タイガース非公式サイト2代目

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2024年01月16日
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背番号18(その3)

背番号18の第3回目です

創成期のエース・若林さんから始まって3名の選手が着けてきたよね そのうち2名は投手で 梶岡さんもかなりいい成績を残しているわ

でも今回からしばらくは ちょっと冴えない番号になってしまうわ 短い期間しか着けてない選手が続くのよ これも「歴史」だから・・・ でも河西さんは選手としてよりスカウトになってからの功績が凄いんだけどね

河西俊雄 内野手・外野手

梶岡が返上した「18」を継承したのが河西俊雄で、主に内野手(セカンド)の選手である。

河西は兵庫県姫路市出身。明石中から明治大学を経て 1946(昭和21)年に 近畿グレートリングに入団している。グレートリングというのは現在のソフトバンクの先祖に当たる球団で、遡れば1938(昭和13)年に南海電鉄が立ち上げた「南海軍」から始まっている。

河西が入団したのが戦争による中断が終わり、1リーグ8球団で再開された1946年で、ちょうどこの年が「近畿日本軍」から「近畿グレートリング」に改称した年に当たる。

 残された記録によると河西は164センチ56キロという非常に小柄な選手だったようだが、グレートリング時代の4年間はほぼレギュラーで通している。

 1946年から1948年まで3年連続で盗塁王になっており、39個、53個、66個と相当な俊足だったことがわかる。
1950(昭和25)年、2リーグ分裂に伴い、多くの選手が抜けて内野手が手薄になったタイガースの藤村富美男から誘われて移籍することになり、背番号は「18」が与えられた。

 1年目はレギュラーとして113試合に出場しているが、前述のとおり選手が不足しているタイガースだったため外野の守備にも就いている。この年は主に2番を打って351打数97安打30打点1本塁打、打率 . 276で23盗塁となかなかの活躍を見せた。

2年目の1951(昭和26)年も114試合385打数103安打14盗塁、打率 . 268でリーグトップの30犠打を記録している。

 しかし1952(昭和27)年になると98試合の出場にとどまり盗塁も10個と衰えが感じられるようになってきた。

 1953(昭和28)年から二軍コーチ兼任となったため、背番号を「31」に変更。コーチ業が主になったため公式戦出場は8試合に減った。

 1954(昭和29)年には現役のまま二軍監督に就任、公式戦には出場していない。1955(年昭和30)年に7試合出て現役を引退している。

 1956(昭和31)年まで二軍監督を続け、1957(昭和32)年には二軍コーチに戻り、1958(昭和33)年にはフロントに入ってスカウトに転じ、藤井栄治や遠井吾郎を入団させた。
その後も「すっぽんの河さん」と異名をとるほどスカウトで能力を発揮し、藤田平、江夏豊、山本和之、掛布雅之などのちのスター選手を担当して、1976(昭和51)年に退団。

 通算記録は771試合2524打数652安打183打点11本塁打、打率 . 258、盗塁233である。

与儀真助 内野手

与儀はアメリカ合衆国ハワイ準州出身で、前年先に入団していた同郷の小島勝治の推薦で1953(総和28)年に入団。河西に続いてまた内野手が「18」を着けることになった。

 個人の推薦であったためタイガースは半信半疑で獲得したが、1年目の1953年は130試合に出場し、サードを守っていた藤村をファーストへコンバートさせるほどの活躍を見せて関係者を驚かせる。

 この年、492打数145安打72打点14本塁打で打率 . 295は新人王でもいい内容だ。盗塁も19個を記録しサードのベストナインにも選ばれるなど「思わぬ拾い物」となった。
 翌 1954(昭和29)年も122試合に出ているが、401打数103安打37打点4本塁打で打率 . 257と全体に成績を落としている。

ところがこのオフ、当時のタイガースは経営が苦しく、経費節減をしなければ運営が困難な状況になっていたため、ハワイの選手とは翌1955(昭和30)年の契約は更改されず、小島とともに解雇の憂き目を見てしまった。非常に残念である。与儀の退団後の1955年は「18」は空き番となった。

