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楽天のブログは使いにくいので「アメーバ」にて新しくブログを書き始めてマス。 SEIJIのブログ。http://ameblo.jp/seiji-1203/ んで、ここは親父が使う予定。
2008.12.29
民主主義って非常に効率の悪い制度だと思うのですよね。それこそ、その道に身を置いて何十年の人の意見も何も考えずにフワフワ生きてきた人の意見も等価に扱われる。政治にしてもなんにしてもいろんな人が歯がみしてきたと思いますよ。「お前ら、何にもわかってないくせに勝手なことを言うな!」と。でもじゃぁ誰に決定権をまかせるか?っていうとモメる。昔は「神聖不可侵にしてなんたらかんたら」と説明される人たちが王権としてそれを司ってきたのですが今はそういう時代じゃないし。「民主主義は万能ではない。しかし他にいい方法が見つからない。」ってのは本当にいろんなトコロで言われてるコトですし。ということで私の持論は「バカはしゃべるな」で変わってません。それは他人をバカにしてるからじゃなく、自分も含めてバカがしゃしゃりでないことが一番効率の良いやり方だと信じてるから。実際、髪のことはぜったい理容師の道永さんの言うことを聞きますし、車のことはディーラーのおおえもんの言うことを最大限取り入れるようにしています。大切なのはバカはバカなりに「この人は信頼に足る人だと思ったのならおいそれとそれに異を唱えることはしない」ということだと思ってます。もちろん疑問に思ったことや忌憚のない意見はブツけるべきで、それにスラっと答えられない人は「やれやれ、コイツは信頼できんな」と距離をおくようにしてますが。
2008.04.27
以前、「こんなことなんて、お見通しだと思うけど」みたいに言われて驚いたことがあります。とんでもない。まったく予想だにしなかったぞ! ていうか、なんでそんな話になってるのだ。と思ってたらどうやら私があちこちで「予想通りの展開」「やっぱりそうなりましたか」みたいなことをよく言っているからだということに気づきました。前に大学でデカいバッタの尻をつついて追い回してたことがあります。単純に"バッタにスタミナ切れは存在するのか?"という興味からだったのですが、このバッタ、尻をつつくと前にしか飛ばない。壁があろうがバカみたいに前のみに飛び続ける。「お前も単純だなぁ。"おのれ、ナメるな人間!"てな感じで俺の顔にでも飛び掛ってきたら"バッタのくせにやるでないか"と認めてやるのに。」とバッタ相手にこんなわけのわからんことを考えてるところが私らしいですが。しかし、その辺でハタと気づくわけです。ああ、私が得意なのはコレか。と。人間はバッタほど単純じゃないですがその「行動」には「傾向」があります。ケツつつかれたら前に飛ぶ、こう言われたらぜったい怒ってこう言い返す。みたいな。私はそういうのをよく見て、よく知ってるのではないかと思ったのですよね。だから常に「この人はこの事態にはこう対処するだろう。」「ああ言われたら、こうせざる得まい」というように「行動」の「傾向」を予測するクセがついてるわけですです。社会は人間の「行動」の集まりで成り立ってますから予測がうまくなればなるほど先の展開が読みやすくなるわけです。ただ、「行動」の下にある「心理」がなんであるのか。これは私にとってブラックボックス。まったく見当がつきません。それこそ裁判で新事実が発覚した時のなるほどくんみたいに「ナ、ナニィィィィィィ!」ってなることがすごく多い。アンタ、そんなこと思ってたのか!え? 怒ってないの?確かに釈然としなさそうな顔をしてたけど・・・みたいなことがホント多いです。でも、私がよく読む本にも「相手の心理をピタリとあてる、これは人間業じゃない。だから行動を読むクセをつけるのだ。」って書いてあってそのとおりにしてきたけど、ほんとに心理読めなさすぎだろう自分。少しは「心理」についての本も読んでみようと思う今日この頃。暇になったら。
2008.01.31
ちょっと前に書いた銀河英雄伝説外伝『汚名』の話。なんであの話がものすごく印象に残っているのかわかりました。ネタバレになるので銀河英雄伝説を見る予定の人は読まないでくださいね。 ------------------ 『汚名』の中に出てくるカイザーリング男爵は銀河帝国の軍部の歴史の中でも、最も不名誉な経歴を持つ男。カイザーリング艦隊は敵国である惑星同盟の艦隊を待ち伏せし、奇襲をかけようとしている際、一部の艦船が先に発砲してしまう。おかげで奇襲は敵にバレてしまい、逆襲にあったカイザーリング艦隊は大敗を喫す。その杜撰な艦隊指揮の責任を問われたカイザーリングは大将から少将への降格の上、退役(軍隊を引退)にまで追い込まれてしまう。 それから数年。 本作の主人公、若干19歳で中佐にまで昇進していたキルヒアイスはリゾート惑星で1人の老退役少将・カイザーリングが暴漢に襲われているところを助ける。それが縁でキルヒアイスとカイザーリングは深くかかわりあの事件の真相を知ることに・・・。 ------------------ 真相はアレなんですよ。カイザーリングには死ぬほどに愛したヨハンナという女性がいて、でもその女性はカイザーリングの友人の奥さんになってしまうわけです。んでその友人はひどい奴で軍隊内部で麻薬を売っていたわけです。しかも、その麻薬が重大な局面で艦内に漏れ出し、思考がおかしくなった船員が発砲。そのせいで大敗につながったというのが真相。でもカイザーリングは「ヨハンナの夫が犯罪者であってはならんのだ。」と一切の弁解をせずに自らの不名誉とひきかえに友人とヨハンナを守ったわけです。 で、その後強烈だったのがキルヒアイスがカイザーリングにこう指摘する所です。 「お言葉ですが、閣下、あなたはかつて無能な卑怯者というわれなき汚名を甘受なさったではありませんか。恋人のためにその汚名を受けることはできても、麻薬に犯された人々のためにはできないと言われるのですか」 劇中で出てくるサイオキシン麻薬は本当にひどく、中毒者の体を蝕むだけでなくその子どもから何代も後の世代にわたって奇形という形で人を苦しめる最悪の麻薬。キルヒアイスが言っていることが何よりも正論でした。 そしてその後、カイザーリングは・・・ と、前のアレにつながるわけなのですが、このやり取りがいたく印象に残ったのはなんでだろうとずーっと思っていたのですよね。それがやっとわかりました。まさに祖父と孫と言っていいほど年齢が違うのに、年若なキルヒアイスが、歴戦のカイザーリングに対して毅然と物事の道理を諭し、それにカイザーリングがあまりに素直に、あまりに真摯に応えているという姿がすごくカッコよかったのですよ。 人は相手の年が上だ、肩書きがスゴい、というだけで媚びへつらい、正しいと思うことも主張できなくなってしまいます。また年長者は相手の年が下であるというだけで、若者の言うことを軽んじるむきにあります。 しかし、本当に大切なのは「誰が」ではなく「何を」言っているか。そしてその言が正しいのであれば相手が誰であろうと率直に口にし、率直に省みらなければならないと思うのです。 なのでこのやりとりを私は「美しい」と思ったのでしょう。 私もまだまだ年上の人とも年下の人とも接する機会が多いですが、常に自分はキルヒアイスのようであるか? また、それに応えるカイザーリングのようであるか? を胸におきながら人と接するようにしたいと思います。
2008.01.15
「君は実にバカだな。」 と言えばドラえもんの名セリフですが、人にこういわれた時にあなたはどう思いますか。 人間ってその対応によって3種類にわかれると思うのですよね。 怒る人、落ち込む人、そして、笑う人。 まず、怒る人。 結構います。 「なんでアンタにそんなこと言われないといけないのよ!」 こういう人はワリと他人の言葉を受け入れるということが苦手なようです。 高い自意識が他人からなされた指摘を受け入れられずその拒否反応として怒りの感情を返す、と私は分析しています。要はこういう人はあまり人の言うことをききません。 次に、落ち込む人。 これはめっちゃ多いです。 こういう人は他人から言われたことを過大にとらえてしまう傾向にあります。言われたことによって落ち込んで、物事に対する、いや時に、人生に対するモチベーションすらなくしてしまったりします。 確かに他人の指摘を受け入れられるという点で怒る人よりも優れている、と言えますが、それが改善につながらないのであまり意味がありません。というよりそれ以外のところに影響するぐらい落ち込んでしまう場合などは、怒る人よりなお始末に困ると言えるかもしれません。 そして最後に、笑う人。 こういう人を見ると私は「おお、コイツ、やるではないか。」と思ってしまいます。私が認める人というのはだいたいこの特徴を持っています。 「バカだな」と言われて、笑える、ということから以下の2つのことがわかります。 自分を自分でバカだ、など毛頭思っていない。つまり自信に満ち溢れているということ。 「この私をもってして、バカ? なにをバカなことを(笑)」 という高い自尊心と余裕、そして時に相手を見下すことさえできる自負心をもっているから笑えるのです。そしてその心の余裕は相手の言葉を過大にも過小にも評価せず平常心で受け入れることができます。 そして、次に 「おもしろい。もしよかったらそう思う根拠を聞かせてもらえないだろうか?」 バカだという明らかにマイナスの言葉をもってして興味の対象とし、それを向上の道具にしてやろうと思える好奇心の持ち主、だから笑えるのです。さも「珍しい話が聞ける。ワクワク」という顔で自分がバカだと言われた理由を待つのです。 そして理由を聞いたら・・・ 「ははは。言われてみれば、そりゃぁ確かに私はバカだったな。以後気をつけるとしようか(笑)」 バカというネガティブな言葉に感情が引きずられず、事実だけを受け入れる。この姿勢ができるのがスゴい人の条件な気がします。 そういう私は自分を「笑う人」だと思っています。ていうか笑う人のセリフのモデルは私ですし。昔は落ち込む人でよく焦燥感にかられたり泣いてたりしましたが、今は笑います。 誰かにバカにされてることに気づいても 「うぉ、バカにバカにされた、テラシュールwwww」「ははは 痛いところをつくではないか。これは1本とられた(笑)」「すげー 確かにそうだ! まーったく気づかなかった ありがとう!」 てな具合です。 バカにされても笑える人が増えたらつまらん気を遣わずにすむし、もっと素晴らしくなると思うのだけどなぁ。
2007.12.30
3018さんのコメントがありがたかったのと、本が来てちょうどいい機会だったので「人を見る目」について書いてみます。ただし、これには本当に含蓄があるのでまたテーマにすることがあるでしょうけど。Amazonで頼んでいた『コンシェルジュ』の11巻が昨日ようやく届きました。この巻から『グロリアの宝石』といわれるスーパー・コンシェルジュ、朝霧花織が登場します。--------------------------------------- ある宝石商で朝霧は一人の若い女性と出会います。母の形見である琥珀(アンバー)の指輪を光り輝かせるようにしてホテル・グロリアで開かれる宝石展覧会でまだ見ぬ祖父に会いたいと言う彼女。朝霧は彼女の希望に沿ってあまり光り輝く宝石ではない琥珀の指輪を誰もの目をひく素敵な指輪にしつらえます。 展覧会当日。 「What?」「Oh!」 光り輝く彼女の指輪に参加者の視線が集まり、そしてそれに気づいた老紳士が駆け寄ります。 「君! その指輪をどこで手に入れた!? これは私が娘のエミリーにやったものだ!」 「エミリーは私の母です。父は長谷川圭介。私は娘のるみです。」 そしてカバンの中に手をいれ何かを探し出す彼女。そこに朝霧があらわれて・・・ 「コレをお探しですか?」 手に持っているのは小型のナイフ。 「人が人を探すとき、それが善意に基づいての行動とは限りマセン ご両親が駆け落ちしたとおっしゃった時 私が「素敵」と言ったのニ あなたは何もおっしゃらなかっタ」 「男性なら見落としたかも知れまセン 怒りの感情がそこに見えまシタ」--------------------------------------- これ、なのですよね。私が人を見るときに最も大切にすることは。 自分の例でいうならば、 「私はあなたの○○な所、好きですよ。」 というようなことをよく言います。 ただ、ある女性はその言葉に対して 「ハイハイ、私、告白されましたー」と、おどけて返してきたのですよね。珍しいリアクションだったのでよく覚えているのですが、なぜそんな返しになったのか、一瞬で推察しました。たぶん、この人はあまり男性からこのようなことを言われたことがないのだな。だからその気恥ずかしさに耐えかねて、こういうリアクションになったのだろうな、と。私は自分の愚かさを知らないのと同じぐらい自分の優れたところを知らない人生は不幸だと思うので、人に対してどちらもよく口にしますが、この人のまわりにはそういう男性がいなかったのだろうな、そうだとしたら、それはとてもさびしいことだ・・・と勝手に思ったのでした。 また逆に、 「ははは。ありがとう。」 と言うわりにはそこにぜったいあるはずのテレや気恥ずかしさがその言葉に微塵も感じられない女性もいました。私はその言葉を聞いて、ああ、この子は今までたくさん、こういうことを男性から言われ続けてきたのだろう。だからそれぐらいでは感情の揺れは起きないのだ。"世の中から愛されてきた女性"か、うらやましくもあるが、かわいそうでもあるな。人から向けられる好意を当たり前と思うなら、人から優しくされて涙を流すということはこれからもないのだろうから。と思うわけです。 朝霧花織の例で言うなら「素敵」という言葉に何も返さなかった。私の例ならば「あなたの○○な所、好きですよ。」という言葉に茶化して返したか、ありがとう、と返したか。それぐらいのことです。しかし、そのセリフを発したとき、聞いた者でしかわからない、いや聞いていても気をつけていなければ見逃してしまうようなわずかな"感情" これをどれだけ"感じられるか"ということが、人と話す上で、その人を理解する上で、最も大切なことだと思うのです。 だからいつぞや「そんなこと、誰でもいえる」と言われて大変腹をたてたのは、その裏に確かに存在する、あのときの感情を、何も知ろうともしないでなにを知った風なクチをきくのか!と憤ったからです。 言葉に感情をのせられる、私はそれを"自分の言葉をもっている"と表現します。やはり自分の言葉を持っている人は魅力的だし、逆にどれだけ正しいコトを言っていようが自分の言葉でなければ人の心には届きません。他人の言葉から自分の言葉への脱却。これが魅力的なヒト、になるための条件だと私は思うのですよね。 ね、言葉って奥が深いでしょう? 「10分話していればその人のことは8割わかる。でも残りの2割は100年いっしょにいてもわからない。」10分話していれば自分の言葉か、他人の言葉か、すぐにわかりますから。そして、やはり女性は感情の生き物という言葉があるとおり、まだ女性の方が自分の言葉で話している人が多い気がします。
2007.12.13
「俺は前から塾講師の仕事を長くしていたから、声の出し方、板書の書き方は、まぁ他の一般的な教育実習生よりかは最初からよくデキてた方だと思う。実際、土佐先生にもお褒めをいただいたし。でも今回、土佐先生からの指摘でものすごく思い知らされたことがある。「君の説明は"天下り的"やな。」と言われたこと。つまり、俺の説明は”まず、結論ありき”だということらしい。ある一定の、目的とする"科学的な法則"に向かって説明を組み立てていっていると。科学的思考にとって最も大切なことは、凡百という一見なんのことかわからない事実の積み重ねがいったいどのような科学的な意味合いを持つのかを推測すること、実感することで、君はその過程をすっとばして、いきなり答えまで導こうとしていると。 いや、俺、そんなことを言われたのははじめてやったから、いたく感動した。そして言われるまで、自分がやっている"ルール違反"にまったく気づかなかったことにものすごく驚いた。言ってみれば俺がやっていたのは推理小説を書くのと一緒だったのだなって。まずトリックがあって、それに犯人や動機を加えて、、、あとで探偵が事件を解きやすくすることを最優先に物語を組み立てていく。でも実際の世の中の事件はそんなもんじゃない。誰が犯人なのか、何が起こったのか。警察はただひたすら現場を調べて犯人にたどりつく。それが本当なのだって。ニュートンもアインシュタインもファラデーも、みんなそうやって科学的な法則にたどりついたのだと。そして土佐先生は君達にそれを追体験させようとしているのだと。 でもな、俺は自分が間違っていたとは思わない。 そりゃお前らは毎日必ず1時間は土佐先生の授業があるわけや。でも俺ら塾講師は1週間にたったの1回、1時間30分の授業。しかも出席とったり、テストやったり、賞味授業の時間ていうたら1時間ぐらい。その時間で生徒や保護者に学校の先生以上の"満足"を感じてもらうにはそれぐらいの科学的な"ズル"でもしないとやってられない。それが塾というものだと思う。ただ、それは俺のホームグランドでするべきことであって、ここですることではないし、正直”科学的思考”のなんたるかは本当にここに来て土佐先生に教えてもらわなければ身をもって知ることはできなかった。いや、俺自身、この教室で、何年か前まではそっち側に座って土佐先生の授業をうけてたワケやし、「ふぎゃー わからんー」と言って授業中でも寝てて何度も土佐先生に怒られてたワケだ。でも俺はあの時、土佐先生が俺達生徒にそのような考えをもって教えてられるとは露とも思わなかった。んで、その理念は、たぶん君達にも言ってられない。そういうことを言う人ちゃうから。だから俺が替わりに言っている(笑) この人は知識を教えているわけではない、科学にとって最も大切な"考え方"を体験させているのだと。いや、正直、俺が今何を言っているか本当の意味ではわからんと思う。だから、俺は、君達があと数年して、大学に入ったとき、ぜひとも教職の単位をとってもらいたいと思っている。余計な単位を何個も、しんどいかもしれんけど、いつか教育実習でこの学校に来て、大人になった自分の目で、自分を教えていた先生を見ると本当にいろいろよくわかる。そして、いかに自分が、大きな情熱をもって教えられてたかがよくわかると思う。これは、土佐先生が目の前にいらっしゃるから言うんじゃなくて、本当にそう思うから言っている。俺はその手のお世辞はぜったい言わないから。そしてその、"教育に関する大きな情熱と理念"というのはこの学校で再会したすべての先生が持ってられて、それもそれぞれすさまじかった。正直”これが本職の『先生』というものか”と舌をまいたのも事実。だから、俺は今になってはじめて、この学校で6年間、この先生方に、学べたことを誇りに思うし、今、こうして学んでいる君達を本当にうらやましく思う。なので、明日からも自分が教わっている先生方を信頼して、勉強に励んでほしいと思う。 これが、俺が、この2週間の千里国際学園の教育実習で実感したことだ。君達にとってこれから先、何かの役に立てば嬉しい。2週間、俺のくだらん話を聞いてくれて、ありがとう。」 ----------------- 教育実習の最後に時間をいただいた時に話させてもらった内容。見学に来てくれていた真砂先生には拍手をいただけました。千里国際学園での教育実習は確かに素晴らしい体験でした。大人になるということは、今まで見えなかったことがいろいろ見えてくるということ。そしてそのときにもう1度、あの学校を見る機会を与えられたというのは本当に幸福だったと思います。
