていましたから。このときから先生が言った「リーダー」という言葉を意識するようになりました。それ以降3年生から6年生まで一学期に学級委員、加えて卒業時は生徒会長として答辞を即興で述べ(生徒会長が担当するとは事前に聞いていなかった)、饗庭先生にも褒められました。もしも2年生修了の放課後に先生から説教されなかったら、リーダーなんて意識することなくずっと悪戯少年のままだったでしょうし、生徒会長にはなれなかったでしょう。大人になってからこれまでまがりなりにもいろんな組織で取りまとめ役、リーダー役を演じてこれたのは、饗庭先生の説教が原点にあります。なので私を導いてくれた最初の恩師は小学1、2年の担任でした。仲良しの娘さんからは母上はご健在と聞いていますが、先生には元気で長生きして欲しいです。三重県立桑名高等学校つぎに、人生で最も迷惑をかけた恩師は桑名高校2年と3年の担任だった小林明男先生、恐らく先生の教員人生で最も手を焼いた悪ガキは私です。高校1年生英語リーダーの授業はほかのクラス担任だった若い小林先生でした。教科書に登場する旧約聖書の巨人兵士「ゴリアテ」の発音記号は「グァライアス」、しかし英語教育が有名な名古屋の名門南山大学英文科出身のはずがなぜか「ゴリアテ」と発音する。英語リーダー担当教員は発音記号に忠実な読み方をすべき、だからついたあだ名はゴリアテでした。1年生の授業中、ゴリアテは「キミら、こんな歌知ってるか?」と突然英語で歌いだしました。1960年代反戦フォークソングを世界に広めたPPM(ピーター、ポール&マリー)の「500マイル」。なぜゴリアテがこれを突然歌いだしたのか理由はわかりません。英語に自信があった私は下手くそな発音の英語教師をなめていましたが、ゴリアテの歌とPPMの話には素直に感動、下校時に街のレコードショップに寄り道してLPレコードを購入しました。高校3年間レコードがすり減るくらい聞いたのは「500マイル」「花はどこへ行った」「悲惨な戦争」「風に吹かれて」が入ったこのアルバムでした。恩師に感化され初めて買ったPPMのレコード2年生になるとクラス担任はゴリアテに。このとき私と学年主任(古典のF先生)との騒動が続きました。修学旅行前の中間試験のとき、F先生が私の席までやってきてこう言いました。F:「キミ、(制服の)帽子はどうした?」私:「今日は忘れました」(本当にこの日だけ忘れたんです)F:「なんだ、この上履きは?」 (私の上履きは学校の購買部で買ったピンクとグレーのギンガムチェック) 私:「購買部で売ってた」F:「男子がこんな(ピンク)の履いて良いのか?」私:「男子用、女子用と書いてなかった。文句あるなら購買部に言ってよ」 (返事に困ったF先生が去った後すぐゴリアテが血相変えて登場)G:「太田、F先生に謝って来い」私:「なんでや。購買部で買ったスリッパに文句言ったのはFだぞ」G:「とにかく謝って来い」私:「謝る理由がない。俺は絶対に謝らない」 (ゴリアテは諦めて職員室に戻っていきました)数日後の全校朝礼、学年主任は「本校で制帽をかぶらず通学していたのはたった1名だけ。みんなは規則を守っているので安心しました」と嫌味な発言。翌年大学受験直前の全国共通模擬テストで奇跡の好成績をとるまでF先生と私のバトルは続きました。大学受験時に文系私立大学志望の私は英語と世界史は満点狙い、古典を含む国語は0点でも合格できそうな採点配分の大学を受験しました。F先生が教える古典は一切勉強せず、大学受験は国語放棄での合格作戦でした。上履き事件の後九州への修学旅行に。うざいことにF先生はじっと私のそばで私の行動を監視です。全15クラス(総勢750人の大移動)の担任の中でゴリアテは最年少教師だからでしょう、わがクラスの男子生徒だけは大阪港から別府港までの関西汽船の船中で部屋はなく、食堂を片して床にゴザを敷く船員以下の待遇でした。私たちは反発、提供された枕と毛布は瀬戸内海に放り投げました。そして、別府港に到着した初日もちょっとした事件があって我々男子生徒はゴリアテから謹慎を宣告され、現地で私服を着てはならないとなりました。