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アルバート・アーノルド “アル” ゴア・ジュニア(Albert Arnold "Al" Gore, Jr., )さんが2007年2月3日放送の「世界一受けたい授業」に出演するらしい。やっぱり「地球温暖化問題」をテーマにしたドキュメンタリー映画「不都合な真実」関係なのかなとおもい、2/3は是非みたいなと思います。その「不都合な真実」は5月ぐらいから公開されているらしいのです。ブログや、mixi日記でも感想を読んで、観たいなとおもってます。不都合な真実公式サイト http://www.futsugou.jp/公式サイトでも、自宅で取り組む排出削減としてできることを書いてあるので、参考に。**********環境問題を考える時によく頭をよぎるのが・・・環境問題や節約を訴えるサイトでの議論にて「節約節制というけれど、生きている時点で沢山のエネルギーを使い 大気汚染に加担している。 お前1人が節約したところでかすかな動きであって 1人が何かしたところで何の足しにもならない。 そんなことをいったところで、PCをつかっている時点でクリーンとはいえない。 これから先、汚染するのを防ぐために死んだほうがいいのではないか」と、、、いう風な書き込み。なんとなく正論のようにかざされることがある。日本人のエコロジカル・プリントは地球人平均と比べても数値が高く1人いなくなれば・・・変わる?でも、知人が亡くなろうが、私が自殺しようが・・・変わらないと思う。戦争がおこれば人口が減るのだから自然に優しい?それ以前に、戦争での汚染を考えれば、人口が減ったぐらいなんてことはないしもし汚染を計算してみて優しかったとしても、大切な人々が殺しあうことは何も嬉しくない。さっきちらと書きましたが「エコロジカル・フットプリント」って聞いたことありますか?人間が地球環境に与えているインパクトを面積として捉えてみる値のことです。=>NPOエコロジカル・フットプリント・ジャパン食料を作るための農地・牧草地・漁場、排出した二酸化炭素を吸収したり木材を得たりするのに必要な森林など、人が暮らしていくうえで必要とする土地の面積の合計。地球が許容できるのは1人あたり1.8ヘクタールといわれていますが現在世界平均だと、2.2ヘクタール。すでに許容オーバーで、地球が1.2個分必要ということになってしまう。日本人は・・・4.3ヘクタール平均値の倍ぐらいを1人で必要ということになります。世界の人が日本人並みの生活をすると、地球が2.4個必要・・・らしい。貴方がいて私がいて、地球1個分でまかなえるぐらいのフットプリントになるように持続できるように、気をつけられるほうから気をつけていければ・・・・地球一個分で足りるように暮す。多くの専門家は、これは不可能ではないとみている。環境を大事にするために、誰かが死ねばいいとはおもわないしそういう選択肢はないと思う。レジ袋を貰わないようにしましょうって言うけれどレジ袋やデパートの紙袋などが快適化といわれたら全然快適ではない。ちょっと重さがあると手に食い込むし、素敵でもなんでもない。買い物袋持参が、エコとか以前に私は快適だと思っている。割り箸とかも味気ないのでやっぱり貰いたくない。小売業の場合、おまけをつけたくなったりそれがサービスや広告としてのレジ袋であったり箸であったりするのだと、広告関係の仕事なのでわからないわけではない。それでも、できるだけ環境に優しいものを選びたいしやさしくありたいと思う。人間も環境の一部分。人間に優しく地球に優しく。
January 30, 2007
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私の母が占い師か手相を見る友達に、私の手相を見てもらい生命線がみじかいという点で「最近の子供は生命線が短い」という話になり本当に1999年世界が滅亡する・・・のかしらね。な~んていわれたことがあるといっていた。当時小学生だった私は、「なるほど」と納得したのだけど友達の手を見てまわってみたら、生命線の短い友達は少なかった。生命線が短いから、、、親が気にしているという点で子の手相を見てもらう人には、無い様である共通点があるのかもしれない。辻占いをするときにも、来るお客さんは全員「何かしら悩んでいる」点で共通しているのだからある意味わかりやすいのだときく。最近テレビに占い師がよく出ているような気がするけどどうなのかな。基本的にあまりテレビを見ていないから、もしかしたらいつの時代もこんな感じに沢山の占いがテレビに踊っているのかもしれないけれど。占い師の番組のCMで、タレントの方に「○年後に死にたくなる」などというようなセリフを投げかけているシーンを見たのだけど一瞬「そんな不吉なこといわれたら、心が弱い人は直ぐにでも死にたくなるぞ」と思ったのだけど、○年後に死にたくなるということは○年後までは確実に生きているということになるのかなと思いなおした。○年後までは、死にたくなる出来事に出会わないという風にも取れる。さてはて、なんだかキナクサイ感じの日本事情。軍隊なんかもったり、派兵されたりするのかな。どこかに占領されたりするのかな?なんてよぎったり食料やエネルギーなんかの心配、これからどうなるんだろうって思ったりしませんか?沢山の占い師の方々は、テレビに出ていない部分で日本経済についてや、世界情勢など占っているかもしれない。大震災なんかも占いそうだよね。でも、テレビでタレントの皆さんを占っている時当たり前のように、世界は「今のまま」のような気がする。彼ら・彼女らの悩みやこれから未来に起こることは自分自身で解決できることや、自分自身のみの不幸であって大人数の不幸でないと聞き取れる。