2007.12.12
軽自動車から普通車に乗り始めるようになってもう半年以上が経過するのですがつい先日、助手席のドアが閉まる音を聞いて「ビクッ」ってなったのですよね。一瞬「なんで?」って思ったけどすぐに「ああ、小さい頃のトラウマか・・・」と納得したものです。うちは両親ともに共働きなわけです。まぁ同じ会社に勤めている、というか夫婦で会社をやっているので当然帰ってくるときは一緒なわけです。で、帰ってきて親の車が家の前に停まって、家の外から「ドン、ドン」と2回、あの普通車のドアがしまる音が聞こえてくる。それが毎日イヤで仕方なかったのです。だって帰ってきて(特に母親)の第一声はいつも「セイジ、勉強はしたか。」うちの両親は本当にそれしか関心がないのか、というと言いすぎかもしれませんが、何をするにもそれが一番最初に来てました。たまに親の帰りが遅くなって私達が2階の自分の部屋で寝ていると、母親がそっと入ってきて私の机の上の教材とノートを「パサッ パサッ」と何かを確認するように見て、そして出て行くということも多かったです。そして父親。父親には小学校のテストで100点以外の点を取るといつもゲンコツでアタマを殴られました。間違った問題の数だけ。しかも手加減なしですから1回殴られただけで涙がでるぐらい痛かったのです。私と弟はそれがあまりにイヤだったので学校で「子どもを殴ったりしてはいけないという法律がある」ということを習った時、喜んで「こんな法律があるからやめてくれ」と抗議したことがあるのですがそれに対して親父は「ほぉ、お前達はあれを殴られたと思っていたのか。俺はアタマをなでているつもりだったが。」とシレっとこたえて、その後も虐待はつづきました。今考えると、なんという理不尽。私が塾講師をしていたときに生徒がそんなことをされていると聞いたならば私はぜったい、家まで足を運んで、面とむかって、「そんなことをして勉強が好きになると思っているのか!」と怒鳴りこんでいたと思います。基本、私は義憤にかられたらどんな相手でもケンカを売る。そのことによってどのようにまずい立場においやられようが関係ない。憤りを表に出せなくてなんのために男に生まれたのか、と。でも、そうなったのは幼い頃に理不尽に反発することすらできなかった自分に対する複雑な思い、そしてもう2度と私は理不尽を見過ごしはしないという気持ちがそうさせるのではないかと思います。そしてあきれたのは、これはつい2年ぐらい前の話ですが、父親と母親の出身校をはじめて知りました。親父は海外の大学に行く前は私の地元の近くの公立大学、母親にいたっては大学ではなく短大出。いや、学歴差別は毛頭する気はありません。しかし、父親と母親は「東大なんて俺に言わせれば簡単や。」「神戸大学や大阪大学ならアンタでも行けるやろ。」と常に言っていたのですよ。どの口でそれを言っていたのだ・・・。あれ以来、私の持論に『口だけなら山をも崩せる』が追加されました。でも、今考えると、哀れな親なような気もします。年がいってからの子どもでそれ以外の教育の仕方が思いつかなかったのでしょう。しかし、かといって許せるものではありませんが。 でも、たぶん私の生き方をはっきりと認識させてくれた言葉もたぶん親。「私は親に褒められたことがほとんどない。」という話を親にしたとき、母親が「そんなことはない。小学校のときのセイジは夜遅くまで塾に残って勉強しよく頑張っていた。あの時の頑張りは本当によかった。でもその後のセイジはほとんど努力することがなくなったけど。」最後はイヤミになるところがいかに親らしい。そして同時に「結局はそこしか評価しないのだな。」とガッカリした。確かに、合格者十数人の高倍率の関西の有名私立中学に入るためにあの頃は本当によく勉強をした。でも、それって中学に入るために勉強していたわけじゃない。一緒に塾に通う子ども達や先生が本当におもしろくて、良いライバルで、負けたくないし、できるだけ一緒にいたい。夜遅くまで塾にいれば彼らと笑いながら過ごしてられる。だから結果的に勉強していただけ。私は努力をしているなどとまったく思ってはいなかった。「気のあう人たちと、できるだけ長く、笑いながら一緒に過ごしたい。そのための苦労ならば苦労と思わない。」その理屈で言うならば、大学祭も塾講師もコムレードも今の放送部も、何一つ変わっていない。私はあの頃から何一つ変わっていないのに、親は勉強という尺度でしか私を見ないから「小学生の頃のセイジはよかった。その後はダメ。」という理屈になる。業ではなく、人が好き。そういう人が望んだ環境を手に入れられる唯一の手段が「起業家」という生き方なのだなぁと思う。私はいつも「どうしてこのヤクザな生き方を選ぶのか」というのを疑問に思っていたのだけど、それが唯一にして明快な答えなのだなぁ。好きな人がいなくなったら、逆に言えばそうならない限り、この生き方への憧れは捨てられないのだなぁと思う。
2007.12.08
以前のT.Nさんのコメントから「○○さんのことを好きになってくれて、私も嬉しいよ。」相手の親、兄弟が結婚が成就した時言うのなら兎も角、友達なんて好き勝手なこと言うよ。 僕だっていくらでも言うよ、そんな事。 あのときの記事を読んだほかの人にも同じようなことを言われました。それを聞いて私は"本気で言っているのか?"と目を丸くしたものです。そして私は言いました。 「君の認識は間違いだ。それだけは 明 確 に 否定しておく。」 友達は好き勝手なことを言う。確かにそのとおりですね。そしてそのような人間を友と呼ぶあなたに強い同情を申し上げる。私はそんな友達はいらない。 私の人を見る目は絶対です。 雰囲気にあわせてテキトーなことを言っている人間などすぐにわかります。だってテキトーなことを言っている時の私にそっくりですから。私は大切な人にはそんな態度とりませんから相手も私のことを大切にしてないか、言葉の使い方も知らないただのバカか、どちらにしても話していても時間の無駄なのでほとんど相手にしません。 そして一般的によく愛し、よく愛される人、というのは言葉の使い方をとてもよく知っています。「はははは! とても俺にはそんな言葉出せないよ。まさに君にしか作れない言葉だな。」と感心することは多いです。 そんな彼らの言葉が圧倒的な説得力を持つのは、それが、自分が何年か生きてきた中で醸成された言葉、うわべだけマネしようとしても決して遠く及ばない言葉だから。私を使って例えるならSEIJIという名の樽の中で、何年も何年も熟成された年代物のワイン。それがうまいかまずいかは私は知らない。でも、確実にこの味は私にしか出せない。そういう言葉を皆持っているはずなのです。しかし多くの人は、誰も自分のワインを醸造せず、「あのワインがうまそうだ」と言っては砂糖やアルコールを混ぜた味付き色水しか出しません。人が人に惚れる。というのは結局、そのワインの味に惚れるのだと思うのです。だからそういう陳腐な言葉を使っている人をみると「やれやれ、その安っぽい色水でどうやって自分の気持ちを伝えるんだい?」と悲しくなります。 そしてあの時、私に向かって「嬉しい」と言ってくれた時、あの2人から、たぶん意図せず流れ出したワイン、あの味は間違いなくあの2人にしか出せないものでした。だから「確実に本当のことを言っている」と確信したし、私には理解できなかったし、でも嬉しかった。 私は講師の仕事をして、後藤芳徳氏の本を読んで、言葉の重さを痛いほど思い知りました。言葉を使いこなせなければ、伝えたいことも伝えられない。それがいかに不幸なことか。よく知っています。だから今でも、言葉についてはよく考え、よく学んでいます。 その私をつかまえて 「そんなこと、誰でもいえる」 とは、素晴らしい見識をしている、と申し上げるしかない。 安物で粗悪なあなたのワインと、私が口にした生涯で最高のワインを、一緒にしないでいただきたい。
2007.11.26
ちょっと前の「無能な働き者」うんぬんを書いているときにも思ったのですが、世の中ってかなりの部分、「やらないよりやったほうがいい」という、ものすごくいい加減な理屈で動いていたりするなぁと思うのです。例えば、 「100の労力をかけて1の成果しか上がらない仕事」 たぶんほとんどの人はそんなバカげたことに手をつけないでしょう。明らかに労力と成果が見合ってませんから。 でもこれが 「1の労力をかけて0.01の成果しか上がらない仕事」 になると結構な人が手をつけてしまうんですよね。なにせかかる労力がたったの1ですから。そしてこういう仕事に手をつける人に限って「とりあえず、やってみようか」とか「やらないよりやったほうがいいでしょ」とか言うわけです。さほど悪いことを言っているようには聞こえないかもしれませんが、よくよく考えるとこれって「私はバカです」と言っているのに等しいと私は思うのです。つまりかかるコストの小ささにだけ目をむけて、そこから得られるリターンの大きさを正当に評価してない、考えることを放棄している。ほぼ”0”といっていい微小の、あるのかないのかわからない成果を得るために、”私は仕事をしてます”という自己満足のために仕事を設定しているのです。 しかもこういう人って必ずそれを100回繰り返して最悪パターンである「100の労力で1の成果」という状態に陥っていたりします。しかもこの状態、恐ろしいことに「改善することができない」という特徴をもっています。 もし仮に「この作業は効果が見られないのでやめましょう」ということになったとしてもその人にとっては手間が1減っただけです。100回の非効率な作業設定を繰り返しているその人にとってはやはり残り99の不毛な作業が待っていますからあまり変わった実感がわきません。あげく「やめたところで何も変わらないじゃないか」とか言いながらまた再開し始めかねない愚かさをもってたりします。本人には何が「忙しくさせているか」がさっぱりわかってないのですよね。 これが指導的地位にある人だったら悲惨。その非効率な作業にかけられる手間は他人のものだから気軽にドシドシバシバシ仕事を押し付けます。配下の人間は「この作業に意味はあるのか」と常に疑問を持ちストレスをためながら仕事するのだと思います。私はゼッタイそんなのイヤですけど。 そういうのを「無能な働き者」っていうのだなぁと書きながら思っていたのですよね。確かに殺すしかない・・・。 その点、私を筆頭に「怠け者」という人種はコストとリターンの評価が死ぬほどシビアです。 「この私が働くのだから1の手間で10の成果があがる仕事がいいなぁ」 という感じのことを常に目論んでいるわけですし、人を使う場合は 「他人にお願いするのだから1の労力で20ぐらい成果があがる仕事じゃないと悪いなぁ」 とか考えるので、できれば私は怠け者の上司のところがいいです。 んで有能か無能かをわけるのは「本当に1の手間で10の成果を上げる方法を思いつくか?」の一点に尽きると思います。思いつかない場合は「1の手間で1の成果? けっ バカらしくてやってられるか。それなら寝てるほうがマシさ」といって本当の怠け者になるのです。(おぉ、私だ。) 昔、親父が「若いうちから暇じゃ暇じゃと言っている奴にロクな奴はいない」と言っていましたが、私は「忙しい、忙しいと言っている奴は頭が足りない人が多い」と思っています。 だから私は「忙しい」という言葉をまず言いません。 「俺は本当にムダな時間をすごしてないな? 非効率な作業設定はしてないな?」とよく自省し、それでも「ゴマと百姓はしぼればしぼるほどとれる」という言葉のようにさらに時間というのはとれるものなので、それでも「もうカスカス、1秒も出ません」という状態になってはじめて「忙しい」と言える気がするのです。福島先生という人を知っておいそれと「夢」などという言葉がいえなくなったのに似ていますが。 ただ、本当に苦行のような生活をしている人がいて、「うん、君は確かに忙しいね。」という人もいますけど、そういう人にかぎって本人はケロっとしていて「まぁ、ボチボチかな。」とか言ったりするので忙しいってのはあくまでも主観なのだなぁと。じっさい「ごめん、その日は○○で・・・」みたいなことが続けばほっといても他人は「忙しい人」扱いしてくるので自分でことさら「忙しい」というのはちょっと恥ずかしいし、ほかの人はよく恥ずかしくないなぁって思う。というお話でした。 まぁこのブログ書いてるうちは間違っても「忙しい」なんて言えませんよね(笑)
2007.11.25
データでわかる辛口性格診断http://www.jmrlsi.co.jp/cgi-bin/ego/diagform.plリーダータイプがあっているかはさておき、これはあたっているっぽい。エゴグラムを基にした性格診断って結構あたるのだね。特に悪いところがよくあたっている。自戒を込めて印刷してみた。ここにも載せておこう。『リーダータイプ』 - キャッシュ【あなたはこんな人】あなたは典型的な「リーダー」タイプの人です。想像力が豊かで明るく楽しい人柄で、仕事では実務能力に長け、バリバリこなす有能な一方、遊び心も十分備えたエネルギッシュな人です。また、社会的な評価を強く意識するため、物事を「成功か失敗」「勝ち負け」のように、白黒どちらかで判断する極端な面があるので、自分にも他人にも非常に厳しい傾向があります。「やっぱり、思ったとおりだ!」と満足げに思ったあなた!!そこがあなたの悪いところなんです。「黙ってオレについてこい!」の精神で仲間を引っ張っていくあなたは、周囲からも頼りがいのある存在として見られている反面、「オレがやらなきゃ誰がやる」というおごりが強く、自分が一番大切な、ナルシストです。あくまでも自分の意見を押し通し、相手に追従を強いるので、気が付かないうちに嫌われていることがあります。周囲は当然自分についてくると思い込み、勢いいさんで突っ走ってみたものの、ふと振り返ると、自分の後ろにはだれもいなかった・・・なんて経験はありませんか。そんなときのあなたははっきりいって鳥肌が立つほど"サムイ"奴です。それどころか、次はどこぞの突破者に背後からグサリと一突きに刺されたりして・・・。「自分はこうあるべきだ」という理想が高く、非常に忙しい日々を送っているあなたにはたまには落ちついて自分を見つめなおしてみる機会が必要でしょう。ゆとりができれば、もっと視野も広がり、自分にも他人にもやさしくなれます。他人の気持ちをもう少し考えることができるようになれば、もっとよいコミュニケーションが成立し、周囲へのあなたの信望もますます上がることでしょう。【仕事】あなたは仕事に強い意欲を持って取り組み、キャリアアップのためには多少のリスクも厭わない向上心の持ち主です。また自分でリーダーシップをとって仕事を進めていくタイプのため、起業をしたりフリーで働くのが向いています。仕事をするときは徹底的にやりますが、仕事一本槍ではなく、仕事も余暇も両方の充実を求めます。【あなたの恋愛観】あなたは恋愛に対して非常に積極的。「口八丁、手八丁」でLove&Sexのうまさはそれ以上!!恋愛経験も豊富です。また、独立心が強いあなたは、恋人と過度に依存しあうことを嫌います。相手も似たもの同士のカップルなので、とてもいい関係を築いているようですが、それ故に軽い気持ちで浮気を楽しむこともしばしば。罪の意識はあまりありません。ただし、くれぐれもスキャンダルにはご注意!!浮気をするなら計画的に!!恋人もあなたと同様頭のよい相手のはずですから、ばれないように。
2007.11.25