ゴリアテはほかの先輩教師の手前私たちに謹慎処分を発するしかなかったのでしょう。当然私たちは抵抗します。わがクラスのバスガイドが「右手に見えますのは」と説明すれば、女子生徒も含めクラス全員が左方向を見ます。「合唱しましょう」とガイドに言われれば、誰も歌わない。最後にバスガイドが泣き出しました。観光バスが信号停車するたび、「私は桑名高校教諭の小林明男です。生徒に拉致されているので助けてください」と書いたビラを窓から多数ばらまきました。その夜私たちの部屋に来て「太田、仲直りしようやないか」と言うので、「私服禁止の謹慎処分を解除してくれたら」とゴリアテに条件提示。地元警察にビラが届いて宿泊先に問い合わせが入ったと聞いたのは修学旅行の後、ゴリアテは「親、呼んで来い」でした。もちろん「親には関係ない」と拒否しました。3年生になるとき、仲間で私だけが担任はゴリアテのまま。目を離すとかえって面倒と思ったのか、リーダーシップに少しは期待してくれたのかはわかりません。5月のゴールデンウイーク明け、私は名古屋の栄公園でおまわりさんに補導されました。タバコ所持です。三重県と愛知県、県警が違うと処分はどうなるかわからないと交番で脅され、翌日ゴリアテに「昨日タバコで補導された」と報告。「お前には期待してたんだがな。親に言うしかない」。私はオヤジが怖かったのでそれだけは勘弁してくれと頼みましたが、このときだけは聞き入れてもらえませんでした。翌日から卒業するまでの数か月、朝の点呼のあと連日「太田、職員室に来い」。ゴリアテはうまそうにタバコを吸いながら私に煙をかけて「もう吸ってないやろな」。私は補導された日から卒業まで禁煙、でも疑ってたのでしょう、連日こうやってチェックされました。高校時代はサッカーに夢中、ほとんど勉強をしたことがなかった私の成績は低レベル、とてもじゃないけど名だたる大学に行ける出来ではありません。が、10月にオヤジが病で倒れ、ことによると翌年浪人する余裕がなくなるかもしれないと思って突如ガリ勉くんに変身。それまでずっと最後方だった自分の席を先生の眼前の席に移しました。いつも授業中寝てるか悪戯していた私が急に勉強し始めたのですからクラスメイトは驚いていました。大学入学試験の願書提出が迫ったとき、ゴリアテの個人面談がありました。G:「太田、滑り止めを受験せんとあかんやないか」私:「南山大学を2つも受験する」G:「おまえの成績では南山は滑り止めにはならん」私:「いまはちゃんと勉強してるから大丈夫」 (問題児が滑り止めに母校を選ぶなんて許せなかったでしょうね)G:「早稲田と明治を受験するなんて、東京6大学やぞ。無理っちゃうか」私:「東京6大学は野球の話や、受験には関係ないわ」名古屋の大学を卒業して三重県北部の高校に赴任、東京の大学事情なんてほとんど知らない田舎の高校教師の助言は無視でした。その頃、全国大学入試模擬テストでどういうわけか国語がなんと学校で1番、国語0点作戦の私ですからもちろんマグレ。が、職員室で遭遇した宿敵F先生は「太田くん、最近頑張ってるねえ」と。「ちょっと成績が上がるとこんなに態度変わるんか」と返してやりたかったけど、またまたゴリアテに迷惑かけそうなのでやめました。同窓会で挨拶する小林明男先生運良く南山大学の2学部と明治も合格、ゴリアテはすごく喜んでくれました。そして卒業から今日まで律儀に年賀状をくれます。25年ぶりに地元で同窓会があったとき、私が送った新著を会場に持参して教え子たちに「太田が本を書いたんや」。同級生たちは「先生、みんな持ってるよ」と大笑いでした。私がサッカーゴール後方の校舎窓ガラスを割ったこともあったので、卒業後サッカーゴールと校舎の間には大きな金網が設置されました。生意気な私を取り囲んだ上級生を威嚇するため、ヤンキー丸出しの長ーい学ランを着た名古屋のちょいワル高校生(サッカー仲間ら)をわが校に呼んだこともあり、卒業後に他校生徒の出入りは全面禁止になったそうです。軟式と硬式野球部にソフトボール部、陸上部があるため運動場が狭いからとサッカー部でなく(近隣高校に何度も勝利して弱くはないのに)同好会のままだったので校長先生に抗議したら、卒業後正式にサッカー部にしてくれました。こういうとき若いゴリアテは学年主任や校長からたびたび嫌味を言われていたでしょうね。出来の悪い生徒ほどかわいいという説がありますが、強烈な印象だけは残っているはず。饗庭先生、小林先生だけでなく、小中高校と私は多くの先生方に守られ育ちました。本当にありがたいことです。