1957(昭和32)年、活躍した当時のタイガースの監督だった松木謙治郎が大映ユニオンズの監督に就任し、与儀に声をかけて大映に入団させ日本球界に復帰する。

しかし85試合の出場にとどまり、219打数44安打12打点で本塁打はゼロ。打率 . 201と低迷して1年で退団している。

日本での3年間の通算では337試合1112打数292安打121打点18本塁打41盗塁、打率263だった。

井崎 ( 前岡 ) 勤也 投手・外野手

井崎は三重県亀山市出身だが、スカウトにより和歌山県立新宮高校後援会の幹部だった前岡武吉と養子縁組して新宮高校へ進み、期待に応えて1954(昭和29)年春に始まって三季で甲子園に出場している。左の速球派投手で「ホップするボール」と評判になっており、藤川や村上のように回転の多いボールを投げていたと思われる。

 1954年春はベスト4、夏の選手権では準決勝で延長13回を投げ抜きノーヒットノーランを記録して決勝に進出するも準優勝だった。

 1955年(昭和30)年の夏は予選で2試合のノーヒットノーランを達成、甲子園ではベスト8まで進むが、準々決勝で中京商から14三振を奪いながら0-6で敗退している。
​  井崎自身には明治大学への進学希望があった。しかし180センチのスラリとした長身で貴重なサウスポーでもあり、高校時代の成績やスター性は高く評価されていたため、プロ球団の争奪戦に巻き込まれる。
 タイガースの青木スカウトは粘り強く前岡家に通って養子離縁させ、改めて実家の井崎家と交渉するという荒業を使い、当時破格の契約金800万円で入団にこぎつけたと言われている。背番号は1年間空いていた「18」を着けることになった。下のスポニチさんの記事では「400万円内外?」となっているが様々な憶測があったのだろう。
ルーキー井崎は1956(昭和31)年2月の春季キャンプでの紅白戦にいきなり登板する。タイガースの親会社・阪神電鉄でも高校野球の大スターだった井崎への期待が大きく「早くお客さんに披露しろ」と藤村監督に強い圧力をかけており、これに抗しきれずに先発させてしまったというのが真相らしい。

 井崎は初球から肩に違和感を感じてその後調子を落とすと、「フォームのせいだ」と勘違いしたコーチが改造と称していじくりまわし、ますます駄目になっていく。

この様子は背番号17で紹介した源五郎丸洋とダブる。25年も前にすでに同じ失敗を犯していたわけだ。結局1年目は公式戦5試合に投げたものの、0勝1敗、19イニングで5奪三振に終わっている。せっかくの逸材も1年目で台無しとなって、2年目以降も14試合、9試合、6試合と満足に投げられなかった。
タイガースでの白星は3年目の1959(昭和34)年9月の大洋戦に完投で挙げた1勝のみ。ちなみにこの年に背番号を「48」に変え、登録名も「前岡」としている。結局「18」は3年間着けただけに終わった。

 井崎は4年間で見切られて、1960(昭和35)年のオフに金銭トレードで中日ドラゴンズへ放出されてしまう。

 中日に移っても肩の状態はどうしようもなく、1年目の1961(昭和36)年は8試合に投げただけで勝ち負けは付いていない。

 翌1962(昭和37)年には1軍登板はなくなり、まだ25歳ということで1963(昭和38)年に外野手転向の道を選んだがこれも上手くいかなかった。

 最終年となった1964(昭和39)年にはほぼ代走と守備固め専門となり、51試合に出場し8盗塁を決めているが気力は限界だったのかオフに引退している。

 通算では投手として42試合1勝4敗61奪三振、108イニングで自責点50、防御率4 . 17だった。

まとめ

どうまとめたらいいのかなあ

河西さんは体格に恵まれなかったけど短いながらも好い成績残してる 足も速いし打線ではつなぎ役をきっちり果たしてるわ でもスカウトになって大物選手を担当して次々と獲得してきた貢献度はもっと大きいよ

与儀さんと井崎さんは不完全燃焼で終わってしまった感じよね 与儀さんはチームの経営事情もあって解雇されてしまったけど続けて契約できてたらもう一度化ける可能性は十分あったとおもうな

井崎さんは源五郎丸さんと同じように潰されちゃったね 高校時代の大活躍を見れば誰でもエースナンバー「18」を与えたくなる投手だったのに 
 長く貢献してくれるエースを育てるより 目先の一試合の観客動員しか念頭にない球団の体質が浮き彫りになってる 今は違うけど当時はタイガースに限らずこういうことが多かったみたいね

さて次回の「18―4」も着けた期間の短い人が続くよ とてもエースナンバーと呼べない時代だね

背番号18-4へ続く


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Last updated  2024年01月16日 22時57分02秒
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