銀河英雄伝説をずーっと見てます。本編から見始めて時系列順の最後にあたるこの作品。重い・・・。ひとりの女性をただ一途に愛し、そのためにすべてを失った老軍人の物語。---------------- 「誠意や愛情がそれを尽くされる者にとっては負担でしかない場合もあるのだな」「人生は初級の数学ではない。方程式ですべてが解決するわけではない」 「これだけの愛情を注げば、これだけの結果が返ってくる。と、わかっているなら人生はなんと単純で明快なものだろう」「中佐、君は正しい。私より正しい」「私は度し難いナルシストだった。誰一人、私によって幸福にならなかった」---------------- 「この人のバーゼル夫人への愛は無償のものだった。それは、尊いものといってよいのだろうか。それとも単なるエゴ、なのか」----------------「私が誰に愛されたかということは問題ではありません。私が誰を愛したかということが重要なのですよ」「ミヒャエルがクリストフより善良で誠実な人であることは私にもわかっていました。でもね、お若い人。人間としての評価の高さと愛情の深さとの間にはなんの関係もないのですよ」---------------- 「ふられ男の恨み言か。バカバカしい。嫉妬のあまりの妄言ということで片付けられるさ」「余計なお世話か。だが、私に言わせれば3年前のカイザーリングがやったことこそそれだった。頼みもせぬのに罪をひきうけ私に無言の恩を押し付けたのだ。奴は昔からそういう・・・」---------------- 重要なのは誰かの愛を求めるのではない。自分が誰を愛したか、ということ。そしてそのことによって決して後悔しない、ということ。ミヒャエル・フォン・カイザーリンが後悔しなかったように、ヨハンナ・フォン・バーゼルが後悔しなかったように、彼、ジークフリード・キルヒアイスも決して後悔しない。その思いがキルヒアイス自身の記録であり、この一両日を確かに生きたという証であった。
2007.11.23
「バカはしゃべるな」私の考えを端的にあらわす言葉です。あまり深く考えずに言い出した言葉のワリに世の真理をうまくあらわしているのではないかと結構気に入っているのですが、いかんせん語感がエキセントリックに過ぎるのでもっと良い言い回し方はないかと探していたら、やはり世の真理ならば誰かいい言葉を作っているものですね。ドイツの軍人、ハンス・フォン・ゼークトの組織論として一般に知られている言葉がそのまま、あてはまる気がします。「軍人は有能か無能か、 そして働き者か怠け者か、 これらによって4種に分類できる。 有能な怠け者は司令官に、 有能な働き者は参謀にせよ。 無能な怠け者は... そうだな、連絡将校ぐらいならできるだろう。 無能な働き者? それは処刑するしかあるまい。」私は少なくても働き者ではないので処刑される恐れはないと思うのでそこは一安心なのですが、確かに始末に困るのは「無能な働き者」だとものすごくうなずけるところです。戦争が身近なものでなくなった現代社会において有能か無能かをわけるのは「適切な判断を下せるか」だと私は考えます。そして働くとはどういうことか。それは現代においては「指示を出す」「行動する」ということ。なので現代語訳にすると「(適切な判断ができない)バカはしゃべるな。動くな。」となるわけです。もちろん判断というのはその分野についての多面的な知識・経験に裏づけなしには成り立ちませんから、どんな人でも「○○には有能。でも、□□には無能。」であるという側面を持っているので、自分は有能である、無能である。などということは一概にはいえません。だからこの言葉は逆に自戒の意味もこめているのですよね。「自分の手に負えないと判断する時は、極力判断するな。口を出すな。有能な人間の言うとおりに動くことだけを考えろ。」と自分に言い聞かせるわけです。これでも昔は無能な働き者の典型で、まわりが働いているというプレッシャーに負けてよくわからんままに手をだして逆に迷惑をかけることが多々ありました。なので今は「この場では明らかに私は"無能"だ。ならば(自分の判断では)何もしないのが"最善"」と考えられるようになりました。いやぁ、ホントに大人になったなぁ。そして翻るに、他人が明らかに合理性を欠く判断の下に指示を連発していたり、近視眼的な行動で足をひっぱられるのを見ると「頼むからじっとしててくれ。」「あんた一人で苦労するのは勝手だが巻き込まれるこっちはたまったもんじゃない」と言いたくなるのですよね。そんな苦労が何回もあったので知らない間に「バカはしゃべるな」が持論になったのでしょう。余談ですが民主党であの時何があったか、私には目に見えるようだったりします。福田総理も小沢代表も有能な政治家であり"大連立"が自民党にとっても民主党にとってもひいては日本国にとっても有益であると判断して小沢代表は党に持ち帰った。そこで小沢代表を待っていたのは近視眼的バカの猛反発。「衆院選で政権交代を目指すのではなかったのか!」「各選挙区はどうなるのか!」「自民党の風下などに立てるか!」「対決路線はどこにいったのか!」「地方の後援者にどう説明・・・」 誰一人、「民主党は政権担当に対して大きな疑問符をつけられている。どのような形であれ政権を担当し国民にお約束した公約を実現するという成果をあげ連立解消後の総選挙で政権奪取を目指す。首相の連立提案は参院選快勝の成果であり対立路線と矛盾するものではない。さらに個々の問題は決して解決できない問題ではない。」という小沢代表の言い分にまったく聞く耳をもたず「イヤなものはイヤだ」の一点張りの党内に小沢代表は心底失望してやる気が失せた。辞任会見の時の「民主党は力量不足」などの言葉はバカに対する痛烈な批判だったはず。ただバカはバカで「小沢さんがいないと選挙に勝てない。党として維持できない。」というこれまた極めて近視眼的な理由で慰留し、小沢代表も「こんなバカどもにまかせておいたらそれこそ二大政党制など夢のまた夢。私が投げ出したらすべてが終わる。」と考えなおして復帰。そのような流れだと思います。少なくても批判に抗いきれずに倒れた安倍さんとは違う理由だったのは明白なのですがそれを安倍さんと同列に扱うマスメディアもどんだけ底が浅いのだとこちらも失望してました。少なくても小沢さんが恥をさらしてでも復帰したことでかろうじて民主党の存在意義が残ったと勝手に思っています。ちなみにゼークトのそれぞれの適正配置の理由は以下のようです。■有能な怠け者は司令官に。自分には不向きなこと、やるのが面倒くさいことは、他人を利用して上手く押し付けるため ⇒ 他人の能力を信頼し仕事を分担して任せることで、結果的に組織を効率的に運営できる。自分はできるかぎり楽をしたいので、常に最小限の労力で最大限の効果が得られるような画策をするため。 ⇒ 有能だから、そういったやりくりは実に上手い。■有能な働き者は参謀に。他人にも自分と同等の完璧さを求めたがり、他人の無能ぶりがとことん許せないため。 ⇒ 人の能力をあまり信用せず、結果的に何でも自分でやりたがる傾向に陥る。完璧を欠けさせる失敗をしたくないので、常に最悪の事態が生じる可能性も考慮し、あらゆる場合に万全に対処できる下準備 (戦略的優位の確保) の労を惜しまないため。 ⇒ 働き者で完璧主義だから、どこまでも先を見通してすすんで何らかの策を講じる。■無能な怠け者は連絡将校(又は君主・下級兵士)に。自ら考え動こうとしないので、参謀や上官の命令どおりに実行するため。■無能な働き者は処刑せよ。働き者ではあるが、無能であるために間違いに気づかず進んで実行していこうとし、更なる間違いを引き起こすため。 どうせ怠け者に生まれたのなら、司令官にふさわしく「有能な怠け者」になりたいですね。そして、私のこれからの人生は、私の悪いところを補う「有能な働き者」を探す人生なんだろうな。とゼークトの言葉を考察する上で思いました。see also...ハンス・フォン・ゼークト - wikipediaTalk ~ 有能か無能か、働き者か怠け者か
2007.11.16
ラジオで使おうと思って初音ミクで作った音源を探していたのですが、そんな中で懐かしい曲を発見。 スーパーファミコンのゲーム「MOTHER2」のエンディング曲「SMILE & TEARS」 それまでのRPGのほとんどが「剣と魔法の世界で勇者が魔王を倒す」というようなのばかりだった中、コピーライターの糸井重里が作った近現代のアメリカの田舎町をイメージするなんとものんびりした世界をバットやフライパンで戦うやさしい少年少女たちが誰もしらないところでちょっとずつ世界をよくしていきそして最後は世界を救うという少し不思議なストーリーがとても印象的だったMOTHER2。 名曲と名高いED曲は当時スーパーファミコンだったので歌などあるわけもなくメインメロディが流れるだけ、歌詞は説明書?についてるのみだったのですが最近ファンの方が初音ミクというソフトで女性の声をつけてくれて聴きやすくなってました。 ゲームも純粋で好きだったのですが久しぶりに聴いて「大人たちの半分も生きてはいないけれど~♪ 思い出の数ならばリュックに一杯さ~♪」という歌いだしのところがとても気に入ってよく口ずさんでいます。 http://jp.youtube.com/watch?v=dx-yrKD1Xxk(本当はニコニコにある動画の方がすごくよいのですけど…。) それで今日もいつものように「SMILE and TEARS」を聴きながら作業していて何の気なしに歌詞を検索したら全歌詞が…。 "SMILES&TEARS"詞:糸井重里 曲:鈴木慶一大人たちの半分も生きてはいないけれど 思い出の数ならばリュックに一杯さお気に入りの baseball cap かかとつぶれた sneaker ポケットの奥にあるよ すり減った guitar pick 涙ちぎれるぐらい悲しい事もあったけど いつでも君が僕のそばに居てくれた友達のままいると二人ずっと思ってた 気付かないまま多分君を愛してた 笑いあったり遊んだり傷つきながら歩く 近道もまわり道も迷いながら憶えた信じられる人だけいる訳ないとしても 信じる heart だけは捨てられないと知った ありのままの君だけが僕を強くしてくれた いつでも君が僕を強くしてくれた 優しい風が吹くように 草を撫でていくように いつでも君は笑顔見せて歩いてた そう涙と笑顔かわるがわるに見せあった二人は… (I miss you) 遠くに離れて…まさか、こんな歌詞だったとは・・・。 ちょっと泣きそうになった・・・。
2007.11.15
世の中狭いなって。何のことかここで書くのはちょっと控えるにしても、世の中狭いってのは今回だけじゃない。かなり前からというか今でもだけどとある高校の先生が作っているサイトがおもしろくてよく見てた。なんと趣味を通じてネットで知り合った人の先生だった。私と同じ兵庫県の人だから日記に出てくる地名とか馴染み深いものだったけど、いくら近くとはいえ神戸周辺に何人住んでると思ってるんだ。福島先生が「とある人ととある人をつなげる紹介者の平均は3人?(数字はうろ覚え) 3人挟めば世の中の誰とでも会えるのです」と言っていたのですが確かにそれぐらいのつながり方しているのがこのような所から。でも今回、ホームページ見ててすこし動揺したのは内緒です(笑)
2007.11.09
数回前のエントリーでヤングサンデーで連載中の漫画「都立水商!」について書きました。大人の恋愛において・・・という一節が心に残ったのでこのブログでも取り上げたのですが、1週休載して今日その次の話が今日発売の号に。 読んで、 正直、 固まりました。 主人公の田辺圭介とフーゾク科の講師、吉岡あかねはお互いに好き同士。しかし過去に自分のせいで父親を死なせてしまったと思い込んでいる吉岡は"自分は幸せになってはいけない"と田辺の気持ちを受け入られず、そんな吉岡を田辺は一途に想い続けているという状況。そんな田辺を好きになってしまったホステス科の近藤明美は日に日に深まる二人の仲にあせる一方。そんな中、マネージャー科の敏腕講師・黒沢忠夫はそんな近藤に「田辺先生との仲を私がとりもちましょう」と校外実習にかこつけて酒に弱い田辺を泥酔させ近藤にホテルへと連れ込ませる。 「大人の恋愛において、どんなに互いに好き合っていても、"関係"がなければ、それは何もないのと同じことです。田辺先生と寝てしまいなさい。」 これが前回までのお話。そして今回・・・ 実習の監視役として二人がホテルに入っていくのを黙ってみている吉岡。そして彼女と同じように何かをこらえるような顔でホテルを見上げる黒沢に気づきます。「どうして黒沢先生が」「一杯つきあいませんか。吉岡先生」 「あなたはもしかして近藤先生のことが・・・」 「確かに 私の近藤先生への想いは"特別"なものです。しかし彼女にとっての私は、特別ではない。そのベクトルの向かう先は・・・」 「ならばいっそ田辺先生とうまくいってしまえばいい。」 「手の届かない存在になってしまえば、 私は絶望し、 救われる。」 壮絶・・・。 黒沢先生が近藤先生を好きだなんて、まったく気づきませんでした。 確かにあの後モンブランで全巻読み返したとき、今考えるとそう思わせる描写はあったのですが、それ以上に何事に対しても理性的・理論的で、冷静沈着の堅物、をじでいく黒沢先生が"誰かを好き"だなんてこと想像できなかったのです。 だとすれば、おせっかいな第三者をきどり、完璧なダンドリで、自分の好きな女性の恋を応援し、あげく「田辺先生と寝てしまいなさい」と言い切ってしまった黒沢先生の気持ちは・・・ 二人がホテルに入っていくのを見ているときの気持ちは・・・ 理性的で理論的な黒沢先生だから、自分の置かれた立場、すべきことを、、、そして、その行き着く先が「絶望して、、、救われる」だとは。壮絶。という言葉しか出ません。 バーを出るときに吉岡先生が言った言葉。それを聞いたときの黒沢先生は後ろ姿しか描かれていませんでした。どんな表情でこの言葉を聞いていたのか。 「お気持ちはわかります、、、 でも、それで あなたは救われるのですか。」
2007.11.08
一つ前のエントリーで紹介した記事の中に「非コミュ指数」というのがあったので試しにやってみたらこんな結果になった。 非コミュ指数: 12(レベル0/コミュ) 【タイプ説明】1)不器用型空気が読めなかったり社会的適応能力が低いタイプ。いわゆる本来の「非コミュ」。アスペルガー症候群の可能性もある。2)無関心型遁世的で、他人とのコミュニケーションに余り価値を見出せないタイプ。「孤独力」が高く、ひとりでも全く気にならない。3)人間不信型家族以外の原初的な他者承認(当サイトでは「基本的承認感」と呼んでいる)が十分でないため、他人を信頼し、深い関係を結ぶことが難しいタイプ。4)オタク型興味が偏っていたり、一般的ではないために、他人と共通の話題を見出しにくいタイプ。 最初、「これ、壊れてるのか?」って思ったもの。レダーチャートなのに模様ないから。でも最近おしゃべりにさらに磨きがかかってきたと思っていたけどこの指標によれば私はコミュニケーションにおいてはまったく問題ないな。ちょっと人間不信気味なだけで。でも確かに疑り深いからなぁ。他人というものを信用しないしアテにしない。常に"裏切り"に備えている気がする。だから基本一人を好むのだと思う。でもこれはこれで騙されてにくくて良い気がするけど・・・。ということでおもしろいのでぜひ見た人もやってみてくださいな。非コミュ指数テストhttp://www5.big.or.jp/~seraph/zero/discomm.cgi追記:うぅ・・・統計みたら3割の人が10以下なのか・・・。ワリと高いな。もっと他人を信頼できるようになろう・・・。
2007.11.07
マイナスをゼロにする努力や才能と、ゼロをプラスにする努力や才能はまったく違うよね、という話http://d.hatena.ne.jp/Masao_hate/20070713/1184316044ブックマークを整理していたのだけど、こんな記事を見つけた。まったくそのとおりだなと思う。この1年ぐらいでほぼすべてのコンプレックスが解消されてキライでたまらなかった自分が今では好きでたまらない。ようやくこの記事でいう「ゼロの状態」にまでなれたのだと思った。ただその後しばらく「つまらん。何をしていてもつまらん。」という症状に陥った。そのときにこの記事を見つけて「お前は俺か。」と思って登録しておいたのだった。それからだいぶ時間が経って、今では逆に「世の中すべてがおもしろい。」という状態に入っている。知ること、学ぶこと、想うこと、考えること。それらを積み重ねていけば何をしていても楽しい。やっとこの記事でいう正の部分に入ったのだと思う。さんざん痛めつけられ、自分というのが何者であるか否応なく考えさせられたこの1年。そして助けられたのもやっぱり同じ人たち。そんな機会を与えてくれた人たちに、感謝しても感謝しきれないな。
2007.11.07