2024.01.27
謹賀新年2024本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。年が明けていきなり能登半島を襲った震度7の大地震。多くの家屋が倒壊、道路は遮断され、断水、停電、犠牲者は少なくなく、あらためて日本は地震に弱い国だと実感しました。余震のニュース速報が流れる中、今度は羽田空港で被災地に救援物資を届けるために離陸予定だった海上保安庁の飛行機と着陸してきた日本航空機が衝突する大事故、正月から胸が痛みます。与党の裏金問題で政権は不安定、増税前のわずかな減税に国民はしらけ、円安と物価上昇で生活は苦しくなるばかり、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」だったはずがいつの間にかテクノロジーではどんどん遅れをとって元気度では先進7カ国でビリになり、この先日本はどうなるんだろうとちょっと不安になります。いま日本が世界に誇れるのはドジャースに移籍した大谷翔平ら日本人メジャーリーガー、ヨーロッパ各国リーグで活躍する三苫薫らサッカー選手、世界陸上選手権女子やり投げ金メダルの北口榛花選手など若きスポーツ選手だけでしょうか。昨年末久しぶりに中国出張して、中国の進化スピードに驚かされました。電気自動車の普及はハンパない、すでに電機メーカーが自動車販売を開始、名刺交換は紙でなく大半がスマホ、駐車場の決済はスマホQRコード、すぐに車がやってくる配車アプリ、日本より1歩も2歩も進んでいました。多分日本はもう中国に追い付けないところにいるんでしょう。ただひとつだけ、まだ虎の子「クリエーション」があるかもとは思いました。昨年秋から中国の業界人には何度も「クリエーションとビジネスの関係」をお話ししてきました。2月中国でのセミナーでも、クリエーションをどう育てるのか、よりクリエイティブな商品をどうつくるのかをお話しする予定です。日本がものづくりでのクリエーションとクラフトマンシップを失ったら、もう残るものはありません。マンガ、アニメもそうですが、創作自体はハイレベルでもこれらで稼ぐのは外国企業では話になりません。パリコレに参加しようがプルミエールヴィジョンやミラノサローネに出品しようが、クリエーションする側が外国企業を儲けさせるだけでは意味ありません。クリエーションとクラフトマンシップで日本が簡単におまけしないでしっかり稼ぐ、これこそが本当の意味での「クールジャパン」だと思います。頑張りましょう。
2024.01.03
寒中お見舞い申し上げます。昨年8月に母・和子がコロナウイルス感染して永眠、新年のご挨拶は失礼させていただきました。年始のニュースによれば、都心部の百貨店ではラグジュアリーブランドの12月売上がコロナ禍以前の2019年12月を上回り、インバウンド消費もかなりの水準に戻ったそうです。中国人観光客はまだ戻ってきていない状況の中でこの好成績、景気は回復しつつあります。年末クリスマスイブの昼下がり、ラグジュアリーブランドが並ぶフロアはまるでバーゲンセール初日のような賑わいでした。急激な円安、物価上昇、コロナ感染者増は気になるところですが、景気がこの調子でもっともっと良くなることを期待したいですね。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
2023.01.06