といっても、ちょっと聞いたぐらいだからもしかしたら、貴方は次の大地震で大変なことになる。なんてセリフもあったり、これから出会う恋人が戦地で死亡してその後立ち直れないであろう。な~んてのがあったら知りたいな。(怖いけど)いや、何が言いたいのかというと占いをするかたが沢山でているのは、未来が今のままの平和のまま続くとやんわり信じるためにいるのかしらと私は勘ぐってしまっている…ということ。づつくのかもしれない。平和のまま。でも、今の情報を見聞きしていると、そうかぁ?今の不安な情報は他愛の無いものと、スルーしてくれと暗に言っているのかなと疑いたくなる。悩みのある人に占いで助言をする・・・それはいいことなのだろう。でも、なんかただの下世話な会話に聞こえてならない。「数年の内に日本国内からでた提案で、世界の紛争が激減する」なんていう楽しそうな占いの結果があったらいいのになと思ったりする。
January 23, 2007
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9月に沖縄に帰った時に、母と娘と喫茶店に入った。喫茶店では初体験の、靴を脱いでスリッパに履き替えるお店で雰囲気もいいし、珈琲も美味しかった。たまにライブとかに使うんだろう機材も置いてあったりした。お店を出るときに、母と私が先に靴を履いて外にでて娘が靴をなかなか履かないで、お話に夢中。そして、「おいていかないでよ!」と言った。そこですかさず、私が「置いていくわけないじゃない」と返しながら置いて行かれて、吉雄~!!吉雄!??って呼びながら泣いているところを想像した。それを母に言うと「その時はやっぱり後ろめたいし、誰かが大事にしてくれるかもとおもって いい洋服きせたりするのかな」と想像を膨らませたので「私が買わないとおもうキャラつき凄い趣味のおもちゃを、 いきなり、すんなり買ってあげたりすると怪しい感じがするね」と便乗。そして、大きなぬいぐるみを抱っこして娘がすきそうな、派手でキャラクターの描かれたフリフリがふちについているような肩からかける真新しいポシェットを持っておしゃれ着をきて、新しい革靴を履いて、泣きながら人通りの多い見知らぬ土地に1人で居る娘を母と一緒に話のなかで登場させてうるうるしてしまった。か・・・・かわいそう。そして、そういう風にして1人置き去りにしたその時の私はどういうことになっているのかも想像してみた。オカネに困ったのか、悪いことしたのか、娘が居たらまずい状態になったのか・・・・が、あまり想像できない。私が娘を捨てないといけない、そんな状態になってしまったらつじつまがあうのだろうけど、今は全く無理なような気がする。困ったら真っ先に母が娘を連れて行きそうだし兄もそういうときに、引き取りそうな気がする。いや、まだ大丈夫と思っていても、彼らはちょっと私が頼りないと娘を連れ去ってしまいそうな、そんな感じも受ける。しっかりしないといけないなと思いつつも母と兄をかなり頼りにしているんだなと、ちょっと発見した。それに、「吉雄~!」と泣いている情景も結構無理があるのかも。娘はかなり人見知りしないので、あっというまに私なんか忘れそうだ。娘に、吉雄と離れ離れになったら嫌?って聞いたら嫌って当たり前にいうから、質問をかえて明日から山形さん家にもらわれて私とは離れ離れだったらどうする?ってきいたら、嬉しそうな顔をして「え・・・・(顔がほころぶが、ちょっとこらえて)・・・・吉雄も一緒じゃないと嫌」といった。後半は嘘っぽくて笑えた。母は全然嘘っぽくない!と娘を援護した。それ以前に「吉雄も」ってなんだwまぁ、捨てる気も里子に出す気も親をやめる気もないんだけど母と娘と歩きながら、そんなことを話してたまにその想像の中の「おしゃれして見知らぬところで1人泣く娘」を思い出す。どこかでそういう置いて行かれる子供がいたりする。(この場合、多分もっと小さい子だろうと思うけど)そうならないように、その親の周りに頼れる大人が居て相談にのったり一時的に預ったりそうはならないような力が働くといいなと 思ったりする。
January 9, 2007
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雑記に書いているとおもってたら書いてなかったので書いてみたりする。日本の偉人100という番組で、アインシュタイン氏が一位だったらしいとブログに書いてあって自分の雑記から「ラッセル・アインシュタイン宣言」を検索したら・・・・なかった!!!(え~うそぉ!)検索機能がおかしいのかとも疑ったぐらい。確か書いたと思うんだけど。と、探したら雑記についているレスへの返事のレスに挙げていたのだった・・・。というわけで・・・・かこうかな。ラッセル・アインシュタイン宣言(Russell-Einstein Manifesto)とは、イギリスの哲学者バートランド・ラッセル卿と、アメリカの物理学者アルベルト・アインシュタイン博士が中心になって、1955年に当時の第一級の科学者ら11人によって、米ソの水爆実験競争という世界情勢対して提示された核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えた宣言文のことです。その直ぐ後に、アインシュタイン氏が亡くなっていて彼の人類に向けた遺言とも言われていて、かなり有名ではある。宣言名は聞いたことがある人は多いのではないかな。読んだことあるひとも、もう一度読んでみてね。全部ブログ一枚に収めて書いたら、文字数がおおすぎだとエラー出てしまった。日本語訳を記載しておきます。原文はこちら 関連サイトとして、日本パグウォッシュ会議 http://www.pugwashjapan.jp/1957年以来、核兵器廃絶を始めとする科学と社会の諸問題と取り組んできた、世界の科学者の集うパグウォッシュ会議(1995年ノーベル平和賞受賞)の日本グループのサイト。