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夜半長崎着 床上に困臥して気息唵々たり。直径一尺ばかりの丸窓を凝視すれば一星窓中に入り来り。また出で去る。船は波に従って動揺すればなり。(漱石日記 明治33年9月10日)
長崎上陸。県庁にて馬淵鈴木二氏に面会す。筑後町迎陽亭に至り入浴。午餐を喫す。四時半帰船。
両氏及び池田氏送らる。夜月色すこぶる可なり。(漱石日記 明治33年9月11日)
神戸港を出発して瀬戸内海を抜けたプロセイン号は、9月10日の夜に長崎へ到着します。(荒正人『漱石研究年表』によると、9月11日)翌日、漱石らは、聖福寺山門の正面にある長崎一の料亭「迎陽亭」で昼食の卓袱料理をとりました。
日記にある「馬淵鈴木二氏」とは参事官の馬淵鋭太郎と鈴木兼太郎、「池田氏」とは技師の池田賢太郎のようです。
藤代禎輔の『夏目君の片鱗』には「一行中馬鹿に飯の好きな人があって、いよいよ長崎が日本料理の食納めだというので、向陽亭(=迎陽亭)に上って、風呂上りの浴衣姿という日本独特の快味を飽くまで貪さぼった」とあります。
卓袱料理では、大皿に盛られたコース料理を、円卓を囲んで味わいます。朱塗りの円卓を「卓袱(しっぽく)」と呼ぶことから、この名前がつきました。
隠元和尚などによってもたらされた普茶料理(精進料理の一種)の配膳形式に、和食、中華、洋食の要素がミックスされ、「和華蘭料理(わからんりょうり)」とも評されます。これから洋行に向かう漱石たちにとっては、最適の料理だったのもしれません。
料亭迎陽亭は、長崎四福寺のひとつ、黄檗宗の聖福寺山門の正面にありました。19世紀半ばに杉山藤五郎という料理人が、料亭を出来大工町から移転し、敷地から日の出が見えることから「迎陽亭」と名付けています。
江戸時代には、長崎奉行所や諸藩の役人などが頻繁に活用。明治以降も夏目漱石、西園寺公望、渋沢栄一など多くの要人が訪れ、戦後に廃業するまで華やかな時代が続き、長崎一の料亭といわれました。現在は、杉山氏の私邸と料亭の庭園の約1300㎡が残っています。
その後、船は、寄港地であるイタリアのジェノバに向けて進みます。
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