中東カタールで開催されたFIFAワールドカップ決勝戦、アルゼンチンとフランスは3-3の同点、PK決着でアルゼンチン優勝となりました。決勝戦まで5得点で並んでいたアルゼンチンのメッシとフランスのエムバペ、決勝でハットトリックを決めたエムバペが得点王に、2ゴールを決めたメッシがMVPに。二人ともカタール投資庁が経営するパリ・サンジェルマンFC所属(ブラジルのスター選手ネイマールも同じ)、カタールにとっては願ってもない結末でした。 日本も強豪ドイツとスペインに逆転勝ち、目標のベスト8進出は叶いませんでしたが、日本のサッカー史に残る快挙でした。ベスト8の壁を破るには大きな課題を克服しなければなりませんね。特に、世界の高レベルでキャリアを積む選手を増やすことと、しっかりした戦略を立ててチームを編成、育成できる監督の抜擢。 サッカーで思い出すのはJリーグ発足直後に当時の川淵三郎チェアマンから直接聞いた話です。(元Jリーグチェアマン川淵三郎さん) Jリーグ発足直後の1994年2月、大阪府泉大津市にあったファッションセンターでIFIビジネススクール主催のセミナーがありました。海外出張から戻ってちょっとした手術をしたばかりの私は第2部パネル討論会の進行役、山中IFI理事長からは「手術したばかりなんだから来なくていい」とファックスもらいましたが、第1部基調講演をお願いした川淵三郎さんの話も聞きたくて痛みを我慢して出かけました。 このときセミナー楽屋で川淵さんがサッカー選手の人材育成について興味深いことを話してくれました。ご自身も含め日本人監督は「根性論」で選手を鍛えようとするが、外国から招聘した監督は「基本の徹底」を繰り返して育てる、と。基本中の基本インサイドキックとボールトラッピングの繰り返しに相当時間をかけるので、選手の間では「監督は俺たちのことをバカにしているのか」と反発する者も出るそうです。 ゴールキーパーの練習でも、ゴールの端に強いシュートを何本も放ってキーパーに「飛べ!」、「気合を入れろ!」「根性だ!」とやるのが日本人監督。一方海外指導者はキーパーの正面に緩いゴロをコロコロ転がし、しっかりキャッチングできたら褒め、徐々にキーパー正面から離れたところにボールを飛ばし、シュートのスピードも徐々に上げていくそうです。正面に緩いボールで正しくキャッチングする練習の反復、選手を褒めながら育てるのが世界の指導方法、日本の根性論とは違うとおっしゃっていたのが印象的でした。 川淵さんら日本サッカー協会幹部が高く評価していた、当時名古屋グランパスエイトのアルセーヌ・ヴェンゲル監督はあまりに基本練習に時間をかけたので選手は不満タラタラ。でもサッカー協会はその育成方法を高く評価して日本代表チーム監督にと交渉したものの、寸前にイングランド名門アーセナル監督就任が決まっており、ヴェンゲルさんは同じフランス人のフィリップ・トルシエを推挙しました。もしもあそこでヴェンゲルさん自身が日本代表チーム監督に就任、アーセナルのように長期的に指導していたら、日本のサッカーは変わっていたかもしれません。 あるいは、ジェフ市原監督から日本代表チーム監督になったイビチャ・オシムが病に倒れずあのまま監督を長く続けていたら、「日本のスタイル」が出来上がっていたかもしれません。川淵さんが記者会見でまだ正式発表していない監督の名前を迂闊にも「オシム」と発言してしまったのも、その後オシム監督が病で救急搬送されたときに記者団の前で男泣きしたのも、オシムがどれくらい信頼されていたかを物語っています。 毎日同じ顔ぶれで練習するクラブチームの監督と、たまにしか全員揃わない代表チーム監督とでは求められる資質が違うでしょう。前者はなんと言ってもチームワーク、選手間の和を保ってアウンの呼吸で選手を引っ張っていける人柄が求められます。 しかし、近年日本代表チームの選手のほとんどは海外で活躍していますから、クラブチームのように連日顔を合わせて練習できるはずありません。代表チーム監督に求められるのは強いリーダーシップ、明確な戦略ビジョン、それを遂行するために必要な選手選抜の目、そしてゲーム前半と後半の戦術と見直しです。