****************************************************************************ラッセル=アインシュタイン宣言1955年7月9日 ロンドン私たちは、人類が直面する悲劇的な情勢の中で、科学者たちが会議に集まって、大量破壊兵器の発達の結果として生じてきた危険を評価し、ここに添えられた草案の精神において決議を討論すべきであると感じている。私たちが今この機会に発言しているのは、あれこれの国民や大陸や信条の一員としてではなく、その存続が疑問視されている人類、人という種の一員としてである。世界は紛争に満ち満ちている。そしてすべての小さな紛争の上にかぶさっているのは、共産主義と反共産主義との巨大な闘いである。政治的な意識を持つ者はほとんど皆、これらの問題のいくつかに強い感情を抱いている。しかし、もしできるならば、皆さんにそのような感情をしばらく脇に置いて、ただ、すばらしい歴史を持ち、私たちの誰一人としてその消滅を望むはずがない生物学上の種の成員として反省してもらいたい。私たちは、1つの集団に対し、他の集団に対するより強く訴えるような言葉は、一言も使わないように心がけよう。すべての人が等しく危機にさらされており、もしこの危機が理解されれば、皆さんがいっしょになってそれを避ける望みがある。私たちは新たな仕方で考えるようにならなくてはならない。私たちは、どちらの集団をより好むにせよ、その集団に軍事上の勝利を与えるためにどんな処置がとられうるかを考えてはならない。私たちが考えなくてはならないのは、そんな処置をとればすべての側に悲惨な結末をもたらすに違いない軍事的な争いを防止できるかという問題である。一般大衆は、そしてまた権威ある地位にある多くに人々でさえ、まだ核爆弾による戦争によって起こる事態を自覚していない。一般大衆は今でも都市が抹殺されるくらいに考えている。新爆弾が旧爆弾よりも強力だということ、原子爆弾1発で広島を抹殺できたのに対して水素爆弾なら1発でロンドンやニューヨークやモスクワのような最大都市を抹殺できるだろうということは理解されている。疑いもなく、水爆戦争では大都市が抹殺されてしまうだろう。しかしこれは、私たちの直面しなければならない小さな悲惨事の1つである。たとえロンドンやニューヨークやモスクワのすべての市民が絶滅したとしても2、3世紀の間には世界は打撃から回復するかもしれない。しかしながら今や私たちは、特にビキニの実験以来、核爆弾は想像されていたよりもはるかに広い地域にわたって徐々に破壊力を広げることができることを知っている。信頼できるある筋から、今では広島を破壊した爆弾の2500倍も強力な爆弾を作ることができるということが述べられている。 もしそのような爆弾が地上近くまたは水中で爆発すれば、放射能を持った粒子が上空へ吹き上げられる。そしてこれらの粒子は死の灰または雨の形で徐々に落下してきて、地球の表面に降下する。日本の漁夫たちをその漁獲を汚染したのは、この灰であった。そのような致死的な放射能を持った粒子がどれほど広く拡散するのか、誰も知らない。しかし最も権威ある人々は一致して水素爆弾による戦争は実際に人類に終末をもたらす可能性が十分にあることを指摘している。もし多数の水素爆弾が使用されるならば、全面的な死滅が起こる心配がある。――瞬間的に死ぬのはほんのわずかだが、多数の者はじりじりと病気の苦しみをなめ、肉体は崩壊していく。多くの警告が著名な科学者や権威者によって軍事戦略上から発せられている。しかし、最悪の結果が必ず来るとは、彼らのうちの誰も言おうとしていない。実際彼らが言っているのは、このような結果が起こる可能性があるということ、誰もそういう結果が実際起こらぬとは断言できないということである。この問題についての専門家の見解が少しでも彼らの政治上の立場や偏見に左右されたということは今まで見たことがない。私たちの調査で明らかになった限りでは、それらの見解はただ専門家のそれぞれの知識の範囲に基づいているだけである。一番よく知っている人が一番暗い見通しを持っていることがわかった。さて、ここに私たちがあなたがたに提出する問題、厳しく、恐しく、そして避けることのできない問題がある――私たちは人類に絶滅をもたらすか、それとも人類が戦争を放棄するか?人々はこの二者択一という問題を面と向かって取り上げようとしないであろう。というのは、戦争を廃絶することはあまりにも難しいからである。戦争の廃絶は国家主権に不快な制限を要求するであろう。しかしおそらく他の何にも増して事態の理解を妨げているのは、「人類」という言葉が漠然としており、抽象的だと感じられる点にあろう。人々は、危険は自分自身や子どもや孫たちに対して存在し、単にぼんやり感知される人類に対してではないということを、はっきりと心に描くことがほとんどできない。人々は個人としての自分たちめいめいと自分の愛する者たちが、苦しみながら死滅しようとする切迫した危険状態にあるということがほとんどつかめていない。そこで人々は、近代兵器さえ禁止されるなら、おそらく戦争は続けてもかまわないと思っている。この希望は幻想である。たとえ水素爆弾を使用しないというどんな協定が平時に結ばれていたとしても、戦時にはそんな協定はもはや拘束とは考えられず、戦争が起こるや否や双方とも水素爆弾の製造に取りかかるであろう。なぜなら、もし一方がそれを製造して他方が製造しないとすれば、それを製造した側は必ず勝利するに違いないからである。軍備の全面的削減に一部として核兵器を放棄する協定は、最終的な解決を与えはしないけれども、一定の重要な目的には役立つであろう。