星の国から星の街へ(旧 ヴァン・ノアール)

PR

プロフィール

星の国から星の街へ(旧 ヴァン・ノアール)

星の国から星の街へ(旧 ヴァン・ノアール)

カレンダー

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2021.05.20
XML
カテゴリ: 読書 原田マハ
 1863年パリで開催されたサロン(官展)に出品した5000点のうち3000点が落選し、その落選した絵画の展示会「落選展」は「ナポレオン3世(1808-1873)」が画家達からのクレームを受けての企画でした。

叔父にあたる ナポレオン1世 ​(1769-1821)」の失脚によって亡命生活も送ったナポレオン3世は1848年には「第2共和政」の大統領に当選、1852年に「皇帝」に即位し1870年の普仏戦争で捕虜になるまではその座に君臨することになります。

 このナポレオン3世の従妹の「マチルド・ボナパルト(1820-1904)の存在を原田マハ著「たゆたえども沈まず」で初めて知りました。


「マチルド・ボナパルト」 ネットの画像から。

 小説の中ではパリの自宅で盛大な「サロン」を開き、様々な国の豪商や著名人を招いていたとありますす。その招待客の中に当時パリで主に「浮世絵」を扱い活躍していた日本人画商「林忠正」がいました。フランス語を巧みに操り芸術に造詣が深い彼に対してマチルドは一目置いていたようです。そして林忠正が惹かれていた画家の一人が「ゴッホ」です。

 マチルド・ボナパルトの人生を調べてみるとなかなか興味深い事実が出てきます。12歳年上のナポレオン3世(当時はルイ・ナポレオン)と会ってお互いに一目惚れをし婚約を交わしています。

 ところが1836年、政治上の理由でルイ・ボナパルトが逮捕され婚約は破談、結局マチルドはロシアの大富豪と政略結婚をします。しかしその夫の暴力のため別居を決め慰謝料を含めた仲裁に入ったのが当時のロシア皇帝「ニコライ1世」です。ニコライ1世はマチルドの母の従妹にあたります。

 ニコライ1世の仲裁で莫大な慰謝料を得たマチルドはパリに戻り、愛人と共に暮らし豪勢なサロンを開きながら生活を満喫していたようです。

 そしてそのサロンでナポレオン3世はスペインの貴族の娘と出会い結婚することになります。マチルドは激怒したとあるのはやはりナポレオン3世への忘れがたい思い、女心なのかなと思います。ただ結婚するまではマチルドは公式の場で皇后の役割も果たしていて、一時ナポレオン3世の結婚で険悪な雰囲気が流れたとしても終生仲が良かったようです。

 豪勢なサロンを開き美術界にも鋭いアンテナを張っていたであろうマチルドが当時は酷評されていた「印象派」の画家たちの絵を強くナポレオン3世にも薦めて「落選展」への開催に繋がったのかなと想像します。

 マチルド自身はロシア人の夫(離婚はしていなかったようです)が亡くなった後、美術史家であり詩人の男性と再婚し、また「落選展」から名前を変えた「印象派展」の第1回目はナポレオン3世が亡くなった翌年の1874年に開催されています。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2022.11.29 08:18:42
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: