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"Joy to the world, the Lord is come"、英語賛美家の父ともいわれる Isaac Watts の作品です。クリスマスが近づくと教会でなくてもあちこちで聴こえてくる有名な歌ですね。今日の礼拝の後の賛美家練習でまず CDで "Joy to the world, the Lord is come" (曲はANTIOCH) を聴きました。http://youtu.be/O5hj518Iugk「皆さん、この歌は世界でも有名なクリスマスソングですが、この歌を讃美歌(うちの教会では「讃美歌21」)で探せますか?」すると、たいていの人は『諸人こぞりて』を開きます。「もう一度かけますから、出だしの英語をよく聞いてください」♪Joy to the World …「Joy to the World!と歌っていましたね。『諸人こぞりて』の楽譜左上の英語を見てください。"Hark the glad sound! the Savior comes" 作者はPhilip Doddridgeと書いてあります。だから、讃美歌(21)に載っているのは Joy to the world ではありません。実は讃美歌には今聴いていただいた歌は載っていません。英語で歌われているのと日本の讃美歌の『諸人こぞりて』は同じ曲でも全く別の歌です。」そして英語の原歌詞と和訳(http://lyricdata.seesaa.net/article/26516434.html)を見ます。(ただし Lord は「神」ではなく「主」と訳すべき)そして、中田羽後訳の『民みな喜べ』を歌いました。さて、『諸人こぞりて』ですが、英国の歌集 The New English Hymnal から譜面(BRISTOL)を印刷、私の訳で対訳を作り、The New English Hymnal のCDで聴きました。同じ曲の動画はこれ http://youtu.be/VMAhB8Inymk後からわかったこと"Joy to the world, the Lord is come" が載っていない歌集が英国には少なくない。というかあまり載っていない。"Hark the glad sound! the Savior comes" 載っている歌集と載っていない歌集があり、英国ではBRISTOL、米国ではRICHMONDで歌われることが多いようです。米国聖公会の歌集には2曲併記してありました。日本の賛美歌集では「聖歌」「聖歌総合版」「インマヌエル讃美歌」という中田羽後編(総合版は和田編)に中田羽後訳のものが"Joy to the world, the Lord is come"『民みな喜べ』とANTIOCHの組合わせで載っていますが、他の歌集には一切載っていません。また中田以外の全ての歌集に「諸人こぞりて」がANTIOCHとの組み合わせで載っています。私の手持ちの海外の歌集と私が見た範囲のYouTube動画ではANTIOCHに"Joy to the world, the Lord is come"以外の歌詞を当てている例は見当たりません。聖歌系を除いて日本の歌集はこの曲に関しては世界的に例外的な国といえるでしょう。こうした事態が起こった理由は「讃美歌21略解」よればこうです。1903年(明治36年)の「讃美歌」にはANTIOCHの対して両方の歌詞が載っていたのですが、DoddridgeのHark...(諸人こぞりて)の方が曲にマッチしていたため、Wattsの Joy to the Worldは歌われなくなってしまったというのです。翻訳の出来具合でこうなってしまったのですね。しかし、その後 Joy to the World を訳し直そうという動きはないのでしょうか。また、Hark the glad soundは現在でもいくつかの曲で歌われているので、日本の歌集も別の曲を充ててもいいのではないでしょうか。現に1954年版までBEECHERを当ててきた「あめなるよろこび」は、21ではもう1曲HYFRYDOLも加えるということをしています。今年出版された「教会福音讃美歌」がWattsの名作を拾ってくれなかったことが、そしてANTIOCHに『諸人』をそのまま残してしまったのがちょっと残念でした。日本語だけで歌っている分には何も差し支えないのですが、外国の人と一緒に歌うチャンスがある教会ではどう対処しているのでしょう?
December 16, 2012
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今朝、神学校の同級生が「ブログに説教要旨を掲載した」と書き込んでいました。見ると、「旧約における神の言葉 20121209 イザヤ書59・12~20 説教要旨」とあります。私も教団の聖書日課を使っているので同じ個所です。すぐさま「ありがとうございます。さっそく使わせていただきます!」と書いて使ってしまいました。彼の説教の中心聖句は16節の「主は人ひとりいないのを見/執り成す人がいないのを驚かれた。主の救いは主の御腕により/主を支えるのは主の恵みの御業。」私は説教題が「恵みの鎧、救いを兜」、これは17節の「主は恵みの御業を鎧としてまとい/救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい/熱情を上着として身を包まれた。」から採っています。また、私は旧約・使徒書・福音書の3個所を読み、なるべく全てに言及することにしているので、彼の説教要旨をふくらませただけではダメですが、しっかり最初の部分に組み込ませてもらいました。こうしたことができるのは、同級生だからかなと思います。神学生時代に夏の実習で1ヶ月間地方の教会で毎週説教しましたが、その時に有名な説教者の説教集を持っていきました。その説教集と同じ個所を説教するのです。でも、結局その説教集は全く使えませんでした。その本に書かれている説教はとてもすばらしい説教なのですが、私が語る言葉にはならないのです。しかし同級生の説教は、私が語ってもおかしくない言葉なのです。時代のせいなのか、その当時の神学校の空気なのか、あるいは彼と私の共有している何ものなのか、そんなものがあるのだと思います。http://biyo-c.org
December 9, 2012
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