「○○さんのことを好きになってくれて、私も嬉しいよ。」私が今まで人からもらった言葉の中で、最も感激して、最も嬉しかった言葉です。しかもこの言葉をくれた人は二人もいました。二人目にこのセリフを言われたとき、私はあのときほど"自分の人を見る目"が絶対であると確信したことはありませんでした。 私はちっちゃい頃、ドラえもんが大好きでした。小学生の頃、小遣いでまっさきに買っていたのがてんとう虫コミック『ドラえもん』 弟と競争しながら補いあいながら全巻そろえたものです。本当に好きで好きである日、金曜7時からのテレビ放送を何かで疲れて寝ていて見過ごしてしまった時「なんで起こしてくれなかったんだ!」と家で暴れて親父にドツかれたこともあります。でもただ1回のテレビも見逃せないぐらい大好きだったのです。ドラえもんの中の名作と言われるエピソードは数あれど、私が最も好きなエピソードが『のび太の結婚前夜』です。最初に読んだとき、小学生ながら涙が止まりませんでした。(それは今でも変わりませんが)でもそのすばらしさを私の文章力では表現できないなと思っていたらネットですばらしい解説があったのでそちらを引用させてもらうことでかえさせていただきます。未来ののび太としずかの夫婦を描いたお話はありましたが、「結婚前夜」がひと味違うのは、のび太の成長を描いている部分にあります。のび太とドラえもんは、しずかと出木杉の仲の良さを不安に思い、未来ののび太の結婚前夜を見に行きます。そこではちゃんと、のび太としずかの結婚前夜が描かれ、ジャイアン・スネ夫・出木杉達に祝福されるのび太がいます。しずかをめぐるライバルだったはずの彼らに心から祝福されているという事、それはのび太が成長し、しずかの人生を任せられると彼らが認めた証拠です。また、親子三人で静かに結婚前夜のお別れパーティーをした源家(しずかの実家)では、この期に及んで結婚を迷うしずかに対し、彼女のパパがこう励まします。「のび太くんを選んだ君の判断は正しかったと思うよ。あの青年は人の幸せを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。それがいちばん人間にとってだいじな事なんだからね。彼なら、まちがいなく君を幸せにしてくれると僕は信じているよ。」この彼女のパパのセリフは、これから自分の娘を預ける父親として、婿になる男に対する評価としては最高の賛辞でしょう。この時、のび太青年は、自分の花嫁の父親にこんなセリフを言わせるぐらい、立派に成長していたのです。しかも、ここには既にドラえもんはいません。のび太はこれ以前に、ドラえもんとの正式な別れを迎えていたことになります。大人として立派に成長し、ドラえもんと別れ独立していくのび太。ドラえもんという作品は、このゴールに向かってのび太が成長していくまでを記録する作品だったのです。ドラえもんコラムhttp://www.ceres.dti.ne.jp/~toshio/DoraColumn/DoraColumn006.html運動も勉強も何もかもダメ。困ったことがあるとすぐドラえもんに頼る上に調子にのって大失敗までやらかすどうしようもない男の子。でもそんなのび太を絶対に見捨てないドラえもんとのび太を私が大好きだったのは二人が困ってる人を見たら放っておけない、ほかの人が喜んでいるのをみて自分のことのように喜べるすばらしい子どもだったから。そしてそれをハッキリと短い言葉で称えてくれたしずかちゃんのパパのセリフに自分のことのように喜んだものです。それ以来、私の人の見る基準はすべてあの「人の幸せを願い、人の不幸を悲しむことができるか」になりました。優秀か、金持ちか、正直か、優しいか。そんなことは二次的なこと。たとえどんな大借金を抱えていようが性格に難があろうがどんなブサイクな顔をしていようが、この気持ちを持った人となら一生を供にしてもたぶん満ち足りた日が送れるだろう。だって私にとってはあれだけ好きだったのび太とドラえもんなんですから。なのでドナが死んでから、いや、キャシーを飼いはじめた時から、私にとって親は絶対のものではなくなりました。「この人たちは私とは、私が好きな人とは大切な所で異なっている。」だから、あの冒頭の言葉を聞いたときの私の驚きはいかばかりだったか。私が誰を好きになろうがアナタには関係ないでしょう? うまくいったのならばともかく、「好きになった」ことが「嬉しい」? 論理的にまずありえない。私にはまったく理解できない。でも、その言葉が、何よりも嬉しかった。ああ、しずかちゃんのパパが言っていたのはこの人たちのことなんだなって。よかった。私は思い込みや勘違いに好きになったわけじゃない。ちゃんと自分が最も大切だと思うものを持った人を選んで好きになったんだ。って。 私はまだ、のび太にもあの人たちにも遠く及ばない。誰かが誰かを好きになったとして「素晴らしい」と思ったり「よかった」と思うことはあっても「嬉しい」と思うことはない。それは結局のところ他人事だから。他人に起こったことを、感情の変化を「嬉しい」と思う気持ち。私にはまだわかりません。 だから、まだ仮説、ですけど私の持論は正しいのかもしれませんね。 「"優しさ"以外のすべての素養は後から身につけることができる。」 私には一生無理なのかも。 see also...のび太君のゆううつhttp://www2.neweb.ne.jp/wc/uchimura/mypage/H02.html
2007.11.03
ウチの家は昔からずーっと犬を飼っているのですが、その中に阪神大震災のときに家のあちこちにヒビがいったりしたのでその改修とついでに改築をした時にその大工さん?が連れてきた犬で『ドナ』という名前の犬がいました。今までうちにいた犬は私が覚えている範囲ではすべてメスだったのですが、はじめてのオス犬であるドナのやんちゃなことやんちゃなこと。家の塀に並べてある瓦は落とすわ植木鉢はひっくり返すわ、落ちてる洗濯物を噛みまくってビリビリにするわ、どんなに厳重にバリケード作ってもありえない奇跡の大脱走するわ、本当に大変な犬でした。でも私はそんなドナを一番かわいがってました。ドナは今までの犬で一番、私たち家族に愛着を示してくれたような気がするのです。もう、私たちの顔を見ようものなら尻尾をひきちぎれんばかりにふってとびついてくる。少しでも声をかけようものならひっくり返って喜ぶ。特に私はよく散歩に連れていっていたので私を見るといつも期待するように尻尾をふってワンワン言っていたのでそれをいつも微笑ましく見て、たまに本当に散歩に連れていくときは驚かせてやろうと意味もなく散歩用の紐を後ろに隠して急に見せる、みたいなことをやっていたのですが、それをやるといつも狂ったかのように走り出して喜ぶドナをみていつも笑ってました。私が島根に来てからもそれは変わりませんでした。私は当時していたアルバイトの都合で長期休暇でも2~3日しか帰らず年間でも1週間帰ることはなかったぐらい実家にいることはなかったのですが、それでも私のことを忘れず、久しぶりに見た顔をおおはしゃぎで迎えいれてくれるドナに嬉しくて島根に来た後もたまに散歩につれていってました。そんなドナの雲行きが変わったのは、うちの親が新しい犬を飼いはじめた時から。どこからかもらってきたという新しい犬「キャシー」はコリー?というのか私はくわしくないのでよくわからないのですが足が短くて胴が長く、チョコチョコ歩く毛並みのいい、まぁそういうのに興味がない私に言わせても見た目のよい犬です。しかも名前からわかるようにメスで、さらに室内犬として育てられたせいか、性格がとても大人しくて大変飼いやすい。そんなこともあって両親ともにあきらかにキャシーの方をかわいがりはじめました。両親だけではなく近所の人も弟もブラシをあててやったり散歩につれてやったり、キャシーのみにかまうようになってました。一方ドナはというと、今まで共働きで日中家を空ける両親の変わりに私たち子どもの世話と犬の世話を一手にひきうけてくれていたおばあちゃんが体を悪くして東京の叔父のもとへ言ってからというもの「家においておくと吼えたり逃げ出したりして近所に迷惑がかかる」という理由からかあの尼崎の父の会社に連れられていき、しかも夜も週末もたったひとりぼっちで大量のドッグフードだけを置かれて置き去りにされるという扱い。それでも私たちが会社にいくといつも嬉しそうに尻尾をふって迎えてくれるのは相変わらずでした。 そのドナが死んだのは去年の春先だったと思います。 帰ったとき、親父が「ドナが調子悪そうだ。」と言いました。私たちが会社に行った時はもう尻尾をふって飛びついてくることもなく、へたり込むだけ。体も痩せてました。その日は金曜日だったので週末二日間、このドナをここに放っておけない、家に連れて帰ろう、そう親父に主張したのですが聞き入れられませんでした。月曜日の朝。倉庫の中で汚い布切れに身を包んだドナは目を覚ましませんでした。寒かったのでしょう。機械を拭くための油まみれの布切れの入った箱に入ってちっちゃくなって死んでいました。長年過ごした宝塚も新参に奪われて帰れず、あんなに散歩が好きだったのに鎖につながれほとんど身動きがとれず、こんな暗い倉庫の中で寒さに震えながら誰にも看取られず、ひとりぼっちで死んだドナが私は、不憫で、可哀想でなりませんでした。そんな私を横目に「死んだか。仕方ないな。」というようなそぶりの親父にさすがにムカついたのでこう言いました。「こんなひどいことをする人間は、いつか同じようにひどい死に方をすることを覚悟しておくことだな。」ドナを宝塚で飼えなかったのは確かに私が信条とする「合理的」理由だったのかもしれません。しかし、10年以上、私たちにただひたすら愛着をむけてくれたドナの最後をかくも無残なものにしたのは未だに親父のせいだと思っています。これは未だに、これから何年経っても許せそうにありません。去年の12月、「お前はもっと優しい人間かと思っていた。」と言われたとき、どれだけ「アンタ達にだけは言われたくない!」と怒鳴りたかったか。ドナはその日のうちに宝塚に連れて帰り、庭の端に私の手で埋めてやりました。死んでようやく宝塚の家に帰れたなんてのはやはり今考えてもおかしい気がします。 キャシーは今でも近所のアイドルです。エサも世話もいろんな人からしてもらい、親も旅行の時はいつも連れてまわってます。この前は島根にも連れて来ました。私が怒って泊まらせなかったら親父は怒ってましたが、まったく予告なしだった以上に私がキャシーがキライなのもあります。そして、私が実家に帰った時のキャシーは相変わらず愛想のない犬で、もうさすがに家族だと知っているので吼えることはありませんが「ああ、いたの。」みたいな素っ気無い猫みたいなそぶりはどうしても好きになれません。親や他の人間がどうしてあんなに可愛がるのか、それが見た目のせいだとすればみんなマジで最低だと思います。だから私はいつもキャシーを見ると思います。 「お前はいいな。愛さなくても、みんなが愛してくれる。 ただ、俺はお前みたいな奴が大嫌いだ。」 ドナは私の顔を見ただけで本当に喜んでくれた。それが本当に嬉しかった。そんなドナが私は大好きだった。人でも同じように私の存在を喜び、愛してくれる人がいてくれることを本当に嬉しいと思う。だから誰に何を言われようが私は私なりのやり方で大切に扱う。でも何かの理由で離れなくてはならなくなったとき、私は「仕方ない」の一言で済ませない。できること最後までして、悲しむ。そして、キャシーのように、愛されることをさも当然、と考える人間は大嫌い。
2007.11.01
世の中のどうでもいい事象に自分なりの考察なり分析を与えてみてそれが当たっているか当たっていないか検証し、その原因がどこにあるかまで突き詰めて考えていれば人生それなりにおもしろいなとここ1年ぐらいで気づきました。今まではそんなどうでもいい話を聞いてくれる人がいたのですが、皆さん去っていかれて仕方ないのでここで。『好き、嫌いについて。』人間の好き嫌いというのは感情によってもたらされるものなので一見、理屈とか理論とかというのはそぐわない気がしますが私が考えるにこれほど機械的なものはないと思います。「○○さんのことが好き」とか「アイツが嫌い」というのは厳密な意味で存在しないと思うのですね。好悪の対象というのは常に”行動”だと思うのです。つまり、「○○は親切。もっと具体的に言えば困っている人がいる時にスっと手を差し伸べられる。」という点をもって人は"好き"とする、でもその後に「親切なのはいいんだけど、それをいつも嬉しそうに自慢するんだよね・・・」という点をもって"嫌い"とするわけです。そして人はそれらをたし算します。そうやって主体(自分)と客体(相手)の間に起こったすべての事象(会話・行動・しぐさ・雰囲気・見た目・・・)を加算して最終的結果がプラスかマイナスか、それとも"ほぼゼロ"なのか。それを判断して相手に対して"好き"、"嫌い"、"どうでもいい"という印象をもつのだと思います。ただ人によってそれぞれの行動に対する採点がまったく違うので同じ人間でも評価がガラっとかわったりするのですよね。余談昔ナイナイの岡村が雨上がりのミヤサコの紹介で知り合った女の子とはじめてのベッドインの時、彼女が岡村がしやすいように・・・って体勢をかえたらそれを見た岡村が「汚れてる!」って叫んで部屋を飛び出していったというのを聞いて「いやいや、それは感謝こそすれ、怒るところじゃないだろう」と思った、というか世の男性の9割はそうだと思うのですが岡村には許せなかったのでしょう。そういう感じで相手によって基準が死ぬほど変わるので気をつけんとね。というお話。 だから嫌われたくなければ行動を変えればいい。嫌われるべく行動をなくして、好かれる行動を増やせば好かれる。「ウチは性格が悪いから」とか「私はダメなんです。」とか言ってるのを聞くと、”それはなんか違うぞ”と思うわけです。人格・性格なんてのは変えなくてもいいし、変わるもんでもないと思うから。というかそれは言い訳だぞ。直すべき行動を放置して直りもしない性格のせいにしている。と私は思うわけです。ただここで問題になるのは「じゃぁ嫌われる行動・好かれる行動って何よ? 」って話ですよね。これに関して含蓄があるのですが私が思っていることそのものズバリを書いてるコラムを見つけたのでそちらで代用。NBonline - 今日の仕事のコツ ver 2.0他人にどう思われているかより、他人を客観的に理解することが大切 常々、私が思っていることそのままで、しかもわかりやすく短く書いてあったので驚いた。要は、相手に関して言うならば「他人の頭の中なんてわかるわけねー」ってのと「他人を分析すればするほど行動がある程度読めてくるよね」ってのと「中身不明でもアウトプット(行動)が読めれば結果は変わんなくない?」ってことだし、、、自分の行動に関して言えば「結局、相手の好き嫌いなんてわかんないんだから、自分の好き嫌いに沿って行動すればいい。」ってのと「それで相手に嫌われて、その理由もわかんないなら"知るか!"と縁がなかったことにして済ませればいい」「理由がわかるならせめてその人の前ではそのように行動すればいい。」「そうすりゃ少なくても自分は自分を嫌いにならない」ってことなんですよね。 だから何にも増して大切なのは「自分の"行動"の間違いを指摘してくれる人物」 そして最も気をつけないといけないのは「話をまとめると"私はアンタ(の性格)が嫌いだ"としか言ってない人物」 特に後者はテンション下がるだけなので「そんなん言われても知らんがな。」か「私はそんなアナタがもっと嫌いです。」と言ってやればいい。そして自分が"好きだ"と思う行動が他人が"イヤだ"というならば、「残念だ」の一言で済ませればいい。 結局これだけのことなんだよねー、好き嫌いって。あくまでも私理論だけど。 追記:だから私に言わせれば人に対しての好き嫌いなんて存在しない。どんな好きな相手でも批判は山のように言えるし、嫌いな相手でも尊敬できる部分・見習いたい部分はいっぱい挙げられる。ただ、どうでもいい人間に対しては情報がないので難しいけど。それなのになぜみんな「好きだ」「嫌いだ」なんて言うんでしょうね。自分が自分に対して「100%好き」であればいいしそれに少しでも近づいていくのが人生だと思うし、それに似ている人を好きになるのだと思う。
2007.10.26
竹中平蔵が大臣になって間もない時期にNEWS23の特集でフリーターや女子大生、サラリーマンなどいろんな人に会って「市井の人の声を聞く」というようなことをやっていました。「どいつもこいつも"もっと弱い人のことを考えてほしい"みたいなありきたりなコトしか言わない」と冷ややかな目で見ていたらこの企画のメインのような扱いで竹中の高校?大学?時代の恩師が出てきて、その言葉に竹中さんが涙を流していたのが印象的でした。「Cool brain, Hot Heart. その言葉をまだ覚えているか?」たくさんの人の人生を左右する経済に関わる人間として絶対に忘れてはならない言葉。一時の感情に流されずどんなに非情であっても最善の判断を冷静に、時に冷徹に判断する頭脳。そして、その一方で他人の不幸を悲しみ、他人の幸福を心から願う熱い心。この背反する2つを持ち合わせる者でなければ経済を担うことはできない。当たり前、かもしれないですが、あの時、人目をはばからず涙を流して泣いていた竹中大臣がとても好きになりました。竹中平蔵と言えば「聖域なき構造改革」をかかげる小泉内閣の経済政策の司令塔として日本経済の再生に尽力した人。竹中プランとも言われるバブル以降の不良債権処理を急がせた彼の「ハード・ランディング路線」は10年以上の長きにわたって日本経済の重しになっていた不発弾を取り除き、それによって企業業績は上向きはじめました。しかし同時に、それまで曖昧だった損失が確定することによって何とかかろうじて生き残ってきた企業による未曾有の大倒産・大リストラが猛威をふるい結果的に多くの失業者と貧者を生み出したことも事実。いわば良くも悪くも小泉改革を象徴する人物です。私はこのTVを見ていなかったら竹中さんや小泉さんのことを今ほど好きではなかったかもしれません。私はすべてにおいて「合理性」「論理性」「正当性」が優先されるべき、と考えます。それによってどのような犠牲が発生しようとも最大多数の幸福が実現するためであればそれは止むを得ないと考えます。「合理性」を優先させれば時に人は冷徹にならざるえません。この凄惨な結果を引き起こす不良債権処理をためらい近視眼的な景気浮揚策しかうってこなかった歴代内閣も含め、これができない人間はただ単に「弱い」だけ「甘い」だけとして私は評価できません。しかし世の中には冷徹な判断をただ「だって、仕方ないでしょ。」の一言で片付ける人間がいます。私はこのような人間がとてもキライです。確かにそうだ、そうするしかないのは自明、私があなたの立場だったらたぶんそうするだろうと思う。でも、もう少し、こう、なにかあるだろう・・・。私はそのような人をを見るといつもこのような、まったく論理的でない「反感」をもっていました。今考えるとこの人たちには「熱い気持ち」が感じられなかったのだと思います。人は役者でもない限りよほどでないと涙は流せません。だから誰かが私のために泣いてくれたり、私が誰かのために泣くことができたりしたとき、私はとても嬉しく思います。あの時、「Cool brain, Hot Heart」の言葉を聞いて、涙を流していた竹中大臣は決して「冷徹な人」ではなく熱い気持ちをもった優しい人だとそのとき思いました。その「優しい人」があのような冷徹な手腕を振るう。彼にとって犠牲になった人たちは決して他人ではなくその人たちを他のどの政治家よりも大切に思っていたと私は信じています。だからこそ、その大切な人たちの生活を奪う彼の心中はいかばかりだったか。「弱い人のことをもっと考えろ」という口ばかりの優しさで彼を非難する人間のいかに底が浅いことか。そして日本全国から轟々たる非難をあびる竹中大臣に連日電話で「絶対に譲るな。信じた通りにやれ。」と励まし続けた小泉総理とその心に人知れず涙したという竹中大臣。いかにこの2人の「熱い」ことか。 私がたとえ犠牲にされる立場であったとしても相手が誰よりもそのことを苦しんでくれているなら「そこまで私のことを考えてくれるあなたのためなら喜んで犠牲になるよ。」と笑顔で言えるでしょう。しかしその相手が「だって、仕方ないでしょ。」の一言で済ませる人だったら私は最後まで抵抗し、最後まで「あんたは最低だ」と非難し続けるでしょう。たとえ相手の答えが正解であっても。「冷徹な判断」は「熱い気持ち」の裏打ちがあってこそ許される。振る舞いは非情であってもその下にある気持ちは優しい。そのことが犠牲にされる側にとっていかに大切であるかを私はとある女性に教えてもらいました。私はまだまだ未熟で非情な振る舞いはできても、結局は甘いところはまだかわっていません。でも、いつか私も彼女のように気高い振る舞いができるようになりたいと思っています。だから私にとっても「Cool brain, Hot Heart.」は最も大切な言葉なのです。