第一に、およそ東西間の協定は、これが緊張の緩和を目指す限り、どんなものでも有益である。第二に、熱核兵器の廃棄は、もし相手がこれを誠実に実行していることが双方に信じたれるとすれば、現在双方を神経的な不安状態におとしいれている真珠湾式の奇襲への恐怖を減らすことになるであろう。それゆえ私たちは、そのような協定を歓迎すべきである。私たちの大部分は感情的には中立ではない。しかし人類として、私たちは次のことを銘記しなければならない。すなわち、もし東西間の問題が誰にでも――共産主義者であろうと反共産主義者であろうと、アジア人であろうとヨーロッパ人であろうと、または、アメリカ人であろうとも、また白人であろうと黒人であろうと――可能な満足を与えうるような何らかの仕方で解決されなくてはならないとすれば、これらの問題は戦争によって解決されてはならない。私たちは東側においても西側においても、このことが理解されることを望む。私たちの前には、もし私たちがそれを選ぶならば、幸福と知識と知恵の絶えない進歩がある。私たちの争いを忘れることができぬからといって、その代わりに、私たちは死を選ぶのであろうか?私たちは、人類として、人類に向かって訴える――あなたがたの人間性を心にとどめ、そしてその他のことを忘れよ、と。もしそれができるならば、道は新しい楽園へ向かって開けている。もしできないならば、あなたがたの前には全面的な死の危険が横たわっている。 ◆決議 私たちは、この会議を招請し、それを通じて世界の科学者たちおよび一般大衆に、次の決議に署名するよう勧める。「およそ将来の世界戦争においては必ず核兵器が使用されるであろうし、 そしてそのような兵器が人類の存続を脅かしているという事実から見て、 私たちは世界の諸政府に、彼らの目的が世界戦争によっては 促進されないことを自覚し、このことを公然と認めるよう勧告する。 従ってまた、私たちは彼らに、彼らの間のあらゆる紛争問題の解決のための 平和的な手段を見出すよう勧告する。」 マックス・ボルン教授P・W・ブリッジマン教授アルバート・アインシュタイン教授L・インフェルト教授F・J・ジョリオ・キュリー教授H・J・ムラー教授ライナス・ボーリング教授C・F・パウェル教授J・ロートブラット教授バートランド・ラッセル卿湯川秀樹教授
January 6, 2007
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****************************************************************************The Russell-Einstein ManifestoIssued in London, 9 July 1955IN the tragic situation which confronts humanity, we feel that scientists should assemble in conference to appraise the perils that have arisen as a result of the development of weapons of mass destruction, and to discuss a resolution in the spirit of the appended draft. We are speaking on this occasion, not as members of this or that nation, continent, or creed, but as human beings, members of the species Man, whose continued existence is in doubt. The world is full of conflicts; and, overshadowing all minor conflicts, the titanic struggle between Communism and anti-Communism.Almost everybody who is politically conscious has strong feelings about one or more of these issues; but we want you, if you can, to set aside such feelings and consider yourselves only as members of a biological species which has had a remarkable history, and whose disappearance none of us can desire.We shall try to say no single word which should appeal to one group rather than to another. All, equally, are in peril, and, if the peril is understood, there is hope that they may collectively avert it.We have to learn to think in a new way. We have to learn to ask ourselves, not what steps can be taken to give military victory to whatever group we prefer, for there no longer are such steps; the question we have to ask ourselves is: what steps can be taken to prevent a military contest of which the issue must be disastrous to all parties?The general public, and even many men in positions of authority, have not realized what would be involved in a war with nuclear bombs. The general public still thinks in terms of the obliteration of cities. It is understood that the new bombs are more powerful than the old, and that, while one A-bomb could obliterate Hiroshima, one H-bomb could obliterate the largest cities, such as London, New York, and Moscow. No doubt in an H-bomb war great cities would be obliterated. But this is one of the minor disasters that would have to be faced. If everybody in London, New York, and Moscow were exterminated, the world might, in the course of a few centuries, recover from the blow. But we now know, especially since the Bikini test, that nuclear bombs can gradually spread destruction over a very much wider area than had been supposed.It is stated on very good authority that a bomb can now be manufactured which will be 2,500 times as powerful as that which destroyed Hiroshima. Such a bomb, if exploded near the ground or under water, sends radio-active particles into the upper air. They sink gradually and reach the surface of the earth in the form of a deadly dust or rain. It was this dust which infected the Japanese fishermen and their catch of fish. No one knows how widely such lethal radio-active particles might be diffused, but the best authorities are unanimous in saying that a war with H-bombs might possibly put an end to the human race. It is feared that if many H-bombs are used there will be universal death, sudden only for a minority, but for the majority a slow torture of disease and disintegration.Many warnings have been uttered by eminent men of science and by authorities in military strategy. None of them will say that the worst results are certain. What they do say is that these results are possible, and no one can be sure that they will not be realized. We have not yet found that the views of experts on this question depend in any degree upon their politics or prejudices. They depend only, so far as our researches have revealed, upon the extent of the particular expert's knowledge. We have found that the men who know most are the most gloomy.Here, then, is the problem which we present to you, stark and dreadful and inescapable: Shall we put an end to the human race; or shall mankind renounce war? People will not face this alternative because it is so difficult to abolish war.The abolition of war will demand distasteful limitations of national sovereignty. But what perhaps impedes understanding of the situation more than anything else is that the term "mankind" feels vague and abstract. People scarcely realize in imagination that the danger is to themselves and their children and their grandchildren, and not only to a dimly apprehended humanity. They can scarcely bring themselves to grasp that they, individually, and those whom they love are in imminent danger of perishing agonizingly. And so they hope that perhaps war may be allowed to continue provided modern weapons are prohibited. This hope is illusory. Whatever agreements not to use H-bombs had been reached in time of peace, they would no longer be considered binding in time of war, and both sides would set to work to manufacture H-bombs as soon as war broke out, for, if one side manufactured the bombs and the other did not, the side that manufactured them would inevitably be victorious.Although an agreement to renounce nuclear weapons as part of a general reduction of armaments would not afford an ultimate solution, it would serve certain important purposes. First, any agreement between East and West is to the good in so far as it tends to diminish tension. Second, the abolition of thermo-nuclear weapons, if each side believed that the other had carried it out sincerely, would lessen the fear of a sudden attack in the style of Pearl Harbour, which at present keeps both sides in a state of nervous apprehension. We should, therefore, welcome such an agreement though only as a first step.Most of us are not neutral in feeling, but, as human beings, we have to remember that, if the issues between East and West are to be decided in any manner that can give any possible satisfaction to anybody, whether Communist or anti-Communist, whether Asian or European or American, whether White or Black, then these issues must not be decided by war. We should wish this to be understood, both in the East and in the West.There lies before us, if we choose, continual progress in happiness, knowledge, and wisdom. Shall we, instead, choose death, because we cannot forget our quarrels? We appeal as human beings to human beings: Remember your humanity, and forget the rest. If you can