加えて言うなら世界レベルを肌で知っているかどうかも。 今回は選手交代5人(従来は3人まで。今回はトーナメント延長では6人まで可能)が認められる新ルールでしたが、柴崎、町野選手に全く出番が与えられませんでした。期待された久保選手の出場時間も予想よりかなり短かった。そもそも人選は正しかったのでしょうか。 また、世界ランキング格下コスタリカ戦先発メンバーの顔ぶれ、本当にあれで良かったのでしょうか。格下コスタリカには負けてしまった原因、PKで負けてしまったクロアチアとの戦い方と選手交代のタイミング、将来のためきちんと検証すべきではないでしょうか。 まだワールドカップが開催中なのに、目標には達せず敗退して帰国した選手や監督がテレビで生出演したり、官邸訪問したり、ドイツとスペインに勝ったんだからとヒーロー扱いされる空気、個人的にちょっと気持ち悪いです。まずは今回戦った4試合の検証、今後のための課題掘り起こし、テレビ出演も官邸訪問もワールドカップ全日程が終わってからでいいのでは。 テレビでは日本のベスト8進出、優勝も決して遠い未来ではないと楽観的なことを言う解説者やタレントがたくさんいますが、とても賛同できません。検証をまずしっかりやる、今後日本はどういうサッカーを進めるのか基本方針を立てる、その上で監督の去就も決めるべきでしょう。ドイツ、スペインに勝利したことは素晴らしいし、森保監督の人間性も素晴らしいと思いますが、川淵さん世代が卒業した後のサッカー協会幹部には冷静な考察を期待したいです。 ガキの頃、朝から晩までサッカーのことしか頭になかった私、生きている間に日本の優勝はともかくベスト8進出だけは見たい!
2022.12.19
2006年3月、世間を騒がせたホリエモンさんに刺激され、自分も書いてみようと始めたこちらのブログ「売り場に学ぼう」、最初は相談メールをくれる多くの教え子や元部下たちに向けた担任教師の復習講義のつもりでした。日々売り場を歩いて感じたこと、ファッション流通業界の動向に対して思うこと、海外視察で刺激されたことなど綴ってきました。しかし、徐々にメディア関係者や企業幹部が読んでくださるようになり、さらに転職して立場上ストレートに発言するのは難しいと感じることあったので途中何度も中止、2006年からアップした記事は削除しました。誤解を避けるため数年間ほとんど何も書かない、書けない時期もありました。が、記事の新規アップを中止しているにもかかわらず、どういうわけかこのブログをのぞいてくださる人が少なくありませんでした。今年、記事アップを再開したら再び読んでくださる方が増えました。気がつけば2006年からこれまでの延べヒット数が250万、本当にありがたいことです。最初の頃は、自分たちが設立したCFD(東京ファッションデザイナー協議会)からJFW(日本ファッションウイーク推進機構)に移管された「東京コレクション」のこと、新しく始まった「東京ガールズコレクション」のことを書きました。そのときの写真が以下の2枚です。2006年3月JFW主催の東京コレクション2006年3月東京ガールズコレクション海外出張のたび、現地で刺激されたこと、感動したこともたくさん書きました。在住時代から私には常に生きた教材であるニューヨークをはじめ、シアトル、サンフランシスコ、ロス、サンパウロのアメリカ大陸、パリ、ロンドン、ベルリン、アムステルダム、アントワープ、チューリッヒ、ビルバオなどヨーロッパ、台北、台中、高尾、北京、上海、香港、寧波の東アジア、UAEドバイ、オマーンのマスカットの中東、シンガポール、クアラルンプール、バンコク、ホーチミンのASEANといろんな都市でたくさんの気付きがありました。ここ数年はコロナウイルスで海外に出ておりませんが。これからもマイペースでブログをアップしますので、どうか時々のぞいてください。よろしくお願いします。
2022.12.16
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