2007.10.24
またフラれたようです。鍵も電話も返してくれました。本当は、私がしなければならなかったのに。嬉しくて悲しくてつらくて、重要な体の一部分を失って、のたうちまわって、誰かにしがみつきたくて叫びたくてしかたない。なぜあんな人の気持ちもわからない薄情な人のためにこんないい子を悲しませなければならないのだろう。確かに言うとおり私はバカだな。ありがとう。本当に。言葉にはできないぐらいにありがとう。
2007.10.21
ニコニコ動画で私が好きな曲『風のゆくえ』が「このところの動画投稿数増加によりサーバ負荷が高まっているため視聴回数が少ない動画は一時的に視聴を停止させていただいております。」というなぞの理由で見れなくなってました。うぅ・・・ マイナーな曲好きに対するイヤガラセか・・・。早めに復活してもらいたいものです。それにしても「僕じゃない何か見てたのは わかっていたから」って歌詞、せつなすぎです。-----------------------その人の"人間性"てのが一番よく出るのは"時間"と"お金"、そして"恋愛"に対しての3つだと思うのですよね。時間は”人生への考え方” お金というのも"社会とのかかわり方"をあらわすし、恋愛というか異性に対しての態度ってのはその人の”人間関係のすべて"と断言してもよいと私は思っています。ということなので私は水商売とか風俗の仕事ってすごく好意的にとらえてるんですよね。いずれも「金」と「色恋」が深くかかわる人間の素が最もでてしまう世界なので弱い人間だったらすぐに飲み込まれてしまう。それはそれで恐ろしいコトなのですが、それでもやっぱり人間をよく知りたいのであればそういう世界こそふさわしいのではないかなぁとかねがね思っていたら、私がよく読んでいる本の作者、元ホストの後藤芳徳氏は現在、「風俗コンサルタント」が本業らしい。才能を生かしたのか、その業界で培った才能が著作に現れているのかよくわかりませんが、なるほどな、と思いました。 ということでなんの話かと言うとマンガの話。 週刊ヤングサンデーで連載中の「都立水商!」というマンガがとてもおもしろいです。ちなみに「とりつ・みずしょー」と読みます。農業や漁業など各種専門技術を教える高校があるなら水商売を教える都立高校があってもいいじゃないか、ということで「フーゾク科」「ホスト科」「ホステス科」から「ゲイバー科」まで兼ね備える水商売専門教育の高校「都立水商」を舞台にした学園コメディー。設定はとんでもないですが、先生、生徒ともに純粋でまっすぐないかにもな青春学園モノ。水商売の専門高校という特殊な状況で繰り広げられる「友情」「恋愛」「バイト」「部活」に加え、水商売の人たちの技術や心意気、プライドなどあらゆるものがうまく描けてとてもおもしろいです。 なんでこんな話を急にしだしたかというと、今週号のヤングサンデーに載ってた『都立水商』の最後のページの黒沢先生の台詞がとても印象的だったから。 簡単に説明すると主役の社会科教師・田辺圭介はフーゾク科を教える吉岡あかねのことが好きなワケです。で、吉岡先生も田辺のことを憎からず思っているのですが過去のこともあって自分だけが幸せになってはいけないと田辺の気持ちを受け入れられずにいる。で、実は田辺先生を好きなのはホステス科の近藤明美も一緒で・・・ 「田辺先生と寝てしまいなさい。」 「大人の恋愛において、どんなに互いに好き合っていても、"関係"がなければ、それは何もないのと同じことです。」 「まさに砂上の楼閣。たった一つのキッカケで、すべて壊れる」 てなことも後藤芳徳氏の本にも違う表現だけど書いてあったなぁと。絵もキレーだし、マンガ喫茶にも置いてあるので(少なくてもモンブランにはあった)少しでもおもしろそうだと思った人は手にとってみてやってくださいな。ってもう気づいたら17巻まで出てるんだな。またモンブランで読み直そうっと。 あと、どうでもいいですけど主役の田辺圭介。主人公。社会科の教師で、水商第一寮長、フーゾク科の担任。前の学校で生徒とのトラブルがあり都立水商へ異動。何でも首を突っ込みお節介な存在。だがいつもそのおかげで都立水商に貢献している。酒を飲むと理性を失くすほど悪酔いし、友人を何人も失くしている。吉岡に惚れており、また他の複数の女性から好意を持たれるものの、超鈍感なために告白を受けるまでそれに気がつかない。 (wikipediaより)他人とは思えないのですが・・・。太字の部分だけですけど。
2007.10.19
やれやれ。どうも私はフラれてしまったようですね。モテる男というのもどうやら昔憧れていたようないいものではないらしい。-----------------------他人への批判というものは基本おもしろいものだと思っていたのだけど、今日ばかりはそうではなかった。というか私に対する皮肉ではないかと思うぐらい身につまされた。大いに反省しよう。-----------------------近所のスーパー『やよい』で美人の店員さんを発見。ファンになったのでこれから通うことにします。なぜか顔を真っ赤にしてましたが(笑) ----------------------- 私はどうも自分が好きでたまらないらしい。実験で使う心理尺度を気まぐれに自分でやってみたら「劣等感」が最低点の8点。ほとんどの学生が最高点である24点近くの20点前後だというのに・・・。また何の気なしに人に「俺ってナルシストかな?」って聞いてみたら迷わず「うん。」て言われた。2人に。でも「顔が好きっていうより自分が好きでたまらない感じ」らしい。でも、昔は自分が嫌いでしかたなかったのですよね。周りにいる人すべての優秀な所、すばらしい所ばかりが目に入って自分に自信などまったくもてなかった。それがこの変わりようはなんだろうと。 今考えるときっかけは塾講師をしたことだろうなと思います。そういえば塾講師している時、私はいつもこんなことを思って授業をしていたような気がしますから。 「どうだ、中学生のSEIJI。お前はこういう男、好きだろう? こんな先生に授業を教えてもらいたいとずーっと思っていただろう?」 私は受験先進国の関西出身で、まぁいいところのお坊ちゃんと言われても仕方ないぐらい教育にはお金をかけてもらいました。だからバイトの兄ちゃんが片手間にやっているのとはレベルが違う、「これぞ、プロの講師!」という人の授業をたくさん受けてきました。というかあの人たちは生徒からの人気で給料どころか明日クビになるかもしれないという激烈な世界を生き抜いているわけですから私が身をおいていたぬるま湯のような世界と次元が違うわけです。しかし、教えるのがうまい先生っていうのは私にとってそう大きなアドバンテージじゃありませんでした。私が好きだったのは、ただひたすら「おもしろく」、ただひたすら「熱く」、そして知らない間に成績があがっている。そんな先生でした。その人たちはまったく授業と関係ない話をしてくれました。彼女と同棲中の家に帰ってきたら中からあえぎ声が聞こえてきた話、六甲山を攻めすぎた話、岩石の研究サンプルにハナクソつけたら世紀の大発見か!と大騒ぎになったお話。また、日本史の先生は、男の生き様を教えてくれました。私がエラソーに人によく話をする石田三成の話も、土方歳三の話も、阿南惟幾の話も、全部一番の大本はその先生に教えてもらったことだったりします。物理の法則より、日本史の年号より、あの先生たちは子どもの私が知らないコトを教えてくれる。それは受験に出る、出ないに関係なく、私たちより一歩先を歩く大人として、いろんなことを教えてくれる。そんな先生に憧れてました。そしてあの時教えてもらった「世界」や「社会」がとてつもなく魅力的で「もっと知りたい!」と思わせるには十分だったからこそ未だにまだまだ「知りたい!」が止まないのかもしれません。言うなればその人たちにあこがれて私は講師の仕事を選んだのです。「熱さ」も「おもしろさ」もあの人たちには決して及ばない。でも私はあの人たちのように「世の中」を教える先生になりたい。で、何年かが経ち、少しはあの人たちのようにできるようになったかな?と思ったとき、授業に立つときはいつも中学生だったころの私を意識していました。 「どうだ? 俺はお前が憧れていた先生に、少しは近づけただろうか。」 いやー 講師してるときは散々文句と陰口言われました。「授業と関係ない話すんな。」とか「授業と関係ないところで人気をとってる」とか。でも、私は一向に気にしませんでした。「中学生の頃の私はきっと私を大好きになってくれるハズ。そして今の私の教え子もきっと・・・」 少なくてもそのあたりから評価基準は他人ではなく自分になりました。「私が他人だったら、私を好きになるか?」それがすべての基準になりました。 昔はホントに女の子と話ができず、女の子相手に軽口をたたいて、笑いをとって、サっとデートの約束をできるような男に心底、あこがれてました。私はそうなれましたでしょうか。つらい時、落ち込んだとき、言葉で慰めてくれる優しい人が一緒にいてくれるとうれしい。でも本当にほしいのは、押し付けではなく本当に自分の考えから言葉を発してくれる友人。私が間違っているときはどんなに落ち込んでいても「それはアンタが悪い。」とハッキリ言ってくれる友達。私はそんな友達でしょうか。ダラしなく、普段はのほほんとしているくせに、たまに世の中の本質を見据え、他人がハッと息を飲むようなとんでもない正論を吐き、信じられない成果を出す”ひろゆき”みたいな男。自分が「正しい」と信じたら何があってもあきらめない、全世界を敵にまわしてもひるまない、狂人だ変人だと言われても意に介さない。そんな小泉さんのような男。私は少しでも近づけたでしょうか。 すべての行動基準は「私が他人であったら、私は私を好きになるか?」 だから他人の批判や嫌われることは意に介さなくなってきました。そして逆に自分の期待にこたえられなかったとき、自分が自分を見損なったとき、心底落ち込むようになりました。 何かの本で読んだ「自分を味方につけた時、恐れるものはなくなる。」という言葉。まだまだその境地には至っていませんが、なんとなくわかるようになってきました。 ということでナルシストのよくわからない文章でした。
2007.10.16
女は自分を笑わせた男しかほとんど思い出さず、男はまた自分を泣かせた女しか思い出さない。(レニエ『生きる過去』)
2007.10.15
大山のみるくの里に行って来ました。バドミントンとフリスビーをやって久々に運動しました。羽子板の要領で何回できるかに挑戦してみたのですが続かない。いい感じの時間になってきたので「20回続いたら帰ろう」となると18・19回目でミス続出。「なんだ! これは帰りたくないがための陰謀か!」とか言ってましたが、最後は32回できました。基本的にデートの場所は人任せ風任せなのでこのように提案してくれると助かります。あと私、女子ども笑わせるの天才。カップルや家族連れが目立つ高原の中でひときわ笑い声が目立つカップルでした。------- 修理が終わったパソコン、すこぶる快調です。まぁ途中、最重要部品であるRAMメモリを「埃とりの邪魔だから」という理由でやなにサラっと取り外されていた時はびっくりした(しかもちゃんとひっつけないから起動できず壊れたかと思ったし・・・)んですが、無事CPUファンの交換を完了したらパソコンがびっくりするぐらい静かになりました。起動してるのかどうかもわからないぐらい。部品交換て偉大ですね。最近の調子の悪いDVDコンポドライブも交換してもらおうかしら。------- ニコニコ動画で最も好きな二つの曲をアーティスト自身が歌っている動画を見つけました。どちらも歌詞・曲とも大好きなのですが、T.M.Revolutionデビュー前の西川貴教じゃない方の歌はあまりにマイナーで実は歌ってる人の顔を見るのもこれがはじめてだったので見つけたときはとても感動しました。ていうか10年以上前なのに超カッケー! なにこのホスト顔! でもこの曲、とある人は聞くと痙攣を起こすそうです。誰かさんからの着信メロディだから(笑)-------Rainy Heart ~ どしゃぶりの想い出の中 浅倉大介 expd 葛山信吾 もう愛さなくてもいいから 君の声をいま聞かせてよ何一つ戻らなくても 君の笑顔ただみつめていたい消えたはずの淋しさが 胸にこぼれて・・・降り続く想い出の中 愛が君をまだ追いかけるどんなに心壊れても 君のために傷つくのならいい"二度と逢えない" それだけで明日が見えない I STILL LOVE...-------Black or White ? 浅倉大介 expd 西川貴教 傷ついても止まらない 情熱を抱きしめて振り向けば遠くなる 夢でも追いかける結果だけがすべてと 笑えたらそれでいい置きに行っちゃいられない 女神よ手を貸せ BLACK OR WHITE!傷ついても止まらない 情熱を抱きしめて気まぐれな現実を この手につかみ奪る自分以外の誰かを 愛さずにいられない一人きりの夜明けを 越えれば未来(あした)は BLACK OR WHITE???-------って思ったら私、今年の1月の終わりにもRainy Heartのコトを書いてますね。よっぽど好きなのだな。この歌。でもちょっと引用する場所が変わってるのがミソ。そういえばこの2曲(浅倉大介の曲も入れれば3曲)が入った『エレクトロマンサー』のCDは最初の彼女にあげた気がする。その辺もあってこの曲のことが忘れられんのだろう。-------ということでたまには男の日常を書いてみるテスト。
2007.10.14
デスクトップの修理完了。部屋の整理と相まって本調子になって参りました。手伝ってくれたやな、ありがとう。 ちょっと考えてみました。私はなぜこのblog書いてるんだろうって。最初、URLを自由に決められるのに困って「じゃぁ今日の日付で」としたのでもう3年以上経っていることがわかります。まぁかわいい女の子じゃあるまいし男の日常なんて書いても読んでもつまらないだろうと思ってなんか日々思いついたことを書いていたらえっらい「俺の話を聞け!」的なオピニオン臭の強いblogになってしまいました。 よく男は自分を「大物だ」「デキる奴だ」と思わせるために堅い話や難しい話をする、という話を聞いたことがあるのですが、私はどうもそれではないようです。だって見られたくないですもの。こんな文章。だからなんか知ってる人に読まれるようになってから堅いコトが書きづらくて仕方ない。私はバカなことをいつも言ってて、いつも聞いててそして「ウッヒャッヒャッヒャ」と笑っている、そういうつまらない冗談と軽いセクハラをこよなく愛する人というのが私の望む姿ですがここのテンションとあきらかに違う。それが恥ずかしくて仕方ない。 なのに、なぜ書いてるんだろうかと。 それを以前、放送部通信で書いた時に気づいたんですよね。「ああ、俺がblog書いてる理由はコレだって。」 私、何度もいいますが常に何かを知っていないと気がすまないのですよ。文字情報もそうですけど日常であったあらゆる出来事や風聞に勝手な分析や解釈を加えて一人で勝手に何か学んだ気になっている。そういうように私は毎日何かを知り続けてなければ、学び続けてなければ、という変な脅迫観念があるのですよね。だから、いうなれば私の日常はインプット過多。んでたまに長距離のドライブしながら考えゴトするわけです。一人で。そうすると外から入ってきた膨大な量の情報が今度は自分なりの解釈と思想のもと再構成されてくる。すると今度はどこかに出したくて仕方なくなるわけです。 だから私が心許す人とドライブしているときは私はしゃべりたくります。ぜったい嫌われるのでやめようやめようと思うのですがそれでも一人でしゃべり続けます。たぶんいろんなこと、あふれんばかりの情報や思想を外に出したくて仕方ないのでしょう。いつもしゃべりすぎて自己嫌悪になるぐらいしゃべります。ただ、そうやってしゃべってる時いつも思うわけです「ああ、私はこの人に話してるわけじゃないな。」「自分で言って、自分に言い聞かせてるだけだ。」 人に話すときは思いついたことをその順にいい散らかすだけでは当然伝わらないのである一定の論理性を必要とします。それは頭の中で考えてるときより何倍・何十倍のしっかりとした校正が必要となります。すると今度は自分でしゃべっていて自分が納得するわけです。「ああ、なるほど、そういうコトだったのか。」って。なので人と話してるとき、私が一番勉強になってたります。んでそこまで言ってようやく自分が相手をおいてけぼりにしてることに気づくのですよね。「あ、ごめん。今、自分に向かって話してた」って。(冷静に省みると相当な変人ですね・・・。私。) で、そういう役割をこのblogが担ってたんだなって。誰かに見せるわけではない。でも誰かに見せる文章を書く、誰かに理解してもらうためにはある程度の論点整理をしなければならない。その中で気づくことも多いし、なにより自分で読み返して「うむ、そうだ。私は正しい。」と自分の理念の強化につながります。そうやって確たる考え、強い信念が生まれる。だからこそこうやって続けてこれたのだなって。 よく考えてみればこの3年、人の意見に左右されることは少なくなりました。「私は私なのだ。」と強く言えるようなった。これもこのブログの影響なのかもしれません。まぁ人の言うことを聞かなくなったとも言いますが。 ということでこれからも人に話す体を続けながら自己満足の文章書き続けますのでヨロシク。それじゃ。