do so, the way lies open to a new Paradise; if you cannot, there lies before you the risk of universal death.Resolution: WE invite this Congress, and through it the scientists of the world and the general public, to subscribe to the following resolution:"In view of the fact that in any future world war nuclear weapons will certainly be employed, and that such weapons threaten the continued existence of mankind, we urge the governments of the world to realize, and to acknowledge publicly, that their purpose cannot be furthered by a world war, and we urge them, consequently, to find peaceful means for the settlement of all matters of dispute between them." Max Born Percy W. Bridgman Albert Einstein Leopold Infeld Frederic Joliot-Curie Herman J. Muller Linus Pauling Cecil F. Powell Joseph Rotblat Bertrand Russell Hideki Yukawa ****************************************************************************
January 6, 2007
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年末、久々に映画館に行ってみました。アニメ、「鉄コン筋クリート」!の初日w6歳の娘がいるから、アニメかと思うかな?しか~し、映画館に子供は家の娘のみで、あと全員大人でした。年齢も私の歳前後がおおかったかな。彼氏が私の歳ぐらいで、つれてこられた20代前半の彼女というかんじのカップルもおおかったかな~。1993か1994年ぐらいに雑誌に連載されていたもので雑誌掲載時、私は、絵が汚いと言う理由で読んでいなかった。歯とか一本一本描かれると、なにげに汚い。私は二十歳ぐらいに単行本で読んだときに汚いわ、かわいくないキャラなのに、読み進めると味があって、、、シロもかわいくみえてきて驚いた。世界観を作るための技法なのか、汚い線は!と、目からウロコがおちたものです。映画に話をもどします。映画の場合、そのままの汚さを維持することは難しいのか結構小奇麗な感じの町並みになっていて、キャラもそのままってわけにはいかなかったのか、デフォルメがキツクなってる感じだったな。単行本の表紙のような着色だといいなと思ったけれどちょっとやわらかめな感じになってました。それはそれで、いいかな。見終わって思ったのが、、これ、漫画読んでない人はどういう風に思うのかなァ。私だったら同じ「鉄コン筋クリート」でも違う感じになるだろうな。2時間ぐらいにするのって難しいんだろうなァ。アニメ化・映画化されてなければ、いつか私が・・・と思えるけどされちゃっているんだもんね。「鉄コン筋クリート」の映画化した人と作成に参加した人がうらやましい。娘は家にある漫画のほうは「かわいくないから」という理由で読んでなかったけれど映画は途中眠りもせずに見入って、笑ったり、ちょっとウルウルしたりしていたようです。気になったら観てみてね。漫画のほうがお勧めだけど。
January 5, 2007
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新春のお喜びを申し上げます。 旧年中もこの時事ネタのような親ばか日記のような なんか意味のあるような無いようなそんな 私のブログにお付き合いいただき、 誠にありがとうございました。 皆様のレスのおかげでずいぶんと書いてしまいましたが また色々と書いていきたいと思い 文章についてももっと精進して以降と思っております。 今後とも宜しくお願い致します。 2007年元旦*・-・*・-・*・-・*・-・*・-・*・-・*・-・*・-・*・-・*・-・*2001年宇宙の旅!!?とおもってたら2010年に近くなってきましたね。あまり未来チックじゃないなぁと、少し寂しい吉雄です。いかがお過ごしでしょうか。今年はメイッパイ親ばかな年賀状を多方に送りつけましたがネットでしかお会いできない方も沢山いらっしゃいますので今年も年賀状代わりに、雑記を書いてます。昨年も色々ありましたね。今年も色々あるんでしょうね。今年は久しぶりに、去年の夜11時からでかけ1月1日0時に初詣に行ってまいりました。学生の頃は、正月は夜中子供が歩いても怒られない唯一の日と、眠くても夜中でかけてましたがここ数年はいかなかったんですよね。近くにそこそこやる気のある神社があることはいいですね。どこの氏子ってわけでもないんですけどね。では、皆様楽しいお正月をお過ごしください。 吉雄
January 1, 2007
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