2007.10.13
政治のことを書くと確実に思想的に異なる人に嫌われるのであまりやりたくないのですが、ちゃんと考えてみることは大切だと思うので挑戦。2ちゃんねるのまとめサイトでこんなのみつけました。 ニュー速クオリティ-まじめに安倍の何が悪かったかを議論するスレ22 :無党派さん :2007/09/13(木) 00:44:55 ID:m8rAXcxp俺的には、郵政民営化反対議員を復党させた時から「違うんじゃねえ?」「甘すぎる」と思い始めたよ。郵政の是非は別にして、政治家としての冷徹さも必要だ。 私はこの人と同じように安倍普三失墜の原因は郵政造反組復党にあると思っています。最も、甘いとか冷徹とかそういう話じゃなくて。 話は全て、「安倍さんはなぜあのように派閥横断的に圧倒的支持の元、総理大臣になれたのか?」という問いからはじまります。答えは簡単。「小泉純一郎の後継者だから。」国民の圧倒的な支持のもと5年という長期政権をやり遂げ、さらに余力を残したままの総理退陣。その長期政権で幹事長・官房長官として小泉純一郎の正当後継と国民にみなされ、それゆえに「自民党の選挙の顔たりえる」と自民党所属の国会議員に判断されたのが安倍晋三、総理総裁就任の最大の原因です。そして小泉政権の高支持率の源から安倍凋落の原因を日経新聞のNET EYE プロの視点では「小泉が3大マニフェストを実現したのはいずれも政権最後の1年だ。有権者は5年5カ月間、小泉の苦闘の物語を共有し、支持にせよ不支持にせよ一貫した評価基準を持てた。「小泉劇場」のもう一つの側面だ。安倍にはそれがない。だから、顔が見えない。」としています。 つまり、自らの進む道に立ちふさがる敵を「抵抗勢力」とし、それと戦う姿を国民に絶え間なく見せ続けることで共感をよびそれを突破力とする。それが小泉純一郎の政治スタンスでした。そして最後の1年、その物語が最も劇的に盛り上がったのが郵政解散です。5票という僅差の衆院可決、圧倒的な大差での参院での否決。できるはずがないと言われていたまさかの郵政解散。郵政造反組は公認せず、全選挙区に刺客候補擁立。結果、与党による2/3獲得という歴史的大勝利。そして悲願の民営化法案成立。この物語はあまりに劇的でした。そして主役・小泉純一郎の最後にして最大の敵とされたのが郵政造反組。戦前には主役を見くびり鼻でせせら笑っていた悪役が戦後大敗で命からがらひざまずき主役に許しを請う姿はまさに悪役にふさわしい姿であり、それを見た国民は少なからずカタルシスを感じたのでしょう。 そして、大望を成し遂げた主役は表舞台を去り、若きが率いる新時代へ。 完璧な脚本でした。ただ残念なことに次代の主役は自分に与えられた劇中の役割をよく理解してなかったようです。戦うべき敵も見つけられず目立つのは足を引っ張る身内ばかり。そして最大の悪役たる郵政造反組を友誼心から許し迎え入れてしまったことが観客の興を損ねた原因だった気がします。小泉純一郎は主権者たる国民を味方につけるべく常に最大の演出・脚本を考えていた。それゆえに一見無茶ともいえる改革を遂行できたのです。それに対して安部さんは観客を喜ばせる工夫もせず、小泉さんと同じようにあちこちにケンカを売る。それでは長続きできるはずもありません。以前、「福田にしろ安倍にしろ3年持たない」と言ってましたが1年持たないとは・・・。ただあれほどの名演を見せられたら誰が後でも霞むなぁと思っていたのですがやっぱりでした。あと麻生さんが善戦したとは言え6年前小泉さんが見せた「奇跡の大逆転」を起こせなかったのは「クーデター説」のせいとかではなく小泉政権を評して「改革の負の部分を今から癒していかなければならない」とか興を損ねることを言っていたからでしょう。5年という長い間、スリリングでエキサイティングな演劇を見せ続けられた私たちは予定調和の三文芝居ではもう満足できないと思います。福田総理の安定? あんなものは新聞が作ったまやかしだと私は思います。よってこれも長続きしません。観客が求めるのはもっと大きな刺激。そう、政権交代のような。この前の参院選の深層だったりすると思うのですが。政治に刺激を求めることがいいかどうかは知りません。ただ、少なくてもその傾向があるのではないか?という仮定で政治を見るようにしています。ということでまとめ。 ・小泉再登板がなければ政権交代・でも結局小泉劇場ほどの派手さは演出できない。・政権奪回のために周りが小泉さんひっぱりだす。 という流れ希望。
2007.10.11
車の中のCD入れあさってたらすっごく古いCDがわんさか出てきて聴いてたら、アタマから離れなくなった。ということで今はなんか鈴木あみの「alone in my room」が流れてる。YouTube - alone in my room特に00:58ぐらいのところと02:30ぐらいのところ、前のシンセサイザーの音とあいまってすごく印象に残る。また今年も一人ぼっち楽しい夏過ぎ去ってそろそろ窓の外の雲季節の変わり目を教えて 昨日の事 忘れていいよね?だってつらいだけだから・・・明日が見えなくてもいいよね?小さな手ぐっと握り締めてそういえば半年前の『風のゆくえ』もそうだけど、季節や心情にあった曲みつけるとそれしか聴きたくなくなりませんか。alone in my room寒くなってきたね窓辺に座って星を眺めてる秋ですね~。星は眺めてないけど。長袖出さなきゃ。
2007.10.11
ノートの不調の原因はわからないまでも、ある程度は何が起こってるかは目星がついていたのですよね。HPを読み込む際にCPU使用率が100%近くになる。つまり与えられた計算にCPUがついていっていない、ゲームでいう処理オチという奴ですかね。IE以外ではそのような症状は見られないので、・IEのソフトウェア的な問題・ウィルスの2つの原因が考えられたので昨日は寝る前にIE7へのバージョンアップとシステムのウィルス完全スキャンをやって寝ました。 で、朝、直ってました。さすが私。IEが勝手に再起動していたのでウィルスチェックは終わったかどうかわからないのですがこのサクサク感はIEの不調が直った印象がします。もしIEがありえんぐらいに遅い場合はバージョンアップをオススメします。起きたら咳も少なくなってるし、ラクになった。新しい1週間ガンバロー。
2007.10.09
ちょっと前になりますが、実家に帰ってる間中、電話の調子が悪かったのです。9月の話です。私の電話はWindows Mobile 5.0搭載の、まぁパソコンのちっちゃいような奴なんですが、これって「電話に簡易Windowsをつけた」というより「簡易Windowsに電話機能をつけた」という方が適切で、要は電話としての機能はまだまだだったりするのですが、一番困るのがWindowsの伝統「すぐ動作が不安定になる。」というのがそのままついてたりして、その解決法は全てを消去する「フォーマット」という荒療治しかなかったり。ということで先週ようやく3週間ぶりに電話直したのですよ。数時間かけてバックアップしてフォーマットして。それまで着信音はならない、勝手に留守電に切り替わる、1日3回程度のリセットが必要というヒドい有様だったので直ったときは「やったー やったよー」とか大喜びしてたのですがその喜んでる最中に今度はデスクトップPCが「パチン」て消えました。最初何が起こったのかわからなかったのですが、いろいろ調べるとどうもCPUファン(熱を逃がす換気扇)が壊れて筐体内の温度が上がって熱暴走防止機構が作動して止まったようです。通販PCなのでCPUファンとりよせんといかん。ということでしばらくはノートPC使ってたんですが今度はこっちのIEがものすごく重たい。何があったんだってぐらい重たい。しかもこっちは原因不明。あまりにトロいのでこの日記も熱暴走におびえながらデスクの方で書いてるぐらいネットは使い物になりません。あまりにデジタルモノの不調に悩まされるもので「この1ヶ月ぐらいは2進数の神様か何かの呪いでもかけられたか」とおもってたら今度は体調まで悪くなってきた。咳がとまらない。というかたぶん淞風祭ステージ司会のうちあわせとかでよく話してたやなの風邪をうつされたクサい。「太ってる人間は細い人間から風邪はうつされない(免疫力が違うから)」という私の勝手法則にかなりの自信があったので、今回はやなに続いて風邪をひいたのがわかった時はその持論の崩壊にかなりショックをうけてました。といってもいうても他人の風邪なのでそう重くはなく(私の風邪特有の涙・鼻水・高熱の症状がない)咳だけなのは不幸中の幸いなのですが、そんな調子で淞風祭のステージの司会やったので聞き苦しくなかったか心配です。(まぁああいう場に出るとテンション上がって自分が体調悪かったり疲れてることすら忘れるのは毎度のことなんですが)ということで、なんかいろいろ困ってます。風邪はほっときゃなおるだろうけど、CUPファンを注文して・・・ ノートをクリーンインストールして・・・ うぅぅぅ・・・
2007.10.08
御剣検事のテーマ曲は『大いなる復活~御剣怜侍』だったりします。「成歩堂、この1年の旅で私がたどりついたコタエ‥‥ この事件が終了したとき、キミもそれを知るだろう。」
2007.10.03
放送部通信で少しだけ「燃えよ剣!」について書いたらなんか思い出して書きたくなったので書いてみることにします。「私はお二人と一緒なら地獄にだってお供しますよ。もっとも地獄は嫌ですけどね。」このセリフはダントツで私が好きなセリフNo.1です。沖田の近藤・土方に対する無条件の信頼や愛情がよくあらわれたセリフだと思いますし、沖田が本当にこの二人が"好き"だったのがよく伝わりますよね。でも他にもあるんですよ。私が「ああ、これが魅力的な男と言うのだな」と思うセリフが。 ----- 市村鉄之助という人(実在)が登場します。慶応3年(1867年)、いよいよ江戸幕府の先行きが怪しくなってきたという折の新選組隊士募集に兄と共に応募してきた14歳の若者です。採用の土方も一目見て「コイツぁ若すぎる」と思ったものの、いよいよ薩長との決戦「鳥羽伏見の戦い」を目前に控えており猫の手も借りたいという事情から土方は自分を納得させる理由として市村に何の気なしにこう言ったのです。「君は沖田に似ている。齢は少々若すぎるようだが総司に免じて採用するとしよう。」 私は沖田先生に似ている。これが市村生涯の自慢になりました。そしてこの一言が市村鉄之助の人生を左右することになります。 言わば沖田のおかげで採用されたようなもので、入隊後の市村は沖田総司を大層恩に着て大坂城から、江戸に敗走する途上の富士山艦の中、そして江戸潜伏中に至るまで病床の沖田をつきっきりで介抱をすることになります。さらには江戸につき形勢不利と知るや一緒に脱走しようと誘ってくる兄に対して「私は沖田さんの介抱を仰せつかっていますから」と断ってしまいます。"だって私は沖田さんに似ているのだから。"と心の中でつぶやきながら。 大坂城ではじめて会った沖田総司はひどく照れ屋で市村のような若僧に対しても敬語を使い、しかも自分から用事を言いつけることは一度もありませんでした。富士山艦の中でも「市村君。僕は元気なんだ。そう病人あつかいしないでくださいよ」と言い、咳の出る夜など市村が徹夜で看病する気でいると「市村君は、僕を病人にするために入ってきたんですな。あんたがそこにいると、だんだん病人みたいな気持ちになってしまう」と言って追い払い、江戸についてからの療養所でも「市村君。あんたは男の子でしょう、人の看病をするために入ってきたのではないはずですよ」と邪険に扱うのです。 そして沖田は土方にも言いました。 「あのひとを、寄せつけないでくださいよ。どうも伝染(うつ)しそうな気がして、気が気でならない」 土方は沖田のその言葉を市村鉄之助にそのまま伝えました。鉄之助は感激し、声をあげて泣きました。沖田ほどのひとが、それほど自分の身を想っていてくれたのか、と。「あれはあいつの性分なのさ」と土方が言うも年若な市村鉄之助にとってはそうは思われない。(自分を・・・)と、身がふるえる思いで。 士はおのれを知る者のために死す、と言いますが、この後、労咳の悪化で戦線を離れた沖田の代わりになるかのように市村は新選組の最後まで土方に付き従うのです。 -------- 「あれはアイツの性分なのさ」 京都では誰よりも多く人を斬ってきた、人斬りの鬼と呼ばれた沖田総司が誰よりも自然に人をおもいやれる。道徳として行動規範として思いやる、というのと、性分として、人として、人をおもいやれる、というのは天と地ほども違います。うつさないようにする、ということがどうこうではなくて・・・ 自分で言っててもよくわからなくなってきた。ただ、初めてこの『燃えよ剣!』を読んだ中学生の頃から今まで、土方に「これがアイツの性分なのさ」と言われるような男になりたい、そして土方のようにそれを想われてる人に伝えられる男になりたい。と思って生きてきました。まったくなれてませんが、それが私の望む男の姿だったりします。 それにしてもサラっと沖田の言葉を伝える土方ってダンディだと思いません? やっぱ主役だなぁと思います。役所広司の2時間映画は微妙だったけど。 ちなみに市村と土方についてはまだあるのですが、また後日。
2007.10.01
このゲームを考えた本人は、メールを読んでからたったの10分で願い事が叶ったそうです。 このゲームは、おもしろく、かつ、あっと驚く結果を貴方にもたらすでしょう。 約束してください。絶対に先を読まず、1行ずつ進む事。たったの3分ですから、ためす価値ありです。 まず、ペンと、紙をご用意下さい。先を読むと、願い事が叶わなくなります。 1)まず、1番から、11番まで、縦に数字を書いてください。 2)1番と2番の横に好きな3~7の数字をそれぞれお書き下さい。 3)3番と7番の横に知っている人の名前をお書き下さい。(必ず、興味のある性別名前を書く事。男なら女の人、女なら男の人、ゲイなら同性の名前をかく) 必ず、1行ずつ進んで下さい。先を読むと、なにもかもなくなります。 4)4、5、6番の横それぞれに、自分の知っている人の名前をお書き下さい。これは、家族の人でも知り合いや、友人、誰でも結構です。 まだ、先を見てはいけませんよ!! 8、9、10、11番の横に、歌のタイトルをお書き下さい。 5)最後にお願い事をして下さい。 さて、ゲームの解説です。 1)このゲームの事を、2番に書いた数字の人に伝えて下さい。 2)3番に書いた人は、貴方の愛する人です。 3)7番に書いた人は、好きだけど叶わぬ恋の相手です。 4)4番に書いた人は、貴方がとても大切に思う人です。 5)5番に書いた人は、貴方の事をとても良く理解してくれる相手です。 6)6番に書いた人は、貴方に幸運をもたらしてくれる人です。 7)8番に書いた歌は、3番に書いた人を表す歌。 8)9番に書いた歌は、7番に書いた人を表す歌。 9)10番に書いた歌は、貴方の心の中を表す歌。 10)そして11番に書いた歌は、貴方の人生を表す歌です。 これを読んでから、1時間以内にブログに貼り付けなさい。 すげーーー 大当たりだ。あんまりこういうのは信じないのだが当たってる以上認めざる得ない。ということで従ってみる。
2007.10.01
最近、小泉純一郎前首相のこの言葉が頭から離れません。wikipediaの小泉純一郎の項目を見てはじめて知ったんですが、小泉全首相て1980年ぐらいから「郵政民営化」を唱えはじめているらしいです。1972年が初当選だからその政治家生命のすべてを「郵政民営化」にかけたと言ってもいいような経歴です。当時は、国鉄や電電公社の民営化以前でもあり、巨大公共機関である郵政の民営化は荒唐無稽な暴論と考えられており、特定郵便局が自民党の票田であり、全逓信労働組合が野党にとっての票田となっていたことから、郵政は、いわゆる聖域であると考えられていた。大蔵・厚生族議員として地歩を築き、政策通で知られたが、子分をつくらない一匹狼的な行動をとり、言いたいことを直言し、与野党政治家の既得権益を害する郵政民営化論を主張することもあって永田町では「変人」と評されるようになる。wikipedia - 小泉純一郎小泉前首相のことを「パフォーマンスの天才」「ポピュリズムの権化」と評する人が多いですが、確かにそういう側面も否定できません。でも少なくても郵政民営化に限ってはパフォーマンスやポピュリズムという安易な言葉であらわせられるようなものでは決してありません。小泉は相変わらず自説を曲げず「郵政民営化できなければ大臣を辞める」と発言、国会答弁で「新進党が郵政三事業民営化法案を出したら賛成する」と郵政民営化を主張したときは、与党から野次を受け、逆に野党から拍手を受けることもあった。wikipedia - 小泉純一郎自分は何をする人か。というのを明確に知っているのでしょう。この人にとれば郵政民営化ができればなんだっていい。どうやらこの人にとっては総理大臣の椅子ですらその手段でしかない。事実、郵政民営化を成し遂げた後、まだまだ居座ろうと思えばいくらでも居座れた、戦後の政治史にさらなる名を刻むことはいくらでもできた。それでも彼は総理の座を退いたのです。そしていかに再登板が取りざたされようが決して表には出ようとしない。「俺の役割はすべて終わったのだ。」といわんばかりの去就です。※余談ですが以前安部総理が総裁選の前にTVで「総理になりたいですか?」という問いに対して「総理総裁の椅子は政治家すべてが目指すもので…」と言い訳じみた前フリを言っているのを聞いて「ああ、この人は総理になりたいんだ。総理になって何かがしたいわけじゃない。その信念がない以上小泉さんの後継としては厳しいだろうな」と思ったのを覚えています。冒頭の言葉は森元首相の「(解散すれば)今までお前を支えてくれた人や世話になってなった人も落選して路頭に迷うのだぞ。それでもいいのか」に対して言った言葉だそうです。私なりにあの言葉を意訳するとするならば「俺は郵政民営化に自分の命すら懸けている。他人の命など知ったことか。」『非情の宰相・小泉純一郎』というタイトルの本が書店に並んでいるのをみたことがありますが、確かに非情で身勝手な男だと思いますが、それすら超越する信念。それが男にとって大事なモノなんだと思います。郵便局に張ってある『10月1日から民営化』の表示をみるたびに「あの男、ついにやりやがった」と思ってながめる毎日です。
2007.09.19
車を買ったのですよ。ちょっと前に。私は「車は走ればいい」という考えなのでそれまでやっすい中古の軽の車に乗ってました。人に説明する時は「チョロQみたい」とか言ってたような車でした。私はそれでよかったのですが、それを買い換えようと思ったきっかけは何の気なしに菜々子に「なんかマリオカートのドンキーコングみたいだね~ 体と車の大きさがあってない(笑)」といわれたのが地味にかなりショックだったのです。うぅ、ドンキーコングはイヤだ。あれは美しくない・・・。 きっかけがそこだったので今回は見た目重視。「男の夢は羽のある車」「なんかスポーツワゴンは霊柩車っぽいからイヤ」「理由はないがなぜかスバルの車がイイ」とか漠然と考えて、まぁそれに合うのはスバルのインプレッサのセダンかなぁとインターネットを探していたわけです。 本当は新車がよかったのですがまぁなんやかんやで中古車の購入も視野に。それで気に入ったのがなんと米子にあったのでさっそく見積もりのメール。すぐに返事が返ってきました。「毎回こんなに丁寧に返してたら仕事にならんだろう」というぐらい丁寧なメールでした。そして最後の署名の欄を見てびっくり。 「Oえもーん!!!」(あんまり隠せてない・・・) なんとその昔、一緒に大学祭実行委員をやっていたOえもんでした。山陰スバルに就職したと聞いていたけどまさか米子で、よりにもよってメール返してくるとは。 懐かしさをかみしめて米子のスバルにいくとOえもんが驚いてました。「あれ、気づかなかった?」「ネットでは苗字しか出ないのに、SEIJIだなんて気づけんよ」 いやー もー 感心した。 いや、感動した。 なんか、今まで何人かの営業の人の話をきいていて思っていたのは「うぅ、、、みんな説明もうまい、質問には的確に答えてくれる、知識も豊富、接客も心遣いも完璧、、、でもなぜ買う気にならないんだ・・・ 新車が欲しいのに・・・」と不思議に思っていたのですよね。でもOえもんにあってよくわかりました。優秀な営業マンって何か。 Oえもんは私の思考を完全にシミュレートしてたのですよ。 つまり、 「要はSEIJIは走りとかそういうのは気にしないんでしょ?」「SEIJIがする改造っていったら燃費がよくなる、とか、目に見えて快適になるとかでしょ?」「そういう意味ではこの車はSEIJIには向いてない」「これなんか、どうかなSEIJIの好みにあってると思うのだけど」 いや、まったくその通りだわ。 確かに古い友人ではありますが、あの時から私は大きく変わっています。それなのにたった数分、私と会話しただけで、私の嗜好、価値観、予算、考え方、諸事情などを完璧にとらえてそれに沿った提案をしてくるのです。あまりに完璧に私のツボを抑えているので「うぅ、、、商売人の口車に乗せられるほど気に入らないことはないのだけど、、、君の言うことは全て魅力的な提案であるとしか言えないな、、、」と苦笑してました。いや、本当にその通りだったのでまっこと感心しました。 それでわかったのですよね。今までの営業の人とOえもんが違うところ。今までの営業の人っていろんな情報や知識を教えることで私に「決めさせようとした」のですよね。それでOえもんは私の意向をくんで「決めてくれようとした」、んで私は車は走ればいいというぐらい知識も関心もないような男だったので要は「決めて欲しかった」のですよね。 後藤よしのり氏の本にこう書いてありました。「女は優しい人が好きといいながら優柔不断な人が嫌い。それは”決める”という作業がストレスだから。相手の意向を聞きながら、でも、もしかしたら他の選択肢を選んでいた方がよかったかもとかいうストレスから開放してくれる男こそ、女に好かれる男である。」起業家スクールの福島先生の話にもこんなのがありました。「家を建てる時のドアを売るとしますね。みなさんはよく”お客さんはいろんな中から選べた方が喜ぶだろう”って千ぐらい種類を用意しちゃうんですね。でもそれだとお客さんは迷っちゃう。そこで売れる営業ってのは”私達は1000のドアを持っています。でもいろんな家にドアを入れてきた経験からお宅にぴったりなのはこの3つだと思いますよ。どれにされますか?”って言うんです。これだと売れちゃうです。不思議ですよねー」 営業の基本は「お客様の立場にたって考えること」だそうですが、口で言うのは簡単でも実行するのは本当に難しい。でもOえもんんはできてる。それは結局こういうことなんでしょうね。Oえもんの中にたぶん私がいて、その私がOえもんの知識で決定した答え、それが彼の提案なのですよ。それを私が拒否するわけないじゃないですか。「相手を自分の中でシミュレートする」 これが極意なんだなー。と思いました。 「あんたは大学祭の頃から女にはモテるは仕事はデキるわで異彩を放ってたけどしばらくみんうちにえっらい優秀な男になったねぇ。」「いやいや、この仕事ばっかりやっちょったけん。でも、たまに”うちにこんか”みたいな誘いはうけたりするけどね。」「そりゃそんだけ才際立ってたらちょっと見る眼がある経営者ならみんな欲しがるわ。いやー感服した。以後、車のことは全て君に相談することにするよ。友人だし信頼できるからね。」 昔は同年代や年下の優秀な人間を見るとあせったり、卑屈になったりしていたのですが、最近は「いや、素晴らしい!」と薄ら笑いを浮かべるようになってきたのは私もキチンと成長しているからなのでしょうかね?
2007.08.24
ちゅうそんの日記にインスパイヤされたので、人の価値とお金のことについて以前福井の木村カエラさんとお話していたときのことを書いてみようかな。 「ちょっと~! はじめての給料 超少なかったんだけど!」「おぉ、初給料ですか。おめでとうございます。で、いくらだったんですか?」「○○万円ぐらい」「はははは。まぁでもカエラさんご実家にお住まいなんですし、そんな金遣い荒いというわけでもないっぽいのでそれだけもらえれば十分なのでは?」「だって~ 別に使うわけでなくても お金たくさんもらいたいじゃん! できるだけいっぱい欲しいの!」「あなたは子どもですか。」「それに、会社からこれだけしか評価されてないんだな~ってちょっと切なかったから~」「まぁ 新入社員にいきなり大盤振る舞いするのは巨人のドラフト1位ぐらいですから。それに”評価されてない”ってのはちょっと違うと思いますよ。」「どいうこと? どういうこと?」「賞味の話、カエラさんの給料はお勤めの会社ができたときから決まっていたのですよ。例えばカエラさんが死ぬほど優秀で、月給100万円もらう価値がある能力を持っていたとします。でもですね、就いた仕事が1個300円のたこ焼きを売る。だったら、それこそ福井県民がみんな毎日買いにくるぐらいのバカ売れしない限り、どう考えても経営者はカエラさんに月に100万円も払えないわけです。」「ふんふん」「つまり、カエラさん、というか従業員にいくら払うかというのはその会社ができたときに経営者がつくった事業計画というビジネスモデルの中で既に定められているのでカエラさんがいくら優秀だろうがなんだろうが与えられた枠内でしか給与は支払えないのですよ。だから100万もらってる人間と○○万円しかもらってないカエラさんにそこまで大きな能力差があるとは思うのですよね。よってあんまり給料が自分の能力をあらわすとか思わない方がいいと思いますよ。」「へ~」「そういう意味で学生が大企業を志向するのはある種正しいんですよ。大企業は年間、数十億、数百億、数千億という利益をあげるビジネスモデルを既に持っています。まぁだから大きくなったんですけど。なので優秀な人間にその中から一部あげるぐらいわけではないので、どうしようもない奴でもそれなりに、スゴい奴はすごい給料をもらえたりするわけです。でもまぁ新興ベンチャーでもない限りそんな激しい能力給なんてつけないでしょうけど。」 「ただ、でも、私はカエラさんのこと、感心していたのですよ。えっらい早く就職決めてたでしょう? そしてカエラさんは経営者の方と語り合って理想に共感して自分の理想も話してそこに決めた。もっと大きなところを狙おうと思ったらいくらでも狙えたのに。給料を事前に聞いてなかったのはびっくりしましたが、私は人の価値はもらっているお金の多寡ではないと思います。そこで何を見たか。何を聞いたか。何を考えたか。」「私の弟は超大企業でエリートコースをすすんでるらしく、給料だってカエラさんよりずっと多いと思いますよ。妻子もいるし。でも、大きすぎる会社は全体が見えないと思うのですよね。トップは何を考え、そして自分がやっていることは何か。弟はあんまりわかってないんじゃないかなぁ。その辺。それは悪いというわけではなくそういう特徴がある、だからこそ給料がいいんだと私は思っています。」「その点カエラさんは全体を見渡せる規模の会社の中でいてトップの考えを聴けて、自分の望みも伝えられて、、、それはたかだかウン万円の差では換えられないモノがあると思いますよ。だから今の会社を選んだカエラさんはえらいなぁ、ってつくづく思っていたのですよ。それに、あれでしょう? 入ってすぐの配置に対して社長になんていったんでしたっけ」「”ここで終わるつもりはないです” って言った」「はははは! すさまじく挑戦的な新入社員ですね(笑) だから、ここでおわらないのであれば、ここで高い給料をもらうより、ぜったい役に立ちますって、今見たことは。そして私もいろいろ知りたいのでカエラさんが見たことはぜひ私にも教えてくださいね。そして現状で高い給料が欲しいならもう今の会社のビジネスモデルを書き換えるしかありません。それができるのは経営者だけなので、カエラさんは早めに役員にまで出世するか、もしくは自分で会社を作るかをしてください。私はあなたがどうなるのかすごく楽しみです。」 「あと、ぜんぜん関係ないのですが、、、 他の社員さんの給料とかわかったりします?」「うん、こっそりと年上のオジサンの明細みたことがある。」「いくらでした?」「○○万円」「う・・・、お金の面でいうなら 早めに見切りをつけたほういいかもしれませんね・・・」「やっぱ そうかなぁ」 私ばっかりしゃべってますね・・・。
2007.08.22
よく組織は船にたとえられます。船はたくさんの人が乗っています。んで行き着く先もみんな一緒ならば沈むときはみんな一緒です。なのでみんなが乗っている船をどう扱うのがいいの?ということが至上命題だったりします。ただ、民主主義にしたがって「乗客全員で行き先と船長を決めましょう」なんてことになったら大騒ぎです。船長はプロの技能と経験ですべての乗客を安全に目的地に届ける。そのための一切の権限は船長に委ねられる。そして乗客はその船長を信頼して乗船する。これが船ですよね。そして円滑な船の運航を妨げる乗客がいたら追い出される、縛られる、ぐらいの強権もふるわれます。ただし、沈んだり、不具合が発生した場合は最終的に船長の責任が問われます。大きい船ならばほっておいてもまぁ進みますし、沈む危険も少ないですが、ちっちゃいボートのような船なら横波かぶっただけで沈みます。それはもうあっさり沈みます。気を抜いたら大海原にすぐに投げ出されます。そしてその割にはやることはいっぱいあります。マストをいじったり、舵をきったり、星と磁石で方位をしったり、食料の心配したり。んで船の出航直後でてんやわんやになっている時に後ろから船の座席の座り心地がどうとか、夕食のメニューは和食がいいとか言われると「今、それどころじゃないんだって。この船が浮いてることを維持するだけでも大変なんだって、いや、そっちは岩礁があるから...、違うって、直線ではそっちが近いけど海流の・・・!ってああ!もう!ちょっと黙ってて! この船にはシロウトしかおらんのか! 誰か操船の経験がある奴ー 助けてくれー 誰か舵かわってくれー 俺だって後ろで好き勝手なことがいいたいぞー」となるわけです。 んでまぁ船の様子も落ち着いてきたし、他の人がブーブー言うから舵まかせてみるか、もしかしたら私が勝手に「俺がいないと船が沈む」と思い込んでいたただけかもしれないし、他の人も意外とやるかもしれない。と他の人に舵まかせて一応船室に残ってしばらくみてて、そして確信。「うん、これは沈む。たぶん次のシケには耐えられない。」「というか現段階で3箇所は水漏れ見つけた。応急処置しないと沈む。というかこの安静な海の状態でよくここまで危険な運行できるな」 となるわけです。それでおそるおそる・・・ 「みなさーん 水漏れしてますよー 早く埋めないと大変なことになりますよー」「え、そうですか? じゃぁ 今日の夕食を決めてから対策について話しあいましょう」「ええええ、えっと、、、マジですか、、、」「あ、ついでにその後には食後のデザートについて決めなきゃいけませんね。」 うわーん バカばっかりだー 助けてくれー 「スイマセン、もう一度、舵とっていいですか・・・」「なんでですか?」「いや... おそろしくて乗ってられないのですよ (みなさんヘタクソなのにのんきで)」「ヒドい! 私たちは一生懸命やっているのに! みんなアナタほど船の扱いがうまいわけじゃないです!」 うううぅぅ、私だってみなさんが船の扱いがうまければどんだけ嬉しかったか・・・。もういい・・・勝手に沈んでくれ・・・。皆さんも舵もって沈めるなら本望だろうし・・・ まぁそんな中、本を読んだり人と話しているうちに「現状に不満をかこつのではなく、その解決のために何か努力をしたのか?」ということに気付いて、「やっぱり気がかわった。やっぱりほっとくのはよくない。なんとか船室の主導権をとらんとマジで沈む、嫌われようがなんだろうが関係ない。」 と考えている時に 「私、船長やめます。ヘタクソだと言われたので。あとは若い人にまかせます。」 なにぃぃぃぃぃ。この状態で船長交代ぃぃぃぃ。マジで!!!!。 終わった。マジで終わった。私が白くなっていると、いつも船室でただ一人、私の話を聞いてくれていた女の子が「私じゃダメですか?」と言ってきた。 「いや、無理じゃないよ。俺の話を一番よく聞いてたからたぶんこの船の操船もわかってるし君の言うことならみんなきくだろう。だからしばらくはもつかもしれない。けど長期的にはダメだと思う。」「人に舵まかせてはじめて気づいたのだけど、みんなこの船の特性とか装置の役割とかぜんぜんわかってないのだよ。まぁ俺が俺用に設計したのだから当たり前だけど。」「この船はね、客室と船室がくっきりわけてあるのだ。俺は"船は速くすすめばいいんだ!"って考えだから客室のことは気が回らなくてみんな酔っちゃう。誰も乗ってられない。だから客室は今の船長さんにまかせてある。あの人は乗客と乗員のことを考えることにかけては天才的。だから俺は客室のことには一切口を挟まなかった。そういう風に、あの人が乗り心地のよい旅を演出して、そして俺が目的地まで安全で最短のルートを航行する。という役割分担をしていたつもりなのだ。」「なのであの人が船を降りるなら俺が舵を握っている意味はないし、俺以外の誰が握っても君が握ったとしてもこの船は扱えないと思うよ。速度重視の変則的な船だから。そして折しもこの、船の運航自体が危ぶまれている今まったくのシロウトが舵を握ったら一瞬ともたないのは目に見えてる。そして船長が戻ればいいかというとそうでもない。お互いが信頼できないと共同運航はできないからね。なので俺は降りるよ。」「まぁできれば船室のことは私にまかせてもらいたかったし、スピードが出て安定してきたらもっと大きな操船しやすい船に作り変えて君たちにお渡ししたかったのだが、残念だ。この船はもうすぐこの形では運行できなくなる。君たちは自分が使いやすいように新しく船を作り直せばいい。スピードがゼロになっての出発は俺たちがここまでやってきたことは意味がなかったというのと同義だけど、仕方ない。まぁ、がんばれ。」 私は客室のことはバカなので何もしゃべりませんでしたよ。というお話でした。
2007.08.21
私もマネをして複数更新してみようかな。まわりくどいと言われるのでハッキリ言ったら傷ついたとか言われるし、どの辺が適度な表現なのかよくわからない今日この頃です。どこから触れようかな。じゃ、組織とは。というところから。組織とは、複数の人間がいるっていうことで1人じゃできないことをできるという最大の強みあるのですが、やり方によったら1人以下になってしまうというかなりシュールな命題をかかえていたりします。出展を今ちょっと探したのですが見つからなかったのでウロ覚えの記憶から。ある金持ちの男性が美貌の女優から求婚されたとき、こんなやり取りがあったらしいです。女優「私と結婚してくださいませんか? 私たちの間には、あなたの明晰な頭脳と私のこの美貌をうけついだきっとすばらしい子が生まれますわ。」金持ち「ありがたい申し出ですが遠慮しておきます。私の貧相な見た目にあなたの乏しい知性をもった子どもが生まれたら目もあてられませんからね」おもしろくないですか? 人が集まったところで必ずしもいい面ばかりが出てくるわけじゃないよというお話です。ただ神の意思で決まる遺伝と違って組織は管理者の運営能力の違いでどっちにでも転ぶよというところにまだ救いがあったり。 次は何かこう。「バカはしゃべるな」というタイトルにしようかな。
2007.08.21
その昔、私がまだ塾講師をしていたころのお話。私が所属する松江本部の入り口のドア(正確には地下駐車場につながるドア)は私がその塾に入ったときからドアの動きを制御する金具が壊れていました。そのため、人が出入りするといつも「キィー バタン!」と激しく大きな音がしてその度に「うるせー!!」とカンに触るので私たち講師の間では知らない間に”下のドアを閉めるときはそっと手をそえる”という英国紳士もびっくりなマナーが身についてました。 ある日、私を含めた3人の講師が駐車場から中に入るときにこんな会話が。私(3年目)「このドアってホント直りませんよねー。」講師A(松江2年目)「オレも来たときからずーっと気になってたんですよー」講師B(松江5年目)「オレもだよ! 入った時から気になってた!」 いつから壊れてるんだよ、このドア・・・。 それから半年後ぐらいの私が3年目の正月の話です。なんと駐車場に入るドアだけじゃなくて本部に出入りする3Fのドアも「キィー バタン!」というようになったんですよね。松江本部は3Fと4Fに入っているので4Fにいくたびに「バタン!」と言われる。外にでるときだけ気をつければいい駐車場のドアとはもう使う頻度がまったく違うわけです。 私はキレました。 「本部長!!!! もう我慢できません! あのドアなんとかしてください! 下でバタン、上でバタンってもう腹たって仕方ないんです!!!!」 本部長は申し訳なさそうに 「いや、俺が来る前にこのビルのオーナーが亡くなって遺産相続の対象になってるんだけど、親族の間でモメてて事実上大家がいない状態なんだ。俺も気にはなっていたんだけど。」 しかし、3日後には下のドアも上のドアも直ってました。たぶん本部長が塾の経費で直してくれたのでしょう。私は驚きと、ひとつの結論にたどりつきました。 「なんだったんだ、我々が我慢していたこの数年間は・・・。」 たぶん、本部長も気になっていたのでしょう。でも誰も何も言わないから「ま、いっか」とそのままにしていたのでしょうが、私が文句をいったのをきっかけに「この機会に直すか」と直してくれたんだと思います。 私は、たった一言、言っただけですよ??? 私がここに入る前からあのドアを通った人間はたぶん1000はゆうに超えるでしょう。それが誰一人として言わず「なんで、このドアは壊れたままなんだ!」と口には出さないまま不満に思っていた。 私がこのエピソードから学んだことは 「世の中我慢しても何も変わらないし誰の得にならない。不満があったら言う。改善されたら儲けものではないか。」 本当に我慢してても何も変わらない。誰のためにもならない。「文句言い」と思われて嫌われてもいいじゃないか。主張すべきは主張する。それが現状を変えるひとつの手段だ。
2007.08.21
前回はえっらい中途半端なところで止めてしまいましたが続き。今、後藤よしのり氏の本をまた読み返しているのですが、その中にこんな一説が。「話がおもしろい人ってのはよーく聞いてみるとそんな大しておもしろいことを話しているわけじゃないことがわかる」「そういう人は”楽しそうな雰囲気”をつくるのがうまい」「だから会話で大切なのは”なにを”話すかではなく、”どのように”話すかである。」受け売りですが、これが私の会話に対する考え方の全てなのですよね。つまり芸人みたいな爆笑をとれるギャグなど言わなくていい。ただ”笑っていれば”いいのだと。笑っていれば場は和む。和んだ場は笑いを呼ぶ。この好循環があるので私は些細なことでもできるだけ大きく笑うようにしています。というかもう意識せずともそうなってるぐらい身につきましたただ、ネットラジオをやってみて、そして聴いてみて、正直びっくりしました。収録時の雰囲気とまったく違う。ラジオだと結局その”楽しそうな雰囲気”というのはまったく伝わらないのですよね。伝わったとしてもそれは「内輪ウケ」感としてで、たぶんリスナーには好意的にはうつらないのだろうなと。だから初回放送のときにココで、>あと、今回の「島大生のたべっちょ~」に関してすっごく怖いのは、コレ、皆さんがおもしろいのかどうか。正直、収録のときはかなり盛り上がって後で録音ファイルを何度聴いても、私は「おもしろい」と感じたのですが、それはあの場にいて、皆の人柄をしっている私だからそう思ったのじゃないかとかなり不安です。「おもしろい」というのは「おいしい」っていうのよりさらに大きく個人の主観に影響されるもの。独りよがりの自己満足にだけはなりたくないのです。というようなことを書いたのも「これはぜったい内輪ウケ・・・」と思ったからなんですよね。いや、それが悪いとは思わない。というかそれが私達の、というか私の限界なのだから。 で、その原因をずーっと考えていたのですがその理由はやはり”笑い”と”楽しそうな雰囲気”にあるようです。 ラジオで大切なのは「どのように」話すかではなく「なにを」話すか。そして雰囲気を作るための笑いなど邪魔以外の何者でもない。 ここまで身についた「笑い癖」、とれるかなぁ・・・。
2007.08.17
ちょっと時間ができたので。放送部でインターネットラジオをするようになって、ずーっと感じていた違和感なのですが、この前の中電特別番組を聴いて、確信というかやはり本腰入れて考えるべきテーマなんだなということを思い知らされました。それは「会話においての"笑い"ってなんだろう?」ってことです。この前の中電特別番組は正直ヒドかったです。私の笑い声。笑いながらしゃべっていて何言ってるかわかりません。ただこれって実はついついやってしまうミスというより,半ばこの結果を目指して修行してきた結果だったりします.というのも会話を盛り上げるコツというのはどうも笑いにあるらしい,というのは各種の書籍や経験則からも明らかです.敵意や不快感,といった負の感情の対局に存在するのが”笑い”続きはまた後ほど.
2007.08.16
本当に完全に1年ぶりに福島先生のお話を聴いた。この1年、いろいろ考えることがあってあの時の私とは少し違ったものの見方ができるようになったと思っている。そういう意味でよい機会だった。衝撃をうけたことが2つ。 ・私は知らない間に恐ろしく気位の高いイヤな奴になっていたこと。 ・わかってキレイごとを言える人間の偉大さ。 ほんの少しの時間だったけど、ものすごくためになった。私が福島先生に、いや他者に望むものはとっくに情報や知識じゃなくなったのだな。って。
2007.08.06
恋愛に関して「惚れたら負け」ということがよく言われます。私もそう思います。恋愛でもなんでも交渉ごとにおいて「譲れない一線」を持つ側はどうしても立場が弱くなります。言い換えれば「この話がご破算になったときどちらの方が困るか?」という1点のみで相手との関係性における力学の全てが決まると言ってもいいでしょう。大手メーカーの下請けを行っている零細企業を考えます。その零細企業は売り上げの90%以上を大手メーカーに頼っています。しかし逆に大手メーカーの方にとってその零細企業はたくさんある取引の1つで取替え可能です。何が起こるか、説明しなくても容易に想像がつくでしょう。「王と奴隷」「隷属する」という言葉ぴったりくるようなヒドい関係が展開されてもおかしくありません。価格・納期・品質、大手メーカーからのどのような理不尽な要求でも零細企業は飲まなければなりません。断ることイコール倒産ですから。このような状況を防ぐために零細企業はどうしたらいいのか。それは当然のことですが、取引先を分散させるということです。50%ずつ2つの会社と取引していたならば1つの会社と険悪になったとしても即倒産ということはありません。10%ずつ10の会社と取引していたなら理不尽なことを要求してくる「たった1つ」の取引先など切ってもなんの支障もないでしょう。これが中小零細企業がとるべき最適戦略なのです。ただし恋愛に関してはこのような戦略はまぁとれません。「惚れる」ということはイコール「100%近くの取引相手が存在する」ということであり、リスク分散という戦略と相容れるものではなりません。ですが、相手が自分のことを重要な取引先と目していない場合、本当にひどい関係になる可能性があります。何千万円も貢ぐ人、夜中に呼び出されてもヘラヘラと送り迎えする人、暴力をふるわれてもなかなか別れられない人。すべては「私にとって唯一無二であるけれど、相手にとってはそこまでではない」というねじれた力関係によって作られていると言ってもよいでしょう。だから恋愛においての最適戦略は「惚れない」という、ものすごくイヤな結論になったりします。 ただ「惚れる」というのは感情の産物なので、戦略が云々ということより「惚れてしまったのだから仕方ない」ということは往々にあります。しかしたとえ惚れてしまったとしても奴隷のようにはなりたくない。そう思う場合の解決策は、現状、私にはひとつしか思い浮かびません。 それは「覚悟する」ということです。 先ほどの零細企業の話と恋愛の話が大きく違うのは「ご破算になったところで命まではとられない」ということが決定的です。自分の家族や従業員の生活、お世話になった人たちのことを考えれば経営者はおいそれと「廃業」の決断はできませんが、恋愛においての「別離」は結局自分の中の問題、つまり主観の問題であってその決断によって誰かが死ぬという客観的な問題はそうないわけですからぜったいに下せないという決断ではないわけです。要は自分との戦い、自分さえ納得できれば、惚れた側がもつ唯一にして最大の武器が手に入るわけです。ただ、これは相手に自分の要求をきかせるための方策ではないので決して「勝つための武器」ではなく、一方的に隷属・搾取されないため、いわば「負けないための武器」であったりします。「自分の方が大きなダメージを負うのはよくわかっている。しかしそれ以上にこのままはイヤだ!」とイザというときに言えるならば二人の関係において大負けはないはずです。(なにをもって負けというかは議論の余地はありますが、今回は立場的や発言力的にということで) 私は誰と話すときも「今日、この人と最後になったとしても後悔はしない。」という覚悟で望みます。それがどんなに私にとって大切な人であっても。でもその覚悟があればこそ自分の主張を声高に叫べるし、自分がこうなって欲しいと思う理想に近づけると思うのです。 その覚悟がない人間が私と五分にやりあおうと思っても、とてもとても。
2007.08.05
「優しい」ってのは行動なので意図して行うものだと思うのですよね。つまり意図的に「優しい」人ってのは意図的に「厳しい」や「こわい」人にもなれる素地をもっているわけです。それに対して「甘い」性格の人というのは「優しい」という行動しかできないようになっているのです。でもそれはそれである意味素晴らしいとも思うのですが、でもそれって本当に「優しい」のか?と私はおもうのですよね。 世の中、「優しい」から「残酷」というのも「優しい」けど「残酷」といのもどちらも存在します。これができる人というのはやはり私は尊敬できるのですが「甘い」人はただ「優しい」だけです。どのレベルで「優しい」をとらえるかでその人の評価ってガラリとかわりますよね。 余談ですが、私は人からよく優しいと言われますが、でも同時に「本当に怖い」とも言われます。というかよく考えると私を好きになってくれた人というのはまず例外なく「怒っている私」を見たことがあったりします。 基本的にメリハリがないと人間はダメだと思うんですけどね。 はいはい、意味がわからない、意味がわからない。
2007.08.03
私はずーっと人間には3つのタイプがあると思っていたのですよ。それを今までは便宜的にというか、ありがちな表現で「リーダー」「マネージャー」「スペシャリスト」というような感じで言ったのですが今日もっといい表現を見つけました。「兵」「将」「主」 順番は逆ですけど。 「兵」に要求されるのは「目の前の敵をいかに倒すか」だけです。そのためには当然、上官の指示を的確に理解し、与えられた命令をどれだけ忠実にこなせるかが重要。つまり兵には「いかに効率よく敵(仕事・タスク)を倒すか」という【戦闘能力】のみが求められるわけです。「他のことは一切考えるな。ただ目の前の敵を倒し続けるのだ。そうすればお前はいずれ一騎当千の勇者になれるだろう。」これが日本人なら誰もが小学校から社会人になるまでずーっと叩き込まれ、それ以後も社会に長きにわたって求め続けられるのが兵の道だったりします。 それに対して「将」に要求されるのは戦争というビジネスをいかに遂行し成果に結びつけるかということ。与えられた「兵員」「戦費」「資材」の範囲内でどうやって定められた目的を達成するか。もちろん「将」が前面に出て討ち死にでもしたらいきなりその戦争ビジネスは終了ですから「将」自体の戦闘能力はあまり問題ではありません。それよりも「兵」を手足のように扱える【指揮能力】と刻一刻と変化する「戦場」に対応する【判断力】、そして最も損害(コスト・労力)が少ない形で目的を達成する【戦術】。これらを身に着けた「将」でなければいかに配下に精強で鳴らす強兵を集めたところでその戦争ビジネスはかならずしも戦果をあげるものではないでしょう。また将は戦場においてのみ、より平時の作戦立案においても重要な役割を担います。よく「戦略の誤りを戦術でとりかえすことができない」と言うように、戦争の勝敗は現場での「将」の働き以前に平時において【戦略】を定める「軍議」において既に決まっていたりします。「軍議」の席において勝利を目標とした有効な作戦をいかに提案できるか。この【作戦立案能力】も「将」の重要な資質の一つです。 そして最後に「主」 日本語には「盟主」「君主」「藩主」などいろいろの種類の「主」がありますがそのいずれも頂点に立つものをあらわします。「主」は自分より有能な「将」を従えなければなりません。つまり「主」は他の人間に「この人のためならば」と思わせる一種の【カリスマ性】をもっていなければなりません。一般によく言われる三国志でいうならば劉備の【魅力】、曹操の【才覚】、そして孫権の【血統】など人をまとめる何かが「主」が「主」たりえるには不可欠です。また戦略面においても「将」から提案された作戦の中から最適と思われるものを採用する【慧眼】を持っていなければなりません。決して正しい答えを知らなくてもいい。正しい答えがどれであるかを見出せる目があればいいわけです。 この3つが揃ってこそ組織は成り立つのだと思うのですよね。 しかし軍議の場が「兵」による「にわか戦術論」に支配されるようではお話になりません。そういう意味では「将」も「主」も圧倒的に不足しているというしかありません。
2007.08.01
「希望はずいぶんうそつきではあるが、とにかく我々を楽しい小道をへて、人生の終わりまで連れていってくれる。」ラ・ロシュフーコー公爵パンドラの箱に最後に残ったのもやっぱり希望だったりします。 追記。こんなのも見つけた「人は二つのことから過ちを犯す、絶望と希望から」これも深い。
2007.07.31
『人を動かすことのできる人は、他人の気持ちになれる人である。そのかわり、他人の気持ちになれる人というのは自分が悩む。自分が悩んだことのない人は、まず人を動かすことはできない』本田宗一郎
2007.07.30
店のミスで客怒らせたら、それは自業自得だろ・・・http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20070722/1185200005これはひどい。素晴らしくひどい。私が言えた義理ではないがホントにひどい。私がどの客の立場でも本当にキレていると思う。商売人、特にサービス業というのは人格者じゃないと本当にダメだと思う。
2007.07.24
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